近江爺日記・T  メール歓迎

 2017年  12 月 26 日 


どうも最近のニュースなど目にしていると、職歴の確たる人達でありながら物事の本質が見えていないゆえ問題が本末転倒な方向へ向いていってしまうということが良くある。

先に述べた待機児童問題もそうではあるが、相撲界の話で恐縮である。相撲はスポーツとか興行、神事という前に(そうした提起は相撲協会自身の話で)社会での立場は相撲という事柄と我々社会人との関係の問題である。
そうした点では、企業やグループ内で起きた事故と一緒であり、例えば企業内から出火した場合には先ず119番に電話する。そう消防署に来てももらわなくちゃいけない!それから上司や会社の上層部へと連絡することになる。

会社内でお金の紛失があったけれど10万円だから警察には届けない…、しかし1億円なら警察に通報するだろう、これには司直の手は必要だからであって、10万円だと社内での問題となってしまうのだろう、しかしこれは金額の問題であって横領に間違いない。

テレビを見ると、各関係者と名乗るコメンテイターがご自身の立場から都合のいいことを言っているが、関係者とは何を隠そう相撲を楽しく見ている我々国民ということを皆さん忘れておられるようで、相撲協会のごたごたがさも人間模様とでも言いたげに日を追ってあらぬ方向へと進んでいる。

どうもこの頃この手のニュースが多く、沖縄では米軍ヘリの部品が小学校へ落ちた問題でSNSなどでいろんな意見が拡散しているようだが、考えてもみりゃ上空から塊が落ちてくることが問題で小学校だからとか、学校が後から作られたからとか・・・。何処かの国のミサイルよりも空から鉄の塊が落ちてくる、どうかすればへり自体が落ちてくるなんぞ切実な問題である。

挙句、先日の新聞投稿欄に、幼稚園の運動会が日曜日にあって翌日は幼児が休みとなり家にいるより図書館に行ったのだけれど、最近のこうした公的施設は月曜休みが多く他の曜日に変更できないか、という記事である。
こういうお母さん、お父さんが如何に多くなったか…、そしてこうした投稿を掲載している新聞社、編集者には呆れるほどで、そんな記者が論評を書いているのだから世の中おかしくなるってものだ。

明治維新が凄いのは維新を進めたあの有名な人達個人が偉いというそんな馬鹿げた話はなくて、時代の趨勢…幕末から明治へと移っていくときのエネルギーとか国民の力(永い時代の)であったものだ
こうしたことは反対に国が力をなくす時もエネルギーの喪失や残念なことに国民の力のなさに尽きるのではないだろうか。

知識を智慧へと変えるのは仏性である、仏性は真理でもあり普遍である。

本年最後の駄文で申し訳ございません。今年も稚拙な話や文章にお付き合いいただき有難うございました。
新しい年も貴方様にとってご壮健でいい年でありますよう祈念もうしております。よい年を迎えください。


 2017年  12 月 10 日 


残り一枚となった小さなカレンダーに目をやると今年も三週間を残すのみとなりましたね。

先日来どうも体調がよろしくない…、一応かかり付けの医者に診てもらったら風邪の兆候が出ていると…、注射をしてもらい薬をいただいたのだが仕事を休むわけにもいかず出勤、一週間ほど大事にしながら過ごすことにした。
幸いまだまだ体の芯が丈夫にできているのか?生来の頑健な体をいただいたお蔭でもあるのだろう、軽くすんでホッとしている。


京都で友人と会う約束も急遽キャンセルとなって、それじゃあ今年も最後ののんびり旅行をと思い海を見ながら湯船に浸かってゆっくりとした時間を楽しんだ。数年来私の年末行事となっているのだが、豪華な食事ではない、しかしただボーっと海を眺めるには絶好の地ではある。

振りかえれば早春の京都楽焼展での長次郎に始まり、京博では狩野派の絵師集団から独立した孤高の絵師海北友松と、そして秋には夢にもみなかった国宝の観覧三昧と楽しい時間を過ごしてきたものである。


万葉集を勉強してからというもの、古代史にも興味がわき天皇や皇子・皇女の陵・古墳などへも足を運び、美術を愛でるだけでなく先人の生活を知ることから、現代人の生き方を考えるに及んでもいる。

体調を考えながら今年も数日、仕事に精を出すことにしよう!

 2017年  11 月 26 日 


この数週間、美術工芸品についていろいろと勉強したり、展覧会へ足を運び実際に国宝なるものを目にして先人達の貪欲な技術力や生命力などに感嘆の日々でもあった。そんな反動であろうか…、気の抜けたように過ごす休日であった。

と、そんな所にある地方議会で乳飲み子を抱いて出席した女性議員のニュースが目に入ってきた。近年やたらと女性進出の社会をとしきりに聞くが、どうもそう叫ぶ本人だけの概念論だけに感じてならない。社会には現に性別に関係なく地位を確立しておられる女性も多く、声を張り上げたり立場を逸してまで女性であるなんていうまでもないのだが・・・。

かつて「保育園落ちた、日本死ね!」と自分の国を貶(おとし)めている女性を国会で取り上げて、さも女性の進出を声高に叫んでいたし、議員という立場と自分の生活を同じ目線で短絡的に論じようとする女性議員・・・。

かつて我が国は、経済力ももたず短い間に、違う文化の中から法治国家と云う形を整えたものだ。其れが明治という時代であった訳だが。文化文明は其々の歴史的な因果によって出来上がるものなのだろうが、明治には」それなりに道徳的緊張(モラルだが、そこには緊張があった)が官吏にも国民にもあったのだ。

社会をちゃんとしたものにする、日本人の質実と節度、物を冷静にみる認識力、公的なものへの謙虚さ、そして自助の心であると言ったのは司馬遼太郎であった。それは無私の精神で国家に貢献しようとしていた武士道にも似た価値観でもあろうか。

戦後の経済につられる様に精神構造までもが何処かの国の「軍参複合体」に呼応するように「公共事業複合体」の政治家、官僚、デベロッパーがかつての倫理を忘れて私利中心の行動を取るようになってしまっている。
今や社会進出している女性経営者は溢れているが、騒いでいるわけでもなく確実に社会参加をしているし、何時も女性が言う女性目線の生活など、私の母などはとっくにしていましたが…。
子供の教育から近隣の会合や行司などは全て母であったし、凛とした父親も実は家庭の中では母には頭が上がらなかったと聞いたことがある。


 2017年  11 月 19 日 


日曜日早朝、天気は快晴…しかし例年にないこの季節の寒さを感じる。いつもの仲間を誘って国立京都博物館国宝展へ出かけてみた。私はT期・V期そしてW期と三度めとなるが仲間は初めてといつになく盛り上がって車中でも国宝物の話で花が咲いた。
私のこれまでのブログやラインの中で国宝についての話題からなのか?皆さん其々に勉強されてきておりいつになく楽しい散策となった。


最近の国宝展についてのテレビ報道からなのか、開催期日が迫ってきたからなのだろうかこの日はいつもより行列が長く、結構な待ち時間でもあった。展示されているもの全てが国宝といっても私には興味ないものや、全く理解できないものもあるのです。そんなことから私は肖像画・中世・近代絵画、陶磁、考古などに絞ってじっくり鑑賞することとした。
この展覧会のために半年ほどの間しっかりと勉強して作品のもつ性格や技術力、制作者の人間性、時代背景などを考えながら拝観してきた。振り返るに作品はそんなことを実によく描写、製作されて心を豊かにしてくれるものでもあった。

昼食を簡単に済ませて、近くの智積院を拝観していくことにした。
ここには長谷川等伯・久蔵親子の国宝絵画が展示されている。

国宝ブーム?のためでもあろうかかなり混みあっていてはいたが
時間をかけて観ることができた。境内庭園、講堂と寒さをおぼえながら廻り楽しい時間をすごす。


 2017年  11 月 13 日 


公園の草むらに隠れていた虫達のその哀しい鳴き声も聞けなくなってはや久しい。晩秋の朝晩はすっかり冬の様相を呈していて寒さに弱い私には辛い季節の到来と今から心している。
このところの忙しさ、寄る年波に勝てずではないが少々風邪気味という体調に日曜・月曜という変則な連休をすっかり休養に充て体力回復を図った。そんな時に限って天気はすこぶるよくて、快晴の二日間というのも皮肉である。

最近、私の職場に若い人が二人入ってきた、そう板前さんではあるが…。若いといっても経験年数が八年ほどと二年ほどの二人ではある。しかしその取組む態度は違って経験に比するとはいかないようだ。共に魚の調理や日本料理をしっかり勉強したいということで来たものの、一度その癖をつけた行動などはなかなか直せるものではなく、職人の仕事とはそういうものではある。

そんなことで教えながらの仕事は大変で、二度手間などはざらで何かと気遣いしながらと骨が折れる。そんな中、総料理長という肩書きだけでも付けられている立場上、他店などの料理などメニュー作りも頼まれる始末で老体に鞭を打ちながらと言えば大仰ではあるが頑張っている。それでも好きな仕事であるからかまんざらでもなく楽しく働かせていただいている。

特に和食は季節に敏感で先日までの松茸が姿を消して、いよいよフグの料理が本格化してきている。今のところ天然フグも小さいので楽であるが、月が変れば徐々に大型化してきて正月を迎える頃には6・7`はざらで、それこそ捌くのにも体力が必要となってくる。
勿論のこと、フグを扱うのであるから何かと神経はつかうので大変である。そんな冬の季節がやってきた。



 2017年  11 月 5 日 


久しぶりの快晴な日曜日、友人Nさんと一緒に京都国立博物館へ…、10月3日から11月26日まで四期にかけて展示物も交代しながら210点の国宝を展示するというもの。全国の国宝物の約四分の一が展示ということでこの日も一時間ほどの行列でもあった。まさしく国宝ばかり??という豪華さで、私の知らなかった書画工芸まで興味が尽きないものである。


         


長谷川等伯「松林図屏風」や円山応挙「雪松図屏風」、牧谿「観音猿鶴図」などは秀逸で桃山文化の美に酔いしれた瞬間であった。
一期に見た雪舟水墨画六点、俵屋宗達「風神雷神図屏風」、「天寿国繍帳」にも目を疑ったほどであったが、まだまだ四期に残されている尾形光琳など楽しみにしている。

天気の良さにまかせてのんびりと駅まで歩くのだが…、博物館すぐ近くにこんな交番を見つけた!確か、この辺りは京都大仏があった所で、今はないのだが、秀吉が造って以来四度ほど焼失して現在はこの交番と近くの郵便局に名前しか残っていない。
丁度、お巡りさんがが居たので話を伺うと丁寧に教えていただけた。秋の陽射しを浴びながら歴史の中に身をおく一日となった。       




 2017年  10 月 29 日 


仕事の都合でなかなか休めない…、それにしても日曜休みの私にとって二週間連続で日曜日の台風はとても辛い!。
西欧の安定した自然には地震、台風、洪水、土砂崩れなどもなく、我が国と決定的に相違がある。それは自然のメカニズムができ、制御や開発をして征服できるまでに至っており、彼等はそれを自然科学とも云っている

しかし日本の自然はあらゆる面において不安定であり自然の猛威の前では唯々頭を伏して過ぎ去る時間をじっと待つだけという従順で逆らうということなく、当初から諦めている。その根底には無常観が育まれていった。勿論、仏教発祥のインドでも、途中の中国でも云われていたが、一番本能的に生きているのは日本であろう。
森羅万象生じたり滅したりと、とどまることなく移り変わって「常住」はない、つまり一定のままではないというだ。

浄土真宗蓮如上人の「白骨の御文章」には『朝ニハ紅顔アリテ、夕ニハ白骨トナレル身ナリ』とうたって、人間のハカナキコトの悲哀観やその無常観が我々の社会の背景と形成していった。
或いは、、自然の中に神性や人間性を見出し崇拝しながら、神と同居しながら生きることで自然を見ることを覚えた。

台風の通過点と云われる沖縄での台風被害の報道が少ないのに気が付かれているだろうか? 標高600mに及ばない山しかない地形の中、台風が来れば仕事を休み、家を補強して、風で瓦が飛ばぬよう固め、ひたすら家の中で過ぎ去っていくのを待つという。聞けば、小さなローソクの明かりの中でトランプなどして家族一緒に過ごすのだそうだ。危険の中で家族が一つところにいるという世々の智慧が今でもあるのだという。

それに比して、台風が来るたびに洪水、がけ崩れ、水に没した車、挙句川の中州に取り残された!、など危機感の欠片もない人に人間性を見出せるのだろうか?自然の中で人間性を見出すはずが、その自然の中で埋没する矛盾である。

その昔、私の父親は台風が来ると真っ先に家の前面をはすっかいに大きな板を打ち、箪笥を窓側へ動かすのに必死であり、母親はロウソクや食料を確保するのに走っていたもの。家族を守るということであった。

日曜夕方、テレビのニュースでは台風上陸を伝えている。画面では市内の中心地を映しているがバスやタクシーは走っており、人影もまばらではあるが映し出していた…。
国立京都博物館国宝展、これで二度行かれずひたすら本をむさぼり読む一日であった。

 2017年  10 月 22 日 


先日友人K君から、最近の近江爺日記は記録よりエッセイ風で楽しいとラインよりお言葉を頂き嬉しく思っています。私としても毎週何事かしら書かなくちゃという責任感から頭を悩ましながら捻り出している訳で…、しかし結果的には老人ボケ対策!ということにもなっていることだろうし…。

京都国宝展へ行く予定が台風のため急遽中止に、友人O君にどうしても雪舟慧可断臂図ほか雪舟5点を見て欲しかったのだ。それは今年の夏、県内知多市大野の斎年寺へ行きこの雪舟国宝図の模写図を見てきたからでもある。他でもない慧可断臂図はこの寺のものでもあって、周防山内氏に庇護されていた雪舟がどうして尾張国知多の佐治氏菩提寺にあるのかはっきりと分かっていないのだが、現在は京都博物館に管理委託されているというもの。

かの吉村貞司は著書に「絵を読む」と雪舟を評している。それは遠近法を無視した絵画であり、微細な線と大まかな線の同居でもあったり、荒っぽい筆致の多い禅画の中でも雪舟はことのほか精密に、それでも動かそうとしても動かしえない不動を描いていると思う。

図左上には堂々と署名している、彼の作品には他に類をみない。『四明天童第一座雪舟行年七十七歳謹図之』
中国では天童山景徳寺主座(しゅそ)と認められていた雪舟であるが、日本へ帰ってきた雪舟は禅僧としては余り認められてはいなかった模様である。
そんな雪舟がこのような署名をしていることに禅僧としての筋があったようだ。

因みに達磨は中国梁の武帝から
「私はたくさん寺を作り、大勢の僧を作ってきた。何か功徳はあるか!」と訊ねた、達磨はこの帝こそ仏教腐敗であると。
そこで「無功徳」、功徳はない!と。

武帝 「如何に、是れ聖諦第一義!」 聖諦(真俗)のどちらが尊実であるか?という。
達磨は「廓然無聖」と一言。真も俗もない、聖とうから対して凡が生まれる、聖なんてない。

挙句
武帝 「朕に対するものは誰ぞ」…、おまえは誰だ!と聞いている。
達磨 「不識」と、帝にたいして知らん!と云うのだ。聖も俗も、男でも女でも非ず、賢でも愚でもない、そんなもの知らん。

そんな達磨に神光(後の慧可)は己の臂を切り落として願い出ている。神光こそ中国禅宗の第二租である。

 2017年  10 月 15 日 


すっかり秋めいてきた、それはとりもなおさず季節の移り変わりに敏感ともなるというものだ。夜空をに眼をやると月の姿に物を想い、足元に耳をやれば力いっぱいに鳴く虫たちに感傷する毎日である。
仕事柄、日中に家を出て深夜に帰宅と云う生活を五十年ほど続けているのだが、あながち日中にはそれほど季節への感度は鈍くできていて、深夜の季節感というのには敏感にできているらしい…。

闇夜というものがなくなって久しい。私が子どもの頃には夜といえば闇であった。夜10時ともなれば家の前の通りでも町内中心を走っている道にも関わらず、何本かおきの電柱に100Wの電球が明かりらしくついているだけで其々の家からも戸張が降りて明かりはもれてこず、それこそ闇であった。だから必然的に闇は父親とともに恐ろしいものの筆頭でもあった。
唯一大晦日の夜だけは家族が一緒に居間で楽しく話し込んだり(テレビは小学生くらいだったか?)、ラジオからの歌声に喜んだり、そこでは何時もないお菓子があったりし、年をまたいで父親と近くの神社へいくことが大冒険でもあった。

恐ろしい感覚の欠如みたいなものがあり、近年とみに何事にもつけて麻痺状態に憂うのである。人間なんて小さなもので弱くできており、どういう訳もなく自然の部分なんで…、時に人間が美しいものや美味しいもの、また輝かしい動きをするとすぐ人間は偉大だ!と勘違いするのである。

この頃帰宅する時、深夜の公園前で近寄ってくる野良猫がいる。余り良くないこととは言え私はこの猫に少しではあるが餌を与えている。野良猫の本能というのだろうか餌は欲しいのだが直ぐには近寄ってこず、気配を察してやんごとなく餌を食べるのだ。悲しいことに猫は周りを警戒し私を警戒し、命を繋ぐために食べている。それは自然は恐ろしいことと思わなければ生きていけないことを私に教えてくれてもいるようだ。
草むらを歩くほどに近くで鳴いていた虫たちは一瞬泣きやみ、遠ざかるほどに又美しく鳴き声を聞きことになるのは、やはり小さな虫にも自然の恐ろしさが分かっているらしいのか?

異常気象だとか、何百年以来の地震だ火山爆発とか…、一寸先は闇という言葉なんぞつい忘れて傍若無人にはしゃいでいると、いつか身に危険が押し寄せてくるかもしれませんよね。秋の夜長、そんなくだらないことをフッと思いつつ暖かい我が家に帰って今日も一日無事に過ごせましたと誰となしにつぶやくのでした・・・。



 2017年  10 月 9 日 


予てより待ち焦がれていた国立京都博物館『国宝展』へと早朝から足を運んだ。現在はSNSの発達により便利となって混雑状況がリアルタイムに分かる、それでも早朝に係わらず館外にその行列は延びて結局入館するまで40分程はかかっただろうか。


我が国の国宝物の四分の一ほどがこの期間中に展示されるというから大変なことではある。事実私は国宝を各地の国宝展示場までは足を運ぶことは不可能なのだから・・・。今回私は雪舟墨絵六点、曜変天目・油滴天目茶碗、大井戸茶碗、天寿国繍帳原図など中心として見ることに専念してみた。


各地から集まって来られる拝観者が多く、実際に全てを拝観することは無理で数点を中心に時間をかけて見ることしかできなかった。後日展示物を変更されるというから再度の拝観を楽しみにしている。



丁度近くに養源院があるので帰りに寄ってみることにした。ここは俵屋宗達が世に出るきっかけとなった寺でもある。案外とこの寺は人気がなくいい寺なのに観光客も少なかった。宗達の杉戸絵図し獅子・白象・麒麟と自由な発想で書いているのが見られる。

時間もあることからのんびりと歩き街を楽しみながら東本願寺まできて参詣することにした。早朝からのことゆえ本堂縁にて涼んでいるとつい眠気が襲ってしまった。本山はこうしてのんびりすることができるから私は好きである。

国宝展参照本を購入、当分この一冊で楽しむことができるというものだ。



 2017年  10 月 1 日 


秋の晴れ間、我々は(と言っても友人O君だけではあるが…)高速道路を斑鳩の里に向かって走っていた。つい二日ほど前に誘われて二つ返事で行こう!となったのは生来の物好きが高じてのものであろう。
彼も急に予定が狂って、私のHP大和の旅を見た途端行きなくなったのだろうか?話が急遽決まった次第である。

そんな私も実は中宮寺の如意輪観音に久しく向き合っていないのが心なしか寂しさを感じていたのも事実で、朝から気持ちの高揚を隠せないでいた。早朝にも拘らず目が覚めてしまう。


西名阪高速道斑鳩ICをおり、市街地を進むのだがすっかり景色は昔日とは変ってしまい交通量の多い国道となっている。私が最初に訪れた四十数年前はこの辺りから秋の稲穂の遠くに法隆寺の五重塔や甍が見えたものだった。以後数回訪れているたびその変化に驚きをおぼえる。

中宮寺如意輪観音は本堂内中央で依然と思惟してみえた。聖徳太子御母穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后は太子をのために中宮寺を創建されたと言います。講堂には薬師如来を祀り、金堂に如意輪観音を祀っている。
軽く指を頬にあて半跏思惟の姿は一緒に悩み優しく微笑みかえすそのお心をうつし出しているのでしょうか…。古典的微笑(アルカイックスマイル)というその微笑みはお姿に近づけば近づくほど私を優しく迎えてくれるようでもある。

K君も楽しそうに歩き回って斑鳩の里を満喫していたようで、秋の実りをバックにシャッターを押していた。
そんなK君に誘われるように我々はお歳も考えず?中宮寺、法輪寺、法起寺と斑鳩の里をまわり、二上山から當麻寺までと足を延ばし心ゆくまで秋の大和を散策していた。


 2017年  9 月 24 日 


友人K君が先日同道した惟喬親王をめぐる散策をブログ『爺爺の手習い』にアップしてくれた。丁寧な解釈と優しい文章は彼らしく、最近の彼のブログ進行に心配していたものの、文章力を十分に発揮してくれて惟喬親王についてたくさんの人達に知らしめてくれたことに違いないと確信している。

