和歌の集り   万葉集








  
万の言の葉(よろずことのは) 葉集から


万葉集にあらわれる歌人たちは古墳文化後期を生きてきたが、その言語表現は表記方法の不備にもかかわらず微妙な心理の分析的な把握、自然との対応と関係の感覚、語の洗練された用法技術などに大らかさといった性質では言い表せない細密さをうかがわせてくれる。 

                                           栗田勇 ・ 「飛鳥大和 美の巡礼」 より











万葉集の意味

歌は本来神聖なものとして考えられてきた。それは歌の発生以来歌は神から人への託宣であった。しかしながら神はその発声器官を持たないから人が此れを代行する。このことが神の言葉を語る口寄せとしての巫女(みこ・かんなぎ)であり、その末裔が歌人となるのである。歌人はあくまでも神の代行者であり、神の存在は歌の中にあるものと考えられてきたから、歌びとより歌そのものの方が大切にされていた。それは古代の古事記・古今和歌集・万葉集からみてもわかる。

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

古事記最初の歌である。八重の雲が立つ出雲の国の八重にめぐらす聖なる垣よ、その中に愛しい妻のそなたを籠もらせるべく八重の垣を作るぞ。その八重の垣をな。

出雲を支配している神の歌だが、この歌には主語がない。古代人の心理の裏には主語は常に神々であった、主語が常に神であったならば、それはもう主語は不要ということである。

 文学の歴史は詩歌の歴史でもある、日本語に限って云えば歌を中心とした歴史である。この歌を象徴するものは天皇の名の下に撰上された歌の集成、所謂勅撰集である。歌によって王権、具体的にいえば天皇家の国家支配を正統化し、賛美することがその意図とするところでもある。

天武天皇は神格化された王権の由来を神話に求めた、稗田阿礼(ひえだのあれい)に命じた帝紀・旧辞に始まる古事記である。。

天皇家の王権神格化のための勅撰集『古事記』の歌からそれは『万葉集』に踏襲されている。巻1の1から53までは持統上皇の下命であることから持統万葉とも云われるのがそれだ。

舒明・皇極・天智・天武・持統各代の天皇・皇族関係の歌を集め、それらに先行する形で第一首に雄略天皇の御製を置いた。これら天皇は総じて舒明系であり、その皇統が連綿と続く過程では血の粛清ということを受けている。そんな事実を皇統の正統化のため選ばれたのが偉大な天皇の名をほしいままにしている雄略天皇であった。

原始古代において偉大な王者の条件は何よりも強いということであり、この強さは必ずしもずるさと矛盾するものでもなかった。そして加えて、感情生活の豊かさがあれば魅力は更に増した。感情生活に豊かさは恋愛に尤も表れ、その恋愛はその頂点において歌という形をとった。

詩歌の歴史は人間の歴史と同じほど古い。詩歌の歴史は遡れば遡るほど人間を離れて神のものとなっていく。



















泊瀬朝倉宮御宇天皇代   大泊瀬稚武天皇
(はつせあさくらのみやあめのしたしらしめししすめらいのみことのよ)  ()おおはつせわかたけのすめらみこと)

天皇の御製歌

巻 第一 〇〇〇一


もよ み籠持ち 掘串もよ み掘串持ち この岳に 菜摘ます児   
   家聞かん 家告らせ 名告らさね 
   そらみつ 大和の国は おしなべ
われこそ居れ しきなべて 
われこそ座せ われこそば 
        告らめ 家をも名をも




こもよ みこもち ふくしもよ みふくしもち このおかに なつますこ いえきかん いえなのらさね
そらみつ やまとのくには おしなべて われこそおれ しきなべて われこそませせ われこそは のらめ いえをもなをも





おお、籠よ、良い籠を持ち、おお堀串も、良い堀串を持って、この丘で若菜を摘んでいる娘さん、家はどこか言いなさい、何という名前か言いなさいな、神の霊に満ちた大和の国は、すべて私が従えている、すべて私が治めているのだが、私のほうから告げようか、家も名をも


天皇と娘子との聖なる結婚によって、国土の繁栄を約束されることを詠った歌。
籠(こ)とは摘んだ若葉を入れるカゴ、堀串(ふくし)とは土地を掘るヘラのことです。「み籠」「み堀串」の「み」は相手の持ち物をたたえる接頭語といいます。
早春に娘達が野山にでて若菜を摘んで食べるのは成人の儀式でもあったと言われます。「児・こ」は女性を親しんで呼ぶ呼称、「そらみつ」は大和にかかる枕詞である。

古代、名前にはものの霊魂が宿っていると考えられれていました。通名とは異なって、真の名前は母親と自分のみが知るものとして秘する習いでもあったのです。だから名前は重要なことであり男が女の名前を尋ねる
のは求婚を意味し、女が名前を明かすのは相手の意にそうということを意味していたのです。

雄略天皇は五世紀後半の第21代天皇で、允恭天皇第五皇子にて古事記に登場する英雄的な君主でもあるのです。歌をよくし、その霊力によって女性や国を獲得したという伝説があります。権勢は全国に及んだともいいます。










巻 一 〇〇〇二

息長足日広額天皇(おきながたらしひひろぬかのすめらみこと) 香具山に登りて国見したまふ時の御製歌


大和には 群山あれど 
    とりよろふ 天の香具山 
         登り立ち 国見をすれば 

国原は煙立ち立つ 海原は鷗立ち立つ 
      うまし国そ 蜻蛉島 大和の国は


 やまとには むらやまあれど とりよろふ あまのかぐやま のぼりたち くにみをすれば 
  くにはらはけむりたちたつ うなはらはかまめたちたつ うましくにそ あきつしま やまとのくには


                                                            舒明天皇






大和にはたくさんの山が連なっているけれど、いろいろとともなっているのが香具山である。
そんな山に登り、その上に立ちて国を望んで見たら、この国の大きな広い平原には炊煙が一面にゆらぎ立っている。そして向こうの広い水面には鷗がたくさん飛び立っているいるのが見えます。いい国だ、そんな大和の国は。






推古天皇が崩御せられた時、聖徳太子は薨去されている。皇太子も定まってはいなかった。山背大兄王もおられたが田村皇子が御即位につかれることとなった。第34代舒明天皇である。

大和三山の一つで穏やかな山容である天の香具山は背に狭い平地をへだてて多武峰連峰に接している。そうした地形が古代に斎場(いわいば)にしばしば利用されていたとも謂う。山の上から国見をすることは行事として行われていた。それは宗教的な儀式でもあったのだろう。


うまし国とはよい国との意で、古代日本書紀では神武天皇4年の条項にて、丘に登り国状を望まれた時「蜻蛉臀呫せる如し・あきつとなめせるごとし」と謂われたので秋津州(あきつしま)との号がある。所謂蜻蛉(とんぼ)の多い国でもあったのだろうか。
民情を知るために定まって行われた国見を大和の国を広く日本を象徴するかのように用いている。国原と海原を配し、炊煙と鷗を配しているのは、人間の生活と自然の景観とを併せて詠った大きな歌であろう。




