近江爺日記 Ⅲ  近江爺日記 Ⅱ






2020年 12 月 28 
 日

こんな師走


残すところ今年も数日となり、年の瀬は何かとせわしく過ぎていく。いつもと違う年の迎えを提唱してる行政を横目にメディアは相も変らず新型ウイルス感染者の数を声高に言っている。此れまでの月曜日では最高の何何名が感染者です、なんて意味のある言葉であるかな~?

ニュースが終われば、現実離れし意味のないドラマが各局一斉に流れるなど正気の沙汰ではない!そして食番組やスポーツ番組が続くという、のんびりとした休日もテレビを観ることも無くなってきている。
こうした環境下でこそのノンフィクションや芸術や文化を教えてくれる番組などあってはと思う。

市内繁華街の賑わいも無く、夜も9時ともなれば店の灯りが続々と消えてゆく。営業時間短縮要請なのであろうが、小さな店ならしのぐ道もあろうが、大店舗ほど経営に影響あるのは余りにも気の毒である。そんな所の従業員はたまったものでもなく、居直って深夜まで営業する店もちらほらと。悲しいかな道を歩く酔客など見ることなく閑散と夜の繁華街今年の師走風景である。

欧米では早くもワクチン接種の開始である、ウイルス菌の変異種もあるようだが、このままでは接種以外沈静化の道もないのだろう。

春先から襲った新型ウイルス感染禍はまだ当分続くのであろう、私などウイルスワクチン接種のトリアージュでは来春には早々に打つことになるであろうが、先ずは医療従事者や警察や消防など自治関係者の皆さんへお願いしたいものだ。

本年もいろいろと書き散らかしましたが、もう少し勉強しなくちゃ~駄目と自覚しております。


2020年 12 月 21 
 日

食事


美味しい不味いは本能に基づく感覚ではなく、その正体は思いであり教育の結果刷り込まれの観念に近い。それは満腹で美味しいものはなく、空腹で不味いものは無いし、ある国の美味はある国でのげてものであろうし、又子供に苦いコーヒーは何故大人に美味しいのか?

結果的に食べものは体の衰退を癒す薬であると位置づけるのであって食べものは命を救うもの、我々の自意識の存在より優位にあると。それを敬意とともに迎えいれるものである。

それにしても、何故他の命を奪っていいのかという人としての疑問は残る。禅ではそれが「成道のため故にこの食を受く」と結んでいる。食べる修行者が修行を完成させることで、その身もろとも食物を仏に昇華させることを誓って食事が許されると聞く。

食事作法を厳しく実施する修行と謂う行為において、食べものは仏となり、ここに作法が「敬意」の表現と実現である意味を明瞭に読みとることができるのだ。

お味噌汁や肉じゃが、現代ではハンバーグ等各家庭ごとに味付けの異なる料理は口にすると昔日の記憶が蘇ってくるということが有りますね。所謂お袋の味といわれるものですが、過日ネットニュースでも子供達が大きくなって家を出るようになるとお家のカレーが食べられなくなり懐かしい!と懐かしむお父さんがいたり…。
専門店のカレーとは一味違ったもので、子供に合わせたあの甘いカレーなどは正に母の味、そして家族の味とでもいうのでしょう。


私が料理人ということもあってか「食べる」という行為は味覚の問題と云うよりは熱量が高い。料理は芸術で美食は文化と謂われる現代、だからこそ母の料理は特別ではないが大事なことと承知おきして頂きたい。
料理という仕事に従事して半世紀以上たつ私はメディアに殊更映し出す料理人やその料理に懐疑的なものを感じるこの頃でもある。

料理人を鉄人とか、プロッヘッショナルなもの、そしてタイヤメーカーの言いなりなクラス分けに一喜一憂してる姿など料理を侮辱するに甚だしいというもの、市井の中にはそれこそ路一筋に他者のため励んでおられる方々が沢山居られるし、あの河井寛次郎などは国の褒章を己の行き方と違うとばかり断っている。彼はそれをプライドと言っていた。

テレビでも見ようならニュースに挿し挟まるように各地の名物とか有名な料理店を紹介し、残り10分ほどスポーツニュースがセットとなって流れて来る。それらは緊縛された最初のニュースをさも味を薄める如く我々の精神に余裕を与えたり、スポーツ選手の奮闘に勇気を頂いていると錯覚を画策しているようだ。

3:11も今回の感染禍も結局は担保されるのは金銭でしかなかった。私達日本人は「生きていくこと」を「食べていく」と変換する人種であることでも分かる。。

残り少ない今年も新型ウイルス感染禍のもとで気の抜けない毎日の中で過ぎていく、考えてもみればこんな緊張が続く日々の経験も無く、病や死を目前とした瞬間さえ経験してこなかった団塊の世代はただ狼狽の毎日でもある。人生最後の試練と腹は括っているつもりではあるが、小心者の私には少々荷が重い!

澄んだ冬の夜空に、木星とあの輪っかの付いた土星の最接近を観る事ができた!西欧では200年に一度の転換期、新たなる時代の幕開け等と言い伝えがあるらしく「グレートコンジャクション」と謂うのだそう。そう考えれば新ウイルスは新しい生き方を考える上でも納得しうる。




2020年 12 月 14 
 日

年の暮れ


年の暮れになって、新型ウイルス感染拡大傾向へと市井の思いは複雑で憂慮する心持ちである。そんな事もあってか新聞の広告欄に人生の何がし!とか、病のどうの!、果ては終末後の世界等と書籍の広告に目がいく。日々の報動で感染者や死者の数やらが踊っている以上止むを得まい。その中に著名な死後の世界を著作する方の名も見える。

元来、神通力は他者の絶対的分からなさをそのものに依存し、同時に分からなさを象徴する能力なのである。この意味において神通力にかかわる嘘は他の嘘と性質を異としている。
神通力に付いての嘘は、そもそも原理的に定義上検証不可能なのであって、要するにバレようもないのだ。生と死は人の経験の外にあるからでもある。

神通力を疑うことは可能であるが、その不在を証明することは決して出来ないからだ。だから、偽ってそれを乱用すると際限が無くなるのであり、自己に対して極端に破壊的なダメージを与えうる。仏教が最初からこの嘘を禁止する所以でもある。

世相はGOTOキャンペーンの一時中止と市内中心部飲食店の営業時短要請へと形勢は傾きつつある、これも感染禍の増勢の影響からでもある。伴って国の財政は赤字国債発行は100兆円を越え国民の担保へと支出されるが、それがいつの日か増税の一端となって還ってくると思うのは私だけではないだろう。

年の暮れ、生活に追われた方々も沢山居られると聞く、社会の空気感はあらぬ方向へと突き進んでいるようにも思えるのだが、こうした時こそ確かな知識とそれを支える教養が肝心ではないのだろうか。




2020年 12 月 7 
 日

imagin all the perpol living life in peace


Imagine there's no heaven   it's easy if you try   no hell below us   above us only sky   Imagine all the people
living for today...

【想像してごらん天国なんてないだろう、ほら簡単でしょう、地面の下に地獄なんて無いしね。僕達の上にはただ空があるだけ。 さあ想像してごらん、みんながただ今を生きているって。】 

1971年に、ビートルズのジョン・レノンが作った『イマジン』である。12月8日は彼の命日だ。アメリカウエストコーストがカウンターカルチャー発信基地と云われ、ヒッピー的思想やマリファナなどドラッグにより若者文化の中心として知られる時代、私はCCR、サンタナ、CNS&Y、ビューティフルデイ、ママス&パパス、イーグルス等に啓発され傾聴していたものだ。

1969年にはあの有名なウッドストック・フェスティバルが雨の中三日間の野外コンサートを歴史的イベントとして今に語り継がれている。そんな時代的背景の中でジョン・レノンはこの様な歌を残している。今彼の歌を聴く人々に果たして歌の意味がわかるのだろうか?ふっと彼の命日を思い出して…。

国家や宗教や所有欲によって起こる対立や憎悪を無意味なものとし、曲を聴く人自身もユートピア的世界を思い描き共有すれば世界は変わるんだと訴えかけている。人類愛とか平和を優先する歌として今も人々に愛唱される、一時は共産主義的とも云われ放送禁止ともなったし、フォークランド紛争や湾岸戦争時には反戦歌としてメディアも規制に入ったこともある。

【想像してごらん、国なんて無いんだと。そんなに難しくないでしょう?殺す理由も死ぬ理由も無く。そして宗教も無い、さあ想像してごらん、みんなが平和に生きているって…

僕のことを夢想家だというかもしれないね、でも僕一人じゃないはず、いつかあなたもみんな仲間になって、きっと世界は一つになるんだ。、

想像してごらん、何も所有しないって、あなたなら出来ると思うよ。欲張ったり飢えることもない、人はみな兄弟なんだって、想像してごらん、みんなが世界を分かち合うんだって】


今週末にはふたご座流星群が最接近するという、再来週末には金星と土星が数百年にに一度の接近とも聞く、折しもJAXA探査機“はやぶさ2”が小惑星りゅうぐうからお土産をカプセルに入れて降りてきた。壮大な天体ショウーが繰りひろげられている。

小さな惑星に過ぎないこの地球のうえで今我々は何かと右往左往し、周章狼狽しているのだ。ジョン・レノンの声に耳を傾けてみるのもこんな時節には良いのかも知れない?




