人間の季節

人間の営みは?誰が決めたのか!


創造神コタンカルカムイのもとへ、生物が一つ一つやって来て、交合(セックス)の季節を聞いた。それに対して創造神はニコニコしながら、

「おまえは春が良かろう!」「おまえは夏だな!」などと、其々に適当な時期を選んで申し渡していると、そこへ馬がやってきた。

「おまえは春がいい!」と神様が言うと、馬は喜びの余りいきなり後脚を蹴立てて駆け出したので、土くれがはねて神様の目の中に入ってしまった。そこへ人間がやって来て、


「私は何時がいいのでしょうか?」と聞くと、神様は目に物が入って痛くてたまらない最中だったので、


「うるさい!何時だろうと勝手にしろ!」と怒鳴りつけた。BR>

そう言う訳で、神様の仰せだから、やむを得ず(?)夜となく、昼となく、人間は勝手な時に行っているのだという。

これは『アイヌ艶笑談』のひとつです。題して「人間の季節」とある。だとすれば、人間が勝手に回数を決めてしまうのはアイヌの神様の意思に反するものです…

四季を問わずせっせせっせと営むのが人間の宿命であるらしい・・読者よ!どうかがんばって欲しい。


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赤玉ポートワイン

何故?僕の親父は赤玉ポートワインから養命酒へ

近年ボージョレヌーボーなんて騒いでますが、ワインブームはどうも本格的な様子でして、我が国のワイン輸入量は年々伸びているのだそうです。小生などは赤玉ポートワインという名前を直ぐに思いおこすのですが・・(笑)

酒の弱い小生の親父などは健康のためといっては赤玉ポートワインを少量ですが毎晩飲んでいましたが、それがいつの間にか養命酒に変ってしまったのはどうしてだろう?
そんな親父の歳になって、赤玉ポートワインでは駄目だ!養命酒の助けがいるのだと解かるまでの体になっていたのです…ン?

日本人の俗説に依れば、一斗樽一個分というのだそうだ。何?何?…
誰だったか、社会人になった頃であるが「その分量が出尽くすと最後に白い煙とともに赤玉が出てくる、その赤玉には“予定終了”の刻印が打ってあるそうだ」と聞いたことがあるのですが。
最近どうもその白い煙と赤玉の幻影に怯えて暮らしている、どうしよう〜

閑話休題

仏教においては世界を「欲界・色界・無色界」の三界にわけるのであるが、色界と無色界はまぎれもなく天人であるが、我等人間の住む欲界にも天人がいるのである。この欲界の天人も人間と同じように食欲やら性欲やらさまざまな欲を持っている。

舌から順に「下天」「刀利天」「夜摩天」「兜卆天」「楽変化天」「他化自在天」の六欲天である。下の二欲天は性器の挿入を伴なうセックスをする。
上位の四欲天はもはやインサートなどという下卑たセックスはしない!どうするか?軽く相手をだいたり、手を握ったり、微笑みあったり、見つめあうだけというのである。高尚だなあ〜。

さて性器をインサートする下の二天人であるが、その点では我等人間と変わりがない、ただ人間と違っているのはクライマックスに達しても彼等は射精しないことである。〜「風が洩れるだけである」〜

そうですよ!風にともなって白い煙と赤玉ではないでしょうか!先輩。浦島太郎はどうもこうして竜宮城という現世で楽しく女人と接したから白い煙りと一緒に老けちゃったのかも…そして赤玉はやはり玉手箱だったのかな。




何が遊びなのか?

『お兄さ〜ん、遊んでいかな〜い』なんて言われたら。

先月は「悪い…」ことについてでしたから、今月はやはり「遊び…」でしょうか?