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第 一 〇〇一三


中大兄近江宮にあめのしたしらししめしし天皇の三山歌


高山(かぐやま)は 畝傍雄男(をお)しと 
     耳梨と 相争ひき 
        神代より かくなるらし

古へも 然
(しか)なれこそ 
    うつせみも 嬬
(つま)を 争ふらしき



かぐやまは うねびをおとし みみなしと あひあらそひき かみよより かくなるらし いにしえも しかなれこそ うつせみも つまを あらそふらしき








香具山は畝傍山を雄々しい山であるとして、耳成山とお互いに妻になるよう争った。神代よりこのゆなことがあったらしい。古もこのようであるからこそ、現在の人も妻争いをするらしい。



大和三山の妻あらそいの説話を詠ったところに特色がある。ここ甘樫の丘からみる三山は目の前の山お互いが話し合っているようにさえ見える。古代の人が自然の中に神や心を見出したとしても不自然ではない。









巻 一 〇〇一八

額田王三輪山を詠みたもう歌



三輪山を しかも隠すか 雲だにも 
       情あらなむ 隠さふべしや




みわやまを しかもかくすか くもだにも こころあらなむ かくさふべしや








奈良盆地を囲む青垣の東の山が三輪山、西に対峙するのが二上山であり、太陽が昇る三輪山に対して月が沈む二上山は万葉人にとり特別な山・心の拠りどころでもあったのでしょう。

三輪山を隠してしまうのですか、せめて雲だけにも心があってほしい。雲よ、どうかその山を隠さないで!天智天皇の近江遷都にともなって、この三輪山との別れは、飛鳥から遠く離れることを意味していた。白村江の戦いで破れたわが国は都を近江へと移したとも云われます。人々は遠く離れた新しい都へ行くことは寂しい想いもあったのでしょう。自然と共に生きていた万葉人は山は特別の存在でもあったのです。特に美しい三輪山は魂の拠り所であったです…。

飛鳥から近江へと旅たつ道のりで見る三輪山は、万葉人が飛鳥との別れを心に刻む最後のときであったのでしょう。あらゆる物に魂を持つとされていた万葉の時代、三輪山を覆い隠す雲の心に呼びかけたこの歌は人と自然は心を持って通じ合うという当時の自然観からうかれたのでしょう。



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巻 一 〇〇二〇

天皇蒲生野に遊猟(みかり)せられし時額田王作(よ)める歌


あかねさす 紫野ゆき 標野ゆき 
      野守は見ずや 君が袖ふる




あかねさす むらさきのゆき しのめゆき のもりはみずや きみがそでふる






紫野を行ったり、入ることを止められている野を行ったりして、貴方が袖を振ってらっしゃるのを野守は見つけないでしょうか?見つけられるといけませんよ。




額田王の御製としてよく知られている歌ですね。額田王は初め大海人皇子に愛せられ十市皇女を生み、後に天智天皇(中大兄)皇子)に愛せられたのである。

滋賀県近江八幡の東に今でも蒲生野とある。天智天皇時、大津の宮からこの地へと参られたのである。遊猟とはこの場合狩猟より薬猟のようなもであろう。後世桜見を桜狩りというが薬草を取りに行くのを薬猟とも言った。

蒲生野の薬草原に天智天皇も大海人皇子もおられたことだろう。大海人皇子の動きを見守っていた額田王は、その皇子の紫野を行き標野を行ったりしている様子を詠いながら、野守には気づかれはしないだろうかと不安な気持ちが起きてきて…、それが「野守は見ずや」という句となり、「君が袖ふる」と結んだのは優雅でもある。

天智天皇のお側にいたであろう額田王の心の不安、動揺が垣間見える。いずれにせよ天智天皇と大海人皇子との狭間で揺れ動く額田王のいじらしい心遣い、不安、動揺が自然と表現されている。目に浮かぶようである。









巻 一 〇〇二一

皇太子答ふる御歌 明日香宮後宇天皇諡して天武天皇といふ


紫の にほへる妹を にくくあらば 
      人妻ゆゑに われ恋ひめやも




むらさきの にほえるいもを にくくあらば ひとづまゆえに われこひめやも





紫のように映えて美しいあなたに対して、憎らしく思うなら人妻であるものを何で恋しようか



「あかねさす・・・」の御歌、袖振るのをたしなめられたのに対して、どうにも恋しくて堪えられない御心を詠われている。憎らしく思うなら恋などしないというところには、どうしようもない思慕の情が表れている。
理性では抑えることのできない恋心がよく表現されており、対して額田王の御歌には思慕の情を理性で抑えてたしなめられている。







巻 第一 〇〇二四

 麻績王、これを聞きて感傷して和ふる歌

うつせみの 命を惜しみ 波に濡れ 
    伊良虞の島の 玉藻苅り食す

うつせみの いのちをおしみ なみにぬれ いらごのしまの たまもかりおす




私は命を愛惜してこのように海浪に濡れつつ伊良虞島の玉藻を苅ってたべています





麻績王伊勢国伊良虞島に流さるるの時人哀れみ傷みて作る歌

打麻(うちそ)を 麻績王(おみのおおきみ) 白水郎(あま)なれや            伊良虞の島の 玉藻苅ります


伊良虞は当時伊勢の国に属していたのである、それは篠島も同様で伊勢との海路による交通は密接であったろう。麻績王が島に流された人として海岸で藻をとっておられるのを人々が同情して詠んだ歌である。そして麻績王がそれを聞いて感傷して応えられた歌がそうである。

両歌を併せて詠むと麻績王が伊良虞の島に流されたことが分かり、又この島で周囲のものの同情をひきながらわびしい生活されていたことが分かる。
哀痛の生活を詠ってはいるが、それほど暗い感じにならないのは当時の大らかな心情があり、それが調べにもなっているようです。

先年、私はこの歌碑を探しに伊良湖へと足を延ばしました。半島の先端、灯台から少し石段を上がったところにひっそりと建てられていた。今は人影もなく寂しいものと思いましたが・・・、この辺りからは伊勢の国が近くに見え、漁に精を出す人々からは尊き人と慕われ世の争いに感知せず健やかな生活を送れたと思いその場を去ったことでもある。




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巻 一 〇〇二七

天皇吉野宮に幸さるる時御製の歌


淑き人の 良しと吉く見て 好しと言ひし
     芳野吉く見よ 良き人よくみ



よきひとの よしとよくみて よしといいし よしのよくみよ よきひとよくみ

                                                            天武天皇





良い人が吉野は良いところと言われたので、よく見てなるほど良いところと言った。その吉野をよく御覧なさい、良き人はよくみなさい。





大津の宮・天智天皇が病重くなってきた時、大海人皇子(後天武天皇)は皇太子を辞して吉野へと籠もられた。世に人はこのことを「虎を吉野にもって放した」と噂したという。
後に、弘文天皇が即位されたが壬申の乱をむかえ死を早くした。大海人皇子は即位して天武天皇となられる。それだけに天皇となり吉野は忘れがたい思い出が多く有しておられたのであろう。