十数年前のことになるが、白洲正子女史の著作に夢中になって読みあさっていた頃であっただろうか? 文徳天皇長子惟喬親王の幽棲を知った。以来ことあるごとに親王の息吹に触れるように訪ね歩いて来ましたが、土地の人々と触れるたびに親王への情愛が知れてくるのでした。

近江での古寺散策でも感じられるのは名もない寺ほど厨司も殆んど開かれていない、まるで秘仏とでもいうような有り様で村の人々は手を合わせている姿でもあった。そこに信心深い人々にとって仏像を見ることには全く問題でもなく、、むしろ見てしまったら目がつぶれてしまうと信じているに違いないとでもいうような思いに出会うことだった。

実は、我が国の文化財というものを護ってきたのはそうした人々であることを、私は忘れることのない様その都度に心に言い聞かせている。そうしたことは今ではお伽噺でも聞くような
そして近江の山の中、背後を鈴鹿の峰々に閉ざされた蛭谷・君ガ畑の集落にに残っている人々は惟喬親王を神様として祀りながらこの日も境内の掃除に精を出すのを見るのだった。

京都小野郷雲ケ畑耕雲庵では夏になると村人が向かいの山原から大きな火文字を上げて親王を癒したと今に伝えていた。そんな事を村人に会って聞いたことを昨日のように思い出した次第である。

 2017年  9 月 18 日 


この夏から続いていた旅も予定通り無事に楽しく終えることができた。例年七月の葛川夏安居から私の夏は始まりますが、昨年から京都祇園祭とうまく重なって、強行軍ながらもいろいろと再発見の連続でもあったのです。

そして数年前から万葉集読破の影響から奈良大和や伊勢・三河と万葉歌を求めて各地へ足を踏み入れることが多くなって来ており、近江と併せてますます忙しくなってきている状態。西行の旅は修行!とも書きましたが、私の旅は唯々知ることという感じ!で…。
それにしても、人間一人の知ってることの如何に少ないことか!知ってりゃいいってことはなく、智慧に昇華していかなくちゃ!とはかねがね理想とはしているんだけど…
さてさて、其れこそが旅の旅たるもので、旅を楽しくしてくれるエッセンスなんだろう・・・ね。


先週も桜井押坂の陵へ行ったのだが、万葉集研究者犬養孝氏の言葉に改めて知らされました。
著書・『万葉とともに』の中に奥の谷の景観について書いておられます。

『 やや高みのところに欽明天皇皇女大伴皇女の墓がある。 ここから南を振り返れば中央すぐ下にこんもりとした鏡女王墓をおいて遠く左手に高羽山の大きな山塊を、右手には多武峰の山容をのぞみこんにちの大和では珍しくただ一軒の家もなく、晩秋もみじの頃など四周は黄に褐色し、紅に染められて満山椒として声なしといってよい静寂の山懐となるのである。 
将来は分からないにしても、せめてこの山懐の静けさだけでも、この国の未来にかけてこのまま残っていてほしいものである。 そこには千三百年の声々が心と言葉の美しさに昇華してまざまざと生き続いているのだから・・・。』  

旅の楽しさや面白さを教えてくれた大和の旅でもあった。


 2017年  9 月 13 日 


西行は旅に出ることをいつも「修行」と呼んでいた。それは仏教や修験道の修行とはちがい、自然と一体になることを志していたのではないだろうか?歌を詠むことは自然に近づくための一つの形であったのだろう。

そんな事を頭の片隅に残しながら大和明日香の地を歩いてきた。西行が生きていた頃の自然とは一体どういうことなんだろうか…? 現代の自然と比較上での自然とは違って西行は自然そのものの中に人生を読みとろうとした。エリート集団である北面の武士から髪をおろしたというのは自然の不定な摂理に立向かっているのだろうか。確かに友人を亡くしたという摂理から逃げたかったのかもしれないが…、と思いながら。


二上山の大津皇子を想いながら葛城の地をまわって明日香稲渕祝戸にある宿は二度目であるが、今回は古代食を復元したという食事を楽しみに出かけた。街路灯一つなく暗闇の中では雲間からのぞく月明かりだけでも安心を覚えるほどで、秋の虫がひと際時間の経過を感じさせてくれるのが不思議でもあった。
早朝の宿の前からは刈入れ前の稲穂が少し黄色味をおびて、棚田は美しく輝きながら清冽な姿を見せてくれた。

この地に来たからには聖林寺だけは寄りたい!あの十一面観音に手を合わせたい!この像にあって以来すべての他の仏像が美しく見られないほどとなってしまっている。この日も三十分ほど仏前にすわって脳裏へ焼き付けてきた。


ひと山越えて押阪地区の段ノ塚古墳群へと向かった。僕の好きな舒明天皇陵、鏡女王の墓、大伴皇女陵と廻って古の明日香を少しだけ感じながらの旅を楽しんで来た。


 2017年  9 月 3 日 


久方ぶりの仲間達はいつもながら笑顔に優しさをおびて、私には代えがたく生きている喜びを指し示してもいるようであった。生活習慣が完全に夜型となっている私には仲間との近江行は早朝からと少々辛いものでもあるはずではあるが、不思議と起床するのが楽しいというのも、また困ったものだ…(笑)

惟喬親王探索の今回は仲間の希望で東近江の山中を、木地師の源を訪ね歩くものである。平安時代文徳天皇は長子惟喬親王を皇太子として望んでいた。然しながら紀氏出身の母という理由によってその座を弟帝惟仁親王に譲らなければならなかった、そして身の安全をおもい隠棲し各地を彷徨うのである。


東近江蛭谷、君ケ畑地区はその隠棲地にて、親王は轆轤(ろくろ)を開発しその地の人々に木の椀を作らせた。それは同一規格、大量生産の始まりである。人々は各地へ転出しては地方で生産、往来が始まり、彼等は木地師と謂われ協同しながら生産・物流・情報の交換などを始めたのである。
そして惟喬親王を祖師として崇め、この君ケ畑の大神器地祖神社・筒井峠に惟喬親王御陵を建立したのである。
後年、惟喬親王は京都の北山杉阪の地、、そして大原に小野宮を建て薨去されている。


各隠棲地で人々に大変慕われた惟喬新王が私は好きで数年前にはその地へ出かけて追慕したことがある。

この日は朝から爽やかな晴れの日で仲間との近江行には最適でもあった。近江での昼食はいつもの道の駅バイキングであるが、仲間の食べっぷりはそんな元気を表しているようだ。

県道34号線は百済寺の前から永源寺方面に山中を走るもので、途中筒井峠親王御陵に参り、蛭谷筒井、君ケ畑へと向かった。木地師資料館ではわざわざ開けていただき丁寧な説明をしていただいたのには感謝しなければいけない。
臨済宗大本山永源寺に立ち寄って我々は帰路へとついた。


 2017年  8 月 21 日 


天候不順だと言う・・・、でも考えてみると毎年のように不順だとは言ってはいないだろうか?しかし確実に夏は来ているし、秋が来て、きっと冬もやって来るに違いない。雪の降る寒い冬かは分からないが、冬と言う四季は来るから。


暑い夏の週末を利用して伊勢に行って来た。「神風(かむかぜ)の」という枕詞にはじまる伊勢は万葉人にとっては惜望の地でもあった様で、万葉集や古今和歌集などにたくさん詠まれている。


午後の伊勢神宮、それはもう修行?の何ものでもなく、滴る汗に玉砂利を踏みしめて歩くのは大変であった。内宮の正宮、荒祭宮へは行くのだが、今回は風日祈宮が主である。
夕方遅くチェックインしたホテルの窓からは沈む夕日に雲が鳳凰のように形作っていて、二見が浦の浜辺と美しく見える。


翌日は早朝から朝熊山(アサマヤマ)へ向かい金剛證寺に拝観、鳥羽佐田浜マリンターミナルまで行き答志島への渡し船に乗船、島内を歩き回り柿本人麻呂歌碑、そして西行歌碑を探し歩いてみた。

伊勢湾をぐるっと回ってこれまでて万葉集を訪ね歩いてみたが、今回の行程は体力的にも大変辛く、帰宅して暫く動くことが辛かった。いやはやちょっとは年齢を考えないといけないことになってきている。

 2017年  8 月 15 日 


先日「三ヶ月景気は年率換算4%、数年来上向きである」と報道していたのを覚えてはいるが…、イヤハヤお盆の高速道路は4%以上ではないだろうか?
私用にて仲間と京都まで出かけた。よくよく考えて昼前と時間をずらして出発してみたものの、南からの東名阪高速道路が途中大渋滞!との情報で、急遽名神高速道路へと転換して向かうも一宮IC入り口から渋滞に遭遇、以後途中断続的に渋滞に巻き込まれ、結局普段二時間もあればいいものを、大津の友人と合うも五時間経過していた。

一旦京都へ寄り帰路へと就いたが、結局帰りも道を選んだつもりが高速道路へ入った途端渋滞にと巻き込まれて帰路も五時間ばかりと…、兎に角あちらこちらで渋滞が凄いことになっているみたいだ!

考えてみたら、こうした連休になると人口移動が凄いことになるのだ。高速道路網も整備されればされるほど移動も多くなる模様で、伴って消費経済も高くなるのだろうか?
帰省や行楽地への移動した先での消費も昔の比ではなく、言うなればお爺ちゃんお婆ちゃんが美味しい物を作り手招きして待っている訳で、途中の飲食店やサービスエリアなどでは美味しいものがたくさん食べられる訳で…。

時に、どっかの国が日本の空の上を越してミサイルを撃ち込もうと言ってる最中な訳でして。我が国を守っている人々の陰なる努力があるのだろうが、そんなこと微塵も考えなくてもいいような今日がありました。
でも兎に角、娘達と会い美味しいものを食べたり、騒いだり、遊んで楽しい二日間を過ごした。連休最後はさすがにゆっくりと過ごして、年末の再会まで楽しみにして働くことにする。

何だかんだと言いながら、我が国の平和と私の健康に感謝かなあ〜、ちょっと大仰ですか?


 2017年  8 月 6 日 


我が家前の大きな公園では夏休みに入った子供や学生が思い思いにバットを振ったり、ボールを蹴ったりと賑やかになった。暑さに負けることなくアブラセミがジージーと朝から喧しいが、私はこうした季節の音が好きである。
日曜日の今夜は地域の盆踊り大会で日中から準備に忙しそうに働いていたが、夜にはたくさんの人出で十数軒並ぶ夜店が賑わっていた。公園が一番華やぐ日でもあろう。

まさに夏の音華やかりし今日この頃である。若い頃には気にならなかった季節の音が妙に楽しく感じるようになっている。若さのそれは野外コンサートのサウンドやサーキットの轟音やらと人工的な作られた音に魅力を感じて、それらがいとも人生なんだ!とばかりに一人悦に入っていたのが面はゆい…。
それでもいつの頃からであっただろうか?近江高月町渡岸寺の観音の里を歩けば緑の稲穂を揺らす風の音、また犬上郡の西明寺の石段を登り汗をかいた体に涼やかな風とヒグラシの寂しい鳴き声が夏でもあった。

余りのいい天気、海を見たくなったので夕方ちょっと出かけてみた。知多の海は静かで台風前なのだろうか少し風が強いものの、美しい姿をみせていた。日中海水浴客で賑わった浜辺も所どころ若者が楽しそうに話しているだけで、シンとした浜辺には十六夜が美しく海を照らしていた。




 2017年  7 月 30 日 


数日来パソコンの調子が悪く、結局モニターを交換することでなんとか現状は維持できることになったものの、近いうちには使い慣れたパソコンを変えなくちゃあというところ。
機械といえど古くなれば故障もしがちで、当然人間も同じとなるわけで悲しいことながら自然の真理ではある。そんなことでもう古希を迎えるわが身も時々ではあるが体のあちこちにガタがきているのが分かる。寄る年波には勝てぬ!と云うことか。

このところ、人事の関係でなかなか思うように休みが取れない…。そんなことから旅に出ることも不自由となって体調まで思わしくない。
そこで友人Nさんを誘って近江の空気を楽しみに出かけてみた。JR草津線は関西線柘植駅から東海道線草津駅まで山裾を走る長閑な路線である。
あいにくの曇り空であったが、その分暑さを感じることもなくのどかな車窓を楽しむことができた。油日岳の裾野をぐるっと回るように山間を抜けて走ると、近江平野を間近に見ながら飯道山、阿星山の山並みを遠くに眺めて走る。石部を過ぎる頃ともなると野洲川の向こうに近江富士の三上山がその美しい形をみせてくれる。

処で今年の気候はどうもおかしい…、やはりこの時期はジリジリとした暑いのがいい。

 2017年  7 月 17 日 


一年の始まりは元旦なのですが、小生には夏の初め一年の悔過(けか)する場所があります。7月16日〜20日は天台密教の葛川夏安居(げあんご)、所謂夏の修行期間である。その中で行者一同が隣接する地主神社の思古渕明神に一年を悔い改める法要を境内にて行われます。

小生もこの十年ほど毎年この時期になるとこの葛川坊村まで行き、葛川明王院仏前にて一年の悔過をしてまいります。


今年は幸いにも16日日曜日は初日にあたり、大津市途中町勝華寺に行者一同が衆参し、この寺から花折峠から葛川まで歩いて出立するのを見送ることになりました…、こうして今年も無事に健康でこの日を迎えることができありがたく感謝です。


そしてこの日は京都祇園祭宵山、昨年は山鉾巡行を見たものの宵山は
初めてとあって体の疲れもほっといて出かけてみた。

京都八坂神社祭神牛頭天皇(スサノオノミコト)の神霊をおもてなしするという祇園祭は「神賑わい」と云うもので、平安時代の飢饉を神泉苑にて神に悔過することから現代に続く祇園祭最大のものである。それらは山鉾やその巡行にとどまらず、歌舞音曲などの奉納や、屏風祭りへと盛り上がっていく。

ともなって、町衆の智慧は鱧祭りと呼び習わされるほどの京料理を育み、祭柄の着物や山鉾ゆかりの京菓子を作るまでとなって、縁起物を生み出してきている。そして町はきらびやかに、暮らしも祇園祭一色となってひと月を終えるというのである。そして祇園祭のこれらは日本の祭りの典型となっているのである。

物凄い人出にびっくり!それでも人の波にのまれる様に山鉾を見て回ってみた。月鉾の前では祭りでの販売という「ほこ調布」という縁起物京菓
子を買ってみた。
この日は夕方に一時雨が降ったおかげであろう、涼しい風もあったのだが大通りなどは人出にてそれどころではなかった。動く博物館とも云われる山鉾の飾り物が雨のため透明ビニールで覆われていたのが残念ではあったが・・・。

 2017年  7 月 11 日 


どうもこの夏は調子が悪そうだ…、

仕事先では人員シフトの関係で休めなくなってきている(泣)、其々にいろいろと都合があるのだが、どうしてもこの夏は人がいない!そんなことから休むわけにもいかず困っている。
そんなことに関らず、パソコンの調子が悪い!デスクトップの画面がどうもよろしくない!接触不良なのだろうが、それでもそろそろ寿命かとも・・・。

世の中なかなか思うようにはいかないもので、常住ではない世界なのである。
そんなことで恐る恐る書いている次第!



 2017年  7 月 2 日 


友人O君の朝は早い!ともすれば小生の生活とは一日のクゥオーター分ずれている感じではないか?そんな彼に国宝雪舟水墨画(模写)を見せるべく梅雨の合間、日曜日早朝から仲間数人と其々に誘い合わせ、知多の散策に出かけることにした。

万葉集にも知多の海は詠まれており、愛知県の名の発祥でもあると伝わる名古屋市南区元桜田町の白豪寺内年魚市潟景勝地石碑を見るため車を走らせた。伊勢湾も干拓が多くされて古を想う術もなく、今は広大な地が町を形成し、想像外な景色に一同は困惑を隠せない。これから先我々が通る場所のほとんどがそんな干拓の爪跡であるのを知るのであった。

ほんの数十年前、小生が子どもの頃には防波堤であった形跡を見な が ら、我々は海の上を走ることとなっていた。常滑大野の斎年寺に  は雪舟画国宝「慧可断臂図」があるが、今はその模写が見られる。   同町西海山の佐治氏築城大野城にあがって眼下に市域から知多の  海が眺望できる。
今回の散策はそんな知多の海の美味しい魚料理を食べる楽しみもあ って、我々は昼食を少し有名と云う食事処へとはいり焼き魚・煮魚、お 刺身などを楽しんだ後、海辺を走りながら篠島へと向かった。

篠島には数分ではあるが乗船しなければならない。篠島万葉歌碑公 園は観光客も殆ど来ない所で、島の最も遠い最西端に位置するので ある。幸いにしてこの日は港前から乗り合いタクシーに便乗することが
でき片道(登り道)だけでも楽であった、それでも島にありがちな坂道には汗が吹き出る。

万葉歌碑公園とはいうものの、小さな東屋が崖上にポツンと建っているだけで、近くに歌碑、句碑が雑草に囲まれているというもの。そんな東屋にたどり着いて上がった途端、汗をかいた体に海風が本当に気持ちよく、、仲間一同声をあげて喜び、美しい景色にへたり込んだというべきか。


帰途、この日海開きをしたばかりと云う海水浴場では、惜しげもなく魅せてる若者達の水着姿に我々は若かりし頃の青春時代?を想い出しながら、ひと時の哀愁を感じないわけにはいかなかった。

  やはり若さは美しい・・・・!   若さに羨ましい・・・・!


 2017年  6 月 25 日 


6月、水無月というが実にこの月は雨が多いのだ・・・  ?天気のいい日には夕方にもなると実に爽やかな風が気持ちいいのであるが。梅雨も今週あたりから本格的になり、雨の多い毎日が続くことであろう。

夏至も過ぎて、暑さを感じながら陽が日一日と短くなってくるのも何となく物寂しいことである。旅にでると数年前までは早朝から陽の沈む頃まで憑かれたように歩きまっっていたが、最近の私はそんな粘りも無くなってきている。
先般もヤマトタケルを追って古墳などを探し回ってみたが、どうも諦めが早く寂しさを感じるなあ〜。。

店でも夏の料理へとシフトしており、ハマグリ料理から鱧料理へと移ってきた。活きた鱧(ハモ)を捌くことは難しく、俗に云う骨切りという作業が大変である。それにしても昔の人はよく考えたものと感心することしたり、こんな調理法をよく発見したものである。

6月は小生の孫の誕生月でもあり、些少ながら絵本でも買うように送った次第。そして先週日曜日は父の日であった。
大阪の娘 Iちゃん夫婦から小生の好きなブランドTシャツが送られてきた。
こうした時、私は一人だけの人生じゃないんだなあ〜と感慨に附するのである。そして一年も半分を過ぎ去ってしまったことに気づかされるのでもある。


6月とはそんな月でもあった。


 2017年  6 月 18 日 


一週間前には梅雨期と言われてはいるが、少なくとも私の地域には雨が降っていない。こうなると農家など水不足で困窮しかねない。
もうこの地域での田植えは済んでいるとおもうが、友人に因れば畑作などにはこの季節の雨はとても重要とのことで…、どうも自然相手では如何ともしがたいものではある。

どうも休日に限って朝早くにに眼が覚めるのは…、まして連休ともなるといけない。結果的に掃除や洗濯と午前中からこまめに動くことになる。こうしたときこそのんびりと過ごせばいいのに…。

そんな時フッと、そう云えばこの季節になると犬山木曽川の鵜飼いを
見に行くんだ!


