戻ります


2015年 12 月 27 日 

街を歩いていても余り感じない年の瀬、スーパーなどに買い物に寄ると店頭に正月商品の陳列をみると正月も間近だなあ~と思うこのごろでもある。
店先に高く積まれたミカンも次々に売れていく!今では玄関のしめ縄飾りや飾り餅までもが売られて、挙句の果てお節料理が並べられている。そう言えば、住宅街でも餅搗きの杵の音さえ聴かなくなったし、畳をあげたり障子を洗いながす風景も見なくなって久しい。町中が大掃除をしてる!っていう感じがしたものであったが…。

そういう訳でもないが、今年最後の休みは大掃除で終わった。例年になく徹底的にやったつもりで、これで気分も爽やかに迎えられる。
このファイルも二年半という永きに記して来ましたが、来年からはまた新しく近江爺日記を記していくことになります。振り返って見るにいろんなとこへ出かけたものと思います。病になったこともなく、健康で過ごせられたことに感謝です。
年齢的に何処か不具合が来てもおかしくないと思うが、標準的な老化現象以外はここのところないというのが自慢と言えば自慢になりますか?

来年もこうして健康に過ごすことが出来たらいいですね~!

よい年をお迎えください。


2015年 12 月 20 日 

友人からの申し出、比叡山延暦寺東塔無動寺谷明王堂へ行くこととなった。此れまで行くことのなかったというので数人を誘ってのことである。
大津の街中までは何とかもっていた天気も比叡の頂に着く頃には白いものが降ってきた。H女史は子供のように喜んでいたが・・・、老杉の間から吹きぬける風は冷たく、中腹の明王堂へと足早に向かう。
阿闍梨の護摩供をうけ、同席にて御斎(おとき)を頂き帰って来た。無動寺明王堂は帰路が急坂の上り道となるので大変辛いのであるが、堂内緊張感も結構気に入っている。

時間の余裕をみて、西塔浄土院・にない堂・釈迦堂へ、そして横川中堂・恵心院・四季講堂と廻ってみた。


今年も残すところ10日ばかり、年々師走のせわしなさも薄れて淡々と日々が過ぎ去って行くだけのようである。買い物に行くとさすがに店頭には正月関連の商品が並んではいるが、昔のそれは感じられなかった。


2015年 12 月 13 日 



例年通り、今年も渥美半島を廻って伊良湖へと行ってきた!一年のお疲れさんというか?一年の汗を流してきたとでも言うのだろうか?
それはこの時期、この場所のホテルは穴場っていうことからでもある・・・。普段とは宿泊料金が半額くらいと超お得ということか、二ヶ月も前か予約しておくというものである。

兎も角も伊良湖はかの柿本人麿や芭蕉翁もおとづれているというから古代人にも知られていたということもわかる。山の上にあるホテルからは眼下に駿河湾がひろく見渡すことができ、少し目をやると美しく弧を描いたように恋路が浜が見えて、砂浜に打ち寄せる波が白波を見せていた。

伊良湖水道を通る船舶も夕日に照らされて美しく光っている。三島由紀夫の小説“潮騒”の舞台となった神島も神々しく光っていた。雨上がりの空気は一層美しく見せていた。

大浴場、露天風呂とつかってのんびりと一年の疲れを落とすことも大事ですね!

2015年 12 月 6 日 

もう40年ほども前のことであろう・・・
こんな歌詞に共感して、声を大にして歌っていたものだった。
所謂メッセージソングというものであるが、今では聞かれなくなって久しい。
若者の特権と言えば思わゆいが…、今では先日の国会前でのラップ調の繰り返さたボキャブラリー!
振り返って思うと、いやはや言葉がありましたねえ~。

♫~♪・・

これこそがと信じてるものがこの世のあるだろうか

 信じるものがあったとしても信じない素振り

悲しい涙を流してる人は綺麗な人でしょうね

 涙をこらええて笑ってる人は綺麗なものでしょうね

♫~♪…

古い船には新しい水夫が乗り込んでいくだろう

 古い船を今動かせるのは古い水夫じゃないだろう

何故なら、古い船も新しい船のように新しい海へ出る

 古い水夫は知っているのさ、新しい海の怖さを

一体俺達の魂のふるさとは何処にあるんだろうか

 自然に帰れってということはどういうことなんだろう

誰かが言ってたぜ俺に人間として自然に生きていると

 自然に生きてるってわかるなんて、なんて不自然なんだろう

                            イメージの詩  より

ふっと古いレコードをだして聞くことになった。

携帯電話なんて無い時代だった、でも大した不自由など感じなかった。部屋にはエアコンなんて考えたこともないし、扇風機だけでも充分熟睡できていた。夏は暑いもの、冬は寒いもの、それが当たり前であった。
55CCのバイクで走り回っていた青春は、それでも幸せであった。

歳の瀬、街では綺麗なイルミネーションが・・・。そして豊かな世の中に。


2015年 11 月 29 日 

霜月も終わり今週はじめには師走へと、いよいよ今年も残り少なくなって気がせく毎日が続きます。どんなお仕事の方でもこの師走だけは何となく急かされるもので、私の仕事も忘年会とか最後の飲み会、暮れのお接待と皆さんが出かけられて忙しくなります。

天然ふぐ4㌔位の大きなものを週に2本ほどを捌きます。そして十何キロというでっかいクエという魚を捌いてお出しするなど色々と忙しくなりますね。気合をいれて頑張りましょう!

それに連れて、繁華街のネオンも華やかさを増し、メインストリートには美しく電飾されて嫌が上にも暮れの気分を高揚させる。最近では民家でも電飾が見られて、もうそんな季節なんだと…。



2015年 11 月 23 日 

近鉄室生口大野で電車を降り、、駅前の街路灯もこころなしか寂しさを隠せないように人影もまばらなバス停で室生寺行きのバスに乗り込んだ。6・7人の乗客は全てが室生寺へのお客さんである。すっかり暗くなった山道は右へ左へとカーブを切って、室生川の流れの音だけが異常に大きく聞こえてくる。

天候は思わしくなく、バスのワイパーがゆっくりとした動きをみせていた。バスから降りて川沿いに百メートルほど歩くと明るく照らされた真っ赤な太鼓橋へと出た。これを渡れば女人高野室生寺である。

奈良への旅の途中、この日から行われた室生寺紅葉ライトアップに出かけてみた。小雨の中、拝観者も少なく山門入口の御接待も手持ち無沙汰であるようだ。私は好物のおはぎときな粉餅を頂いて至極ご機嫌である。
山門から一歩はいると幻想的?な雰囲気を感じつつ綺麗な紅葉が目に入ってきた。金堂には入れなかったが、明かりは点けられて、開き戸からは少しだが覗き見られる。

十一面観音菩薩、釈迦如来の国宝、また重文の文殊菩薩、薬師如来、地蔵菩薩と五躰揃って須彌壇に立ち、照らし出された仏像がなんとも言いようのない美しさを見せていた。真っ暗な闇の中に浮かび上がる金堂、堂内に怪しく照らし出される仏像に、これだけでも来たかいが有ろうというものだった。

そぼふる雨の中、歩を進めて鎧坂を上ると、頭上に暗闇のなかで照らし出された五重塔が綺麗に輝いて見えた。石段には龍が昇っていく!この地の鎮守社室生川上流の龍穴神社の御使いであろうか。


近頃ではこころなしか秋の深まりが遅いのでは?と思うことがある。それは温暖化からなのか、暖冬からくるものか分からないが、少なくとも秋の紅葉ともなれば十一月初旬ではなかっただろうか?
昨年のブログを顧みたら湖北鶏足寺の紅葉は十一月下旬であった。

雨が上がり、天候の回復の後には冷たい北風が吹くことだろう…。いよいよ秋風から冬の冷たい風に変わってくる。もう来週には12月でもある。


2015年 11 月 15 日 

倭へ行く

国道165号線名張から室生口大野を過ぎ榛原へと入って、道路の端に小さな石標が急に目に飛び込んできた。最近読んでいた万葉の歌人“山部赤人”の墓とある。

どうしても友人に聖林寺十一面観音を見せたくて休みを利用して出かけることにしたのだが、早々に計画変更を余儀なくされた。今年三回目となる十一面観音を拝観をはじめとして、山辺の路を歩いて其々の天皇や皇女の陵を見て回る予定であったが・・・。

生来の好き者のテンションは上がってしまい、国道を逸れて山道に入ると薄暗い山道にくわえて落ち葉が一面に敷かれたようになっている。車の車輪がそれにのって少し滑り気味ではあったが幸いにも愛車は4WD、車幅もそんなにないのでずんずんと登っていった。それでも道に迷ったり、一軒家の老人に聞いたりして探しあてて行った。

宇陀市榛原額井岳の麓(とは言っても山の中ですが)、額井岳はこの地方では大和富士とも別称されるほど美しい山でもあった。山中にひっそりと佇む墓石は昨夜来の雨にぬれて土台についた苔が美しく光っている。墓石は五輪塔で鎌倉時代の作りだそうだ。


休みを利用して旅を楽しんでみた、あちらこちらと寄り道ばかりの旅でもあったがこうした予定のない旅もいいものである。




2015年 11 月 8 日 

仕事が忙し~い、いや本来の仕事が忙しいのではなく余分なやらなくてはいけないことが多々出てくる…。それだけ必要とされているという実感が嬉しいだけに、ついつい頑張ってなんとかしようと思っている。
しかし、その分気持ちは充実していて、先ごろから万葉集に興味をもって本棚から探し出して再び読み出してはいる。所々にアンダーラインや書き出し、どうかすると端っこが折り曲げてある本は昔読んだその足跡であるが、如何にも若い感覚で感じたであろと推測されるものでもあった。

私の欠点であろうが、本を大事にしてないことが今にして当時の心中があぶりだされて楽しいものでもある。本棚から古い万葉集の本を出して開けてみたが、あちらこちらに印や書き出し、書き足し、それに側線やら挙句は折り曲げも!それも小さくから大きな曲げまで…。

そんなところからは当時の感受性や想いなどが垣間見られて、いかにも若かったなと自分自身でほくそ笑んでいたりする。あれから何度も奈良を旅したり、雑知識など入ってまた違った読み方や思い入れなどが出てくるのも面白いと感じている。
再訪の可能性がある時と違い、今は二度と見ることもないかなあ~という思いで見るものは違っているようである。その最たるものが十一面観音でもあった。若い頃には美しさも解らぬ、ただ漠然と毛嫌いしていたものが何かに光を与えられたように美しいものと見えるようになったのはなんなのだろう…。

久しぶりにというか?連休をのんびりと過ごした。友人と昼ご飯を食べに出かけたくらいで、後は冬の支度とか掃除洗濯、後はゆっくり本を読んだりして過ごすことになった。
来週はまた友人を誘って十一面観音を見に出かける計画である。時節も秋真っ盛りであろう…まほろばの地はどのような美しさを持っているだろうか楽しみでもある。

おほかたは 月をも愛でじ これぞこれ つもれば人の 老いとなるもの

                            在原業平  古今集より  


ふっとこんな歌にも目がいくようになったのです。 奥近江の在原村へ業平の墓参にもいかなくちゃいけないね。



2015年 11 月 1 日 

ハロウィンなのだそうだ・・・・、どうもTDLの世代が大人になって来ているとのことだが、外国の収穫祭が渋谷で大騒ぎしたり、道頓堀へダイブしなきゃならんのか、老人の私には解らない。
何年前だったか?愛知県の高校生が留学先でのこと、ハロウィンの仮装で無闇に家を訪れて拳銃で撃たれ亡くなった事件がある。確か、家の人が仮装をみて『止まれ!』と言っているのを語学ができなかった為歩いていってしまったことだったと思うが。ハロウィンの仮装がどんな意味を持つのかも知らないで、楽しいだけでということの代償でもあった。

メディアやSNSの発達で情報は凄い時間で伝わって、事の何かも知らずにただ楽しいからとこの数年この異国の文化が拡散している。いやはや老人の硬い頭では解らない。

この数日秋らしく美しい月が見えた。我が国の収穫祭りといえば秋祭りやお月見がそうであった。田舎へいくとまだその片鱗はみかけるが、お月見の行事なんぞついぞ聞いた覚えもなく、あれだけ文化を吹聴するメディアなんぞお月見のニュースすら流してもいない。

我が国も変わってしまったもので、昔のよき風習や長閑な習俗、うるわしい慣習などがどんどん変化していくようである。いや風化しているのだろうか?僕は戦争遺産など風化してもいいと思っている。それより心までもが風化してしまうのが怖い。
断っておくが、私は国粋主義者でもなく、やたら昔がいいという頑固者でもないはずである。それにしても団塊世代の我々がそれらの原因の一つであったことも確かである。

一人静かにお月見でもしますか!
     “月々に 月見る月は 多かれど 月見る月は この月の月”


2015年 10 月 25 日 

墓参り

このところずっと晴天が続いている、いよいよ秋の陽射しが輝いて気持ちも華やいできます。意に反して朝の気温も低くなってくるそうで、体調管理に気を遣いますね。山から紅葉の便りも聞こえて湖北鶏足寺境内が真っ赤になるのもそろそろでしょうか?

過日、ふっと思いたち両親の墓参に行ってきた。両親が身罷ってすぐに実家の近くにお墓を建てたのだが・・・、なかなか思うように行けない。車を走らせれば30分とかからないのだが、いやはやこの体たらくである。
途中スーパーで仏花を買ってみるものの、これが実に楽しいもので。確かに菊は一年中有って変哲もないのだが、他の花を見て回ると季節があり、種類がいろいろで選ぶのに迷うのである。

世間では何かと薀蓄を述べてはいるが、もともと墓なんて空海以後の作り事であるし、空海も墓について書き記していないわけで・・・、後世の弟子やら勧進僧、はては商売に乗かった関係者がああだこうだと言ってるだけで、己が心の問題である。仏花は菊と決まっていたものが今では華やかな花も仏花としてとしてあげられている。また花の向きがどうのとか、挙句は墓相がどうのとかまで、とんでもないことになっている。

あのお釈迦様、ゴーダマシュッダルタは涅槃寂静に入ったとき泣き悲しむ弟子たちにこう言ったものである。『泣き悲しむこともない!己が規律に従い修行したまへ!』、その規律こそが釈迦の行動であり、言動であったはず。況やその規律の中には墓はなかった。現に奈良仏教では墓という概念もなく、東大寺の別当でさえ墓などもってない。

話はそれたが、墓地内では他に迷惑をかけない範疇で墓を守ればいいわけで、とりあえず綺麗に保つべく出かけることにしたい。車を隣の街まで走らせて50歳で亡くなった友人の墓へと向かった。私には40歳で亡くなった共に親友がおり、夭逝した彼らを心より慈しむ思いである。
比叡山飯室で戴いた香をあげた。秋の墓地に爽やかな薫香が漂う中、彼等の思いが浮かんできた。




2015年 10 月 18 日 

奈良十一面観音

天気予報に反して朝から気持ちのいい晴れであった。奈良散策は仲間7人爽やかな笑顔での再会でもある。一台に同乗し、名阪高速で天理から桜井へ向かった。

桜井の聖林寺へ向かうのだが、向かう道には崇神天皇、景行天皇、崇峻天皇の稜や古墳などがあり古代大和を偲ばせるところである。桜井へはいって三輪の神が我々を迎えてくれる。

すっかり秋の風情で、聖林寺への径はここちよい。この日も十一面観音は静かに屹立して我々を見据えそっと微笑んでくれているようだった。幸いにも我々の他に参拝客はこないようでゆっくりとお顔を観ることができた。聖林寺からは遥か遠くに三輪山が、目の下に秋の陽射しをうけた大和の里が広がっていた。仲間もなかなか去り難く感じているようで本堂をウロウロしたり、庭を回ってみたりと時を楽しんでいるようであった。






車を走らせて、中大兄皇子(天智天皇)と中臣鎌足連(藤原鎌足)談合の地、談山神社へと向かった。ここは紅葉が有名であるが、見頃は未だ未だで・・・、それでも所々にその兆しはみえていた。本殿の朱は艶やかに彩られ山懐にそっと佇んでいた。昼食を目の前のホテルで戴くことにした、確か司馬遼太郎氏著の奈良散歩に出てくるホテルである。

いつもと違って昼ご飯はホテル五階のレストラン、tちょっと奮発して季節の天ぷら定食である、丁度正面向には談山神社のシンボル十三重塔が見えてことの他景色も一品追加したようでもあった。

計画では長谷寺、室生寺へも寄る予定であったがのんびりしてしまったのか室生寺を次に回してしまったのが残念である・・・、


帰宅後、仲間たちからの喜びとお礼のメールをみて疲れが心地良いものになったのは言うまでもない。


2015年 10 月 12 日 

北国街道・木之本宿

連休をつかって小さな旅を楽しんできました。相も変わらず北近江をぶらぶらと歩いてきましたが、紅葉には少々早いのか北近江木之本の宿場町も静かではあった。
車を米原に置いて、とりあえず電車に飛び乗ってみた!しかし何時もの米原駅の雰囲気とは違っている。駅員とは違った警備員風な人がやたら多く、カメラを持った人がウロウロと歩き回っているのだ。静かな町でも歩こうと思って木之本へと足を向けてみた。
木之本駅に着いてプラットホームに降りたときにその事が解った。この季節に走らせている北びわこ号という蒸気機関車がいたのだ。近くにはEF電気機関車もいてたくさんの人達がカメラを向けている。私ももう何十年も近くで見たことがなかったのでこの風景は新鮮なものでもあった。

そんな賑わいを後にして、木之本の宿場町を歩くことにした。街道の中心地・地蔵院の門前町として栄えていたという。地蔵院には三度ほど来ているが、なかなかゆっくりと街並みを歩くこともなかった。
北国街道木之本宿はかなりの規模でもあったらしく、本陣・脇本陣などで一度に三千人ともいう行列を迎えているという。界隈(助郷)から布団をかき集めたという話などは面白いものであった。

町を歩けばいろいろと知らなかったことにも目がいったり、知らないことを耳にすることができるのが楽しい。日本で最初の薬剤師の店先には時代物の看板が掲げられていた。
「ばいどく・かさ・りんびょう・せつかち・ほねうずき・かんそうその他一切百毒を下ろす良薬なり」という店の看板には時代が映って面白いものである。

宿場の背後に大きな山々をひかえているというのでお酒や醤油など醸造業などが盛んであったらしく、街道に数軒の店があるのには驚く。北国街道も北陸に向けて木ノ芽峠など嶮峻な山を越えるためどれだけの人々が逗留したのであろうか…。
秋の陽射しはつるべ落としとも言われるほど、賎ガ岳に陽が隠れると一気に気温が下がってくるのがわかる。それにしても近江とは深いもの、湖南や湖東とは違ってこの辺まで来るとどこか静けさも違って感じるのは私だけであろうか?




2015年 10 月 4 日 

束の間の休日…っていう感じ、実際はそんなに忙しいということもないのだが色々と頼まれる仕事ができて気忙しいということだろう。考えてもみれば、誰かに頼られているということは嬉しいことでもあるが、若い頃とは違って体がいうことを聞いてくれないもどかしさのなか奮闘中というところである。
そんなところにこの頃の気候の変化もこの老体がついていかない。ちょっと体を冷やしたのか?週初めから体が重く感じていた。それでも週半ばには何もなかったようにシャキってなっているのには自分ながら健康体に感謝でもある。

もう三年ほどにもなろうか?ずっと飲んでいるサプリメントがありどうもそれが効いているようでもある。気のせいと言えばそうかもしれないが、数年来はひどい風邪もひいたこともなく過ごせているのは有難い。

    そんな訳で休みの一日のんびりと過ごすのだが、長閑に晴れわたった秋の気配を感じたくなってすぐ前の公園を歩くことにした。
大きなグランドでは軟式の草野球が始まっておりネット裏で暫く眺めていた。こんなことを言っては失礼であるが、兎に角面白い!考えられないエラーは誰も怒ることなく笑いあっているのを見ると楽しいものでもあった。
空にはいわし雲がながれて、クヌギやくすのき、桜の木立の中をのんびりと歩くのだが最早肌に感じる風に暖かさはなく、ふっと時の移ろいをみるのであった。

片隅にある子供たちの遊具がある所では楽しげな声が聞こえてくる。よちよち歩きの幼児から、元気に走り回る男の子、
おしゃまな女の子が可愛い!”私にもこんな息子や娘がいたんだなあ~と感慨深い思いでもあった。
木陰のテーブルに大きなどんぐりが秋を遊んでいた。




2015年 9 月 23 日 

娘とドライブ

数年に一度いうシルバーウイークとやら・・・、行楽地や出向く人たちでどこも混雑しているそうだ。どの日がどういう日なのか?どうして連休なのか?取ってつけたような連続休みにはかく言う年寄りには理解できない。何時からこうも休むようになったものか…。
小生の父親は55才の定年後、再就職をして70才を超してまで働いていた。それだけ毀れていたのであろう、今思うに立派な父親であった。そんな父親たちがたくさんいたものだ。林住期としてのんびり過ごすようになったのはそれから10年足らず、思えば働きどおしの人生だったのか・・・。

日曜振替のこの日、大阪に働く娘をむかえがてら近江まで車を走らせた。娘といっても実の娘ではないのだけれども陰ながらいつも小生を和ませてくれている。
早朝早く出立したので、約束の時間前に比叡山飯室の長寿院へ阿闍梨を訪ねることにした。何時もながらの笑顔で部屋に招いて頂き阿闍梨自らのお茶をいただき至福の時間を味わうことができた。阿闍梨はお忙しそうに何度も席を外されていたが、私一人のために寸暇を惜しんでお話をしていただいたのは感謝にたえないものであった。

大津の友人を誘って娘と三人で昼ご飯をいただき、少しばかりの時間を浜大津の港で過ごしてみた。ちょうどいい頃合の季節の風を感じながら、近江を一緒に楽しんで…。
帰路は琵琶湖を沿うように走る湖岸道路・さざなみ街道を米原まで走ることにした。途中彦根の松原の浜へ立ち寄って対岸比良の山へと沈みゆく夕日を娘と一緒に眺めることになった。これで多少は近江の楽しさを知ってくれるようになったののではないだろうか?

聞けば、この娘も何かと仕事の苦労も尽きず頑張っているとのこと。それでも健康で働いておられることに感謝だねえ~、っと和かな顔を見せてくれるのが今の小生の幸せかもしれない。

  

2015年 9 月 14 日 

秋の休み

久し振りの連休、幸と秋の日射しに恵まれてぶらっと海を見に行ってみた。途中少し回り道を楽しみ、のんびりと宿をとっての旅を楽しんでみることにした。

愛知県知多半島は意外と寺が多い。愛知県自体が日本一寺の多いところで、その中でも知多地方は人口における寺の密度が高いという。それは少し走ればわかるのだが、和菓子屋さんが多いということからも計り知れるというものだ。
その知多半島にはかつて弘法大師空海が上陸したということから四国八十八ヶ所巡りならぬ、知多新四国八十八ヶ所巡りという巡礼がつくられている。私もその昔、ご朱印帳片手に回ったのが記憶の片隅にある。

今回は寺は諦めて、歴史的建造物ということから半田市のレンガ造りの建物を見に寄ってみた。建物内も拝観できて、その歴史を知ることになった。国内有数のビール工場として戦前まで稼働していたという歴史的建物であった。すぐ近くには運河沿いに醸造会社の古い建物も観られて、この地方が酒や酢、醤油などの醸造で栄えていた事がわかる。

宿を早朝に出て、海を見ながら車を半島の先端へと走らせてみた。漁師町の中の小さな食堂へ入って煮魚定食を食べながら土地の雰囲気を楽しむことにした。飾りっけのない?素朴な食堂は漁師が作ったという感じの食事であった。どうも知る人ぞ知るというものらしく、6・7人のライダーが予約してたらしくぞろぞろと入ってきたのには驚きでもある。

途中、知り合いの魚屋さんへ寄ってみた。勤め先の仕入先でもある魚屋さんで大きな生簀がたくさんあり、中には伊勢海老・ハモ・平目・カンパチ・車海老・イサキ・アワビやサザエなどの魚貝類が活かされている。
早々に退散?して海岸でも歩くことにした。

波は静かでそこはかとなく気持ちのいい風が吹いてくる。遠く三河湾を眺めるとその先には三河や渥美の地がうっすらと見ることができた。若い家族連れやカップル、女の子同士などそれぞれが其々の思いで浜辺を楽しんでいた。



2015年 9 月 6 日 

『なにごとも 変はりのみゆく 世の中に 同じ影にて すめる月かな』 私の好きな西行法師の詠める歌です。

秋ともなれば夜空は澄んで、市内の街角からでも綺麗なお月様が観られます。ちょっと市内から足を伸ばせば何等星なのでしょうか?小さな星や群れをなした星くずが真っ暗なテーブルに散らしたように美しい輝きを見せてくれますよ。
昔日の友人が言ってましたが、確かこの頃にともなると肉眼であの宇宙ステーションが見られるはず。JAXAだったかホームページをみると日本上空のその軌跡が調べられますよ!、

私が見たのは深夜二時ごろだったでしょうか、東南の方向から地球に沿うようゆっくりと流れていくのを見たことがあります。公園の入口にどーんと座ってのんびりと夜空を眺めていたのですが、ただ夜回りのパトカーから警察の方が降りてきて職務質問?されましたがね・・・(笑)。

因みに現在、朝方ですが5:12に鹿児島上空を通って日本をほぼ縦断、5:17に北海道十勝沖を通ります。
宇宙航空研究開発機構(JAXA)へ一度お邪魔して見てください、明日の軌道がわかりますよ。

折角の日曜日、車を走らせて近江の地へでもと思っていました。久しくあの醒ヶ井道の駅ランチバイキングでも食べたいなぁ~と考えてましたが、昨夜来の雨が止みません!
仕方なく家での片付けものや季節の変わり目、衣更えと雑用をこなす日曜日となりました。それでも夕方には有名なケーキを持って遊びにきてくれた友人たちといろんな話に花を咲かせて楽しいひとときを過ごせたのも良かった良かった!