「そんなに遊んでばかりいないで少しは勉強しなさい!」小生なんぞは何度となく言われたものです、母親が息子に言うこのセリフ、ここでの「遊ぶ」は「勉強する」の対義として、つまり勉強もしないで(母親の目からすると…)くだらないことに時を費やすの意で用いられている。テレビでもファミコンでも要するに勉強しないことが母親にとっては「遊ぶ」ことである。

「お兄さん、遊んでいかな〜い!」一昔前、夜の街角に立つ街娼の決り文句である。ここにおいて「遊ぶ」はずばりセックス行為を表しますよね!
ところが、
夫婦間のそれ?は「遊び」とは言わないですよね。「今夜しようか?」という会話はあっても「今夜遊ぼうか?」とはまず言うまい、恋人同士でも然りである。
とすれば、どうもこの「遊ぶ」には不倫の匂い、しかもお金を払っていたすという感じが強いようである。

昔から遊ぶといえば、役人なら政務、農民なら畑仕事、家の主婦ならば家事といった日常生活にともなう行為以外の、それでいて何かしらゆとりのある行動を広くさしていった。つまり仕事後に酒を飲むのは、即「遊び」ということになる。そしてそこには何がしらの「楽しみ」が存在していることになるのである。

古代平安の時代、貴族の社会において「遊び」とは管弦の意、つまり音楽を奏でることの意、でおおく用いられるようであった。
あそびは夜、人のかを見えぬほど。あそびは小弓、碁、さまあしけれど鞠もをかし…と、あることをみれば「遊び」をもつ心というものが大切にされたもようである。

最近でこそ用いないが、明治の頃では外国へ勉強のために出向くことを「遊学」といった。この場合は…どうであろうか? 調べるに、中国の文字「遊」にはもともと旅にでる、勉学のために他国に渡るも字義が込められているのだそうだ。
いろいろな「遊び」がありますね、じゃあ今夜はどんな遊びをして過ごしますかな? 。




何が悪なのか?

『あなたって悪い人ネ〜』な〜んて言われたら、

今週は「何が悪なのか」がテーマである。
「悪」という字はもともと「心がみにくい」の意という。そこから「にくむ」となり、転じて「悪い」意に使われたということである。
「悪筆」といえば字が下手なこと、「悪口」といえば善くないことを言う意味で、「悪食」といえば所謂いかもの食いのことである。
「悪」という字はマイナスの要素を受け持つ字であるから、熟語によって意味がかなり変化してしまうことにもなるのである。この「悪」と「善」、一体誰がどう判定して決めるのか?

「悪客」という言葉がある。酒飲みの家を訪れた酒の飲めない客、又は逆に、酒の飲めない人の家に訪れた飲兵衛のことをそれぞれいう言葉でもある。同じ熟語でも使う人の立場によって意味が全く違ってしまうのである。

「悪妻」というと思い出されるのがゲーテの妻、ソクラテスの妻、モーツァルトの妻などが挙げられますが、彼女等はどうも悪くはないようである。ただ、自分の夫が大天才であるということを見抜けなかった平凡な妻であったということである。
「悪友」、これも「悪い友達」と簡単に片付けられるものではない。『俺とこいつは悪友でなぁ〜』なんて紹介する時などは、かつて悪さをしたような親友という意味で決して悪い友達ではない。
現在では人名に用いない「悪」の字も、昔はそうでもなく、悪源太影清や石川悪左衛門などがそれで、武士の名によくみられたという。この場合の「悪」には「悪い」といった要素はなく、どうも「強い」という意があったらしい。


さて問題がある!

『あなたって…わるい人ねぇ〜』なぁ〜んて…行為のあとで女性からこのような言葉を言われたことのある方もおられよう。この場合の「悪・わるい」ははたしてどんな意味があって使われているのか?
心ならずも不倫の関係におちいってしまった私をこんなにしてしまったのあなたは「わるい人」の意なのか?それにしても、こんな時の女性の顔つきは概して幸せそうだというし、憎しみ恨んでいるようなそぶりは決して見かけないという。
ひょっとしたら、「悪源太」の名にのこるように「強い」の意ではなかろうか…!

