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奈良修二会 寺院建築を模した旧JR奈良駅はいかにも古都の玄関にふさわしい建物であるが、現在は利便性は良しとしても何だか無機質な駅舎となって久しい。 この奈良駅から真っすぐ春日山に向かって東進するのが三条通りで、近代的な商店街に混じって古風とでもいうのか静かな佇まいの骨董店や、奈良名物の墨とか奈良漬を商う店も散在している。小路を一歩入れば開化天皇陵が忽然とであったりするのも古色然として奈良ではのものである。 その三条通りが少し坂にかかる手前、右手に采女神社が在り、風情ある衣掛茶屋がたたずんで猿沢の池の静かな水面を眺めるのはいつも通りである。そして六道の辻を左へ52段の石磴を昇りつめると、いつの間にか興福寺の境内に立っている。 興福寺は不思議な寺で近鉄奈良駅から県庁前を通って行っても、奈良国立学物館から芝生にたむろする鹿に目を追いながら足を延ばしてもいつの間にか境内に踏み込んでいるのだ。 つまり、興福寺と奈良公園の境界が何となくはっきりしない。元来はこの辺り一帯が興福寺境内であった訳で、県庁や裁判所は子院で一乗院の敷地内であった。近年まで裁判所は一乗院の建物をそのまま使用していたが、今その建物は唐招提寺に遺され御影堂として在る。 明治初期の廃仏毀釈の嵐は寺院の多くが破却され、興福寺の住僧達も還俗されて、多くはこぞって春日大社(神官)へとはしったのである。興福寺は一時廃寺の憂き目にさえあった。しかし、今日五重塔は凛々しい姿で屹立し、北円堂、南円堂、東円堂、中金堂などと建築物が再建され、かつて栄華を誇った華厳、法相の様相を見せている。 昨夜は奈良東大寺二月堂の修二会(十一面観音悔過法要・お水取り)に参詣した(三月十日・後夜である)。内陣では連行衆に拠る悔過法要が営まれ、欄干に走る松明の明かりは、1300年の永き年月欠かさず連綿と繋いだ信仰の歴史的営みで、威厳に満ち華麗で荘厳な弥勒世界を照らしていました。 情報は突然はいってきた!あれ程判らなかったた局への入室は突然であった。連行衆の足元を照らす松明十本が二月堂の欄干を走り終えると、参詣者は一気に帰りの足へと急ぐ。この日はそんな松明の明かりを諦め、局への入室のため法華堂(三月堂)の片隅にひたすら並んでいた。 局は二月堂に三か所あり、案内された躙り口のような入り口で広さは八畳間ほどあろうか真っ暗闇である。内陣に沿うように設えらえてあり、暗闇をしきる格子戸の向こうに練行衆の所作は燈明に照らされて見える。1300年前の時間を体全身で感じる瞬間でもあった。 暖冬とはいえ若草山山麓にある伽藍は風の吹きおろしてくるところで、松明が走り終えるころには体も冷えてくる。焔の余韻に酔うかのように、夢幻な空気の漂う二月堂裏参道の石磴を此岸に連れ戻されるようで足取りもおぼつかない。東大寺大仏殿の西回廊辺りは静寂の吹き溜まりでもあるのか、神秘的なほの暗さをもって喧騒を忘れさせる時間を保っている。本坊裏手より南大門へと出れば目の前は大宮通りで、もはや冬から春への夜道に足をはこんでいた。 翌日はのんびりと宿を出て、興福寺国宝館へと足を向けてみた。天燈鬼という二尺ちょっとの小像であるが私には何か気になる仏像である。 「宝物集」によると、軽の大臣は帝の使節として唐に渡ったが、かの国の朝廷は大臣を捕らえて、ものを言えなくなる薬を与えて言葉を奪い。体に絵を描きつけ、首に灯台をうち、火をともして灯台鬼としてあつかった。子の弼の宰相にこれを伝え聞いて、泣きながら海を渡って訪ねて行く。鬼はわが子の姿に涙を流し、指を食い切ってこう書いて見せた。 “ 形 他洲を破り灯鬼と成る 争いかでか旧里に帰りこの身を寄せん ” 宰相は唐の帝にとりすがって懇願し、父をもらい受けて帰国した。軽の大臣のこの奇怪な物語には、人の哀しみ、嘆きや苦しみがあるが、今この天燈鬼像はどのように語っているのだろうか。 左掌と左肩を水平とし、その上に灯籠をささげて持つその小鬼の顔に苦しみはなく訳ありそうな哀しみの表情だけが気になる。言葉を失った天燈鬼、鬼が永遠に灯籠を捧げる運命をどのように受け止めているのか?という人間性を私は今だもって理解できない。 自己とは その2 『 仏道をならうというは、自己をならうなり。 自己をならうというは、自己をわするるなり。 自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。 万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せし むるなり。』 道元禅師は著書・正法眼蔵の中で「自己」とはかくのごとく述べている。 「自己とは何か」という問いは実にやるせない問いである。答えの出ようがない、最初から間違った問いなのに人はどうしてもそう問いたくなる。何故か、それは「自己」とは何よりも先ず「自己」という言葉だからです。 「僕」「私」「自分」…これらの言葉は誰もが使う。ところが意味するものは他の誰でもないただ一人である。あらゆる人が使うのに、何故意味するものはただ一人なのか。この「自己」なる言葉のもつ根源的な矛盾が私達に「自己とは何か」を問わせる。 「私」という普遍的な言葉が意味するものである以上、それは「ただの一人」の特殊性を直接担保している一個体としての身体を言うのではないはずだと先ず考えるのである。実際「私」「自分」という言葉は、今ここにいる固体としての「私」を指してはいない。 10年前の、20年前の私もやはり同じ「私」なのだ。では今の「私の」身体と10年前の身体が「同じ」であることはどうして分かるのか?。5年前では、昨日では、30分前では?…。やはり「自分」は身体ではない。では何か?。 心か?身体と分離可能な心があるとしたところで、事情は変らない。今の「私の」心と10年前の心が「同じ」であるとどう証明するのか?5年前は、半年前は?。 かくして、「自己とは何か」という問いの答を知ることは不可能である。