何も鵜飼い舟に乗らなくても鵜飼い見物はできるのですよ。時間を見
計らって犬山の木曽川べりに行くと、かがり火に照らされた鵜飼い舟
が揃って下ってくるのが間近に見えるのです。

そして観覧船が取り囲んでの解説をもよく聞こえるほどに楽しむことが
できるのですよ。小生は毎年一度はこれを楽しむために出かけており
ますし、これも季節の風物誌とでもいえるのでしょうか。

ほんの30分程の幻想的な模様を楽しむことができるのですよ!
それも無料でね・・・。



 2017年  6 月 11 日 


我が国、日本の歴史も神話の時代から神代編、そして古代から律令時代へと変遷している訳ですが、万葉集を楽しみ始めてから古代史を実感として捉えるようになってきました。
世界でも類がないといわれるほど歴史ある国の人間としては、自国の歴史に余りにも無知識であったことが情けないと思っています。そんなことから積極的に古代歴史の中に足を踏み入れて、少しだけでも歴史の存在を知ってみたく出かけるこの頃です。

土日連休を利用しての散策ですが、なかなか上手く日程や旅程が組めなくしどろもどろな散策となるのも仕方のないことで、事前に調べては行くのですが、帰ってきて再度調べると余りにも不十分な行程にじれったい思いを隠しきれません。
それでも散策の楽しみは十二分で、今回も三重伊勢の旅は古代歴史の感触は思いのほかであった。


     


鈴鹿川を遡った三重亀山市の郊外には景行天皇皇子小碓命(オウスノミコト)、後の大和武尊(倭建・ヤマトタケル)の墳墓がある。考古学的には詳らかではないのだが、日本書紀、古事記と並行して帝紀や旧辞に基づいた墓の認定となったとしても、宮内庁は明治にこの地をヤマトタケルの墓と認めてはいる。
現在亀山市がのぼの公園として整備してはいるが、この日小生が訪れた時は人気もなく、唯一大阪からの同好の士らしき年配の方だけであった。

翌日、伊勢倉田山の倭姫別宮に参詣し、例の如く周辺を散策し神宮徴古館から神宮美術館へと足を運んだ。我が国もまんざら捨てたもんじゃないなあ〜なんて日本人の美意識を自覚しながら神宮の静謐に浸ってみた。
伊勢には勢田川河口近くに江戸時代より栄えた古い町並み(河崎)があると聞いて訪れてみたが、人通りもなく閑散としている。やはり内宮おかげ横丁へ観光客は行くのだろう。通りのなかば小さな食事処で伊勢海老雑炊をいただいたが…。


 2017年  6 月 5 日 


仕事後帰宅途中我が家近くに来るとこの季節ならではという声が耳に入る。この地に住んで40年ほどとなるが、市内と謂えども当時辺りは宅地開発も進んでなくて、所
どころに田圃や畑も珍しくなく、マンション前は大きくひらけて何処からともなく土の
匂いがしていたものだ。

変れば変るもので、今では二、三箇所の田圃を残し軒を連ねているほどである。そんな田圃にはこの季節ならではのカエルの合唱が聞こえてくるのも何やら嬉しいも
のでもある。今週中にも梅雨の時期と聞いているが…



帰宅してフッとポストの中を見ると友人O君から手紙が着ていた。それは先週の京
都当尾の里散策を短歌に詠んでの便りであった。小生とっては何ものにも換えが
たい喜びで、こうした喜びを老中?に味わえることに感謝であった。

彼からは先日にも何処かの公園であろうか?この季節ならではの美しい杜若の写真がメールで送られてきた。それは季節を大事にする彼ならではというものだ。





 2017年  5 月 28 日 


当尾の里

大和(倭)の山向こうあるということから山背(やましろ・後に山城)の国、聖武天皇はこの地に都を築こうとかかった。恭仁宮である。僅か二年ほどというから、後に紫香楽京へと心が変わっていった。
恭仁(くに)京は広大な山裾盆地の中央を木津川が琵琶湖勢田をその初めとして伊賀を迂回して流れている。この地へは田上山や・金勝山、飯道山などから巨木や石などを運んでいたのだろう。

人々は水の流れに支えられて生活することは必然ではあるが、海住山寺本堂裏手の頂へ上がって俯瞰して見ると、今にも古代人が慌てふためいている姿が見えるようだ。

気の合う友人達を誘って早朝から京都木津川市加茂へと車を走らせた。友人が『京都…?』と言うには些か鄙な感じではある。京都府は日本海に面して南北に長いところで、加茂は奈良を背にしてその最南端に位置し、都に離れているところから雅とは幾分縁の薄いのだろう。友人達はしきりに『奈良じゃあ…?』と。

岩船寺・浄瑠璃寺・海住山寺と加茂駅でおち合った大津のK君を交え
て相変わらずな散策であった。この歳ともなると我々は少々の体調不
良は否めず、各々が其々にかばい合って楽しい一日をと過ごすことが
言わずもがなではあった。

浄瑠璃寺門前の茶店での鰊ソバとまんまるの塩おにぎり一個は素朴
な味でことの他我々を和ませてくれた。爽やかな五月の青空のもと、
境内や山道を歩いたお陰で、実はその量が少々不満足かとも思って
はいた…(笑)。

加茂駅前のカフェでお茶を飲みながらホッと一息、それでもK君は帰
り際に『次回は木地師をお願いね!…』という言葉を残して列車へと
向かった。彼はすでに次回、惟喬親王と木地師の里(君ケ畑他)を歩
くことを希望していた。




 2017年  5 月 20 日 


暖かくなりましたね…と言うか、いや暑くなりましたね!ですね。

土・日曜日と休み、のんびりと室生寺の国宝仏でも観て来ようと思っていた。しかし週半ばに腰の筋肉を傷めてしまって、結局二日間のんびりと過ごすこととなり、読書三昧であった。数日前重いものを持ったのが筋肉痛の原因でもあろうが、やはり年齢を考えないといけないのかなあ〜。

週半ば、友人春日井のO君が野菜を持ってきてくれた。彼の家庭菜園での収穫で、この季節ではのソラマメとサラダグリーンピースであった。早速湯がいて食べたのだが、やはり旬の野菜は香りがたちますねえ。
農業に縁のない小生には想像できない喜びがあるのだろう…、食べているとふっと喜びのおすそ分けを感じてしまった。

       


そんな彼からのメールにはどうも足の調子が悪く明日にでも医者へ行ってくるとのことであった。大事にならなければいいのであるが、来週には彼を含めて仲間と浄瑠璃寺へと散策の予定なのだが・・・

 2017年  5 月 14 日 


土曜日友人Nさんを誘って国立京都博物館へと出向いた。少し前から気になっていた桃山時代の画家・海北友松の展覧会である。この時代は仏像、造園、茶、花、そして絵画などと秀でた人達が出ている。


      


絵師海北友松(かいほうゆうしょう)はそんな中で巨匠とも伝わる狩野永徳や長谷川等伯の前に隠れて知られることのなかった絵師でもあった。
永徳や元信の下で絵師として立ち働いていた友松は老境にともなって独自の画境を発揮、建仁寺よりの画作を頼まれたようです。以後、才能を花咲かせて天皇や宮家に筆をふるったということです。近頃は伊藤若冲が注目され人気ですが、絵画に精神性を見なければならない友松はなかなか知られない絵師でもあったのですが、京都博物館開館120年を記念しての開催ということであった。流石!という感じ…。

晩年の絵「浜松図屏風」などは中央を大きく蛇行させる海に尾形光琳「紅白梅図屏風」を彷彿とさせるものであった。また龍を描かせばば髄一と評されるものだが、その展示方法も趣向を凝らして、展示室を暗くして見せるというもので迫力を感じるものでもあった。京都嵐山天竜寺法堂の天井には僕の好きな加山又造の龍が踊っているが劣るとも負けないという龍でもあった。

今年の秋には『国宝』と題して展覧会が開催される。美術工芸国宝が約200点が見られると云うもので今から楽しみでもある。小生の好きな雪舟「慧可断臂図」「秋冬山水図」が観られるようだ。

夕方には大津の友人K君、最近京都へ転勤、居を大津に移している小生の息子を交えて食事をして幸せな一日でもあった。

 2017年  5 月 7 日 


休日ともなると早朝から走り回っていた、久しぶりにのんびりと過ごすことにしたがどこか物足りなさを感じながらでもあった。気持ちの中では観たいもの、行きたい所と数あるが…、時には体を休ませるのも肝要であると決めて今後の旅の参考にでもなればと数冊の写真本など開けて過ごすことにした。

日記に書くこともないので先日来再度読み返している吉村貞司氏の美のエッセンスとでも謂える言葉を記しておきましょうか。
『芸術とは“選ぶこと”だ、とはあのアンドレ・マルローであった。現実をそのまま描けるものではない、例え描いたとしても優れた作品が得られるものでもない。無数の線の中から、最も本質的なもの必要ぎりぎりのものだけを選ぶところに芸術の完成があるし、美への精進がある。

ポエジーとは選ぶことであって、無数というほどの形式からその中でも文字を選び抜いて、古代の長歌、そして万葉歌、連歌からより擬縮した俳句こそその極致と考える。擬縮しなければならなかった本質とは何であるか?

我が国木彫仏ではその木の中に霊を見ていて巨樹を超絶的な働きを与えるとしていた古代感覚でもある。彫刻とは刻むことではなく、木の中に隠れている仁王を取り出すこと、霊魂を形に表わし、生命の核心だけを残して他は不要として削り捨てるにあった。擬宿して本質にいたるとはその核心性に他ならない。
他にも我が国の絵画、庭、花、茶、能など擬縮性は美の精神構造における根本的な原理と言わざるを得ない。』


定朝、運慶、永徳、宗達、雪舟、利休、長次郎、池坊、遠州、疎石といえどもこの根本を外してはいないと思われる。そんな日本の美に今何となく理解できそうな予感がする。その為にも今は観る!ことを大事にしたい。
今週末は京都国立博物館にて海北友松(かいほうゆうしょう)を観るのが楽しみである。


 2017年  4 月 30 日 


五月連休である、毎年のことながらニュースなどでは海外へ行く人を空港に、そして新幹線ホームから楽しそうな顔を映している。世間ではそれら人々を運ぶ人や、観光地などで迎える人達がいる訳で・・・、かなりの人達が結構働いている訳で・・・。かく云う小生もそうした人達で、連休も関係なく働くものである。
まあ〜それにしても日本人もよく休むことを覚えたものだ。よく過労死で問題に上がるのだが、小生も若いときには料理の修業で数ヶ月間休みの無かったこともあったり、体で覚えたこともあった。それでも辞めたいと思ったことはあっても、死にたいと思ったことは無い。やはりそこには仕事への愛情があったのだろうか…。

このところ蔵書を再度読み始めている、そんな中に吉村貞司全集七巻がある。「古仏遍歴 四・五」「日本美の特質」を読んでいたところ無性に仏像を観たくなった。そんな訳で一人電車の旅で京都加茂・岩船寺(阿弥陀仏)、浄瑠璃寺(吉祥天像)を拝観してきた。


彼は吉祥天女の魅力をこう謂っている。「女性の美しさはけっして純潔だけでできていない。意識の深層にねたみや虚栄その他様々の妄念がくすぶっているからこそ、異性を悩ます魅力になっているといえる」

吉祥天女の美しさは神性と人間性とが同居している。それは観念としての女体ではない、それは女という性の複雑さ、深さ、刹那さ、苦しさも変らず、暗さやきたなさの底まで知り尽くしているゆえに吉祥天の授ける幸福は信頼できるのだ、と結んでいる。

浄瑠璃寺は本来が九体阿弥陀仏が有名で、正直この吉祥天女にまで目がいってなかった。こうして改めてじっくりと拝観する機会を得て、下から仰ぎ見る顔は白くふくよかで、唇の朱の一点がなまめましく、豊かな胸の豊かさからまぶしいまでの腕のふくらみを肘までみせ、女であることを見せつけている。


岩船寺から浄瑠璃寺まで山の中の道を歩くと、所々に石像や磨崖仏を見ながら一時間近く楽しむことが出来た。この日は汗ばむ陽気で、ときに林の中を通り過ぎる風に気分がことのほか爽やかであった。


 2017年  4 月  23 日 


桜が散って、季節は一気に初夏ともいえるほど、ちょっと歩けば薄っすらと汗を感じる。公園のツツジもちらほらと開花してきて、そこはかともなく華やいだ景色を見る思いだ。子供達の遊ぶ声はそうした花々がよく似合う。

休日ともなれば少々の睡眠不足も何とかなるもので…、早朝から意識は近江へと勝手に動いていた。予ねて望んでいたJR草津線沿線の散策を楽しんでみることにした。沿線は近江の豊かな自然に囲まれて、これまで歩いてきた寺などが散在している。車での徘徊?がほとんどであった為か見る景色がすべて新鮮でもあった。

       

JR関西線は亀山までは快適で…、どうも伊勢方面だけに利便性は保たれているようだった。亀山から柘植までではあったが、一時間に二本と列車は走っていないし、それも二両編成の旧車では観光客など到底無理と思われる状態。小生の青春時代には「急行・春日」という奈良直行の列車が走っていて若い人で結構込み合っていたものだ。

草津線は草津と柘植を結ぶ線路である。途中、貴生川では信楽高原鉄道で紫香楽焼きで有名な信楽までと、近江電鉄で日野・彦根・米原など湖東へと連絡している。柘植を出るや草津線は迂回するような形で油日岳を回り、線路をまたぐようにある園養寺も車内の窓から眺められてのんびりと飯道山や金勝山の裾野を走って草津に着く。
車窓からは所々で名残惜しそうな桜が見られたのは幸いであった。

貴生川駅界隈を歩き昼食場所を探したのだが何も無いのに落胆!駅前食堂なるものを期待したのだが…最近はそうした店を見かけなくなって久しい。

今度は関西線で奈良へでも行くことにしよう。



 2017年  4 月  16 日 


暖かくなったものだ…、寒さに弱い小生でさえ上着を脱いで軽装で歩くことが出来る。

野暮用があって三河へ出かけた。用事を済ませた頃には天候も回復して青空が見えるまでになった、この日はこの地で宿泊する予定もあり、少し足を延ばして太平洋を見ることにした。
何処へ出かけてもそうだが、道路網は発達して浜名湖までは素晴らしい道が走っていた。昔釣りに来た頃は確か峠道を越えたつもりだったが、高速道路のような道がその下を抜けて浜名湖まで続いていた。


新居浜から浜名湖へとでて、少し海岸線を走ると広大な砂浜へとでる。春の海とはよく言ったもので、この日は海原がキラキラと輝いて美しい。浪間にはサーファー達が波を待ちながらボードを漕いでいて、浜には
たくさんの人がそれぞれの方法で散歩など楽しんでいた。

駿河湾は雄大で、時間を忘れさせるに十分でもあった。こんな非日常
が心を癒してくれるのだろう。帰り際、浜辺の石階段には一輪のハマ
ヒルガオが可憐な姿を見せていた。


この日宿泊したホテルでは都合で部屋をグレードアップしてくれたのだ
が、何とジュニアスイートであった。26階の部屋からは渥美半島から
三河湾まで見渡すことができた。




 2017年  4 月  9 日 


今年初、仲間との近江行だったが急遽友人O君、S君が都合で参加できず・・・・、況や今回の近江沖島行きはその二人が一番楽しみにもしていたのだが、誠に残念でもあり申し訳ないことでもあった。
この歳になれば、こうしたことはあるのも当然で、我々は二人の分まで楽しく有意義な散策をすることが大切と思っている

今年の桜は意外と遅い開花で密かに楽しみでもあった。それは的を得ていて米原から湖岸道路へでるとあちこちに満開の桜を見ることができた。伊崎寺へ先ず足を向けるが、この日は生憎と阿闍梨さんの護摩供もなく境内はそぼ降る雨の中静寂を保っていた。それでも雨の中、寺守の方が来てくださったので本堂に入れたのが幸いでもあった。

        

堀切港では沖島行きの船が出たばかり、このあと二時間は待たなければいけないのを昼ご飯と決めて食事するところを探すことにした。この辺りは全くないので近江八幡へ向かおうとしたら、長命寺川沿いに近江八幡ユースホステルがあり、ランチをやっているとのことで寄ってみた。古い民家を改造してユースホステルをしているのだが、一階の部分をレストランとしているのだが、我々はハンバーグや、メンチカツのランチプレートを楽しんだ。

沖島へは渡船で10分ほどである。どうも近年はテレビで放映された影響らしくかなりの人が来島するという。この日は霧に隠れるほどの天候でもあったが船はいっぱいであった。「海なし県の離島」という面白い張り紙を見ながら上陸する。
出港までの二時間、雨上がりの路地を通って島内をゆっくりと歩いてみた。かつて来た時とはまったく違って、佃煮を売っていたり、手作り饅頭を売っている店がちらほらとあったのはやはり観光客が多くなったためであろう。

長命寺に参詣の予定が時間もなくなり大津の友人K君を近江八幡駅へ送り、我々は帰途へとついた。再度O君をこの沖島へ案内することを約束しておこう。


 2017年  4 月  2 日 


暖かくなりましたね、元来寒がりな小生もさすがに部屋の温度を気にすることも少なくなってきています。この暖かさで桜の開花も一気に進むことになるかも?正直もう少し待っていて欲しかったのに・・・、今週末琵琶湖沖島に行く予定で、沖島には美しく並んだ桜並木があってね。

         

そんな事を思いながら墓参りに足を運んだ。生家のそばにあるお墓は桜で有名な五条川の近くにある。毎年のことではあるがこの季節ともなるとたくさんの人出で川の両岸は混みあう。
墓参りも済ませた頃、近くの神社からお囃子の音が聞こえてきたので足を向けてみた。この神社は小さい頃にはよく遊んだ場所で懐かしさもあってか、昔の記憶をたよりに歩いてみたのだ。

この季節、市をあげての桜祭りだそうで…其れに合わせて神社でも山車をだして居るとのこと、私の小さい頃には無かったのだが、いやいや結構なことか。
少し時間があったので五条川を散歩することにした。まだ咲いたばかりという感じではあったがかなりの人がそぞろ歩きを楽しんでいた。偶然にも小さい頃の友人と会ったので少し場所変えての会話を楽しむこととなった。これも来たことが良かった。

世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどかけらまし・・・・とはあの業平卿だった。

思い起こせば五年前のこの季節、心筋梗塞で運ばれて病院の窓から眺めていた桜であるが…、こうして健康な体で見る
桜はいいものですよね。

 2017年  3 月  27 日 


一日中小雨の降る日曜日である。もう桜の開花の声が聞こえるのだが少々肌寒さを感じる今朝であった。しかしながら冬の寒さとは違って心なしかゆったりと構えるくらい?の寒さではある。

水の分子式はH2Oである、水素分子H2が二つ、酸素分子O2が一つくっついて、水分子H2Oが二つできるという。
化学反応式はH2(2)+O2(1)=H2O(2)と云うことになる。即ち水の中には水素と酸素の比は2対1となっている。

雲や雨雲、そして雨も考えてみれば元はといえば『水』、川を流れているのも『水』、我々が飲んでいるのも『水』、冷たい空気に曝されればその水も雪ともなり氷ともなる。しかし元はと言えば『水・H2O』なのである。水は形を変えて気体とも固体とも形を変える。

『水』は私達の体にはなくてはならないものでもある。そして生活を維持するにもなくてはならないものでもある。其れなのに形を変えて私達の生活を困難にしたり、時に生命を脅かすものともなる。

私たちは常に水と言ったり、雪と言ったり、水は美味いと言ったり、雪は恐ろしいと言ったり、、また自分の都合で雪は楽しいとも言ったりする。
そうなんです、実は水の実態は無いのです!仏教では其れを『空』と言います。物事の実態、私達の五つの感覚や感触、例えば「見る・聞く・匂う・味わう・触る」は無いのです。有名な般若心経の中で五蘊皆空(ごうんかいくう)といって、無受想行識・無眼鼻舌身意・無色声香味触法とも云っていまして、要はすべて実態は無いのです。

大切な水で命を頂いている一方、そんな水で命を落とすこともあります。今朝のニュースでは楽しいはずの修学旅行でのスキーが、その雪のなだれで大切な命を落とされている。
それが世間とは謂え、世の中全く不条理ですなあ〜。


 2017年  3 月  20 日 


週半ばから少し体調が思わしくなく、どうも花粉症かな?とも思っていたら…単なる軽い風邪の鼻炎であった。薬を服用して様子を見ていたが週末には何ともなくなり、予定通り初春の湖東三山を巡ることとした。

さすがにこの季節の湖東三山はひっそりとし、訪れる人も少なく、ただ塔頭跡に残る苔が春の陽を浴びて美しく輝いていた。百済寺、金剛輪寺、西明寺と回ってみたが、年甲斐もなく少々歩きすぎたのか足の痛みが心配だ。久しぶりの寺めぐりと云うこともあってか、今回は二日間をかけてゆっくりと回ることにしたのだが・・・。


この湖東三山も幾度となく訪れているが、その変貌ぶりは驚くばかりで、何処へ行っても観光客用の大きな駐車場が本堂近くに設けられ何の苦もなく行けるのはいやはやありがたいやら困ったことやら・・・。


百済寺など本堂近くの駐車場を利用すれば石階段もほとんど上ることなく御参りできるというから?小生は古びた総門からゆっくり上ったものだからかなりの石段を登ったことになる。もちろんそのような人は見るものでなく、荒れるに任せるような参道は落ち葉や落下した木々など乱雑であったが、それが得てして古寺の風情を感じるものでもあった。







 2017年  3 月  12 日 


天気予報は一週間寒さが続きますと言っていたが、確かに寒さは続いたがその寒さは一月の其れとは違って風にも多少の温もりを覚えるのだった。
春は確実にやって来ているのだろう…、ベランダの陽だまりで猫ちゃんが寝そべっていたし、今朝方には小鳥の声がやたら騒がしく、公園では早朝野球の人達の楽しいそうな声が響いていた。

奈良東大寺二月堂では韃靼(だったん)の行が行われ、今日は12日、例の過去帳が読まれる日でもあるが「青衣の女人」も告げられたのだろう。月も半ばとなって、この地方では奈良お水取りが済むと春がやってくると言い伝えられてきた。

休み昼下がり、友人と食事をした後ひょんなことから列車に乗って地方都市まで散歩することになった。駅前から程近いところに俗に云う駅前商店街を歩くことにした。この都市は陶器で有名で昔はかなりの人出で賑わっていたと記憶する。30年ほど前であろうか…、陶器と地酒を買い求めるため数回訪れていたのだが、その頃は結構な賑わいを見せていたとおもうが。

通りは約一キロ程か、その両側にはいろんな店があったのだろう。休日の昼下がりというのに人の姿が見受けられないほど。欠けた櫛のような商店街は通りのあちらこちらで駐車場と化し、シャッターの下りたままと云う姿も珍しくない。
かっては繁盛していたのだろうパチンコ屋が静かに営業していた。昔からの洋服店や本屋、陶器屋、喫茶店など所々に残ってはいるが、悲しいかな人の気配がしない。
こんな姿は今やここだけではないのだ。地方都市では当たり前の駅前商店街の姿なのだ。郊外の田畑をつぶして道路を通して、大型スーパーやモールなど招致、人々は車で買い物にいくのが通例となってきた。行けば何もかも揃うと便利であると人は喜んではみたものの、我々は何かを失ってきた。
駅前の商店、八百屋や洋服屋、酒屋や靴屋など一気に失ってきた。そこには人との交流や暖かさ、優しさを買ってきていたのが…。

帰り際、通りの中ほどにあった団子屋さんにはいってみた。一皿5本450円の五平餅であるが、時間をかけてじっくり焼いた五平餅は店内の温かみをも一緒に盛られていたようだった。暖かいお茶が美味しいのはそんなところから来るのだろう。
町の駅舎はやたら豪華で立派なものであったが、一歩町へ足を進めるとちょっとした廃墟となっているのは我々は何かを失ってきているのだと気付かせるに十分ではなかろうか?