『うちの人より…』何…何…!(なぬ!なんということを!そりゃそういう関係の場合は誰だって強い!だっつうの…!)
いやもうこれ以上言うのは止しましょうね、ひがみになりそうだからね。




ピュリダンのロバ

人生の指針を禅僧にみる…デタラ目。

「ピュリダンのロバ」と呼ばれる話があります。
腹を空かしたロバ、乾し草の山をみつけた。しかし、乾し草の山は左右に二つあり、その二つが全く同質・同量であった。どちらも美味そうであり甲乙つけがたい!(困…)
そこでロバは、左に行きかけては右の方が美味いかなともどり、右に行きかけてはやはり左の方が美味いかなともどり、そうして迷っているうちに結局ロバは二つの乾し草の中央で餓え死にをしてしまうということである…

面白い話しではあるが、われわれもこのロバを笑えない。結構こうした迷いをしでかしてはいないだろうか?
どちらも同じだと解かっているいれば本当は迷う必要はない、どっちも同じなんだからどちらをとろうといいのだ。それなのに迷うのが人間なのですよね。未来のことであれば我々にはどちらがいいのかわからない。解からないことで悩む必要は少しもないのに、どうしていいのか解からないことで悩むのが人間である。おかしなことでもある。

では、迷ったときにはどうしたらいいのか…?

江戸中期の禅僧、日本臨済宗中興の祖といわれた白隠禅師がいる。白隠は19才の時、仏道をすてようとかと迷いはじめた。そこで一つの賭けをやったのである。
美濃の瑞雲寺で数百巻という書物の虫干しが行われた。その書物の中から目を閉じて一冊を取る、その書が儒学なら儒者に、仏教書ならこのまま仏道に歩むと…
そうして彼が手にしたのは「禅閑策進」という禅書であった。そこで白隠は迷わず禅の道を進むことにしたという。そんな話が伝えられている。
丁半の博打のようなものである、コインの表裏のようでもある。

最近私は、迷いを断つにはこのデタラメ(出鱈目)のやり方が一番と思っている。どう考えてもどちらがいいか解からないから迷っているのであって、考えて解からぬことは理屈でもって決定できない。デタラメに決めるのが一番いいのである。いや、デタラメでなければ決められない…と、私は思っている。
肝心なのは、決定する時ではなく、決めたら一生懸命にすればいいだけである。
いってしまえば、決めることなんかどうでもいいんじゃないだろうか…?




0.2ミリの世界(2)

男はいつもドデカイ仕事をするもんだ!

人体で最大の細胞は卵子で直径0.2ミリであり、最小は精子で17万5千個で卵子一個の重さに相当するという。そんな関係からかしらぬが女は昔から大きく、男は小さい小さい…、でもしょげる必要もなくはない、何故なら、
量においてははるかに男性は女性を凌駕?してるのだから…!

男性が一回に射精する量はだいたい約3ミリリットルとすれば精子は一億二千万個もある。また女性が月に一個の卵子しか作れないが、我々男性はその間に十回から二十回の精子放出ができる!そういう見地からすると男はドデカイ仕事をしているのだ!

こんな数字の話しばかりでは興ものりませんからね、仏教の中ではどのように捉えられているか調べてみましょう。

仏教では世界を三つに分けますが、われわれの世界である欲界の最高の世界が天人である。その天人の世界にもまた六つの世界があるそうです、上位の天人はセックスの欲望をも持っていないというのである。性欲すらない!のである。(こころあたりではもう小生も近づきつつあるかな…)
したがって参考にもならないのでるが、その下の天人世界は“六欲天”という性欲を持った天人である。

その六クラスのうち、下の二クラスの天人が性器の挿入をともなうセックスをする(我等が人間と同じなあ〜んだな!)。
上の四クラスの天人はもはやインサートしない!軽く相手を抱いたり、手を握ったり、微笑みしあったり、見つめあうだけで男女が境地に達するというから天人も上のクラスは高尚ですね。

さて性器をインサートする下の二クラスの天人であるが、その点では人間と変りがないが、ただ人間と違っているのはクライマックスに達しても彼等は射精しないことである。
「風が洩れるだけである」と仏典の『倶舎論』にかいてある。そう精液の代わりに風が出てくるわけである。

最後に、あの有名なキンゼイ報告に依れば、アメリカ人男性は55才までの間に平均三千八百三十一回の性交を行うそうである。如何ですか?先輩諸氏!貴方は平均というハードルを越えられましたでしょうか?