2020年 11 月 30 
 日

師走を前にし


近年続く自然災害や本年の新型ウイルス感染禍は私達の生活に長らく等閑に付していた、人間であると云う身体性を再度呼び起こした、つまりそれ等災害やウイルスが私達に『死』を広く強く意識させました。

自然災害は元より、ウイルスは野生動物から人間に感染するということは、市場と資本の拡大が資源開発を通じて災害やウイルスを自然から社会に呼び込んだということである。

一万年続いたという我が国縄文時代は狩猟と採集だけと謂う形態が生んだ世界的にも稀有な時代である。その根底には少欲知足という人間の根本的な情操や欲求制御といった方便が結果的には争いのない平和的な社会構造を構築して行ったものでもある。
そこには人間も自然界に融解した生物として機能しながら、社会に宿生する生き物という生態系であったのだろう。其処には最早共存共栄などという作り話もない、そんな言葉さえないのだから。

道元禅師は『峰のいろ 谷のひびきも 皆ながら わが釈迦牟尼の 声と姿と』と和歌に記されております。私達は自然を観ながらも、自分の外側の世界に美しさや安らぎを感じたりしますが、その感動だけに終始してはいけないでしょう。我々自身の内側に視線を落とせば天然自然の姿を見過ごしてしまうのでしょう。禅師はそれを仏性海と正法眼蔵の中に書いています。


毎日数字だけが踊っている!何物かも未だ解からない、対処法さえ確実でないが提示された倫理を遵守することで目前の死を避けることに必死である。半年前の恐怖も増大した数字をも時間の経過が人々に慣れを生じさせる。
いやはや今年は何時もと違った年である、師走を前にして新年の迎え方を心なしか心配するのだ。例年東京の知人と新年を一緒に迎えるのだが…、どうしたものか?

日曜夕方、何時もながら友人O君から沢山の野菜を頂いた、彼の菜園から秋の収穫、土からの恵みである。大根に人参、大きな玉かぶらに市松かぶら、そしてふっくらとしたジャガイモと、とてもじゃないが一人では食べきれない!友人二人に頂き物のおすそ分けだ。
私は菜園とは全く縁もなく知識もない、何時も頂く野菜は新鮮で美味しい!のはこの夏彼が汗を流したことを知ってるからであろう。大根には未だ土が薄っすらと付いていた。




2020年 11 月 23 
 日

民藝を観て


「民衆的工芸品」は「民藝」とも謂われ昭和初期に柳宗悦等が始めた美術運動から産出された言葉である。柳宗悦は民衆の中にある“用の美”こそ民衆的工芸品の中に存在するとし、使用される事を前提とした日常的健康な美しさを見出した。それは亀井勝一郎が唱えた信仰されてこその仏像を彷彿とする考え方と基軸は同じである。

宗悦の民藝運動は陶器をはじめ漆器や織物、染色、金工、石工、竹工、彫刻や硝子等多岐にわたり、一般の民衆が日々の生活に必要とするものという意味で、換言すれば民衆の民衆による民衆のための工芸とも云える。

予て宗悦が見出した木喰仏をおっている私に友人Hさんが豊田市民藝館での「柳宗悦と古丹波」に誘ってくれた。一昨年京都国立博物館での「国宝展」、昨年名古屋トリエンナーレの一環で瀬戸陶磁器館での河井寛次郎展を見て以来彼女は器に絵画にと魅入られている。特に彼女の東山魁夷“山雲涛声”に於ける並々ならぬ憧憬が仲間にも伝わってくるのだ。


豊田市北部の山間を流れる矢作川の清流も奇岩を瀬に流れが美しい勘八峡の岸辺にそって大きな公園がある。豊田市いこいの広場の中に豊田市民藝館はあった。

川上を遡って行けば紅葉で有名な香嵐渓があり、連休三が日とあって市街地からの道は車も多く賑わっていただろう。豊田市民藝館辺りも所々の木々が美しく紅葉を見せており、いやぁ~この日は目の保養にいい日でもあった。

新ウイルス感染禍も市井の動きは大した変化も見ないのだが、ニュースでは相も変らず感染者の数字ばかりが目立ち、どうやら第三波襲来と云われて経済的キャンペーンの終始動向に注目している様子。


西欧や米国とは較べようもなく我が国の感染者は少なく死者は極端に少なくて安堵はするものの、抗ウイルス薬剤もワクチンも未だ確固たるエビデンスもないまま進められて行くのが不安でもある。

幸いにも我が国では町を歩けば殆んどの方がマスクをし、スーパーや飲食店、その他店舗に入る都度手指のアルコール消毒をし、資材の消毒や室内の空気換気に注意され、人々のディスタンスも確保しながらの生活が整然と為されての現在の結果だと思われる。

夕方五時を過ぎればすっかり日も暮れて街に明かりが灯る頃となり、外出すれば陽の短さに一日が足早に過ぎていきます。もうひと月も過ぎれば師走の忙しさがやって来ますね!いつもと違う時間がもう暫らく続きますが、皆さん十分気をつけていきましょう。、



2020年 11 月  
16 日

座禅とは


座禅をしたい方々のよく言われる言葉に「頭を真っ白にしたい」、「何事にも動じることのない強い心を作りたい」がある。先週のブログを読んだ友人からも同様の質問が来ていた。

一つめは技術的な問題で、真っ白な心とは各自の考える状態で休息的状態に持ち込むことは練習すればいいだけの問題でしょう。困ったのは不動心という言葉、この不動心をいかな力にさらされても平然としていられる精神をイメージとすれば、それは不可能でしょう。

岩ならぬ人間が毎日の暮らしで、何があっても動揺しないなどという事は有り得ないし、そんな不動心を座禅は作ろうとしてはいないはずだ。座禅が作り出せる不動心があるとすれば、岩ではなくヤジロベエの不動心ではないか?

揺れるが落ちない、,振れるが力を何とかやり過ごせば体勢をたて直しできる。私達がこのことから習うのは、真直ぐ安定している時の状態をハッキリと心身に記憶しているかどうかであろう。要は、動揺しない心を作り出すことは無理としても、動揺しても大丈夫な心構えを準備する方便にはなる。
ヤジロベエ的安定状態を知れば、動揺と余裕のふり幅だけの問題となり対策を講じる心が生まれてくるでしょう。

ある師は、この様に言われた。
概して、座禅は人生の役に立つようなことではなく、その無益さを意図的に自覚することで、世の益の持つ錯覚を解き放つことだと考えた方がよいと。


数日来心地よい秋晴れの日々が続いている、起床後直ぐに窓の扉を開けて空気の入れ替えをするのが日課となって久しいが、昨日今日のような秋色の澄んだ空を見上げると目いっぱい吸い込んだ空気も殊のほか美味しく思える。
真夏の焼けるような陽射しもすっかり優しくなってベランダに横たわっている野良猫ちゃんの眠そうな目も季節を感じ始めるのだった。


空気の乾燥にともない感冒の流行というので医者からの勧めも有りインフルエンザワクチンを摂取した。新コロナ感染禍ではインフルエンザも今年は大変少ないそうでもあるが、高齢者や持病ある人は優先されるともいわれ医者の言に従うことにする。


東京の友人を招いて海を見ながらの食事と宿泊を楽しむ予定が此のところの感染者急増で急遽取りやめることに…、申し訳ない事であるが如何せん事実もハッキリと解からない状態では致し方ない。
メディアは毎日その数を出してはいるが、私達の知りたいのは違う!感染者の症状やその経過、そして治癒後の状況である。

三密を避けマスクや消毒等注意するにしても自ずと限度や不可抗力があろうはず、何も知らされないで数の多少だけ言われても何をどの様に心構えをせよというのか?治療方法や、その金銭問題、治癒後の後遺症などの症状を知らなければ徒に余計な詮索や憶測が人心に不安感を抱かせるだけであろうが?

そんな中、季節は確実に秋の真っ只中!

2020年 11 月  
9 日

鳥羽の旅


鎌倉五山は京都五山に相対するよう決められた叢林(臨済宗)の遙拝主義でもある。数日前テレビで映し出されたのは禅宗寺院決まっての庭園に美を求め、座禅にその心を求めるのだった。
禅(特に座禅)とは真理とか、神秘なもののように伝えられ、心の平穏を求道するアイテムのように伝えられるがどうも其処に落とし穴があるようで問題提起する。

道元禅師の言葉に救いを求めた修行二十年の老僧が「無常」という釈迦の、道元の言葉に座禅をもってし得た言葉がここにある。


『 言葉の意味は何よりも先ず人間の行為に於いて産出される。意味とは行為が具体化する関係の形式なのであり、その確定が言語記号の成立である。即ち、言語化することが世界を構成することなのであり、この構成に於いて構成する主体として自己が形成されていくのである。

存在は縁起、その縁起を具体的に実現するのは行為である、つまり行為のありようが存在の仕方を規定する。ならば、その行為をぎりぎりに絞り込んだら存在は解体するだろうか。

現代の我々の自己や世界の存在仕方を強力に拘束しているのは取引や競争といった行為である。座禅は正にその対極にある行為、眼が目標を狙いそれをつかもうと手を伸ばし、前傾姿勢で息せき切って走っていくような行動とは正反対な行いだ。

座禅とは身体行為と言語に基づく思考を限りなく停止へと導くテクニックである。停止ではない、停止は睡眠か死であろう。座禅は停止状態に直面する行為であり、睡眠ではなく、死でもない。謂わば完全に休息することなのだ。

「所縁をを放捨し、万事を休息すべし」・座禅儀、そこに存在が解体した後の土台が、存在が生成してくる縁起のポイントが現成する。座禅は存在を初期化するのである。

しかし、物事は初期状態が「真実」であるとは言えない、物事は全体として評価されるべきで、従って座禅の開く境域を「真理」と名付ける根拠は何もない。 』 要するに、座禅したからと云って真理に目覚めることはないと謂うことで、人間科学の上では真理というものはないと私も考える。