これが「無常」という仏教の最重要語の意味の核心だ。だから「正法眼蔵」は「知る」とは言わない。『ならう』と言う。この違いは決定的に重要である。「真の自己を知る」ことが「己事究明」という禅語の意味なら、それは見事に見当はずれの努力で、「自己をならう」こととは全く関係ない。 そこで、「自分がいるとはどういうことか」、或いは「自分はどのように存在するのか」と問い方を変えてみる。また「自分」が言葉であることを自覚し、それが「何を意味しているか」ではなく、「どう使われているか」を考えてみる。 振り返ってみれば、一体私達はいつ「私」「自分」という言葉を覚え、どうしてそれを使うようになったか、記憶している人間はおそらくいないだろう。言葉を覚え始めた幼児は自分のことを「ぼく」だの「わたし」だのとは言わない。 他人が呼びかける名前をそのまま自称に使う。父母に「ケンちゃん」と呼ばれる幼児は、自分を「ケンちゃんはねえ」と称するだろう。それは他人からの呼びかけを鸚鵡返しにしながら、周囲の他者との関係における自分の位置や役割を学んでいるのだった。 この役割が「ケンちゃん」に結びついて安定した時、周囲の大人がみんな使っている「ボク」「オレ」「ワタシ」がこの役割を意味することに気が付いて「ケンちゃん」が「ボク」「オレ」に切り替わるのです。 そして付き合う他人の数により又果たすべき役割も増える。ちち、子、上司、部下、友人や競争相手等々、これら全部一人称に回収して、辻褄が合うように編集しなおしていくのです。 考えるべき事は「自分」という言葉が他者との関係においてしか意味を成さないということです。掘り下げて言うならば、「自分」とは他者との関係において形成される解体の行動の型、様式に付いた名称なのです。 私達は他者(人や物をも含む)との関係において考え、行動した一連の経験を、「私」という首尾一貫した行動様式に構成していく訳です。「自己をならう」という時の「自己」とは、このように解釈される行動様式としての「自己」なのです。 従って問題は、この様式としての「自己」をどう作るかということになる。自己とは何かを「知る」ことではなくて、どういう自己を作るか「ならう」のである。 「自己をならう」とは、縁起の自覚において生きることであり、仏法を基軸にして生きる主体を構成することである。それが「ならう」べき「自己」なのです。 生きる覚悟 自然災害そのものは市場や経済が資源拡大開発を通じての災害であることや、新型感染ウイルスCOVID-19が野生動物(コウモリと伝わる)から人間に感染したということも、自然開発を優先して社会に呼び込んだということだろう。 コロナ感染は私達に『死』を現前に突きつけた!、それは「解らないモノ」が持つ死への恐怖であった。そして二年程前とは想像を超えた状況変化を経験しています。 事もあろうか、この21世紀になっても侵略が行なわれ、無益で無残な殺戮が今も行なわれている。戦争には美談や英雄譚などはあるはずも無いのです。そこでは死を前にして彷徨う悲惨な姿しかありません。 それこそ私達はこの二年ほど『死』を現前にしている訳です。他人の『死』ではなく自己に連なる他者(他己)の『死』なのです。幸いにして行動の自由は緩和され、注意事項も軽微となっては来ているが依然として感染者数は多いのが実情であるが、この経験を踏まえて私達は『生』を考えるのです。『死』を考える事は結局『生』を考えることなのですから。 私達は誰一人として生まれてくる理由をしらない、そして又死ななければならない理由もわからない。端から、出生も死もそれ自体として体験できない以上正体不明な事柄に論議を持たない。 突っ放して言えば、我々の『生』や『死』には、それ自体として意味も価値も見出せないという事実である。『生『の意味や価値が生じるのは、『死『を選択できるにも関わらず、『生』を選択したときであるのだ。それ以前には何もない、決断の後に意味と価値がある。 この様な苦しく辛い困難な決断の連続が、その都度に人間として生きる意味や価値を創造し維持するものだろう。誰もが生まれ誰もが死ぬから、一人の生死の決断からくる意味は他者の生死に共有されるべきだ。 「死ぬよりつらい」や「死んだほうがまし」と思うときに、死ではなく生を選ぶ行為のみが、この世に生きる意味と価値を生み出すのだ。予め意味があって生きるのではない!死なない決断が意味を作るのである。 因みに、人生で非常に幸せな時間をもった子供は多分自殺などしないと思う。よくいじめで死んだなどと言いますが、私はそれを余り信じたくありません。元来子供は非常に残酷さや残虐性をもった生きものと思うのですね。蜻蛉の羽をむしったり、蛙や蛇、ザリガニを殺したりして遊びます。そうした非常にリアルな形で『死』と相対して『生』への対応を知り、崇高性や命の大切さを覚えて行くのです。 そんな子供の過程でその子は幸せを見たことが無いのだと思うのです。このままの状態が一生続くのなら死んだ方がましだと思うのでしょうか。という事は、それまでに一番幸せを感じやすかった時期に幸せになった事がないんじゃないでしょうか。幸せとは何だろうかと問うているのです。 それには親子関係の問題もあるとは思いますが、社会性としての問題も同時に抱かえているのでしょう。 仏像という彫刻 もともと彫刻には色彩は不要でもあったはず、彫刻とは形のものであって、色彩で見せるものではない。古い仏たちが木彫であれ、乾漆、塑像であれ、造像された当時は彩色豊かなものであった。 そうした彩色の感覚は大陸では欠くことのできない条件でもあった。けれど埴輪のような無彩色彫刻を喜んだ我が国では御仏たちから悠久の時間が色彩を奪うことを美意識にかなうものとしている。 これは彫刻の純粋性を通じて仏像の存在性を見て、さらにその奥に宇宙性をを感じとる感受性の豊さのためでもあった。 また上代の御仏たちは光彩の華やかな色彩によって絵画化され非彫刻化されてもいた。それが光背で平面化の大きな役割を勤めてもいる。あくまで芸術的な造形性のうえからの見方をすれば、彫刻には光背は邪魔な存在でもある。 