0.2ミリの世界(1)

熱伝導性と生体整合性に優れた避妊具

「五根」とは「眼」「鼻」「耳」「舌」「身」です。奈良仏教とりわけ興福寺で教えられた法相宗には「唯識」という考え方があり、ものごとはこの五根(五識)を通して知覚されて、「第六意識(意識)」となり、それが「第七意識(摩那識)」で燻重され、「第八意識(阿羅那識)」で顕される、ということになる。

まあそんな難しい話はどうでもいいが、この「身識」に働きかける感覚を追求したものに人類は凄いものをみいだした!いや、神の領域を越えたものを創り出したのである。以下にある週刊誌からの記事を抽出してみます。

『薄くて、表面はなめらか、肌のぬくもりを瞬時に伝える熱伝導性!』が求められる商品とは一体何でしょう?

NHKのプロジェクトX風にいえば『七年をかけて「0.02ミリ」を達成した男達』ってなことになるでしょうか。答えは、皆さんお世話になったコンドーム。これまで最も薄いのは0.03ミリだったそうですが、業界第二位のSゴム工業がついに0.02ミリの快挙に成功、尚且つゴム製ではないコンドームだそうである!。

担当者によるとですね、
「素材はポリウレタンという石油化学製品の一種で、ゴム1のように伸びる性質の外に生体整合性が高いことから人口心臓ポンプや血管カテーテルに使用されるそうです」とのこと。また、
「S社は0.03ミリのポリウレタンコンドームを発売しており、以来10名の専任要員を中心に会社をあげて七年がかりで今回の薄さを実現、更に薄くできる余地がまだある」ともいわれます。
(専任要員の方々の研究にはほとほと感心させられますね…どうやって臨床したんでしょうか…)

これまで寄せられた「伸びが少なくて装着しにくい」「ゴム製と比べてごわごわする」といった使用者の苦情もこれで完全解消と自信ありげです。ついでながら、国内で消費されるコンドームは四億三千万個、7.8年前はその1.5倍売れていたというから、日本男児の機能が徐々に衰えているのかもね…

我々人類の先人はその性能に羊の腸を代用したという…この何という涙ぐましい人類の努力たるや!この究極の0.02ミリ、世界一の薄力が産む“熱伝導性?”と“生体整合性?”を一度体感してみては如何でしょう?ご同輩諸君!



称徳天皇と弓削道鏡


歴史の教科書ではおしえてもらえない歴史

NHK「その時歴史は見た」では放映されないであろう史実を明らかにしてみます。

弓削道鏡、奈良時代後期ひとときは我が国政治の実権を掌握した怪僧である。孝謙女帝の寵愛を受け、ライバル藤原仲麻呂を失脚させ、女帝が再び即位して称徳天皇になると太政大臣禅師、ついに法皇までに至る。更に皇位につくことを意図して和気清麻呂に阻まれて失敗、称徳天皇の死によって朝廷の後ろ盾を失い失脚、下野国(しものつけ)薬師寺別当に移され、のちに没したという。

この道鏡、巷間伝えるような巨根の持ち主であったかというと、何じつは少々疑わしいのである。

……道鏡御門(女帝)の心をいよいよゆかし奉らんとして(もっと満足させ申しあげようと思って)、思ひかけぬものを奉れたりしに、あさましきこといできて(とんでもないことが起きてしまって)、ならの京へかへらせおぼしまして、さまざまんの御薬どもありしがども、そのしるし(効きめ)更に(少しも)みえざりしに……「水鏡」巻之下、称徳天皇の条より

道鏡は女帝を喜ばせようとして何かをした。が、この描写は奥歯にものが挟まったようでどうも釈然としない。この後女帝はなくなられるのであるが、このくだり、「古事談」にはこうある。