吉野行幸の後、天皇は皇后及び草壁・大津・高市・河島・忍壁・芝基の各皇子を集めて、「相扶けて逆ふること無」きことを盟約させ、草壁皇子以下5皇子も同意した。その後天皇は喜びそのことを吉野に喩えこのよぷに詠ったという。
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巻 第一  〇〇二八

 天皇御製歌

春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 
      衣干したり 天の香来山

はるすぎて なつきたるらし しろたえの ころもほしたり あまのかぐやま

                                                    持統天皇







春が過ぎて夏が来たらしい、天の香来山辺りでは白い衣の干してあるのをみると…

                                               


持統天皇、藤原宮での御製歌である。 持統天皇は天智天皇の皇女で天武天皇の皇后となり、天武天皇崩御の後に即位されている。
藤原宮跡は高市郡鴨公村高殿、現在橿原市にあったとされる。宮殿から眺めた天の香来山には眩い陽のした白い爽やかな布が風に揺れていたのだろうか。女性らしい感覚の優しい歌である。

実際には天の香来山に干してはいない、いやその小さな台形の山の麓(あしひき)に村人の干しものを見たのであろう。春の柔らかな温もりをもった陽は綿入れなどを干していたが、こうして真っ白な薄ものを干してあるのがみると夏がやってきたのだろう・・・と感じられたことか。                                                

畝傍山、耳成山と香来山は大和三山といわれ、藤原宮の東南方にある。「天の」とは美称であるが、高く空にそびえている意があり、天の香来山は古代よりより神聖視されていた。標高152mほどと高くない山でである。畝傍山、耳成山が単独峰であるのに対して香来山は多武峰から続く竜門山地の端っこにあたる。


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巻 第一 〇〇二九

 近江荒都を巡ぐる時柿本朝臣人麻呂作る歌


玉襷(たまだすき) 畝(うねび)の山の 橿原(かしはら)の 
            ひじりの御代 生れましし  神のことごと 樛
(つが)の木の いやつぎつぎに       天の下 知らしめししを 天にみつ 
  大和をおきて青丹よし 奈良山を越え いかさまに 
           念
(をも)ほしめせか天離(あまざか)
(ひな)にはあれど 石走る 近江の国の ささなみの       大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 
すめろぎの神の命の 大宮は ここと聞けども 大殿は 
     此処といへども 春草の 茂く生ひたる 
霞立つ 春日の霧
(き)れる
       大宮処
(おおみやどころ) 見れば悲しも





畝傍の山の橿原の宮で即位された神武天皇の御代から、出現まさった代々の神はことごとく、つづいて天下を治められていたが、倭をさしおいて奈良山を越え、どのように思し召しなされたのか、田舎ではあるけれども近江の国の大津の宮に天の下を治められた天皇の大宮はここであると聞いてはいるが、大殿はここでであると聞いてはいるけれども、春の草が生い茂ったためか、霞の立つ春の日が、霧のかかったためかよく見えない。その皇居の跡を見ると心悲しくなるよ



柿本人麻呂が近江の荒れた都を過ぎた時詠んだ歌で、人麻呂の歌の中でも著名なものの一つであろう。
人麻呂は北大和の出身であるから、何らかの旅をして近江荒都の跡を見て詠んだと思われる。壬申の乱による近江から飛鳥への遷都、近江の都の荒廃は歴史の推移とともに人の心にも深い感傷を与えたことは確かだろう。

万葉集には持統天皇の次にあることから、持統天皇御代に宮廷歌人として詠まれたという。すでに歴史の時代となってしまった近江時代を回顧したものだろうか。
天智天皇からその子日並皇子の頃まで仕えた人麻呂にしてみれば、古の人であって今の人ではなかったのである。恩讐を越えた過去の時代への哀愁であろう…。






巻 三 〇二六六

 近江荒都を過ぐる時柿本朝臣人麻呂作る歌一首

近江の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 
        心もしのに 古念ほゆ

                                                          



近江の海の夕ぐれの波に飛んでいる千鳥よ、お前が鳴くと心がぐったりとして古のことが思い起こされる

天武帝以降三代に仕えた歌人柿本人麻呂はかつてあった都を背に近江の海をみながら詠ったことであろう。壬申の乱以後、かつての都は焼き尽くされ面影もなく無くなっていた。宮廷歌人という立場上からか持統天皇に代わって公的な立場で歌ったとも謂われる。
私はこの歌が一番好きで、現在の大津京から北へいった崇福寺跡や錦織遺跡跡などから琵琶湖を望んでみたものである。

同じく荒都を詠んだ歌が収められている。






巻 一 〇〇三〇

楽浪の 志賀の唐崎 幸くあれど 
              大宮人の 舟待ちかねつ

       さざなみの しがのからさき さきくあれど おおみやびとの ふねまちかねつ

巻 一 〇〇三一

楽浪の 志賀の大わだ 淀むとも 
             昔の人に またも逢わめやも

       さざなみの しがのおおわだ よどむとも むかしのひとに またもあわめやも


天智天皇の造営した近江朝の壮麗な宮殿が廃墟と化したことを、自然の姿は変わりはしないのにと嘆いたのだろう。湖上に目を転じて人麻呂は絢爛たる舟の幻影でもみたのでろうか?










巻 第一 〇〇四八

 軽皇子安騎野に宿りし時柿本朝臣人麻呂作る歌


(ひんがしの)の 野にかぎろひの 立つ見えて
     かへりみすれば 月かたぶきぬ



ひんがしの のにかぎろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ





日の出前の東天に既に暁の光がみなぎり、それが雪の降った阿騎野にも映って見える。そのとき西の方を振り返ると、もう月が落ちかかっている。


雄大な情景があらわれて柿本人麻呂の短歌の中でも優れていると言われている。夜明けの東の空と月の入らんとする西の空とが、「かへりみすれば」によって大きく結び付けられて渾然たる自然の大きさが感じられるところでもある。

まだ皇太子であった父草壁皇子が薨去。祖母持統天皇の庇護のもと譲位を受け、15歳の若さで文武天皇が即位した
軽皇子(文武天皇)の一行が、狩を行うため阿騎野を訪れ野宿した。軽皇子はまだ10歳の少年だった。一行に同行した宮廷歌人の柿本人麻呂は、狩りの日の朝、払暁の雄大な阿騎野の情景をこの歌に詠みこんだとされている。