けれども我々は光背を省略するに至るのだが、その為に美しさが損なわれたとは感じない。我々は光背なしに仏像をを観ることに馴れてしまった。 彫刻はただ形を刻んだものではない、それは一つの存在を造りあげることにあった。絵画の方が表現方法として遥かに自由であり、多くの可能性は持ってるだろう。けれども彫刻が我々の心をうつのは絵画では達することの出来ない存在の表現であるからだ。 それは単なる存在ではなく、人間の原点を直接に表現する意味においてである。一つの彫像が時として人間存在の全てとなり、または宇宙に相当するものとなる。絵画でもそれは不可能ではないが、非常に困難でもあろう。それは絵画が自由に任せて、存在たることの説明に力を労しすぎからである。目的ではなく、手段にエネルギーを消耗するからである。 この存在であることが仏像の表現に最も適していた。仏像が仏像であること以外の何ものでもないと同じく、彫刻も存在以外の何ものでもあろうとしない。 仏像はたえず自らの世界の中心であり、自己の世界、自己の宇宙と同じ重量を持った存在でなけねばならない。 彫刻は自らの空間をもつ、それは背景を持たなくても成立する宇宙でもある。いや、その世界性や宇宙性のゆえに、無限を遮る有限なバックがあるのは存在であることの妨げに他ならない。もしバックを持っているとしたら彫刻ではなく浮彫である。 仏像は浮彫に始まった。ストウーバや塔身、塔門等の壁面に彫刻を施した。それらは全て浮彫で彫刻との違いは、浮彫が壁面に向かってノミをふるうに対して、彫刻ははなから存在である石材や木材に向かって、その存在性を明確にするために造り出すことにある。つまりは壁面という次元から全ては発生したというにある。 しかし大陸の仏像は独立した彫刻になったときも、石の壁面を全く忘れることはなかった。それが光背であった。 光背は仏の光明を表わすと同時に、華やかな装飾性をもたせた。化仏や飛天が配されとやがて蓮華文様にする。やがて光背は光の表現にとどまらず切り取られた岸壁でもあった。 光背を造る工匠には光背だけが世界であったろう、しかし一般の人には仏像に対してあきらかに従属的なものにすぎなかった。それは光背に本質性を与えないことである。我々は光背がなくても仏像の価値は変わりないと見ている。それは光背を壁面と考えず、仏像を浮彫として受け取らないからである。 ここに一つの例として、法隆寺金堂釈迦三尊像の舟形光背をあげてみる。こお光背こそはまさに壁面の役をはたしている。単に三尊を形として、いきおいとして統一しているだけででなく、光背によって空間を遮断してしまっている。 それは通り抜けることの出来ない絶対の壁面である。力づくで通り抜けようとしたら跳ね返してしまう。それは拒絶であり、閉鎖でもあり、局限である。世界は二分され、我々はその前半分の領域だけに居住し、且つ三尊を拝むことを許される。 舟形というのがすでに閉じ込める心である。閉じ込め閉ざした中にこそ、釈迦の世界が在る。 新型ウイルスコロナ感染禍 3月4日現在新型コロナウイルス感染者情況は、感染者総数は43万6187人、現時点入院治療者数は1万2789人、感染死亡者は8117人、である。昨日の新規感染者は全国で1178人、中でも重症・重篤療養者が407人、である。 当初は未知のウイルスだった新型コロナウイルス(COVIDー19)だが、一年以上経過(2021年3月)して解かったことは『新しいタイプの風邪』だということです。 さる論文に拠れば、数年かけ或いはワクチンを打ちながら10年もすれば、ただの風邪だということになるかもしれないと発表されいるほど。 私達が普段ひいている風邪のうち15%がコロナウイルスで、感染のピーク時ともなれば30%にも達するといいます。従ってコロナゼロを目指すという話を聞きますが、我々人類は歴史上今だ風邪の根絶を為し得ていません。例年インフルエンザ罹患者は110万人ほどで、インフルエンザ直接の死亡者は3・4000人、インフルエンザから慢性疾患による死亡者は10000人ほどと云う。 つまり、感染者ゼロを目指すこと自体が無茶な言動で間違いと言っていいでしょう。因みに人類が押さえ込んでいる感染は天然痘だけである。 今後、変異体のことなど考慮しなければならないが、残念にも変異しやすく、伝播しやすいRNAウイルスでもあるから、伴って重症者は増えるが毒性が特別強かったり、致死性が高かったりする訳ではない。インフルエンザとの違いは罹患後の重症化のスピードであろう。 新型コロナウイルスばかりに目を向けていると、がんの手術が遅れたり、精神を病んでしまったりすれば、本当にすさんだ世の中になってしまう。やはり人々が幸福な人生を送れなくなる程の感染症ではないだろう。 感染対策の専門家は感染者を減らすことが第一義だし、その為に政府や分科会も頑張っている。現在は補助金等が来ているが、いずれ内部保留の減少による事業者の倒産が増える可能性がある。そうなれば失業者が増え、若者などの就職が厳しくなる。それが社会不安へと加速する。 いずれ精神を病んだり、自殺者が多くなるのも悲しいことだが、そうした現状認識をせざるを得ない。いつまでも恐れていては社会、経済は回せないということを踏まえ、緊急事態宣言は早急に解除すべき方向へシフトチェンジしなけねばならない。 医療逼迫の現状はごく一部の医療従事者しかコロナ感染者を診ていないという現状の打破など、医療依存度の高い我が国は医療崩壊すれば社会も共に崩壊の危機になる。 コロナ専門病院などに重症者を集約したのも悪くはないが、早急な医療体制整備が先決的な問題であろう。 元来、緊急事態宣言が何故出されたのか?と言えば、医療体制が重症化対策に耐えられないという判断からである。 テレビ報動は毎日の感染者数を流すが、日本の数十倍近くの感染者がでている欧米に比較すれば感染者数や死亡者を抑えられているし。また病床数にも余裕がある。 しかし残念なことに日本は医療総動員になっておらず、ごく一部の医療機関だけが頑張っているため、何とか医療崩壊を起こさずにすんでいる状態なのだ。 