 2017年  3 月  5 日 


友人から梅花の便りが、いつの間にか桃の花となっている。新聞一面には奈良東大寺二月堂の修二会(お水取り)の始まりを伝えていた。このところの暖かさはもうすっかり春を感じさせるものだ。

休日前の夜は何時だってゆったりとして夜更かしするのだが、どうしても聖林寺の十一面観音に会いたくなっていつになく寝付いた。それでも仕事の都合で相変わらず寝不足でもあったが、近鉄桜井の駅へと向かっていた。駅前からコミュニティーバスに乗り込み数分、聖林寺バス停で降車してなだらかな坂道をのんびりと歩いて向かった。

このあたりは未だ寒さも残っているのか所々に梅の花が美しく咲き誇っている。聖林寺はいつもより参詣者も少なくて、余計に本堂内は寒く感じる。相変わらず巨大な子安地蔵はで〜んと?お座りである。

早速にも十一面観音を拝観する、尊像の前で30分ほど座って見惚れていると・・・ふっと笑みを浮かべるのが分かった。
この尊像を観てからと云うもの、どんな仏像を観ても美しさを発見できないようになった。湖北の仏像に観るある種信仰の笑みとは違って像の造形美とお顔の自然性などは他をよせつけないと勝手に思う私なのだが。。
聖林寺からの帰路、大和路をのんびりと歩きながら安倍文殊院へと寄ることにした。路の途中、古くからの造り酒屋へ入って友人への土産を買う。店内には東大寺別当の書が掛けてあった。拈華微笑(ねんげみしょう)いい言葉である。


それにつけてもこの自由に動けるのは誰に感謝すべきか?


 2017年  2 月  26 日 


今月は毎週のように出かけている、その為でもないが今週末はのんびりと過ごすことにした。休日の都度出かけると何かと用事が詰まってしまい、それの片付けでもある。
何だか天気もよくなり、暖かさも感じられる日曜日ともなれば部屋を全開にして空気を入れ替えないとどうもいけない!

京都での楽焼茶碗の調べもの、三河国での万葉集を集めてみたり、そして斎宮のあらましなど調べものが待っている状態でパソコンや本と首っきりでもある。嬉しいことに友人から万葉集と古今和歌集の立派な本を頂戴して気分も高まっている。

暫く近江への旅から遠ざかっているのが何だか寂しいのだが、春には仲間と近江散策へと約束で楽しみでもある。生来からじっとしているのが苦手な私でもあるが、さすがにこの齢ともなってくれば自然と休むことも覚えて、持病の心臓病と上手く付き合っている。
ホームドクターからは太鼓判を推してはもらっているが、余り調子に乗ってはと自ら戒めても居るのだが・・・

友人O君からは春の花のメールが来るようになって、添え書きには俳句が詠ってある。これが本当に彼らしく温かみのある言葉の羅列で私の心を癒すのです。
さあ〜春三月となってどんな便りがやってくるのか楽しみでもある。



 2017年  2 月  19 日 


料理の皆敷(添え花)にも梅を盛ったり、桃の花を添えるようになって来ました。いやぁ〜春を感じる頃となったものです。
もう10日もすれば弥生三月!暖かい日もやって来るはず、寒さに弱い小生ももう暫くの辛抱ですか。

数年来万葉和歌、古今和歌など楽しんできたものの、此れまで歌の詠われた地へと数度となく旅へでかけてみた。そんな中、平安京以来の発掘と騒がれた伊勢斎宮(いせいつきのみや)へと足を運んだ。


万葉集では大来皇女と大津皇子の歌(巻2−0105)、そして在原業平と斎王との歌 が(古今和歌集)詠われている

『君や来し 我や行きけむ 思ほえず 夢かうつつか 寝てかさめてか』

『かきくらす 心の闇に まどひきに 夢うつつとは 世人定めよ』 

(古今和歌集)と詠われている。

天武天皇以来約660年程、天皇に代わって神宮をお守りする斎王は都から勢多,、甲賀、垂水、鈴鹿、壱志と頓宮を経てこの多気郡のこの地に斎宮を作って大勢の人たちと生活していたと思われる。

この辺り一帯の広大な地に斎宮を構え、伊勢神宮へ天皇からの代わりをしていたのである。近代には広大な土地の発掘調査をされて、その膨大な資料が展示されていた。

伊勢湾をはさむ愛知県では岸辺を・・・海岸と言うが、三重県では・・・浦と呼ぶのは古代の優雅さからなんだろうか?
鈴鹿からは旧伊勢街道に沿って霞ヶ浦、鼓ガ浦、袖ガ浦、阿漕浦などへと進み、所々で白砂青松の浜が残っている。
二見が浦に宿をとり、しっかり歩いた疲れた体を癒す。翌朝夫婦岩を参拝、今回は外宮を参拝して帰る。

途中、昨日探せなかった大淀の『業平松』を探し、一身田の真宗高田派本山・専修寺にて手を合わせ、帰宅の途についた。


 2017年  2 月  12 日 


今年に入って二度目となる大雪がこの地方へもやって来た!幸い小生の付近には積雪はしていないが…、残念なことに週末からの奈良県宇陀への旅がこの雪で行くことが出来なくなってしまった。昨年から楽しみにしていた旅で、わざわざ宇陀市観光課からたくさんのパンフレットを取り寄せて資料を検討していたところであった。

宇陀といえば柿本人麻呂の万葉の歌でも「東の 野にかぎろひの 立つ見えて 返り見すれば 月かたぶきぬ」が余りにも有名で、大海人皇子壬申の乱への道、そして古くは神武東征の足がかりと由緒ある土地ではあるが、余り人知れぬ場所でもある。
西日本大雪警報の知らせに宿へ連絡してみたら、付近は積雪しており小生の年齢・運転技術など考慮するととてもじゃないが危険極まりなく急遽行き先変更となったのである。

そんなことからのんびりと三河(古代は参河といった)へ万葉の旅と洒落こんでみた。万葉の時代この地方へはかなりの歌人が来ており歌を詠っている。伊良虞(伊良湖)へ流された麻績王、妻の歌を詠った柿本人麻呂、又持統天皇や長忌寸奥麿、高市黒人そして後に三河国守となった藤原俊成(定家の父)などなど。


今回はそんな歌人たちの足跡をたどりながら歌碑をみて古を感じる旅をすることにした。是まで数度辺りを歩いてみたがやはり行く度にその想いも変ってくることを予想して散歩がてらの旅を楽しんでみた。


途中、海の見える魚市場内の食事処で昼ごはんを頂いたのがこの旅の安らぎでもあったような・・・、小魚を使った煮魚定食を注文して食べたのだが、これこそ日本人で良かった!と云う心持ちで帰宅した。



 2017年  2 月  6 日 


どうも外出する日に限って天候が良くない! 日曜日早朝の新幹線はどことなく華やいだ雰囲気を感じるのは小生だけか?京都駅は相変わらず人の波で・・・、そぼ降る雨の中、大阪から来た娘 I ちゃん待ち合わせてから市内バスに乗り込んだ。

京都近代美術館へは二十分程で着く。来週末までと期日が迫った「茶碗の中の宇宙・楽家一子相伝の芸術」展のため出かけたのである。予てより京都楽焼きには興味があって、所謂千家十職と謂われるうちの茶碗師であるが、今回初代長次郎の茶碗が展示とあった為じっとしておられず出かけてみた。


そもそも焼き物は大きな窯である程度の数をして高温にて焼くものではある。然るに楽家は初代長次郎が千利休の茶碗を依願されて以来、お茶席での茶碗をのみを一づつ小さな窯にて焼くという窯元である。その窯は小さな焼き釜を炭の中に収め鞴(ふいご)の風と炭をつついて高温になったところ、茶碗を焼き釜の中へいれて焼き上げるというもの。

歴代までの展示とあってか、たくさんの見学者で混みあっていた。初代長次郎の茶碗はどれも凄いもので、利休形というのを見せられた感じ!わび・さびという言葉以上に何ものをも削ぎ取った茶碗の本質を見たようでもある

際立って良かったのが黒楽茶碗・万代屋黒(もずやぐろ)で、肉厚で重心を落としてどっしりとした存在感、造形美から離れた土の質感と美しいまでのフォルムを形作って、、無駄を排した作りでもある。


余韻を楽しみながら雨の平安神宮を参拝し、娘の住まい大阪へと寄ることにした。一度足を運んでよ!と言われていたけれどなかなか機会がなかった、この機会に寄ることで一安心でもあった。

新大阪からのぞみで一時間もしないうちに名古屋駅へと着く、駅の雑踏は嫌がうえにも現実へと引き込むのだった。

 2017年  1 月 30 日 


天地は万物の逆旅と・・・、月日は百代の過客と芭蕉翁は訳したのかも?  いやはや本当に月日は早いものですね。
もう一ヶ月を過ぎようとしております。つい先日正月を祝ったばかりですが、もう今週には立春!暦の上では季節は春ですよ。

先日訪れた雪の彦根からは梅の花の便りが聞こえて来ました。雪の中でも確実に春の兆しを待っていたのですね。自然の力はどんなに社会が進んでも、進化しても変わりなく訪れるのです。そんな事を古代万葉の人も、平安の時代からもず〜っと伝えてきているのが日本という国であるのだろう。
そんなことをふっと思いながら古今和歌集・新古今和歌集を読む毎日です。今年は和歌を読み解きながら少しでも自然や信仰を確認したいと訪ね歩く旅が楽しみである。

それでもまだまだ寒さの中、なかなか外出することは大変で・・・、本の中や、パソコンの画面から、タブレットの指での旅が続いている次第でもある。
とりあえずは風邪をひくことなく暖かい日が来るのをじ〜っと待っているばかり。若い頃とは違うのだから・・・と自分に言い聞かせるようだが。



 2017年  1 月 23 日 


比翼連理という美しい言葉がある。

唐代の詩人、白居易の叙事詩『長恨歌』の中、これは唐の玄宗皇帝とその愛人楊貴妃の恋愛を歌った唐詩である。七月七日の七夕の長生殿で夜半、あたりに人無く、ただ二人で語り合った時、玄宗皇帝は楊貴妃にこう言った。
『この次に生まれ変わったら、天にありては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝となろう』と。

比翼鳥とは、一目一翼しかない鳥で、自分一人では飛べないので、雌雄の二羽が一体となって飛ぶという想像上の鳥という。そして連理とは、それぞれ別の根からはえた木の幹や枝が接合して、木目(理)がひとつになった状態をいう。
そしてこの二つを結び合わせて出来た言葉が『比翼連理』である。夫婦が固く誓い合って仲睦ましい事をいうのである。

結婚式での言葉に二人三脚を称える詞があるが、これだと二人に意思があるからなかなか巧くいかない!我々実は一人では何も出来ないことを知ると、この比翼鳥のように自我をなくして相手に合わせようとする。そして二人で堅い絆を作ることが出きる、即ち連理を構築するのである。
実は私にそんな事を語る資格もないのだが・・・、昨年仲間に大津日吉神宮境内の連理の木を紹介したところ、友人O君はあちこちで連理の木を調べている。

確かに彼は連理を語るに充分な人柄である。そして人生を立派に過ごしてきたし、楽しい充実した老後?を謳歌しているからまさに比翼連理を絵に描いたような人間であるから羨ましい。
彼は昨年来、二箇所の連理を見つけて来ている。彼の行動力に敬意をはらいたい!予ねて私は言うのである。
友人O君のように普通に生きる!この普通に生きる!と云うことが如何に難しいことであるかは彼を知って思うのである。新年にも書いた「平常心是道」であるが、この歳にいたっても出来ない小生は未熟者ですね。




 2017年  1 月 15 日 


週末を利用し、冬の湖東三山を味わいたくて出かけてみたのだが・・・。今年一番の寒波が来たということで全国的な雪で計画も吹っ飛んでしまった!

      


出かけて一時間ほど車を走らせ、高速道路養老SAを過ぎた頃から遠く伊吹山、近くは養老山脈の雪景色が目に飛び込んでくる。同時に気候も変って、雲行きが怪しくなってきた。関が原で一般道に入ると、道の両端には除雪された雪の塊が連なっている。
その頃ともなると雪が降り出して、時々前が見づらくなるほどでもあった。この地は降雪の多いところでもあるが、さすがに国道などは除雪車が走っており、とりあえず彦根まで車を走らせた。
ホテルのロビーで雪が降るやむのを待つこととしたが、ますます激しい降雪に予定を断念!琵琶湖の雪景色を楽しみながらのんびりと過ごすことにした。

翌朝に希望をもっていたにもかかわらず、相変わらず雪は降っており今回の旅を断念し湖岸道路を走りながら冬の琵琶湖を見ながら帰路へとついた。
ただ驚いたことに、湖岸から数メートルの範囲には何故か積雪がないことに気付いた。時々横殴りの雪であったのだが
、湖岸に積雪はなく家並みや木々には美しい?くらいに雪が積もっているのだが。この日彦根には36センチの積雪があったと聞くが、琵琶湖の水は温かいのだろう、湖岸には着雪できにくいのだろうか?



 2017年  1 月 4 日 


例年通り仲間が揃っての新年を迎えることができました。そしていつも通りの神社へ初詣となった。昨年同様暖かい初詣に人でも多く、やはり新年の心の高ぶりを感じる。
新年は娘とゆっくり雑煮とお節で祝い、新しい年の始めを迎えた。年賀状を拝見しながら友人の昨今を思い浮かべるのが正月でもあるのだ。私は数年前から懇意にしている友人だけに年賀状をお出ししている。年賀葉書ではなく、年賀である。この一年の小生のことをご報告するのが目的で、そうしたことも全てお出しした友人達のお陰でもあることの礼状でもあるのです。

そしてこれも例年通り京都東山大谷廟への墓参と、比叡山飯室谷長寿院への参詣で小生の一年は始まるのである。
東山界隈は相変わらずの混みようで、八坂神社から円山公園を通って大谷廟へと赴くのだが、たくさんの人の波をかき分けて行くのである。
反して、長寿院は静かな中に凛とした気高さを保って、不動堂は孤高なる重みを見せていた。不動明王へ頭をさげてこの一年の無事を祈念してくる。庫裏へまわって藤波阿闍梨を訪ねるが生憎と本山での法要で留守であったのが残念でもあるが…。

夕方から大津の友人K君とと会食、新年早々から嬉しい話に花が咲いた。実は内心彼のことが心配でもあったのだが、状況がわかって一安心でもあった。やはり我々の歳にもなればお互いの健康などが心配でもあるのだ。
琵琶湖畔のホテルに宿泊し、早朝の比叡山を拝むことも一年のならいである。美しい琵琶湖を眼下に見て、朝日に照らされる比叡の霊峰が私にには何ものにも代えがたい新年の儀式でもあった。



 2017年  1 月  1 日 


恭賀新年
新しい年を迎え、皆様方には健やかな一年で有ります様ご祈念申しております。


南泉和尚問うに『如何なるか是れ道』、対して『平常心是れ道』と趙洲和尚は答えている。無門関第十九則にて無門和尚は頌に曰く。
春に百花有り、秋に月有り、夏に涼風有り、冬に雪有り。若(も)し閑事の心頭に?(か)くる無くんば、便(すなわち)ち是れ人間の好時節。

人の生きる道とはどんなものでしょうか?と訊ねたので、南泉和尚は日常の心が大事ですよ!と言ったという。では、どのように向かうべきでしょうか?と訊ねたので更に、それに向かおうとすればますます道からそれてしまう、と答えた。ではどうしたら道を知るのでしょう?・・・・

南泉和尚が曰く、道とは知るとか知らないといった知識に属するものではない。知は妄想で不知は虚無である。もし本当の道に達すれば虚空のようにからりとしたものである。


春には花が咲き、秋には月が照る。夏には涼風が吹き、冬には雪が降る。もしつまらぬことを心にかけることがなければ、それこそその人にとって幸せの日々である。と頌にうたっている。

凡夫大よそ七十年の人生も、近頃何となく解りかけてくるから不思議なものでもある。

数百年前、唐の禅師は人の道をかくのように喝破してしている。現代は往々にしてモノを知ってることが評価される時代。
まさに妄想でしたね。ありのままの心を持つことこそが人として生きることなんですね。
さあ〜、新しい一年もまた健康で仲良く生きていきましょう!



 2016年  12 月  25 日 


今年も残すところ一週間!最後の休日ということで一日大掃除という次第である。日頃から独居老人生活の為、何時何があっても良いようにと生活だけは整理・整頓をし誰が来ても良いようにと掃除だけはこまめに手がけてはいる。
まあ〜それも生活の緊張感というか、メリハリともいうことでもある。老後を楽しくする秘訣でもあろうかと心がけている。

買い物にも行くと、スーパーはもう正月商品が山と積まれ気分は暮れ迫る!っという感じ。年末年始は仲間たちが来る予定から今から準備に忙しい。

それでもこの一年間楽しい時間を過ごすことができていろんな人たちに感謝しなければならない。そして又新しい年を迎えましょう。


 2016年  12 月  18 日 


奥琵琶湖を歩く

年の暮れ比叡の山に用があり、ついでに足を延ばしてマキノ・海津へと行って来た。奥琵琶湖は生憎の空模様でもあったが静かに湖畔の様相を目にしてひと時を豊かな気持ちで過ごすことができた。
ホテルからは目の前に海津大崎・菅浦集落、そして沖合いに竹生島を眺められて奥琵琶湖の雰囲気を充分味わうことができる


         
  

目の前の砂浜はまさに白砂青松であり、美しく弧を描いた浜にはさざなみが打ち寄せる。手が届くほどの近くにたくさんの渡り鳥が羽を休めながら波にまかせるようにふわふわと浮いていた。琵琶湖にはカイツブリが多く生息していたという。カイツブリは古来「にほどり・鳰鳥」と言い琵琶湖に多いことから琵琶湖を「鳰の海」とも謂ったと言う。
一旦潜ると息の長い鳥で、湖東米原の古代氏族息長(おきなが)氏はこの鳥から名を得たとも伝わる。

奥琵琶湖の湖岸つたいに古くから漁港・湊が発展して、ここ海津も大津に次ぐ湊であったのだ。古代は日本海・北陸からの海産物の運搬に利用され、近年は大津まで蒸気船が通ったともいう。街並みは今もその香りが息づいてぶらり歩くにはコロがいい。小さな造り酒屋、つくだ煮や、ふな鮓屋など現在も細々と営んでいるらしい。
家の路地、細い通路を入るとすぐ裏は琵琶湖で、岸辺は大きな石組みで家を守っていた。
 2016年  12 月  11 日 

先日、仕事で巨大クエを調理した!クエとは九絵とも書き、生涯に九回ほど模様が変るからとも云われる中深海魚である。九州や地方ではアラとも通名される超高級魚でもあるが、そんなクエの30`(体長1.3m)ともなるとマグロより難しく、鱗の剥(す)きといって柳刃で鱗を薄く剥ぎ取らなくてはならない。それだけで30分はかかってしまい、頭はノコギリで切断?して、三枚に卸すには人の手を借りなければできない。刺身換算すれば大体240人分ほどか?頭は二つに割って焼けばゆうに7.8人は食べられるし、カマも同じくらいだろう。美味しいのは何といっても鍋であろうが、大きな塊のから揚げも隅に置けない旨さでもある。
それにしても小生の体力ではとても無理で、若い鄂君に殆ど力を貸してもらっての解体でもあった!