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巻 第一 〇〇五一

藤原宮に遷し後、明日香を詠みたる歌一首


采女の 袖吹きかへす 明日香風 
      都を遠み いたづらに吹く


うねめの そでふきかへす あすかかぜ みやこをとおみ いたづらにふく



明日香に来て見れば、すでに都も遠くに遷り、都であるなら美しい采女等の袖を翻す明日香風も、今は悲しく吹いている。


明日阿風と言うのは明日香の地を吹く風の意であり、泊瀬風・佐保風・伊香保風などの例があり、上代日本語の一特色を示している。今は京址となって寂れた明日香に来てその感慨を表すに、采女等の袖ふりはえて歩いていた有様を連想して詠っている。それを明日香風に集注せしめているのは意識的に工夫している。

その昔、明日香の宮殿は天皇の身の回りをお世話する麗しい女性たち「采女」であふれていました。
当時、「揺らす」という行為には「魂を揺り起こす、魂を活発にする」という意味があり、明日香の風が釆女の袖を「揺らす」様子は、彼女らの魂が生き生きと輝いていた、つまり、明日香の都が華やかに栄えていた象徴なのです。
ところが持統八年(694年)、都は藤原に遷り、明日香の地は廃虚となります。当時の都はリサイクル。飛鳥の建物は全て解体して運ばれ、新たな藤原の地でまた組み上げられ再利用されました。現在「○○京跡」と記されて何もない場所がありますが、それらは建物が焼失したり朽ちてしまったわけではなく、すべてが新しい土地へと移築されたから。
何もなくなった明日香の廃虚。揺らすべき釆女の袖もなく、ただ空しく吹く風。華やかな都を知る人ほど、無くなった時の寂しさは深まります。この歌は、私たちが都の跡に立ったとき、当時を思い描く手助けになることでしょう。


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巻 二 〇一〇五

大津皇子密かに伊勢神宮に下り、上り来る時、大伯皇女詠みませる歌


我が背子を 大和へ遣ると さ夜ふけて
       暁露に 我が立ち濡れし



わがせこを やまとへやると さよふけて あかときつゆに わがたちぬれし




わが弟君が大和へと帰ろうとして、夜がふけて出発したのを見送って、夜明けの露に濡れてしまいました

大来皇女の御歌は弟君の悲痛な運命を知って詠まれたものなのか、哀切な情が調べのうちに表れている。
大津皇子が心を寄せられるのは実の姉大来皇女しかいなかったのであろう…。密かに伊勢に来た皇子を大和へ帰るよう言ったのでもあろうか。純真無垢な大来皇女は諭して弟君を祈る気持ちでに大和へ帰したのだろう。しかし都ではもう既に死を賜っていたのだ。


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大津皇子

母の大田皇女は、天智天皇の皇女で後の持統天皇の姉にあたり、順当にいけば皇后になりえたが、大津が4歳頃の時に死去し、姉の大来皇女も斎女とされたため、大津には後ろ盾が乏しかった。そのため、異母兄の草壁皇子が681年皇太子となった。
朱鳥元年(686年)は天武天皇崩御すると、謀反の意有りとされて捕えられ、翌日に磐余(いわれ)にある訳語田(おさだ)の自邸にて自害した。享年24年であった。

体格や容姿が逞しく、寛大。幼い頃から学問を好み、書物をよく読み、その知識は深く、見事な文章を書いた。成人してからは、武芸を好み、巧みに剣を扱った。その人柄は、自由気ままで、規則にこだわらず、皇子でありながら謙虚な態度をとり、人士を厚く遇した。このため、大津皇子の人柄を慕う、多くの人々の信望を集めた、と『日本書紀』にある。

天皇後継問題に巻き込まれて、不幸な生涯であった大津皇子に対する世の同情は大きく、それを傷む歌が生まれている。

死を賜った皇子は姉の許・伊勢へと向ったとも云われる。同母姉弟大来皇女との一連の歌はその心情を詠って美しくも悲しい旋律をもって伝えられている。









巻 三 〇四一五

大津皇子、被死らしめる時、磐余の池の堤にして涕を流して作りましし御歌


ももづたふ 磐余の池に 鳴く鴨を 
      今日のみ見てや 雲隠りなむ

ももづたふ いわれのいけに なくかもを けふのみみてや くもかくりなむ



磐余の池に鳴いている鴨を今日見るのを最後としてこの世を去っていくことであろう


大津皇子が亡くなられる時に涙を流して詠まれたもので、いわば大津皇子辞世の歌でもある。不幸な生涯であった大津皇子に世間の同情は大きいもので、この御歌は皇子自ら詠まれた作としてしみじみとした情が表れている。鴨を見るということによってそのときの心情がよく表されたものも適切で、具体的でもある。

 日本最古の漢詩集「懐風藻」には大津皇子の辞世の漢詩「五言臨終一絶」が収められている。

金鳥臨西舎(太陽が西に沈む時
鼓声催短命(時を告げる大鼓の音が短命を催す
泉路無賓主(死出の旅に客はいない
此夕離家向(夕刻に家を出てどこに向かうのか

訳語田(おさだ)家で死期を悟った皇子が詠んだ。



巻 二 〇一六三

大津皇子薨りましし後、大来皇女伊勢の斎宮より京に上る時詠みませる歌


神風の 伊勢の国にも あらましを 
     何しか来けむ 君も有らなくに

かみかぜの いせのくににも あらましを なにしかきけむ きみもあらなくに




神風の吹く伊勢の国にこのままおればよかったのに、何故都へ来てしまったのであろう。もう君は亡くなられて都にもいられないのに



大津皇子が訳語田(おさだ)の舎(いえ)で死を賜わった時、その妃山辺皇女は狂乱して髪をふり乱し、素足のままで駆けつけ、夫の遺骸の傍らで自害する。それは、大来皇女に対する山辺皇女の死を賭けた女の意地壮絶な女の戦いでもあったのだろうか?なのであろう。
大津皇子が刑死した後、姉大来皇女は解任されて伊勢から都へ戻る。その後十五年、大来皇女は“自分はなぜ命を捨てても弟を逃がさなかったのだろう”という悔恨、“山辺皇女は命を捨てて弟を私から奪い取ってしまった”という絶望、そうした思いにさいなまれ続ける日々であったろう。









巻 二 〇一六五

大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬る時、大来皇女の哀しび傷んで詠みませる歌


現身の 人なる吾や 明日よりは 
      二上山を 弟背と吾が見む


うつそみの ひとなるわれや あすよりは ふたかみやまを いもせとわがみむ




現世の人である私は明日からは二上山をわが弟君であると見て偲ぶことであろう


大和と河内との間にある二上山(現にじょうざん、古代名ふたかみやま)は大和から河内へと出る交通路でもあった。山の上は二つに分かれ一方の山上に大津皇子の御墓が今もある。それは皇子の霊を避けるために人の行かない山上に移されたのであろうか、或いは神のいます天に近いところへと移されたのか・・・。

亡き弟君が二上山に移葬され、明日からは弟の君と見るといわれるのは皇女の悲しみの心情がしみじみと表れている。古代の王位継承には血生臭い臭いがついてまわることとなった。