新型コロナウイルスは法的特別視されているから通常の4倍のマンパワーが必要とされ、一方もともと我が国は医療従事者数がそれ程多くないというのだ。 以上からコロナ対応している医療従事者は全体の2%という話もあるし、残り98パーセントのうち重症化対応できる人達を金銭的優遇してでも集めるという努力が必要でもある。そうしたことが医師会の生命線でもあろう。 先週辺りから医療従事者対象にワクチン接種が開始されているが、ワクチン供給という問題もあるが、早急にも重症化しやすい高齢者や持病者などにむけワクチン接種をすることで重症化をを避けたり、重症化による医療逼迫という一定のリスクは避けられるだろう。 思えば昨年の春にマスク等の三密対策もせず、経済優先主義をとおした欧米などは感染者数を抑えきれず度重なるロックダウンを繰り返しているし、現在もなお苦しんでいる。対して我が国のようなロックダウンなのかよく解からないことを緩くやっている国もある。 勿論のこと政府行政は給付金などで、又医療従事者の方々も体を張って頑張っているし、日本国民もこれ以上頑張れないという位、どこの国民より頑張っている。 以上俯瞰的に考えれば誰だって感染したくはない、ただ風邪のウイルスを根絶することは不可能で、ある程度は付き合っていかねばならないのだ。それこそ高齢になればどんなウイルスでも重症化は避けられず、死に至ることは考えておかねばならない。それは生きている以上は仕方がないことであるし、何であれ生きる上でリスクがゼロとうことは何処にもあり得ないことだから。 追補 3月16日、参議院予算委員会の中央公聴会にて、政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長は1都3県の緊急事態宣言が「早晩解除される」とした上で、「解除されても(感染を)ゼロには出来ない」と説明、医療体制の充実を訴えた。 同じ公聴会ではコロナ専門医の倉持氏は「大事なのは、今までの知見を基にした対策だ」と延べ、マスク着用の義務化などを(政府に)要請した。 正法眼蔵の思量底 数十年前から『正法眼蔵』に通読して思ったことは、普通の(例えば新聞や本を読む程度)読解力レベルの者がすんなりと理解できる代物ではないと解かった。数ある著者の解説書に目を通したが何かしっくり来ないのだ。そもそも道元が何のために『正法眼蔵』を書いたのか、況して誰に向けて書いたのかさえ怪しいものだ。 同じ鎌倉時代の祖師達の著書などは確かに熟読しなけねば解からないだろうが、手間取るにしても意味を感じ取ることは可能でしょう。ある老師に謂わせれば、鎌倉時代の直弟子だろうと、道元存命中や続く時代の僧侶にまともな『正法眼蔵』の注釈書を書く者が一人として現われなかったというのだ。 近年知った南直哉老師は読み手の能力不足の問題でなく、採用されている論理(ロジック)がある種異常なのだという。 例えば般若心経の冒頭部分 「観自在菩薩 行深般若波羅密多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 …」 という部分ですが、 普通に読み下せば「観自在菩薩が般若波羅密を行じる時、五蘊は皆空なりと照見して一切の苦厄を度したまえり」となるでしょう。 ところが正法眼蔵は違うのです。 「観自在菩薩の行深般若波羅密多時は、渾身の照見五蘊皆空なり」となり、私訳すると「観自在菩薩が行深般若波羅密多時であるとは、全身あげて照見五蘊皆空になっているということなのだ」となると思います。 問題は、個々の単語の意味が理解できたとしても全体として何を意味しているか、余程研究しないと解からない。使われている論理の構造が普通と少なからず違うからです。その根底には『縁起』の思想が横たわっている。 美濃加茂伊深の地、正眼僧堂の蠟月接心は大寒を前にして終了し、日頃の修行へと戻ったことであろう。それでも開淨(起床)は未だ明かりも無い底冷えの時、洗面から朝課諷経に到る頃は床板が鉄板のような冷たさをもって雲水を試しているだろう。 教養と政治 今回の新ウイルス感染問題(コロナ感染禍)の下で、政治家や知識人と謂われる方々までもこの件を『歴史的転換点』になると言っています。しかしその転換がIT社会の進展程度に考えているのなら『歴史的』の意味が違ってくるでしょう。事は資本と自然と人間の運命の問題と思えるからです。 東日本大震災とそれによる原子力発電所崩壊、そして今回のコロナ感染禍という国難に直面して我が国の政治、政治家が如何に脆弱かという事が解かった。(他国でも似たような状態と言えなくもないが、唯ドイツのメルケル首相は支持をえている。) 要は、政治と学問、或いは政治家・官僚と専門家といわれる人の関係です。この時、原発や感染症に関わる学問や専門家は政治的経済的に強く関与せざるを得ないからです。エネルギー問題と公衆衛生問題に関わるのです。 しかし専門家とはある分野に限って深掘する人達ですから、その知見自体は政治的経済的、そして社会的に大きな文脈から外れています。 その文脈を見出し当面の問題に彼等の知見を具体的に活用していくのが政治家や官僚の仕事(役目)でしょう。 「専門家会議が自ら前のめりになった」とか、「専門家会議があたかも政策決定してる印象を与えた」という様相は政治家や官僚が科学的知見を効果的に適用するだけの準備や能力を持ちえていないことを露呈した。 こうした情況は根深い問題で、専門家の知見の取り扱いの拙劣さは、根本的問題として政治家・官僚の側、特に政治家の多くに世界観や歴史観という『教養』の致命的欠落に起因しているからと思うからです。 今回のようなパンデミックには共同体や社会が潜在する構造的弱点や問題提起を一挙に表出させます。その解決にはそれまでの経過を読み、今後の展開を見通して、課題を社会的・歴史的な文脈の中に方向性を見出し行動しなければなりません。 そうした行動の方向感覚を養うのに不可欠なものが『教養』と考えるのです。