一年の疲れを癒すため?という言い訳でもないが、毎年伊良湖へ行くことにしている。海でも見ながらのんびりと湯に浸かってくるだけのものであるが・・・。部屋からは沖合いに神島が見られて、伊勢湾・三河湾を往来する船をのんびりと眺められるというもの。
部屋からは朝日夕日も見られ、近くには美しい海岸・恋路ガ浜があって砂浜が美しい。

この時期、伊良湖岬は渡り鳥の中継地となって南へと渡る鳥たちが羽を休めているのを見かける。大型の猛禽類などは空を旋回しているのを見ることができる。

古代、この辺りは伊勢の国であったともいう、そう見れば確かに伊勢の地は近くに見える。


潮さゐに いらごの島べ こぐ舟に 妹乗るらむか 荒き島廻(み)
                                        柿本人麻呂



 2016年  12 月  5 日 


師走である!今年も早や12月となって自然と気忙しくなってくるのは何故なんだろう・・・?この年の締めからなのか有れもしておこう!此れもしておこう!と云う訳で自然と仕事がふえてくるのだろう。
毎週こうして何かを書いていると、兎に角月日の流れが速い!天地は万物の逆旅、光陰は百代の過客なりですかね。

北名古屋市に用が有り出かけたのだが、市役所の近くに面白いものを見つけた!こうしたものがこの地に在ることは知ってはいたが・・・、北名古屋市歴史民族資料館の昭和日常博物館である。


       


リアルにレイアウトされており、又当時の玩具とか駄菓子が展示されていた。、団塊の世代としては昔に返った様な思いでもあった。ほんの半世紀の内にこんなにも変っていたのだと改めて知らされた。
小生の小・中学生時代には全てこんな世界であった。それでも当時は自動車は凄い!こんな食べ物いっぱい食べたかった!自転車の後ろに乗っていると本当に楽しかった!隣近所はみんなこんな家であったなあ・・・!
駄菓子屋のおばちゃんがふっと現れて来るようだ・・、自転車屋の中ではおじさんが大きな声で話しているようで・・・。





 2016年  11 月  27 日 


小生の職場での出来事、飲食店にて働いている私はお客様の声や行動が必然的に知らされるのである。そんな中には味覚の問題や金銭の問題など多種であるが、最近多いのは自己の主観なく食べ物をファッションの如く語る輩の会話でもある。
何時から我が国はこうも食に関してのイデオロギーが無くなってしまったのだろうか?小生が食に関しての職場で居るからなのか、食べるということの重大さを人以上に知らされているからだろうか?
メディアでは毎日のように料理番組が流され、それも何処そこの料理はうまい!と一言を流し、後は捨てられていく情報に操作されて右往左往している人々の何と多いことか。

小生はこのところ毎日のように活きた魚貝類を調理しているが、それは生き物を生き物として観ていないところで生きている訳でもある。それ故、食べるという行為の中に「生き物の命を食らうということ」を知ってでの食生活に感謝している。
食品としての魚貝類の命であると云えど、命は命である。そうした意味では我々は全て命を食らって命を繋げている訳で、他の動物と違うところは「感謝することを知っている」ということである。動物などにしてもその食べる限度を知っているし、無駄な食を知る由もない。

美味しい物を戴くということは、美味しい物を戴く環境に自分はいるか?という問題でもある。そんなことも解らず、金を出せば美味しいものが食える!という餓鬼がいかに多いのかが気になるこの頃でもある。
もう師走となって、年末年始の飽食の文化がやってくる!あんな食べ物を神様は食べたのだろうか?という疑問さえあるが。おせち料理の中央に鎮座まします伊勢海老がどうも気になる小生です。


 2016年  11 月  20 日 


この一年は小生にとって特別な一年でもあったような…。すっかり古代万葉の世界に染まって過ごした年でもあった。
事の始めは聖林寺の天平仏十一面聖観音をを拝見してからのこと、すっかり倭古代に魅入れられてしまったのを記憶している。
古代の世界は現代に生きる我々にとってはとても魅力的だと思える。自然の中に神を見出し、その中でおろおろとしながらも生き、嬉々として生き、粛々として生きる。現代人はそんな所に神奈備として観るのだが、実は自然そのものが神奈備としててあるもので、だからこそ目の前にいつも神奈備があるのだが・・・、現代人はそこに生きてはいない。

我々のほとんどがこの一年の初めに自然である神に何がしらを思って願った。心からそう願ったかは別にして、そういう形だけは残したのだが、事故や災害、被害にあう都度に自然を恨むことだけしてきが、いやそれこそが神奈備であったはず。

そんなことを古代万葉の歌人達は教えてくれているようでもある。相聞歌も雑歌も挽歌などは特に古代の人々の生活を教えてくれ、物の豊かさではない心の豊かさ、そして物の理(ことわり)などをつぶさに知らしめてくれる。現代人にない神のもとでの尺度でもって豊かさを教えてくれているようだ。

この歳にもなってとは思うが、こんな当たり前のことに気付かされた歳でもあったような・・・。年内は古代へと足を運ぶ機会もないが、いい時間を持てたことに感謝でもある。

飛鳥の旅へ同行した友人O君は早速小さなアルバムをそれぞれに作って持参してくれた。それは彼のいつものことで最高の思い出ともなっている。


 2016年  11 月  14 日 


夏も終わりという頃に大和への旅を決めた。仲間達とも久しく泊まりの旅をしていないというので早めの決め事でもあったが…如何せん多用な方が多く少ない参加者でもあった。それが幸いしたのだろうか?クオリティー高い旅となったのも事実で飛鳥古代史から平城京まで楽しむことができた。

          


 采女の 袖吹きかえす 明日香風 都を遠み いたずらに吹く  巻1 0051

 年月も いまだ経なくに 明日香川 瀬瀬ゆ渡しし 石橋もなし 巻7 1126



圧巻は何と云っても国定公園内にある宿泊施設でもあった。石舞台古墳のすぐ近くにある国営飛鳥歴史公園祝戸地区にある旅館は一見研修所のようであったが、支配人が歴史を案内してくれたり、食事処が古代を演出してくれたりと…、部屋は20畳ととてつもなく広く、学生時代に戻ったように雑談を楽しみながら過ごせたことであった。

何時になく晴れが続き、所謂行楽日和であり東大寺二月堂などは観光客で溢れていたが、翌日の飛鳥稲渕の集落などは観光客は誰一人居なく、飛鳥川の石橋では万葉の気分を味わうには充分でもあった。

飛鳥路は秋の陽をうけて明るさをもつ反面、何か、否何処からかくるほの暗い陰影を感じる。それは古代日本人の血が古代の祖先の霊に呼応するかのようでもある。それでも今では年月の余りの長さに空気もすっかり洗浄されてしまったかのように陽だまりの明るさを見せていた。

 2016年  11 月  6 日 


我が家、机の横壁にカレンダーが懸けてある。二ヶ月毎のめくりでもあるのだが、もう最後となってしまった。何かと予定を書き込んできたものの、全て順調にはこんで満足感にひたるのもこの頃であろうか…。
健康な毎日を過ごせるというのも有り難いことで、かえすがえすもこうした体に生んでくれ育ててくれた亡き両親に感謝しなければならない。

それにしても、親の凄さに気付かされるには少々遅いと言われるようだが…、子供が親となって世間どおり孫をもつ身となるにつけて、人の一生を俯瞰できるような面持ちでもある。必然的に自分の両親のことが思いやられ、我が身と比べるに亡き親の凄さを思い知るのである。
その一々が親は立派で、辛抱強く、優しさをもって生きていた。それこそ何の楽しみらしいこともするでなく、ただ子供達の人生だけを考え必死で働いてきたのだろう。現代の我々とは比べようもなく楽しみの何たるかを知ることもなく、楽しみ方さえ知る術もなかっただろうに…。
そんな事を考えながら、のんびり一日休日を過ごしてみた。それにつけても、私は恵まれているのだろう。今年こそ万葉の世界に遊び、浸って、本を読み明日香の地に味わうこと幾たびか!充実した一年でもある。
そして来週は仲間と明日香の地に宿をとり精一杯古代からの空気を味わう予定をしているのだ。

市内の中心街や大きな通りにはキラキラとイルミネーションが輝く頃となってきた。近年は寺社が恥もなくイルミネーションやライトアップで飾り人集めに躍起であるが・・・、それこそ「お釈迦さまでも知らぬめえ〜」と。
兎にも角にも今の世間はわかりません・・・ねぇ。


 2016年  10 月  31 日 


久しく近江へ行っていない!とは言っても先月初め以来だから二月と経っていないのだけれど…、数日前からすっかり寒さもおぼえ晩秋の安土へと向かってみた。
安土考古学博物館で『飛鳥から近江へ・天智天皇の意図を探る』という企画展が開催されているのを居ても立ってもおれなく早朝から出かけてみた。それにしても何故かこうした日は早く目がさめる!から不思議だ。

近江への電車は結構不自由で、大垣と米原の駅で必ず乗り換えしないといけない。JR東海とJR西日本の狭間なのだろうか?そんなことで電車の旅を楽しむことも近江へと駆り立てる。一人でのんびり景色を楽しみながら二時間ほどで安土へと着く。


         


早速駅前でレンタサイクルをお願いして、ぼちぼちと市道から田道へとこぎだすのも気持ちいいものであった。中には歩いている人もいたし、自転車も結構走っている。この辺りは安土城や古墳、そして繖山(きぬがさやま)の寺々を巡るにいい所でもある。近江平野は稲穂が垂れ下がり実りの秋を見せた豊かな景色で、博物館への道のりを清々しい空気を味わいながら走った。
企画展は予想に違わぬもので、こんな場所においてやかなりの人出でもあった。壬申の乱以後天智天皇の近江遷都への思いなどが解り易く企画されていた。

此処まで来たら寄って行かないわけには行かない所が私にはある。何年か前、真夏の暑い日に寺の欄干で涼しい風に当たっていたら「叡山のあまり風ですよ…」の言葉をかけてくれた老女がいる浄厳院である。
今日は暑さはないが、それでもあの時の老女を思い出したくなり駅前を素通りして寺へと向かった。遠く沙々貴神社のこんもりした森を眺め、近江の山並みが美しいのも此処の景色の特徴でもあった。

人の気配を感じることもなく静かな時間が嬉しい…、立派な楼門前には秋の実り、柿がたわわであった。
ただ、調子に乗って自転車を楽しんだ為か、帰りの電車の中で足がつってしまい痛さで大変だったのは、やはり歳のせいであろうか?先般の明日香といい、この安土といい、自転車は私にとってどうも合わない!・・・。



 2016年  10 月  23 日 


世間が喧(かまびす)しい!!
統計上での犯罪率は結構減少傾向にあるらしい、がしかし、犯罪というか事件が毎日のように報道されている。「人殺し!」ということが映像メディア、活字メディアの上で毎日のように踊っている。こんな事が毎日何処かで起きているのだろうか?と不思議な気である。そして我が日本はこんな国であっただろうか?と疑問に思えてくる。

先般、南米の国でのオリンピック、開催前には「果たして出来るのだろうか?」とあらぬ杞憂を報道していたメディアを眺めていたら自国のオリンピック開催にIOCの偉いサンまで引っ張り出す始末!挙句、「皆さん仲良く集まって相談しながら頑張ってください」とのお言葉を頂戴するほどお粗末劇…。一体ナンダロウ?
行政者(政治家)と言えども人間である。そんな中、世間はそりが合わない人とも仕事しなければいけない場合もある。万民のためにある行政者が私事の感情で仕事の擦り付け合いなど余りにも大人げないと思うのは私だけか?

テレビでは連日、東京の市場の建築がどうのこうのと…、果ては誰が決めたのか責任者出て来い!と言わんばかりの犯人探し。一段落したと思ったら、さる地方議員の大量詐欺行為!大の大人が数万円の詐欺行為!数年前にあった地方議員の高額な詐欺のほうがマシだよな…と笑い声が聞こえて来る。あの時笑っていたこれら議員はあの時どう思ってテレビ見てたのでしょうかね?

何処かのテレビ局、一局でもいいや、否地方局の一局でもいいや、一刀両断にもの申す奴が現れないだろうか?己のスタンスを頑固なまでにも言えるツワモノはいませんかね?事の本質をはっきり説明する狂人?はいませんか?
今も保育園建設反対!最終葬儀斎場建設反対!と大人が叫んでいました。いや待ってくださいよ、いま貴方が住んでおられる所が静寂で住み易いところだからこそ保育所が在ってしかるべきなんですよ。山の中の辺鄙で静かななところに保育園があるのは異常なんですよ。
人里離れた山の中に最終葬儀斎場を作るなんて、昔見た映画「楢山節考」を彷彿とさせますよね。自分のお袋を背中に背負って山に捨てに行きますかね…

休みの一日、「明日香村史」をのんびりと読みながらふっと我にかえる瞬間思い浮かんだ次第。


 2016年  10 月  16 日 


やっと秋の陽射しがやって来た!という感じで、全国的に温もりのある秋を満喫しているようでもある。実を云えばわがマンション横の大きな公園内にある運動場でも秋が走っていた。何のことはない恒例?の町内会の運動会である。前日からなにやらテントなど運んでいたが、朝から大きな拡声器の声で眼が覚めた。
この辺りは市内と言えど未だこうした交流が行われているようで、なにやら子どもの頃を思い出すようでもある。

連休を利用して部屋の掃除やら、はたまた風呂の壁塗り替えなどちょっとしたDIYでもあった。若い頃は何でもなかったこうした仕事が億劫になってきている。それでも綺麗になった風呂に入り一人悦に入ってはいるが…。

それでも秋の空気を楽しむために名古屋市博物館へ出かけてみた。『禅の心とかたち』展というから楽しみに行ってきたのだが、何のことはない鎌倉鶴見の総持寺のPRみたいなもので、「心の作用」の部分が全く無く、ただ在るものを展示されているだけで心とかたちは見えず仕舞いであった。これで1000円は・・・

仕方なく博物館の片隅で行われていた古本市を覗いていたら『明日香村史・上中下巻』三冊が立派な装丁で2000円で売っていた!此れはもう最近の小生の万葉心に引き寄せられているかのように。

それでも2000円とは?どうも一桁間違っていると思い、受付で値段を確認しに持っていくと、2000円ですよ!との返事に即刻買ってしまいました。でも重い!重い!
此れで当分読み物には困らない、と云うか、とても一年では読みきることはできないかも…。

嬉しさですぐさま友人達にメールしてしまうほど。K君など、調べてみたら30000円程で頒布されていたそうだよと連絡してきてくれた。

安土考古学博物館では来週にも天智天皇と大津宮など企画されている。いよいよ忙しくなるぞ!


 2016年  10 月  10 日 


このところ明日香万葉の地を訪ね歩いているのだが、尾張・三河の地でも詠まれているのは余り知られてはいない。
あの持統天皇(退帝されているから上皇)も諸神鎮祭を目的として参河行幸をされている。

どうも天気も味方してはくれず、この日も秋の陽射しは顔を出してもくれなかった。土曜日から渥美半島伊良湖岬まで行き久しぶりに美味しい魚でも食べてのんびりと過ごそうと出かけてみた。
岬では渡り鳥の飛来が見えるのもこの季節で、大型の猛禽類などが上空を旋回しているのをアマチュアカメラマン達がレンズを向けていた。
万葉の頃、この地は伊勢の地で在ったらしく麻績王(おみのおおきみ)が都から流されて来たり、柿本人麻呂の妻?がこの地へ遊びにきてはいる。実際に伊勢とは近く、況してや篠島、佐久島と島づたいに来れば小船でもよかったのだろう。
後世、三河の国衙・現在の蒲郡には国司として藤原俊成が赴任し歌を残している。俊成は百人一首で有名な藤原定家の父でもある。

江戸開闢以来、東海道筋の海岸はかなり殖産が行われていたらしく、近代に入ってもその力は衰えるべくも無く、今では古代の海岸を見ることは不可能ではないだろうか?それでも何とか調べて万葉集で詠まれている所在地を巡ってみることにした。



二年壬寅、太上天皇の参河国に幸しし時の歌     

  引馬野に にほふ榛原 入り乱り 衣にほはせ 旅のしるしに

                                        巻一 〇〇五七  長忌寸奥麿

       


持統朝の宮廷歌人であった長忌寸奥麿(ながのいおきまろ)が三河行幸に供奉した時の歌である。この地は都でも知られた風光明媚なところでもあったようで、上皇となられた持統帝は東国(信濃・駿河)への行幸の途中この地へ入られたということ。現在国道23号線、この辺りは御津という村で、近くにも御津山(おとやま)という円錐状の美しい小山があり頂上へ上がってみると眼下に美しい三河湾の島々がとって見れる。国道脇に引馬神社があり片隅には忘れられたかのように万葉の歌碑が建てられていた。
此れまで幾度となくこの国道を走っていたのだが、国道脇にこんな神社があるとは想像だにもしなかった。



右一首高市連黒人

  いづくにか 船泊(ふなは)てすらむ 安礼の崎 こぎたみゆきし 棚無し小舟

                                         巻一 〇〇五八  高市連黒人


       


引馬神社の近くには三河の山から流れ出る音羽川がある。河口には流れ出た砂で雄大な洲があったと思われる。今では見る影もないのだが…、それでもゆったりとした流れで音羽川河口には小さな石堤が当時を想いださせる。
川上に向かって少しばかり歩くとこんもりとした林が見えた。持統帝行幸の碑がいかにも?というふうで建立されていた。
この辺りには古墳が多く、対岸にも古墳跡が残っている。
兎に角も、万葉の昔この地へ持統天皇が来ていたのだ!そして小生もこの地へと足を踏み入れた。歴史の片隅をのぞいてみたようでもある。



 2016年  10 月  3 日 


もう10月!こうしてHPの中へブログを掲載していると本当に月日の経過を早く感じます。毎週書き込みをしている訳ですが、ふっと毎週何を書いているかな?と振り返れば、あちらこちらへ出かけたり、たわいもないことを書いているのですが…、いやはや月日の経つのは兎に角早い!

来月には仲間と奈良・飛鳥の旅を計画している。グループの名前を『紫陽花の会』と名付けられている。「あじさい」と命名したわりには、変なことに六十をとっくに過ぎたジジイ達と三十代から五十代妙齢の淑女達の集まりでもある。
何処で間違った?のであろうが、もう三年程続く歴史散策の集まりでもあるのだ。

そんな紫陽花の会が飛鳥へとの希望で来月にも計画され、既に宿も決定している。そんな折、仲間のO君が宿や周辺の観光案内を取り寄せて持ってきてくれた。いつも通りO君の行動力は的を得ている!実はこうして行く前の雑談が楽しいもので、あちらこちらと行きたいところを計画するのも旅の楽しさの部分でも在るのだが。

ハイクオリティー、ローコスト、フレンドリーがモットーなこの仲間達、紫陽花の会と名付けたのはH女史。紫陽花とは全く関係のないジジイが
何故?と聞くと・・・。

女史曰く、過日或るところを走っていたら「ホテル紫陽花」があったそうだ。そのホテルはなんとカップル専門のホテル?
それにしても味わいのある名前と当初は思ったのだそうだが、いや待てよ?「紫陽花」・・・あじさいとばかり読んではいあたが、音読みすると「紫陽花・しようか」ということにはたと気付いたそうだ(笑)。そうしたホテルだけにネ!

そんな話を車中で笑い合っていたら、知らぬ間に『紫陽花の会』と云うことになってしまいました。まあ我々はこんなジジイだから「・・・しようか!」とばかり行動力を発揮!知らないことがあれば行って散策、知りたいところがあれば走って行き、行きたいところがあれば仲間引き連れぞろぞろと!
いやはやとんだ紫陽花の会となっております。

それにしてもいい仲間がそばにいてくれて楽しい人生が過ごせるというもんですね。



 2016年  9 月  26 日 


暑かった夏、お盆も過ぎてからというものどうも天候がスッキリしない!自然のことだから文句も言えないが…。云々と言ってるうちに秋の彼岸も過ぎて月日は驚くほど早く去っていくものだ。
先週はそんな頃合を計るように大和の彼岸花を楽しんだものだった。橘寺の前の彼岸花群生は特に美しいもので、聞くところに寄ればこの花の根っこには物凄い毒性があるというが…、この朱色はこの世のものとも思えぬ風合いを感じるのは私だけであろうか?