……称徳天皇、道鏡の陰(陰形)なほ不足におぼしめされ、薯藷(やまいも)をもちて陰形をつくりこれを用ゐし給ふあいだ、折れ籠る(折れて抜けなくなってしまった)。癒ることなく帝崩ず。

不足に思し召されて代用品を?…道鏡は我等と一緒であったのだ!どうやら巨根と結びつけたのは江戸期の文人であったようであるのだ。

……夜居(夜勤)の僧に弓削のそれがしといふ法師なんありける。大殿湯の蔭にかしこみてさぶらひけるを、「女帝が」ふと差しのぞかせ給ふに、怪しう膝の三つあるようになんありける…

座して膝頭が三つ、これが何を示しているのかは説明の要あるまい。同書によれば女帝の命にで道鏡は女官らによって衣をめくられる。その大きさは常人のほぼ20倍で、、問いに答えて、道鏡はあまりに大きすぎる為今まで用いたことがない、と言う。そこで女帝と…ということになる。
そこで江戸の川柳子はかくのたまったのである。

『道鏡は 座ると膝が 三つ出来』
『道鏡が 崩御崩御と みことのり』





【 魚名魚辞 】


魚偏の字はどこからきたのか…・


サカナと読む字に、魚と肴がありますね。肴はある時代には酒席に興を添える為に演ずる歌舞音曲やその演出者に与える返礼、または報酬をもサカナと読んでこの字を使ったとありますが、肴は煮た肉を表す字で、サカナという言葉には酒に添え魚菜類、つまり差か酒菜であった。魚を最上の美味としていたのでサカナといえば魚類の代名詞となったようである。

では魚偏の文字を並べて見ましょう。

魚の中には成長するにつれて呼び名が変わることから出世魚といわれるのがあります。『ボラ』がその一例で、オボコ・イナ・スバシリ・ボラときて最後はトドとなる。出来た言葉が「トドのつまり」世事にうとい童子をオボコといわれるのもこの言葉からでたもので、ボラは鰡、トドは鯔。

ある日、イカが海面に浮上して休憩していた。これを見ていた烏が降下して啄ばんだが動かないので食べようとすると、イカは足を巻きつけて逆に烏を殺したことから烏賊。

神武天皇が「アユ」で戦運を占ったという伝説から「鮎」。「マス」は景行天皇が好んで召されたので尊い人の食べる魚で「鱒」。

口先の鋭い「サヨリ」は「針魚」。姿形は似てるが秋に美味しい「サンマ」は「秋刀魚」。「イワシ」は水揚げするとすぐ死ぬし、大魚に弱いから「鰯」ですね。

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比翼連理

二人三脚では仲良くなれるものなのか…


唐代の詩人、白居易の叙事詩『長恨歌』これは唐の玄宗皇帝とその愛人楊貴妃の恋愛を歌った唐詩である。七月七日の七夕の長生殿で夜半、あたりに人無く、ただ二人で語り合った時、玄宗皇帝は楊貴妃にこう言った。

『この次に生まれ変わったら、天にありては比翼の鳥となり、地にあっては連理の枝となろう』と。
安録山の乱で犠牲となって殺された楊貴妃の魂が、玄宗の言葉を語る場面である。比翼鳥とは、一目一翼しかない鳥で、自分一人では飛べないので、雌雄の二羽が一体となって飛ぶという想像上の鳥という。
連理とは、それぞれ別の根からはえた木の幹や枝が接合して、木目(理)がひとつになった状態をいう。

そしてこの二つを結び合わせて出来た言葉が『比翼連理』である。夫婦が固く誓い合って仲睦ましい事をいうのである。


西BRシベリアにすむ少数民族のネネツ人の間にはこんな伝説があるという。北に向ってどんどん歩いていくと、オーロラのカーテンがかかっている。そのカーテンをくぐってなほも北へ進むと、一本脚の住人の土地がある、その住人達は自分一人では歩けないので、男と女が肩を寄せ合って二本脚になって歩く。二人がシッカリ愛し合うならば、二人は風よりも速く走れるようになる。しかし、愛し合う事を止めると、もとの一本脚にもどり二人とも歩けなくなるというのだ。
これは、まさに比翼鳥である。夫婦になるということは、互いに自分は一本脚だと認識することだと思いますね。