資料や書類を読んでも読書の習慣が無い政治家が多く、最近の若者のように読書習慣のない各々に選ばれた議員ではいけないでしょう。 勿論のこと活字を読むばかりが教養を養うとはいえませんが、しかし思考力を養い、社会や歴史を読み、自らの価値観や世界観を確立するにはある程度の読書量は必要と言わざるをえません。 近年の政治も伝えるメディアも軽薄と感じるようなウケ狙いという行動や言葉、そして時に宗教や哲学に関心があるように振舞う。その殆んどは凡庸なアイデアを装飾するのに宗教や哲学の文言を使っているだけに過ぎません。 長期政権が終息し、新政権が発表されたこの日もテレビの報動でメディアや野党は揃ってサプライズの無い組閣だとか、女性の入閣が少ない、見飽きた顔ばかりの組閣だと映していた、損得やウケ狙いで行動する教養のない輩にしか見えないのだった。 生きる意味と価値 A L S (筋萎縮性側索硬化症)にて全身の筋肉が動かなくなってくる難病を発症した女性に薬物を投与して殺害したとして嘱託殺人の容疑で医師二人を逮捕した事件である。 女性の父親はTVのインタビュー」で複雑な思いである…、複雑とは娘の苦しみを思えばこそと同時に殺害されたという思いと伝えていた。 それでも現実に女性はSNSで医師を探し加えて金銭まで出している。安楽死という考え方が欧州では支持されている世情での事件は我々に何を考えろと問うているのでしょうか? 「生きていても仕方ない」かどうかは、生きている本人以外には決めようがありません。当人の生活条件の如何にかかわらず、第三者が口を挟む問題ではさらさらない話ですし、「仕方ない」かどうかを判断する客観的な基準など妄想に過ぎないのです。 障碍者であろうが健常者であろうが、大切にされ、受け入れられ、暖かい人間関係の中にいる人にとっては、生きていくことはおそらく満更でもないと思うのです。 障碍者であろうが健常者であろうが、邪険にされ、排除され、孤立と不安の中にいる人にとっては生きていも、仕方ないという思いもあって当然でしょう。 生きている「意味」や「価値」それ自体などは存在していません。私達は根拠もなく、理由などもなく生まれ、そうして根拠もなく、理由などもなく死んでゆくものです。 私達はもう既に生まれてきてしまったから、考えたり聞かされたりした「意味」や「価値」は要するに後付けの理屈に過ぎず、検証の仕様もないから、そこら辺の日常会話と何ら変ることもないでしょう。つまりモノは考えようだということでしょう。 と云うことは所詮我々は誰もが皆「仕方なく」生まれ出て、その生を理由もなく受容し、兎に角生まれていくのでしょう。 そして、「意味」とか「価値」は生きていくというプロセスの上で他者との縁を紡ぎつつ織り出して行くのだろうと考えてます。 自己決定でも自己責任でもなく、理由もなく課せられた「自分であること」だったとしても、あえてそれを生きる。「意味」はそこから各々に創作されていくのだと考えるのです。 これは尊敬する南直哉禅師の言葉から導き出した考え方です。 自己の互酬性 『自己・(他者から課された自己)』を受容しなければならないという理屈は何もない。それでも決断しなければならない。受容しなければ生きられないという問題があるが、それは当事者には関係ない。彼は生まれたくて生まれたのでもなく、生まれることを了解して生まれたのでもない。なのに生まれてきた以上は『自己』を背負えと言われても納得できるはずもないだろう。 ならば、『自己』は強制されざるをえず、事実としては『他者』から植え込まれる。要するに、受容は特に幼少期にソフトな強制で行なわれるしかない。押し付けられるものが大切なものだと感じさせてもらうしかない。「愛情」というのはそういう優しい強制である。 倫理という根底に親子関係があり、倫理の焦点が『自己』にあるなら、その『自己』を最初に課した、つまり彼を抱き取り命名した者との関係は致命的としか言いようがない 親の定義は『自己』を付与した責任を全面的に受ける者、特別な『他者』とも言える。極端に言えば、「愛情」なんてなくてもいい、ただ大切に育てて『自己』を課した責任を果たすべきなのだ。 子供をネグレクトする親に対する批難が「愛情の欠如」みたいなところへ行くけれど、それは根本ではない。責任を果たしていないことが問題で、つまり「親」が「親」であることをネグレクトしている、この「自己否定」こそが問題である。 逆もあって愛情が支配になり、言うことをきかせるために愛するということもある。愛情過多が実は支配の欲望かもしれないことがある。 はっきり意識されなくても、これだけ愛する以上は…、という親の態度が子供を抑圧する。時として問題行動を起こす子供の親の口からでる共通のセリフに、「お父さんお母さんもお前の為を思っていっているんだ」「あなたのことは私たちが一番良く知っているのよ」この一方的な言い方は「お前のため」が自分の欲に過ぎないかもしれない。 「分かっているが独善的な思い込みかもしれない、という反省を欠いている。その根底に支配の欲望があるからだ。 すれば、子供を愛するかどうかということと、育てなければいけないということは別である。 互酬性という問題が提起され、「愛情」の埒内では結局互酬性に縛られる。愛されたから愛する、愛した以上は言うことを聞け、と。 こうした取引にとどまる限りにおいてはそこに倫理はない。 だから一方的に責任を果たす覚悟で「愛情」の持つ互酬性を乗り越えなけねばならない。この決断が「親の倫理」でもある。 親の責任が大きすぎると困窮する人、親であることが困難を抱いている人などの場合は社会が孤立させてはいけない。親子関係を規定しているのは共同体である以上、「親」は子育ての主体ではあるが、つまり「子」に対しては全面的に責任を負うが、その「親」に対して共同体にも負うべき本来的な責任がある。 親子関係で考えたことを仏教で言うと。菩薩は衆生を「愛している」から救うのではなく、目の前の衆生を救うという行為その限りにおいて彼は菩薩として実存することができる。それは互酬性を超えるというのだから、結局「損し続ける」と決断することでもある。 