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巻 三 〇二七一

高市連黒人が

(たび)の歌

桜田に 鶴鳴き渡る 年魚市潟 
      潮干いけらし 鶴鳴き渡る



さくらだに たづなきわたる あゆちがた しおひにけらし たづなきわたる



桜田の方へ鶴がないてゆく、それによるとあゆち潟は潮が干たのであろう。鶴がないてゆくのをみると。

事柄は単純化されて極めてあっさりとした内容でもある。鶴が桜田の方へ飛んでゆくが、あゆち潟の潮がひいたのであろうと想像している。「鶴鳴き渡る」を繰り返すことによって強い律動感を生んでいるという。それが黒人の特徴でもあるらしい




桜田とは「和名抄」によれば尾張の愛知郡に作良(さくら)という地がある。現在の熱田南の笠寺あたりに桜という地名が残っているが、この辺りは一面が大きな干潟であったのだろう。所々に島影があり長閑な海岸でもあったと想像される。それが年魚市潟といわれ、現在の愛知県もそれに拠ると伝わる。


りんく・近江爺散歩




巻 七 一一六三

雑歌(くさぐさのうた) 覊旅にて詠める歌


年魚市潟 潮干にけらし 知多の海に 
       朝こぐ舟も 沖による見ゆ



あゆちがた しおひにけらし ちたのみに あさこぐふねも おきによるみゆ



年魚市潟の潮がひいたのであろうか、島影のむこう知多の海に朝こいででた舟も沖にみえますね


万葉の人々にもこの地方はよく知られていたようでもある。知多郡にある万葉地名もかけの湊、すさの入り江など次第にわかってきている。持統天皇の三河(参河)御幸などもされており、しばしば参る機会もあったことだろう。

伊良虞や神島などへも万葉人は来ているし、都でも良き聞くところでもあったのであろう。伊良虞は伊勢の国でもあったという。
この地方へも万葉の人々が来ており歌を残している。後世三河国司としてきた藤原俊成など歌が残る。


りんく・近江爺散歩









巻 第三 〇三一七 

山部宿禰赤人不尽山を望める歌一首並に返歌

天地の 分れし時ゆ 神さびて 
         高く尊き 駿河なる 
不尽の高ねを 天の原 ふりさけ見れば 渡る日の 
     影もかくらひ 照る月の 
              光も見えず 白雲も 
いゆきはばかり 時じくぞ 
     雪はふりける 語りつき 
         言ひ継ぎゆかむ 不尽の高ねは  




返歌一首

田児の浦ゆ 打出でて見れば 真白にぞ 不尽の高ねに 雪はふりける

たごのうらゆ うちいでてみれば ましろにぞ ふじのたかねに ゆきはふりける


                                            
                                               榛原 山部赤人の墓

天地の分かれた時から、神らしく高く尊い駿河にある富士の高い峰を、天高く仰いで見ると、空を渡る日の光も隠れ、照る月の光も見えない。白雲もその上を通るをはばかり、不断に雪は降っている。後までも、富士山の高い峰のことを語り継ぎ言いついでいこう








巻 第三 〇三二八

青丹よし 寧楽の京師は 咲くはなの 
    にほふがごとし 今さかりなり



あおによし ならのみやこは さくはなの にほふがごとし いまさかりなり




奈良の都は咲いている桜の花の美しいように今が盛りである


小野老(おののおゆ)の歌、老は大宰府の役人である。大弐に次ぐ小弐であるから高官でもあった。近江の国滋賀郡の小野村出身とも云われ、小野篁や小野小町も同族とみられる。天平の初め奈良から都を久邇或いは浪花へと移すことになったが、震災があり遷都は神意にそむくということから、結局都移りは中止となり、これまでの奈良の都を修補、増築して新しい都として整えたという。

そんな頃に詠われたもので、花の咲く都を寿いで詠っただけではなく、遷都の問題で人心が不安なときにこそ詠ったともいえる。これから整ってくる都を祝福しながら詠んだのであろう。

はてさて小野老は赴任の地大宰府でにて都を偲んで詠ったのであろうか、いや都へ帰ってきた折に詠んだのであろうか…。


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巻 第三 〇三三〇



藤波の 花は盛りに なりにけり 
      平城の京はを 思ほすや君


ふじなみの はなはさかりに なりにけり ならのみやこを おもほすやきみ




藤の花が波うって盛りになったなあ。 奈良の都を恋しくお思いでしょうか、あなた。

咲き誇る藤の花。 まるで波のように藤の房がなびくところから、藤波といわれていました。その華やかさは、美しい奈良の都を連想させます。
作者である大伴四綱は、太宰府に赴任していました。藤原氏が都で勢力を伸ばしている時代、それに伴い、大伴氏の衰退も始まります。この歌では、藤の花と藤原氏をかけてもいるのでしょう。藤原氏が全盛の都をどう思いますか。残念ではないのですか。という気持ちを同じく太宰府に赴任していた大伴旅人らにぶつけたのです。

都を遠く懐かしく、恋しく感じる。それは、距離のせいだけではないはず。心の距離、京には戻れないという予感も関係しているのではないでしょうか。

小生の尊敬する師は、名を藤波と云います。平安の京から続く天台密教の阿闍梨なのですが、藤波という名は案外こうした歌からも連想されるようです。








巻 第三 〇四六五

月移りて後、秋風を悲しび嘆きて家持の作る歌一首


うつせみの 世は常ましと 知るものを
        秋風寒み 偲ひつるかも



うつせみの よはつねなしと しるものを あきかぜさむみ しのひつるかも





蝉のぬけがらのように世は常住ではないと知っておりますが、秋風が寒く吹くのでそういった言葉を思い出しております。

「虚蝉之(ウツセミノ)」とあるから、すでに万葉人は蝉の抜け殻を見てこの語を作ったのとみられる。そんな蝉の抜け殻ははかないものであるが、そのように人生もはかないという意で「うつせみ」という枕詩ができたのだろう。
人生のはかなく無常であることをしみじみとした調べの中に詠んでいる。しかも愛する人が亡くなったのを経験して一層にはかなさをみせている。万葉集でも家持の時代ともなると仏教の影響をうけて世の無常を感ずるにいたっている。「偲ひつるかも」といったのは亡き妾を偲んらという。










巻 第三 〇四八八

額田王、近江天皇を思ひて作る歌一首


君待つと 吾が恋ひ居れば わが屋戸の 
        簾うごかし 秋の風吹く



きみまつと わがこひおれば わがやどの すだれうごかし あきのかぜふく



あなたの来られるのを待って、私がお慕い申しておりますと、あなたはみえないで私の家の簾を動かして秋の風が吹いております。


額田王は大海人皇子に想われて十市皇女を生み、後に中大兄皇子(天智天皇)に想われ、為に天智天皇・天武天皇の間に対立が生じたとも伝わる。ともあれ、中大兄皇子と大海人皇子と青春の時代に額田王を挟んで数々の交渉があったことを否定はできない。

