三重伊勢の旅・倭姫と大和武尊をたずねて



東名阪高速道鈴鹿ICをでて、国道306号線を南西に進み、鈴鹿川の支流安楽川・八島川・御幣川の合流地点の近く、こんもりとした丘陵が目に入ってくる。連休を利用しての歴史散策も相変わらずな古代史を訪ね歩くものであった。

倭は 国の真秀ろば 畳なづく青垣 山籠もれる 倭し美し

ヤマトタケル終焉の地にて望郷の心をを詠んだ辞世の句と謂われます。伊(胆)吹山の神に痛めつけられ麓の居醒の水を飲み回復しかけた体を養老・鈴鹿山脈をまわって大和をめざすものの体力は衰え「わが足、三重の勾りなして、いと疲れたり」と語ったという。故、この地を三重と伝わっている。しかしながら能褒野(のぼの)までやってきたが薨去してしまう。

丘陵地は現在のぼの公園となって整備され、一帯は培塚など幾多あり能褒野王古墳群と伝わる。一番大きい古墳は能褒野王塚古墳(のぼのおうつかこふん)であり、形状は前方後円墳で北勢地方最大規模で4世紀末古墳時代前期の築造と推定されるもので、実際の被葬者は詳らかではないが、宮内庁では第十二代景行天皇皇子日本武尊の墓『能褒野墓』として治定されている。考古学的には明らかではなく、日本書紀・古事記編纂と並行して帝紀に基づいた墓の指定の動きがあったともいえる。因みに小碓命(オウスノミコト・後の日本武尊)は皇子であるが皇太帝ではないので陵(みささぎ)ではなく墓となっている。

この日は初夏の装いをみせて、木漏れ陽のなかを快い風を感じながら墳墓を探して歩き回っていた。丘陵地正面の石階段をあがっていくと小さな祠と拝殿があらわれた。近年になって創建されたという能褒野神社である。社務所は無住なのであろうかひっそりとしている。近くには何故か?連理の榊と銘打った木が開示されているが、それは岐阜垂井町からの贈呈であった。先般来友人O君が連理の木を探しているのをフッと思い出す…。





一見どこにでもあるような田舎の公園?という感じ




皇子ではあるが皇太帝ではないので陵でなく墓であった




整備された石畳階段    鳥居をくぐるとさすがに神さびた雰囲気が漂う




神官もいない無住社  本殿近くに何故か『連理の木(榊)』が植樹されている


日本武尊(倭建・ヤマトタケル)の伝説

ヤマトタケルは第12代景行天皇の子として誕生した。幼名を小碓命(おうすのみこと)といい,兄の大碓命(おおうすのみこと)とは双子の兄弟とも言われている。武勇に秀でていたが気性が激しく,兄を殺害してしまったため父からは疎(うと)んじられていた。
小碓命が16才のとき,父景行天皇は九州の熊襲(くまそ)を平定するように命じる。熊襲建(たける)兄弟は武勇に秀でていたが,大王の命に従わおうとしないので,征伐することになった。やがて兄弟より強い者は西方にはいないが倭にはいたんだと知り,自分たちの「建」の名をもらってほしいと願う。そして,小碓命を倭建命(やまとたけるのみこと)と称えることにすると言って息をひきとった。小碓命はこれより倭建命(ヤマトタケル)と名乗ることにした。(「建」は勇敢な者という意味を持つというものだ)

宮に戻ったヤマトタケルは羽曳野で一人の娘と出会う、名を弟橘比売(おとたちばなひめ)といい、二人は結ばれた。

 ヤマトタケルは休む間もなく次は東国の平定へと向かわねばならなかった。父は,東国の12か国(伊勢,尾張,三河,遠江,駿河,甲斐,伊豆,相模,武蔵,総,常陸,陸奥)が従わないので平定するようヤマトタケルに命じたのだった。
 出発前,ヤマトタケルは伊勢にいる叔母の倭比売(やまとひめ:景行天皇の同母妹)から,須佐之男命(すさのおのみこと)が出雲で倒したヤマタノオロチの尾から出てきたとされ,天照大神(あまてらすおおみかみ)に献上した天叢雲(あめのむらくも)の剣を受け取った

尾張に入ると豪族の娘の美夜受比売(みやずひめ:宮簀媛)と出会い,東国の平定後に結婚すると約束する。美夜受比売の兄の建稲種命(たけいなだねのみこと)は尾張の水軍を率いており,副将軍として東国の平定に出かけることとなった。