仏陀とは目覚める人と訳す人がいた、眠る瞬間を貴方は明確に覚えていますか?ひょっとしたらそのまま眠っているが如く生きていないかもしれない…、目覚めるという瞬間に私達は仏陀にもなるのです。その時尊厳は存在する。



        



ちょっと豪勢な料理、この日は伊勢海老のお造りであったが私にはどうも食指が動かない…。ホテルのテラスは寒さの為か誰もいない、我々は半月夜に浮か島影に島民の生活を思い、今夜は星空も殊のほか綺麗に観られるのだった。

眼下に見えるイルカ島は昼の賑わいを終え休息の暗闇と化して、沖合いに答志島がその奥に菅島が浮かんでいるのが見える。久しぶりな仲間と鳥羽での夜を楽しむには十分であった。

コロナ禍で緊張の日々が続くものの、手洗いやマスク、アルコール消毒、そしてホテルでは検温など兎に角注意の連続でもあり、人混みと極力に接触を避け普段通りの生活をと考えている。他者との接触なしの生活は成り得ないのが生きることで、否定的な人生だけは過ごしたくないのが本音です。
幸い行政も旅するには都合良く動き出しているようで、私も数回と普段には行くこともないような旅を楽しんでもいるのだ。




2020年 11 月  
1 日

憲法の源


十数年ぶりに亀井勝一郎の【大和古寺風物誌】に目を通してみた。冒頭法隆寺の第一章から“こんな事が書いてあったのだろうか?”と目を見張る思いで読みふけっていくのが新鮮である。
西洋的絵画等鑑賞からでは感じ得ない我が国の古寺仏像鑑賞はその信仰性をもつものと一貫して和辻哲郎とは意見を異として、氏は古寺や仏像の中に先人の心の中へと入っていくようでもあった。

我が国最初の憲法と謂われる十七条憲法についてこの様に書いておられる。


『 十七条憲法は治世の為の律法でもなく、単なる道徳訓でもない。勿論、それらの意味を含めてはいるが、むしろ聖徳太子自身の率直な祈りの言葉としてある。

同族殺伐の日において、民心に宿った悲痛な思いと願いを一身に受けて表わされたのだと言ってもいい。かくあれと衷心より念じた言葉であって、その一語一語に太子の苦悩と体験は切実に宿っていると思われる。

一に曰く、和を以って貴しと為し、忓(さか)ふこと無くを宗と為せ。人皆党(たむら)有り、亦達(さと)れる者少なし。愚を以って、或いは君父(きみかぞ)に順(したが)はずして乍(また)隣里(さととなり)にたがふ、然れども上和(やわら)ぎ、下睦びて、事を論(あげつら)ふに諧(かな)ふときは、即ち事理(ことわり)自らに逢ふ 、何事か成らざむ。

この第一条の「以和為貴」の一句の背後には蘇我氏の専横や同族間の絶えざる争いがあり、おそらく太子の切なる祈念ではあったのだろう。

「…皆仲良くせよ、人は党派を組み易いもので、本当に達者と云える者は少ないのだ。里や隣人と仲違いせず、上のものが仲良くし、下のものが睦みあって、互いに和して事を論ずるならば一切は自ずから成就するだろう。そうしたならば何事も出来ないことはあるまい」

当然の考えではあろうが、こうして述べられた太子の心底には醜怪な政争や人間の無残な欲念が地獄絵のように映じていたのであろう
そして次に信仰の問題を示されたのである。

篤く三宝を敬(うやま)へ、三宝は仏(ほとけ)(のり)(ほうし)なり、

太子は「篤く三宝を敬へ」と仰せられたけど、「必ず三宝を信ぜよ」とは云われなかった。もし律法において一信仰を強制し、仏法を必ず信ぜよとしたら、信仰はその自発性を失い、政治的党派性を帯びるだろう、信仰はあくまで自発的な求道心に求められている。仏法の黎明を告げた太子の本心はこうしたものだった。

信仰は過去のものを過去のものとして合理的にあげつらうことを許さない。信じる者にとって神仏は常に現存である。太子への思慕が激しく民心に宿ったとき、その祈念が眼のあたり太子の御霊にふれ、金人を夢みたとしても不思議ではあるまい。民心に宿る愛と信仰とが存在するからだ。』


昭和28年初版の大和古寺風物誌は入江泰吉氏の写真を時の記憶に写して発行、この時私は5歳である。和辻哲郎著【古寺巡礼】に遅れること24年後であった。
我が国芸術ルネッサンスの時代に表明した思想家は私の青春時代を支えた【現代人生論】の著者でもあり、今こうしてあるのも氏の影響と過言ではない。

青春時代、大和・飛鳥を旅した頃は唯闇雲に歩き回った寺社や仏像にかくのごとく歴史が隠されていたと、何も知らなかったといえ、恥ずかしく思う。歴史の生々しい事実を知ることは現代に於いても大切なことで、そこに人間の根本的な問題が潜んでいるからだ。

こうした時代、この年齢となり時間は持っている、改めて読みたい本を書棚からとり目を通し、若い頃には感じ取れないものを発見する、そうしたとき生存感覚もみてとれるのかなぁ~。

今年も残すところ二月!、季節の変わり目は体調の変わり目と気をつけながらの毎日。それにつけても遣り残したと悔やむことしきりな日々が続いているが。
昨夜はこの月二度目の満月を愛でてみた、ブルームーンと謂うのだそうだが市内では星が見えるのも少なく、先日の奥三河の山中の夜が思い出される。



2020年 10 月  
26 日

生の選択を!


私達は誰一人として生まれてくる理由をしらない、また、死ななければならない理由もわからない。端から、出生も死もそれ自体として体験できない以上正体不明な事柄に論議を持たない。

突っ放して言えば、我々の生や死には、それ自体として意味も価値も見出せないという事実である。だから誰かが言っていたガ、我々自身の存在について無条件に肯定する理由を知らず、それを全否定する権利を持たないのだと。

この場所で前にも書いたように、生の意味や価値が生じるのは、死を選択できるにも関わらず、生を選択したときであるのだ。それ以前には何もない、決断の後に意味と価値がある。

この様な苦しく辛い困難な決断の連続が、その都度に人間として生きる意味や価値を創造し維持するものだろう。誰もが生まれ誰もが死ぬから、一人の生死の決断からくる意味は他者の生死に共有されるべきだ。

「死ぬよりつらい」や「死んだほうがまし」と思うときに、死ではなく生を選ぶ行為のみが、この世に生きる意味と価値を生み出すのだ。予め意味があって生きるのではない!死なない決断が意味を作るのである。

高校生の飛び降り自殺に巻き込まれ犠牲者がでた、自殺にどうのこうのとは言わない。彼が死を選んだには彼なりの理由付けがあるのだろう。人類は自死が出来ることをもっているからだ。

しかし、巻き込まれた他者にとって何故自分が?という疑問を他者の関係者は以後ずっと胸に持ちながら生きなけねばならない。



         



確か、先々月は1700人ほど、先月も1800人ほどの自死があった、この一年では年間二万人はくだらないだろう…。

今も何処かで悩む人がいる、そして今何故死を!と悲しむ人がいる。
生の選択をしなけねば生の意味や価値は出てこない、そうした根拠の中でしか生きられないのだから多少の苦しさや辛さもあるだろうが…。

のんびりと友人H女史と海を眺めながらそんな話をしながら秋の一日を過ごしていた、昼食に目の前の海原を見ながらの魚料理はメバルの煮付けと大きなエビフライ二本ともずくや茶碗蒸し、小鉢と充実したご膳で、最近知った知多半島の食事処でもある。

私には少々ボリュームあるものだが、女史は美味しそうに頂き幸せそうな顔を見せてくれる。いつもの仲間が喜んでくれている顔を見るのもいいものだ。

生きる意味と価値をそんな仲間に感じながら秋の海を眺めるのもいい。


2020年 10 月  
19 日

秋の夜空


夏の間は夕方から厚い雲が立ちこめることが多かったが、秋となりすっきりと晴れ渡るようになる。秋の空は「天高く」と言われるように高く澄み渡り、星も一層輝きを増して明るく見えるものです。

秋・ことさら月の美しさが愛でられるものですが、月のない満天の星が輝く美しさも格別でもある。
    “ われの星 燃えてをるなり 星月夜 ”   高浜虚子
    “ 星落ちて 曇り立ちけり  星月夜 ”   芥川龍之介
星月夜(ほしづくよ)とは、澄み切った夜空に星が輝く夜のことを改めて知った次第だ。


景勝地で名高い奥三河鳳来峡の宇連川沿いに広がる湯谷温泉は日本名湯百選にも選ばれているが、昨今は如何にも鄙な感じの漂う開湯1300年という名湯で知られる。
山深く川沿いの湯に浸かるのもいいもので、市井の騒音も雑音も全くない静けさの中で川音だけが唯一の音でもある。湯からあがって火照った体に秋の風は心なしか寒さも覚えるが、満天下のもと眺める星に魅了される夜を楽しんだ。
東西の両側を低い山で覆われてもいる窪地にあるこの温泉地は数軒という宿のお蔭で街灯も少なく星を眺めるにはいい所でもあった。 


        