お慕いしている天智天皇に対する深い愛情が自然に歌われている。叙情的に詠わないで、家の簾が動いている…秋の風が吹いているといういう叙景とをあわせて詠っている点で情景一致の表現がなされている。言葉も技巧をくわえないで自然のままに歌いながら、流麗な調べとなって、額田王の天智天皇への思慕の情が言い表されている。

この歌に応えるような形で鏡王女が歌っている。額田王と鏡王女とは鏡王の娘で姉妹であるという説があるが確実ではない。鏡王女は後に中臣鎌足の夫人となっている、それにより三山の歌をそれに結びつけているという説も浮かんでくる。


鏡王女の作る歌一首

巻 第三 〇四八九

風をだに 恋ふるは羨し 風をだに 
     来むとし待たば 何か嘆かむ

かぜをだに こふるはともし かぜをだに  こむとしまたば なにかなげかむ


風の来るだけでもお慕いになるのは羨ましいことです。風だけでも来ると待っていられれば何で嘆いたりしましょう。私のところには風も来ません。


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巻 第五 〇七九三

大宰師大伴卿凶問に報ひる歌一首


世の中は 空しきものと 知る時し 
    いよいよますます 悲しかりけり





太宰師大伴の旅人が不幸な事柄に対して答えた歌一首

世の中は空しくはかないものと知る時に、いよいよますます悲しくなります。

太宰府の長、大伴旅人は家持のちち。国府の役人は大体10人程に対して、大宰府は師(そち)を筆頭に50人近くと云われる。禍が重なっておき、悲しい知らせが重なって悲痛の底にあった旅人が友の助けにやっとのおもいで耐えていると詠っている。


妻を亡くした大伴旅人。慰問に来た勅使から、都でも親しかった人が亡くなったことを知らされたのでしょう。妻を失った悲しみと、親しかった人が亡くなったと知った悲しみ。旅人はこの二つの悲しみから、世の中はむなしいものだと改めて感じたのです。
人はみな死ぬもの。輪廻転生で生まれ変われると頭では理解しています。しかし、現実に愛する者と、親しくしていた者とを失うことは悲しみではなく、むなしさなのでしょう。
死の悲しみを抱きながら、生きていかなければならないと感じる旅人。「生者のあらん限り、死者は生きん。」という言葉があります。亡くなった人を思い続ける限り、生きている人の胸の中でその人は生き続ける。しかし、その悲しみをもって生き続けなくてはならない。そこに、底知れぬむなしさを感じたのかもしれません。











巻 第五 〇八〇三

子等を思ふ歌一首

銀も 金も玉も 何せむに 優れる宝 子にしかめやも

しろがねも くがねもたまも なんせむに まされるたから こにしかめやも




銀も金も玉も子供の愛に対しては何でもない。どんな秀れた宝も子供には及ぼうか、及ばない。


この歌は以下の長歌に対しての反歌である。観念的ではあるが一般的には非常に解りやすく響くので反歌だけで独立して知られている。
いずれにせよ、長歌と反歌をあわせて山上憶良の子供への愛がよく歌われている。

長歌

釈迦如来 金口に正に説きたまはく。等しく衆生を思ふこと、羅睺羅の如しとのたまへり。又、説きたわはく、愛は子に過ぎたりということ無しとのはまへり。至極の大聖すら尚し子を愛しぶる心あり、況や世間の蒼生の、誰かは子を愛しまざらめや。


瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食ねば まして偲はゆ 何処より 
     来りしものそ 眼交
(まなかい)に もとな懸りて 
                  安眠
(やすい)し寝(な)さぬ 



憶良は歳をとってからの歌が多いためか、人生や人間をうたっているが、特に妻や子どもに対する愛を詠った歌が多いと言う。また、人生の苦しみである老、病、貧を詠んだ歌が多い。
憶良は儒教や仏教にも造詣が深く、この序でも仏教的思想が表れてもいる。「偲はゆ」とあるからには子どもは既に世を去ってるかとも考えられる。











巻 第五 〇八九二

貧窮門答の歌一首



風雑(まじ)り 雨降る夜の 雨雑り 雪降る夜は 術もなく 

        寒くしあれば 堅塩
(かたじお)を 取りつづしろひ 

糠湯酒
(かすゆざけ) うち啜(すす)ろひて 咳(しわぶ)がひ 

         鼻びしびしに しかとあらぬ 髭かき撫でて
 

我を除きて 人は在らじと 誇ろへど 寒くしあれば 

      麻衾
(あさぶすま) 引き被り 布肩衣 有りのことごと 

服襲
(きそ)へども 寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 

       飢ゑ寒ゆらむ 妻子どもは吟
(によ)び泣くらむ 

此の時は 如何にしつつか 汝が世は渡る





天地は 広しといへど 吾が為は 狭(さ)くやなりぬる 

   日月
(ひつき)は 明しといへど 吾が為は 照りや給はぬ 

人皆か 吾のみや然る わくらばに 人とはあるを 人並に 

   吾も作るを 綿も無き 布肩衣
(ぬのかたぎぬ)の 海松(みる)の如

わわけさがれる 襤褸
(かかふ)のみ 肩にうち懸け 

    伏廬
(ふせいほ)の 曲廬の内に 直土(ひたつち)に 藁解き敷きて

父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲み居て 

      憂へ吟
(さまよ)ひ 竈(かまど)には 火気(ほけ)ふき立てず 

(こしき)には 蜘蛛の巣懸きて 飯炊く 事も忘れて 

      鵼鳥
(ぬえどり)の 呻吟(のどよる)ひ居るに いとのきて 

短き物を 端載
(はしきる)ると 云えるが如く 楚(しもと)取る 

       里長
(さとおさ)が声は 寝屋戸まで 売立ち呼ばひぬ 

斯くばかり 術無きものか 世間
(よのなか)の道





憶良の傑作、もしくは万葉集の歌としても代表的なものである。貧窮生活を扱ったものとしても古代・中世では珍しい。憶良が社会詩人、生活詩人と謂われるのもこんなところからであろう。
前段を貧者、後段を窮者の答えとしてとらえることもある。憶良の写実性を重んじた例として衣服、住居、食物の三方面から貧しさの極みを詠い、その上で里長から責めたてられる苦しさを歌っている。

そんな困窮した中でも、「父母は枕の方に、妻子どもは足の方に」と秩序を守っている点に儒教的な精神性がみられる。そして、苦しみの中にあっても「斯くばかり術なきものか世間の道」と結んだのは憶良の諦念を示しているのか。