2015年 8 月 31 日 

葉月も終わって、もう今年も四ヶ月を残すこととなりましたね、夏が終わると月日が早く感じるというのもそんなことからくるのでしょうか…。
仕事が終わって帰路に付く途中、自宅前の公園の外柵通路に二三匹の猫がいる。勿論捨て猫である。好き好んで捨て猫になったわけでもないだろうし、捨て猫でも幸いにして暖かい家族に囲まれて過ごす羨ましい奴?もいることだろうに…。一見自由そうにみえる猫たちであるが、どうもそうは行かなくて食べ物を探さないと生きてはいけないのだろうし、いあはやこの暑さ寒さの中を生き抜いて行かなくちゃいけないのは、その寿命の短さをみても計りしれない苦労ではあるのだろう。

数日前も近くにそっと横たわっていた子猫に近づいてみた。幸いにもコンビニへ寄った帰りであったので食べ物を少しあげてみた。(近頃ではこうした猫などには餌を与えないでください!ともいうが、猫好きな私には知らん顔はできない。)
子猫の顔は街頭の電球の下でも心細く見えて、その態度は近寄ってみたいがどうもそれが出来ないらしい…。

生まれて久しいこんな子猫でも本能であろうか?危険というリスクを感じているようだ。リスクを犯してまでも食べ物の近くにはよってこない!自分の生死を生きながらにしてどこで覚えてきたのだろう…。かつて我が家に飼っていた猫は何不自由なく食べ物のありつけ、、真っ昼間腹を出して寝ていたのである。

同年?であろうこの子猫と何がどうして変わったのだろう?  ふっと子猫に教えられた気もする。世の中を生きるということはこういうことなんだ!我が国の平均寿命が永くなったと喜んでいるが、これほど苦労もなけりゃ寿命も延びる訳か。
私の両親も食べるのに苦労した、食べさせるのに苦労した、と言っていた。

自分の幸せを捨て子猫から教えてもらったような気がする。人間というものは勝手で残酷なことをする生き物であろう。





2015年 8 月 25 日 

お盆の休みも終わって一週間と経っていない、八月も終わろうとしている。公園の風景もこころなしか変わって散歩する人の多くなったような…、この夏いつもと変わらず蝉がジイーッジイー、ジジジッっと喧しく鳴いていたが、こころなしか鳴き声がか弱くなった気もする。時折カナカナーと蜩(ヒグラシ)が鳴いていたりする。もう秋な~んだ…。

仕事が終わって帰路に着く頃、何気なくふっと空を見上げる。澄みわたった夜空にゆっくりと雲が流れるのをボーっと眺めている瞬間が好きである。真夏の鬱とした風も、もう肌に気持ちのいい風にと変わっている。
この夏の出来事が私の頭の中で駆け回った!先日友人から甲子園高校野球観戦の写真をメールで拝見した。『私の葛川夏安居で夏が始まり、O君の甲子園で夏が終わるんですね…』と返信したが。

時々雲間から欠けた月が見え隠れする。臨済の僧・夢窓祖石は
 『雲晴れて のちの光と 思うなよ もとより空に 有明の月』と詠み、心理は心にある渇愛(雲)に邪魔されて本当の真理が見えていないと我々に知らしめた。

また、ある禅師はこう詠んで真理を教えてもいた。
 『心とは 如何なるものを いうやらん 墨絵にかきし 松風の音』と表現していたのである。

秋とはこうした空気の流れをいうのでしょうか・・・。
   夏から秋へのバトンは今年も知らず知らずして渡されていたのだろう。


2015年 8 月 17 日 

毎年のように夏がやってきている、60年も前だろか家の近くの小さな川で泳いだ事を思い出す。確か水は綺麗だったが、泳いでるさきにスイカやキュウリの残骸が流れていた。中学校へ入った頃にはプールで泳ぐことが楽しみであった。児童の急増で校舎が間に合わなかった団塊の世代にとってプレハブ校舎が懐かしい。プール・校舎・体育館など全てが卒業するころに竣工する歯がゆさもあった。それでも高校へ入った頃には世の中が確実に変わっていくのを肌で感じ始めていた。

それは全ての高校で言われ始めた長髪の自由化や服装の自由化などから始まる生活・思想の自由化という勝手な考え方でもあった。伴って物も溢れ出して、働けばほとんどのものが手に入ってしまうという錯覚でもあった。

幾度となく夏が去っていく。人々其々の夏が今年も去っていく。それぞれが必死に生きてきた夏、目一杯遊んできた夏、額に汗してきた夏を思いおこしてみよう。

夏になると毎年のように悲惨な戦争の話や画像を見せられる。それでもこうして戦争を知らない世代にとっても豊かな生活ができるようになった。とりもなおさず先人達の犠牲の上であることは知っているが…。
一体誰がこんなにも悲惨で苦痛な戦争を始めたのだろう!毎年のようにそれが見えてこない!その反省も見えてこない。侵略に進んだ兵士が神様だなんて言っている間、この国には隣国などの理解は得られないのだろう。それこそ戦争犠牲者がうかばれない。幾度となく悲惨な映像を見せられても、壮絶な話を聞かされても我が国の自己満足で終わってしまうことだろう。


この夏伊勢神宮にも行った。実家の墓にも行ってきた。そして過日仲間と連だって京都へ墓参に行ってきた。いよいよ自分の命も終えるだろうが、夏が来るたびに我が国の宗教心の確かさを危惧するのである。



2015年 8 月 9 日 

知られない戦争事実

この数日の間、新聞やテレビの報道から戦争体験や被爆の現場などなどじっくりと見てきた。元来こうした報道は敢えて見ないことにしていたが、団塊の世代もこの歳となって言っておかなければいけないと思い、少し考えてみた。

毎年のように時期に合わせて戦争映画がでる。戦争映画には決して美談などなく、どんなに人を助けても、どんなに世間を救ってもそれは美談ではなく、美談にしただけである。そういう下心がえてして戦争に走らせたとも言えるのに…。

外地で戦死したものは英霊として靖国神社に、内地で戦死したものは死者として千鳥が淵墓苑へと無神経な葬り方をして宗教心もあったものじゃない!外地の人々を戦争という名の下で殺した人が英霊、神様となるなんてそれが宗教というのだから、この国の宗教観など言わずもがなである。戦争で侵略された国の人々にとって、人を殺していて神様として今も崇められているなんて想像に絶すると思いませんか?

戦後、外地から逃げるように帰国してきた数百万人の中には、暴行・陵辱などで不法妊娠した数千人ともいう女たちが本土を目の前にして海に飛び込んだり、上陸後暗黙の堕胎をしたことに悲痛な叫びを覚えるものである。。
侵略して新しい国を思っていった人々に対して誰が頭を垂れたのであろうか?

今日も近江を走って所々の寺社をのぞくのだが、田舎に行けば行くほど鎮魂碑や立派な石碑などを目にする。嫌が上にも戦争の醜態な部分が見え隠れしているのである。
高速道路は高級車が走って、SAでは豊かなサービスや溢れた飲食物が売られており、私の知っている戦後だけでももの凄い発展をした今、国会の前で戦争反対!とラップしている若者や上っ面だけの年よりも興ざめでもある。

元より戦争などやりたい人は居ないはずだし、好き好んで玉の下を走り回りたい人もいないだろう。そんな戦争をしないために今何をすべきか?を知識者や我々は考えるべきと思う。

琵琶湖をみながら、暑さの下汗をしたたらせても平和なこの時間を先人に感謝であった。





2015年 7 月  26 日 

どうしたらいいのか?

暑い夏が来た!   こう言うと毎年のようにあの戦争の話へとなる。今まさしく安保関連法案が審議されて、つれて成立の運びとなると思う。

考えてもみれば我が国も今やいろんな意味でも立派な国家を形成している。60年安保時とは全てにおいて変化している訳で、国を守るという意味では他人任せには出来ない国家になったと自覚しなければならない。
考えても見れば、貧乏な小さな家であった頃なら裕福な隣の人が守ってもくれたが、同じような裕福な家となってしまった今では守ってくれとは…?もう隣の裕福な家の方にしてみれば、もう自分の家は自分で守ってくれと言いたくもなる。

私の子供の頃には家の裏には鍵などかかっていなかった…。私の田舎では全てにおいて事故や事件などまず無くて、貧しくても結構平和であったような記憶がある。我が国も勝手に世界に飛び出して経済も発達しその恩恵を受けた我々の生活も豊かになっている。
そのリスクは当然のようにあって、立派な家には鍵をかけて、町中に防犯カメラを設置しないと安心できない社会となった。それは世界も同じで、一国の不安が連鎖して何らかのか形で世界中に影響がでる社会となってもいる。


そうした世界の中で、我が国だけは戦争反対だ!戦争に加担しない!といったところで、関係なく領土に入ってくるし、領土を取られようとしている。唯一原爆被爆国だからこそ戦争に反対だ!というのなら、なぜもっと国連の場などで発言し続けたり、外交交渉に出向かないのか!

勿論世論がそれでもいい!何も不服は言いません!というなら別であるが…。国家の上空をミサイルが通っても何も言わなかった民ならば仕方もないのか。

どうしたら戦争に巻き込まれなくなるか?どうしたら国家を維持できるか?そういうところに外交があるとは思うのだが。世論は外交など全く見向きもせず、、我が地に立派な道を作ってくれる人が政治家で、外交などに力を入れようものなら何時選挙に落とされるやら…。そんな世論がワイワイ騒いでいる。そしてメディアも口を揃えてはやし立てている。

あれだけ喜んで誘致した五輪が、たかが競技場の問題で責任がどうのと擦り合っている?社会と成り下がってしまったように。
いやはや、一本筋の入った昔の頑固ジジイはいないのかねえ~


それにつけても暑い夏はやって来た!

2015年 7 月  20 日 

私の夏・天台回峰行葛川夏安居


仲間と旅に感動!する。一人だけの自由な旅とは違った思いを持ちながら、仲間と旅を楽しむことができる幸せ、友と感動を共有している!という実感に浸る。
決して豪華な旅でもない…、それでも友の幸せそうな顔が見られる。友の顔に満ちたりが浮かんでくる。これほどの喜びがあるだろうか…?


深夜12時過ぎに我が家に集合、眠気覚ましの?のコーヒーを飲んで出発、車内にはクーラーボックスを乗せて…。中には冷たくしたタオルと飲み物、途中で買い込んだオニギリを詰め込んだ。
青春の回帰でもあるようにどこか興奮気味でもあった。途中大津の友をさそった。、深夜3時というちょっと迷惑な時間でもあるが…。それは天台密教の聖地葛川での夏安居を垣間見る旅である。

前日までの台風の影響が心配でもあった。案の定、堅田から国道367号線途中の信号を過ぎたところで交通指示の警備員が車を止める。幸いにも葛川までは行けそうで、朽木の手前ががけ崩れで通行止めであった。

未だ明けやらぬ葛川坊村に着いたのは4時を少し過ぎた頃、明王谷川は激しい濁流の音が響き、明王橋からすぐを安曇川へと流れ込んで、もの凄い流れを作って自然の力を鼓舞しているようでもあった。今年の志古渕の神は何かに怒っているのだろうか?

早朝、政所の門前で知り合いの僧に出合った。彼は数年来、新行僧達の指導をする立場からかこの時にはもう声がかすれていた。彼のお声かかりで何とか明王堂下まで行くことができ、堂内の様子は理解できなかったが夏安居の雰囲気だけは感じることができた。
朝の9時になると、其々の行者が地主神社に参集して夏安居の礼を志古渕の神にいているようである。先達であられる藤波阿闍梨は我々の顔を見て、また今年も来ているな!とでも言いたげな笑顔をみせていた…。

神社入口で我々も膝まづいて頭を垂れ行者達のお加持(お数珠)を受けた。今年は幾分例年より多いなぁと思いながら、帰って行かれる行者たちの姿を見送った。今年も無事にこの見送りができた。

途中、思古渕神社、途中村の勝華寺、伊香立の融神社から新知恩寺へと足を伸ばしてみた。堅田で早い昼食をとる頃には仲間も睡眠不足から顔に疲れの色が見え隠れしていた。
それでも私はというと眠気も全くなく相変わらず近江でのテンションを保っていた。近江へ足を踏み入れるとどうもおかしくなるのが自分でも不思議でもある。
まあこんな旅を楽しんでおられるのなら一昼夜位は眠ろうという意識はなく遊んでおられるのが私の特技でもある…。





2015年 7 月  12 日 

伊勢神宮


数日来、所謂名古屋の夏と云われる蒸し暑い日が続いている。どうも仕舞い梅雨と云われる頃の現象でもあるのだそうだが…。元来クーラーの冷気が嫌いな小生は昔からの扇風機を回して何とかしのいではいるが。

数年前から思いのどこかに引っかかっていた伊勢神宮であるが、連休前に思い立って行ってくることにした。寺の経過などは少なからずも勉強して入るのだが、如何せん神道はどうも理解し難く遠退けていた節もあるのだ。
それでも古代神道には寺の勉強していれば避けても通れず、調べたりとはしていたのだが…。


『なにごとの おはしますをば しらねども かたじけなさに なみだこぼるる』


京都御所「北面の武士」を退いて出家した西行は吉野に潜んで三年後、旅の途中に神宮伊勢に寄ったのでした。神道のことはよくは知らないけれど、神道の神の気配を感じ取ったのでしょう。
神奈備(かむなび)た神秘の杜の中で深い感動と静寂のなか、凛として目に見えない、耳にもしない何か得体のしれない不可思議な力に強く胸を打たれたことかもしれない。

神宮(伊勢神宮の正式名称)とはそういったところなのでしょうか…、当時は現在とはうって変わって静かで厳粛なところであったでしょう。遷宮も終わっているのに土曜日ということであったのか、かなりの参拝者で混んでいた。
現代はおはらい町という飲食・お土産さんの集まった通りが目的の方も多いようでして、駐車場も満車で、乗合バスは勿論のこと乗客でいっぱいでした。




2015年 7 月  5 日 

中国の若者

最近、日曜日と云えども店に顔を出すことが多い!私なりには頑張ってようやく日本料理店らしくなってきたと思うのだが、つれてなかなか人が育たない。まあ近年の飲食店経営などは育てるというのはなかなか手が回らないのが現状で…。
それでも店を永く続けるというのは、人の育成に限る問題であることには変わりないのだが。

私の店に中国人の若者が一緒に働いている、ただ大学生のアルバイトであるが。今時の我が国の若者とは違って?一生懸命よく働く若者でもある。先日も楊ちゃんという女の子が餃子を作って食べさせてくれた。日本の焼き餃子とは違って中国では専ら水餃子ということらしい。皮も小麦粉から練って一枚一枚手づくりとなかなか本格的でもあった。
大変美味しくいただいたのですが、なにか本場の?味がするのです!御馳走様でした。

流暢な日本語を操るのですが、なかなか今時の青年には珍しく、こんなオジイサンにも優しくしてくれたり、何かと気を使ってくれるのです。一生懸命勉強し、学費を稼ぐ姿には貴いモノを見る気がいたします。
まあ~こんな青年達に囲まれているから頑張れるというのが私の職場でもあるのです。





2015年 6 月  28 日 

いつも言われることですが、時の過ぎるのが早いものですね…。先日22日が夏至であった。今日も天気が良かったせいか夕方の景色が美しく、6時をすぎても周りはまだまだ明るかったですね。

奈良の旅の疲れか、一週間が長く感じられたのもやはり年齢のためでしょうかね・・・?振り返ってみるに早朝から走り回ってはいかな人でもどこかで無理がくるというもの、どうも好きなことに目が行くと突っ走ってしまう悪癖に反省しなければいけない。

ともなって、この週はホームページアップのため写真の加工や文章の作成など深夜までかかってしまった。嫌いなことでもなく、また新たに知らなかったことが解って旅の楽しさや古代史の深さにますます興味を覚えてしまった。
友人達に近いうちにかの聖林寺十一面観世音菩薩を一緒に見に行こうと誘ってみた。もうこの仏様は仲間と一緒に拝見しなければ気がすまないほどだ!


そろそろ暑い夏がやって来る!私の好きな夏が来る!来月には葛川夏安居に行かなければならない。正月の京都大谷廟墓参と夏の夏安居は私にとって大切な心の節目でもある。




2015年 6 月  21 日 

数カ月前から楽しみにしていた奈良の旅を満喫してきた。梅雨の合間ということもあって空模様だけが心配でもあったが。こころなしか雲が多いとも思われたが、雲間から射し込む陽射しはこの季節の花を美しく際立たせる。

白毫寺、新薬師寺の天平仏には懐かしく再会できて、時の経つのも忘れように立ち尽くしてしまう程であった。やはりこの二寺は交通の不便さもあってか観光客が少ないというのもゆっくりと見学できるのが良かった。元興寺では天平の甍である行基瓦が少しではあるが残って今にとどめている。
東大寺法華堂(三月堂)の不空羂索観音の壮大さには改めて修復士の凄さを見た感じでもある。二月堂の欄干からみる大仏殿の鴟尾が夕日に美しい….
時の重慶をして“青衣の女人”と云わしめたあの過去帳を見ただけでも震えが止まらなかった。


時間にまかせて東大寺から春日大社、興福寺へとぶらぶら歩いてみたが、この辺りは修学旅行生や観光客も多く騒がしい雰囲気を感じるがこれはどうしようもない。ただ正倉院から転害門へかけての辺りは流石に人もいなくて静かに雰囲気を味わうことができる。

宿の窓を開けると興福寺五重塔が目に飛び込んでくる、早朝の猿沢の池を散歩するも、早々と出立し桜井の聖林寺へとむかった。初めてということもあって前日から興奮していた。和辻氏や司馬氏が賞賛することに納得の美しさであった。
写真で見ると正面からの姿に肩の張り方がどうも気がいかなかったのだが、尊像の前に座して見上げると云い得ようのないバランスと笑を浮かべる口元にある種の感動をおぼえた。

車を多武峰に向けて走らせ談山神社を拝観することにした。くるくると目まぐるしく変化する生憎の天気でもあったが、不思議と寺社を巡るときには傘が不要であったのが幸いでもあった。





2015年 6 月  14 日 

久し振りの土日連休であったが…、大事なお客様がご来店ということで呼び出されてしまった。二時間ばかりお客様のお相手やら料理をお出ししたのだが何とか喜んで頂きホッとしている。

お客様は名古屋を代表する能楽師である。この年新春3日には市能楽堂にて一番能“翁”のシテをされた方であった。
最近はなかなか観にいくことがなくなってしまったが、数年前までは能の月刊誌をとってよく出かけたものだ。
室町時代から続く日本の伝統演芸にはその内面に神がかりというような精神性をのぞかせて、動きを簡素化したものに観る者の感受性を刺激してやみません。

梅雨の合間、うっすらと陽の射した昼下がりにO君からメールが来た。家庭菜園で男爵いもを孫と一緒になって掘っているのだという。そして今夜は男爵いものコロッケだとも、こんな当たり前のような普通のことに本当の幸せが在るのだろうな…と、こころなしか羨望でもあった。

それでも休日をのんびりと過ごすのもどうかな?と思い、久方振りに両親の墓参に出かけてみることにした。途中のスーパーで花を買い、叡山での頂きものの香を持参する。
毎年正月には京都大谷廟への墓参をしてはいるが、やはり実家の墓参とは気持ちの上では少し位違う気分でもあった。
つらつら思うに、両親をみまかってすでに二十年近くとなって、今や自分のことともなっているのに覚悟をしとくべきかなとも思ったりする。
ちょっと足を延ばして隣町まで行き、50歳で逝った友人を参ることにした。私には40歳で逝った仲のいい女友達もいるが、二人とも一緒に遊んだ仲間でもあった。早逝した友人の分まで人生を有意義に過ごさなきゃとは考えてはいるもののどうも無駄な時間を過ごしていることに反省でもある。





2015年 6 月  7 日 

旅を楽しむ?

南の地方では数日前にも梅雨入りといことらしい…。ま~都会に住む我々に梅雨入りの必要性というか、梅雨入りが生活にどんな影響があるのかも、いやはや全く関係なく、精々が遊びに行く時の傘が必要か否なのかぐらい。ひどい話になると梅雨があたかも迷惑な天候で、大雨で災害をもたらすとでも言わんばかりにメディアは伝えてくる。
本来が農耕の民であった人のための言葉であろうし…、農民たちにはとても大切な恵みでもあるのにだ…。

それでも私の住んでいる辺りには少なからずの田んぼがある。早朝から深夜にかけて、昼の暑い時間を除いて蛙がお大きな声で騒いでいるのもこの時期である。芭蕉が詠んだ近江岩間寺の池での蛙飛び込む…や、信州小布施岩松院で詠んだ一茶のやせ蛙…にはそれなりに蛙の存在が感じられるのですが、町の片隅の小さな田んぼからはどうも騒音だけだと言わんばかりの悲しい思いを感じる。
ほんの十数年前には住まいのすぐ前は田んぼであった。その田んぼでは色々な生き物がいて、流れ込む水場で捕ったフナを息子が水槽で飼っていたのをふっと思い出す。

二週間後に奈良の旅を計画している。何年前かに読んだ和辻哲郎『古寺巡礼』や司馬遼太郎『奈良散歩』を久しぶりに開いてみた。
四十数年前に一人旅で泊まった猿沢の池付近の宿を足がかりに二月堂に上がり、法華堂の不空絹絹策観音を、興福寺の諸仏を、雑司町の空海寺から奈良町の元興寺と。明日香の地甘樫丘へも歩き、桜井の聖林寺の十一面観音から談山神社へと足を伸ばしてみようと勝手に楽しんでいる。
この歳ともなれば、もう二度と行くことのないと思うと此れまで見てきたものを再度観てみたいと欲張りになっている自分が妙に可笑しいのである。



2015年 5 月  31 日 

初夏の一日

仲間のHさんが美濃の寺を観たい!ということでいつもの仲間を誘い合って出かけてみることにした。数日来の天気予報が見事に外れて、朝から快晴の素晴らしい天気でもあった。農家の方々には誠にもって申し訳ないのだが…。

小生にとり幾度となく通った美濃伊深の里正眼僧堂は丁度作務の時間であったということもあって、庭の掃除に精を出しておられる雲水の方々に会うことができた。

この日も連日の暑さを感じさせるようであったが、それでも雑草の一つ一つを摘み取っていかれるその姿こそが仏心であるのだろう、我々の心も清々しく感じるのであった。Hさんは過日ある寺で写経を体験してきたとの弾んだ声で話してくれた。本堂に上がらせて頂き、仏に手をあわせると仲間の顔も一段と輝いて見えるのが不思議でもある。

平成武儀・道の駅までいったん車を走らせて少し休憩する。新緑の中をサイクリングを楽しむ人々が多く、どうもこの地域でのツーリング大会が行われているようでもあった。すぐ下の川では解禁されたばかりという鮎釣りを楽しむ人達でいっぱいであった。


Hさん、予てからの要望でこの山奥の日竜峰寺へ向かった。山門から数百段?であろうか石階段を登ったのだが、時折爽やかにぬける風が気持ちいい。本堂に至る頃には足が痛くなるほどであるものの、流石に舞台造りというか懸崖造りの本堂にあがってみると身が軽くなっている。
こうして楽しく歩けるのも元気だからこそ!などと仲間と話しながら木もれ陽のもとを歩くのも悪くないものだ。


そのまま車を関市内まで走らせて新長谷寺(しんちょうこくじ)へと向かった。鎌倉時代の伽藍が残っている堂宇であるが、如何せんこの寺はカメラ持ち込みが駄目で生憎と写真もない。
本坊へ回って庭の拝観をお願いしたが、これも生憎と留守らしく願わなかった。どうもある意味で閉鎖的な寺院らしく、どうにも面白くもない寺院でもある。


時間に余裕があったので長良川を下って先般行った『小紅の渡し』まで行ってみたが、現在欠航中とのことであった。また秋にでも一緒に来ることを約束して帰途へと付いた。


2015年 5 月 24 日 
先週に続いて稲沢へ、尾張の歴史の1ページを開くためでもあった。その昔から現代をみてみると界隈は変わったものであろう。ひょっとすれば変わったのは近代であって、変わったのはこの100年程であるのではないか?とも感じざるを得ないものであった。

処で今週半ば新聞の一面にこんな記事があった。沖縄知事『本土で米軍受け入れを』というものである。

先般も米軍普天間飛行場から辺野古への新基地建設への反対・阻止のため民間から基金を募る「辺野古基金」について、二億円ものお金が集まったのだがその7割ものが本土からという。どうもこれは変な話でもある…。
知事は此の度渡米して訴えるという!それはわが国政府に言ってもどうしようもない!ということでもあるからだ。

知事の説は、日本国民全体で日本の安全保障を守る気概もないのに、沖縄だけ負担を押しつけて積極的平和主義だと言っても他国は日本の覚悟を感じない、というものである。
地上戦で何十万人も亡くなり、あれほど本土に尽くしてきた沖縄に、新たな負担もあんたらで考えなさいという姿勢なのか。何で沖縄だけ上から目線で言われるのか!とも言う。

先の基金の会長・役員も実は本土の知識人というから始末が悪い!こういうのが知識人という顔でメディアを闊歩している。誰でも自分の庭先に危険なものを置きたくはない。しかしながら守ってもらうだけの勝手は許されないし、お金は出すからと言っても実はいざというときには誰も守ってはくれないのは世間の常識ではある。

自分の家族を守るということはこの自分が先ずはその危険の中に身をおかねばならないのは当然で、お金を出すから守ってください!何時でも飛んできてきてください!と勝手に言うだけでは平和主義なぞ唱えてはいけない。
経済はグローバルとかなんか言っているくせに、社会は地域エゴの塊っていうのが現代の人々ではなかろうか。
世界は変化して、今や一国だけでの主義だけでは立ちいかなくなってきている。良いか悪いかだけで判断できぬ、その前にもう少し現実を直視しなくてなならない。

被爆国でもあるから、戦争敗戦国であるから、だけで平和を叫ぶのは全く意味を持つ社会ではなくなってきていることを本土の人間は知らなくてはいけない。
国を守るということを他人任せにしている人は知識人とか平和主義者とは云わないはずである。



2015年 5 月 17 日 

店では初夏の魚介類が出回っており、先日も蛤鍋をお出しいたして喜んでいただきました。近年は和食と謂えども濃い味が傾向で、料理人としておもえば楽なことであろうが少々複雑でもあるのです。
それでも蛤では繊細な味とか風味を味わうということから調味料などはひかえてみました。味も時代と共に変化するものですからまだまだ勉強しなければいけませんね。

爽やかな初夏の気候です、友人O君から北海道洞爺温泉でのメールが来ました。今頃仲間とお風呂に入って酒でも飲み交わしていることでしょう。

ちょっと足を伸ばして早朝から寺を探してみることにしました。以前から尾張の国分寺を探してみたかったのであるがなかなか機会がなかった。
国府宮というからに稲沢であったことは確かで、今回その辺を歩いてみることにした。古代においての交通の便やら、水利の状況、地理的要素などを知りたかった。
時代に取り残されそうな寺や、反対に周りを公園のような環境として地域と共に寺を守っている寺、田舎の片隅で花と一緒にそっと建っている寺などなど。

そんな中、寺の境内に共同墓碑というものを知りました。現代ではいろんな理由で墓地や墓碑を持てない方々がいますね。そんな方々のために一角を開放しようということで大きな石造墓碑が作られておりました。これは無縁墓ではなく、あくまでも各種理由によっての共同墓碑であった。

                                                 臨済宗  円光寺 萩の参道

中にはあじさいの寺、萩の寺として知られた寺もあって、その季節にはまた再度伺ってみたいものと思う。



2015年 5 月 10 日 

先日、店の飾り花を購入するためにN園芸店に行った。店内は真っ赤や薄紅のバラの花やバラの花鉢がところ狭しと飾り立ててあった。店内のポップを見ると「母の日」という言葉に納得した。
先般桜を観ながら仲間と『春が来たねえ~』と喜んでいたのが…いやもう初夏である。近くのお庭にはバラの花が一斉にほころんで香しいかおりと、鮮やかな色を見せている。ご主人から少し花を頂いたのでちょっとテーブルの片隅に飾っておいた。

我が国原産には“いばら”という種があったというが、10世紀頃に唐から入ったものが今に伝わり、その昔“しゃうび”とか“さうび”と云われて薔薇と書いたというのだそうだ。5月となれば一斉に花開く季節ということだろう。

日中には20°を超す暖かさとなって散歩していてもうっすらと汗をかく頃となってきた。連休を利用して部屋の掃除など衣替えの季節でもある。



2015年 5 月 6 日 

初夏に思う

街を走っていると季節の美しい花が咲き誇っている。街路樹ののツツジがピンク、白、そして赤と今が盛りである。先日も友人O君がナンジャモンジャの白い美しさを写真で送ってきてくれた。小生も先日何処であったか失念したが見たばかりであった。近くの家の庭では真紅、黄色、淡紅のバラが美しく手入れされていた。公園の木々も新緑をみせて太陽に眩しく輝いている。

『あつまりて あつまりて咲く つつじかな』 このような句があるのだそうだ。えてして美しさはこれほどに言葉少なくていいのであろう。

五月の連休である。テレビでは相変わらず渋滞情報と観光地の人混み具合を流しているが、その裏で一体どのくらいの人々が働いているのだろう・・・?と、ふっと思った。

我が会社も実は連休中は営業している。飲食店というサービス業であるから仕方のないことではあるが、どうしても営業しないといけない仕事もある。高速道路や電車など交通インフラ関連ではたくさんの人々が汗を流している。病院や医療関係もそうであるし、警察、消防など生活を守っている人もいる。それらは基本的に年中無休であろうし、余り陽の目をみない職業であるにもかかわらずにである。

それでも、そんなこと関係の無いというような顔で観光地から帰ってくる人々をテレビは映している。つい先日同じテレビからは我が国の平和がどうの…、労働者の人権がどうの…と騒いでいたが。
どうも現代人はどこかに感謝の気持ちを置き忘れてきたのではないだろうか・・・。何気なくも公園の木々の優しさや美しく咲いている花の美しさを感じられるのも当たり前と思っている自分も誰かがそれを見守っているということを忘れがちである。

少なくとも私が子供の頃を想えば、いやはや我が国も住みやすいこととなったものであろう。まぁー比較しながら言葉を発するのは良くないことではあるが…。



2015年 4 月 26 日 

一週間の過ぎるのが早い!今の世の中じゃ皆さん早く感じているのかなあ~?それにしても若い人たちを見てるとどんなところでもスマホやってるところを見てると結構のんびりやっているようにも思えるんだけど…。
僕の世代の若い頃は、「書を捨て街へ出よう!」だったから、何か走り続けてきたような感じである。

暖かくなった!公園のツツジもいっせいに花が開いた。キャッチボールを楽しむ子供たちも汗をかきながらであった。新しい車ということもあって岐阜県本巣郡北方町の円鏡寺拝観に行くことにした。前から気にかかっていた寺であるがこの方面へはなかなか足を運べなかった。

途中、長良川にかかる渡し船があるので探すことにした。この地方唯一、長良川でもただ一つ残った渡し船である。
岐阜市内から少し下ったところ、鏡島の地区に『小紅(おべに)の渡し』がある。この日は幸いにも水流もあって、天気もいいと船頭さんが川船を出してくれた。ただ現在は船の修理中で代替舟でエンジン付きであったが船頭さんは女の方であった。

江戸時代には小紅という名の女船頭だったことからこの『小紅の渡し』とか・・・。また、渡っていく花嫁が水面に映る自分の顔をみて紅を付け直したということからとか・・・。いやいやちょっと色っぽい!ところがいい。
渡して頂き、対岸の鏡島弘法・乙津寺まで行って参詣後、もどって対岸の小屋に手を振ると船頭さんが船をだして迎えに来てくれるのだ。

昔は県道の一部だったということで市の運営だとか、川面を流れるように進む川船はとても気分がいい!遠くに金華山稲葉城(岐阜城)が見える。



2015年 4 月 19 日 

湖北を回る Ⅱ

先週に続いて又湖北へへと足を向けてみた、いや奥琵琶湖といったほうがいいのかなあ~。朝目が覚めたら窓一面に琵琶湖が目に入ってきた!湖水は湖南の水とはうってかわって澄んでいる。音もない静かな水面、沖合には竹生島がひっそりと佇んでいた。

今回の目的はマキノ町のメタセコイヤ並木走破?と、在原業平の隠棲地であると謂われる在原村を探すことでもある。あの伊勢物語の主人公では?ともいう在原業平は私の好きな惟喬親王の親戚にあたることから所以の地はなるべく足を運ぼうと思っている。
また、この地にちょっと変(ネットでは囁かれている…)な蕎麦屋・業平園があるということから、この限界集落風な村を見てみたかったこともある。かなり高度にあるようで、曲がりくねった山道をずんずんと走って行くのだったが、この辺りは少々寒いのであろう所々にまだ山桜の花が美しい姿を見せていた。

業平の菩提寺とも謂われる寺では境内の桜がそぼ降る雨の中でひっそりと美しさをひけらかせていた。山中の業平の墓には行くことが出来なかったのが残念ではあったが、次回天気のいい日に行くことにした。
流石にこの辺まで来ると行き交う人も車もなく、帰途山中の道がは高所恐怖症の私にはちょっと恐ろしいほどの険しい道でもあったが・・・。



2015年 4 月 12 日 

湖北を回る 

なかなか行くこともできなかった仲間との近江散策、やっと機会をえて挙行…。何時もの米原駅10時集合、名古屋組は早朝8時出発!久し振りの暖かい日曜日に気持ちも楽しく弾んでいた。

米原から湖岸道路(さざなみ街道)を走ると、此れまで何度となく走ってきたこの道が素晴らしい桜の道であるということが分かった。とりあえず木之本から塩津をぬけて山門の善隆寺和蔵堂にお邪魔した。実は数年前にお邪魔したことがあった。其の折りお堂を案内していただいた老婆が健在であるかどうかが気持ちにあった・・・。


幸いにも今回も案内をしていただいたのは老婆であった、聞けば今年齡93となる由。その背筋の伸びたこと!その声の張りのあること!そのお顔の若々しさ!そしてそのお顔の優しさ!仲間一同感心しきりであったのは私としても嬉しいものであった。信仰というものの素晴らしさがそれに見てとれるようでもあったのはほかでもない。

生憎と先の海津大崎の桜満開による交通渋滞があり、やむ無く遠回りをして余呉湖へ向かうことにしたが、どこも途中の道の端々には桜が美しく感嘆しきりでもあった。
4ヶ寺ほど回ってみたがどこも案内の方々の人柄が感じられるようなも所ばかりで、桜にも負けない美しさを感じながらの帰途であった。

それにつけても楽しい散策を有難うと仲間に言いたい!