自分は二本脚だと思えば、夫婦は『二人三脚』となる。二人三脚だと二人ともが、自分一人のほうが巧く歩けるのに……と考えてしまう。それですと、どうしても二人を繋ぐ紐を解いてしまいかねないというものだ。

わたしも結婚して二五年過ぎ、五十代も半ばになって気が付くなんて…・反省!反省!。  これは奥様にも読んで頂きたい久々の「万菊てすさび」の美しい?文章と思いません。こうした考え方すれば、お互いに精神的に楽にもなると云うものですか。



『和顔愛語』


仏教の基本的実践徳目−布施−『無財の七布施』


布施は喜捨ともいい、進んで金品や物品を他人に施し与えることである。この布施の原語は、サンスクリット語の“ダーナ”。この“ダーナ”を漢字に音写した語が“檀那”あるいは“旦那”であて、“檀那”というのは布施する人ということである。

では何故、施しの事を“布施”というのか?
古代インドにおいては、仏教の僧が所有を許されたものは「三衣一鉢」でしかなかった。すなわち、大衣・上衣・下衣の3種類の衣と托鉢用の鉢だけしか、お坊さんは許されなかった。
そこで僧侶に施しをするには、毎日の食事か、衣を作るための布しかないのである。そこで僧侶に施しをすることを“布施”と呼ぶようになったのである。

金銭や物品を施すのが本来の布施であるが、私のように財物がなくてもできる布施もあるのである。「無財の七布施」といわれるのがそれである。


1、眼施・…あたたかい目差しを布施する事
2、和顔悦色施…・和らいだ顔、喜びの顔色の布施
3、名言辞施…・言葉による布施、優しい言葉、穏やかな話し方の布施
4、身施・…・身体に寄る布施、つまり労働奉仕
5、心施・…・思いやりのこころを布施する事
6、床座施・…・満員電車などで座席を譲る事
7、房舎施・…・人を気持ちよく宿泊させてあげること

布施の場合、あいてを軽蔑する気持ちがあっては、その施しは布施とはなりません。老人に席を譲っても、年寄りが可哀相だから座らせてやるといった考えではいけない。
布施した方がお礼を言う気持ちになったとき、それが本当の布施となるのである。
また、「無財の七布施」を、―和顔愛語―に要約できます。和らいだ顔、愛の言葉の布施は、誰にも無料で出きる布施である。


PS:もう一つ忘れておりました。
8番目の無財布施・明るく楽しく歌を歌う事・…・世間ではこれを(布施明という)?


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【 稲妻 】

稲妻がひかり、一雨後の涼しさを…


がみえての聞こえる状態を《雷》という。もっとも、電光だけが見えて雷鳴が聞こえないのは、気象庁では雷とは呼ばないのだそうだ。

《雷》で重要なことは雷鳴の聞こえることである。雷鳴がすると、女性が「キャッー」っと言ってしがみついてくれたりする。雷鳴が重要であるのである。

《雷》といった言葉も本来は“神鳴”あるいは“鳴神”であって、雷鳴が中心の語である。一方、電光のほうは“稲光”あるいは“稲妻”と呼ばれる。

“稲妻”という語は「稲の褄・(つま)」の意で“稲つるび”に由来する言葉である。


古代の日本人は、稲が電光とつるんで(交接して)稲が穂を孕むと考えていた。稲の育成には雷雨は好ましいものだから、そのような考えが出来たのであろう。


『雷のおかげ 新造に抱きつかれ』

『雷もおよばぬ 臍と臍』

亭主の留守に訪ねて来た友達に、雷が鳴ったので新造に抱きつく或いは、蚊帳の中で二人が臍と臍をピッタリくっつけている。雷さん、この臍だけは取ろうにも取れませんぞ!