白雉三年西暦652年、
額田姫王は大海人皇子の初めての御子・十一皇女を生む、共に22歳であった。妻であり恋人であった額田は女から母へ、子を持つ妻・母、その絶対の座の恐ろしい落とし穴に額田は気づいていない。
大海人自身、親となったことで開かれた大人の男の視界の広さに驚き、その視野の中にはこれまで見えなかった現実が映ってくるのだった。

中大兄は、大海人にとって同母姉、、中大兄にとっても同母妹にあたる間人皇后(はしひと・孝徳天皇皇后)を余りにも愛する由、皇族出身の妃たちや鏡姫王には子供を生ませることが出来ず、中大兄は大海人にたのみ約束している。
『私が帝位に即いたならば、必ずやお前を皇太子に…、 孝徳天皇にはつかず常に自分の側に従ってくれ 』と。

兄は豪族たちの娘との婚姻によって身辺を固めた、大海人は宮廷内外における自分の力、大和の豪族たちの熱い信望の目を自覚せざるを得ない。

夏も終わりか、秋の初めの頃とも謂われる飛鳥川原宮へ動いた中大兄、白雉四年難波の宮廷の政情は揺らぎ始めた。


夜空を仰ぎながら、時間軸を飛鳥の過去へと手繰り寄せて歴史の断片を想う時ともなっていた。それは丁度こんな秋の季節のもとでもあったという。




2020年 10 月  
12 日

聖地


遥か遠くに仰ぐ山々、穏やかで時として荒狂う眼前の海原、それを繋ぐたゆたう川の流れの中に聖地信仰や祖霊の故郷を感じるものだ。先人が山を見て樹木や植物の繁茂する勢いに、海を見て群生する海草や群れ泳ぐ魚に生殖と豊穣の力を生々しく感じたことだろう。

海と川と山、要素は違えど日本人の信仰対象にそれらの要素は歴史的にも地域的にも重なり合いながら深くかかわっている。

人間の共同体にとり、聖地というものは既存宗教の教義とは何か別のものであるようで、磁石のように人を惹きつけるものが在ります。聖地が原点とするならば聖地体験が先決で、後の宗教者たちはそれをどの様に体系化するかが仕事でもあっただろう。

日本の寺社をみても源にある聖地は時に山や海、岩石、湖、泉や川等あるが、多くは仏教伝来以前からの聖地である。結果的に解釈は後で、聖なる基点には計り知れぬ深度がある。

今年は特にそんな水辺を訪ね歩く旅が多く、考える時間は十分過ぎるほど頂けた。水は命の源泉でもあるもの良くも悪くも人間に関係している訳で、時として私達はそのことを忘れていたりする。

政府が一兆円もの予算を組んでGOTO キャンペーンを行なっているお蔭で数回利用していたが、今回も海辺のホテルで美味しい海鮮料理を楽しむことが出来た。旅行サイトのポイントやキャンペーンとクーポンなど利用したら実質的には半額以下となって優雅な時間と美味しい料理を戴けたのだが、ホテルサイドの方にお話を聞けば、これまでのご苦労が大変だったことに心苦しいものでもあった。

年頭には考えてもみなかった事態に我々は路頭に迷った如く右往左往しながら健康に過ごすことを憂慮しながら生活している。目の前に「死」を突きつけられた生活様式は憶測が憶測を呼び、人間不信から不安を増幅させ一時は息苦しさを感じたほどである。

それでも予てから言うように、自己の為のマスクではなく他者の為のマスクを感覚的に理解している人は少なく、感染症拡大対策は医療従事者達などの他者を思う方々の思いにより支えられている。並行し経済再生にも協力する形で我々も生活をしなければならないだろう。




2020年 10 月  
5 日

名月や


中秋の名月と言われた数日前、夜空の明るさも少しづつ欠けはじめた月で幾分か暗さを持っている。街路樹の公孫樹が夜空に浮かび、道端には月明かりに映し出された銀杏の実がたくさん転がっていたのが見えた。
街中の気温計は17℃という数字を映しだし、どことなく寒ささえ感じるのだったが、そう云えばと耳を澄ましてみても心地よかった虫達の鳴き声も聞こえてこない季節ともなっていた。この一週間でさえ季節の移り変わりに驚きを覚えるのだった。

月々に 月見る月は 多かれど 月見る月は この月の月

と詠われるほどこの月の月は美しいと云うのだ…が、過日旅した地方の空は満天の下とまではいかなくても沢山の星と美しく輝く月が夜空を映し出していた。悲しいかな私の住んでる市中では星は数えることが出来るというのに。


鳥が空を飛ぶという二元図式と、飛ぶという行為が空と鳥を現成する縁起思考の二元的対立は、存在という言葉を分解することである。それは行為が存在を生成する、言い換えれば行為的関係による生成である。それは二元的に対立する実体的存在ではないのだ。

注・ 「実体的存在とは一定条件下の行為的関係の形式を音節の文字記号(空とはソラという)に対応させて固定するのが言語の機能であり、形式が一度固定すればそれが初めからその形式を持つべき根拠があるよう錯覚される、つまり本質・実体の成立である」

関係が存在を生成するという仏教の(少なくとも曹洞宗の道元が考える)縁起の考え方である。

飛ぶ鳥がいる(行為)が空が現成するのであって、空を飛ぶことで鳥は鳥として生成され、初めから鳥ではない。飛ぶことで鳥となる。概念としての鳥を脱却しなければならないのである。

月が美しいというのは本来は概念範疇になり言葉としてはおかしい?ではどの様に言うべきかは私には未だ解けていないが。



2020年 9 月  
28 日

伊良湖散策


いやぁ~暑かったこの夏も思いの外足早に駆け抜け、風は日を追って肌寒さを覚える頃ともなってきました。気が付けば夜長月もあっという間に過ぎ去ろうとしています。
そしてこの夏は異様な夏でもあった、家族や友人、仲間の間に、否人間(じんかん)のすき間に表現したくも無い重苦しい空気が漂っているようでもある。

関係性の否定は構築されてきた人間性に疑義を持つという先決な行動をとらせるのだった。私達は他者との関係に頼り、又頼られながら生きているといっても過言ではなく、そんな互酬性関係を否定するかのように疑心暗鬼な生活を強要されているようでもあった。

私の仲間内でもそんな思いはあり、なかなか歴史散策にも出かけられないでいた。他府県をまたがないという事を言い訳にして快晴の秋空のもと、車を渥美半島へと走らせた。

予てから友人達に見てもらいたいと思っていた近伊良湖岬付近には文学の香りがするのだった。万葉の時代この地は伊勢の一部でもあって、麻積王(おみのおう)が流されていた地でもある。
七世紀末の皇族、天智天皇の太子大友皇子とも伝えられる(諸説あるそうですが)麻積王が詠んだ句碑をみて俳句を嗜むO君やI君は感慨深げでもあった。


         


岬近くの山の中にひっそりと佇む伊良湖神社は伊勢神宮、橿原神宮の遥拝所ともなっており、我々は恭しく遥拝するのだった。神社の中には今回の散策でも必須の糟屋磯丸の顕彰碑があり、この地で和歌を詠った漁夫の物語がある。


糟屋磯丸の和歌を知るに付け、歌を詠むのは文学でもない、生活や暮らしの中で喜びや悲しみを共に支えあう妻や家族、漁仲間や隣近所の人間に対しての敬意から来ると知った。
心地よい秋風に我々は久しぶりの再会に喜んだ一日でもあった。



2020年 9 月  
22 日

海を眺めて思う


話と文章は面白いか、役に立つか、のどちらかが全てでしょう。そう思えば話し手と聞き手の場の共有が必要な気がいたします。

この程の新型ウイルス感染禍は我々の生活に長らく等閑に付していた人間であると云う身体性を再度呼び起こしたと思います。つまり、ウイルスが我々に『死』を広く強く意識させたのです。
更にウイルスは多くの場合、野生動物から人間に感染するということだ、と云うことは市場と資本の拡大が資源開発を通じてウイルスを自然から社会へと呼び込んだということです。

我々は「生活する」ことを「食べていく」ことと表現しますが、菌類から動物・人間に至るまで生物がとる行動の基本は摂食行為である。

今週、何処かで目に付いた文章ですが再考させられますね。そんなことから友人を誘ってのんびりと考え話し合ってみようと私の好きな海岸まで足を運んだ。駿河湾に臨む広大な砂浜は南は伊良湖岬から北に中田島砂丘まで続くのだが、国道一号線県境の潮見峠を越すと目の前に美しい海原が飛び込んでくる。

現在は国道23号線が自動車専用道路として浜名湖に豪壮な橋を架けており、ひっきりなしに自動車が走行していく。旧国道は何処でも似たようなもので、潮見峠の食堂等は廃れた姿を見せている。急で曲がりくねった坂道を降りると右手には松林越えに雄大な海が見える、白須賀海岸である。

一週間前とは全く違った潮風が秋を運んできたようだ、数十キロと思える大きな雲があたりを覆いでいるが、時間の経過とともに西の方から雲間が開き美しい夕陽が山裾から輝いて見えた。


         



そんな夕陽を見ながら又こんなことを思った。
古代人は常世、浄土も元より単なる死後の世界を意味しているものではない。そして、死を固定化した人間という個体の消滅と考えたとは思えない。
それは死者葬送の儀礼が植物や動物の繁殖と枯死、牧畜や農業での新陳代謝の営みと結びついているからではないか。などなど…




2020年 9 月  
14 日

倫理的マスク?