2015年 4 月 5 日 

もう三年・・・


もう三年も前になる…夕方仕込みも終わって一段落した時であった。「どうもおかしい~?」胸の辺りに違和感をおぼえる。狭心症手術を三度もした経験からとりあえずニトロを含んで横になってみた!それでも苦しさが増して急に恐ろしい不安感に襲われた。直ぐ様店を閉めてタクシーに乗りこみ、病院へと向かったのである。結局心筋梗塞ということで緊急手術をして一命をとりとめたのである。

もう三年になるのだ…、あの時も桜の咲く頃であった。ICUのベッドで寝ていると春雷とともに突風が窓ガラスを押し開けて驚いたことを覚えている。
毎日のように店の子達が私の世話や、見舞いと心配で駆けつけてくれたことを今も忘れない。友人が何処からか聞きつけて駆けつけてくれたりと今も感謝している。病床からは眼下に山崎川の桜が見事な美しさをみせていた。何か遠くの出来事のようにボーッと見ていたことをおぼえている。

心配をかけまいと何でもないようには振舞ってはいたが、医者からは危なかったと! か一時でも止まった!と言われて心
は穏やかではなかった。仏教を多少ともかじっていたものの死とは形而上でもなく…、心のお粗末さをしったものであった。一ヶ月の入院生活はこれまでの私の生活をすっかり変えることとなったのは言わずもがなであろう。


あれから三年、今年は桜の命がことのほか短く感じるのは私だけではないだろう。確か昨年は実家の近く五条川の桜をみて歩いたことを覚えているが、先週開花宣言をしたばかりだというのにいやはやもう今日の雨ですっかり葉桜となってしまっているようだ。くわえて天気もなかなか思うようにわならずぐずついた日が多く花見にいい頃合は少なかったようである。

そもそも私は桜というものが好きではなかった。その若木は木肌も美しく花びらは清楚なもので散りゆく様を見て人は哀れみの心をもって見たのであろう。ただ年月を経てその古木にはゴツゴツとした真っ黒な木肌からは異様とも思える新芽が生える。梯(ひこばえ)とも謂われるこの小さな花はまるで老女が紅を指しているようで艷容なものをみるようだ。
バラ科にみるように若葉に守られるでもなく新芽が花開いて、散ったそのあとに若葉が出てくるという一風変わった花でもあるのだ。

桜に魅了されたあの名金急行線車掌佐藤良二さんにみるように桜は人を狂わすものなのだろう…。


  春の野に 霞たなびき うらがなし この夕かげに うぐいす鳴くも       大伴家持




2015年 3 月 29 日 

花の色は 移りにけりな いたずらに 我が身世にふる ながめせし間に

湖西線小野駅のほど近く小野神社は小野妹子に始まる小野一族の出身地でもある。妹子に始まる小野からは小野篁、小野道風、そして美女であったという小野小町が出ている。そして小野小町は桜をみてかく詠ったのであろう。
何故か桜の花咲く頃はまさに“うつりにけりな”を感じる時でもあるのでしょう。

京都大原のはずれ小野宮ではかつて惟喬親王をおもうて、「世の中に たえて桜のなかりせば 春の心は のどかけらまし」 と業平卿はのこしている。それもこれも桜だからであるか?
夏の終わり、暑さの残る夕方であったろうか、小野宮跡に祀られた惟喬親王陵にも桜が植えられていたのを今も覚えているが、今年もひっそりと咲いていることだろう。

暖かい日が続いて過ごしやすくなりました。一雨ごとに蕾みも膨らんでいよいよ桜の開花です。



仲間と春の近江行を計画中です、都合をつけあう事が難しくなって・・・
  春の琵琶湖はキラキラと陽に輝いて歴史を想うにいい季節でもありますよ!そこで駄作を。

「淡海(あわうみ)に 永くあそびて 鳰鳥(におどり)の 春なわすれそ 朝妻(あさづま)の浜」
「いつにしか 淡路の帝 なきぬらん しずむ夕日に 葛籠尾(まだらお)の村」




2015年 3 月 23 日 

もう暫く・・・

のんびり土曜・日曜の連休を楽しんだ。今や世間では当たり前といえば当たり前かもしれないが・・・、しかしながら案外と働いている人の多さに驚くのである。
それは街へ出るとよく解るのだが、外食産業をはじめデパートや服飾店、そして公共交通までもが非常に便利かつ繊細に網羅されていて一般の人?と謂われる方々には暮らしやすくなっていると思われる。それらの陰ではたくさんの方々の労働によって支えられている訳であって・・・。

誰かが言っていたが、土日とも暖かな晴天に恵まれたのも久しぶり!であったという。名古屋でもこの日桜の開花を発表したという。我が家前の公園の大きな桜の木にはまだまだ蕾みに膨らみさえも見えないのだが、健康な人々の笑い声や掛け声が聞こえてくるのが楽しい。

私はというと早朝から起きて、窓を全開!家中の空気を入れ替えっていう感じで大掃除をはじめました。布団をベランダに出してお日様に干すことから始めて、洗濯機をフル稼働!早朝から動くとお腹が空くというのは理窟であって・・・、のんびりとレコードを聴きながら昼ご飯を頂くことに。さすれば自然のなりゆきで午睡がくるもので・・・、のんびりと休みを満喫した一日でした。

どうも軽く風邪を引いたのかもしれない?いや花粉症を発祥したのだろうか?どうも鼻がぐずついている。くわえて腰が重い!っというか、今こうしてパソコンを打っていると立ち上がるときには腰が痛いのである。いやはや体のあちらこちらにガタが来たようでもあるのだ。もう暫く体には頑張ってもらわくちゃいけないので大事に使うことにしよう!!


先週18日に比叡山飯室谷長寿院北嶺大行満大阿闍梨藤波源信師が二日間の八千枚の護摩供養を無事に修法されまして、本日御牌が送られてきました。
素晴らしい方と知り合うことになって生かされているのが楽しくなりました。もう暫く生かされてもらわくちゃいけないですね。



2015年 3 月 15 日 

近江の小島

朝方からの雨もすっかりあがって薄日がさしている、。何となく暖かい一日となる予感があった。ちょっと早く起きたからでもないが兎に角近江へ行きたくなって車を走らせてみた…。

米原ICから一般道路を通ることにするも、国道8号線はいつも通りの渋滞気味でなかなか走らない!そくさくと脇道へ入って湖岸道路(さざなみ道路)へと向った。近江八幡にはいった頃、ふっと思い立って「沖島」へ行こう!
くまなく近江を回ってはいるが実は行っていない所が一箇所あった!琵琶湖に浮かぶ小さな小島である。

琵琶湖には四つの島があるのだが、人が住み生活を営んでいるのは沖島だけである、国内をみても他にない。車を堀切新港へと向けてみた。幸いにも少ない定期船の便数に間に合って島民運営の船に乗船した。

沖島は400人程の住民が暮らすといい、周囲6・8㌔程の島の西南の地区に肩を寄せるように軒を並べていた。彼等の足は自転車や三輪車、そして漁船ということで港周辺には戸数より多いとも言われるほどの小舟が係留されていた。勿論のこと信号機などはなくメインストリートと言っても人がすれ違う位だけの道幅であった。

そぞろ歩いていると、何処からともなく醤油のいい臭いが・・・、玄関脇の納谷風の勝手口で奥さんがイサザを煮ておられた。この季節になると毎年こうして煮ているのだという。
その臭いにつられるのは私だけではなく、あちこちから野良猫が集まっていた。そう言えば道のあちこち、また浜の際で
色々な猫と出会った。どことなくそっと寄ってくるのもこの島ならということか?

全ての時間がゆっくりと進んでいるような錯覚に陥った数時間を過ごし、数日後八千枚大護摩供を控えられている比叡山飯室谷長寿院藤波源信阿闍梨のもとへと向かった。



2015年 3 月 9 日 

久しぶり…という感じな日曜日、睡眠不足なところでもあったが窓からの素晴らしい日射しに早く起床してしまった。こんな天気の日にはのんびりと布団に潜り込んでいてはおれないという性に半ば諦めながらも近所を散歩してみることにした。

実はこの地に住むようになって何十年と経っているがのんびりと歩いてみたこともない。永六輔だったか「横丁の角を曲ったら旅が始まる」とか聞いた覚えがある。
やたらと遠くへ行くことが旅だとばかり思ってはいるが、実は自分の足元さえ覚束ないのが実際ではなかろうか?いつもは車で通り過ごしている所が、この足でゆっくりと歩いてみると意外なことが発見できるものでもある。


住まいの前の大きな公園では早朝野球が始まっており、球技公園内では若い家族のボール遊びや、サッカー少年の楽しげな声が聞こえてくる。
遊歩道をのんびりと歩いていると何処からともなくホーホケキョ~・…ケキョケキョ~・ホーホケキョッ!という鳴き声に思わず探してみたものの・・・。何か得した気分に!こんな都会の公園にも居るんだ??

陽当りの良いところに野良猫ちゃんがごろ~んと寝そべっている・・・、小鳥も動物もそして少年も若い家族も春を楽しんでいる!あたり前のこの景色こそ人生なのだろう…などと思いながらこの町を歩いてみることにした。


今年一番の暖かい日曜日なのかもしれない、数分歩くとこの町の氏神
である大井神社に出た。近年では大晦日の夜ともなると結構な人の列ができるが、この日は社務所も閉じられて閑散としている。しかしこの
静けさに神奈備をみる思いなのだ。こんな日曜日、氏神はそっと人々を見守っているのだろう。

少し歩くと厚着のせいもあってか額に汗をおぼえる、確かこの辺に結構大きな寺があると思いつつ探すことに・・・、表通りから小路を少し入ったところに山門が見えた。瑞應寺という臨済宗の寺であった。山門をくぐると真っすぐ本堂まで参道がのびていた。しかし残念ながら本堂は鉄筋の造りである。本堂は開扉できたので上がらせていただいた。
四尺程の釈迦牟尼仏立像が須彌壇の中央にたっている。脇の間には不動明王・・・、そして賓頭盧さんまでも…?

兎に角も座して手を合せ心経だけでも唱えてみた。お不動さんには不動真言を唱えるのだが・・・、いやはや禅宗寺院なのにである?いや市井の寺院ではあながち異をとなえることはよそう!
本堂横には観音堂というのもあったし、ぐるっと回った出口付近には不動堂というのもあった。実はこうしたことが仏教をより解りにくくしているのでもあるのだが、庶民の望みを聞いているとこうなってしまうのであろう。


昼もとっくに過ぎて急に空腹をおぼえた。ただこの界隈には食事するような店が見当たらない!勢いに任せて兎に角ぶらぶらと歩いてみることにした。車ではわからない軒先を歩くとこの街の裕福さに少々驚く。
通りすがりの中華屋さんに入ってみることにした。普段あまりラーメンを食べないのであるが、何故かこの日はちょっと塩味が欲しかったのだろうかラーメンを食べることにした。汗をかいたためであろうか、いや若いご夫婦が一生懸命働いているのを見たためであろうかこの日はラーメンがことのほか美味しいのである。


ほんの三時間ばかりの旅であったが、爽やかな風が心地よく、帰宅後のドリップコーヒーもことのほか美味しい。

2015年 3 月 2 日 

先週、回転椅子から転げ落ちた事を書いたのだが、早速大津のK君、春日井のO君からメールを頂いた。共に同年代の友人でもあるのだが、彼らももれなく同じ経験者であったらしく…、今後は気をつけよう!ということでもあった。誠にありがたいことでこの場を借りてお礼申し上げる。
 確かにこの歳になるまで老人経験はないのだし…?考えてもみれば生まれてこの方殆どが初経験であり、初体験でもあったはずである。

だからといって、この歳となって何故こうも自分のことが解ってくるのであろうか?若いときには「ああ、僕も若いなあ~」
なんてこと言ったこともないのだし、何故かこの頃では「ああ、歳とったなあ~」と思ってしまう・・・。
これが赤瀬川氏の言った『老人力』というものならば、あながち捨てたもんじゃないですね~。


そんな折りでもあったが、
新聞では「還暦を過ぎたのに友人がいない」という問題提起に色々なご意見や友人作りの方法が紙面を賑わしている。
そもそも友人作りなどということが促成に出来るわけでもなく、単に過ごす日々の寂しさから逃れるだけの作りごとでしかなく、友人を含めてこれまでの人生の結果でしかないのだし・・・。

近くに居ようが、遠きに居ようが、会おうが会わないが友人とは心の問題であって、況してや老人だけの問題でもない。どうも今どきの老人はおかしい。団塊の世代と謂われて自由奔放に過ごしてきたことの結果であって、その結果と面と向かって対峙しようとしないのが気に係る。

真剣に社会と向き合ってくれば自ずと社会が友を連れてきてるはずであろうが…。個人的な自由だけを求めて楽しんできたならばそれで結構だろうし、社会的参加をすればそれも結構で自ずと世間がほっとかない!ということであろうし。
昔人は「六十も過ぎたら顔にもでるよ」などと言ったようで、この歳ともなれば顔が判断材料にもなるようですなあ~。

一雨ごとに暖かさを運んできてくれるようです、何時もの友人たちとまた出かけることにしようか!




2015年 2 月 24 日 

八百屋さんの店頭に春の山菜が並んでいた。透明パックにに入れられた山菜が棚に並べられている。何か不思議な光景かもしれない。
都会のスーパーに山菜が並べられている・・・、況や春まだ遠いこの時期にである?。

かく言う私は山菜には疎い、それは山国育ちではないというところから来るのだろうか?先年友人O君と木之本の鶏足寺へ行った折、道半ばの参道脇にタラノ芽が出ていることを教わったくらいである。正直なところ、スーパーの棚に並んだコシアブラ・タラノ芽・コゴミなどはわかるのだが、実際に山に分け行って採るとなると皆目わからないであろう。

そんな山菜も今では麓の畑で促成栽培されているのであろうか?いち早くこうして食べられるのである。喜ぶべきなのか?かなしむべきなのであろうか…?

にしても、春は確実にやって来てもいるようだ。各地から梅の開花の便りが聞こえてくる。ようやく暖かい日がくるかと楽しみでもある。


そんな折、カーテンを直そうと回転椅子に乗って作業をしていざ降りようとした途端、椅子から転げあちてしまった。幸とお尻から落ちて怪我なくすんだものの尾てい骨を打ち暫く立ち上がれなかった…。
かつてこんなことは無かった!と心無しかこの齢を恨めしく思った次第でもある。自分自身ではわからない老いがひそかにやってきているのだろう・・・。
今月は仕事に追われて大変であるが、いよいよ気を付けなければならない。


2015年 2 月 15 日 

石階段を登って

如月、半ばを過ぎて奈良二月堂では別火坊にて別火が行われ、いよいよ東大寺二月堂修二会(お水取り)の始まりでもある。別火とは精進潔斎した連行衆が世間の火を使わず新し火をもって行に入ることである。神仏混淆のこの行事には不思議な部分も多いのであるが、達陀(だったん)の行や五躰投地などどこか異風を感じますね。
我が国唯一連綿と続くこの行も千二百数十年もの長き間途切れることなく行じられてきたことに感嘆するのである。

こころなしか風に暖かさを感じたからでもないが、車を走らせて犬山寂光院へ行ってきた。秋の紅葉の季節ともなれば、とんでもなく人々が集まってくるのだが、さすがにこの季節は参詣者もまばらでゆっくりお参りできるのが有難い。
300段という石階段には少々まいったが…、山上の本堂にあがると気分も爽やかになるから不思議だ。

本堂、観音堂、展望所へとまわってみると眼下に木曽川の流れが見渡せるというものである。鐘楼にて鐘をついてみたものの、寒さに耐え難くなって早々に下りてきた。各所に近年作られたというか、置かれた?という石像には少々へきへきとしたが…。

この辺には東海歩道なのか?通っているらしく年配の方々が盛んに往来するのを見た。健脚を誇るようにさっそうと歩いて行かれるのをみながら自分の足の弱さをしるものでもあった。


それでも帰り際、駐車場で一人落ち葉掃除に精を出している方を見かけてお声をかけた。その優しいお顔に一服の安らぎをいただき、優しいお言葉に喜びを感じての帰りでもあった。
寒さをおしてでもこうして外出した甲斐があったというものである。



2015年 2 月 9 日 

顎曉宇(がく・ぎょうう)君、この中国の青年実は私の部下である。部下!とは云っても孫とまでいかなくても似たようなもので、素直でよく働く青年であり、そしてこんな老人にも良くしてくれる今時みられない好青年でもある。
現在の会社(飲食店)にお世話になってからの、ある意味先輩でもあるのだが。現在大学三回生の学生でもあるが、働きながら大学に通うというハンディを乗り越えて頑張っている。

わが店では馬の刺身が売りでもあるが、その馬刺身を切らせたら脱帽である。多少我流かもしれないが、兎に角その術を自分のものにしてしまっているのだから大したものでもある。
より技術を習得したいのだろう…、時折小生の傍に寄って来てはのぞき込んでいるときもある。そんな時には失敗してもいいから仕事をさせるのだが、若いときの知識欲には羨ましいものである。

そんな彼が旧正月を機に今中国に帰っている。四週間という長い期間を他店から助けていただいて乗り切らなければならない。小さな店でも調理場はチームワークを要するもので、誰が欠けても料理をお出しするタイミングが狂ったり、味が変化したりするものである。

諸行は無常である!とは謂われますが、正にそのとおりであって、そんな中においても何ら変わることなく行動しなければプロとは言えない訳で、お給料をいただいている以上その代償を最小限にすべく奮闘中である。
総料理長と言われていても所詮そんな若い子達によって支えられているようなものです。


とにもかくにも健康な体に感謝な毎日です。



2015年 2 月 1 日 

友人を誘って琵琶湖へと足を運んでみた。小生の車がここのところ少々ガタがきたようで調子が悪いので、友人に車を出してもらっての近江行きでもあった。

高速道路は関ヶ原まで、近江にはやはり国道21号からと…・。長久寺の信号を過ぎれば近江の地、先程までの明るい陽射しもすっかり隠れて細かい雪が走ってきていた。



昼ご飯はやはり醒ヶ井道の駅ランチバイキングにした。お惣菜というか、お晩菜のバイキングであるが仲間内でも評判がいい。そしてコーヒーブレイクもいつも通りのホテルにした。

中山道醒ヶ井iの宿は、居醒の清水といって美味しい水が流れるところでもある。宿場を流れる地蔵川には小さなハリヨが泳ぎ、水がぬるむ頃には梅花藻の小さな花が水中で顔を出す。この日は細かい雪が風にまかせてふりしきる。そそくさと道の駅を退散であった。


暫しの間、ソファーでのんびりと琵琶湖を眺めていた。彦根城は勿論のこと遠く繖山(観音寺山)から長命寺山、湖上には沖島が見えて、遥か向こう岸には比叡山から比良山、函館山までもが見渡せるのである。時折彦根港から竹生島に向かう遊覧船が湖上をすべっていく。


帰路、近江の寺を探しながら車を走らせる。近江長岡から山東にはいった途端急に視界が開けると眼前に白銀の伊吹山が見えた。道路端に車をとめていく雲の流れを見ていると、その前を新幹線が走っていった。







2015年 1 月 26 日 
橋を渡って思う

もう何十年になるのか…、毎日のように橋を渡っている!橋というものは本来が歩いてというか?何がしかの場所を渡るためのものではあろうが、恥ずかしい話ではあるがこの橋を歩いて渡ったことは一度足りともない。
市中に入るには必ず何処かの橋を渡らければならない。庄内川というこの地方では有名な川に、南から庄内新川橋、万場大橋、大正橋、豊公橋、枇杷島橋、名西橋、庄内川橋、新川中橋、水分橋、松川橋、東谷橋と数えただけでも十数橋とある。



能で云うように橋掛かりとは、この世から化の世界への移り変わりとも、古代においては山人と市人との出会う場所とも考えられている。心中天の網島では「この世でこそは添わずとも、未来はいうに及ばず、今度の今度の、ずっと今度の、その先の世までも夫婦ぞや・・・」と橋を渡る都度に心を固めていくのである。

話は少々飛躍したが、日本の橋は本来が流れるべくして造ったという。勿論のこと流れる橋を造るはずもなく、流れるのを覚悟して造ったとは想像がつく。見かけ軽く、みすぼらしい日本の橋は、実にそうした知恵によって根底から支えられていたのである。西欧と違って、山と海が近い日本では川が必然と急流となるが、流れに抗う橋では洪水の元となる。流れる古木や石などによってオーバーフロウすることを避けるものでもあった。

また日本人は壊れやすいから大切にし、消えていくものの中に美を見出してもいる。橋を造るときに人柱まで立ててその安全を祈ったにしてもである。翻ってみるに、一代ごとに新しい都(京)を造り、二十年に一度遷宮する伊勢の神などにも通じる思想であって、建て替えるところに意味があるともきく。


私の渡る橋は鉄骨コンクリート製片道三車線の真に強靭なものである。現に十数年前の台風洪水にもびくともしなかった代物だ。現代の橋は全てがこうした頑丈なもので自然の前で屹立として架かっている。
私はそんな橋を通ることによって一個人から社会人として生きる場へと渡っていくのである。人生の半分以上の年月を世話になったこの橋を通って、今日ふと思った次第でもある。


因みにこの庄内川は傳教大師最澄、、弘法大師空海も舟で通っている。実はその昔、川とは行き交う道でもあったのだ。



2015年 1 月 18 日 

以前から気にかかっていた近くの寺へ拝観にうかがった。早朝、カーテンをひくと眩しい日射しに心が浮かれるおもいでもあった。朝の弱い小生にとって連休の一日をのんびりと家で過ごすのは躊躇うのであった。

あらかじめ下調べをしておいた寺へ車を走らせてみることにした。寺の縁起などに拠れば結構古い寺である。ある雑誌で垣間見た楼門の写真に感銘しての拝観でもあった・・・。

車を駐車場にまわして嫌な予感はあった。楼門は遠くから見れば如何にも堅牢そうで阿吽像が左右にて迎えてくれて入るのだが、何せコンクリート製なのであった!楼門の前後左右には四天王であるが、どうも木像ではないようである。
本堂へ向かって驚いた!本堂も鉄筋コンクリートである。扉の隙間から須彌壇を見ると絢爛たる装飾で二の足を踏んでしまった。

寺の片隅に立てかけてあった案内板を読むと過去に二度の焼失をしているとのこと、数十年前に新しく建立したというのである。街中に見る現代の寺であった。


時代の趨勢には致し方ないのだろう、今や木造建築で寺を建立するともなると大変なことであることは想像できる。それにしても何か落ち着きがないというか、静けさをも感じないのは私だけであろうか?
近江をあるきつ、名もなく今にも朽ち果てそうな寺院を見につけて歴史とはこうしたものであろうかと思いながら帰途へとついた。
文化を守るとは簡単に口にできるものではないのだろう。そう言えば、子供の頃遊んだ五寸釘などもう何年も目にしたこともないし、大工さんのカンナがけも見なくなって久しい。



2015年 1 月 12 日 

小寒も過ぎて、真冬とはいえど多少なりとも暖かさを感じる連休でもあった。七日正月(七草かゆ)、小寒、そして今週には各地で左義長(どんど焼き)が行われて何時もの日常が戻ってきます。

送別会を兼ねて新年会をすることにした。私にはたくさんの娘たちがいるが結婚やら就職などで其々に巣立っていく。そして時折にでもこうして集まることにしている。それは私の財産とでもいえることで、私の人生にとって安らぎでもある。
一緒に食事をする!共に食事をする!お互い現在に感謝をする!そんな些細なことでも自分が一人では生きていないことに気づかされるものでもある。


いよいよ一年の始まりである。残り与えられた人生を少しでも人のためになるように仕事していかなければならない。





2015年 1 月  4 日 

新年を行く

新年を迎える頃の暖かさも何処へやら・・・、正月三が日を迎える頃ともなると北からの寒波が雪をもって来たようです。
早朝から京都へと車を走らせると!鈴鹿の山々が美しく輝いている。どうも雲行きが心配となってきたが・・・。
土山辺りから道路の端に雪が寄せられている!二日程前に降ったという。

新春の京都は華やかで、所々に雅びともおもえる設えが見え隠れする。今年の東山大谷廟への墓参は雪の中であった。本廟の薫香もこころなしか冷たさを運んで、仏花が雪で光っていたりしていた。これが私の一年の始まりとでも言うべきか、この数年はこの墓参を心している。

ちょっと時間があったので、折角の雪見?という訳ではないが市バスで銀閣寺まで足を運んでみた。やはり見学者で混んではいたが、それでも背後の山へ回ってみると眼下に冠雪した東求堂、観音殿が見え、遠くに京の町が雪に化粧されていた。こんな積雪は数十年ぶりと誰かが言っていたが、雪の中の向月台もいいものである。


比叡山延暦寺飯室谷長寿院の藤波阿闍梨へのご挨拶に寄ることにした。そこそこ深い谷なので雪道には少々難儀したもののご挨拶が出来たことに喜びを感じる。お忙しい中、30分ほど書院でお茶を頂きながらお話をするのだが…
二十数センチという積雪が長寿院を包んでいた、山から流れ落ちる水垢離の水音が気持ちを凛とさせる。不動明王堂にて手を合わせて降りてきたのだが、今年一年の生命力のようなものを覚えながら帰路へとついた。

新春早々、息子から伊勢神宮のお守りを頂くという嬉しいことから一年の始まりであった。感謝しなければならない。





2015年 1 月  1 日 

新しい年を迎えてお慶び申し上げます。
 本年も健やかにお過ごしできますよう御祈念申し上げております。


臨済義玄『臨済録』に曰く

諸方に言道、「修有り証有り」と。錯ること莫れ・・・仏を求め法を求むるも、即ち是れ造地獄の業なり。菩薩を求むるも亦た是れ造業、看経看教も亦た是れ造業、仏と祖師とは是れ無事の人なり。所以に、有漏有為、無漏無為、清浄の業たり。

「世間では「仏道には修行があり、証悟がある」と言っている。誤ってなならぬぞ!…外に求むる心があれば、これも生死流転の迷いの業である。外に仏を求め法を求めるも地獄におちる業であり、菩薩を外に求めるも業を作ることである。経を読み、教えを研究することも業をつくることである。
仏や祖師とは、外に求むる心のなくなった無事の人である。。この無事の人である祖師や仏にとっては、迷いや煩悩も、悟りの安らぎも、どちらも清浄の業にほかならぬのだ。」

巷には心眼の明らかでもない坊主連中がおり、たらふく飯を食って坐禅をし、妄念や迷いをなんとか押さえ込み、騒がしところを嫌って静かな所を好んではいる。それこそが迷いの業であるというのだ。心を働かせて外境をみたり、静けさを求めたり、心を澄まして胸中をみたり、心を凝らして禅定に入ったりするのもまた迷いの業であるという。

什麼生 「一真実の自己」を自覚したならば宇宙万物すべて、どのようにでも美しく荘厳できると説く。赤肉団上に一無位の真人がおり、無事是貴人である。

残り与えられた人生を無事に生きましょうか!