謂うまでもなく彼岸は仏教世界でのあの世、では今私達の生きている世界は?というと此岸である。あの世はこんな毒々しくも妖艶な花がいっぱい咲いているのかなぁ〜と、ふと思う年頃?でもあった。
誰であったか失念したが、中国のある禅僧は「此岸から彼岸への戯言」とこの世を言い表していたものだ。

凡夫はそんなこと無視して?スーパーでおはぎを買ってきた。否、ぼた餅と言った方がいいのか、これも失念したが春の彼岸と秋の彼岸では名前が違っていたはず・・・。
私の母はとても料理が好きで、また上手な人でもあった。そんな母が彼岸になると必ず作るのがお彼岸団子とぼた餅であった。確か米粉を湯で練っては小さな丸い団子にして蒸していたと思う。まだ砂糖が貴重な時代にもかかわらずちょっとだけ砂糖の入った団子はとても美味しかったのを覚えている。

此れがお月見に飾れば「月見団子」、笹の葉っぱで包めば五月の「笹ちまき」であったようだ。時におやつにと小さな団子を串にさして焼いては甘い醤油味の「御手洗団子」も作ってくれたことも…。

兎も角も、現在のお母さんはそんなことなど端からせず、スーパーで買うものだと思っているのだろう。甘さを控えた、そして形もお揃いできれいに作ってあるもんだ。確か母のぼた餅は不揃いであったもの・・・、そんなことを思い出しながら一つ食べてみた。


 2016年  9 月  19 日 


此のところどうも天候がスッキリとしない!秋雨前線が停滞して不順な天続くのだというが、兎に角晴れ間が少ない。台風も多いというし我が国の影響も甚だしいとも聴いている。以前なら台風一過と言って、スッキリとした晴れ間があるのだが、近年はなかなかそうはゆかない。いやはや自然とはかくも厄介なものでもある。

そうとは云っても以前から計画していた明日香万葉の旅を中止することもできず兎に角出かけてみることにした。結果的には雨に降られることもなく何とか明日香・吉野をぶらぶらと歩いてきた。

それのしてもこの辺りの観光施設は有り難い!藤原宮跡に近い奈良文化財研究所・藤原宮史跡では立派な施設でもありながら無料にして尚且つボランティアの方であろう?解説員の説明付きでもあった。マニアックな質問にも答えてくれたり、無茶な質問にも一緒に考えてくれたりと嬉しい対応でもあった。
そして明日香村の犬養万葉記念館である。犬養孝氏の私設記念館でもあるのだが、万葉集の資料に、加えて豊富な展示物を楽しむことができるようにしてあるものだ。館長と云われる女性は豊富な知識と柔和な接待に尊敬に価するものであった。勿論のことこの拝観料もなかった。もう数十年も前であろうか、テレビで知った犬養氏の人となりがそのままに館内に溢れているようで嬉しいもので、今回の一番の思い出でもあろうか。


奈良明日香の地はいたる所で秋の風情を見せて、中でも橘寺への畑道やあぜ道に咲いていた彼岸花(曼珠沙華)の群生は妖艶な雰囲気でもあった。
こんな季節ならではの花をめでながら明日香を散策できることに感慨でした。それにしても橿原、明日香、吉野、宇陀と二日間400`余りの旅は少々疲れましたか?。



 2016年  9 月  11 日 


風邪も意外と軽くすんで、この週を何とかやり過ごすことができた。健康を損なうと辛いのは何歳になっても同じで、日ごろから気をつけなければならない。


そんなことをつい忘れてしまい、久しぶりに近江の旅を楽しんできた。それでもさすがに無茶は控えて、のんびりと琵琶湖畔のホテルに泊まり古の街道を調べてみた。又湖上から大津京、唐崎、坂本、膳所、矢橋など万葉や和歌に詠われたところを見るという旅でもあった。

今回のレアーな発見は国道一号線の鈴鹿トンネル上にある旧東海道鈴鹿峠にある道標である。
そもそも鈴鹿峠にある万人講灯籠・常夜燈なる大きな石標が国道一号線鈴鹿トンネルの近くにあるのだがなかなか見付けられないのである。予ねて調べてあったところから近くを探してみると、何と老杉の下に東海道らしき道を発見!進んでみると、路傍に小さな石標も見つけることができた。

石標横には、是より京まで十七里と書いてもある。これまで近江・美濃の国境は知っていたが、近江・伊勢の国境は分かっていなかった。

当時鈴鹿峠は怖いところでもあったらしく、関宿・土山宿はその関係でとても賑わってもいたそうだ。今では登山者が歩く程度でもあろう、老杉の下薄暗い道がどこか雰囲気を保っているよう旅人が今にもひょいっと通り過ぎるようでもあった。周りを見渡すと山の周囲は一面お茶畑で長閑な風が山から降りてきていた。

古くは坂上田村麻呂の東征に、壬申の乱で戦った大海人皇子に始まり、江戸期には芭蕉翁や旅人がその道を歩いたのかと考えるだけで、ニヤニヤして楽しんでもいる。



 2016年  9 月  8 日 


ついにダウン!   大病してからもう数年となるが、風邪をひいていなかった??内心では自分でも自慢であったし、この歳の割りには元気だぞぅ〜と自惚れてもいた。

朝晩どうも過ごしやすくなったのかな…?帰宅する頃にもなると足元から秋のざわめきが聞こえた・・・と思った途端、風邪をひいてしまった。元来が低体温気味なところに38・8度という体温計を見た途端に床についてしまった
幸いにも土曜の夜だった為もあり高をくっていて、熱い風呂に入り、熱い生姜湯を飲んで、そのまま床に入った。数度下着を着替えるほど汗をかいて朝型には多少楽になったのかな?・・・と思ったのだが、いや待てよ!食欲が全くない!のに気が付いた。

それでも夕方友人Nさんが薬、僕の好きな寿司と惣菜を作って持ってきてくれたのだが手が出ない有様。やばい!明日までには体温を下げないと!とあせった。先ずは食べなきゃと無理やり寿司と筑前煮を戴き、兎に角寝る事に。

昼前まで寝ていたが、如何せん体温が37・4度とあっては少々ふらつく感じでもある。普通の方なら何とかドリンクでも飲んで頑張るのだろうが…、店に電話して休むことにして(お陰で店は休業)、迷惑をかけてしまった。

兎にも角にも、久しぶりの風邪体験に健康であることの幸せを感じた次第でもある。そんなところに待っていた8インチタブレットが届き一生懸命勉強中!旅に持って行けば今度こそ道に迷わなくていいし、万葉集を聞きながら明日香を歩けるぞ!

未だ体調は完全回復まで行ってないのだが、吉野、明日香へと気持ちは旅を楽しんでいる。




 2016年  8 月  28 日 



今年は余りお邪魔していない比叡山飯室谷長寿院へ仲間と一緒に行って来ました。長寿院地蔵堂では今月23日に地蔵盆が執り行われて、新しく提灯奉納がなされた。私も奉納させていただいたので見るのも目的でもあった。

幸いこの日は明王院護摩堂で藤波源信阿闍梨の護摩供・お加持があったので仲間と一緒に座らせていただいた。仲間達は昨年まで飯室谷の中にある松禅院にて藤波師のお護摩を受けていたので、長寿院での参加者の多さにびっくりしていたようだ。藤波師はこれまでと全くお変わりのないのであるが、如何せん多くの参詣者のお相手で忙しく立ち振る舞っておられるのが心なしかお可哀相でもある。

帰途、日吉神社への間道にある「連理の木」を見に寄って見た。
比翼連理という言葉の中にある特殊な木でもある。なかなか見ることはできないのだが、数年前であったか?日吉神社への参詣で間道を抜けているうちに発見したものである。
余りにも小さな表示でもあり、又世間では余り意識されていないという現象からなのか?仲間一同感動してくれたのはちょっと嬉しくもあった。


仲間達とこうして時折であるが散策をしているが、少しでも長く楽しい時を過ごせることを願ってもいる。数日来心なしか涼しい朝夕である。帰宅する頃には足元から秋の虫が鳴いている・・・。夏が去り秋の足音を聞くにつれて月日の早さを実感するこの頃でもある。



 2016年  8 月  21 日 


8月23日は地蔵盆である。今週大津比叡山飯室谷地蔵堂では地蔵盆が厳修され、同時に放生会が執り行われます。


地蔵菩薩は、六道(天道界・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道)に迷い込んだ私達に寄り添いより良い道へと導いて下さっていると考えます。本来仏教ではこの六道輪廻を空間的事象や死後に赴く世界ではなく、心のある状態としてとらえるものと教えます。

例えば、天道界に赴けば心の状態が天道のような状態にあり、地獄道へと赴けば心が地獄のような状態である、と云う風に解釈される。私達はいつも迷いの中で生きている、平穏な美しい世界で物事を考え慈しみのある行動をしたいものではあるが、なかなかそうとは上手くはいきません…。それでもお地蔵様(地蔵菩薩)がこうした我々凡夫を指導し、導いてくれるとものとして感謝しようというものである。

加えて私など仕事柄毎日が殺生の日々、お客様のため、仕事のためとはいいながら毎日魚を捌き、肉を調理し、野菜を料理するという生活を送っているいじょう、こうして感謝するときには心から手を合わせることは必要ですよね!
放生会とはそんな殺生している日ごろに、魚を池に放して生き物に感謝するという仏教行事である。

皆さんお気付きであるように、どちらも感謝するという仏教行事。少なくともこの飯室谷では阿闍梨さんが全ての生きとし生けるものに感謝すると云う“行”をされた方がおられるのだから。
そんな阿闍梨さんと話をしたり、接したりしているうち感謝するとこんな顔になるんだなあ〜、こんな様な考え方が生まれるんだなあ〜、こんな楽しい時間がいただけるんだなあ〜、などと思えます。

世間もやっとお盆行事が終わりつつあり、夏の風物誌花火大会も其々に終わりを告げている。加えてこの二週間はブラジル・リオのオリンピックがあって気分も高揚していたことでもあった。
2016年の夏も終わって、夜にもなると虫の鳴き声が聞こえてきたりします。しかし今夜も相変わらずの蒸し暑い夜です。深夜ともなって風がでるのを望んではいるのだが…、まだもう少し熱帯夜は続くようだ・・・

この週も無事に過ごすことができてまずは感謝です。

 2016年  8 月  16 日 


休日というのは何と早く過ぎるのでしょう…、夏の数日を休んでいたが、今年は旅を楽しむこともなく友人達や仲間達とのんびり時間を楽しむこととなった。
友人W君の定年を祝うことにかこつけて、彼を知る仲間が集まっての酒宴でもあった。まあ〜ともかく仲間が集まることは楽しいもので、話が弾む時間は誰もがいい顔を見せていた。所詮一人で生きていくことは難しいもので、こうして友人や仲間のいい顔を見ながら人生の糧として生きているのかもしれない。

こうして、時に会って健康を確かめ合いながら、明日への糧を頂き過ごすのも本当に大事なことだと思う。狭い我が家に数人が泊まってワイワイガヤガヤと騒がしいのも案外心地いいものでもある。

思いもよらない文を戴いた。と言っても、暑中見舞いではあるが。H女史からの文には心が映っていたようでもある。
昨年の十一面観音の旅、今年の万葉明日香の旅と一緒してきたのだが、ふっと旅情を彷彿とさせる挨拶文でもあった。
彼女の「ポストまでゆっくり歩いてゆくのが好きです」という一筆には不思議と癒されるのもいつもながらであった。

(かじか)鳴く 甘南備河(かんなびがわ)に かげ見えて 今か咲くらむ 山吹の花
                      
万葉の秀歌をさらっと書いてあるのが、過日旅の途中で購入されていた葉書なのだから心遣いに嬉しいものだった。
石舞台のイラストが私の気持ちを明日香へと誘うのである。




 2016年  8 月  7 日 


熱中症!聞き慣れるようになって久しい。たまさか50年というスパンの前で振り返れば、夏休みともなると一目散に神社やお寺に走ったものである。木の上では蝉が鳴き、木々の幹にはカミキリムシ、カブトムシやクワガタまで探せば暗くなるまで遊んだものだ。
翌日には、近所の友達が川遊びに誘いに来たりする。四つ手網やタモを持って走っていったものだ。川は絶好な遊び場で泳いだり、飛び込んだりとそれこそ河童顔負け?でもあった。

父の会社には海の宿があって電車で家族そろって毎年出かけたのを記憶する。海水浴場はまさに白砂青松で、朝から晩まで唇が青くなるまで泳いでいた。あの頃の両親は4人の子供をつれて帰りの電車は大変だったんだろう。

そんな毎日を過ぎれば夏の終わりともなれば全身真っ黒!で、最後の一週間は必死で日記を埋め、宿題を工作を作ったものだ。先生はそんなこと十のお見通しで・・・、それでも真っ黒な顔をみて喜んでくれていた。

此処に来てどうも夏が異常続きである。いやそうした夏になったということか。家の中にいて熱中症になるという。屋外にいて暑さの中で熱中症というのは解るが、家の中である。
老人の中には暑さ調整がうまく機能せず、家の中で体が熱くなってしまうのだそうだ。そんなことから暑い日中はクーラーをつけることにしている。余り冷たい空気が体に当たることは好きではないのだが、どうも老人ともなるとそんなことも言っておれないだろう。

休日のんびりと過ごす。洗濯や布団干しなどこういう時しかできないと・・・。来週にもお盆である。夏が終わると一年の早さが尋常でない!
夏が好きな私には今が一番楽しい!



 2016年  7 月  31 日 


過日、甘樫の丘から見た畝傍山を見たくなって早朝から出かけてみた。山裾には神武天皇を祭神とする橿原神宮があり、近くには神武天皇陵がある。

日本書紀は読んではみたものの、古代史はなかなか肌身に感じられないのが普通ではなかろうか?ただ、仮にも陵とか古墳が身近にあれば別ではある。万葉集を味わっていると、万葉人は山や川、季節の風、雲など自然の中に人間性をみたり、神を感じたりと豊かな心をもっていると思えてくる。

そうした豊かさを感じてみたいのも我々現代人の貧相なことで、夏の陽射しを充分?浴びながら飛鳥の地を回ってみることにした。体力的なこともあって電動自転車の助けを借りて、高松塚古墳、文武天皇陵、キトラ古墳、天武・持統天皇陵,等々、遠く吉野の山並みを望みながらの散策でもあった。


電車の旅は久しぶりで、窓に流れる景色は時を忘れさせます。
それにしても体力は正直で、脚力の衰えはどうにもならず筋肉の痙攣
が来ていた。熱中症だけは気をつけていたが、走り回っての足の痛みには情けなく思う。



 2016年  7 月  24 日 


深夜、窓を開けている…、季節は真夏にむかっているが涼しい風が風呂上りの体に気持ちいい!年齢のためか?熱中症に気をつけなきゃということから極力クーラーをつけているが、どうもクーラーの風が苦手な私はこうした自然の風が嬉しい。
新聞を見ると各地で夏祭り・花火大会が行われているようだ。学校も先日から夏休みに入って、家の前の公園からは子供の声が聞こえてきたりする。プールから帰りの子供は真っ黒な体で微笑ましい。
それにもまして、早朝から蝉の鳴き声がうるさい!


一人住まいをして久しいが、現代生活するにはこうもゴミに悩まされるものか…と感心しきりである。毎日の新聞、買い物からの包装紙、ネットで購入すれば驚くほどの過剰包装。部屋を掃除するにも紙の雑巾、洗濯・掃除しようにもポリ容器がでる始末。栄養摂取を考えて自炊をすれば出るパッケージに驚かせられる。便利になればなる程こうしたゴミが出てくるのだ。使い古された電化製品を処分したのだが、これとてすんなりとは廃棄できないのだ。

久しぶりにのんびりとした日曜日、朝から掃除と整理、ちょっとご無沙汰している両親の墓参へと一人住まいならではの時間が過ぎていく。夏の好きな私だが久しぶりにゆっくりと体を休めた。来週からの予定に備えて体力温存でもあるまいが…。



 2016年  7 月  18 日 


銀座と祇園は各地にあり、・・・銀座、・・・祇園祭もまた各地にある。そんな京都祇園祭へと行ってみた。

1100年程続く京都八坂神社の祭礼でもある。平安時代各地に疫病がはやり、それは祇園牛頭天王の祟りとしとして、広大な神泉苑にて、当時の国数66にちなみ、鉾をたてて祇園の神を祭ったのが始まりと伝える。

京都駅からの地下鉄は混雑しており、浴衣姿の人が意外と多く少し驚きでもあった。烏丸御池の交差点辺り、巡行の終着にも拘わらずたくさんの見物者がすでに集まっていた。
今年の祭りは,宵山・鉾巡行が週末と重なり、そして例年にない涼しい?ということで(毎年うだるような暑さということらしい)、京都という盆地独特のむっとする暑さもなく、少し拍子抜けした感じでもあった。


さすが平安時代からの文化を凝縮したという祭だが、特に山鉾や山の飾りは格別でギリシャやトルコのタペストリー、織物をはじめ絵画や刺繍にいたるまで贅を尽くした美しさが凄い!鉾の名前は忘れたが尾形光琳の杜若絵などぎょっとするものまでみえる。




翌日は私事毎年夏の行事「葛川夏安居」への参拝へ出向いた。比叡山天台密教行者の悔過をもするこの夏の行へ出向くことによって、私個人の悔過をし反省することにしている。
本来ならば行者達の夏安居の無事を見て比叡山へお帰りの見送りをするのだが、今年はあいにくと日が合わなかった。



 2016年  7 月  10 日 


今年は台風の来るのがが遅いんだそうだ! 台風一号が南の島にやってきた!それでも台風の影響という雨雲がある中友人を誘って大和へと車を走らせた。
O君とH女史は明日香や万葉集にも関心を寄せてくれて、僕の誘いに喜んで同道してくれた。相変わらずの睡眠不足でもあるが、何故か眠気が襲ってこない?という僕独特の体質?は健在でもあった。早朝家を出る頃の雨もすっかり何処へやら・・・。やはり僕は晴れ男!かなぁ〜、少なくともNO天気!ではある。

三輪山はまだ裾野を霧がおりて静かに佇んでいる。その前を走る169号線は山辺の道に沿って古墳の隙間をぬっては走る。崇神天皇陵はこの辺りでも大きなものである。箸中の信号を過ぎた頃に左折、直ぐにこんもりとした森が見える。大市墓即ち箸墓古墳(卑弥呼であろうと謂われる)へと寄り道する。ちょっと奥にはホケノ古墳の上に立つことができた。
桜井の市街が直ぐ前に広がっているのがみえる。箸墓古墳をぐるっと回って周濠からは遠く耳成山、畝傍山が見えた。
三輪山を祭神とする大神神社(おおみわじんじゃ)をも参拝しておこう。

三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情あらなむ 隠そうふべしや   額田王

車を明日香へと向けて、石舞台古墳を見学することにした。綺麗に整備された古墳は昔訪れた面影もなかったのだが…。明日香村の中心、飛鳥寺へと行く。古代の飛鳥大仏は異質な顔を見せて座している。

今回どうしても友人達に見せてあげたいところが甘樫の丘からの大和飛鳥の眺望でもあった。麓はすっかり綺麗な公園となって入り口が解らなかった。昔の残像が脳裏にあって変貌した姿に驚いた。
それでも頂上からの眺望は美しく、友人達は声をあげて喜んでくれた。目の前に大和三山が見え、今しがた見学した飛鳥寺や蘇我馬子の首塚が手にとるように見える。



 2016年  7 月  4 日 


友人O君から可愛いメールが来た!・・・・

彼の住むK市は名古屋市の隣りである。彼はそこに居を構えて数十年となるはずで、当初は新興住宅地であった。みるみる開発されて、今では周りをたくさんの住宅に囲まれて、周囲に大きなショップ・ストアーなどが立ち並びすこぶる生活環境のいい所と変貌した。加えて、彼の住まいの後ろには市最大の公園が整備されて、もう直ぐ夏の花火が開催されるところでもある。
早起きの彼は時に早朝の公園やそして朝焼けの写真を送ってくれたり、又、公園などの花の写真を送ってくれたりする。

そんな彼がこのような写真を送ってきてくれたのである。


     アメリカザリガニと可愛い孫


私の幼少(私にもあった)の頃、このアメリカザリガニをあえてマッカサー!といっていたのを思い出す。近くの池やほんの細い小川ではゴロゴロといたものだ。水が増水したとなれば網を持って走り回り母親に叱られてばかりであった。
時に四出網(よつであみ)を仕掛けて置いてドジョウがたくさん架かり魚屋さんに売ったりしていた…。

そんな光景も近年さっぱり見かけたこともなく、況やガキ共が喜び勇んで走り回っている姿なぞてんで見ることもない。
まぁそれも小川が危ないからと蓋をしめ、いや、川があっても水が汚れ、棲家もないコンクリートの岸(?)では生き物が住めるものでもない。
過日書いたものの、自然との共生とか謂って大きなイベント(博覧会)を開いたのもこの近くで在ったはず・・・。

それにしても、このお孫ちゃんは幸せだ!ザリガニを捕って手で触れたことが!忘れてならないのは子供は残酷であるということだ!時に子供は捕ったザリガニを手で半分にちぎり釣り餌としたものだ。蛙などはお尻から空気を入れて膨らませて遊んだものだ。それでも生き物の命は何処かにあると思いながら・・・。
このお孫ちゃんは身体のどこかにこの想い出をつつんで生きていくのだろう。自然との共生を肌で覚えながら、噛まれた痛みや生き物の臭い、そして生きている神秘を肌に刻んでいくのだろう。そんな幸せを近頃見ることもなくなっている。


O君はこの夏もお孫ちゃんたちに何を教えるのだろうか?確か昨年は木端で工作をしていたと思うが、暑い夏の陽の下で真っ黒になっている子供を見るのが私は好きだ!

そういえば私の住まいの側溝で息子がフナを捕まえて喜んでいたのを思い出す。可哀相だからと家で飼うことにしたのだが、その後十数年息子は飼い続けていた。そんな息子も今では子供の親でもあるが、こうして自然の中で思う存分遊ばせてやれているのか心もとない。



 2016年  6 月  26 日 


確か今週21日が夏至であったはず、名古屋では午前4時38分の日の出時刻。しかし実際には夏至の一週間ほど前が一年の中でも最も早い日の出時刻となっていて、ほぼ一分早く37分である。
そんなことから午前4時過ぎる頃には空が白み始めて、小生の寝るときにはカーテンの隙間から明るくなってくるのが分かるほど。そして、もうすでに一分遅くなって徐々に陽が短くなってくるのである。

それと共に梅雨らしくなって、雨の日が多い。それにもまして相変わらず各地では梅雨独特な集中豪雨による被害が報道されている。今年は春の熊本大地震があっただけにその後のこの地方への集中豪雨は聞くに忍びない。
雨の欲しい地域には雨が降らない!雨の降ってほしくない地域への降雨…、自然との共生と叫んだのは誰だったっけ?
私の尊敬する比叡山の僧・藤波源信千日行万満大阿闍梨は自然に生かされているといつも言われている。自然の摂理の中でしか私達は生きていくことができない筈でもある。だから、阿闍梨は常不軽菩薩行を行いとして生きとし生けるもの全てに、出会う全てのものに礼拝の行をされている。


そう謂えば、昨夜雨上がりの帰宅、深夜にもかかわらず家の近くの水場から蛙の鳴き声が凄かった。未だ近くには所々に田畑が残っており、この季節蛙の鳴き声が風物でもある。
友人O君からは季節の花の開花をメールで送信してきてくれるが、今週は梔子(くちなし)の可憐な白い花であった。

季節はいつもながらの速さで進んで、もう目の前にあの暑い夏が控えているようだ。二週間もすれば京都祇園祭でもある、今年は観に行こうかな?