正法眼蔵においては振鈴(起床)から、洗面、食事、作務、座禅、開枕(就寝)に至るまで行為が如来と祖師、即ち仏教者としての存在を生成する行為として考えられる。例えば、起床したから洗面をするのでなく、作法による洗面をするという行為によって仏教者としての存在を生成させる。縁起という思考であり、常々私が言うところの行為は言葉である。

予め仏教者がそれ自体で存在しており、朝起きたら教えに従い洗面するのではなく、仏祖の命脈という教えに従って洗面する者が、その時仏教者となるのである。

これは仏法の核心たる縁起の考え方に基づく、従って顔を洗わず礼拝することが罪となる。何故ならそれでは今度は礼拝という行為が仏祖を現成させることが出来ず、その縁起を破壊させるからである。因って、その作法こそ具体的な如来と祖師達の存在となるという。

ここに云う「教え」、「作法」こそが私達が行為の基本となる倫理ではないだろうか?

「他人を傷つけてはいけない」と云う道徳に対して、「何故、他人を傷つけてはいけないか」を問うのが倫理でもある。道徳は自己だけの問題であるが、倫理は他者を思い遣る立場をとるのだ。

それは、他者からウイルスを防ぐためのマスクが道徳問題なら、他者にうつさないマスクは倫理の問題であると考えます。物理的にも我々の使うマスクは医療用マスクと違って小さな細菌類は通してしまうし、従来から咳や微粒子拡散予防の為のマスクであるが、意外と他人からうつされない為のマスクと勘違いされている。

仏教を学ぶものとして宗教者からの言葉はその行為からも学ぶことでもある。学ぶものとしての立場で変換すればいいのでしょう。

倫理の核心は何処から来るのだろうか?と問うた時、私はその源は教養ということではないだろうか?近年の若者をみても資料や書類を読んでも読書の習慣がないのだという。思考力を養い、社会や歴史を読み、自己の価値観や世界観を確立するにはある程度の読書量は必須と言わざるを得ません。勿論のこと、活字ばかりが教養を養うというものでもないですが。

日頃から『観る』こと重点を置き、時間の許す範囲で読書に心がけてきたものの、やはり倫理の問題となると難しいものを感じる。



2020年 9 月  
6 日

自然に生きる


数ヶ月前に線状降水帯による集中降雨が河川の氾濫をもたらした九州中部地域に又しても今週は大型の台風が二つもやって来ている!気象庁は「命を守る行動を!」「未だ経験したことのない風雨」と連呼している。

この一ヶ月程の熱さは異常と感じるほどで、、私達の子供の頃とは比較の対象とはならぬくらい、それこそ子供の頃には何処の家庭にも冷房などなく、黒くてごっつい扇風機がググッググッルと軋ませながら回っていた.。

陽も落ちて何処からともなく夕飯の匂いが漂ってくる頃になると家の前に縁台が出され、夕涼みがてらにお年寄り達が団扇をパタパタと風を送っていたもので、夕食後ともなれば通りのあちこちでほのかな花火の火が見え隠れ、子供の嬌声が聞こえていた。今思えば親達の生活は苦しかったのだろうけど、町の生活形態は楽しみに溢れ、喜びに浸り、それこそ人間(じんかん)の中を人々が行き交っていたのだ。

自然は人間文化と対侍するという見方に自然観というのがある。野に山に海に私達が観る自然の中には本来の自然はない。少なくとも数百年、数千年の間人間の影響が与えない所というと小さな我が国ではほぼ無いだろう。
自然は自然環境や原生地域を意味し、野生動物、岩石、森林、海岸など人類に影響されていないところや人類の介入にも関わらず以前と変らぬ姿を保持するものである。人工物や人間が介在した事象が無いところであろう。

我が国縄文時代は一万年続いたともいわれる、狩猟・採集の生活環境を変化させない最も自然な時代が一万年もの永きにわたって続いた地球的規模でも稀有な時代でもあった。

近年の自然災害を比べみると正しく自然破壊による災害規模の拡大化は避けようもなく、我が国近代化以後の急速な発展は正しく自然破壊によるものと感じる。相変わらず、景勝地や温泉地などの観光地は自然を売り物にしているが、否、そこには自然はなく、人間にとっての自然でもあるのだ。

そし令和二年の夏も終わった!依然と新ウイルス感染の実体は解からず世間はまごうばかり。マスクと手洗い、アルコール消毒に人混みを避けることを注意しながらそれでも私は近くの旅に楽しむのだった。



2020年 8 月  
31 日

永久性・永遠性


我が国日本人の心の中には永続・永遠・永久という時間的な感覚は馴染みにくいように思う。西欧の時間では、例えば石造建築物が存在し続けるように、永遠という時は何か不変の幅の変わらない一本の線が延びていくイメージである。

対して、我が国でのそれは神宮(伊勢神宮)の式年造替のように、常にある期間でテンポラリー(一時的)な消滅と再生を繰り返す運動が無限に繰り返される。それは例えば海の波のようなものである,引きつ返す波のその連続性に永遠性を見るということだ。

大陸と違い、自然の猛威に直接的に曝されかねないという環境は自然に抗えないという感情支配を起こす。結果的に大きくは橋梁から建築構造物、小さくは箸、爪楊枝に至るまで消滅を内蔵して造られる。

私の知る奈良東大寺二月堂の修二会などにみる毎年の行事を絶やさず行じることの連続性の中に永遠性、永久性を垣間見るのである。無常・無我・縁起を標榜する仏教にとってその永遠性はみえないが、土着の神に垂迹という形で今に信仰され、永続性の形となっている。しかし弥勒浄土における永遠性にも限度があり、56億7千万年という。

この夏最後とばかり、友人と海でも見ながらゆったりと過ごそう…。岸辺近くに車を停めて遠くの海原を眺める。時折車外に出て浜辺を歩くのだが10分とその場に居れない!確か朝のニュースで昼時の気温は38℃と熱中症に気をつけるよう放送していたはずだ。そんな海の彼方に入道雲が心なしか力強さに欠けるようにみえるのだ。


私の若い頃とは比べようもなく、夏の気温は異常であろう。炎天下でも学校の運動場で砂埃にまみれて走り回っていた頃には考えられない程の熱さだ。

でも、この陽射しこそが夏だ!この熱量こそ夏だ!そしてこの夏の光にあたってこそ冬の風対策とばかり額に汗をしたたらせて、小さく寄せる波に永遠性を考えていた。

夏至からもう二ヶ月が過ぎ、日も短くなって六時少し経つと鈴鹿の峰に夕陽が美しい。海風が心地よい時間を作ってくれる、浜辺では若い人達が黒光りした姿体を曝しながら夏を楽しんでいた。

海が見えるレストランで魚料理をいただきながら、伊勢湾を航行する船の明かりに目をやるのは私の毎年の行事でもあった。





2020年 8 月  24
  日

見るということ


風景を眺めるとは、その空間の中に共に生成することを意味してると思う。言葉を変えていうならば空間を体験することによって生の質感を変換することが出来るということか?「見る」ことの肝心は相対するモノとの同化、或いは共有かもしれない。


私はその見た瞬間を生きているのではない、見てる空間を生きている。見ているモノの知識は得るが、、モノと人との関わりについては何も語ってくれない。モノが存在となるのは人との関わりをおいて他ないからだ。見るということは、見ることに徹するだけで対象を無限に変形できることが可能でもあるのだ。


休日前の深夜、私のタブレットにラインの着信音が怪しく鳴っている。友人のH女史からであったが、何時もながら近江旅や明日香旅の四方山話である。そんなメールが着火点となったのか、翌朝から友人O君を誘って琵琶湖でも見に出かけようと集まっていた。


この夏は何時もの夏とは違う、数日前から続く猛暑では熱中症に罹る人が続出とメディアは報道しているし、熱中症とコロナ感染が混同するように緊張した夏でもある。そんな緊張感に苛まれるように心が疲れきった女史は美しい湖面を見やりながら車中で喜びの声を発していた。

可能な限り人との接触を避けるようなドライブを楽しむことで又明日からの緊張に風をおくっていた。




2020年 8 月  17
  日

人知と無常


思ってもみなかった出来事とは、裏返せば思うようにならない出来事と言うことでしょう。即ち、私達人間にはどうしようもない事柄なのです。

普段意識しないのですが、振り返ればそのような災難は歴史的にみても過去に到るところで幾度となく起きています。それは疫病しかり、災害しかりです。山上やその中腹にあった寺社が麓に在るのもその証でしょう。

昔の人々はおそらくそのような災難の都度己の無力を悟り、神仏の加護を願ってきたに違いありません。技術も医療も不十分な時代にはそれ以外に方法はなかったのでしょう。

幸い現在の我々は比較できない位の技術や医療を持ち得ました、これは少なくとも思い通りに出来ることが飛躍的に拡大したことは事実でしょう。しかし、今回の新ウイルス感染禍や気候変動は我々人間の思ったようにできるという能力をはるかに凌駕して、思ったようにできない事態と考えます。

この非常な困難に意味を求めるならば、その思うようにならないという事から、人間としての謙虚さをとり戻すことではないだろうか。我々は何でも出来る訳でなく、何をしてもいい訳ではないのです。

人類の活動がもたらした気候変動と森林、土地開発の果てから呼び出したウイルス汚染とするならば、何が問題だったのか自ずと解かることです。

僧として南直哉禅師はかねて…、人知の小ささ、我々の生の無常を改めて自覚して、人間としての在り方を根底から見直す時代が来たことを思わざるを得ない。それは正に宗教の存在意義が厳しく問われる時代の到来でもあると言っていました。



        


新ウイルス感染禍の中でも季節の移り変わりは確実に忍びより小さく稲穂もみせていた近江路、湖畔のコテージで静かに夏を楽しむことにした。数年前長浜安楽寺へ仲間と参詣した折、立ち寄れなかった鮎料理屋さんへも行き晩夏の味を楽しむことが出来た。