2014年 12月 28 日 

年賀状

三河湾は我が国有数のふぐ漁獲地であります。近年は愛知三重の漁協が稚魚の放流などをして漁獲量を増やしておりますし、また養殖技術も向上したというので下関の方へと出荷されているようです。

そんな中、三河湾近辺の天然ふぐがおりますが、これが養殖ふぐと違いましてとてつもなく大きいのです!養殖は精々が2㌔までで、私どもの店では全て天然ふぐを使います。普段は6㌔位までですが今週は初めて8㌔強というとんでもないふぐを調理いたしました。体長は約80cmですからその大きさがわかりますか?

数日生簀に入れて活かしておりますが、調理するにも生簀から出すのが大変で、まな板の上にのせ包丁を入れるまで若い子に持っていてもら
わないと…、フグは結構危険な魚で、油断して指など噛まれて落としてしまいますからね。養殖の青白い刺身と違って、すーと赤みの線が綺麗な刺身が天然の特徴でもあります寒さのます今頃から美味しいと思いますね。。



年賀状を書きました!年賀葉書ではない。但し悲しいかな毛筆ではなくパソコンの印字であるから心苦しくは思っている。生来の悪筆は如何ともし難く、無事に最後まで読み終えるまでご苦労をおかけするには忍びない!…と言い訳にもならぬと思いつつ投函した。

この数年は私にとり激動な、という面持ちの時間でもある。良きにつけ悪しきにつけ現在を無事に過ごさせていただいているのが不思議と云えば不思議かもしれない。
そんな思いもあって友人や親しくしていただいている方々に年賀の挨拶というか、現在の私を知っていただくためのご報告のような手紙を差し上げるものであった。

まさしくこの数年は年賀はがきをいただいてもロクに返事も出さず大変失礼なことをしておりました。何処か精神的な余裕さえなかったということか?反省をしています。

さて今年も三日を残すのみとなりましたね!もうすでに会社も終わって大掃除や買い物に駆り出されているかたもみえるのでしょう。テレビではそんな方々のニュースを流しておりました。如何でしたか?今年は。
こうしてブログのようなものを書いておりますと如何に一年が早いかと思い知らされます。毎週書き続けて年に60回i弱ですから右のスクロールを下ろしていただければアッという間に昨年の年末が出ますね。

相変わらずマルサリスやコルトレーンを聴きながら書いておりますが…、かくして平凡な時間が無事に過ぎていきます。
皆さん一年無事に過ごして良かったですね!また来年も平凡でいい、無事に過ごすことができますよう祈念しております。


2014年 12月 21 日 

一日の始まり

今年最後の連休…、友人とのんびり旅を楽しむことにした。旅とは云っても海をみながら湯に浸かるだけであるのだが、なかなかそんな贅沢なこともできない中での旅でもあった。
それにしても、途中の寺院を見ないわけにもいかないところが私の悪い癖?でもあるようだ…。

このところの冷肌寒い空気に追い打ちをかけるように小雨が降っていた。ある意味こんな天気だからこそ暖かい湯に入るのがいいとも言えるが・・・。寒気は暖かいはずの海からの風をも押し返して、横殴りの雨と化してきた。幾度となく来ている伊良湖岬だが、観光客も見当たらない。そくさくと宿に入ったしまった。

夜中にガラス窓をたたくまでに吹き荒れていた雨風も、朝湯の頃にはすっかりあがったようで朝日が雲間から顔を出していた。眼下にのんびりとしたフェリー埠頭が目に入ってきた。雨があがって三河湾に浮かんだ小島が美しく見える。
朝食を戴く頃には早朝のフェリーが鳥羽に向かって出航していった、のどかな一日が始まっている渥美半島伊良湖岬である。





帰路、相変わらず寺院に寄らずにはすまない!幸いというか、寒さはあるが天気も回復して絶好の寺院見学日和??
というところで、県内国宝建築物の一つ、幡豆吉良町の金蓮寺弥陀堂へ寄ってみることにした。実は愛知県内国宝建築物は他に二ヶ所で、国宝犬山城と有樂苑茶室国宝如庵である。

弥陀堂を開けていただき入って驚いたのであるが…、住職が「写真を撮っていいですよ!」との言葉であった。
実にフランクというか、庶民的というか解説も二言三言と早々にゆっくり見てください!と言われたのである。実にいいいですねえ~、やたら格式張って胡座をかいている何処そこより嬉しい配慮でもあった。


今年も残すところ数日となって世間は慌ただしさを増してきている。そろそろ年賀状を書く事とします。



2014年 12月 15 日 

感謝すること

今週もただのんびりと休日を過ごそう…と思ったら、娘のIちゃんが昼ご飯を一緒に食べない?と来たから近くの開店寿司に行くことにした(あいも変わらず!)。
久しぶりにゆっくりと合うと、出てくる出てくる!積もり積もった話が。若いというのはいいものですね、この歳ともなると悩むことは健康と今後のことくらい(要するに老後問題である、今でも老後ではあるが?)。

それでもこうして来てくれることに感謝しなければならない。考えてみるにこの娘とはもう12年という永きにわたる間柄であり、楽しいことや苦しいこと、また悲しいことも一緒になって過ごしてきとものである。僕にはこのように過ごした娘達が数人おりますが、時々会っては今を生きる糧ともなっているのです。


それにしても今年は早くから寒むいようである、昼ごろには小雪がみぞれになって一層寒さが厳しく感じられた。今年も残すところ二週間となって、世間もそろそろ慌ただしさを見せだしている。心無しか道も混み出して、通勤に時間がかかるように感じるのも師走のためであろうか?

ふっとこの近江爺日記をスクロールして振り返ってみると、よくもそこかしこに行ったものだと自分ながら驚いてもいる。元来、ジットしておれない性格でも手伝って、思い立つと行かずにおれないのがよく分かる。
それでも自身としてはいい年であったように思えるのは幸せであるのだろう。いい仲間と会うのは何よりの生きる糧であるはず!健康に働くことができるのも感謝しなければいけない。

年の初めに比叡山の阿闍梨と合い、両親の墓前に香をたむけることがこの数年来の行事でもあるが、恥ずかしくもそんなわずかな宗教心である。そして新しい年のはじめも又いつも通りの参詣が出来る喜びを味わいたい。

でもこの寒さが体に辛く感じるのはやはり歳のせいであろうか…。寒がりの小生には数け月の辛抱でもあるが。



2014年 12月  7 日 

冬の景色

ここのところすっかり暖かい日が続いて過ごしやすかったのだが、いやはや今週になってとんでもなく寒い日となっている。この冬は暖冬です!と気象予報士が言っていたのが嘘のように・・・・、いや待てよ?本来はこの寒さが当たり前で、少々暖かい秋が続いたので余計と寒さを感じるのかもしれない。

半世紀も前、小学生の頃の冬と謂えば通学前の集合地では焚き火がたかれて、その前で女の子はゴム飛び!男は馬乗り!と決まっていて遊んでいた。道端の庭の水や池は全て凍っていて、いちいちそれらを割って登校したものである。それでも大層な服は着ておらず、寒いと手を突っ込んでいる者などいなかったように思う。

子供は風の子!と言われたのは…、雪でも降ろうものなら一目散に外に出て雪すべりをし、犬が外で走り回り、猫は炬燵で円くなる♪
そんな言葉も今や全て死語となって、電気を使い放題使って快適な室内で寛ぐことが出来る。兎も角もこの半世紀、凄い時代になったもんだなあ~と思う。でもまだまだ人間は不平を言ったり、何処かの国では…と比べてみては不満がでる。

仏教に無量寿という言葉がある。浄土教では浄土三部に「無量寿経」というのがあるが、その中にある「無量寿」であるが、平たく言い表せば“量るものの無い歳(寿)”ということであろう。
我々は何時も何かと対比させて考えてしまって、物事の判断としてしまうことがある。それは例の“空(存在)”ということからにしても、それ自体の判断とはならない。

寒さでも個人個人違っているのだろうし、前日が暖かろうが寒かろうが3°は三度であるからにして・・・。


休みの日、のんびりとした時を過ごす。こんな平和な時間に感謝ですね。

久しぶりに音楽でも・・・

ミルト・ジャクソンのビブラフォンとジョン・コルトレーンのサックスがゆったりとした時間を刻んでいる。次はウイントン・マルサリスクインテッドを聞いてみた。
カルロスヘンリケスのベースがリズムを刻み、アーリー・ジャクソンのドラムが静かに踊っている。ダン・二マーのピアノが美しい、ビクター・ゴーイングのアルトが悲しく、時に楽しく囁いていく。マルサリスのトランペットはなんと言っても凄い!

じつはこのところマルサリスにはまっており、テクニック、リズム感、表現すべてが物凄い!と感じるようになった。昔は何か小難しいと感じたものだったが、素直に耳を傾けるとやはり凄いですね。どうもこれは歳のせいであったのだろうか?


今年も残すところ三週間です、風邪ひかないように気を付けましょうか!

2014年 12月  1 日 

秋の色

日曜日は私にとってはとても大切な日である。仕事が休日ということもあって自分の好きなように過ごせるというのも魅力で一日ボ~ッと過ごすのもいいし、早朝から飛び起きて滋賀へ向かうのもいい、近くの寺院へ足を運ぶのもいいものだし、友人と語るのもいいだろう。友人が集まってくるのも嬉しいことである。

それでも店は営業していることから何かと電話が入ってくるのはやむを得ないことでもあるが、いらぬ気を遣うことは余り好きではない。ただ、こんな老人をも必要とされているというのならあながち悪い気分でもないが…。

そんな訳で…(どんな訳??)、休みの一日朝から近江にむかって車を走らせてみた。とりあえずお腹を満たすためにも何時もの醒ヶ井ランチバイキングへ!

どうもハッキリとしない天候でもあったが、時々みせる秋空からの光が琵琶湖に反射して眩しいくらいであった。晩秋の日射しのもと、ほんのひとときを湖畔でのんびりと座ってみた。思ったほどに風も冷たさを感じさせることもなく、時間もまたたく間に過ぎていく。どうも私は時々にでも琵琶湖を見ないといけない人間であるかもしれない。それがたとえほんのひとときでもいい、いや、近江の地に足を踏み込めば気がすむのだから・・・。

二週間前に行った鶏足寺まで足を延ばしてみることにした。秋の紅葉が素晴らしいと何度となく聞かされていたからだ。その時は未だ真っ赤に染まる参道!とまではいかなかったが、その予感らしいいものは心に残っていた。

時の移ろいは早いというが、二週間という時の狭間に自然は無残な姿を見せるものでもあった。地元の方が「先週は本当に綺麗でしたよ!」と言って写真を見せてくれたが…、
参道の途中、脇の護摩堂前の蹲に降りつもった真っ赤なもみじ葉がこの秋を見せてくれていたように思う。



2014年 11月  24日 
生きるということ


何やら世間がきな臭くなってきた…、メディアに誘導されるように国会の解散。よってこの年の暮れに衆議院選挙が行われる。巷では500億円の選挙経費がかかると言っているが、裏返せばこれなども経済であって、何も損出するものでもなく何処かが潤っているという経済の中のひとつである。
それよりも問題は国民(選挙民)が考える力、いや人を見る目を持っているか?ということであって、我田引水のような己たちの目の前の利益だけをいいことに、国の金を持ってくるだけの議員を選ぶことではいけないことに気づくことである。

いつの世も、深謀遠慮にて考えられる人を選ぶべきであって、またそういう人を国がを必要とするのであって単なる利益誘導のための代表ではいけない。
先般もお金の管理さえもできない議員達が叩かれていたが…、そんな議員を選んだ人々をも何か言われて然るべきである。それ程に選挙とは我々の責任でもある。


それは兎も角も世間は三連休、幸いに素晴らしい秋の日和に恵まれて行楽地は凄い人であったらしい。今年は夏から天候には恵まれず観光地の人出は少なかったということだ。観光地の方達の思いも残念であったことでしょうね。
そんな中、信州では地震が…。実家が信州という友人たちが心配でもあるが今のところ幸いにも何もなかったようで一安心でもあるが、被災された方々には本当に気の毒でもある。

美しい景色や素晴らしい自然は、また反面このような恐ろしさを併せ持つものであって、故に生きることの意味を知るのでもある。温泉に入って我々は明日への希望を感じるのであるが、またその温泉ゆえに罹災することにもなる。
生きていくのも大変なら、生きていくのも捨てたモノでもない!

私には素晴らしい友人たちがいるが、やがては彼らとも別れなければいけない日がやってくる・・・。生きるとはそういうことなのだろう。
私の家の前の公園もすっかり秋の様相から冬の支度を見せている。諸行は無常であるが故に会者に定離である。



2014年 11月  16日 

己高山鶏足寺(こだかみやまけいそくじ)の秋もみじ

土曜・日曜日と連休!天気も気候もいいと朝から掃除や洗濯とやることがいっぱい。寒くなってきていることでもあるから暖房具も出さないといけないし、着る服も替えなくちゃいけない…、そんなこんなで一日は終わってしまいます。
部屋もスッキリとして気持ちがいい!生活スタイルだけはきちんとしなくちゃ~、老いを感じさせないよう日頃から注意はしているのだが?


日曜、普段にはない早起き!思い立って湖北へでも行ってみよう~と車を走らせてみた。通り慣れた国道365号線は相変わらず車も少なく走りやすい。北陸道という高速道路が走っているからだろう、今やどこも一般国道は空いていて走りやすく、況してや季節や名所史跡などを知るうえでも便利であるのだが…。

己高山山麓、石道寺・鶏足寺へと足を延ばしてみた。普段は参詣する人もほとんど無いのだが、この季節は凄い!とは聞いていた。石畳・石階段が落ち葉で埋めつくされて、頭上はもみじで真っ赤となる!!そんな写真を何度も見たことがあるのだが。
あいにくとそんな紅葉はちょっと早いのか?それでも観光客で石階段は人でいっぱいでもあった。ここまで来たのだからと奥琵琶湖でもと思って飯浦まで車を走らせてみるも、賎ヶ岳も紅葉にはまだはやく、静かな湖畔でひとときを楽しむだけであった。

帰路途中、時間があったので近江孤篷庵に寄ってみることにした。臨済宗大徳寺派の禅宗様庭園で、近江小堀村の小堀遠州の作庭の庭園は静かな空間でもある。苔むした庭にひと片ふた片さやさやと落ちるもみじ葉の音が聞こえてくるようでもあった。部屋の片隅に座ってじっと庭を眺めていると、すぐそこで秋が息づいていた。


早々に帰宅して休んでいると友人O君が林檎とおやきを持ってきてくれた。ふるさと長野須坂の中学校同窓会へ出かけてのお土産ということであった。
早速林檎を剥いて戴いた!秋を観て、秋を食べ、季節を楽しんだ連休でもあった。




2014年 11月  9日 

秋の陽射しの中


 


知り合い の女の子達と秋を観るため早朝からちょっと出かけてみました。紅葉には少し早いのかな?と思いつつも岐阜県東濃地方に向かってみました。

先般知った道の駅併設のランチバイキング!に。相変わらずいろいろと美味しいものが揃っており、中にはこの季節を味わう松茸の天婦羅もあったりと…一同楽しく頂きました。お酒が不調法な私ですが、一緒に行った彼女らは昼からビールを!美味いんでしょうな・・・

恵那山のふもと、岩村では湖水に紅葉が映ったり、静かな城下町街道を散歩したり…、車を置いて明知鉄道に乗って日本大正村まで足を延ばしてみました。この地域には日本農村風景100選に伝えられているところがあるほど自然な風景画が気持ちを和らげてくれますね。

日頃から仕事に追われながら過ごしている彼女たちには少しだけど心の洗濯にはなったのでしょうか?まだまだ紅葉の季節にはちょっと早いのかもしれませんね?

秋の入口が見られた散歩でした。



2014年 11月  3日 

日本人の奥ゆかしさ


先日旅先で回転寿司の店に入った。私はこの回転寿司店が好きでよく利用すのだが、実に経営努力のたまもので美味しい食材を廉価にて提供しているものと感心しきりである。
こんなことを言うとまた年寄りの戯言と云われそうであるが、私の幼い頃には考えられないことでもある。寿司と謂えばお祭りの時に母親が前日から仕込んだ押し寿司や稲荷寿司、巻寿司くらいで、所謂江戸前という寿司などは食べた記憶すらないのである。
誕生日に母親から『何が食べたい!?』と聞かれれば、『稲荷寿司!』『とんかつ!』と嬉しそうに言ったものである。近年、開店寿司店に行けばマグロは言うに及ばず、生ウニ、海老、赤貝などなど、その殆どが揃って運ばれてくる。未だまだ寿司の何たるかをも知る由もない幼児までもが口にほうばっているではないか。

まあ、我が国もすごい国になってきたんだと思えば我慢も出来ようが…、如何せん、帰る段となって一家揃っての食事であろうか子供たちはテーブルの上を散らかし放題!親は直す仕草もなく子供の手をとってそくさくと帰り、レジでは彼等の母親であろうか、おばあちゃんがその代金を支払っている。
子供と親は見向きもせず、さもなんでもなかったように車に向かって走っていく。  …何かおかしいぞ?

今の爺婆はお金を持っているのだろう?それは悪いことではないと考えるが、否その使い方にあるのではないだろうか?
私の母親などは、そんな時前もって私の家内にそっとバレないように多少のお金を渡していたのである。そうして支払いの段となると私の家内が支払いを済ませ、母親は私たち夫婦に向かって『今日は御馳走様でした』と言っていた。
本来ならば自分のお金なのにである!

昔の人は賢かった…と全てに言うつもりはないが、己の立場や存在をわきまえていたと言うことであろうか。暮らしに余裕があったとも云うことなのだろうか?暮らしの知恵をもっていたということなのだろうか?

私の子供達は『おばあちゃんよかったね~』、『お母さんは偉いね』と嬉しそうな顔をしていたのを覚えている。

気をつけよう!ゆとり世代を嘆く前に、戦後民主主義教育という変に間違った教育を受けて自由だ平等だ!と言って己の主義主張だけを正当化しようとした教育、平等だなんて言ったところで平等なんてありっこないのだし、自由だ!なんて言ったところで自由なんてないのを知っているのに…。

権利は義務と共に派生しているのだろうし、真に大事なのは身の丈というか?わきまえというか?日本人が持つ奥ゆかしさや、慎ましさなのだろう、そんなものが実は大事なものだったりして・・・




2014年 10月 26日 

月日は百代の過客


李白は『天地は万物の逆旅 光陰は百代の過客なり』と詠ったと謂われます。逆旅とは旅人をむかえる宿即ち宿屋をいうのですし、過客とは旅人をさして言うのでしょう。

それを芭蕉翁は『月日は百代の過客にして 行きかふ人もまた旅人なり』と詠い直したということらしい。光とは日と、陰とは月を表してこう表現したのであろうということ、光陰矢の如しということか。

兎に角一年は早い!私の近江散歩ファイルも今年16を過ぎて、正月の京都から暑い葛川夏安居と、秋の近江路と例年通りの行動を無事に経過して残すところ二ヶ月となりました。歳を重ねるということは、まるでカセットテープの残りのように速い回転で進んでいくようです。
若い頃には楽しいことが待ち遠かったのですが、今ではなかなか楽しいことを計画できなくなってしまい、楽しみを待つという、それこそ楽しみさえがなくなって来ているようです。ダメですよねえ~


友人の大津K君、名古屋のIさん、春日井のO君などは楽しく自然体で過ごしているのに…どうも私はいけませんね。
いろいろと心の荷物は捨ててしまったのですが、まだ何処かで引きずっているものがあるようです。

反省!反省!




2014年 10月 20日 
近江からの帰り道


この週は少々仕事が忙しく、ちょっと頑張ったと自負しているのですが・・・。やはり幸いにして楽しく仕事が出来ることに感謝しなければいけないのでしょうね。

そのおかげかどうか?週末から京都・近江の旅を楽しんできたが、この秋一番という行楽日和であった。友人Nさんを誘っての旅でもあったが、兎に角歩き回っての旅に驚いたことかもしれない。

例年暑い京都を味わいながらの大谷廟のお参りなのだが、今年は行けずじまいで心残りでもあった。秋の京都もいいだろう!と思い立って出かけてみた。

京都はバスの街でもある。バス路線は市内を縦横に網羅されて、JRバス、市営バス、京阪バス、そして観光バスと全く不自由しないのである。ましてや一日フリーパス券を購入すれば自由に一日楽しく観光できる。駅前から清水回り平安神宮行きという市営バスに乗り込んだ。
祇園で降車、八坂神宮の境内を横切って円山公園を見ながら大谷廟へと出るのだが、兎に角観光客が多い。かく言う私もその観光客の一人であるが・・・。

正月と夏の二回、この両親の墓前に来ることにしている。それは自分自身への投影なのかもしれない。生きていること、生活していることを実証することなのかもしれない。その確認作業なのかもしれないが、兎に角この十年ほどは続けている。ただ比叡山にへの寄り道である時もあったり、比叡山へ行くことの言い訳でもあったりする…。
それでも、こんな愚息を両親は許してくれているとおもうのだが?。
                                                                                           
                                           
久しぶりに宿を草津にとって、帰り道秋の近江を満喫することにした。国道8号線は何時もながら楽しい道である。
近江鉄道武佐の駅手前右前方の山腹に寺が見えた。、六枚橋交差点をまがって探すと、山中に福寿寺という禅宗の寺があった。静かな禅宗様式の寺であるが、眼下に近江平野を、遥か彼方に三上山と比叡の山並がかすんで見えるのを時を忘れてしまう程であった。

2014年 10月 14日 
自然との調和


台風一過の秋晴れ!  久しぶりですね。 南方海上では900HPとかなり大きく勢力の強い台風でしたが、東海地方にくると結構弱まってテレビで騒ぐほど・・?の事もなかったようである。
先の週では台風前線の長雨による地盤の危弱から被害が出たからでもないだろうが、如何にももの凄い台風が来ると騒ぎ出して、数時間も前なのにJRは止まってしまい、相変わらずテレビはレポーターが声をからして状況を奉告している。

昔年の建物とは比べようもなく頑丈な造りの家屋なのだが、やはり自然の猛威の前では遺憾ともしがたく、いとも簡単に流されて、潰されていく。果たして私の小さい頃にもこんなだったろうか?
私は伊勢湾台風を経験している、ただし未だ小学校5年ではあったが。それでも夜中にロウソクの明かりの下、父親が箪笥を動かしたり(扉の抑えだったろう)、玄関の引き戸が押されるのを兄弟と一緒に抑えていた思いが残っている。
翌日はそれこそ台風一過!で、父親が屋根に登って瓦を直していたのが印象的だった。それはどこの家庭でも同じで、台風の後片付けと云えば瓦直しと貼り付けた杭棒を外すことであった。

それでも、怪我人や用水で亡くなったとか、がけ崩れで亡くなったとも聞いてはいない。悲しいことに名古屋南部、港やそれに近い所では大災害が起きている。
それは起きるべくして起きたとも言うべきで、かつて人間が勝手に埋め立てをして造成した所に人間が住んだことに始まる。今でも自然と共生などと言うが、共生などとは恐れもなく言う言葉であって、自然の懐のもとに人間は住むのである。

自然を勝手に破壊して、自然は怖い!などと口先だけで言っているが…もう三日もすれば忘れてどこぞのゼネコンが大きな重機で何かを始めているのだろう。

人はこの地に住むことにリスクを考えて生かしてもらわないと駄目ではないだろうか?私の少ない人生経験の数十年だけでももの凄い変化に驚く。自然の猛威は数百年、否数千年でも大した変わりはないと思うのだが、人の歴史はこの数十年の間とんでもないように変わったと思うのは私だけではないだろう。
人の英知の恩恵には感謝しなければならないが、それに反して自然への畏怖を何処かへおき忘れてきたかもしれない。

何度も言うようだが、ナニモノカおわしまするか知らねども畏れ多くて涙こぼるると詠った先人を忘れてはいけない。

自然の猛威の後、美しい空を気持ちよく感じ、いよいよ短い秋もおしつまってくる。四季の辛さも、いずれは喜びに変えてきた日本人はそれこそ逞しいのである。




2014年 10月 5日 
日本の映画


此の程、日本の映画を続けて観た!『柘榴坂の仇討ち』と『蜩の記』である。共に武士の生き様を描いたもので、正に武士道をしっかりと生きた人間の心を描き出しているものと思っています。
『千利休・奥田瑛二』、『おくりびと・本木雅弘』、『最後の忠臣蔵・役所広司』、『道元・中村勘九郎』、『利休にたずねよ・市川海老蔵』ちょっと思い出しただけでも日本の映画はいいものです。

元来私は外国の映画をあまり見るものでもありません。平和を訴えながら戦争映画をみるような悪趣味でもないし、飛行機を落としたり、船を沈ませて楽しむ癖をもちえてもいない。。


威儀を正す!とは申しますが、生活の中に道を通す…。今は失われた柔道とか、剣道、花道や茶道にみるように道をとおるとは…?現在は頑固とも思えるような生きようが、人間のルールを作っているのです。それは時代が変わろうが環境が違っても変わりようがないのです。色即是空、五?皆空なのですから。

必死に生きていた頃、少なくとも物質的にも余り恵まれていなかった頃には澄んだ目や心を持っていたはずである。自然との関係、或いは人間の関係なども素朴であったからであろうか?


このところ夜風が少し冷たく感じるようになりましたね。そのぶん月をめでたり星を数えたりできるという楽しみが増えるというのもいいのですが・・・、月日の経過は早いものです。


2014年 9月 29日 

秋を感じる


「チンチロ~、チンチロ~」「リ~ンリ~ン、リ~ン」「りーりーリー」足元から小さな鳴き声が聞こえてくる。昨夜は綺麗な三日月であった。所々に星も見え隠れしている。じっと佇んでいると寒さを感じるようになってしまう…。
もう月も変わって神様が出雲までお出かけになる月である。出張先では来年は誰と誰を一緒にするかなあ~と頭をひねっておられることでしょう。私の知っている娘たちは議題に挙がるでしょうか・・・?

来週には『寒露』、そして二週間後月末前位には『霜降』となってイヤハヤ寒さをおぼえる節気ですよ!
そう言えば今年は未だ蜩(ひぐらし)の声も聞いていない!秋の空につけ抜きるように「カナ、カナ、カナ、カナ…・」と。今頃は湖東西明寺の石段をあがりなが、、らひぐらしの鳴き声が聞けたらいいのになあ~~

驚いたニュースが入ってきた!木曽御嶽山が噴火したという!こんな天気のいい時だから入山していた人も多いと思う。先日秋を観るために恵那辺りまで足を運んでみた。何気なしに駅前に車をあずけて電車で南木曽まで行くことにした。南木曽まで行けば美しい秋に合えるのだろう…、車窓を眺めているだけでもいいだろう!などと勝手に楽しんでみた。
南木曽まで行けば御岳も近くに見えるし、駅舎にも山歩きのかたの姿もみえる。山深い駅舎はゆったりとして、駅前の土産物店もいい雰囲気であった。

一週間も過ぎずこのニュースは少し驚きでもあった。自然の前では人間なんて虫けらのようで、楽しい山登りも一瞬にして地獄でもある。えてして自然の厳しさや急峻さが美しさと人間は勝手に思って喜んではいるが、それは自然の一つの状態でしかあらず、何が変動するかも分からないのが自然足る所以なのだあろう。
我が祖祖父は御岳信仰の先達であったという関係から、御嶽山の麓木曽福島口から登ったところに石碑があり、数度両親を乗せて詣ったことがある。度重なる地震などの為であろう石碑はいつも傾いていたり、動いていたりしていた。

そんな自然の恐ろしさに怯え畏怖を神が宿ると先人達は考えたのであろう。アミニズムだと云ってしまえばそうだが、人間は勝手なもので何もないときはドサドサと踏みにじるように自然を破壊しながら楽しんでいるだけである。御来光を見て神々しいと思うならその足元にも神々しさを見つけなければいけないはずである。

それでもたくさんの方々がお亡くなりになられたという、ご冥福を祈りたい。

2014年 9月 24日 
武士とは…


『姿形は変われども、捨ててはいけないものもある。 そこに文化は生まれる』

久方振りに映画『柘榴坂の仇討ち』を観た!江戸城桜田門外の変と云えば安政の大獄の話である。井伊直弼の近侍衆であった侍がその責めを負って一人十数年をかけて仇討ちをするというものである。
明治となって、時代の変遷は早く、人々は何もかも打ち捨てて変化の中に埋没されて行ったかのようになっていた。そんな中で黙々と仇を打つべく時代に逆らうかのように生きていく侍の言葉があった。

時代は全ての中で、そして何時も変化していくものである。それは姿や形を変えているだけに過ぎず、物事の本質や心の本質は容易く変わっていいものではない。

生きていくことに説明は要らない!生きていくことの言葉はない!