相模の国に入る前で弟橘比売(おとたちばなひめ)と合流し、土地の役人がヤマトタケルを迎え,草原の神が従わないから成敗してほしいと,沼に案内した。しかし,それは罠であって、草原に火がつけられ炎に囲まれてしまった。弟橘比売とともに焼かれてしまうところだったが,持っていた天叢雲(あめのむらくも)の剣でまわりの草を刈り,叔母にもらって持っていた火打ち石で向かい火をたいて火の向きを変えた。ヤマトタケルは罠に陥れようとした者たちを斬り殺して焼いた。(この地が静岡県の焼津市ではないかと言われている)

天叢雲(あめのむらくも)の剣によって難を逃れたヤマトタケルはこの剣を「草薙(くさなぎ)の剣」と改名した。「草薙の剣」は三種の神器の一つであり,名古屋市の熱田神宮に祀られている。そしてこの草原の名を「草薙」として現在も地名として残っている。また,ヤマトタケルは小高い丘に登り周りの平原を見渡した。この姿を見た土地の人たちがここを「日本平」と名付けた

三浦半島沖・走水の海へと船出をしたヤマトタケルたちを嵐(あらし)が襲(おそ)った。黒い雲が巻き起こり波が船を襲った。雷鳴がとどろき,激しい雨と風に船なすすべもなかった。弟橘比売は「海神の祟(たた)り」だと言った。そして,その怒りを静めようと海に身を投げてしまうのである。やがて海は静まり,ヤマトタケルたちは上総に渡ることができた。海岸でヤマトタケルはクシを見つけ、それが弟橘比売のものとわかると悲しみがこみ上げてきた。こうして東国の神々を平定し,ヤマトタケルたちは帰途についた

美濃国境で早馬で駆けてきた従者の久米八腹(くめのやはら)から,甲斐での戦いの後,東海道を通っていたはずの建稲種命(たけいなたのみこと)が駿河の海で水死したことを聞いた。ヤマトタケルは「ああ現哉(うつつがな)々々」と嘆き悲しみ建稲種命の霊を祭った。これが内々(うつつ)神社の始まりで,実際に祭った場所は奥の院であったとされている。

西尾(ヤマトタケルが建稲種命の霊を祭った内々を振り返ったとき,馬の尾が西を向いたのでこの地名がついたと?から熱田への帰路,ここ神屋で休んで手を洗った。以前は清水が1年中かれることなくこんこんとわき出ていたといわれ,小さな祠が建てられている。

熱田へと帰ったヤマトタケルは美夜受比売(みやずひめ)と再会したが、尾張ではまだしなければならないことがあった。それは伊吹山の神を征伐することだった 。ヤマトタケルは素手で戦うからと草薙の剣を美夜受比売に預けて出かけることにした。伊吹山を登り始めてしばらくすると,白く大きなイノシシが現れた。山の神の使いが変身しているに違いないから大したことはないと先に進んでいった。ところがこのイノシシが山の神自身が変身していたのだった。山の神はヤマトタケルに大氷雨を降らせため,大きな痛手を被ってしまい,やがて病にかかり伊吹山を下りた。

伊吹山を下り,毒気にあたって命からがら玉倉部の清水を飲んで体を休めた。ここの清水の効果は大きく,高熱がさめたという話が伝わっている。滋賀県米原町醒ヶ井に「居醒の清水」があり,この伝説が残っている。
昔,醒ヶ井は中山道を往来した人たちの休憩所でもあった。ヤマトタケルが傷をいやしたことから「居醒(いざめ)の清水」と呼ばれ,醒井(さめがい)という地名もこの話が元になったと言われている。

ヤマトタケルは終焉の地となる能褒野(能煩野・のぼの)に着く。そして,ここで力尽きた。その知らせは宮にいる妃たちにも届いた。そして,能褒野に陵を造った。みなが嘆き悲しんでいると陵から一羽の白鳥が空へ舞い上がり,大和の方へ飛んでいった

白鳥は旧市邑(ふるいちむら・現在羽曳野市)に降り立って白鳥陵として残っている。また白鳥が最初に降り立ったとする伝説地が琴弾原(奈良・御所市)であることからこの地に白鳥陵がある。