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【年の暮・黄昏】

人生の黄昏(たそがれ)とは一体いつ頃か…


『大辞林』には、“暮れ”という語には三つの意味があると書いてある。
@ 陽が沈みかけて、あたりが暗くなる頃。夕方。夕べ。
A ある瞬間や時節の終わり頃。「春のー」
B 年の終わり頃。年末。「ーのにぎわい」

しかしもう一つ、「人生の終わり頃」もありそうに思われますが、この辞書には掲載されておりません。もっとも、人生の終わり頃とは、むしろ“たそがれ(黄昏)”と呼ぶべきか。
そうであれば、
「たそがれ(黄昏)… A 人生の盛りを過ぎた年代をたとえていう」となる。

では、人生のたそがれは何歳からなのか…?少なくとも古代ギリシャ人は人生の盛りを“アクメ”と呼んで四十歳頃としたのだそうだ。 なに!“アクメ”?。アクメといえば「アクメ(acme)、性交時の快感の絶頂、オルガスムス」と『大辞林』にあるのです。
そういう意味もありますが、古代ギリシャ人は四十歳頃を“アクメ”と呼んで人生の盛りとしたんですな。四十歳代の方、今がアクメ、盛りですよ〜!仕事も何事もですがね。

ですから、まあ五十歳も半ばですと、人生のたそがれ時である訳でした、いつお迎えが来るとも限りませんから覚悟しときましょうね。

『かれ枝に 鳥のとまりけり 秋の暮れ』  静かな日曜のひとときにて。


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アベックという言葉

時代とともに変化している言葉

かっては使用されたが、今ではその言葉を聞いただけで妙に古めかしく感じるというものがありますね。モダン、ハイカラ、アバンチュール等などがその例ですが、アベックというのも懐かしい言葉になってしまいましたね。
元来、フランス語の“……と一緒に”という言葉らしいのですが、一組の恋人同士をあらわした。警察関係などは変に遅れている?から未だに、現場近くの公園では不審なアベックが目撃され・…なんて言っていますがね。

では、問題!
今、アベックに代る言葉として何が用いられているのでしょうか?

カップル。惜しい!いい感じですが、それもちょっと古い。
ペア。そうとも言っていた時代がありましたなあ。しかし正解でもないですね。
正解は、ツーショットであるそうな。
ま、英語的にはまるで意味が通じない変な言葉でもあるのですが、つまり、ワンショットで写される画面の中に二人がいる、というあたりから生まれたらしのですな。ツーショットには情感がないね!男女一組とはいうものの、どこかよそよそしいのである。
その点では、アベックというものは必ずやいちゃいちゃしていなければならず(年代によるかなあ…)、いちゃいちゃしなければいけないと決まっている。(かなり独断と偏見かな?)
かって、一組の恋人同士というものは、そいいうけしからぬものであったのである。


閑話休題

ところで、数珠は“じゅず”と読みます。でも漢字のまま読めば“ずじゅ”なのに?もっとも、山茶花だって“さんさか”とよむ、変な読み方ですね。

数珠の起源はインドのインドゥー教で、“ジャパマーラー”という。“ジャパ”は神の名を唱え神の姿を思い浮かべること。“マーラー”は輪。したがって「念誦(ねんず)の輪」である。
ところが、古代ローマ人は“ジャパ”を“ジャパー”と聞き間違えた。大した間違いではないかもしれないが、“ジャパー”ですとサンスクリット語では花の“バラ”となるのである。そして“ジャーパーマーラー”は「バラの輪」と解されて、ラテン語で“ロザリウム”キリスト教で使うロザリオがそれである。

数珠は本来、称名や陀羅尼を唱えるときに、回数を数えるための道具であった。その珠の数は基本的には108個。仏教では我々凡夫は108の煩悩を持っているとされている。一回礼拝する度一つ爪ぐるのである。
数珠の種類は各宗派によって、少しづつちがっているのであるが、珠の数は108個であって、小さな物はその約数になっています。54個・36個・27個とあります。

一生懸命努力して煩悩をコントロールしてみませんか?因みに私は36個の念誦です。何故かって?私はEDだから、その分楽なわけですよ!
<電光><雷鳴>
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