先に観た『最後の忠臣蔵』という映画もまた然り、黙々と生きて、己の目的を達するに要らぬ説明はしないという昔人の生きる姿を改めて認識させられた。


2014年 9月 21日 
毎年の行事


確か昨年は「熱い!夏」であったように思うが、いやはや今年はどうなってしまったのでしょうか??友人の家庭菜園も例年のような豊作とはいかず、小生のところまで回ってこなかった(いやいや…Mちゃん来年楽しみにしてるよ)。
専業農家の方々のご苦労はいかほどでしょうかね!それ程に日照時間の短さを感じてしまいます。

週末の連休をてっきりと雨と思ってしまい、近江の旅をキャンセルして後悔の二日間でした・・・。すっかり寝坊し、のんびりと昼過ぎに起きて天気の良さをみて、アレレ…。

何かと仕事も忙しくて夏の行事も観ることが少なかった今年、ふっと思い出して犬山木曽川鵜飼を見ようと出かけてみた。例年必ずと云っていいほどこの鵜飼を見に行くことにしている。夜八時頃になると犬山木曽川の堤前に数艘の鵜舟が下って、取り囲むように十数隻の鵜飼見物船が集まります。
船に乗らなくてもすぐ目の前に見えることがよくてもう何度も見に来ています。舟板を叩く音、かがり火が川面に映って幻想的な景色です。


さてさて今週半ばに、34㌔という天然くえを調理しました。お刺身に換算すると140人前くらいになるでしょうか?頭だけでもゆうに30cmはあるでしょうか、刺身のサクにするまで二時間くらいかかったでしょう。
お刺身、焼きもの、煮付け、唐揚げ、そして鍋に!少し時期的には早いのでしょうが、これから海水が冷たくなると美味しい味となります。大相撲九州場所が始まると博多ではお相撲さんの口に入る高級食材として有名ですね。
今年ものこすところ三ヶ月余ですね、頑張りましょう!



2014年 9月 15日 

北近江の旅

久しぶりに気持ちのいい天候が続いたこの連休、北近江(湖北)へ出かけてみました。

特に湖北は色々と仏像が豊富で、土地の人々が信仰心深くそれらを守っていることに気付かされます。此の度の散策でも掃除中の守り人に声をかけられたり、土地の方々に話を聞かれたことに旅の楽しさを堪能してきました。

一日目は伊吹山山麓を巡る旅で、米原梅ケ原の霊水禅寺、伊吹村太平寺跡、高月町高野の高野神社・満願寺などから余呉湖へ。翌日は余呉湖から余呉町全長寺から山を越えて福井県境近くの洞寿院へと共に禅宗の叢林を訪ね歩いてみた。

頂きまでくっきりと仰ぎ見る伊吹山は久しぶりで、ひょっとして今年初めてではなかっただろうか?麓の登山口には登山者たちの車が溢れて、絶好の山日和であっただろうかと思ってもみた。またしても古寺跡を探しあるくことから始まるのだが、山麓は広くあちらこちらと走り回っての散策でもあった。

相変わらず奥琵琶湖の風景は疲れた体に優しくて、比良山系に傾く夕日は湖面に美しく光っていた。






2014年 9月 7日 
海を見て思ふ


近くの公園から秋の虫達の囁きが聞こえてくる…。来週は月が一段と大きくみえるというスーパームーンだという。お月見なんていう行事はすっかり失せてしまったけれど、母親が朝からお彼岸団子を作って、甘く煮た里芋と一緒に縁側に飾っていたいることだけは覚えている。

 

また9月9日は重陽の日であり、いよいよ秋の雰囲気が漂ってくる。久しぶりに太陽が顔を出して爽やかな風が部屋を通り抜けていく。夏の最後を味わいたく車を走らせて知多の海を見に行った。
海岸には処々でテントを張ったり、走り回っていて家族連れやカップルが惜しむ夏を楽しんでいた。昔ほど海水浴を楽しむことも少なくなり、夏を惜しむ人も少なくなってきたのじゃないか?

知多の浜もすっかり変貌して、昔の面影も残すところもなくなってしまった。海上空港ができたので頻繁に飛行機が上空を滑空していくのが見える。沖合では大きな船舶が伊勢湾を往来している。世の中がこんなにも変わってしまったことをそんなことでもわかる

それでも自然のサイクルは変わりようもなく、遥か海の向こう鈴鹿の山並みに消えていく夕日が美しく、野間の灯台がゆっくりと時間にみちていくのを楽しんだ。



2014年 9月 1日 

食べることに感謝して


この夏はどうもおかしい!何処であったか?何ヶ所の都市では猛暑日を観察しなかったという。所謂日中温度が35度を超えることがなかったというから昨年とはうってかわって涼しかったということになる。

私もこれまでと違って夏休みという休暇もなく、いつも通りの連休しかとれず墓参りもままにならなかった。例年ならばあの暑い京都の夏に大谷廟へ両親の墓参りをすることも叶わず申し訳なく思っている。近いうちに出かけようと思っているが・・・

会社勤めをしてもう一年を迎える。宮仕えも苦痛ではなくことのほか楽しんでいる。考えてみれば責任という点では自営とは雲泥の差であり、仕事だけに徹して兎に角美味しいものを作ってあげたい!という気持ちだけは旺盛である。幸いにしてお客様の声もよく、喜んで頂いているだけでも結構楽しいものである。

自営の時の金銭的な感覚を持たなくていいだけでも気は楽で、自分の生活との区切りもでき、生きることの楽しさのようなものがみえてきた。

それでもこの週は何かと忙しく、中でも14㌔という大きなクエの料理が大変と言えば大変であった。これだけともなると魚の調理とも思えず、まさに解体であると言いたい。頭だけでも30cm位はあって切り込むだけでも重労働でもある?

口取から吸物の椀種、そして刺身であるが、薄造りと梅肉、醤油につけてと三種類の食べ方を楽しんでいただいた。大きな骨身はカリッと唐揚げにして、最後はクエの寄せ鍋である。最後に残った出汁で雑炊を召し上がっていただくのだが、この頃になるともうお腹はイッパイで!それでも少しだけでも召し上がっていただいた。i

比叡山での食前観では『我今幸いに 仏祖の加護と衆生の恩恵によりてこの清く食を受く。 つつしんで食の来由をたずねて味の濃淡を問わず、その功徳を念じて品の多少を選ばじ』と自念するが、こうしてみるに食を大事にしたいものである。昨今のメディアなどを見ていると余りにも虚しいものを感じるのは私だけではないだろう。。


2014年 8月 24日 

夏の彦根城へ


いつもの仲間と早朝から近江へ! 夜半からゴロゴロと鳴って天候が気になっての起床…。仲間の都合で急遽土曜日の散策であったが、仲間が集合する頃にはすっかり雨も上がって、処々で陽がさしてくることも。相変わらず今回も完全な睡眠不足というか?四時間ばかりの睡眠で出発!何故か近江へ出かけるときは体調も良くなるから不思議である。

車二台での近江行きであったが、米原で大津の友人と合流してまずは彦根城へと足を運んだ。幾度となく彦根へも来ているのに彦根城は来ていなかった。いや数十年ぶりであろうか?
夏の照り付ける陽射しはないのだが、代わって蒸し暑く感じる。処々で風通しがいいのか、涼しい風が心地良かった。天守からの眺望はさすがで、琵琶湖の湖面が美しく輝いていた。遠くは湖北から湖西まで見渡せ、ぽっかりと竹生島が浮いて見える。多景島が近くに見えてヨットが気持ちよくその周りを走っていた。

彦根城は切妻破風や唐破風の組み合わせが美しく見せて、天守の花頭窓が優美さを際立たせていた。城自体はどこも変わりなく権力を見せつける何ものでもなく、建築や土木という文化を昇華するだけというもので私はあまり好きではない。況してや楼閣内で武器や武具にいたる展示品を見せるというのも私の趣味でもない。歴史を知るということで云うならば町家を歩き回っ方がいいのかな?とおもう。

城内に入った時間ではちょうどゆるキャラで有名な『ひこにゃん』のショー?があった。凄い人気で驚かされたが、見ていると可愛さが伝わってきて確かに人気が出るのも頷けた。こうしたまったりとした気分にさせてくれただけでも良かったかな。玄宮園へと回って見て歩いたが…、どうも趣味が悪いなぁ~。近江人の遠州や近江を愛した芭蕉などに感じるわびやさびも感じることなく、中国宮廷への憧れが強い大名の道楽としかみえない。

米原付近での昼食はいつもの醒ヶ井道の駅ランチバイキング!我ら年配者には受けもいい!
同行のS君の希望で伊富貴観音寺へと回ってみた。同行の数人は昨年大雪の中の観音寺を見ているだけに感慨も一入であっただろう。又私の持論でもあるのだが「寺を回るのは真夏の暑い日か、冬のしんしんと冷えた日(雪の中)に限る」。


何とか雨に振られることもなく米原で友人と別れ、我々は帰路へとついた。今年の夏はどうもおかしい・・・?各地で雨による災害が発生して被災者がでている。自然はやはり恐ろしい!


2014年 8月 17日 

戦争の遺物


夏!またこの季節が来た。戦後生まれの私にとって実感のないテーマでもあるが、悲しいことに未だもって戦後は来ない!とも言わんばかりのメディア展開でもある。

我が国は国外にて戦死したものを英霊と奉じて神格化してしまった。国内で戦死したものは戦死者として墓地に葬った。同じ日本人を、同じ死者をこうして平然としている宗教感覚に恥じる思いである。戦死者を敬うというなら、その戦死者を送り出し、辛さに耐えながら戦後復興に努めた市井の年老いた親達にも目を向けるべきと思うのだが・・。
実は日本を守ったというのなら彼ら以外にはないのだから。決して戦死者を冒涜するものでもなく、メディアも含めて事実をきちんと見るべきと考えている。

私は戦争にかんする映画や物語は観ないことにしている。それは必ずや何処かで美談としている部分が出てきてしまうことからだ。戦争には美談などは絶対になく、すり替えの美談など目にしたくもない。聞けわだつみの声も知覧も決して美談でもなく、戦争に送ってしまった日本人の失敗であるだけ。戦争は無条件でするものでない!


近江を旅してとんでもないことに遭遇した。JR東海道線米原駅を通過して直ぐに左前方に懸崖作りの寺院らしきものを見る。それは岩脇(いわき)山という小山の中腹に、岩脇善光堂という信濃善光寺に関連する建物を探している途中に戦争遺構を見た。

戦中、物流の中枢を担う鉄道車両を守るためこの山に穴を掘ったというものである。東海道本線、北陸線の要所でもあったことからここに目を付けたのであろう。これは完成もみず今に残って、一時はゴミ捨てばともなっていたというのだから・・・。地元の人々がどのような気持ちで手掘りしていたのであろうか・・・、その岩肌を見ると胸が痛くなった。
ちょうど終戦記念日?も終わったばかりのこの夏、吹き出る汗を拭くことも忘れ、その痛々しい姿に時をも忘れてただ立ちすくんでしまった。。
人は戦争時にとんでもない考えを起こすものである。寺院仏閣を探している最中に、つい先程の戦争を感じたのは初めてであった。
大津伊香立に還木神社がある。堅田から坊村へ向う途中にあるのだが、還木を「もどりぎ」と読むところから出征兵士を送る沢山の親達が祈願ししたという神社であったが、それでもこの岩穴ほど生々しさを感じるものではなかった。


2014年 8月 10日 

久しぶりに料理!


    



口取  ・ 姫さざえ、赤車海老、ふぐ煮凝り、玉子焼き、南瓜、揚げ茄子、隠元煮含め、山ごぼう、煮玉子、牛乳固め
       沢かに、紅葉人参

仙台牛タン厚切りステーキ  ・ 辛しししとう、アスパラロールとグリーンソース

珍味  ・ からすみ、蒸しアワビ、蛸柔煮 

漬物  ・ 切干し大根醤油漬、牛蒡、人参、大根、茄子、胡瓜、茗荷


暑さの中、食欲が落ちますね!食事と睡眠が大切です。そんな事を考えながら盛り込んで見ました。


仕事が終わって帰宅、深夜にも関わらず近くの公園から蝉の鳴き声が…。蝉の一生はこの地上での数日で終わるとか聞きおよびます、諸行無常です・・・。
そして何処からか蛙の鳴き声も、ドスのきいた低音は存在感がありますねえ~。ふっと気がつけば足元から虫の囁きも聞こえて来ています。今は夏?確かに一週間もすれば盂蘭盆会ですし、立秋も過ぎて暦の上では秋が始まっているといるというが。
溪声山色、道元禅師はこのように言って釈迦牟尼の声が聞こえているとおっしゃった。山川草木は全てに仏性を持ち、その仏性一つ一つが釈迦の真理であると。そしてこれら生き物にも自然の声として仏性が感じられる。

併せて道元禅師『典座教訓』に曰く、衆僧を供養す故に典座ありと述べて調理をすることの大事さを記している。調理するとは人の心をも豊かにせしむるものでもある。





2014年 8月  3日 
夏の花


漸く夏の太平洋高気圧というのが張りだしてきたようで、ジリジリと熱い夏がやって来ました。学生たちは夏休みに入り、プールなどは大賑わい、そして各地では花火大会が開かれているようです。
反して大人と謂えば冷房病!熱中症!とまるで夏地獄さながら…、乗り切ったものの何れやってくる夏バテ!が今から怖い。せいぜいが体を冷やすことなく、食生活を充実させながら睡眠を取ることくらいでしょうか?。

ダラダラと過ごすのも一日なら、教育(今日行く)的に過ごすのも一日。と、考えて時間的には遅いかとも思われたが睡蓮、蓮の花を見るため出かけてみた。潮見坂平和公園という、いうなれば墓地併設の公園である。数年前は睡蓮が美し行く咲き誇っていたものだが、すっかり変貌して蓮の花が一斉に咲いていた。

朝、梅雨あけの空が白む頃に最も美しい姿を見せるというが…葉の上に水玉が弾くように溢れる姿は静謐なものを感じると思われませんか?言うまでもなく蓮の花は『妙法蓮華経』で説かれるごとく仏教の教えの中ではよく出てくるものです。
そんな蓮の花を静かに見入っていると何故か心穏やかになってくるのがわかります。

時間もあり、久しぶりに娘と夕食を一緒にとることになった。兎角静かな食事?が続いていた折であったから、嬉しいものである。
立てば歩めよ親心!じゃないが、結婚すればしたでまた心配がありますね・・・



2014年 7月 27日 

さしづめ「暑さの夏はオロオロ歩き…」ということか。   イヤア~暑い!熱い!

夏の日の想い出…、炎天下にて走り回っていた!短パンにランニングシャツ、サンダルとも言えない草履だったように思う。神社やお寺は夏の遊び場としては絶好な場所でもあった。プールが出来たのは確か小学校卒業する頃でもあった。それまでは近所の小川で泳いでいたものであった。
それでも日がな一日遊んでおれたのは何故だったのだろうか?

住んでいるマンションの前に大きな公園がある。野球場から、ソフトボール場、芝生公園からマラソンコース、砂場や鉄棒など子供の遊び場、そしてプールがある。
しかし、声が聞こえてくるのはプールからだけで…、人影もない。それでも夜になると野球場にライトが点灯するからか草野球が始まる。実はこれもおかしな話でもあるが。


いよいよ夏祭りが各地で始まりました昨日は津島天王祭り、そして一宮七夕祭りと。岐阜長良川花火も行われて夏本番なのでしょう!




2014年 7月 21日 
私の夏・天台回峰行葛川夏安居


土曜日仕事後、深夜大津葛川坊村に向った。私にとって数年来夏の行事となってる天台回峰行葛川籠山のお見送りである。

一週間の仕事を終えて、途中長島の温泉でさっぱりとした気分となりのんびりと車を走らせる。流石にこの頃は長島ICから栗東ICまで高速を使うのだが、次第に気分が高揚してくるのがわかる。

琵琶湖大橋を渡って伊香立から途中の信号を曲がって367号、通称鯖街道と謂われる道を行く、花折のトンネルを抜けると葛川である。左下を流れる川が途中にて分水嶺を別けて京都に向かって高野川となり大原から八瀬、そして鴨川にとなり、花折から北では安曇川となって朽木から琵琶湖へと注がれる。

まだ暗いうちに着いて仮眠するも高揚してか寝付けない。空がうっすらとする頃明王院から法螺貝の音が聞こえてきた。籠山最後の日が始まりである。山の冷気が心無しか肌寒いくらいで、早朝の明王院は怒号の中、新行さんが走り回っている。

藤波源信阿闍梨さんにお会いしたら『わざわざですか?』と驚かれました

8時過ぎに最後の勤行も済み、自主神社に勢揃いし二十人ほどであろうか我々が膝まづいていると行者達がそれぞれお加持をさずけて帰途につかれた。


相応和尚(そうおうかしょう)以来1200年、脈々と続いてきた天台密教の歴史が今年も無事終わった。それを支えて来た坊村の方々、付近の御婦人方、常喜・常満という葛野家、そして僧侶たちに敬意をはらいたい。


疲れた体、そして睡眠不足も加わって体が重い・・・。帰路、草津琵琶湖畔の烏丸半島の水生公園の蓮の花を見に寄ってみた。今が盛りであろうか湖畔に群生している花が夏を感じさせた。梅雨明けしたとか・・・

湖畔道路を走ると海水浴場やキャンプ場などたくさんの人が夏を満喫しているのがみえる。湖をわたってくる風も汗ばむ体に心地よい!








2014年 7月 13日 

930HPという低気圧、台風である。季節的に梅雨前線を刺激して台風とは距離の離れた所で長期間にかけて雨が降っている。一見なんの関係の無いところで自然災害が起きている。報道期間などでは台風情報を逐次流し続けていながら現地での風雨はそれほどでもなく・・・、一方で山に寄りかかっていた場所で土砂災害に見舞われている。

南の地方で激しかった風雨も本州にくる頃にはすっかり弱まり、報道で叫んでいた「50年に一度の!」の声だけが虚しく思えて仕方ない。自然の懐に抱かれるように住んでいるところではひとたび自然が怒り出したらただひたすらに逃げるしかなく、人間が造った構造物などは何の力にも鳴るすべを得ないと知ることであるのだが・・・。人類の叡智、自然との共生!とかって大きな声で叫んでいたのが正しく虚しいものとなっている。


翻って考えてみるに、近江の寺院を回って何度も移動の歴史を目の当たりにしてきた。山の中程に建立された寺院が、災害などによって麓に移され、また災害によってその場所を今に移したという歴史はある意味で災害史でもあるのだ。えてして寺院はその災害者慰霊などによって建立、創建されるのが多く、自然の怖さというそこに何かを見出しながら、自然に語りかけ、ひっそりと共生してきた歴史がある。

人類は川の傍に文化を育んで来たが、反面川にリスクをも背負ってきている。土の下に眠っていた古墳や遺跡などはまさしく災害地であったところかもしれない。

この頃、人類はもの凄い構造物を造って歓喜している、しかし今一度考えてみることも必要では?都会のど真ん中にとんでもない高層タワーを造って、我が町の自慢です!と言われても、それがなんですか?と。
町を遥か眼下に見て「凄い!」ということにも…、それがなんですか?と。 何れ自然のしっぺ返しが来ることも知らずして。

もう暫くすると梅雨明け、さしも暑い夏がやって来る!暑さ対策、かくれ熱中症などと警告されているが、私にはそんな夏の陽のもとで寺を探し歩くのが楽しみでもある。今年の夏、近江にはどんな寺があるのか?





2014年 7月 4日 

『一切衆生 悉有仏性』 ですね。






まな板にのらないくらいの魚を調理しました。

旬ではないのですが、先週に師崎より活きたクエを入れましたが、生憎と一週間ももたずに息が上がりそうでした。
結局、活きているあいだに調理することに・・・。

重さは13㌔だったか?兎に角重い!!鱗を削ぎ取ることから始まり、三枚におろすのですがこんな姿になっちゃいました。人間っていうのも残酷ですな。
考えてみれば、生きとし生きるもの全ては何らかの命を食らって生きながらえているわけですから・・・。

仏祖の加護と衆生の恩恵によってこの清く食を受く。つつしんで食の来由をたずねて味の濃淡を問わず、その功徳を念じて品の多少を選ばじ。





こんな食をお出ししながら、純粋に料理を楽しんでおります。
みなさんどんな食事でも楽しんで感謝しながら召し上がって下さいね。





2014年 6月 29日 


梅雨明けて
向暑の砌…、と書いて投函した文もいつしか小暑に。梅雨と云えば雨がしとしと…と思いがちですが実際は秋雨の方が雨量は多いと聞きます。しかし、近頃は天候も異常気象と簡単に片付けられてますが、実は我々人間の仕業?とも考えられてもおりますがね。

住まいの近くでも蛙の鳴き声が聞こえていたのですが、この頃は全く聞けません!自然に逆らって物事を進めようとしても本質からはかけ離れてしまって本来のモノは観ることが出来ません。
どんな素晴らしい景色も飛行機や新幹線で見に行っても何のことでもないでしょう。季節感を大事に料理を作っても造られた空間で冷房や空調のきいた部屋で味わうほど虚しいものはないのでしょう。
いやはや昨今は全てが人工の器の中で生活しているようなもの・・・。せめて人間だから感謝しながら生活をすることでしょうか。


昨夜来の雨もすっかり上がって朝から晴天、部屋を開けて空気を入れ替えて、布団を干して掃除をすると気持ちのいい汗を実感!やはり湿度がたかいのでしょうか汗も体にまとわりつくようです。
昼からシャワーを浴びて気分もスッキリと。いやあ~数十年前には考えられない快適生活ができるようになりましたが・・・。
ウイントン・マルサリスのクラシックトランペットの音を聞いてゆったりと流れる時間を楽しむのも久しぶりなこと。今年に入っていろいろと見たいものや経験したいことが多くのんびりすることの少なかったが、ちょっと体を休めることができたかなあ~。

一年の半分が過ぎて、元気で夏を迎えるためにもこの辺で体を休めるのも大事ですか?年老いた体を労わるのも大事なことですからね?
それにもまして、羽島の大賀蓮はそろそろ見頃ですか!紫陽花もいいのですが、古代蓮もいいものです。





2014年 6月 22日 
うぐいすの鳴き声を聞いて


やはりと言うか、案の定と言うべきか?先週の近江旅の付けが来ました!

若い頃と違って疲れというものがすぐさまやってくるということもない…、だが油断した数日後突然なっなっ??という感じでどこやらが痛くなってくる。今回もその例外ではなく、火曜日仕事が終わった頃から背中というか腰というか痛み出したのである。
原因には覚えがあるから市販薬で湿布したりして過ごしているが…いやあ解っていてもついつい歩き回ってしまう悪い癖がなおりません。年齢も顧みず山中の寺院へ行くのは考え物ですかな?
ホームページアップをしているのですが、長時間のパソコンは腰に悪くなかなか進行しておりません。


それでも時間をさいて出かけたのが愛知県豊田市中金町、所謂足助の手前。ある方の紹介で木工細工屋さんというべきか?木工趣味の店というようなところでもあった。
私と同年齢位のご主人にお話をうかがいながら木工の面白さや木の性質など、また製品の加工方法をお聞きしてきました。以前、近江を旅して見つけた木地師の里君ケ畑での木轆轤を思い出して一度お邪魔して話を聞いてこようと思ってのことです。

お椀がどのようにして出来上がるのか?を知ることが目的であったが…、残念ながら現代は旋盤という工具やサンダーなど工作機械がたくさんあるということがわかった。(想像はしていたが・・・)


帰路、小原の村を横断して山中を走っていると麓の小さな村落で鶯の鳴き声を聞くことができた。暫し車をおりてそのさえずりをのんびりと聞いてみることにした。山からの霧を一掃するかのような鶯の鳴き声と、水がはられた水田は日本の原風景とも思える。




2014年 6月 15日 

娘からの嬉しい贈り物


土曜・日曜と連休をとって近江の旅へと出かけた!梅雨の合間の晴天というか?こうした天気を五月晴れと何かの本で読んだことがある。
今回は甲賀市(こうかしと読む)の甲南町周りを探索してきたのだが、甲賀とは鹿深からの転訛とも言われるとおりその歴史は遠く、奈良・平安の時代建築をささえたのも実はこの辺の鉱物であったり、材木や石でもあったのです。

そして竜法師と流星、山伏と忍者、花火と薬、山と水と石という信仰を観る旅でもあった。一週間前から念入りに道筋を探しながら行程を考えていったのだが…、実際は思うようには行かず、あちらこちらと迷いながら、勝手に飛び込んで道案内を聴いたりと相変わらずの旅でもあった。

数百段という石階段を上がるのだが、どうも歳にはかなわずゆっくりゆっくりと休みながらの拝観には思ってた以上の時間がかかってしまい、特に山岳信仰は本当に骨がおれますね。

二日間の旅を堪能して、疲れはてて帰宅したら嬉しいものがありました。私にはたくさんの可愛い娘たちがいるのですが、Iちゃんから父の日プレゼントが置いてありました。このメーカーが好きなことをよく覚えていてくれました。こうしてみんな大事にしてくれるのが私の喜びでもあります。

添え書きに『もうおじいちゃんなんだから、熱中症に気を付けて大津を旅して頂戴!おシャレも忘れずに』だって!・・・いやはや嬉しいのやら、寂しいのやら?

来月15日から20日には葛川夏安居、そして自主神社祭礼と太鼓乗りが・・・。その時には被って行くことにしよう!




2014年 6月 8日 

酒井雄哉阿闍梨の書

どうも私にとっての6月は何かが起きる月であるのだろうか…?

近くに住む可愛がっていた娘が都会へ行くことになった。まだ若いからいろいろと経験を重ねていくのだろうが、何分都会生活もしたことのないのだから心配でもある。急なことから仲間とやら友人と送別をするのも慌ただしく見送ってあげました。私も都会での生活経験もないのだから全く想像もつかなく唯々彼女を信頼してあげるだけである。


  『入り来る人には安らぎを 去りゆく人には幸せを』

先般お邪魔した、大津市葛川明王院の政所休憩所に偶然にもこんな額が掲げてあった。
昨年遷化された比叡山千日回峰行大阿闍梨酒井雄哉師の書である。
こうした方でないと書けぬ書であるのかなあ~。

梅雨の季節へとなって湿った空気が重いですね。しかし公園の木々は一層の青さを増してきています。燕子花(カキツバタに代わって)そろそろ紫陽花の美しい頃でしょうか?
そして、この季節もなると思い出すのが奈良新薬師寺でしょうか…。三回ほど訪れているのに全てが雨の中!しかしどうしてなのか雨が似合うのです!
ふっくらとした薬師如来にはどこか緊張感を感じさせない安らぎがあるのです。その如来を護るごとく十二神将像が屹立しているのが対照的でしょうか…。近じか久しぶりに行ってみようかな?



2014年 6月 1日 

日がな一日のんびりと過ごす


勤め先の社長から「杖を就いても働いてもらいますよ!」などと言われるのは職人冥利に尽きることかもしれない。大事にしていただき、また仕事を尊重していただいて働かせていただくのは誠にありがたいことだと思っている。

それにしてもこの年齢ともなると、果たしていつまで健康でおられるか?、いつまで働くことが出来るか?が心配事にもなってきて、周りの方々に迷惑をかけることのないように心がけるだけである。
幸いにして、職場では楽しく調理ができるし、生き甲斐らしきものも感じているのだから感謝しなければならない。


生活が180度の変化してもう九ヶ月を過ぎる。いろいろと精神的には楽になり、また人生を楽しく生きていけるのを感じている。そこはかとなくこれまで助けていただいた友のありがたさにも感謝しなければならない。そう、残り少なくなった時間を有意義にするのも彼ら無しでは語れない。


もう半年過ぎた…!未だ半年しか過ぎていない…!どちらにせよもう水無月、確か夏至はこの月の半ばであったろうか、一日が長く感じるこの頃。朝から掃除やら洗濯に追いやられる始末。
おかげで昼過ぎにはゆっくりとジャズなど聴きながらソファでうとうと…、久しぶりにのんびりした日曜日。

2014年 5月 25日 

今年二回目となる仲間との近江旅、早朝にも拘わらずみんな元気に出発!久方振りに全員集合となり車二台に分乗となった。天気も心配のない行楽日和!