後日記

滋賀県米原町醒ヶ井・地蔵川の初夏は小さな美しい水中花『梅花藻』が川面を飾っていた。 
醒ヶ井駅前から少し歩くと地蔵川に出る、中仙道宿場町を川上に歩くと「居醒の清水」へとでる。日本武尊の碑と銅像が設えてあった。


       

       


       




倭姫命(やまとひめのみこと)

記紀に伝える古墳時代以前、崇神天皇の皇女豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこ)はこれまで倭の笠縫邑(かさぬいのむら)にて天照大神を奉斎していた。
その後、垂仁天皇の第四皇女・倭姫命は替わって御杖代となり遷座地を求めて伊賀・近江・美濃・尾張を経て伊勢の国
へと来た。『この神風の伊勢の国は、常世の浪の重浪帰(しきなみよ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜(うま)し国なり、是の国に居(お)らむと欲(おも)ふ』(日本書紀)と神託があり、五十鈴川の川上に遷座(現・皇大神宮)したという。後に斎宮(いつきのみや)を建て天皇に代わり天照大神に奉仕する斎宮となる。因みに伊勢神宮を創建するまでに天照大神のご神体・八咫鏡を順次奉斎した場所は元伊勢とも呼ばれている。


日本武尊は父景行天皇の命にて東征の途次、伊勢斎宮にいる叔母へ涙ながらに訴えた。父は何故に私を疎んじておられるか?西征から帰ってすぐに軍備の整う間もなく今度は東征を命じられたのである。
それでも愛しい甥の気持ちを思うと倭姫の心は痛んだ。せめてもの餞に彼の身が真幸(まさき)くあれと祈りをこめて美しい衣と神宝・天叢雲(あめのむらくも・須佐之男命が出雲で倒したヤマタノオロチの尾から出てきたとされ,天照大神に献上されたという)の剣を与えたのだった。

二見浦のホテルから伊勢山田方面へと車を走らせると、倉田山丘陵地を横断するように外宮と内宮を結ぶ御幸道路へとでる、左手には神宮神官を輩出する皇學館大學があり、倭姫前の信号を右折して杜の奥へと進む。先般の伊勢斎宮の旅以来気になっていた倭姫宮のこじんまりとした鳥居が木立の前に屹立している。綺麗に掃き清められた石畳の参道は神さびた空気を感じさせて、静謐な時間をもたらしてくれた。
倭姫命を祭神とする倭姫宮(やまとひめのみや)は現在伊勢市倭町にその御陵伝承地があり、皇大神宮別宮の一として1923年に創建された新しい宮でもある。

伊勢神道は天皇皇国神道であり皇室神道の一面をも備えている。政治の中心が天皇であった我が国黎明期から二千年余を経て、今もなほ精神の根幹をなしながら信仰を保っているのは世界でも類のないことではある。そんな礎を築いたのも倭姫命ではないだろうか。



伊勢倉田山の中心地には倭姫が祭られている        内・外宮と違って参詣に訪れる人影もなく静かに佇んでいた。




倭姫宮(やまとひめのみや)も正宮同様遷宮が行われます。隣には20年後遷宮地である古殿地




神宮唯一神明造り 鰹木と端神が凛々しくも鈍く輝いていた



倉田山丘陵地、こんもりとした杜の中に静かな空間を発見しました。神宮徴古館と神宮美術館は落ち着いた雰囲気のなかでゆっくりと時代の変遷が解るというものです。


神宮徴古館は明治建築物           京都国立博物館など設計した片山東熊                内宮神撰の展示




伊勢大神宮の御神号                   日本画・天孫降臨の図                 静かな会場休憩室




室内からは日本庭園が広く見渡せる



室町時代中頃に、勢田川のほとりの葦原を埋め立てて作られた伊勢の河崎。今も川に沿って石段の残る昔ながらの商家や蔵が往時の姿を今に残しています。黒塗りの蔵が続くまちなみは、少なからず心が和む町並みを保っていました。
伊勢神宮への参宮客でにぎわう伊勢の台所としての役割を果たしていたという。現在でも軒を連ねた古い町家や商家の蔵など、江戸時代からの町並みが残っています。



古い町並みを保存する動きはあるようだが…、やはり人通りはなく内宮おはらい町へと行くようだ。




勢田川では海産物や参詣者が舟でこの地に上げられたという。


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