 2016年  6 月  18 日 


相変わらず今年も各地で水不足なのだそうだ…、梅雨に入ってからの雨不足、加えて冬期の雪不足が理由なのらしい。
私達は昔と比べて水の消費が格段に多い!今や豊かで便利な生活は水と電気なくして保てない。梅雨空を見ながら雨の滴りを待つことにしよう。

近江湖北をのんびりと歩いてきた。今津辺りの湖岸では波除に大きな石組が築かれており、今では水位のなくなった砂浜に細波が打ち寄せている。塩津浜から敦賀へかけては深坂古道が通じて、万葉のころには紫式部、大伴家持なども越後へと通った道である。あいにくと山道の苦手な小生は少しばかり入って次回仲間と来ることにして…。

菅浦に宿をとってのんびりと湯に浸かった。部屋の窓からは正面に竹生島が浮かんでいる。奥琵琶湖の夕べは静けさが湖面に映っているようでもあった。凛とした静かな夜がつづらお菅浦にはあった。

帰宅後、大事な娘から父の日プレゼントが届いていた。いや実の娘ではないがそれ以上の娘とも謂うべきか。ありがたいことに何かと世話になっている。
そんな娘も今年から大阪に居を移し夫婦とも健康で仲良く暮らしているので寂しいのだが安心もしている。
近江の旅ともなるとあちらこちらと歩き疲れるのだが、帰宅してこんなプレゼントを見ると疲れも吹っ飛んでしまった。



手紙が同封されており、また私にとっての宝が増えた!






 2016年  6 月  12 日 


旅を楽しむ、えてして何かを観る!ともなりかねないのだが…。今回は写真に収めないことにし、旅を楽しんでみた。何の目的も持たず、ただ泊まってみたかったホテルだけを決めての旅でもある。

又、大津・京都への旅ではいつも往復のどちらかは高速道路を利用することになるのだが、今回は兎に角一般道を走ることにしたのはいいのだが…、いやはやあちらこちらで寄り道ばかりの旅となってしまった。

近江へは所謂鈴鹿の峰々を越えなければならないが、桑名から養老回りで米原へ、また桑名から彦根へと、桑名から永源寺・東近江へ、そして四日市から日野へ抜ける道、そして国道1号線回りとあるが、今回は久しぶりに四日市から御在所の山越えをし、日野市から水口へと、栗東の山道を抜けて草津へ入った。かつて来たことのある寺々を再訪しながらの近江入りでもあった。

夏至前のこの頃が一番陽の長いとき、夕方七時を過ぎても辺りはまだゆうに明るさを保っている。西大津から比叡山山中越えをして白川通りへと入るときは五時をとっくに過ぎていたのだが、京都の街中は雑多であった。満ち足りた面持ちで宝ヶ池のホテルに入ったのは夕暮れ時のころのいい時でもあった。

すぐ隣には京都議定書を作ったあの国際会議場があるので足をのばしてみた。周りはおおきな公園となっているのでとても静かで京都にいることも忘れてしまいそうであった。

翌日は八瀬秋元から大原へと向かい、大原野での蕎麦などを楽しみながら車を走らせた。国道367号線は通称さば街道とも言われ北陸若狭へと通じる道でもある。毎年伺う葛川明王院への道中でもあるが、手前大津市坊村で道を琵琶湖へとむけ堅田、そして琵琶湖大橋を渡り、湖岸道路(さざなみ街道)を米原まで琵琶湖を眺めながらの至福のときを楽しむ道程でもあった。

私にとっての旅はある種人生のご褒美じゃないだろうかとも思っている。健康で働いた結果のご褒美として残り少ない人生を楽しませていただいている。それでもまだまだ近江には入ってみたい所、味わってみたい所、感じてみたい所とたくさんあるから・・・。

 2016年  6 月  5 日 


“忙中閑あり”とまでゆかないが、一週間働いての日曜日は何かと用事もあるものだ。が、昨夜来の雨もすっかり上がって梅雨入りしたばかりの天候予報もバツの悪いことに・・・、雲間のところどころから陽の光が漏れてきた。 少し足をのばして紫陽花の花でも見ようと友人を誘って出かけてみることにする。

元来が紫陽花の花は雨の中で見るものらしく、余りの好天気では花の勢いというようなものは感じられないし、瑞々しさとをも見せていない。ただ紫陽花の群舞には堪能できて、やはり季節のものはみておくものだと一人ほくそ笑んでみた。




途中、道をはずれて農道を少しばかり走ってみる。

 水の張られた田んぼには、白鷺が数羽田螺でも啄ばんでいるのだろうか羽を休めていた。近くの水溜りの淵には可憐な杜若が見られる。少し歩くと農家の庭先にはもう秋の実りが小さな姿を見せている。自然の摂理は確実で、まだ夏も迎えていないのに、もう秋の準備にいそがしくうごいているようだ。


 2016年  5 月  29 日 



旅の余韻が身体から離れない一週間でもあった。まるで美味しい物を戴いた後のようにくり返しくり返し記憶が戻ってくるようだ。ホームページにアップしようと原稿を書くのだが、なかなかペンが進まない!本当に美味しい物を文字にするのが困難なように。

そんなことから最近夢中になっている万葉集へと逃げたという感じでしょうか?飛鳥・奈良といえば万葉の心を詠った場所が多く、足を運んでみると現実味をもって感じ取れるからいいのでしょうね。
昔購入した雑誌・書籍を引っ張り出しては、原稿を書くことに熱中した次第。旅は楽しいものですね…!


いよいよ梅雨の走りでしょうか?天候が不安定となりそうです。この国は雨の恩恵を多々受けているのですから仕方のないことですね。それにしても又何処かで災害の起こらないことを祈るばかりですね。
私の友人O君などは美濃白川の山の家へ行き、山仕事や家の整備などで汗をかいているとのメールが・・・・、羨ましいですね、止まったような時間の中で、のんびりとゆったりと野良仕事!怪我などに気をつけてくださいよ。



 2016年  5 月  22 日 

奈良の旅・万葉集を歩く


青丹よし 奈良の都は 咲く花の にほうがごとく 今盛りなりけり  小野老

“青丹よし”そんな枕詞に誘われたのだろうか、爽やかな風を心に感じたいと思いながらぶらりと出かけてみた。胴葺き瓦屋根の青は鈍い色を見せ、社の丹(朱)はあでやかさを誇っていた。法華寺より東へ東大寺転害門へかけての佐保路は貴族たちの住まいであったことから、寺へと変わっていったところで艶やかさを含んでいる。不退寺などは在原業平建立というから、その最たるところで、歌碑を観ながら万葉の風を味わうことができた。

おほかたは 月をもめでじ これぞこの つもれば人の 老いとなるもの
 在原業平



大和の神社と謂えば大神神社(おおみわじんじゃ)であろう、大物主大神(おものぬしのおおかみ)を祀り三輪山を御祭神として鎮座されている。昨年より寄る機会のなかった神社で、桜井聖林寺の十一面観音を再訪の途中に拝観することにした。
三輪山が祭神とあるだけに神域は広大で、各々の社を巡るのはとてもj体力が残っていない!狭井神社から中腹を参詣し少し見晴らしのきく高台へと上ってみた。すぐ下に桜井の町がひろがって、遠くに畝傍山・耳成山そして天の香具山の大和三山を望むことができた


春過ぎて 夏来るらし 白たへの 衣干したり 天の香具山  
                                持統天皇 


昨年来、聖林寺の十一面観音への想いがつのり、奈良へ行けば寄ろうと考えていた。この両日は結構歩いたので体的にも辛いものがあったのだが、寺の縁から眺める景色にひととき忘れさせてくれた。



 2016年  5 月  15 日 

京都一乗寺町界隈


五月の風には微塵の癖もない!山から吹き落ちる風の中には若葉の生き生きした匂いが感じられるし、風の中から鳥のさえずりがひと際美しく聞こえてきたりする。強い陽射しに柔らかな風は汗を流すほどのこともなく、健康であることを隅々までありがたく思うほどであった。

早朝から京都へと車を走らせた。途中、大津の友人K君を誘って比叡山山麓一乗町界隈の寺院を廻ってみることにした。金福寺・詩仙堂・円光寺・曼殊院・赤山禅院など天台とも関係が深く、所々に雅な風を感じての散歩でもあった。

曼殊院街道では元禄二年からの創業という漬物やさんへも寄ってみた。比叡山から回峰行者や僧侶が京都へと降りてくる。特に山王院から一乗寺の里へとおりる坂道を勅使坂とも雲母(きらら)坂ともいって厳しくも美しいと伝えられる道でもあった。


里から比叡山へとあがる僧侶たちにとって、雲母坂和老堂に憩う人々
にとって昼食のみそ漬けを賞味してこの地の風味を楽しんだという。そんなところからこの漬物を「雲母漬(きららづけ)」と言ったらしい。
まだ甘いお菓子の少なかったころ、このきつい坂道を上がる途中には
嬉しい食べ物でもあったようである。元禄二年というから1689年創業
の古い歴史を持つのだが、現在もこの店でしか買うことのできないものである。


小さな小粒大の茄子を京都の米味噌(白味噌)で漬けあげたもので、コ
クのある米味噌はあっさりとした甘みを含んでいた。茄子の食感はプリプリとして、サックサックと歯ごたえもよく白いにぎり飯がよく合うと思わせ
る。

茄子の西京味噌漬けと云わず、きらら漬けと名を認めたのには何処か風雅にも聞こえるから不思議だ。

 2016年  5 月  8 日 


先日、駐車していた車のタイヤを一本だけ盗まれた!何故だか解らないが右後輪一本だけである。一応警察を呼んで被害届を出したが、些細な事件にかかわらずその書類など手間がかかるもので警察官のご苦労がわかりましたね。

そんなこともあってか、日曜日はひさしぶりにのんびりと過ごした。天気のいいこともあってか洗濯をし、窓を開け放して部屋に風を入れることに。風呂の掃除や部屋の掃除と少しばかり汗をかいたのだが、この季節はことのほか気分がさわやかでもあった。

ここ数日来、本棚から奈良・仏像関係の本を引っ張り出しては読みふけってはいるのだけれども・・・、久しぶりに休日の午後は読書と決め込んでみた。
再来週にも奈良の旅を計画しているので、その予定をたててはみるもののなかなか決まらない。そうしたことも旅の始まりでもあって私は嫌いではない。況や、この年齢ともなれば行きたい所ばかりで、懐かしいところや未だ行っていない所と迷うばかりである。

法華寺の十一面観音もはずせないし、中宮寺の如意輪観音もはずせない。しかし聖林寺の十一面観音にも会っておきたいし、のんびりと佐保路・佐紀路も歩いてみたいし、柳生へと足を伸ばしてみたい。しばらく飛鳥の地へも足を運んでいないのだから、甘樫の丘へも上がってみたい。遠く畝傍山、天の香具山をながめられることだろう。万葉の頃を想像することも楽しいだろう。
ちょっと古寺巡礼について書いてみた。


そんな折、東京の娘Y子から電話が入った。あまり電話の得意でもない私だが、心配な娘からの電話は別でいろいろと世間話で時間があっという間に過ぎる。田舎者の私には東京の生活が理解できない。このような変化の早い現代ではなお更でのことで、都会の息苦しさが伝わってくるようでもある。

桜前線が北へ駆け抜けていくと、もう初夏のような日がやってきたりする。皐月の空は抜けるような碧さで、爽やかな風は肌に心地よく感じるものです。連休での観光客が去った後の奈良が今から楽しみでもある。




 2016年  5 月  1 日 


自然のことだから当たり前といえば当たり前であるが、天候が豹変する!もう初夏とばかりに暑い陽射しに浮かれた途端にとんでもなく寒い日が来た。北の国でも遅い雪だとばかりに縮みあがっていたりする。
自然に翻弄されている観ではあるが・・・、実はそういうことが自然だ!と後日気づかされるのだった。

時に自然はとんでもない悪戯をする!それも人が浮かれたった頃を見計らっての時ではないだろうか?一瞬にして命を奪ったり、財産を奪うのだ。ほんの数週間前に大変な自然災害がおきたのだが、世間は大型連休だとばかりに空港で海外旅行へ行く人の多さをテレビで流している。何処の新幹線も、高速道路も大変な混みようである。

そんな自然のお陰とも云えるのだが、この国は緑豊かで美しい土地を持っている。


         


友人O君が知り合いと一緒に古民家を手直しして再生させた。お言葉に甘えて仲間を連れてバーベキューで楽しむこととなった。町育ちの人間にとって山菜取りの経験などは初めてで一同も大喜び、早速天麩羅にして楽しんだ。こうして豊かな自然の中で食べることは、いつもの食欲とは違って美味しく感ずるものであると同時に、仲間が集まっての食事が一層でもある。

車で二時間ほども走った山の中は緑が美しく、流れる風も心地よい匂いを運んでくる。いつもの時間とは違う時が流れていくようでもある。古民家は手作りの風を残し、彼らの苦心の跡が楽しい!釜焼きの本格的ピザが旨い!炉辺で焼いた岩魚の香りが部屋中にただようのが懐かしい。小高い東屋では山菜天麩羅を楽しみ、自家製炭で焼くBBQはすっかりお腹を満たしてくれた。

自然は怖いものであるが、自然の中でひっそりと楽しんできたのも人間である。自然の恵みに感謝しながら、自然の中で時を過ごすのが如何に大切であるかを知らされたひと時でもあった。



 2016年  4 月 24 日 


のんびりと過ごす日曜日ではあったが、近日予定のバーベキュー打ち合わせでO君と会うこととなった。このO君がどうせ会うのなら丁度高蔵寺の天台宗円福寺が15年ぶり十一面観音ご開帳をしているので・・・とういうことで出かけることにした。
小生には縁のある寺で、15年前のご開帳の時全くの偶然でS君と会い、以来なくてはならない友となった。ご開帳初日なのか以前ほど参詣者はおらず、ゆっくりと拝観できたのは何よりではあったが。どうも奈良桜井の十一面観音を見てからというものどんな観音を見ても感動が無い!むしろ仏像を観る都度に奈良桜井に行きたくなるから厄介でもあるが・・・。

近くの蕎麦屋は混んでいた!O君指定の蕎麦屋であるが予想通り混んでいた。郊外の何でもない店ではあったが、味は上々で信州生まれの彼ならではと思ったりするほどだった。

      

バーベキューの打ち合わせも早々に・・・、小牧の大山廃寺の礎石でも見に行こうかという話になった。予想に反して小さな山ではあるが、麓の江岩寺から山へ入るのだが、石階段を400段ほども上がった所であった。足元もふらつき、息も上がった頃に伽藍跡はあったが、まだ細い山道の階段を5・60段ほど上ったところに塔礎石はあった。

所々に塔頭跡らしき礎石群が見られ、想像するにかなりの規模でもあったそうな。その年代は1200年程前らしく、比叡の僧兵に焼かれたとも伝わっているのだそうだ。麓の江岩寺にあがって住職にお話を伺ったのだが、絹本着色文殊菩薩絵や出土した瓦類を拝見することができた。
1200年前の瓦は温度が低かったためか?、厚く鈍い音がして質感の重いものでもあった。ふと奈良元興寺の行基瓦を思ったのだった。こんな近くに歴史が埋まっていたとは・・・、少し調べてみる価値があると考えながら疲れた足を引きずりながらの帰宅であった。

それにしても、O君は一歳年上ながらその足ぶり?は健脚で、いやはや参った!参った!

 2016年  4 月 17 日 


近江の秘境?

五年とおかず、又大地震が襲ってきた。声にだすことも辛い!諸行は無常である。自然の前にはなんと無力なことか!
やはり共生なぞと言ってる不遜さを知るべきか!

すこし重い気持だが、予定していた近江を回ってみた。大谷刑部吉継塚、坂田宇賀野地区の水場や一豊の母法秀院墳墓、坂田神明宮と米原の地をを散策。
あいにくと曇天ながらゆっくりと琵琶湖を眺めながら時の過ぎるのを楽しんでみた。


翌日は予報が見事に外れて?初夏を感じさせる気候でもあった。先日来願っていた惟喬親王を尋ね歩くため、多賀から山道を走って、犬上ダム湖畔に沿い筒井へ抜け、途中君ケ畑へと寄り道を楽しみ永源寺へと抜けてみました。この道は惟喬親王が多賀大君ケ畑(おおじがはた)へと足を伸ばして楽しまれたであろう通り道でもあるのです。


平安の人がこの道を通ったと思うだけで驚きであるが、誰とも通りすがりのなかった寂しい山道だけに感慨はひとしおでもあった。二年ほど前は雪とがけ崩れで通行不能であったが、改修されてなんとか抜けることができたのも嬉しい。
山中にひっそりと座している親王像は木漏れ陽のなかで今年も冬を越して安堵の顔を見せていた。


木地師たちが原木を求め、販路を求め君ケ畑から各地へと散っていったルーツが垣間見えるのだ。それは小さな産業革命のようなもので、同一規格・量産・物流から情報(人の移動)までと当時としては画期的なものとなった。

時間の許す範囲で、これからも惟喬親王を尋ねて歩き回ってみたい!




 2016年  4 月 10 日 


知多の海・万葉の旅

暖かくなりましたね・・・・  街のあちらこちらで桜花が何処からともなく舞ってきます。数日もすればすっかり葉桜となってしまうことでしょうね。

西行・業平を知ってからというもの、春に桜が咲く頃ともなるとどうも万葉集を開くことが習慣となってきたみたいでもある。桜の花を求めて京都北山へ、大原へと、そして南近江の君が畑へ走ったものである。


連日帰宅後、本棚から万葉集を出したりパソコンで古今和歌集を調べたりと楽しんでいたのだが、ふっと思いだしたことがあった。確か、私の住んでいる愛知県は、万葉集の歌からでてる筈だ!と、調べていくうちに、ちょっと知多半島を旅したくなって、暖かい春の陽のもとぶらっと散策してきた。


  桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る  
    さくらだへ たずなきわたる あゆちがた しおひにけらし たずなきわたる

  年魚市潟 潮干にけらし 知多の海に 朝漕ぐ舟も 沖に寄る      見ゆ
    あゆちがた しおひにけらし ちたのみに あさこぐふねに おきによりみゆ


                                               名古屋市南区 白豪寺 内



年魚市潟(あゆちがた)は鳴海から熱田にかけて海辺の湾入した遠浅の地形を指しているようである。万葉集には上記の歌がでている。年魚市潟は“あいち”と転じ、県名の語源となったと言う。

途中、常滑で宿ととって、翌日には知多の海を見ながら篠島へと足を伸ばしてみた。篠島は船着場から全く反対のの方面、それも一番の高台へとむかい万葉集歌碑公園まで行ったのだが・・・・、いやはや高台は坂道と石階段の連続であって、百メートル程も上がって来ただろうか?

ちなみに、万葉集は1300年ほど前に収集編纂されたもの、万の言の葉。しかしそれは王侯・貴族から宮廷歌人から地方の文官、そして民衆までと広く社会一般からの歌で成立している。それは西洋では信じられないもので、産業革命の数百年も前に彼らは同列に並べられて、丁寧に残されているということでもある。

 2016年  4 月 3 日 


先週は嫌な文章を書いてしまったので、気分を変えて桜の話にいたしましょうね(笑)。

土曜日仕事後、友人が来たので名城公園の夜桜見物へと洒落込んでみた!まだ9時と時間も早かったのか結構大勢の人が桜の下で盛り上がっていたようだ。下戸の小生にはわからないのであるが、こんな時お酒が飲めたら人生も変わるのだろうに・・・、と羨ましくもある。

昔とは変わって、今頃の酔客は品のよろしいようですね。大声で騒ぐものもいず、歌をうたって騒ぐものもいず、各々が写真をとったり、酒を酌み交わしている。夜空にライトアップされた名古屋城が浮かび上がっているという場所柄でもないのだろうが・・・?

日曜日はちょっと天候も良くなかったのだが、生家近くの岩倉市五条川へ桜を見に行ってきた。ここでも近頃は騒ぐ人も見られず、皆さん楽しくそぞろ歩きを楽しんでいた。




      




    “ 花見にと 群れつつ人の 来るのみぞ あたら桜の 科にありける ”

    “ 仏には 桜の花を たてまつれ わが後の世を 人とぶらは ”  西行法師



 2016年  3 月 27 日 


「保育園落ちた!日本死ね!」  こんな文章が問題化している。

国は一億総活躍化とか男女平等、しいては育メンとか女性社会参加!って叫んでいる。が、我が国の女性はこれまで社会参加してこなかったのだろうか?

我々の時代の母親は現在とは比にならないくらい働いていたとおもう。朝早くから仕度や朝ごはんをつくり、掃除、洗濯には今と比べようもないほど手がかかるに、母親は寸暇を惜しんで動いていた。では社会参加していなかったか?と問われれば内職や家庭参観、近所付き合いと社会を構成する活動に参加していた。ましてや家族にはなくてはならない、男には出来ないほどのある種大黒柱でもあったかも思われるほどだ。

どうも社会参加とは男と同様に働くことだという薄っぺらな人格論のようなものが見えてきはしないか。女性としてどのような生活も自由ではあるが、母親となると話は別で・・・。母親となったという自覚はとりもなおさず子供の人格を考えなければならないと思う。その上で社会参加の可能な環境を整えられた人は社会で働けばいい。

待機児童を抱えたたくさんの人が保育園の必要を訴えている。時代はそうそう簡単に応じきれるものでもなく、たとえ応じようとしても何処かリスクを負うのであって、侃侃諤諤の議論が飛び交っている。しかしその前に結婚して家族を持つということを考えなけねばいけないのでは・・・?
挙句の果てに・・・日本死ね!とはいやはや母親の言葉とも思えません?自分の子供がこれから育っていく日本ですよ!