歌意

風にまじって雨が降り、雨にまじって雪の降るみぞれの夜は、どうしようもなく寒いので堅くなった塩を

しゃぶり、にごり酒をすすって咳をし、鼻をびしゃびしゃさせながらチョビ髭をなでて、自分をのぞいて

は偉い人間はないと誇っていても寒さは身にしみるので、麻の衾をかぶるようにし、布で作った袖なし

のちゃんちゃんこをある限り重ねて着てもそれでも寒い。そのような夜を自分より貧しい人の父母は飢

えて寒いことであろう。その妻子達は力のない声を出して泣くことであろう。こんな時はどうしてお前は

世の中を過ごしているのであるか。



天地は広いといっても自分のためには狭くなったであろうか。日や月は明るく照っているが私のために

は照ってはくださらないであろうか。人は皆誰でもこのようであるのか。私一人がこのようであるのか。

たまたまに人間として生まれたのに普通の人間と成人したのに、綿も入っていない布のちゃんちゃんこ

のミルのように裂けてされているボロばかりを肩にかけるように着て、貧しい倒れかかった小屋のうち

で床もない土間の上にわらを解いて敷いて、それでも父母は枕の方にやすんでもらい。妻子達は足元

の方に寝て自分を囲むように居て、憂えうごめいいている。食べるものもなく、釜戸には炊くこともない

ので煙も立たない。こしきにご飯を入れることもしないので蜘蛛の巣がかかっており、飯を炊くことも忘

れて、ぬえ鳥の鳴くように弱々しい声でつぶやいていると、短いものをさらに端を切るというたとえのよ

うに、むちを持った里長の声は寝ているところまでどなっているのが聞こえてくる。このようにしてどう

することもできないのか、人間の生きていくみちは。



・・・私はこの歌を目にして、今私達の生活が如何に充実したものなのかを実感いたしました。先人は極貧の中で命を保ち、貧窮生活の中で品性を保っていたと想像します。そして現在こうして在るのも先人が耐えに耐えたからにほかなりません。
こうして生きていることに感謝しなければなりません、「父母未生以前の己」というものに感謝しなければいけません・・・














巻 第六 〇九九二 

大伴坂上郎女(おおともさかのうえいらつめ)、元興寺で詠みませる歌一首


故郷の 飛鳥はあれど あをによし 
    奈良の明日香は 見らくしよしも







古い飛鳥の里もいいけれど、今が盛りの奈良の明日香を見るのは素晴らしいでしょうに。


元興寺の里を詠んだ歌。元興寺は元の名を法興す寺といい蘇我馬子が建てた寺である。平城京遷都を機に現在の西ノ京に移転されました。そんなこともあってか奈良の明日香とも呼ばれていたそうです。









巻 第七 一一二六

年月も いまだ経なくに 明日香川 
         瀬瀬ゆ渡しし 石橋もなし



としつきも いまだへなくに あすかがわ せせゆわたしし いしばしもなし



【年月もそれほど経っていないのに、明日香川の瀬に渡してあった石橋も無くなっていました。】

懐かしい明日香に帰ってきたら、以前あったはずの石橋がなくなっていました。それを見た彼は、時の移り変わりを、故郷を離れていた年月の長さを知るのです。
この歌に登場する石橋は、石を組み上げた橋ではなく、川の浅瀬に飛び飛びに石を連ねただけのものです。
山中を流れる明日香川は水量の変化が激しいので、離れていた年月の間に石が流れ去ってしまったのでしょう。
彼はかつて、その石橋を毎日渡っていたのかも知れません。その橋を渡り、愛しい女性に会いに行っていたのかも知れません。あの石橋があればそんな昔の思い出を懐かしめたのに、と切ない思いが込められています。
決して変わらないと信じていた故郷が、いつの間にか変わっていた。
人はいつの時代も、懐かしいと思えるもの、ただいまと言える場所を欲しているのです。


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巻 第八 一四一八

志貴皇子(しきのみこ)の歓びの御歌一首

石激(いわばし)る 垂水(たるみ)の上の
          さ蕨
(わらび)の 
    萌え出づる春に なりにけるかも






岩の上を勢いよく流れる滝のほとりに、蕨がやわらかに芽吹いている。ああ、春になったなあ~。


巻八の巻頭歌であり、志貴皇子の歓びの歌とある。雪解けで水かさが増えた小滝のほとりに、蕨が芽吹いているのを発見して、長い間待ち焦がれた春の訪れを喜ばれている情景がみえますね。「石ばしる」が「垂水」にかかる枕詞となって形状言の形式化、様式化、純化せられたものとみると言う。。

志貴皇子は天智天皇の皇子で、万葉集に六首の歌を残し哀歓漂う歌が多く、優れた歌人と評価が高い。
斉藤茂吉は、他の歌同様に歌詞が明朗、直線的であり、しかし平板におちいることなく、細かく煽動を伴いつつ荘厳なる一首と評価している。

お歓びの心が即ち「さ蕨の萌えいずる春に なりにけるかも」という、一気に詠いあげられた句に象徴させられている。小滝のほとりの蕨に主眼をとどめられたのは感覚が極めて新鮮であろうと。



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巻 第八 一五一一

秋雑歌、崗本天皇(おかもとてんのう・舒明天皇)御製歌一首


夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 
    こよひは鳴かず い寝にけらしも





夕方になると、いつも小倉の山で鳴く鹿が、今夜は鳴かない。多分もう寝てしまったのだろう。


夕方になるといつも小倉山で泣いている鹿が今夜は泣かない…、たぶんもう寝てしまったのだろう。何故いつも鹿は鳴いていたのだろう?鹿は鳴くことで一緒に寝てくれる妻を求めていたのです。いつも妻を求めて泣いていた鹿が今夜は鳴いていない…。それはやっと共寝ができる妻に出会えたことを意味するのです。
こんなことから動物でも人と同じように愛情を覚えるということに生き物への愛情が表れているようです。万葉の頃には山・雲・川・鳥など自然の全てに魂が宿っているもので、それらはみな心が通じるものと考えていたのです。鹿が鳴くということにも意味があるものと考えられていたのでしょう。


泣いていない理由を愛しいものに会えたと想像しているこの歌、愛する雌鹿に会えて今夜は眠ることができたのだろう、だからもう泣かないですむのだね。良かったねという鹿に対する優しい気持ちが伝わってきませんか?
桜井・聖林寺裏手の山が小倉山であったという。西に越えると飛鳥崗本宮に出る。都が平安時代に遷ると大宮人は嵯峨の小倉山にその名を移し、奈良の都を懐かしんだそうである。