仏教は「因果応酬」や「自業自得」を説いていて互酬性を前提と思われる。善行に励めばこの先いいことがある。悪いことをするとひどい目にあう。という話だが、このレベルはせいぜい道徳どまりで倫理の話ではないのだ。 ( 注・例えば道徳は社会通念での「人を殺してはいけない」ということで、倫理は「何故人を殺してはいけないのか」という根拠を問う ) そうした経過上、仏教では「善行をしろ!」と命令はできない。善行を勧める、善行をお願いする、という辺りまでで、「神」様が後ろにいるわけではないから強いことは言えない。 仏教では最終的な行き着き先の「涅槃・ニルヴァーナ」が何か分からないのだから仕方がない。しかしお互いが「自己」であり、死ぬまで「自己」として生きていかざるを得ない。ならばそこに「善」があるべきでしょう。 この難しい生きることが賭けだというこの余りにも難しい賭けいう世に「善」を望むなら我々は「自己」を受容し、また受容できるように配慮されなければならない。 「自己」であることを決断することが、常にこの世の「善」の根拠となり、「善」を生みだし続けるかはわかたない。ただ、この決断なしにこの世の「善」はありえない。 「自己」を一方的に課した「親の責任」を、また子が一方的に免除することが「自立」の核心的な意味でもある。そしてこの一方的免除によって倫理的主体として「自己」が開始される。 この免除というのは換言すれば肩代わりで、そもそも責任というのは自分の行為がある事象の原因だと「他者」に向かって宣言することで生じるもの。 だから「自己」であることの責任は、本来それを課した「親」にあるところを、あえて課せられた「子」が肩代わりしたとき「自己責任」によって「自己」になる、というわけだ。 これが「子」の側から互酬性を超える行為になる。およそ倫理的行為は互酬性を超えない限り成立しない。賭けは損得の計算でするものではない。 自己とは その1 僕は若い頃から死ぬことの不思議さが何処かにあって、時折熱を出しては何かへ彷徨っている自分があったものです。社会人となって一段落し自分の家が決まって一人静かに眠るというとき死の不思議さに苛まれていたものでした。 両親の信仰心をただ受け継いだと思い込んでいたものの、仏教書を読みふけっていくうちに本来の仏教は違うのではないか?ということにうすうす気が付いてきた。 自分が生きていること、自らの生を全体として認識できること、直接的にいえば『私は生きている』という言い方に実感できるのはまさに老いて、病んで、死ぬからです。 物をはっきりと自覚するのは、ある事柄を否定するものと直面した時である。そして区別されることで初めて事柄全体が見えてくる。 例えば、(右)はある中心線の設定により空間を分割し、(右)の部分と、(右ではない)部分を発生させない限り、(右)として意味を持たない。つまり、物を認識する為にはそれを否定するものに直面しなければ意識できないのです。老・病・死も同じく、生きていること、存在することを全体として捉えるには否定性が必要である。 仏教は自分がいることの問題性に気付いたのです。人は老いて、病んで死ぬ。其れがいつ来るか分からない、この否定性において在る。なのに人は平気な顔をして生きているのか。仏教ではこれを最初の問いとして出している。 老いが辛い、病が苦しい、死が怖いという話ではなく、老人を見ると老いを意識し、病人を見ると同情と同時に自分が病気になったら嫌だと思うし、死ぬのはもっと嫌だろう。自分は平気でいながら他人の老・病・死を戸惑い、閉口し、忌避できるのは何故かということである。 そして自分自身が老い、病み、死ぬ存在であることの自覚がなにゆえこれ程難しいのかということだ。 そもそも老・病・死を嫌だなあと思うには「老い」「病む」「死ぬ」ということを「知って」いなければならない。そして更に根本的な問題が出てきます。「老いていく」「病気になる」「死んでしまう」という変化を認識するためには変化しないものを設定しなければ不可能である。 全ての「変化」の認識は変化しない何ものかについての「変化」です。ゆえに老いる前と後を貫通する同じ「私」を設定できないなら「私は老いた」という認識は成立しない。認識できないなら老いを嫌悪することも、若いままでいたいと欲望することもできない。 つまり、一貫して変らない「私」の存在が老・病・死の苦しみの前提という訳となる。 では、この「私」はそれ自体で本当に存在するのか?その一貫性を根拠付ける何かがあるのか?という問題提起に当たる。仏教では無我・無常と言いその存在を認めません、となると仏教は「自己」という存在をどのように考えているのかということです。 私達は普通これまでも、今も、そして今後も存在する「私」を当然のように前提としています。日常では意識しないくらいでしょう。でも、この「私」それ自体の存在はどうしようにも証明できないのです。 実際には、「私」は「私(A)である」という当人の記憶と、その通りに「あなたは(A)だ」と認知してくれる他人の反応によって制作された構成物です。「私である」ことを無条件に根拠付けるものは何一つありません。 私達は他者から肉体と名前を与えられ、他者との関係から自分の位置を学び(其れを示すのは名前)、「私」として振る舞い、「私」に成るのです。すなわち、「私」は「人間」と呼ばれるものの存在の仕方、様式に過ぎません。様式だから誰もが「私」という言葉を使えるのです。 そこに本来の私「自己」という問題がある。ある種の宗教的言説は、現在の自分は駄目だけれどそれは本当の自分ではないから、ある方法で鍛錬することによって駄目な自分に内在する「本当(立派な)の自分」が出てくるというものである。 つまりは、日常生活の中で忙しさに追われ様々に付き合い、何とかやっていく為には所々に自分の役割を果たさなければならない。それは仮面を被って生きているに過ぎず、「本当の自分」は別にいるのだという思考である。 しかし、この本当の自分も認識されず、そもそも認識されたとして、其れが本当の自分だと誰が判断するのか?