米原にて友人と合流の後、長浜市の安楽寺、国友村の鉄砲資料館、西野集落のの薬師観音堂、正妙寺十一面千手千足観音、最後に西野水道という計画。
有名寺院ではなく、人も余り来ることもないような所を選んでみたが…。やはり住職から「当寺院にくるような方は変わった方で・・」と言われる始末。それでも近江を知ることで、否、近江の信仰を感じることでどうしても行って欲しかった所を選んでみたのだが。
幸い8名という来訪者に住職も力が入ったのか?懇切丁寧な説明で大変感謝であった。前に来たときは(もう数年前であるが)説明も無く静かに庭を眺めていたと記憶している。今回はお庫裡さんであろうかお茶とお菓子までだして頂いた。


途中、昼食を摂ることにしたが、入ってみたお店が何と大盛り気味の店だったようで…、いやはやお腹が苦しいと言いながらの楽しい旅でもあった。

私の近江の旅は殆どが一人或いは二人で訪れているのだが、こうして気の置けない仲間たちと旅するのも本当にいいものである。近江の良さというか、近江の歴史やその信仰心を少しでも感じ取ってくれたらいいと思いつつ案内をした。



2014年 5月 19日 

京都・滋賀と歩き回り

久方ぶり連休を楽しんでみた。宿を大津にとったことで、「京都地下鉄・京阪大津線1DAYチケット」を購入しあちこちと歩きまわることにした。
昼下がり浜大津からの琵琶湖は湖面がキラキラと輝いて美しかった!沖合のヨットの塊がこの天気を物語っているのだろう。一日目は京都市内を歩くことにした。地下鉄太秦天神川までとりあえず行き、)鹿苑寺(金閣寺)の法堂特別公開へと足を向けてみた。
流石に外国人観光客が多い!しかし法堂は人もまばらでゆっくり拝観できる。方丈襖絵の狩野外記の筆はいいと感心…。他の杉戸絵はデジタル複写ということで少々裏切られた気持ち。
人混みの中からの舎利殿「金閣」でなく、法堂から庭越しに見られたことは北山殿義満の気分かもしれない・・・?

バスに乗ったり、地下鉄に乗ったり、歩いてみたりと兎に角、京の都を回ってみた。

翌日は比叡山飯室に行くも、あいにくと阿闍梨はご不在。過日松禅院から長寿院へと変わられた旨のお手紙を戴いていたのでご挨拶と思ったのだが…。
聞くところによると、この日は葛川明王院へ行かれたとのこと、直ぐ様葛川へ車を走らせた。この葛川明王院での護摩供、御加持は初めてであった。護摩供の様式など多少変わっているのだろうという楽しみもあって…。
終了後、休憩所にて葛野さんのはからいであろうか?お茶など呈された。阿闍梨と一緒に二十数名であろうか、団欒の機会を得た。

この頃の陽は長く、夕方七時頃まで明るさが残っている。 琵琶湖大橋を渡って湖岸道路を米原まで走ると琵琶湖に別れを告げる。この日も高速道路は渋滞というので一般道路を走って帰ることにした。流石に疲れは隠せず早々と休むことにした。




2014年 5月 11日 
美濃井深正眼僧堂を訪ねました


今週は充実した時間を持つことができました。一年前には確か病院のベッドに居たはず…、相変わらずの心臓病とはいえ四度目ともなると手術も諦めの境地?となって病室ではのんびりとして過ごしていましたか。もうこの頃には体力の限などで仕事も整理ができていて、今後の不安感と葛藤していたものです。
幸いにして現在は仕事にも恵まれて楽しく過ごせているのは世間の皆様のおかげと感謝しています。


疲れた体に心地よい眩しい陽の光、暖かい天候にさそわれて久しぶりに美濃伊深の里・正眼僧堂に出かけてみました。
富加の信号ををすぎる頃から道は徐々に軽い登りとなってゆく。両の山はこれから美濃路と云わんばかりの雰囲気を漂わせている。もう二十数年となるであろうか?この道を走って来たものである。


僧堂は大燈国師を提唱している最中でもあった!若き雲水さんたちが臨済録でも勉強しているのであろう。本堂では小川宗玄老師(師家)をはじめ納子達が読経されていた。本堂の片隅に座らせていただき拝聴させていただいたのも何かの縁かもしれない。禅宗の読経は一糸乱れぬ音階に何時もながら感銘する。

静かな時の流れを感じながら、縁側に座って庭を眺めつつひとときを過ごしてみた。至極の時でもあるか・・・





2014年 5月 6日 
奥琵琶湖・葛籠尾半島菅浦集落の遅い春


都会にはない、静謐な時間というか自然の生業を感じる場所が近江にある。

久々に自分の心を研ぎ澄ますべく行ってみることにした。この日は五月の連休ということもあって道中は車で混んでいた。しかも天気予報は全くと云っていいほど外れて…あいにくの小雨がふる有様!。前日までの暖かさは何処へ?


しかし案外にして、こうした時にこそその地の真実が解るかもしれないと思いつつ。  関ヶ原を過ぎる頃にはあがっていた雨も木之本を過ぎた時には小雨となっていた。賎ヶ岳を右に見つつ大音地区を通り賎ヶ岳トンネルを通過すると眼前に琵琶湖が飛びこんでくる。

塩津街道と謂われる8号線である。藤ケ崎トンネルが新しく出来て走行は楽になったが、奥琵琶湖を目の当たりにすることもなく通り過ぎることが私には出来ない。この辺りは琵琶湖の最北端で神秘さをも併せもつ所でもある。対岸は葛籠尾(つづらお)半島でこれから行くところでもある。

兎に角人がいない!海面が暖かいのか?湖面がうっすらと蒸気が上がっているようだ。昨年だったか仲間を連れて来たのを思い出す。
須賀神社はひっそり佇んで静かに村を守っているようである。
村内を阿弥陀寺まで歩いてみるが余り村人にも会えなかった。

湖岸を奥に歩いてみることにしたが、かつては住まいであった廃屋がまだその生活感を残しながら荒れ果てて無残でもあった。昔は此の細い道らしきものが村人たちの村外へ唯一の道でもあっただろうか?

奥琵琶湖の水はまだまだ澄んでおり湖底の小石までくっきりと見ることができる。沖合を漁船が湖面をすべるように通り過ぎていった。細々として漁をし連綿としてこの村を維持してきたのだろう。
かの女史はこの地を近江のかくれ里と言った。。

静謐な時間を体いっぱいに感じながら現実へと帰り道をいそいだ。




2014年 4月 27日 

先日友人から旅のお土産を戴きました。信州出身の彼は兄妹が地元にお住まいとのことで毎年一同に集まる兄妹会をされるといいます。何とも羨ましい話ですし、皆さんご高齢にも関わらずお元気でおられることに唯々素晴らしいことと感服しております

また彼は小生が甘党なことをよく知っており、今年も信州小布施の栗羊羹です。娘たちには信州名物おやきもということで、皆んなで戴くことにいたします。彼の心遣いに感謝ですね。




春の連休ということですが…残念ながら小生は仕事!二日くらい休めるのかな?そんななか天気のいい休日!ちょっと買い物と思い立ちのんびりと歩いて行くこととした。公園の周りは一面サツキが花を開き美しい色を見せております。またハナミズキが純白の花びらを風になびかせておりました。
永く住んでいるのであるがなかなか歩いて回ることもないので、この機会に少し遠くまで買い物に出てみました。この界隈だけでしょうか?家の周りに小さな黄色いバラの花垣が育ててあるのを見ました。良いですね!可憐な花ですがたくさん集まって咲いているとある種壮観に見えるものですね。

こんな時、草花に全く無知なことを残念に思いますね。花々の名前だけでも知っておれば鑑賞も違ってもっと楽しく見ることが出来るのでしょうが・・・。



2014年 4月 20日 

すっかり陽気が良くなってきました!桜花が散ってマンション前の公園には色々と花が咲いてきました。草花にとんと疎い私ですがサツキだけは知っていて、公園の周りを彩るようになります。

サツキと謂えば甲賀市の大池寺の庭園を思い出しますね。その蓬莱庭園はサツキの植え込みで蓬莱船を形どっているものです。昨年仲間と伺ったのですが、季節が外れていて残念ながら彩った庭園は見られなかったのです。この一箇月くらいの間は見頃じゃないでしょうか?


草花が華やかさを放つようになるにともなって、樹木が青葉をもつようになりますね。実はその樹木ですが息をしているのですよ!一晩その樹木の下に車を置いていたらガラス一面に息吹らしき樹液が付いていました。自然の力のようなものを感じるのですが…。昨秋には美しく紅葉をみせていたのですが、全ての葉を落として一冬耐えたその枝に陽があたって美しく萌える青葉が綺麗です。

いやはや月日は百代の過客にして行き交う人も旅人…ですね。もう一年も四ヶ月が過ぎて、もう来週は五月皐月のゴールデンウイークですよ!
ご家族と、仲間と遊びにいく計画も決まりましたでしょうか?僕は勿論のこと近江の旅を計画中で、のんびりと琵琶湖を眺めていたいですねえ~。キラキラと光る春の湖面は美しく輝いていますよ。

相変わらず身辺は小さな問題が起こるこの頃、可愛がっている娘たちの問題や、友人の病後問題や就職の問題、私の仕事もいよいよ責任が覆いかぶさてくるような気配…、以前のようなストレスはなくとも人生のんびりと過ごさせてくれません。まぁーこれもポジティブに考えれば充実してると考えればいいことでしょう。

皆さん少しでいいから力を貸してくださいね(ぺこり)


2014年 4月 13日 

三河湾に浮かぶ篠島

古代、万葉人は都から遠く離れたこの三河湾に浮かぶ小さな島を詠っている。『夢のみに 継ぎて見えつつ 小竹島の 磯越す波の しくしく思ほゆ』 つい先年までこの小竹島は琵琶湖に浮かぶ竹生島と考えていたようで…、小竹島と書いて「しのじま」と読んで三河湾に浮かぶ明媚な島・篠島と解釈されるようになっている。

思うに、万葉人が奈良の都にて遠く離れた小島を語っていたと思うと心がどよめくと思いませんか?

時間の合間を見つけて、久しぶりに海を見に行きました。仕事の関係もあって師崎辺りの魚なども見るのがもう一つの目的でもあったのですが、私としては篠島の歴史などの方が気になっていたのも事実でしたがね…。

知多半島自体にも古墳がたくさんあるのですが、篠島にはその半数位があると言います。貝殻や魚等の骨、土器にいたるまで沢山出ているのですね。かなり古くから住んでいたことになるのですが、対岸の渥美半島伊良湖に近いところには東大寺の瓦を焼いたという東大寺窯跡もあるのですから、先人は都からこの当たりを闊歩してということになるのです。そう考えると少し楽しくなりませんか・・・?

島内を歩いてみた。天気がいいのですがこの日は少し風がでて肌寒くも感じられたため、島はずれの歌碑公園までの予定は次回にした。島中央には神明神社があり、遷宮がされた伊勢の分神が勧請されて祀られていた遷宮後の古材で建てられているという社はいかにも!というころあいであった。
現在でも御幣鯛(おおべだい)という塩調理された鯛を神饌として奉納されているのである。昔からこの三河湾は大変よい漁場でもあった。

この日は時間もなく、体調も余りいいとは云えず早々に引き上げてきたのだが、今一度ゆっくり島内を歩いてみたいと思う。名物のしらす干しも時期を過ぎて、残りゆく桜も風にまかせて散っていた。それでも船にのって島へ渡るということで新鮮な旅を味わうことができただけでも楽しい一日でもあった。


2014年 4月 6日 

桜について 2

『花の色は 移りにけりな いたずらに わが身世にふる ながめせしまに』 あの小町がその美貌と想いをたけに業平に詠ったという。百人一首に選択された有名な一首。

平安時代はじめ、その業平が仕えていたという山城国愛宕郡小野郷の小野宮(このみや・現在の京都大原付近)では惟喬親王が世をすねて詠っている。
    『桜花 散らばちりなむ 散らずして ふるさと人の 来ても見なくに』
京都杉坂、大原の郷でも桜が美しく咲いていることだろう…。
兎も角も、桜というものはこうして世を惑わすものだったかもしれないのですよ。

 

私がふるさと、岩倉五条川の桜を見てきました。未だ物心ついた頃には入鹿池から流れる農業水路だったように思うが…。夏休みにもなると、お兄さんたちについて行き川の堤防や渡り橋から飛び込み泳いだものでした。春には川をせき止めて魚取りをした思い出があります。

今では川も綺麗に整備されて、両堤に物凄く沢山に植えられた桜の木が満開の花を見せてくれるようになっている。実はこの堤の整備は市から委託された友人が設計したものでもある。彼の優しさが織り込まれているのか、聞くところによれば毎朝たくさんのジョギングや散歩の人達がいるという。

この日は花も少し強風に飛ばされてしまったのか…、でも多くの人たちが思い思いの心をもって桜の下を歩いていたのだろう。どんな思いであれ、こうして花を愛でる習慣はいいと思う。
さあこれで春も本格化してきますね。僕の心も体もいよいよ近江へと突き進んでいくようです!



2014年 4月 2日 

桜について

仕事が忙しく休みも間々にならない…、このところ家を出ると綺麗な桜の花が目に飛び込んでくる。もう桜咲く季節でもある。今度の日曜にはどこかへ桜の花を見に行くことにしよう。


『世の中に たえて桜の なかりせば 春のこころは のどかけらまし』 

私はこの歌が好きである。在原業平は惟喬親王に仕えながら交野の別荘で詠んでいる。文徳天皇第一子であるのにもかかわらず天皇を弟親王(清和天皇)委譲し都を離れて隠棲する惟喬親王を慮って詠んだのであろうか?
今頃は君が畑の高松御所にも、また京都大原小野宮の里にも桜の花は美しく咲いていることだろう。親王が安らかに眠っている宝筺印塔をつつんでいることでしょう。

『山里に たえて桜の なくはこそ 花にみやこの 春もしのばめ』   藤原定家

『願わくば 花のもとにて 春死なむ その如月の 望月のころ』 と。残念かな、師は桜の開花前に薨去している。北面の武士をすてた西行がこのような歌を残してこの世を去ったのには、桜にまごう人を想ってのことであろうか…?


戦国の世、近江蒲生から東北に転封された蒲生氏郷はふるさと蒲生若松を思い、会津若松と名をしたためた。以後勇猛な会津藩の礎となった。九州名護屋に行く途中寂しくつぶやいたともいう。
『思ひきや 人のゆくえぞ 定めなき わがふるさとを よそに見んとは』・・・と。

そして己が辞世の句に

『限りあれば 吹けねば花は 散るものを 心みじかき 春の山かぜ』 
心はいつも近江蒲生にあったのであろうか?

二年前、病室から眺めた桜の花は今年も咲いていることでしょう。わが住まいの近くの公園の入口はもう満開です。私もこうしていつまで見ることができるのでしょうか?
桜が余り好きでない私ですが、桜の花を見るに付け残された人生を思います。


いやはや桜とはそういう花でもあるのですね!



2014年 3月 23日 

目が覚めてカーテンを開けると眩しい朝の光が!休日の朝というわけでもないのだが早めに起床することにしてみた。
独り住まいはこんな時でないと家事ができないのだ。早速洗濯機を回しながら家の中の空気を入れ替えることにした。布団を干すことが今夜の睡眠を喜びに変えてくれることだろう。

一段落してジャズを聴きながら美味しいコーヒーを飲む!これは又独り住まいの良さかもしれない。昼下がりのひとときをゆったりした時間が流れていく。そんな時に限ってお腹が空いたのを感じるものらしい…。
今日は久しぶりにのんびりと過ごそうと決めていたのだ。


しかし近くに住む娘と子供が遊びに来るという電話があった。一人静かに過ごすのもいいのだが、こうして遊びにきてくれるのも嬉しいものである。小学校三年生と幼稚園年長組というから八歳と五歳ということになろうか、子供たちを見てると月日は本当に早いものである。

近くの公園からは野球を楽しむ大人たちや走り回っている子供たちの声が響いてくる。数週間前までの冬景色とはすっかり変わっていて木々の青さが増しているようにも思えてくる。来週あたりには桜の花もちらほらと見ることが出来るのではないだろうか?もう春がそこまでやってきている!



2014年 3月 16日 

水が温みをましていけば、風が体を優しく撫でていく頃。伴ってもう直ぐに淡い花びらが舞う季節ともなるのでしょう。人々は外套をすて光を求めて街のあちこちをさまようのである。春の陽は我ら生き物にとって素晴らしい贈り物なのであろうか。仏はこの季節に手を合わせることを求めたかもしれない?その陽のもとに。

春分の日は三連休と喜んでいる方がいるのであろうが…、いや、せめて一日手を合わせることにしよう。誰のためでもなく、自然に感謝するだけでいい!今はいない父母や友のためなら尚更にいいのだが。

私には40歳、50歳の時に急逝した友がいる。彼等の分まで生きさらばえたのを喜んでみることにしよう。漸くこの歳となって彼等の死がいかに早かったかを痛切に感じるのである。悲しみや寂しさは哀しいかなすぐ消えた。それは新しい友たちが癒してくれたからだろう。しかし、彼等の残し去った人生には何ものにもかえられない時間があったはずである。私にはそれがあまりあって生きられるのを感謝しなければならないであろう。

心臓疾患で四度も生き返った人生と思うともっと大事にしなければいけないと思いつつ、現実にはどうも自堕落な生き方をしているんじゃないか?と自問自答するが、未だもってその回答が得られていない。ただ良き仲間や友達に支えられているということだけは分かっているし、感謝している。

『お蔭様で』とは浄土教独自の考え方である。時折友人から、早朝の公園の写真や日の出の写真と一緒にメールが送られてくる。大津の友は折りに触れてメールで心配してくれている。そんな時に僕の脳裏を『おかげさまで…』と横切るのである。
みんな一生懸命生きている!しかし、お蔭様で生かされているのであるかもしれない。感謝するためにもお彼岸には何処かで手を合わせることにしよう。

奈良東大寺二月堂お水取りも終わった!そして友の手術も無事すんで退院するという。来週あたりには何処からか桜の便りも聞けることだろう!


2014年 3月 9日 

病について

親しくしている友人が入院・手術する。腫瘍摘出手術というからある種外科手術なのだから余り心配は無用と聞いているが、それでも二週間ほどの入院というから心無しか心配でもある。現代医療の発展は驚きでもあることは身をもって知ってはいるが…、無事に退院することを祈念している。
そんなことで取りあえず近くの寺に行き、不動明王の御札を戴いてきた。

仲間というか、親身に心配していただいている友が十数人いるのだが、皆共に歳を重ねている。それと共に私と同様に病院通いをするものが殆どという状態でもある。イヤぁ~この歳ともなると病院に縁がないという方は本当に素晴らしいと思うしかない。しかし病を知るということもあながち悪くなく、病を知って人に優しくなれるというのもある筈で、私は病から感謝という言葉を体感できた。

そして毎年のことであるが、今年も奈良の修二会(お水取り)が行われている。我が国で唯一千三百年ほど途切れることなく続いている行事でもある。この地方ではお水取りが済むと春がやってくるとも云われ、今週末には大松明が東大寺二月堂を走る!

兜卒天界の行事というからやたら走る行事なのだという。紙衣(かみこ)に身を包んだ連行衆は炎と時空の世界を体現し、韃靼行(だったん)に身を打ち国家安穏を祈願する。
今夜辺り、例の過去帳を読み上げているのではないか?(5日めと12日め)。聖武天皇以来東大寺建立に功のあった人々の名前を読み上げるというものだそうだが、唯一実存しない人の名が呼ばれるという。それが「青衣の女人・しょうえのにょにん」である。
話には聞き及んではいるが、一度陣内で聞いてみたいものである。戦火の中でも続けてきたというこの行事には幾多の方々の想いもうちに潜んでいるに違いない。

直にお彼岸もやって来る!さすれば暖かも共に感じられるようになるが・・・、三寒四温といわれる頃でもある。寒さに弱い私には嬉しい季節がやって来る。
そろそろ体を動かして健やかな日々を過ごしたいものです。




2014年 2 月 23日 
近江湖東を歩いて

24節気雨水も過ぎていよいよ季節は確実に春の面差しをもって大地にその兆しを見せ始めているようである。

久しぶりに眩しい日射しをうけた休日の朝を迎えて、いつもの気の合う仲間と近江行を楽しむこととした。近江に足を踏み入れると気持ちが高ぶるのはいつものことでもあった…。名神高速養老サービスエリア付近を過ぎると右手に雪を冠した伊吹山が午前の陽にあたって美しく輝いて見えてきた。悲しいかな雪の伊吹山は美濃側から見たほうが綺麗かもしれない?
彦根ICを下りて国道307号線いわゆる近江グリーンロードを走るのだが、所々に過日の雪が残っているのがみえる。今回は甲良町勝樂寺ー湖東三山の金剛輪寺、百済寺ー引接寺を参詣し、国道8号線を横切って繖山のふもと五箇莊町金堂地区をまわって来る一日である。

室町時代近江を語る上で避けられないのが、その守護職であった京極高氏(道誉)ではなかろうか。京極家というと柏原清滝の徳源寺を思うが、高氏(道誉)はこの地正樂に居をかまえた。その菩提寺として勝樂寺がある。
道誉は仏道夢窓祖石に師事参禅し、能、狂言をはじめ茶、香、花など極めて豊かな文化的素養を持ち合わせていた。また自由奔放な思想な持ち主として世間に『婆沙羅大名』と言わせしめた。
また、この地は狂言「釣狐」の伝説地としてしられ代々大蔵流狂言が披露されているという。本院内側壁には茂山千五郎師等の木札が飾ってあった.                                            金剛輪寺から近江湖東を見る

金剛輪寺の庭園は所々に雪を残して静寂を保っている、百済寺の中門の大きな藁草履が我々を迎えてくれた。時折刺すような冷たい風が頬をかすめてゆくが、それもこころなしか気持ちのいいものでもあった。これらの寺としては季節外れなのかもしれないが僕は敢えてこうした季節が好きである。

百済寺のほど近くに引接寺(いんじょうじ)がある。名もない寺かもしれないが、本堂脇を入っていくと右手一面一万体という五輪塔やら仏石、そして宝筺印塔などが整然とたっているが、それは壮漢でもある。夏にはそれら一体一体の前に灯明が灯されてそれは美しくたおやかに照らされるということである。一度見てみたいのだが・・・。

我らにしては洒落たレストラン?にて昼食をとり、帰り道に五箇莊町へ寄り道と決め込んでみた。近江商人発症の地でもある。町の所々に雛飾りがある。誰がしているのか分からないが、街の方々が揃って楽しんで見えるのではないだろうか?そう言えば、我々がそぞろ歩きを楽しんでいると後ろから突然『コンニチハ!』と女子中学生位の子が声をかけてくれた。一同顔を見合わせて驚いた。否、嬉しさに喜んだというのが本当かもしれない。
こんな言葉、こんな状況に出合っただけでも今回の旅は癒された旅でもあった。いやぁ~近江は本当にいい!



2014年 2 月 16日 
都会と田舎の違い


先週に続いて今週末も都会に大雪!雪国のそれとは比べ物にならないのであるが都会は本当に脆い。否、都会人が脆いというべきか?日頃利便性の中でぬくぬくと生活しておればそれは当たり前のことで、常日頃のリスキーな部分を忘れている。それも自分たちの都合の良いときにだけ田舎生活はいいなあぁ~、なんてね。

近江を散策して感じるのは、その地域の生活をどのように自分の生活として感じるか?でもあった。近江で得た知識や感覚、近江で感じた風土や生活を今の生活にどのようにして活かして行くかということでもあった。
それは例えば、和蔵堂を開扉してくれた老婦人のあの笑顔や、雨の中小高い山の正妙寺の千手千足観音を開けて待っていてくれた寺守りさんのお気持ち、あの安土浄厳寺の老婦人の言葉『叡山のあまり風ですよ』は僕の人生ではそれこそ有り余ってあることでもあった。

幸いにして僕は大津に友人を持っている。その彼も近江の人であるのであろうか素晴らしいインパクトを持って僕に接してくれている。浄土教観には『お蔭様で…』という言葉がある。近江を歩くときには何時もそんな『お陰様で…』という言葉で歩かせていただいてくる。昨年の五村別院では教如を支えた真宗信徒の想いなども正に近江の人々の生活観でもあるのであろう。

田舎を歩く、田舎で生きるとはそれを知ることでもある。此れまで生きてこれたことに今日も感謝しながら一日を終える。晴れの日も、雨の日も、そして雪がふるのもそれが自然であり、何処かで誰かが喜んでいるのである。言わせてもらえるなら人間がそれらで亡くなろうとそれが自然だからなのだろう。そういうことで初めて自然との共生とか自然の叡智を言えるのだと思う。



2014年 2 月 9日 
雪の近江・彦根


各地で大雪です!折角の週末連休なのに夜半からの雪で朝起きたら窓の外は真っ白!という事態…。近江の旅を計画していたのに・・・。
こんな時こそ車をおいて電車で行こうとばかりに計画変更!

早朝から雪の中を歩いて近所のバス停へ、流石にバスはガラガラという状態です。兎に角JR東海道線を下ることにことにした。関ヶ原手前から雪は深くなり伊吹山もかすんで見えていた。
いつもなら仲間達と寄る醒ヶ井ランチバイキングであるが、ちょっと時間があったので途中下車して寄ってみることにした。天気のいい日ならお店は満席なのだが今日は誰も居ない静かな店内でゆっくりと食事ができる。店の前の国道21号線も雪の中で車が少ない。
田舎の静かな駅舎は雪に囲まれてひっそりと静まり返っていた。


ホタルがたくさんいるという目の前の天野川も今日は雪の中に埋もれてしまっていた。兎に角静かであった。思ったほど寒さも感じないのでしばしプラットホームで周囲の雪景色を楽しんでみる。
時折雪が降ってくるのも忘れるほどに、この静けさは心地よいものであった。

彦根の街も雪の中で静かに眠っているようで、街中の雪はややもすれば湿った雪質であるのだろう。足元の悪い中をとりあえず歩いてみることにした。いつもなら観光客が多く歩いているのだろうが、この雪の中ではその人通りは見られない。国宝彦根城はすっかり雪化粧して薄暗い雲に覆われていた。

数日来少し風邪気味であったが、勇気を出して?というか、年甲斐もないというか、この大雪の中出かけてみた。私には近江の旅が何よりもの風邪薬なのかもしれない?
昨年あの暑さの中を歩いた彦根の街も、寒さの中を凍えて震えているのかなぁ。真っ白な雪の中を歩くのも童心に帰って楽しいものでもあった。




2014年 2 月 2日 

奈良修二会・お水取り


3日節分、4日立春と暦の上ではもう春到来!ということで、陽が落ちるのもかなり遅くなり心が浮き浮きとしてきませんか?それでも寒さは残っており、どうもこれからが寒さが厳しいと聞きます。
奈良二月堂の修二会仏事いわゆるお水取りを来月に控えて、今近在の村々では大小の松明造りに追われ、また二月堂下の湯殿ではその支度に追われているのでしょう。

和紙を束ねては揉みしだいては作る紙衣、紅白の和紙を型に切って作る和紙の花、東大寺椿と名付けられたそれを作るのは大変な作業でしょうね。実忠和尚(かしょう)以来1400年以上も続けられて、一度も欠けたことがないという我が国最古とも謂われるこの仏事は春の到来を知らせるのも皆さんよく知るところでもありますね。

この地方では稲沢国府宮難追い神事、通称はだか祭りが今年は12日に行われますが、今年は早い時期となりますね。
こうした祭りにはその下準備というか支度にいろいろな方々の苦労が隠れているのを見落とすことはできませんね。
永い歴史を作るといことは並大抵ではありません!言い換えるならばその苦労が実は歴史でもあったのです。

久しぶりにのんびりと過ごした日曜日、近所に暮らす娘と鶏ちゃん焼きを作って食べました。一人で食べる食事とは違って娘と食べる食事は美味いですね。近年よく耳にする恵方巻とやらをかぶりつきながらの晩ご飯!一日早い節分でしたが・・・。本来は関西での節分行事であったであろうものがコンビニの戦略であろう?近年ではよく目にするのである。
今年の恵方はどちらかな?大きな口を開けて・・・。



後日談  

遅くなりましたが、後日知り合いに尋ねたところ名古屋地域では東北東にて今年は守山区の龍泉寺だったそうです!
この寺の副住職は私のよく知る方でありますので、近日中にでも伺うことにします。いい福を授かって来ますかな。?
因みに、龍泉寺は私の百寺参詣にも紹介してあります。この地方では有名なお寺ですね。本堂裏へまわって高台からは尾張平野がずらっと見わたせますよ!