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巻 第十 二一七七

春は萌え 夏は緑に 紅の 
        綵色に見ゆる 秋の山かも


はるはもえ なつはみどりに くれないの まだらにみゆる あきのやまかも




【春は若い木の芽が萌え出す萌黄色、夏は緑となり、今は紅葉をまじえて美しく見える秋の山よ。】


まるで燃えるような勢いで、木々の芽が一斉に吹き出す。生命(いのち)の萌え出す色が、春の山です。
夏山は緑。緑には若々しいという意味があります。
そして、赤や黄色、緑など、いろいろな色が混じる秋の山。
季節によって山は色を変えますが、紅(くれない)一色ではない複雑な色合いが秋の色彩を豊かにさせているのです。
それでは、冬は何色なのでしょうか。まだらになった色をさらに混ぜて出来上がるのは黒。
俳句には、山眠るという冬の季語があります。冬の山は眠りに入る。だから冬の山が歌われていないのです。
萌えること、若々しくなること。そしてそれらの色が混ざり合い、複雑な色合いになることで秋の山となる。
春の色、夏の色を順に歌うことで、秋の山がどれだけ素晴らしいかを感じさせる歌なのです。


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巻 第十 一八一二 

ひさかたの 天の香具山 このゆふべ 
        霞たなびく 春立つらしも



ひさかたの あまのかぐやま このゆふべ かすみたなびく はるたつらしも



天の香具山には、この夕方、霞が立ち込めている。春になったらしい。




天から降りてきた山として伝えられていた香具山は、どこよりも早く季節の移り変わりを知らせてくれる存在であったという。その香具山にたなびいた霞を見て、柿本人麻呂は春の到来を感じ歌ったのでしょう。

「ひさかたの」とは、時間だけでなく距離としても彼方遠くを意味し、「天」の枕詞になっています。天という言葉がつけられている山は香具山だけで、大和の中心としてシンボリックに捉えられてきました。朝夕と見慣れた山だからこそ、今日、この夕方にはじめて霞がかったと気づく。山に霞がたなびく光景は、まさに春の象徴でした。
草木が芽を吹き、花が咲く春。万葉集の中でもいちばん新しい歌を集めた巻の十は、神聖な香具山が知らせてくれた、この立春の歌からはじまります。









巻 第十一 二五七八

朝寝髪 われは梳らじ 愛しき 
        君が手枕 触れてしものを

あさいがみ われはけずらじ  うつくしき きみがたまくら ふれてしものを




朝の寝乱れた髪を、私は櫛でといたりなんかしません。何故ならいとしいあの人の手が、枕として触れた髪だからです。



古代万葉の当時は通い婚が普通でした。この歌は男性が帰った後の、朝の女性の気持ちを詠んでいますね。
愛する彼はもう去ったけれど、彼に触れた私の髪はここにある。乱れた髪に残った彼の名残を愛おしむ、切ない乙女心がまっすぐに歌われているようです。

万葉の頃は、目の前にその人がいなくても「触れたものにその人が宿る」と考えられていましたそうな。次はいつ会えるのかも分からず、再び会えるのかも分からず、今の様に簡単に連絡をとることもできなかった時代だからこそ、愛する人が触れたものを愛おしむ文化が培われたのでしょう。

今でいう形見分けも、当時は亡くなった人の思い出としてではなく、その人がそこに存在している、という考えのもとで分け与えられていたようです。愛する人が触れたものを愛おしく感じる。現代の日本人にも通じるこの感情は、万葉の時代に芽生えたのかも知れません。







巻 第十六 三八二二

橘の 寺の長屋に わが率寝し 
       童女放髪は 髪上げつらむ



たちばなの てらのながやに わがいねし うなゑはなりは かみあげつらむ




私が昔、橘寺の長屋に連れてきて共寝をした、おさげ髪の少女は、 髪を結い上げるほどの大人の女性になって、他の男と結婚しただろうか。


昔、橘寺の長屋に行って、一緒に過ごした乙女への思い。可愛らしいおさげ髪が似合う乙女だったのでしょう。
女性は大人になると、長く伸びた髪を束ねて結い上げます。髪上げとは、成人した女性になることを示し、結婚する意にも用いられました。

時がたてば、少女も大人の女性になります。少女の頃しか知らない作者は、過去の思い出から、現在へと思いを馳せていく...。作者自身も当時は若く、淡い思い出としていたものが、ふっとよみがえったのでしょう。そして、あのときの少女が、今ではきれいになったんだろうな、懐かしいな、と思う。遠く時がたってしまった思い出ほど、心の底で忘れられない存在となるのです。






    

巻 第二十 四五一六

大伴家持の詠める歌

あたらしき 年の始めの 初春の 
     今日降る雪の いや重げ吉事



あたらしき としのはじめの はつはるの けふふるゆきの いやしげよごと



新しい年のはじめの今日降る雪のように、いっそう重なれ、良いことよ。



この一年、めでたい出来事が重なりますようにという、願いを込めて詠まれた歌。万葉集はこの歌で締めくくられています。
四千五百首あまりある万葉集のいちばん最後は、最も多く歌を残し編者であるという説が有力な大伴家持の歌で終わっているのです。

天平宝字三年(759年)、42歳の家持は因幡に赴任して、はじめての正月を迎えました。1月1日は国の役所、今でいう県庁に役人をあつめて宴をひらきます。この年、とてもめずらしいことに1月1日と立春が重なり、さらに良いことがあるとされた正月の雪も降り積もりました。
実は、家持は前年、事件に巻き込まれて左遷されていたのです、だから余計に雪の清潔さに憧れと希望を見いだしたことでしょう。

まるで、万葉集全体を祝福するように最後を締めくくるこの歌。万葉集が良い歌集になりますように、ずっと読み継がれていきますように、という編者の願いが込められているのかもしれません。










 









万葉集・目次




万葉集の意味

巻 第二十 四五一六
       大伴家持

    
巻 第十六 三八二二
       作者未詳


巻 第十一 二五七八
       作者未詳


巻 第十  一八一二
      柿本人麻呂


巻 第十 二一七七
        作者未詳
>

巻 第八 一五一一
       舒明天皇


巻 第八 一四一八
        志貴皇子


巻 第七 一一二六
        作者未詳


巻 第六 〇九九二
     大伴坂上郎女


巻 第五 〇八九二
        山上憶良


巻 第五 〇八〇三
       山上憶良


巻 第五 〇七九三
       大伴旅人


巻 第三 〇四八八
        額田王


巻 第三 〇四六五
       大伴家持


巻 第三 〇三二八
        大伴四綱


巻 第三 〇三二八
        小野老


巻 第三 〇三一七
       山部赤人


巻 第三 〇二七一
       高市黒人


巻 第二 〇一〇五
       大来皇女


巻 第一 〇〇五一
       志貴皇子


巻 第一 〇〇四八
      柿本人麻呂


巻 第一 〇〇二九
      柿本人麻呂


巻 第一 〇〇二八
       持統天皇


巻 第一 〇〇二七
       天武天皇


巻 第一 〇〇二四
        麻続王


巻 第一 〇〇二〇
         額田王


巻 第一 〇〇二一
        天武天皇

巻 第一 〇〇一八
         額田王


巻 第一 〇〇一三
       中大兄皇子


巻 第一 〇〇〇二
        舒明天皇


巻 第一 〇〇〇一
        雄略天皇

 
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