近年の旅はともするとのんびりとした時間を楽しむことが目的で、その上少しばかり食べる楽しみを加味したことで非日常を味わうことが優先するという私なりの贅である。幾度となく通ったこの辺りは有名な穀倉地帯でもあるし、近くには観音の里としても有名な土地柄でもあるが、仏像を拝むこともなくただ只管自然を味わうことにした。自然とは“じねん”とも云われ、“自ずと然り(おのずとしかり)”という事でもある。



2020年 8 月  10
  日

「頼る」という事


盛夏、暑い夏であるが熱い陽射しと言わなければならない程、オリンピックの忘れ形見の如き根拠のない休日が続いて、今週はお盆休みが待っている。「旅へ出よう」と言ったかと思えば、「今年は帰省を控えよう」などと言い出した。そこで聞こえてくる言葉がこれだ。

よく使われる言葉に『自己責任』、『自己決定』がありますが、そもそも自分の誕生が自己決定、自己責任とは全く無縁であることを考えれば全く無意味な言葉であることがわかります。

況してや、私達の生活が多くの人達に支えられて成立していることは当然の事であろうから、所詮自己決定、自己責任で済ませるようなことは実に些細なことでしょう。

新ウイルス感染禍のもと、PSで株を右から左に移動させ巨大な富を得ている人と、不眠不休で働いている医療従事者の方、物資の輸送や販売で私達の生活を確実に支えている人の給料を比較して、はたしてこの『労働』は公正に評価されているのでしょうか。その『報酬額』の正当性は何が担保しているのだろうか?

『労働の力』と『報酬性』の正当性を社会が公明正大に確保してくれた上での自己決定、自己責任ではないだろうか?

「困ったときはお互い様」の習慣が道徳レベルではこれまで生活の常識だったが、今は生活基盤が市場経済の中で規定するようになって、習慣だった「助け合い」は「サービス」と商品化されて売買の対象とまでなったのです。
結果的に商品だから、買う買わないや、買える買えないは『自己決定』と『自己責任』は当たり前となってきたのだろう。

この『自己決定』『自己責任』という言葉の使い方は、私たちに「他人に頼る」ことを悪いことのように思わせるのです。

この社会で、本人に意識が有ろうが無かろうが他人に一切頼らないで生きている人はありません。他人に頼ることは本人の落ち度でもありません。それを落ち度のように思ったり、思わせたりするのは『自己決定』『自己責任』を喧伝する社会の在り方が問題でしょう。

新ウイルス感染問題は短期間のうちに現代社会の虚構を一瞬にして炙りだし、それはSNSやメディアを介して人間の表層だけを照らし、表現しているのだと誤解している。『自己とは』という提起をおざなりにした結果はそれこそ『他己・(他者)』に翻弄されていくのだ。

深夜PSを打ちこんでいる今でも野外は29℃といよいよ夏の熱さ到来と言うべきか!クーラーの風がどうも肌に合わない私も流石に冷房の効いた部屋にいる。昼過ぎ出かけたのはいいが、マスク越しではどうも息苦しささえ覚え、これはイカンと早々に帰宅するほどだった。数年前から暑さや寒さに敏感ともなり、部屋の温度調整や冷気の向き加減に注意するようになったこの頃です。





2020年 8 月  3
  日

名前という存在


誰がどうやって決めるかと言った時に、それを誰が言ったとしたにせよ「それはあなたの考えでしょう」と言われてしまえば先には進めない。何が正しいかと決めるということは余り意味がないのですから。

何が正しいかとすぐ言ってしまうと、議論の幅が狭くなるというものです。問題は何なのかということをみれば、後はその人間の覚悟を問われるだけなのです。

街のあちこちで使い終えた「マスク」が落ちているのを見かけるようになった。あれ程見なかったマスクであるが…、人間ってこんなものかなあ~と考えさせられる。
八千万枚の政府備蓄マスクを事業所対象に送付しようとしたら、理由はどうであれ「不要である」とのことで一時中断!

そうなれば、例え使用前だろうが使用後だろうがゴミとなって、そこに「マスク」という概念はなくマスクの存在もない。要は使用され、その効果として存在意味を持った途端にこそ「マスク」が存在し、そのその行為が感謝されるのだ。

存在とはそうした行為による能動的現象に付いた仮称でしかありえないし、仮称を共有しているだけなのだから、必要としている人にとっては「マスク」 であろうし、不要な人にとっては「ゴミ」同様なモノでしかない。要するに、その効果を必要とされてこそ存在である。

政府を批判することもいいのだが、国民も遅速はあれど決められたことへの覚悟をもたないと民主主義でもない。ことの「正しい」や「間違い」には意味もない、何故ならことの正誤は時間や場所、関係によって如何ようにも作用しうるからであり、頂いた二枚のマスクももう少し早ければ良かったのに、同じマスクも今では間違いと受け取れられていることからわかる。

前から気になっていた古本屋さんに足を運んでいる、馴染みの数店が近年閉店して寂しく思っていたところで、新ウイルス感染禍のなか少々時間が有りそうなので本を買いだめしてしまいました。


        




2020年 7 月  2
7  日

祖師達の時代


鎌倉時代の祖師たちは其々に仏教と対峙した、そして結果的に意思表示は現在に至るまでの宗旨となって連綿と信仰されて来ている。祖師達が同じ比叡山で法華経を標榜し行道していながらにである。
易行、難行にかかわらず、浄土思想から法華思想、そして禅思想などへと発展していったのであるが、それは何故なのか?

鎌倉時代という生活の中に何が彼らをそうした思想に走らせたのか?が問題である。貴族社会から武士社会への転換点という、覇権力が底辺に存在する所謂実力の世界へと移行する時代でもあった。伴ってそれは力のない民百姓の犠牲の上で成り立ってもいることでもあった。安定から変化の時代へと突入する時代でもあったのだ。

我が国は他人を敬具するという思想的流れがあったようで、現代で謂えば同じ大学出身で思想が違っても互いに尊重するという気風とでも謂うのだろう。祖師たちは民百姓の生活の中にあり、真実とは何であろうか?生きることとは何であろうか?バタバタと死んでゆく者達を見ながら祖師達はどの様な寄り添い方をと悩んでいたのだろう。

思いもかけぬ長梅雨で隣の公園は夏の到来というのに蝉の合唱もなく、夜になると涼しいというお土産に喜ぶべきか、悲しむべきか困っている(笑)。そして新ウイルス感染禍のもと、何かにつけ一層の変化の時代、新しい生活の時代と聞こえてくる声は「何が」「何故」という質問に返答がないのだ。

こうした社会下でこそ宗教者の存在が問われるというのに、近代での物理的時代趨勢では経済学者や政治家、行政者などは医療関係者や医学者達の声しか聞こうとしない。
新ウイルス感染禍のもと「死」を眼前にしたはずなのに、それは単なる医療の問題認識というだけでは生きていくという意味付けにもならないのだ。

鎌倉時代、民百姓たちは医療に罹ることもなく困難の中生きることに賭けていたのだろう、それでも眼前の「死」と向かい合っていたのが宗教であったのだ。そこに無常、無我、縁起を知り、当然の成り行きで自己を知って亡くなっていくのだっただろう。

道元禅師が正法眼蔵を書いた時代には現実が真実であることは言いがたい時代であり、。禅師は現成公案にて存在するとはどういう事かを問うている。私の本目は自己が存在するということを禅師がどの様に考えていたのか、正法眼蔵をもって知りたいのである。




2020年 7 月  20 日 

ゆったりと琵琶湖


私は水辺が好きである!小川のせせらぎや時にたゆたうような大河の流れ、又、押寄せる波に時を忘れる海の普遍性は生きているという自己の存在を確認させてくれるものでもある。
そういう点では、私の近江の旅の原点は琵琶湖ということでもあろう。その琵琶湖も切り口が違えばまた違った顔を見せてくれるという多面性を含み、旅をするごとに私の気持を高揚させてくれる。


生きている「意味」や「価値」それ自体などは存在していません。私達は根拠もなく、理由などもなく生まれ、そうして根拠もなく、理由などもなく死んでゆくものです。
私達はもう既に生まれてきてしまったから、考えたり聞かされたりした「意味」や「価値」は要するに後付けの理屈に過ぎず、検証の仕様もないから、そこら辺の日常会話と何ら変ることもないでしょう。つまりモノは考えようだということでしょう。

と云うことは所詮我々は誰もが皆「仕方なく」生まれ出て、その生を理由もなく受容し、兎に角生まれていくのでしょう。
そして、「意味」とか「価値」は生きていくというプロセスの上で他者との縁を紡ぎつつ織り出して行くのだろうと考えてます。

何処に行くにも、どの店に入るにもマスクを着用するという何でもないことが当然の事と癖になってきたこの頃、私の生活は普段と変わりなく仕事に旅にと奔走する日々でもある。
先週は伊勢の海を!、今週は雄大な琵琶湖を!兎も角も眺める。その地に出かけてゆったりと眺める。眺めるという行為に因って何かを観ることができるのではないか。それが時を楽しむことでもいい、自然の優しさに触れることでもいい、風に触れるだけでもいいだろう。
『鷹ひとつ みつけてうれし 伊良湖崎』と詠んだ芭蕉である、流浪の俳人は旅を楽しみ観ることで大きな縁起の法を知ったのだ。観るとは現成させることであるのは間違いない。



       