2014年 1 月 26 日 


北名古屋市、高田寺

一週間の仕事を充実感をもって終え、のんびりと休日を楽しむ!こんな老人には代え難い思いですね。

昨夜からの小雨…、てっきり雨の休日とあきらめて夜ふかしを愉しみのんびりと寝てしまいました。朝起きてみると何のことなない!青空が覗いているではないか!
遅い朝食というか早い昼食というか?ゆっくりと食事をとって、今日はどうしよう?と思案して…。

車で15分くらいの所にある天台の寺を見に行くこととした。数度伺っているけれど天台の寺というほどに檜皮葺き屋根の反りは何度見ても美しいのである。今は北名古屋市となった師勝に高田寺がそれである。寺伝によれば養老四年行基開基となっているが…?
薬師如来を祀る薬師堂が本堂となる様式からは室町時代の建立とも考えられているらしい。茅葺き寄せ棟造りであったのを戦後本来の桧皮葺き入母屋造りへと復元したということだ。

傅教大師最澄は東国への途中熱田神宮へも参詣している。その道中は未だ道も整備されていなくて現在の庄内川(当時とは川筋が少々変化しているが)を船で遡っていっている。その為、その川筋に沿って布教し天台の寺が今に残っている。この高田寺もそれで、遡るに川筋右手に名古屋市北区の聖徳寺、さらに遡って守山区では龍泉寺、左手に春日井密蔵院、高蔵寺、更に遡って可児願興寺などと跡を残している。

雨上がりのいい天気は時に風が強く寒さを感じるのだが、凛とした薬師堂を前にするとひととき忘れさせてくれるから不思議でもある。暫く近江の寺をまわっていないので寂しいのだが、今頃湖北の寺は雪に覆われて静けさを保っているのであろう。早く訪れてみたいものである。



2014年 1 月 19 日 

深夜、ジャズを聴いて


20日が大寒、今朝は白いものがちらほらと…。ニュースで横手では大雪の為に災害がでているそうです。都会ではちょっとした降雪でも交通マヒがでたりしますが、雪国は結構車も走っているのですが、雪下ろしなどで怪我される方がでるんですね。経験がないのですが雪下ろしはたいへんでしょう…。

寒さの中、帰宅途中にふと夜空を見上げるとこの数日前から綺麗な月が見えております。凛とそた空気なのからでしょうかくっきりとした明るい月はひととき寒さを感じさせないものです。何時ごろからですか、ちょっと時間がある時などに夜空を見上げる習慣が出来たのは?星座などと云うものには疎いのですが、それでも金星や木星くらいは分かっているので季節の移り変わりなど感じることができますね。これで星座などわかれば楽しいでしょうが…。


この数週間ジャズを聴きまくっています! 何かの拍子急に懐かしいジャズを聴きたくなって…。昨今便利なものがあってパソコンンのユーチューブからジャズメンを出しては聴いいておりますね。レコードも何時しか仕舞い込んでおり、オーディオ機器もすっかり埃にまみれていてはね。
もう二十数年も前になるかな?MJQの日本ラストライブを聴いたのが懐かしく、また合歓のジャズインに出かけたことを思い出しながらジャズを楽しんでおります。以後も知り合いのジャズライブハウスに行っては楽しんでおりましたが、何時しかこの頃は聞く時間に恵まれなくて疎遠ともなっていたところ。
もうこの年齢ともなると、いつまでこうして楽しい音楽を聞くことが出来るのか?不安と共に、じっくりと楽しんでおきたいという変な欲望?が働くのでしょうかね…。

折しもセンター試験の最中!若者よ、苦しんでおきなさい、辛ければ辛いほど何れ楽しさとして降りかかってくることであろう。コンビニで懸命にバイトしている若者よ、朝早くから働いている若者よ、囚われから開放された老人ともなれば楽しい時間は必ずやって来る。




2014年 1 月 13 日 



料理を盛る

小正月も過ぎて、飾ってあったお鏡餅も私の好きなぜんざいとなっていました。どうも大きな寒波もやってくると言ってます!まさに寒中お見舞い申し上げます、ですね。
友人たちの中には風邪をひいたと言ってる方もみえるのですが…、よくよく考えてみるに最近では風邪をひいた記憶もなく、何やらは風邪をひかないを地でいくようなもの。まあ健康だからいいか!!

それでもちょっと油断すると、あれ!おかしいな風邪かな?と思ったら、暖かい飲物をいただいて直ぐ様寝る!これですね。お酒をいただけない僕はニンニク酒をカプセルに入れて風邪薬と共に飲み、温かくして寝るのがいいのかも?


新年早々から仕事とは云え、大きなふぐや泳いでいるイカ、足を動かしている松葉カニを調理したりと殺生が続きます。
召し上がっているお客様はいいのでしょうが、ちょっと気分がですね・・・。
だからという訳でもないのですが、口取り、八寸などをなるべく野菜を使うことにしています。先日も魚の得意じゃない方のために野菜の炊合せをおだししてみました。蕪は柔らかく薄味で煮、水菜はサッとゆがく。南瓜と小茄子は揚げてから煮浸し、椎茸と海老を煮て盛合せ!久しぶりな焚き合せでした。
和食が文化遺産とかになったそうですが、文化とは全く無縁なものですが、取り敢えず美味しそうと見てくだされば結構ですが・・・。そして口取りには昔懐かしい笹舟を作って盛り込んでみました。日本料理は面白いですね。

貴方も一度草花や石などお近くにあるものを使って盛り込んでみませんか?何時もと違った味がしますよ。


        


冬至からまだ三週間位しか過ぎてはいないのに、日の入りが遅くなり明るさが残っていますね。少しづつですが陽が長くなって来るのが実感できる季節でもあります。友人のO君などは朝早いので朝陽の写真をよく送ってくれるのですが、日の出もちょっとづつ早いからいよいよ気持ちよくなってくるのでしょうね…。
二箇月もすればいよいよ私の旅の季節!もう湖北の残雪が脳裏を横切ります。




2014年 1 月 5 日 

私の新年、いつもの飯室松禅院


明けましておめでとうございます、新しい年に相応しいいいい天気の正月元旦でしたね。大晦日は例年通り仲間と過ごして、年越しそばを食べながらの新年を迎えました。
そして車で30分位でしょうか…犬山成田山新勝寺へ初詣と、これも例年通りに無事済ませました。今年はちょっと暖かいのでしょうか?風がなかったから寒さを感じなかったのでしょうか?人出が多く感じられましたね。どこの神社仏閣でも初詣の方が多かったのではないでしょうかね?

めでたいはずの正月、一休禅師は京の町を『正月や 冥土の旅の 一里塚 めだたくもあり めでたくもなし』と髑髏を載せた錫杖をついて歩き回ったということです。いやはや一歳歳を重ねてしまったのです!確かにこの歳になると冥土の旅の一里塚となってしまうのですね…。

私の一年はここ数年の行事となった比叡山延暦寺飯室谷の不動明王堂への出仕と松禅院の藤波源信大阿闍梨へのご挨拶から始まります。
今年は昨年の師僧酒井大阿闍梨のご遷化によっての喪服中なのでちょっとどうなるのか不安でしたが、師のご尊顔を拝すことができたので安堵してまいりました。。

何かと変動の年となってしまいましたが、心の安心(あんじん)を得られるのもこのようなご縁からくるような気がしております。昨年の雪の中の静寂とはちょっと違って、賑やかな行者堂も祈りの声は変わりません。いろんな悩みを持ってこられた方々に、緩やかな時間の中にも阿闍梨の屹立した護摩供は一層の安心を与えたに違いありませんね。
四苦八苦からは逃れません…それでもその中から安らぎや優しさを見出すことが大切であると釈尊も言っておられている。自分一人の力でできない人はこうして誰かの力を借りるのも大切ではないでしょうか?

説教もありません!ただ只管真言を唱える!心を真っ白にして考える!真っ白な心を観る!それだけでも人生は美しいと思えて来たりするんんですね。さあ!一年楽しく生きてまいりましょう・・・!
そして、今年も又たくさんのお力を借りて生きてまいります。皆さんどうぞ宜しくお願いしますね。




2013年 12月 30日 


変化の年、一年を終えて


本日仕事最終日!9月よりお世話になっているお店は本日まで営業! 9時30分で終業、その後場所を変えての忘年会です。社長行きつけのお寿司屋さんでアンコウ鍋と高級な?お寿司でした。久しぶりに食べたアンコウ鍋は美味しかったですよ。
兎に角今週はよく働きました、それでも店が繁盛してきて、お客様のお声がいいと頑張れますね。やっと店にもなじめてきて、マネジャーさんからも喜んでいただけるようになってちょっと安心です。こんな仕事も従業員一同のチームワークの善し悪しがお店の雰囲気として出てしまうので、お互いに気を遣いながら仲良く仕事を進めていかなくてはなりません。幸いにも一緒に仕事する若い子がいい子なので本当に助かっております。

そんなこんなで、忘年会後毎月の行事でお千代保稲荷へ参詣に行ってきました。今夜は月末ではないのでお店はどこもやっておりませんが、従業員一同揃っての参詣をすまして帰宅です。四ヶ月ばかりの勤めですがちょっとだけ満足感があり今夜はのんびりと寝られそうですね…(笑)。


今年もあと数時間で、2014年とまります。ここ数年間はいろいろとあって人生の中でも変化の年でしたが、やっとのことでどうやら落ちついた生き方が出来そうです。兎に角健康で、生き甲斐をもって生きていかれるよう過ごしたいと思っております。
楽しく、心豊かにつきあってくれる仲間も沢山いるし、心慰めてくれる仲間もいるからこれからは楽しく生きて行かれそうです。人生そう捨てたもんじゃないですな!本当に感謝の一年でした!

このブログ見てくれる全ての方々のご健康と、いい新年が迎えられますよう祈念しております。


2013年 12月 23日 


クリスマス


いよいよ年の瀬もおしつまって今週一週間もすれば新しい年が始まります。師走!その昔坊主が走る…ということから師走と謂われるようになったとか?ならないとか?
それでも日中の車の混み様は師走という感じもするこの頃でしょうか?。休みともなると大掃除もしなきゃならないし…、買い物にも行っておかきゃならないし…、忘年会もしなきゃならないし…、クリスマスも楽しまなきゃならないし…というところで、忘年会とクリスマスを一緒に仲間と一緒に済ませました。

はる姉さん、郁ちゃん夫婦、優子ちゃん、智ちゃん、かおりちゃんの7人です。風邪が流行っているらしく数人が来れなくなってしまい残念でしたが、無事に今年も忘年会が出来て良かったですね。

一年は早いものです!というと笑われるかもしれませんが、若いときの一年とはどうも違うようです。時の流れる速さは変わりません。
時折僕はこうして説明するようにしております。

カセットテープの速さは一定に流れていきますが、最初の頃はテープもたくさんありますからゆっくりと巻いておりますが、半ばを過ぎた頃からテープは徐々に早くなりだして、もう最後の頃はカセットはくるくると早く回りますね!歳を重ねるということはこんなことのような状態ではないでしょうか?
若い頃は時間の過ぎるのが遅かったものですね!確かに楽しいことが多かったといういうのもあるようですが…。、


新しいホームページを開設して半年が過ぎ、また新しい年が始まります。此れまで以上に時を大切にし有意義に過ごして行きたいものです。出来れば『一隅を照らす』ことが出来ればいいのでしょうが・・・。




2013年 12月 17日 


和食、八寸を盛る


師走の名古屋、広小路通りも夜ともなると歩道の木々が綺麗に輝いておしつまった暮れの装いを演出している。各地でもこのような光の演出が行われているようだが…、電気は相変わらず余っているような?
野暮なことは考えず、寒さの中をゆっくり歩いてみたい気がしないでもない。来週はもうクリスマスなんだからね・・・。その昔クルシミマス!なんて駄洒落をいっていたが、それでも今は素直にクリスマスをそっと見ていたい。


この9月から宮仕えとなった身であるが、幸いにも社長が面白い方で色々と器を買ってきては料理を楽しませてくれている。色々と仕事も慣れてきて、私の好きなように料理をさせていただけるのは本当に感謝している。
ただ店では生簀料理もしているので大きな水槽があるが、考えているようにその生態が難しい。昨日も前日まで元気でいた河豚が弱ってきていた。すぐさま捌くことになるのだが、何せ5㌔程の天然ふぐのこと大変である。

生き物であるから私の心も何時になく殊勝になってしまい、新年のお参りには心から生き物のために手を合わせてくるつもりでいる…。人間も何らかの命を食らって生を受けているものなんだね。

今夜もちょっと八寸をつくってみた。上段左からモロッコ隠元と紅葉人参、数の子、だし巻き玉子、柿膾。下段左からふぐ煮凝り、柔か蛸煮付け、馬タン燻製、ワカサギオランダ煮である。
因みにお二人様分にて。

本日はデザート用に抹茶羊羹も作ってみたが、いやはや料理はおもしろい!
透明な部分には金粉を仕込んでみましたがやりすぎかな?







2013年 12月 15日 


利休の美

映画『利休にたずねよ』を観た。ここでも相変わらず美しいものに因われる利休を表現している。「わび」とか「さび」をやたら表現したがるが、現代人の色彩感覚からの目で見てしまうとわびもさびも「枯れた」という言葉に置き換えられてしまう。

当時としては絵画やましてや陶器の類にしてもその色彩は限りなく無彩色であって、その後の織部にみる緑色が新鮮なくらいである。現代はどんな色でもだし得るが、釉薬の少なかった当時は美しさの感覚が違っていたはずである。
花器にしてもその無彩色がゆえに生けられた花の色がいかに艶やかにうつったことか!利休はそんな花器に朝顔一輪を生けてみたのである。
国宝茶器「樂焼白片身変茶碗銘不二」作者本阿弥光悦でさえ鈍い薄青が精一杯である。

ところで近年観た映画に共通するのは『語らず…』というもの。武士の一分、最後の忠臣蔵、おくりびと等、そして数年前の千利休もしかり、人には絶対話してはいけないことがあるものだということだ。心に決めた言葉を軽々と話したり、言葉を羅列して弁解の言葉にしないということである。

己を知ってもらうには言葉ではないのである。言葉は得てして人に伝わる度に言葉の本質から離れて変化してしまうというものでもある。己を知ってもらうには己の行動や態度でしかない。それは昨日今日にできるものでもなく、培ったものでもある。もっと言えば死ぬまで語れないものかもしれない。その昔吉田拓郎は「今だ人生を語らず」と歌ったものである(ちょっと違ったか?)

兎角今の世の中、自分を理解して欲しい輩が多い。おしなべて自分を理解していないものに自分を解ってもらうなど畏れ多く、自分を理解して欲しいのなら一生懸命生きることである。理解など結果論の何ものでもない。

千利休は私の好きな人間の一人でもある。美しいものは全てを剥ぎ取る!余分なものは剥ぎ取る!そうした物の中にしか美を見いだせないという利休はある意味禅の精神に似ているか・・・

奇しくも数日前、円山応挙の絵画に観る描くものを描かずに書く、という江戸の絵師の凄さを知って我が国の文化人の凄さを再認識したばかりであった。にしても現代人の奇をてらうものの多さよ!


2013年 12月 8日 
知人の死を悼む (続)

私には実の娘と同様に大事にしている娘達がいます。数か月前まで営業していた小料理屋を手伝ってくれていた子達ですが、今でも何かと遊びに行ったり、飲んだりしています。大事にしてくれていると嬉しく思っております。

そんな子達の一人が結婚式を数日前にして父親を亡くしました。結果的には結婚式は中止となってしまい一生懸命用意してきたことが夢となってしまいました。彼女の人生の中でも大変なショックでしたでしょうね。私も何度かお会いしていたので残念で仕方ありません。そんなことがあって先週にも家に伺って手を合わせて来たばかりでした。

今週初め、別の子から緊急メールがあって「父親が倒れて病院へ搬送された!」とのこと、早速駆け付けたのですが残念ながらお亡くなりになりました。いやいや今年はどうもそんな年でしたのでしょうか?

奈良仏教の相論宗でいう唯識の考えでは「死というものはない」とある。「死」とは生きている側からの見識であって、死んでいく当人には死というものはなく「疲れたからちょっと眠る」というか、「意識がなくなる」ということで結果的に心停止となることで我々は「死んだ」ということを見識すると…。

兎にも角にも、我々は「生・老・病・死」の前においては平等である。その他においては平等なんて有り得ないのであって、平等を心に受け入れる態度を知ることである。世間で言う「死亡原因第一位」なんて言葉ほど空虚なものはなく、いつの時代になっても人間は何らかの原因で死ぬのである。

予々私は近親者等の死によつて初めて仏に近づくと説いている。仏とは勿論信仰心をも言うのだが、深く考えると仏とは「法・(のり)」とでも言おうか。その死によって人生の法を知ることに一番近づいた瞬間かもしれない。ある人はそれを真理とも言ったのだが。
かくて彼女たちはこれからどのように変わっていってくれるのだろうか?無神論者だ!無宗教だ!と息巻いている空虚な人間にはなりたくはない。人間はそこまで強くもないし、浅はかでもないだろう。自然の摂理のもとでしか生きておれないのだし、それを共生と嘯くほど傲慢にもなりたくはない。「生老病死」ほど自然なものもないのだろう。

人の死はそれ程人を偉大にしてくれているのである。父親をなくした子達の今後が楽しみでもある。



2013年 12月 4日 

友人の家庭菜園


友人が今年から家庭菜園を始めている!勿論のこと定年退職後の時間を利用してのことである。もとより彼は兎に角フットワークのいい方で、孫の遊び相手になる時などは公園へ行っては落ちている小枝を使っておもちゃを作ってしまう!旅行など一緒すると数日内にはお手製のアルバムを作って楽しませてもくれる。現在も毎週金曜日には飛騨白川まで行き古民家再生のため手を貸している。兎に角器用なのである!


彼が先週末に菜園で収穫した野菜を持ってきてくれた。秋にも頂いたが葉物やピーマンや茄子と比較的短期間で採れるものであったが、先日は「実りの収穫!」とでも言いたいものである。大根は立派に娘さん位?にはなっているし、人参はその赤い色が美しい。じゃがいもは土が付いている!春菊は香りがいい!

早速独り身の食卓に上げるべく調理してみた。大根・人参はこんにゃくとモツをいれて『もつ煮』を、人参・じゃがいもはハムブロックをいれて玉ねぎと一緒にポトフを作ってみた。これらはたくさん作ってその都度温めて食べるにいいものである。春菊は夜の豚しゃぶに入れて香りを楽しんでみた。

一年目とは思えない収穫に私は驚いている。土いじりは全くダメな私としては本当に敬服してしまった。この一週間ほどは自然の味を堪能できることであろう。沢山いただいたので近所に住む娘のところにもお裾わけしたのだが、いやはや彼女はどう調理したのやら…?



2013年 12月 1日 

初冬 知人の死を悼む

昨夜(11月30日・土曜日)仕事後に会社の方たちと一緒に岐阜県海津町・お千代保稲荷へ深夜の参詣となった。かっては水商売の方達が仕事後三々五々訪れて深夜遅くまで界隈のお店は混んでいたものだが、現在はどこでどう間違ったのか?若い子達、否若い娘さんが多く、参詣なのか遊びに来てるのか?兎に角変わってしまったが、特に昨日は土曜日に月末が重なったのが原因なのかたくさんの人で深夜にも関わらず賑わっていた。さすがに師走を控え商売繁盛を願っての参拝であったのか・・・?


友人が家に来て朝早くから起こされた!まぁー今年最後の紅葉を見に行こうというので眠い目をこすりながら出かけた。中央高速道は皆同じような人が多いのか紅葉見物に行く人で車が多い!真っ青な空が山々の色を艶やかに見せてくれていた。一般道がいいと思い国道19号線を走りのんびりとさりゆく秋を楽しんでみた。可愛がっている娘の父親が二ヶ月ほどまえに亡くなったのをふっと思い出し、祭壇に手を合わす事に行くこととした。突然の訪問は大変失礼とは思いつつもなかなか尋ねることもかなわないのを理由にお邪魔することとした。
幸いにも喜んでくださり、訪ねて良かったと今振り返っている次第でもある。

人の死はある日突然にやって来る!それは年齢も環境も関係なく、病や健康、いや貧富も全く関係なくやって来る!かくいう私も昨年心筋梗塞をおこして一命をあずけてもいる。今は何らかの縁により生を受けてはいるが何れその日がくるのも確実であって、死の前においては人は全てに平等である!釈迦はそう言って縁を教えられている。

今日伺った亡くなられた方の奥様は誠に立派な方で、実家で死を迎えられたことに感謝を述べられて、あまつさえ亡くなられた方の因縁や現在の置かれた立場に感謝の念をいだかれて生きておられていた。亡くなられた方にはお悔やみをいうのは勿論であるが、奥様のこうした言動には本当にお邪魔してよかったとこちらが感謝している次第でもある。

今年も残すところ一ヶ月となった。人生の転機ともなった年であるがいろんな方々に助けられて何とか生きていることに唯々感謝せずにいられない。とにもかくにもこの一年を無事に過ごしたいものである。



2013年 11月 24日 

娘たちと共に近江湖岸へドライブ


もみじ葉が色付く季節!今年は秋がないと云われますが、それでも所々にその赤を誇るかのように染めている木を見つけました。

早朝から娘たちを連れて近江の散歩を楽しんで来ました。琵琶湖の水は冷たさの中に澄んだ色合いをみせて、かすかな風に波立っております。彦根松原海岸からは彼方に竹生島がぼんやりと見せてくれています。近くには八景島が眺められて、今日は比叡や比良の山並みも靄(もや)の中に隠れて見ることが出来ませんでした。

湖岸道路を走ると、鳰鳥(カイツブリ)は群れをなして羽を休めているのが見えました。波に揺られて何を食べているのでしょうかね?車から降りてのんびりと休んでみるのですが、やはり風が冷たく感じて長居はできません。久し振りの近江の風はこうも冷たかったのでしょうか?
もう一週間もすれば師走ともなるのですから…。今年も何度となく訪れた琵琶湖ですがあの暑かった頃の風が思い出されます。


娘たちの祈願?に多賀大社を訪れてみました。もう七五三参りも一段落したのか?それでも境内は参詣者が多かったですね。イザナギの命とイザナミの命の二柱が祭神ということで、伊勢神宮のアマテラスオオミノ神のご両親でもあるのだ。だからと言うわけでもないが御利益があるとは思わないが…、それでも娘たちにいい話があることを願わずにおられない。

大鳥居をくぐってみたら目の前に綺麗に色付いた紅葉の木を見つけました。今日一番の紅葉かもしれません。同行の娘が写真を撮っていたので掲載します。この娘、最近写真を撮ることに目覚めたのか?結構色々なアングルで撮り楽しんでおります。
何でも気を付けて見ると言うことに楽しみを覚えるのは大変いいことだと思っております。自然の美しさを楽しむ心は大事ではないでしょうか。

それにしても今年の山には美しさが見られませんね。例年なら目の覚めるような美しさが所どころにみられるのですが…。



2013年 11月 18日 
滋賀大津の友人のこと

滋賀県大津に友人がいる。近江の地に友人がいるというのは大変に心丈夫でもある。彼とは名古屋で知り合い親しくしてもらっていたが、彼の健康上などの理由から家族のもとに帰って行ったのである。以来、大津に寄るときなどは顔を見せるようにしているが、今年に入って彼はブログを始めている!そもそも彼はコンピューターが専門であって、パソコンなどはお手のものなんである。私も今回のホームページ開設には並々ならぬお世話になったもので、本当に感謝している次第!この場を借りて御礼を申し上げたい。

さてさて彼のブログであるが『爺爺の手習い』というもの、老後の手遊びというか?大変面白いものである。彼の生き方には教養と教育が大切と説いている!何のことはない、今日の用事「教養と」今日行く所「教育」を大事にという…彼独特の珍解釈でもあるが、まさに我々老人の最も必要とするところでもある。
ちょっと時間がありましたら一度開いてみてください!大変参考になるのは請け合いますよ。



今日の料理

本日、久しぶりにというか(数十年ぶりに)八寸を作ってみました。八寸とは元来、茶の湯の祖千利休が八寸角の杉材の盆上に季節の肴をのせて供したものという。茶の湯では一期一会を大切にし、亭主と客が合い和して料理を慈しみながら供するということがあったようです。


本来は山の幸と海の幸を合わせて盛り込むとか,五感を楽しむことのできるということがしきたりにあったようです。現在は会席料理の一部分を言います。今回は器に直接盛り込みましたが、お客様に提供する際には八つの小鉢に入れておだしすることになっております。

左から大根煮付け、大根卸とタコ・梅紅葉大根、サバ焼寿司、煮アワビ
下段、いくら盛り、タコ柔ら煮、赤車海老薄煮、ホヤ塩辛と蛇腹胡瓜です。



2013年 11月 10日 

近江の寺を訪ね歩いてもう数年となる。もとより寺が好きで二十代の頃から奈良や京都の寺を見て回ったものである。しかし今思えばそれらの寺は有名な寺ばかりで、いまに思えば観光寺を歩いていたに過ぎず、それはそれで結構であるがやはり寺の存在という観点からでは見たというだけであって、行って観たということにはなっていなかった。

過日、美濃の寺を見て回ってみたが、園興寺という寺院では若き住職が殺虫剤と水を背負って作務に精を出してみえた。我々がお邪魔した時には笑顔で迎えていただき、手を休めて寺の縁起やらこの地のなりあいを説明してくださった。
予て私の持論とはなるが、寺には各々のなりあいがあって、なぜこの地にこの寺はあるか?ということから見ないと本来の寺の存在は知り得ないと思っている。

本尊を知ってみたところで美術品というならまだしも、仏像とて本来は偶像崇拝と言えるし、その土地に何故この仏像があるか?を知らない限り偶像崇拝の域からでない!信仰という心の対象でない限り仏像は価値を見いだせないとも思うのである。金仏炉に溶け、木仏火に焼け、泥仏水に消えるとは禅宗での誰であったか!

納子(坊主)は本来、常ねから寺にいて礼拝にきたものにその姿を見せなければいけない。その姿というか姿勢から私たちは信仰の大切さを悟り、こうあらねばと指針を考えさせられるのである。決して説教でもなく、読経でもない。
坊主の姿こそ説法であらねばならぬ。そんな坊主の読経だからこそありがたいのである。
立派な庫裡にどんと胡座をかいて袈裟を着込んでいる坊主や、有名な寺にと観光しか目に入らぬ坊主には正に釈迦に説法であろうか。


昔年私は比叡山西塔浄土院での侍真僧・宮本祖豊師の姿を見て想いが一変したことを昨日のように思い出す。侍真とは御真影に侍るものという意味で、浄土院では現在傅教大師最澄が生きていると考え、その真影に向かって侍り、院内での読経と庭などの掃除と一心不乱に仕事に付くというものである。
それは師自身の問題でもあると同時に、それを観る者にして心を突き動かせる何かを与えるというものではないだろうか?夏の炎天下、浄衣の僧が苔の中の小さな雑草をとっている姿こそ法(のり)ではなかっただろうか?決して紫の袈裟ではないであろう。

師は私の質問『何故12年間もの永き間一歩も出ないでそんな修行をされてるんでしょうか?』の問いに、一言『それが仕事ですから』…。

以来、私は師の顔を忘れない!その姿を忘れない!その言葉を忘れない!その姿・言葉に『法』をみた。



2013年 11月 4日 

11月3日文化の日は晴れの特異日であったはず…、しかるに鈍とした空が気の重い空気でたたずんでいた。連休も後日となって雨もあがり、予て約束で西美濃の寺を散策を散策するため早朝から車を走らせた。まだ紅葉には早いのでもあるが、人混みの中での寺院は余り好きではなく、静かに仲間と歩いてみたかったのが本音でもある。
大津の友人とは大垣駅で合流したのだが、本当にご足労である…。しかしながら彼も寺院が好きで勉強家でもあるから案内のしがいのあるというか、喜んでくれる顔がみたさでもあるのだが…。

又、春日井の友人も其れに劣らず勉強家で、行く前には必ずやパソコンなどで調べてくるというから頭が下がる。今回なども彼の引率で寺を案内されたと云ってもいいくらいで、本当に有難く感謝しているところでもある。

この歳になって、かくいう友人達に恵まれ楽しい人生を過ごすことができるというのもやはり感謝しなければならないであろう。道元の時間論ではないが、素晴らしい時間をいただいていると思っている。

さて、知り合いの弁護士が先頃若くして亡くなられたのを知った。。天台の関係書物や比叡山の行事情報などを頂いたりと大変お世話になっていた方である。彼の生家が今回の散策地の一つ両界山横蔵寺であるのだ。実は亡くなる一ヶ月程前、天台座主の色紙をわざわざ持ってきていただいている。その時はただ嬉しくお礼を言ったのだが、今思えば病の中をおして来ていただいたのであろうと…、以来連絡の付けようもなく、彼の兄(横蔵寺住職)にお礼方々彼にお線香をあげたいというのが今回行き先を選んだ理由の一つでもあった。

横蔵寺は『美濃の正倉院』とも別名謂われるように、国指定重要文化財に仏像二十二体、県指定文化財建造物三棟などと多くの文化財があり、平安・鎌倉時代の天台学問の中心でもあったといいます。傅教大師最澄が東国へ行かれるおりこの地で仏道をお説きになられたという。中世の中山道、その昔東山道とも呼ばれて美濃赤坂の宿から七里というから約30キロ程北の山裾にはいった所である。

紅葉にはまだ早いが谷汲山華厳寺にも寄ってみた。西国三十三ヶ所満願寺と謂われる寺で春は桜、秋は紅葉の名所でもある。参拝・祈願後、我々は昼食をこの参道の茶店で取ることとした。一同一緒に栗ご飯とそば定食とした、これもやはり時節柄である。朝から結構歩いたのであろう、皆の食欲は凄いものがあり、ちょっと食べきれないかなあ~と思ってみたものの一同全て完食?であった。いやはや結構結構!