また本当の自分だと何故分かったのか?である。 すなわち、私達が「私」という言葉で意味している当のもの「私」と認識しているそのものはそれ自体に何の根拠持ち得ない“仮設物”なのである。 作法 臨済宗妙心寺派岐阜伊深の里正眼僧堂(正眼寺)へと足を運んだ。晩秋の境内はいつもながら静まり返って時折聞こえる版や鉦の音だけが何かの動きを知らせるのだろう美しい音となって背後の山へ、或いは目の前の竹薮の中へと消えていく。 起床から就寝にいたるまでが全て音だけによって始められるというのが禅堂ということだ。そこに会話はなく見事なまでの整いを見せて頭頂から足先にいたるまで動きの厳しさが美しさへと昇華されていくのをみせる。 同じ禅宗でも宗派が違う道元禅師は「只管打座」といった、只管(ひたすら)座るものと巷間説かれているものだが、これは「ただ座る」と言い換えてもいい、予想もつかない他己(或いは他者)の受容に意味もなく、自己の受容があるだけで決断し自己を現成することこそ座禅の実践ではあろう。 禅道場に生きている様々な様式、先輩後輩、師弟友人という人間関係そして行住座臥という身体運動、食事入浴お手洗いの日常生活全般の細部に至るまで決められた様式がある、其れは「作法」というものであり、「作法」こそが敬意という態度の具現化でもある。 我が国の茶道・華道・さらに武道など日本の文化に浸透している礼儀、作法重視の淵源には禅道場の生活様式と作法が息づいている。 世間でのマナーといえば、円滑で心地よい人間関係の調節テクニックであろう、これは日本で言うところの作法とは本質的な何かが違っている。
古来、河川は道でもあった!未だ道路・街道も整備されていなかった古代には河川を舟に乗って移動することもあって、この地方(尾張)では熱田の宿に上がった最澄他高僧たちは熱田神宮へ参詣の後、この地を流れる庄内川を遡り美濃から中山道、そして関東へと向かったと思われる。
自然の前では人は如何に無力であるかというのは人口に膾炙されたことではあったはずで、昔人はそこに神を見たものと伝承してきた。自然への畏怖感が我が国を天然の中に美的感性をもたらせてきたのではないかと思う。
日本の橋は元来が流れるように造ってあるといえば誤解を招くかとも思うが、ときに流れても差し支えないように出来ていた。海に囲まれ天候という自然の前において国が狭く山が近い我が国は流れ出る水量は想像を超えることが多く(想定外とも謂われる)、地形的に小さな河川は必然的に急流となることが多い。
従って丈夫な橋を架けると洪水を起こすということを昔人は経験的に知っており、あえて流れるべくして造られた橋を考え出したともいえるし、泰西文化から来る橋は堅牢が故に障害物の塊ともなって洪水を起こし田畑を壊滅し人口を失うことを知った。
勿論のことだが、工事に携わった技術者達が流れるのを目的に造るはずもなく、しかし流れるという覚悟はしながらも造ったということは想像がつく。それでも美しい橋を造ろうとするのは生来の美的感覚からなのだろう。日本には古い橋というものがなく橋の歴史と云うものもない。
しかし橋を描いた美術品や文学は数多く存在し、源氏物語の“宇治の橋姫”、尾形光琳の“舟橋蒔絵硯箱”、伊勢物語では“参州の八橋”などと無意識の内に残してその経てきた歴史を語って心の間隙を埋めてきていたようだ。
遡って考えれば、上代より天皇の変るごとに新しく都を造営(移築も含め)し、或いは二十年毎の神宮式年遷宮はそれに相通ずる思想と考えられ、建て替えられることに特徴と意味があろう。
日本の橋はお箸と同じもので、例えばナイフとフォークとに比べてみたら分かるといえる。使い捨ての文化は既に上古から存在し、壊れやすいという不条理なことから私たちは大切にし、果ては消えゆくものの中にその“美”を見出してきた。
橋を造るとき、その昔は人柱(人身御供)までたててその安全を願ったものでもあったのに。 母親という人格
相変わらず待機児童の問題が上がっている。政府の行動も人口増減に連動する問題だから早急とはいかない。又先般あったように(横浜など)、閑静な住宅地内での保育所・幼稚園の立地が困難なこともあいまって(世間とは往々にしてこんな勝手なものであろう)、各園少しの定員加増の応急処置にとどまっている。
メディアはどういう魂胆があるのか、こぞって「保育園落ちた!の若い方々」を報道して、ことの本質を論評しようとしない。「時代の趨勢」と言って報道だけしても一向に解決にはならない。
母親が働きたいのはなんだろう?家事だって、母親業だって働くことに違いないのだし。要は働いてお金を得て潤いのある生活がしたい、と云うことではないか?子供にもいずれ教育をつけて、いい所に住みたいし、家族揃って旅行にも行きたいし。
親側として悪くない考えでもあるようだが、ただ考えても欲しい…、生まれたばかりの子供達は何を欲しているのだろうかと。
母親の匂い、母乳や母親の腕の中と優しい言葉、其れは母親ならではの尊いものを欲するは人間以外の動物とて相違ないと思うのだが。
数年経て子供が学校にでも行けば、少なくとも会社での働きもできるだろうしし、その間の数年は子供の為に働くのは決して無駄な働きでもないだろう。
「愛する子供を安心して預けて普通に働くことがそんなに悪いことなのかと悲しい気持ちにされた」、そんな美しい言葉を簡単に言う前に今一度子供のことをもっと考えてほしい。
小学校へ入れば嫌がうえにも学校に預けるのだが…。案外にして彼等は預けるというリスクに責任を持ってもいないだろうが。
保育所・幼稚園に抽選もれしたのも人生なのです。だからと言って社会が悪い!と言うのはおかしい。否、抽選もれしたため幸いにも子供と一緒の時間がたくさん持てると考えられないだろうか?それで生活が苦しくなるかもしれないが、夫の収入で家族が一緒に暮らせればいいじゃないだろうか?誰かの犠牲で生活が潤ったところで得るものは少ないのだし。それが家族というものなんだろう。