2020年 7 月  13 日 

二見が浦への旅


この日は二見が浦旅館街に立つホテル7階の部屋からは、対岸の所々に輝く知多半島の小さな明かりが浪間に見えるほど空気が澄んでいた。暗闇の中に点々として煌きを放つのは漁火であろう、美味し国の華やぎを支えている。

ここ数年と毎年の行事の如く伊勢の地へ旅を楽しんでいる。最初は確か斎宮での発見からでもあったが、今ではすっかり魅力にはまり、定宿まで出来ている状態だ。

その定宿の近く、二見が浦興玉神社参詣道の旧街道筋は今時何処にも見られるような住宅街となって、暗くなれば人通りもなく、況して観光客の姿など全くといっていい程見かけることもない。コロナ感染禍の騒動の今は惨憺たる様相で、昔懐かしい旅館街に心寂しい気持となる。それでもそんな一角に予てから一度伺いたいと思っていた店がある。

私は決して食道楽でもなく、飲食関係で働く者としても拘りを持つほどの者でもない。ただ、いつも何故?という疑問を持つことだけは気をつけている。そんなことから今回は予約して行くことにした。


牛ヒレ肉のオイスターソース炒め、海老チリソース、広東焼き餃子、五目炒飯そして杏仁豆腐と注文する。そうこの小さな店は造りに似合わず中華料理店である。しもた屋の一角にテーブルが四つとこじんまりとした美味しい店でもあった。
御夫婦で切り盛りされているようで、この日も満席で予約の方が待っておられた。

大淀から二見にかけて一帯は禊の地としてあり、二見では今でも御塩が作られている。五十鈴川周辺では土器や神田など今でも神宮への供物を支えている。

若いご夫婦が寂れゆくこの地で頑張っておられる!和食でもなく中華料理である。



2020年 7 月  7 日 

自然災害の辛さ


今年の梅雨はいつになく涼しく過ごし易いと呑気に構えていたら、早朝から悲しいニュースで重たい気分となった。此のところ毎年のように起きる河川氾濫による洪水災害、長雨による土砂災害等々で尊い命が失われていく。
加えて、昨今の新ウイルス感染禍のなかで避難所生活にも神経をすり減らすほどと踏んだり蹴ったり!罹災された方々にとっては『私が何をしたんだ!』と愚痴の一つも出よう。

『命を守る行動を!』などと言っているが、そんな生活環境を此れまで放って置いたのかと聞き返したくなるほど・・・。

良寛が越後の大地震に際して友人への手紙の文句に『災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候、これはこれ災難をのがれる妙法にて候』とある。

こんな文(手紙)を書く良寛という人は自分の存在や生を意味付けることを一切止めたのか、する気が無かったのではないか。そもそも存在に過剰な意味を求めようとすることこそ、苦の根源的に、そして根底に横たわる欲望であると考えられる。
自分を物語ることを放棄した人間の凄いことは、存在と生に意味を一切求め無かったのだろうか。

此のところ私の気持は梅雨長雨の中で鬱勃としていた。友人H女史はSNSラインで奈良は桜井・飛鳥の情報を送ってくれるも、如何せん思うような旅が出来ない情況で雨を含んだ重い雲のように私の心に何かが低く鬱積していく。

休日、雨上がり午後の一瞬を逃さず、車で数十分の古本屋をのぞいてみた。暫らく書籍購入がなかったこともあって好きな本を抱かえるほど買うことはとても新鮮である。
国より10万円という貴重なお金を頂いた。幸いにも私は毎日働かせていただいており、多少だが年金も頂く。世上で言われる預金などは全くないが生活に不自由はない。そんな中での書籍購入でもあったし、この際少しだけ何処かに喜捨しようと考えている。

この歳ともなればお金なんぞ所有欲の何物でもなく、お金を持っていれば「思い通りになる」というだけの話、例えは悪いのですが、新ウイルス感染でECMO(エクモ)でも装着された時にはお金なんぞ何の意味も持ちません。

気が付けば、今日は小暑、7月7日七夕さんであった。


2020年 6 月  29 日 

敵対と共生のはざまで


本来ウイルスは動物の細胞の中で増殖し存続をはかっている。結果病気を引き起こし、ウイルスによっては悲惨な結果をもたらすものがある事は事実であるが、しかし全てのウイルスがそうではないという。今回の新型ウイルスは蝙蝠と一万年ほど共存したまたま人間の社会に入ってきたという。

ウイルスは30億年にわたるその生命史上初めて激動の環境下に直面することとなった。現在、我々の周囲に存在するウイルスの多くはおそらく数百万年前から数千万年前にもわたって宿主生物と平和共存してきたものである。

人間社会との遭遇はウイルスにとってはその長い歴史の中のほんのひとコマにすぎない。しかし僅か数十年の間にウイルスは人間社会の中でそれまで経験したことのない様々なプレッシャーを受けるようになった。我々にとっての激動の世界はウイルスにとっても同じである。

ラテン語で「毒」を意味するウイルスと名付けられて発見されたのは19世紀末である。半世紀余り微小な細菌と考えられていたが実際はウイルスと細菌は全く別な存在である。

そんな知識をくれた半世紀にわたるワクチン研究開発者山内一也氏は、ウイルスは脅威であるが敵対ではないという。
続けて、海は地球上で最大のウイルス貯蔵庫であることが認識され、我々の体にも腸内細菌や皮膚常在菌などに寄生する膨大な数のウイルスが存在するのだという。
つまり我々はウイルスに囲まれ、ウイルスと共に生きているのである。ウイルスの自然宿主ではウイルスは共存をはかっているともいう。

西ナイル熱、SARS、鳥インフルエンザのようなキラーウイルスと呼ばれる悪玉ウイルスは人間が作り出した現代社会のみ起きている。
46億年前から現代をみる「生命の一年歴」によればウイルスは30億年前、ホモサピエンスは20万年前、すればウイルスは五月初めとなり人類は12月31日の数秒という事らしい。


新型コロナウイルスとは勝つとか負けるとかいう存在ではないことがこ のことからも解かるだろう。私達は体内のウイルスと野生ウイルスと一緒に生きていくしか仕方ないのも解かるだろう。

先日読んだ本にも人間が稲作をおぼえ、土地の開墾から発展と共に ウイルスも放たれ、定住から非定住へと行動を変えるごとにウイルス に襲われ、島国の我が国も仏教伝来という文化発達に伴いウイルス の感染禍に逃げ惑ってる。


環境破壊とは地球温度とか自然環境、自然災害とばかりではなかった!私はこの半年ばかりのウイルス感染禍を真剣に考えておこうと、
たくさんの情報と知識を求めてきたが、この老科学者はヒューマニズムを互酬性行動と知った研究者でもあった。

いくらか感染が下火となった今日も『コロナと戦おう!』と馬鹿な言葉を平気で流している。

やんごとない用事で知多の海を見ることとなったが、少々帰りが遅くなったのが幸いしてか野間灯台がブルーライトに包まれているのを見た。
『新型コロナウイルス感染症に対応する医療従事者の皆様へ敬意と感謝の気持を込めブルーライトアップを行なっています』と張り紙がしてある。伊勢湾を巡航する船舶の道標が今日は社会の道標として照らし出されて美しい!




2020年 6 月  22 日 

神仏の存在


仕事場にて、部下が私のこんな写真を見てつぶやいた。『何を祈って いるのですか?』と。

そうなんだ~?、お堂で頭を垂れながら手を合わせていたら何かを祈 っているんだ、何かを願っていると見えるんだ~。
「いやあ~ね、家族の無事を祈っているんだ」という返答でも期待していたのだろうか?彼にはそう見えているのだろう。

とりあえず、彼には小難しい理屈を言うのはやめ、『私は仏様に対しては何も祈ってはいないよ!そうではなくて、祈るということで仏様を実在さ せているだけですよ』と一言伝えた。
この人は何を言ってるんだ?というような訝しげな顔をして去っていったが。


タブレットをあけてラインを見ると、今朝も友人O君から合歓の木の花の写真が送られてきていた。ここのところ、ふわふわとした栗の花や梔子(クチナシ)の白い花と季節の美しい草花を教えてくれる。
生憎と私は自然環境には全くといって言いほど疎く、草花や木々、そして小鳥や蝶など生き物の常識?すら解からず、以前から友人の物知りというか、調べようとする姿勢が羨ましく尊敬しているところだ。

昨日夏至も過ぎて、もう今年も半年が過ぎた。新型ウイルス感染禍と右往左往している最中うっかりして季節を埋没させてしまっていたところである、この友人をして私は何時ものように助けられているのだ。

例年であれば桜の頃と熱さがやってくる前のこの初夏には仲間たちと小さな旅を楽しむことが常ではあったが、残念ながら勝手はできない。不要不急なんて言葉が勝手に独り歩きしだしているが、私の生活の中に不要不急などという行動は無いつもりではいるが?