春日井の友人の計らいで帰途は美濃赤坂の日吉神社三重塔、金生山明星輪寺、園興寺と陽が傾くまで見せていただいた。大津の友人もさぞかし疲れたこととは思うが、いやいや今回も充実した散策であったであろう。秋の陽は釣瓶落としという、陽は短くなったものですね。



2013年 10月 27日 

一週間の台風予報に惑わされて、あちらこちらで避難勧告!やら防災準備!やらとメディアは翻弄し続ける。もとより自分の命は自分で守ることは人生そのもので、そのリスク回避は生きることそのものであるはず!
自分立っているその位置、住んでいるその場所、おかれている環境にはそれぞれの楽しさの裏側には苦しみが潜んでいるが如く、人生には必ずそのリスクを背負って生きていかなければならない。

幼稚園の園児に教えることのように大の大人に「命を守る行動を!」と気象庁が報道するのも何だかおかしなもので…、昔日の両親などは自然の恐ろしさを知っていたかのように子供たちを災害から守るのに懸命であったように思えてならない。それが台風の時になどでは家の窓には木を打ち付け、屋根瓦の補強、ロウソクの準備、食料の確保と、今思えば自然に抗うことなく、自然がおとなしく過ぎ去るのをじっと耐えるのみとしか思えないのである。自然に対してのリスクの怖さを肌で知っていたのであろう。
そして過ぎ去った自然の猛威の中でじっと悲しみに耐えることを知っていたのも確かであった。自然との共生などとのたまった人間には解らないであろうが、自然は人間より偉大であるのだろうし、自然に抗うことの虚しさを知っているはずで、そっと寄り添って生きることしかできないのだろうと、予々思っている。ちょっと話がそれるかもしればいが、西行は「何ものか おわしまするか知らねど もかたじけなくて 涙こぼるる」と自然の神秘性を謳っていた。

話は変わるが、秋空が美しい日曜日であったので私用ににて岐阜市に行くことにした。話に聞いていたあの柳ヶ瀬の街へ寄ってみることに。丁度昼頃であったので食事をしようと探し歩いてみたが…、昼であったので一概には言えないのであるが、あの歌の歌詞のようには感じられなかったのが寂しくもあった。地方の商店街が軒並み寂れていくのも時代の趨勢と言えば簡単だが、大店舗法だか?行政の問題なのか?いや市民の問題なのか?兎に角私はその変化に驚きと共に就いていくことができない。

早々に街中を出て帰り道、聞き覚えのある寺「美江寺」が目に入り、人出で賑わっているのが不思議で寄ることにした。どうも先程まで比叡山の千日回峰大行満光永覚道阿闍梨さんが護摩供養厳修に来ておられたとのことでした。私が尊敬する比叡の阿闍梨さんなのだから残念で仕方がない!本堂にあがらせて頂きご本尊に拝することだけをすませて帰途についたのであるが…、情報を知っておけば良かったのに!と後悔である。



2013年 10月 20日 

齡65を過ぎて・・・

訳あって私はこの9月から新しい職場にて働いている。学校を出てからすぐ料理屋さんに住込み修行して得た技術や覚えたことが今になって活かされていると実感している次第でもある。

この夏は人生初めての長い休みを経験したが、いやはや働かないということは体に馴染みがなくおかしなものでもあった。いろいろと旅も楽しんで来たが、ひょんなことから新しい職場を紹介されたのである。
ここ数年は人生の悲哀を味わってはきていたが、この二箇月の間には人生の楽しさを同時に感じることもできたのである。全てのしがらみを解き放してというは聞こえはいいのだが…、実は放り投げてと言ったほうが的を得ているのかもしれない。しかしこのこだわりを無くすというのが大切なことではなかっただろうか。
しかし、こうした時にこそ素晴らしい友人たちがどんなに私の心を癒してくれたことか本当に感謝の毎日であった。


この歳にもなれば残された月日も余りなくて、いよいよ大切な時間ともなるはずだ。林住期というのだそうだが…いやいや私にはそんな呑気なことも言っておれることなく、まだまだ近江の旅が待っているのだが。
健康な体を維持しつつ、今しばらく働いて近江の旅を楽しむことが最後の望みでもある。



2013年 10月 14日 米原の神社を散策

古代豪族息長(おきなが)氏の神社・古墳を歩いて

連休である!、体育の日というが我々の年代にはどうもピンとこない。東京オリンピックを記念して10月10日を体育の日と定めたはずなのに、何時の間にやら第二月曜日となって連休としたのだそうだ。まぁーたいした記念日でもないから兎や角言うのはやめるが、どうもどこかが短絡的…とは感じるが。

連休ともなれば私の気持ちは近江へと向かうのも至極当たり前のことで、今回は伊吹を始点とする天野川流域に住んだ古代豪族、息長氏を求めて歩いてみた。天野川は伊吹の村を源流として美濃関ヶ原から近江長岡を流れ、また伊吹中腹の弥高村から今須へ、そして南関ヶ原を始点として柏原から醒ヶ井へと流れ天野川へと合流する。米原の町へでると川幅も広くなり朝妻の湊傍へと向い琵琶湖へと流れ出る。

古代から水の或ところ必ず文化が生まれる、というのは定説で、昔この地域は坂田郡と謂われ、天野川流域には古代豪族息長氏の古墳・神社・陵が沢山出会うことができる。
米原郊外の山津照神社・日撫神社では息長宿禰王が神となり祀られており、丹生部落では息長真人古墳、村居田の村には敏達天皇の皇后であった息長廣姫の陵と息長一族の跡を訪ねてみた

i今ではこの地域もその名を留めることもなく、ただ天野川に架かる橋と郵便局、小学校だけに息長の名が残っていた。

琵琶湖は別名鳰の湖とも呼ばれ、それはカイツブリ(鳰鳥)が多いことからであった。鳰鳥は息の長い鳥ということで、水中に結構長い間もぐることができるという。古代この地の豪族はこの鳥を見て息長氏を名乗ったのと考えられている。また坂田郡の背後にある近江一番の山高い山にも息吹をつけて今伊吹山となっている。。

鳰鳥の 息長川は 絶えぬとも 君に語らむ 言尽きめやも』…たとえ息長川の水が絶えようとも、君との話が尽きぬことはないよ・…と万葉集にある。息長川とは今の天野川であり息長氏そのものである。馬史国人(うまのふひとくにひと)は自邸に大伴家持・大友池主を招いて宴を開いたという。当時息長氏の古代国家における影響力を彷彿とさせるものである。三人にとっては大きな存在であったことであろう。
天野川が琵琶湖へとそそぐ傍に朝妻湊の跡がある、そこにはそんな碑が捧げてある。



2013年 10月 6日 湖南三山・遠州庭園を訪ねて

初秋 仲間と楽しく近江散歩を!

台風は沖縄へ向かっている、早朝から嫌な雲もでており天候が気になっての出発でもあった。名阪高速道は伊勢遷宮にもかかわらず、意外にスムーズに流れていて、我々は草津線三雲の駅で友人との待ち合わせに時間通りに着いて安堵した。三雲の駅で草津線から降りてくる友人と会った頃には近江の空はすっかり雲がとれて初秋の青空が眩しかった。

 再会を喜びあうのも束の間に今回の目的、湖南三山を巡るため早速に車を走らせた。今回は長寿寺の本堂、常樂寺の本堂・三重塔、善水寺の仏像、大池寺の庭をみる旅と計画してみたのであるが…果たして仲間達は喜んでくれるか心配でもあった。

 其々にかつては行ったことのある寺々であるが、やはりその変わり様に戸惑いを隠せない。人々が沢山参詣に訪れるようになったのはいいことであるのでしょう。しかし着飾ってしまって姿が見えないというのはどうかとも思うのである。天台寺の姿はその本堂の桧皮葺き屋根の反りにみられるような優雅さを伝えていると同時に、時の経過をも見せるものでもあった。それはとりもなおさず平安の雅びをも感じさせる。やたらある物を羅列するという感覚はたんに観光寺にすぎないと思う。

湖東三山に対しての湖南三山として市は発展を願っているのであろう。それは結構であるが見せるというコンセプトはやはり仏像であろう。山麓に何故あるのか?ということを知るのが信仰の姿と思われる。天台であるから薬師三尊である…だけでは信仰へと昇華出来ない。阿星山、岩根山が当時どのような山であったかを知ることもこれ等の寺を知ることに繋がるのである。

最後に禅宗様の庭園を見るため水口の大池寺に寄ってみた。仲間の一人に退職後庭師を勉強して職としている者がいるためでもあった。近江にはよくある小堀遠州の作庭でもある。さつきの大刈込み鑑賞式枯山水庭園は花の季節を過ぎてひっそりと、また青々としていた。

 一日の過ぎるは早く!陽も西に傾き田上山に沈む頃に三雲の駅へと大津の友人を送り、我々は帰途へとついた。秋の一日、仲間と楽しい時間をもてたことに感謝でもある



2013年 9月 29日 友人の家庭菜園

秋 実りの秋、野菜を頂いて…

日曜早朝、住まい前の公園から町内運動会の進行案内がスピーカーから響いてくる。この季節、あちらこちらの学校や地域のグランドなどで運動会が開かれている。空気も澄んで心地よい汗を流すには絶好の季節であろう!渇いた空気の中を歓声のあがるのは、如何にも健康な声で嬉しさを覚えるのは僕だけではないでしょうね。

昼過ぎ、友に電話をしたら「畑にいる…」ということで、早速見学に行ってみた。私のこの友人は誠に器用な方で、孫と公園などへ出かけるとそこら辺にあるものでおもちゃなどを作ってしまうという、俗にいうおもろいおっちゃんなのでもある。
そんな彼が、今年春、市の家庭菜園農地に応募して10坪位であろうか手に入れたのである。

フットワークのいい彼はすぐさま農協や大手ショップ等へ出向き、手法や時期、土の確保、種や苗など農業のいろはを勉強してきたのである。この半年、孫の付き合いや、友人と古民家の改造や、我々仲間との付き合いと忙しい中を、寸分を惜しんで土いじりに精を出してきたのでしょうね。

其々の畝に茄子、胡瓜、里芋、人参、大根、春菊、九条ねぎ、目キャベツ、ほうれん草などなど、所狭しと作っていた。私のように農業について全く無知なものにとっては驚くことばかりで、よくもこんなに出来るものと驚嘆するものであった。

一帯は八つの区画があって、他の区画でも同じような人達が農作業をされていた。お互いが道具など貸しあって、また情報交換などもしあって進めていくのであるそうだ。現役を引退された方々が家庭菜園を楽しんでおられるようで、誠に羨ましくも思えてきた次第である。

帰り際に、他の区画の方からむらさき蔓草を頂いたり、友人から長茄子、ピーマン、人参を頂いてきた。早速今夜茄子を戴いたが、皮を食べると「ギュッギュッ」という食感に自然の野菜独特の味を思い出したものである。
馬鈴薯が沢山植えられていたから今度は肉じゃがでも…と勝手に狙っています!






2013年 9月 22日 内海廻船の夜祭

秋 夏名残の知多半島の海

例年、8月の最後の休みには海を見に行くことにしている。その頃にもなると風が吹き出して波も高くなって流石に海水浴の人達も少なく、名残を楽しむ若者たちが過ぎゆく夏を惜しむかのように騒いでいるのだ。夏の海の家もすっかり閉じられており、何処かの新聞社の旗がパタパタとはためいているのである。
缶コーラの空き缶が風に流されてカランコロンと走ってゆく!若者たちはまた来年もやってくるのであろうか。時代は移り変わってしまって海水浴の風景も一変してるが、そんな若いときの感傷にひたりながら、もうこんな歳になってしまった。

夕方には対岸鈴鹿の山に真っ赤な夕日が沈んでいくにつれて、釣り人達も釣竿を片付けて帰っていく。

帰宅途中、偶然にもこの内海の町の夜祭りにであった。この地方は伊勢湾・三河湾と漁場に恵まれて漁業が盛んであった。江戸時代ともなると東西海上交通の要衝の地として海運業が盛んとなったという。
内海廻船といわれて、中でも内田佐七は多くの千石船を有したこの地の海運業の創始者であったらしい。そんな船主や船かき達の家が西端・東端の町に残っているという。この日出会ったのは内海川に二艘の船を並列に繋げ、その上に108箇の提灯で飾られたまきわら船がゆっくりと進むというものであった。中では若衆達が太鼓とお囃子で唄を歌いながら船を操っていた。川面に映る提灯の光は優しく、ゆっくりゆっくりと舟が進んでいた。

町を歩いているとこうした行事と遭遇することがある。その地の人々の息吹というものを感じるから嬉しいものだ、永々と続けてきたのであろう祭りが脈々と行われていくことを祈るばかりである。

因みに、この内海町から私の好きな哲学者・梅原猛氏が出ておられる。生まれは仙台であるがこの地で育ったという。東海中学を卒業し、第八高校も卒業されている。名鉄内海駅をでるとすぐに氏の生家を示す掲示板がある。

9月も半ばを過ぎて、肌に感じるものも違ってきた。それだけにこの祭りも去りゆく夏を惜しむかのように静かに川下に去っていった。寂しくも嬉しい初秋の一日であった。



2013年 9月 15日  誕生日を祝ってもらって

旅から帰ったら・・・

連休をつかって近江の旅を楽しんで来たら、私の娘たちが我が家にやってきた。日曜日の夜、遅くなったが私の誕生日ということであった。

そう言えば、つい先日も名古屋市から老人手帳配布のお知らせが届いていた…!数千円を支払うと老人パスが頂けるそうで、これには市営交通のバス、地下鉄などは無料になるというものである。また市営の博物館や動物園などが格安になるという。お年寄りに外出していただくと健康になり、それによって老人医療費が少なくなって財政的にはいいという考え方からであろう。私にもついにそういうものが頂ける歳となったということだ。

また65歳からの介護医療保険がこれまでとは違って格段と高くなります!というお知らせもいただいた。考えてもみればこの歳にもなれば介護ということが現実味を覚えてきてるし、少なくとも介護が必要という方もおられよう…。年金受給も65歳が開始であるから、世間的には確かに老人というカテゴリー?であるはずかも。

若い頃には想像だにしなかった老人という歳は世間が考えるほどガックリとはしてこないし、いやはや若い頃には気が付かなかったものが目に飛び込んできたり、知ることができる。また違った考え方もできるようになって、さてはて誰かが言っていた「老人力」とはこういうものだったか!と。

十数年来、毎年僕の誕生日を祝ってくれていた娘たちと離れて、自分でも忘れていた日であったが。65歳の誕生日を祝いに来てくれたのにはやはり嬉しいもので…、照れもあって何くわぬ顔をしていたが、内心嬉しさは半端ではなかった。

9月とはそういう月であった!。




2013年 9月 15日  湖北・高月町を歩く

秋 湖北の観音を拝観す

前から探していた所がある。江戸時代、農民達が村をあげての難工事をして排水道を造っていたのである。高月西野集落では三方を山でふさがり、余呉川の氾濫でいつも災害を受けていた。何とか排水したいのだが山を掘らなければならず、その難工事にエネルギーを費やさなかればならなかった。
高さ2m、幅1・5mを長さ約200mに掘り進んで、溢れた水を琵琶湖に流そうと考えたのである。当時としては財政的にも、建設的にも大変な工事であったであろうことは想像できる。

山本山に沿って車を走らせてみていたら古保利古墳群にかくれてこれまではわからなかったが、その西野水道はあった。
入口では今は小さな公園として整備されていて、管理棟らしきが建っているが誰もおらず、音声ガイドが設備されていた。

ヘルメットと長靴が置かれてあり、これらを着用して構内に入って湖側へも行かれるとのことであるが…、あいにくと私は閉所恐怖症であり、とてもじゃないが入構することは出来ない。
それにしても、人間はとんでもないことをしでかすものである。
当時の農民の生活を考えると、大変なことであったであろう。今では己高山の裾にかけて広がる平地はみのり豊かに稲が頭をたれていた。


その西野集落は高月観音の里として有名でもある。雨の降りしきる中、西野薬師堂に行ってみた。ここはお堂だけであるから、早速電話にて堂守りさんを呼び出してみた。
木造十一面観音立像と木造薬師如来像が小さなお堂にひっそりと祀られていた。この薬師像は薬壺を持たず、如来の来迎印を結んでいた。何処かでなおされたものと考えられるという。

堂守りさんが「宜しかったら近くのお像をみて行かれませんか?」というので、先の堂守りさんへ連絡してくれた。正妙寺というそのお堂は350mほど行った山の中腹にあって、雨あがりの階段はちょっと辛かった。堂守りさんはもう来ておられて待っていてくださってた。

木造千手千足十一面観音菩薩立像で、高さは約50Cm程の小さなものであった。以前、何処かの本で垣間見たような気がするのだが…。北陸白山の泰澄上人はインドのシバ神をこんな形に変化させて後世に残しているのでは?その顔も日本人好みな柔和な顔を表現をみせず、異人のそれを表しているようでもあった。
小さな厨子に祀られているのは、いかにも村人の信仰によるものだと羨ましくも感じる。

高月は今、観音の里として知られるようになってきているが、名もないお像にはどこか神秘を感じた。



2013年 9月 14日  京都大谷廟へ参る 

初秋、墓参り

今年二度目の京都東山大谷廟への墓参! まだ暑さも残って、京都はことのほか蒸し暑く感じる。京都駅はあいかわらず観光客でごった返し、駅前のバス停留所は列をなしていた。

私の両親はこの東本願寺東山大谷廟にねむっている。ちょっと時間があると出来るだけ寄ることにしているが、新年に続いて今年二度目でもある。新しい仕事に就くことになって、とりあえず両親に報告の気持ちで参ることにした。ダラダラと登りが続く参道を汗をかきながら歩いて厳かな御門をくぐる。、昼過ぎの陽はやはり暑い!
奥院へのぼり、松禅院からいただいた線香をたて、ゆっくりと手を合わしてきた。もう何年前になるであろうか?身罷った両親のお骨を、自宅近くの墓と、この大谷廟に分骨して弔っている。


帰路、石部小路を通り高台寺前にでて閑静な喫茶店でコーヒーをいただきながら体と心のクールダウン?を図る。この辺りは観光客の最も多い筋合いで、所々に小さな土産物店が開いているが、どこもお客さんでいっぱいである。ちょっと歩いていたら八坂の塔が見えてきた、やはりここもたくさんの方が歩いている。

京都駅までもどるとまだ時間があったので、歩いて東本願寺まで行くことにした。総門と御影堂は瓦の吹き替えがされているようで工事中でっもあった。
阿弥陀堂は開扉されているので須彌壇まですすみ手を合わせてきた。折しも読経が始まる前で数十人の信徒さんと一緒に頭を垂れて拝聴してきた。浄土真宗では般若心経を称えないぶん、正信偈を唱えるのだが、やはり大きなお堂内では美しく聴こえるものである。





2013年 9月 6日  近江八幡を散策

秋 街を歩く

九月初旬、このところぐずついた天気も夏の余韻を惜しむように晴れ間をみせて、大津の友人と近江八幡で落ち合うことにした。自宅からバス停まで歩くことからこの日の旅は始まった。恥ずかしい話だがそれは初めてのことでもある。いつもなら車で最寄りの駅まで行き駐車場に入れてから旅は始まるのだが…。早朝のバスは通勤・通学の人達でいっぱいである。

 名古屋から大垣まで新快速、大垣から米原まで行き乗り換え、快速で近江八幡に到着と約約二時間の行程であるが、東海道本線というのに誠に不便でもある。それでも隠れ鉄ちゃんの私は米原駅での「特急しらさぎ」連結や新幹線通過を写真に収めて満足である。


 昼頃に友人と会うとまずは近くの店で腹ごしらえ!近江バスで重要伝統的建造物群保存地区の指定地域である新町通りへと向かった。旧西川邸や伴野邸など旧家が軒を連ねているが、平日なのであろうか人の通りはあまり見られない。所々に旧家を改造して小さな民俗店などが開かれているのが楽しい。

 足を日牟禮神社にむけて歩いてみた。今では有名な菓子処「たねや」はこの境内にある。八幡山の山麓にある楼門は立派なものである、古来祭神は近江坂田郡の地方豪族息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)であったが、十一世紀に八幡神が勧請されている。実はこの夏、醒ヶ井の山奥でこの息長足姫の墳墓を探したばかりであったから何かの因縁さえ感じるのである。

 境内から横道に逸れて、八幡堀へと足を進めてみた。数年前と思うと結構洗練されたというか?今風の店が所々で営業されていたが、屋形舟乗り場のまえの喫茶店は昔通りあった。暑さを凌ぐためお茶でもいただくことにした。

 近江八幡でも朝鮮通信使街道がやはりあって、諸説あるが、兎に角屈折した街道である。街角の石柱がそれを示していた。

 帰途、自宅へのバスの中、後ろの席から若い高校生らしき男女の会話がそれとはなしに聞こえてきた。「この成績では・・大学は無理みたい!」「この前の英語のテストは良かったけど…」若いって辛いけど夢があって羨ましい…!そうした会話が旅を面白くしてくれるものであるかもしれない

バスの中の空気、駅の空気、電車の空気、街の空気、喫茶店の空気其々に今日は違っていた。一日の旅ではあるが、こうして歩き回って出合った空気には其々に味がある。比較することは嫌いであるが、今日はそれぞれが其々の存在を示して楽しむことができた。一日付き合ってもらった大津の友人に感謝しなければならない!


2013年 8月 8日  大津琵琶湖花火

夏 花火

休職中のんびりとする中、行く機会に巡り合わなかった琵琶湖花火に出かけることとした。途中友人と米原で合流、国道八号線を大津へ向かうことにしたが五個箇町金堂地区の歴史的建造物群と町並みを散策することに。近江商人と謂えど、其々に違って日野上人は主に薬を売っていたし、近江八幡は行商を行なっている。この五箇荘町は物流を考えた商人が生まれでている。

途中、安土にある浄厳院という浄土宗寺院を拝観する。信長の安土宗論に使われた寺である。かって昔灼熱の夏の日、この寺の縁で休んでいると近くの檀家であろう老婆が来たので許しを得ると、『気持ちのいい風でしょう!これは叡山のあまり風ですよ…』と言われた。

以来、近くを通るとこの浄厳院へ寄ることとしている。こうした言葉がまだまだ生きながらえて聞くことができたことに、何処からか喜びが伝わってきたのである。

 

大津に近づくにつれて天候が怪しくなってきた…、この日は地震警報の誤報がでたりしてこの先の花火に嫌な予感がでてきた。しかし夕方に近づくに天気も回復し、名古屋からわざわざ新幹線を使って我らに合流しようと来た友人とも会って琵琶湖畔に向かうことにした。

八月八日真夏の祭典は兎に角暑い!浜に近づくにつれて人の波は桁外れに多く、想像を超えていた。花火とは真上にだけ上げるものと思っていたが、30度位の角度から90度へ上がっていくと連続して打ち上げられる花火はまさに豪華絢爛であった。フィナーレでは数箇所から一斉に打ち上げられて夜空一面が美しい光を散りばめられたキャンバスとなった。時をうつさず何処からともなく拍手がされる。この感動は私だけのものでもなかった。

 

終演後、友人の家にて奥様の手料理をご馳走になってしまった。この夏の思い出は記憶の中で必ず残っているであろう!そんな感動を話しながら深夜の高速道路を走って帰宅した。



2013年 8月10日 比叡山飯室谷松禅院 

夏  飯室を訪ねて

夏のお盆の期間中は高速道路はどこへ向かうにしても渋滞は避けられない。幸い天気も良いから比叡山飯室まで一般道を走っていくことにした。

名古屋から302号線を北西に向け木曽川東海大橋を渡って関ヶ原へ抜ける。ここから21号線は長久寺村から柏原宿、醒ヶ井宿を通り米原へと出る。この道はもう幾度となく通行している謂わば私の近江への脇間道でもある。いつもは醒ヶ井宿のランチバイキングを食べるのだが今日は時間が早く残念だ…。米原で21号線は8号線に合流し栗東までいくのである。やはりお盆ということで国道も混んでいるようであったから彦根から浜街道を近江守山まで行き琵琶湖大橋へと向かうことにした。
天気のいいこの日の琵琶湖は湖面がキラキラと輝きいつもにもまして美しい!処々車から降りて湖畔を歩くのだがこの辺りはまだ水もきれいである。キャンプ場ではたくさんの家族が楽しく過ごし、公園ではカップルが楽しく語りあっている。

坂本に入り阿闍梨さんに会うまでに少し腹ごしらえということでいつもの日吉そばを食べることにした。そう私は司馬遼太郎氏と同じくこちらの日吉そばが好きである。隣のそば処つるきは有名であるが…私には馴染みがない。

飯室松禅院は今日も静かで護摩供には四人の参加であった。お加持を受けて今後の健康や就職を祈念してきた。相変わらず藤波源信阿闍梨はお健やかで、居間でお茶をいただきながら世間話をしてくるのだが、その尊顔を拝するだけで私は元気をいただいている。

幾度となく訪ねてはいるが、この場所は私の安らぎの場所でもあるのです。

東塔、西塔、横川と比叡山には三塔あるが、この横川は中でも静かである。特にこの飯室谷はあの有名な酒井雄哉大阿闍梨のお住まいである長寿院と松禅院しかなく、他に比叡山三大魔所と云われる慈忍和上の陵しかない。

この長寿院護摩堂は酒井阿闍梨の護摩供の日ともなればそのお堂は人であふれ、その人気の凄さに驚かされる。丁度この日も酒井師の護摩供があったらしくたくさんの方が帰られるのに出合った。

 

こうして心に清々しい力を戴いて帰路に就くのだが、帰り道も野洲から日野を抜け、永源寺の前を通り山道を走って来た。途中、今は綺麗なトンネルとなった石グレ(木編に專)峠を通り抜け桑名へ出るが、高速道路では味わうことのない風情を肌で感じつつ、近江の匂いを味わいながら家路へと急いだ。


 

2013年 7月27日 無動寺明王堂・葛川明王院 

夏  今年も葛川明王院へ

 例年7月の16日から20日の間、大津市坊村の葛川明王院で比叡山の僧侶が夏安居を行う。いわゆる葛川籠山行なのだが、今年は拝観する機会を逃してしまった。無動寺明王堂へ行くついでに、大津の友人も誘って葛川へでむいた。

私が可愛がっている娘がもうすぐ結婚するのを機会に、この際比叡山東塔無動寺谷・無動寺明王堂の阿闍梨さんのお護摩とお加持を受けることを勧め、仲間を同道して行くこととした。お堂では正座しての真言を唱え、その後お加持を頭と身体に受けて頂くおだが、この娘には異様に思ったに違いない?

場所を下の法蔓院にうつしてお斎(とき・昼ご飯)を戴いた。光永阿闍梨と席を一緒にしての食事である。食前観を称えていただくのであるが、今日はご飯と味噌汁、揚茄子と厚揚げの煮しめ、大根切り干し、たくわん、そして今日は桃が一つ添えてあった。勿論これらは師のお弟子さんたちがお作りになっているのであるが、全て無料である。食後観を一同唱和して後、隣の茶室にてお茶をいただきながら阿闍梨さんのお話を聞いてひとときを楽しんだ。

これから娘夫婦には色々な出来事がおこるであろう…、しかし一人で生きているのではなく、たくさんの方々の思いなどで人生を生かされていくことを、こうした行いの上で感じ取っていって欲しい。早々に明王堂をあとにして、坂本から仰木を通り坊村から花折峠を超えて葛川へと入った。

この花折峠という名前から、昔この峠で樒(しきみ)をとってから葛川へ向かったという。夏安居の折には行者たちは坊村勝華寺から宮垣善兵衛さんが先導し、この花折峠からは葛野常喜・常満さんにうつし葛川まで道案内をするという。そうした意味ではこの峠を越える辺りから空気が一変すると感じるのは私だけではないだろう

葛川三宝橋では中程で川上に向かって柏手を打つ、この地の神・思古淵明神に挨拶をするのである。
正式には葛川息障明王院
(かつらがわそくしょうみょうおういん)というのだが、先年新しく直された重要文化財でもある。

政所では葛野常喜さんが亡くなったあと奥様がその任を司っておられていた。暑い中、その老婦は我々を部屋に招き入れて、冷たいお茶をいれてくださった。この地の神仏に対する信仰心とでもいうのか、そんな安らぎが私を毎年この地にへと足を運ばせるのであろう。



inserted by FC2 system