母親としていろいろな生き方がある、しかし母親としてまず子供を一義的に考えるのは道理である。だからと言って結婚しないのも人生なのかもしれない。
大和古寺を発見したのは近代なのであって、それは明治10年に来日したアーネスト・フェノロサによって仏教美術が見直されたことによるとは人口に膾炙されている。
明治政府の神仏分離・廃仏毀釈政策は苛酷をきわめていた。その中で否応なしに古寺を近代的な眼で見る傾向や以後の教養主義は古寺を普遍的な美の一つの形としてとらえた。
日常から脱して、非日常への時間を体験させてくれるという点においては文学などとも似ていて、武者小路実篤は人間の生きる姿として人間性に訴えてくるものとして理解するほどでもあった。和辻哲郎古寺巡礼などもそうした側面をもったものであろう。
「我々が巡礼しようとするのは“美術”に対してであって、衆生救済の御仏に対してではないのである」と書いている。
一方、亀井勝一郎は自己の挫折からなのだろうか紀行文でもありながら其処に倫理性と宗教性を具えている。
大和古寺風物誌において「美術の様式論をもって仏像を鑑賞するという当世流行の態度が、一切を誤ったといえなくないだろうか。仏像は彫刻ではない、仏像は佛である」と確信していた。
仏教は単なる美的鑑賞の対象ではないとし、仏像の背後にその制作者の精神ドラマが感知されている。古寺を建てた人々はそれを鑑賞するために建てたのでもなく、謂うまでもなく信仰の対象として寺や仏像に命をかけたし、仏の微笑の裏側には、この世を地獄とみざるをえなかった苦痛がべったりと張り付いている。
それでも古代日本において仏教はあくまで外来宗教であったし、平城京は中国長安の模倣に基づく古代都市であることは知っている。奈良の都は文明開化の東京のようなものであったはず。古寺という日本的なものが実は外来文化の日本的な吸収の所産であった。
仏教というものが、文化の一つの分野となった現代において、仏教即ち文化であった時代をみるという遠近法は大変難しいものでもある。
そこでは我々が古寺の建てられた時代の心に同化することは難しい。いまやブームとなった古寺巡礼を非文明的軽薄な行動というのだろうか。
だが依然と大和古寺にひそむ根底にある偉大な力は現代を嘲笑しながらも現代を許容しているようでもある。
全部の遺体が焼けたのは、一時間半ほど経ってからだった。窯の扉が火夫によって開けられ、長い鉄のカキ棒で白骨が取り出されると、火葬場長の飛田は、七人の遺骨の一部を七つの骨壷に入れて他の場所に隠した。
ところが、この隠した骨壷は、誰かがA級戦犯を憐れんだのか、線香を供えたために、香り煙のために監視の米兵に見つかってしまった。このため骨壷は米兵の手もとへ移った。米兵は、鉄製の鉢の中へ遺骨を入れると、鉄棒のような物で上から突いて、骨を細かく砕きはじめた。それはまさに死者にムチを振る惨い行為であった。
米軍がA級戦犯の骨を砕いて、空から東京湾へ撒くという噂があった。それは日本人が英雄崇拝の対象になるのを恐れて海にばら撒くというのである。遺骨を隠すことに失敗した飛田は、内心穏やかでないあせりがあった。
骨を砕き終えた米兵は、黒い箱を七つ出して、砕いた骨を入れた。そして箱の上に1から7までの番号を書き入れた。この遺骨の入った箱は、A級戦犯の遺体を巣鴨から運んでんきた米兵が持ち去った。台の上に灰と一緒に残っていた小さな骨は、米兵の監視つきで火葬場にある共同骨捨て場に捨てるように命じられたのである。
A級戦犯の遺骨を奪う計画は。小磯国昭大将の弁護人だった三文字正平によって進められていた。三文字弁護士は、米人弁護士のブルウェットに相談し、彼を通じてGHQに処刑されたA級戦犯の遺骨を遺族たちに渡せるように嘆願していたのである。ところが、マ元帥は一向に首を振らなかったため実現はしなかった。
そこで三文字弁護士は、巣鴨プリズンにおいて処刑されたA級戦犯が、久保山で火葬されることを探りあてた。三文字は火葬場のすぐ上にある興禅寺を訪ねて住職の市川伊雄と会った。市川住職は東京裁判にも傍聴に行き、裁判の不公平さに怒りを抱く一人であった。三文字弁護士が市川住職に協力を求める説明にも熱が入った。
このA級戦犯の遺骨が米軍の手から戻されないと、国民が不公平だった東京裁判の結果を認めたことになる。彼らの命令で戦場に駆り出された三百万の英霊さえ、辱めを受けて浮かばれなくなる。市川住職も日本人として耐えがたいことだったので、三文字に協力することを引き受けた。市川住職は、火葬場長の飛田を三文字に紹介したのである。
久保山火葬場の内部に働く人の協力で、はじめはA級戦犯の遺骨を分けて隠すことができたのが、米兵の監視に見つかり失敗した。今度は、火葬場の共同骨捨て場に捨てられているA級戦犯の骨を持ち出さなくてはならない。次の新しい骨が捨てられるまでは、一応、少しは他の骨も混ざってしまったとはいえ、七人の遺骨は残っている。
これを盗み出すのは十二月二十五日の夜と決めた。米軍の監視がクリスマスで気がゆるんでいる隙に実行しようというのである。暗くなり、頃合を見計らって、三文字弁護士と市川住職は勝手知ったる飛田火葬場長の案内で火葬場の骨捨て場に忍び込んだ。
三人は米軍の監視に見つからぬように、闇夜の中で外套を頭からかぶり、身をかがめながら作業を始めた。三人は暗がりの中で音を立てないように、根気よく手探りで遺骨を探し集めた。七人の遺骨は全体の一部でありながら、大きな骨壷に一杯分を集めることができた。
火葬場から盗み取ってきた遺骨は、湿気をとるために再度焼かれた。遺骨のことが世間に漏れては米軍の咎めを受けることになる。そこで三文字の甥で、上海の戦線で戦死した三文字正輔の名前を骨壷に書いた。これを興禅寺に預けて供養することになったのが、A級戦犯として処刑された七名の秘められた供養であった。
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ESSAY Ⅱ
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