生まれたばかりの子供を預けて働くということがいかに自分本位であるか知ることも必要ではないか。

人権とか男女平等とか、何もかもが同等にしようと考えるのは、人間をローラーにかけるような薄っぺらい平等論はいい加減にやめようではないか。又すぐ他国と比較して論議する人もいるのだが、もっと自分の国を誇りに思いなさい。

生まれたばかりの小さな子供が如何に母親の愛情や匂いが必要かもっと知らないといけない。そして子供の情操に母親が拘わらなくて教育など議論しても始まらない。ましてや子供を育てることがどんな仕事より崇高で国をなしうることはない。それは母親だけが出来る仕事で、我々男どもはただそれを手助けできるだけでもある。

私の妻も、子供が帰ってきて「ただいま!」と喜んで帰ってきた言葉に「お帰りなさい!」と言葉をかけてあげることが最も大切と言って働かなかった。(近所で少しアルバイトを・・・)その分生活は苦しいはずだが、それでも家族とはそういうものだという信念のようなものを持っていた。

結果的にではあるが、私の二人の子供は立派に育って社会に十分お役に立っているものと自負するものでもある。
云々と書いたが、いろんな面でもいま少し国民が思慮深い人間となることと考えたい。



 2016年  3 月 21 日 


湖北・菅浦の村

神仏を信じて敬い、その威徳にすがることを信仰と云う。人は何かしらを信じ敬い、その力にすがって生きてきた。

近代、科学等が発達しても人は自然の力の前においては依然と無力である。営々と築いてきた街も自然の猛威の前では唯呆然と見ているだけであったように。
それでも、古代から人は何かを信じ、何かにすがって蘇ってきた。今、そうした信仰をもった生活の匂いを感じさせる村が各地にみられる。

仲間と一緒にそんな村を訪ねてみた。西浅井大浦から葛龍尾(つづらお)半島の小さな入り江、山裾にへばりつく様な小さな村がある。湖北の中の湖北といえる菅浦の村だ。
道路もなかった昔は完全な陸の孤島ともいえるところで、人里離れたところに住む人たちはどこかに心の拠り所がほしかったのであろう。不幸な貴人に同情したのであろうか、はたまた自分たちを淳仁天皇に仕えた人の末裔と信じて真摯な態度で暮らしていた。

村の入り口近く須賀神社があり、参道はゆっくりとした坂である。氏子は今でもその鳥居の前で履物をぬいで行くという。我々は神殿前数十段で履物を変えてあがり頭を垂れた。
村をのんびりと歩いているうちに、何処か懐かしい、幼い頃に染み込んでいる想いが重なってたゆたう気持ちとなっていた。拝殿から振り返ると奥琵琶湖の水がキラキラと美しい春を見せていた。そして湖水の先には神仏が住まう竹生島の姿を見つけることができた。



“ 世の中に 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどかけらまし ”


少し足を伸ばして車をマキノ町在原 へと進めた。昨年だったか、雪が深くて見つけるのが出来なかった在原業平卿の墓を探すためであった。ここも伝承と言うから事実は分からない・・・、唯人々は信仰をもって暮らしていた。
ひっそりとした村で、途中畑仕事をしていた婦人に声をかけたが、昔から業平の墓を守っているという自尊心のうようなものを感じた。

帰路、コーヒーをいただきながら奥琵琶湖の湖面を眺めることにした。白砂青松とでもいえるような湖岸に建つホテルの窓からは目の前に海津大崎が、その向こうに小さく竹生島が見える。



少し睡眠不足ではあったが、仲間との散策は殊のほか楽しく愉快な
気持ちで回ることができる。
信仰心のある生活や奥琵琶湖の澄んだ湖水を目の前にして豊かな気持ちをいただいた散歩でもあった。



 2016年  3 月 13 日 


戦後の事実


三河湾を眺め観る景勝の三ヶ根山へ、ある墓を見に行ってきた。
人間の遺体の運命は白骨の姿において最終的には定まるものだと謂えよう。或いは、人間は白骨化を通して永遠に蘇るのだと言っていいかもしれない。
墓はそのような再生のための記念碑でもあり、生命の永遠回帰を可能とする舞台なのでもある。

そんなことから戦後進駐軍指令マッカーサー元帥は彼らの骨を渡すことを頑として拒んだのかもしれない。その墓とは東京裁判によって裁かれた者の墓、“殉国七士廟”である。


当時国際法を無視して大量殺戮兵器や無差別虐殺を行って大東亜戦争勝利を収めたアメリカ他11カ国の連合国の日本処分が東京裁判でもある。勝者が敗者を戦争犯罪者として裁き、人間の誇りをもてないような裁き方で刑場の露として消えていった人達、即ち俗にいうA級戦犯と云われる者たちの墓でもある。

土肥原賢二、松井石根、東条英機、板垣征四郎、広田弘毅、木村兵太郎、武藤章の七名の骨は遺族に渡らず、海の藻屑となるものであった。数奇な運命と出会いの中でやっと昭和35年に愛知県幡豆町三ヶ根山山頂付近に分骨・安置されたということです。


戦後処理を少し勉強してるうちに、ひょんなことから殉国七士廟のことを知って、近くにあるということから行ってみることにした。戦後問題をどうのということではなく、それは戦後事実として知って於かなければいけないと思った次第で・・。(追伸 ここは墓であって神社ではない。それは英
霊という神ではなく、人間という仏である)


廟に香を捧げていたら、偶然にも奉賛会の方が来て隠された歴史の事実なども含めていろいろと説明してくれた。
戦後生まれの小生ではあるが、先人たちの戦争が何であったかを知って於かなければいけないのではとも考える。戦争は敗者にも勝者にも全く不利益なもので、有ってはいけないものでもあるのだ。



 2016年  3 月 6 日 


奥浜名散策

雨の予報を強行しての奥浜名の寺々を巡って来ました。1012HPという低気圧じゃそんなに雨は降らないよ!と思ったとおり拝観中に少し降ったのみで、暖かい奥浜名の寺をのんびりと歩いてみた。


早朝からの東名高速道路は意外と空いていて、かつて浜松に転勤していた友人がその道路事情に驚いていた。第二東名高速道という新しい路線が開通したばかりという。それまではたくさんの人々で賑わってい
た浜名湖サービスエリアはいつも通りの美しい湖風景を見せていたが、閑散としておりあの頃の賑やかさははてさて何処へやら・・・・。

宝林寺、龍譚寺、方広寺、魔訶耶寺と廻ってみたが、仏像を観るというより花々や庭園を鑑賞してきたというほうが謂い得ている散策でもあった。
仲間との散策で一番の喜びは昼食でもあって、一人での散策は時間を忘れて歩き回るため昼食もないことが時々である。山懐の食事処で昼食をとったのだが、一同何故かキジ蕎麦ととろろご飯のセットと食欲旺盛である。やはり仲間と一緒のご飯は誰もが美味しいと思ってるのか
箸がすすむのが面白い。


所々で春の兆しを感じながら、場所によってはもう桜の花も開いて辺りを華やぎへと誘っている。さすがにこの辺りは暖かいという感じで、もうすっかり春の装いをかこっていた。

  『 春ごとの 花に心を なぐさめて  六十路あまりの 年を経にける 』

業平も春を迎えてこう詠んではいる、そして桜の美しさをその科(とが)とさえ言うのである。


 2016年  2 月 29  日 


寒い日が続きます・・・、年末年始にかけての温かさにうっかり油断したんでしょうか(笑)、二月に入ってからの寒さも殊のほか厳しさを覚えて、ついに風邪をひいてしまった。如月とは衣更着(きさらぎ)とも書くのだそうで、この月を良く表しているとは思いませんか?

そんな二月も何かあっという間に過ぎ去って、明日から三月である。そうです!私の好きな奈良の二月堂行事“修二会”がまります。この日から二週間、1300年余連綿と続く兜卒天の世界をこの世に顕現します。

そう謂えば先々週だったか?近江甲賀市土山の瀧樹(たぎ)神社境内では薄っすら紅い枝垂れ梅を見ました。枝垂れ桜は結構見るのですが、枝垂れ梅は初めてでして、それもかなり大きな梅の木だったのです。
その時は何気なしに写真だけ写して、瀧樹神社のケンケト祭りの方に興味がいってしまっているほどだったのです。


二月も半ばを過ぎていた頃であったが、今思えば片隅に凛とした梅の古木でしたのでその美しさや季節を感じる余裕もなかったのが反省です。



そして今月末にも美しく桜の花が咲く頃ともなりますね・・・・。自然は間違いもなくその足音を響かせて季節を運んでくるのです。そんな足音を聞くためにそろそろ近江散策に足を運んでみましょう。




 2016年  2 月 21  日 


義兄の三回忌があった。身内だけでしっとりとした法要である。冠婚葬祭があまり好きではない小生だが、こんな慎ましやかな法要なら故人を偲ぶに十分であると感じる。
ご仏壇の上に遺影が飾られて、その横に額に入れられた“般若心経”の文字が何か滑稽でもあるのだが・・・。


元来が浄土真宗なのだそうだが、宗祖親鸞聖人は正信偈の中で“不断煩悩得涅槃”とも言っている。不断煩悩得涅槃とは煩悩を断たずして涅槃を得られますと謂うことである。そもそも従来の仏教では煩悩は断つべくもの、即ち煩悩そのものは無であり、空であると説いていた訳で。
鎌倉仏教の先人親鸞は人間そのものを肯定することから始めたのであるから、人間だからこそ煩悩がある、しかしながらそんな煩悩をきっぱりと断つことなく壮大な智慧の世界(涅槃)へ行くことが出来ると説いたのだ。


従来の平安仏教などでは戒、律や禅などで、そもそも煩悩などは無明から始まる十二の縁起であり、経典の最集約経典である般若波羅密多心経(般若心経)では最初から五蘊(五つの感覚や識)は皆空である!と記し、以後は無、空の連続である。
そんなことから、親鸞は正信偈を記しており浄土宗・浄土真宗門徒は般若心経を読経することのないようにしている。

現代の仏教はそんな矛盾したことも多々あるのだが、知らないまま皆さん混濁しておられるのが実情ではなかろか?
それでも実際はそんなこと関係なく般若心経は読経されることが多く、面白いことに密教でも読経されるときは正直心の中で笑止している次第でもある。

法要の途中、ふっと思った次第・・・・

 2016年  2 月 14  日 


半月程ぐずついていた風邪もすっかり良くなって気分的にも体が軽くなったようでもある。宮仕えの立場から休むこともなく兎に角寝る時間をとることにしたのが功を奏したのだろう。

そうなると体が勝手に近江へと動き出すのが小生の悪癖なのだろう?琵琶湖をのんびりと見ながら過ごすことが何よりの薬とばかりに完治を求めるべく歩いてきたところです。
生憎の天候からいつもは眺めることができる叡山の嶺も雲にかすんでいた。それでも時間の経過とともに時折スッと見えたりと目まぐるしい天気の中の近江でもあった。


            
  

帰途、国道一号線からちょっと道をそれて旧東海道の町並みを行くこととした。土山宿旧街道筋を歩いたら所々にその名残で数十本の松が道の脇に残っていた。
宿場のはずれであろうか?、黄檗宗の小さな禅寺に寄ってみると面白いものを見つけた。大概は本堂前の雨受けを下から必死な顔をして支えているのであるが、この寺では何と屋根の端にちょこんと乗っていた。

小生の仲間でもある?“天邪鬼・あまのじゃく”であった。


 2016年  2 月 7  日 


ことば(言葉)というものは不思議なもの・・・、時代や環境によっても自身に関係なく変化し、また自身の思いや想い出によっても変わってくるもので。

どうも体調が思わしくもなく大事をとって一日体を休めることにした。そんな折、パソコン相手に昔日の歌を聴いてみた。
誠に便利な世の中でパソコンがあれば大抵の音源がユーチューブというコンテンツから聴くことができるから嬉しい。
好きなジャズを聴いているうちに、ふっと昔のコンサートを思い出して探してみることにした。

若い頃は無頓着にことばを感じていたが、いやはやこうして歳を重ねてくるとことばというものがキラッと光りだして来るのが何とも懐かしい。ことば選びの才能は小生になく、作詞家のそれをみて羨ましいと思うのは小生だけではないだろう。

私の好きな井上陽水の結詞 (むすびことば)という歌を一度聴いてみてください。貴方はどのような想い出が蘇ってきますか?

♪〜浅き夢 淡き恋  遠き道 蒼い空  今日を駆け巡るも 立ち止まるも 蒼き蒼き空の 下の出来事
     迷い雲 白き夏  一人旅 永き冬  春を思い出すも 忘れるも 遠き遠き道の 途中でのこと 〜♪  

私の人生もたくさんの想い出・・・遠き遠き道の 途中でのこと、ですかね。


ついでにネットサーフィンを!   私の好きなウイントン・マルサリスのテクニックと感受性は凄いですよ。

 2016年 1 月 31 日 


最近のこの寒暖差には小生の体もちょっと戸惑ったのか、少々風邪気味となった。店の若い子がクシュンクシュンと言っていたと思ったら、翌日にはこちらまでクシュンクシュンとなっていた。

早々に帰宅して即座に寝た!兎に角風邪は寝るに限ると謂わんばかりに暖かいベッドに潜り込んだ!やはり風邪気味の時は寝られるもので、普段なかなか寝付けない小生ではあるが、さすがに直ぐ寝付いたのはいうまでもない。
途中目が覚めて起きたときには少々汗をかいていたので水分補給だけは欠かさずに、すぐさま寝たのが功をそうして翌朝気分がスッキリとしていた。

休みの日であったことも幸いして、天気のいい日ではあったがのんびりと過ごすことになった。我ながらこの歳にして元気であると感心している。まだ多少体力が残っているのか?こじらせなくて助かっている。

夕方友人二人が遊びにきてくれて夕食を一緒にした。こんな時は暖かい鍋が一番ということで、豚ちり鍋とあいなった。鍋をつつきあって友人たちと鍋を食す、寒い冬にはこれ以上の贅沢はなく、色々と話をしていると何故か箸がすすむ…。

それでもこうして至福の食事をとっているとき、ふっと大阪の娘はどうかな?東京の娘はどうかな?と気になるもので、食がいかに大切であるものか感じるのである。

 2016年 1 月 25 日 


この冬一番の寒さ!という決まりきった言葉ではあるが・・・、やはり寒い!。 いや此れまで年末から年始にかけても異常なほどに暖かったのだから余計と寒さを感じるに敏感であるのかもしれない。
新年に入って近江・京都へ出かけても寒さを覚えず、ちょっと歩くと厚着した体から汗ばむほどでもあったのだが。

近年は北の地方でも大雪とはならず、中部地方の山間部でも積雪量が足らないと嘆くスキー場があると聞く。降雪機も有るにはあるが気温が下がらず使用できないという有様だそうだ。若い頃、新年を信濃のスキー場で迎えたことがあるが、民宿では大雪のため二階から出入りしたことがあるし、新雪に埋もれそうになったこともある。
大晦日新年を迎えた風景を「ゆく年くる年」という番組で各地を映すが、決まって東北などの寺がでて雪の中で除夜の鐘を鳴らすのが恒例ではあったが…。最近そんな映像見たかなあ〜?

この数日、二度ほど雪が降った。朝方まだ暗いうちカーテン越しに窓を開けてみると冷えきった空気のなかしんしんと雪が舞っていた。今朝の新聞ではどうも沖縄や奄美地方でも雪が見られたそうで、百何年ぶりとかだそうで…、人々はびっくりしたんだろうね。ニュースで沖縄那覇ではストーブが売り切れたとか言ってました。

こう寒くなると近江では、いや琵琶湖を廻れば素晴らしい雪景色が見られると気持ちが騒ぐ…。大比叡から比良山へかけて真っ白に雪化粧した美しい稜線が見られる。湖北菅浦の部落では須賀神社がひっそりと雪の中に佇み石階段だけが綺麗に箒かけしてあるのだろう、淳仁天皇その死を尊うように。
尾上水鳥公園前の湖上では渡り鳥たちがのんびりと羽を休めているだろう。沖合には竹生島が訪れる人も少なくひっそりと…。さざなみ街道沿いにある数々の舟溜まり、係留された湖舟には雪が積もりどこか寂しそうで・・・、冬の景色が脳裏をかすめてゆく・・・



 2016年 1 月 17 日 


知り合いから「よく遊んでいるね〜!」とのお言葉を頂いた。何処をみてそんな言葉が頂けたのか?とつらつら考えてみるに、この日記を見てれば・・そう考えられても仕方のないことで。
毎月のように旅に出かけているし、時間があれば何処かへ出向いているようである。我ながらよくもこんなに動いているかとちょっと感心したりしている。

そこで日頃の小生の働きぶりを垣間見て頂く事にします。とは言っても大した働きもしてはいないのですが、ちょっとくらいはお客様に喜んでいただけているのでは?と独り満足しているくらいだけですが。。。。

      

入社して二年と少し、この暮れにはこれまでにない最高売上を記録して、少し責任を果たせたかな?と思っている。それでも未だ未だ高級店とは言いにくいところがあってポテンシャルを上げていかなきゃ〜と痛感している

写真は6`の三河湾産天然とらふぐと同じくカワハギであるが、共に旬な魚で現在お刺身にお出ししているものである。
お店では基本的にフグも他の鮮魚と一緒で、活かしておりご注文のさいに直ぐ捌いてお出しするというもので、活きのいいものを召し上がっていただくというのである。

小さいカワハギなどはいいのだが、6`もの大物は裁くのにも力が必要で・・・、仕方なく若い人にまな板の上まで持ってきていただく有様です。昨年秋には二十数キロものクエという魚を調理しましたが、骨を切るのにちょっとしたノコギリを使って大変でした。

まあ、そんなこんなで格闘の日々が続いています。健康で働いて、休みの日には好きな近江の旅を楽しめたらいいですね。


 2016年 1 月 11 日 


年初めから暖かい日が続いています。即暖冬!と片付けるにはちょっと早いようにも思うが…。昨年正月の京都大谷廟墓参は大雪だったこともあり、寄り道した慈照寺銀閣向月台も雪で覆われていたが、今年の大谷廟墓参は歩いていたら汗ばむほどの陽気でもあった。
早朝から大津比叡山飯室谷長寿院・飯室明王堂への参詣と、護摩堂での藤波源信大阿闍梨の護摩供を受けに車を走らせた。毎年のことだけど、やはり護摩供と墓参へ行かなければ一年が始まらないという感じで…。

飯室はこの日何時になくたくさんの人が来ており、静寂な飯室谷もどこか華やかさを漂わせていた。長寿院住職となられた阿闍梨さんは先代酒井師の跡を継がれて飯室明王堂を護られているが、大変なこととお
察しする。この日も明王堂護摩壇には百人余の方が参詣されて、護摩木もつれて多く、護摩供は一時間程かかり

護摩供後阿闍梨さんが庫裡へと招いてくださったが、お忙しい日にお手間とらしてはと遠慮させていただき早々に、京都大谷廟へとおもむいた。
京都も街の所々に華やぎを保ち、廟の門前には新年らしく松飾りもあってまた新しい年の初めを感じさせている。何時もの商店街の花屋さんで購入した仏花を供花し、毎年のこととは云え気分は引き締まる。時間に
任せて八坂神社、円山公園、知恩院へと足を運んでみた。



 2016年 1 月 4 日 


正月三が日、例年になく暖かい日に恵まれて神社や寺の参詣に出かけられた方も多いのではないでしょうか?
いつも通り娘たちと一緒に年越しをした2016年、年越し蕎麦を食べながら、今年もいい年でありますよう願ってみました。私はここのところ数年、犬山成田山新勝寺へ初もうでへと行っております。

相変わらず近江の風を味わいたくて北琵琶湖辺りまで出かけてみました。暖かい日が続いて琵琶湖ももやっており長浜辺りでは竹生島も見られない有様で、対岸高島もはっきりと見定められないほどであった。湖岸ではあちらこちらでバス釣りであろう人々がたくさん見られた。

湖上にはたくさんのカイツブリが群れをなして翼を休めている。中にシラサギが数羽優雅に飛び交って餌を求めているようだ。冬至を過ぎたばかりのこの季節は日の入りも早く、五時前には陽も落ちてゆく。
所々の雲を払いのけるようにゆっくりと日が沈んでゆくのをじっと見つめる。対岸は高島の辺り、箱館山付近であろうか、夕陽は真っ赤に燃えるようにして沈んでいった。

今年も一年が始まる!元気に働いて少しでも皆さんの喜ぶ顔を見るべくして。




 2016年 1 月 1 日 元旦


新年明けましておめでとうございます。
本年も貴方様にとってより良き年となりますようご祈念申しております。



傳教大師最澄は『山家学生式・さんけがくしょうしき』の始めにこのように記された。
 
 “国の宝とは何物ぞ、宝とは道心なり。道心ある人を名づけて国宝と為す。故に古人いはく、径寸十枚これ国宝にあら   ず、一隅を照らす、これすなわち国宝なりと。”

道心とは仏道を体得するため修業することでしょうが、我々の社会では心を込めて仕事をすることですかね。比叡山西塔浄土院侍真僧・宮本祖豊師は小生の「12年もの間世間とを断絶して、何故ひたすら食事・看経。掃除に励むのですか?」の質問に、「それが私の仕事ですから」とだけ言われました。もう十年程も前ですが、一事に仕えると教えられました。

金銀じゃないよ!一隅を照らす人こそ国宝なんですよ・・・、では一隅を照らすとは?
所謂隅っこを照らし出すということではなく、一隅とは「居るところ」という意味ですから、その場に置いて必要な光を自らが発するようになれということです。
つまり、その状況において役立つ人間、欠く事のできない人間になれと言われているのですね。

道心とはプロセスです、それに向かっている道が大切です。一生懸命生きて「照宇一隅」を胸に健康で過ごしていきたいですね。
皆さんも一年間健やかにお過ごしください。




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