2020年 6 月  15 日 

人類の関係


古代、人類は定住者ではなく住む場所を自由に選ぶ遊動者として生きていた。劇的に変化したのは凡そ一万年前と云われている。人類学者西田正規の『定住革命』に拠れば、

ある時から人類の社会は逃げる社会から逃げない社会へ、或いは逃げられる社会から逃げられない社会へと生き方の基本的戦略を大きく変えたのです。霊長類が長い進化の歴史を通じてとって来た遊動生活の伝統は同じ霊長類の人間として生まれて長く受け継がれてきた。

定住することも無く、大きな社会を作ることもなく、希薄な人口密度を保ち続ける。従って環境の荒廃もなく、汚物にまみれることもなく、人類は出現してから数百万年を生き続けてきたのだという。

しかし今、私達が生きる社会は膨大な人口を抱えながら、不快であったとしても、危険が近づいたとしても、頑として逃げ出そうとはしないかのようである。生きる為にこそ逃げる遊動者の知恵は、今この社会では最早顧みられることもない。

地震、噴火、津波、大洪水という自然災害を遊動者は移動することでかわす智慧を心得ていましたが、定住という言葉を示す通り我々はあくまで留まろうとします。

定住というストックに象徴されるように物理的にも心理的にも所有という概念に基づいた固定的な社会があるからだ。不快であったとしても、危険が近づいても今更遊動者へと気まぐれに変更できません。そのような社会は殆んど存在しないからです。

では、その遊動者の知恵から学ぶべきことはないのだろうか?
尊厳が損なわれかねない場所から、また実りのない関係性から、素早く距離をとったり軽くいなしてしまうフットワークである。恐れずに新しい行動、新しい関係を作ることもそうであろうという。


      


梅雨の間の雨上がり、数ヶ月ぶりに大津に宿をとった。久方の琵琶湖の湖畔は散歩やランニングする人も少なく閑散としていた。周遊する外輪船ミシシッピーも運航を控えているようで寂しいものでもあった。
前日行きつけの京都御所北にあるイタリアン料理店のランチは結構お客様がいて安堵したものの、市内を少し歩いてみたが観光客は疎らで静かな古都を楽しむことができたのはいいが、やはり観光客相手のお店は大変なんだろうな?と余分な心配をもさせる。

琵琶湖畔に立つホテルは最上階の見晴らしのきく素晴らしい部屋でもあったし、昼過ぎまでのロングステイプランでもあったのがこの新ウイルス感染禍での営業の苦労を思い遣るのだった。比叡山の阿闌梨様へのご挨拶を済ませのんびりと帰路についた。



2020年 6 月  11 日 

一週間後の感染禍


愛知県新型コロナウイルス感染症サイトからの情報

愛知県総人口:755万人です。

6月10日現在:感染発生情況
 PCR検査実施数10961人、陽性者数508人(検査内:4,6㌫)、  死者34(陽性者内:6,6%)
                  入院中(中等 症9人・重症者0人)、 退院者数465


先程東京アラート?が下げられました。それでも全国で四十数名の感染者がおられます。亡くなる方は少なくなってきましたが、どうも陰性退院後の体力快復に時間がかかるのが新ウイルスの特徴でもあるそうです。生活に気を付けましょう!



2020年 6 月  8 日 

信じること


『信じる』ということは宗教者としての根拠として大変重要な意味を持っていると考える。現在我々の多くは『信じる』と謂われる行為の意味を真剣に且つ真摯に考えてはいないのではないだろうか?

事実『信じる』という名で行なわれているのは“現世利益”を当てこんだ取引か、“教祖”と称する人物への精神的屈服である場合が多すぎる。『信じる』とはそういうことではないであろう。

「教えに従って生き方を正す」そんな自己を動かす力であるとか、或いはそういう自己への賭けでもある。そのような教えと自己との関係こそが前提問題としてある。

損得とか人物を相手にした話ではなく、利益や名声を度外視して「仏法のために仏法を行ずる」というその原動力となるような『信』ということである。それは在家者として仏教を学び生きるテクニックとして活用するという方法としてであることを知った。

ともすれば昨今の新しい生活提唱は如何にも人として悲しく響いてくる。他者を信ずるからこそ生きる意味があろうかと思うが、ソーシャルディスタンスなんぞ言葉はその否定を問われるのだ。他者を、人間を、社会を、国家を信じるからこその“生”なんだから,悲しい言葉である。


       


のんびりと自室に居るのも辛い!ご批判もあろうが、このままではいけない!いろいろと行動に気をを配りながらのんびりと海を見て一日過ごしてみた。
考えなけねばいけないことがたくさんあるが、唯唯時間を楽しもうと。



2020年 6 月  3 日 

愛知県新型コロナウイルス感染症サイトからの情報

愛知県総人口:755万人です。

6月2日現在:感染発生情況
 PCR検査実施数10211人、陽性者数504人(検査内:5、2㌫)、  死者34(陽性者内:6,7%)
                  入院中12(中等 症12人・重症者0人)、 退院者数458

例年インフルエンザ罹患者数にもはるかに少ないこの数字の何に我々は怯えていたのでしょう?四ヶ月弱の間に病にて亡くなった方のその数や!比にならないでしょう。
少なくとも我が国においては、その解からなさのもたらす死への恐怖がメディア(マスコミ)によって増幅され、人としての生活様式まで、いや人間のコミュニケーションまで懐疑的なものへと変化させようとしています。
実はそれが我々を重篤な病へと導くものだと薄々気になっているのです。

人類は一万年前に山林開発をし農業を起こし生産活動したと同時に未開の地から次々と新しいウイルスと戦って来たという歴史がある。近世まで移動というモノに因ってより、良くも悪くも菌との共生は続いてきた。

今回の新型ウイルス感染禍では人類学的、歴史学的、哲学的に謂えば人類の危機でもあるという。一つは葬儀の無視である。葬送という儀式を共有し、死はその人生を敬い死者としてその心にリアリティーをもって存在することになる。

もう一つは移動ということである。それは他者との関係なしでは私とはなりえないことからもわかる。それは労働や遊びに至るまで、移動に関係しているからである。

新しい生活環境と簡単に言っているけど、人と人の関係を一時の混乱で言葉にすべきではない。それはあくまでもワクチンや薬剤が整うまでである。




2020年 5 月  31 日 

SNSの様相


SNSとはインターネットを介して人間関係を構築できるスマホ、パソコン用のWebサービスの総称、ソーシャル(社会的な)ネットワーキング(繋がり)サービスという意味であろう。フェイスブック、ツイッター、ライン、インスタグラム、ユーチューブなど情報発信として利便性は今では欠かせないものとなっている。

ところが、人間が使う言語は端からその実体などないが、得てして言語が共有されてしまうと実体がさも意味があり根拠が備えられていると錯覚を起こすものだ。器はその器を使うものにとっては意味と根拠があるが、その時器を使わないものにとっては意味も根拠もその存在さえないと同じことである。

【養老猛氏によれば、
人間以外の動物には言葉が無く、基本的に動物は絶対音感で生きているといい、行為の伝達にはこの絶対音感によって其々の音域などから喜怒哀楽が理解できると言うのだそうだ。この絶対音感は人類に備わっていることなく音の相違が理解できるというだけで、音の感情までは理解できないそうだ。言葉とは音の共有でしかなく、地球的な質量でいえば人類は異質な動物でもあるという  後日談(6:01)】


そこにきて、大国のリーダーから市民に至るまでSNSでの人間関係の様相が悲しみを帯びてきている。勿論これは極一部の側面でもあろうが…。


表現の自由を無条件に無制限に主張する根拠もなく、また、宗教の尊厳を絶対的と肯定する理由もありません。自由なんだから何を言ってもいいとか、尊厳を守るためには人を殺してもいいという幼稚なアイディアは大人になる前に捨てるべきであろう。


自由は大事な道具であり大切だから丁寧に扱わねばなりません。しかし所詮は道具である以上その正当性は使用目的と使用結果によって判断される他はないでしょう。

尊厳は大切な目標ではある、大切だからそれを守るべき手段が自ら尊厳を毀損ないよう慎重に選択されなけねばならない。

イデオロギーは人間の実存を規定する言説、観念体系であり、故に言葉によって主張されて他者には支持されるべきものである。何らかの主張あるところ、必ずや反対意見があり、反対意見の存在はその主張に意味がある故でもある。それは全員が賛成という意見は主張自体が不要であることから解かる。

結果、反対意見の封殺は主張の自己否定と考えるざるをえない。


そんな愚痴をSNSに書き散らしても埒がいきません、友人達と久しぶりな昼ご飯を共に、その足でそぼ降る雨もいいかと市内の荒子観音まで円空仏を見にでかけてみるのだった。



2020年 5 月  24 日 

大仏様


政治とは提案があれば異論があり、説得があってから譲歩へとつながり妥協へと至ることではないだろうか?民衆は独裁をみるより、このような政治を好みものだ。
民主主義は面倒なもの、いや面倒なプロセスこそが民主主義とも謂える。政策決定の速度や効率だけを求めるというのなら独裁制が一番のお勧めなのだろうが・・・?

いつだった?友人O君が『最近仏像を見てないから何処か見たいねえ…』などと言っていたが、今年に入ってウイルス感染禍のなか旅を楽しむことも控えるようなご時勢だから仏像を拝する機会は全く無くなっていた。
そんな折ふっと思い出したかのように、過日友人を誘って知多半島のつけ根東海市聚楽園(しゅうらくえん)公園へと出向いてみた。今はすっかり様相を変えて綺麗な公園と変貌し、丘陵地帯の頂上付近に大きなコンクリート製の大仏が私の生まれる前から鎮座されている。


       


小学生の頃毎年決まって我が家は家族で知多半島常滑新舞子の浜へ海水浴に行っていた。今とは違って名鉄電車に一時間も乗るということはこのとき以外ないというのが殊のほか新鮮で、父の会社の海の家だったのだろう家族で泊ることも両親にとっても大変なことでもあったのだろう。

地元の駅から名古屋駅まで一旦出て、当時は大野町までの常滑線で新舞子駅まで行くのだが、途中この大仏さんが目印で子供心に遠くへ来たんだという興奮の景色でもあった。田畑や町中の風景の中突然と現われた大仏さんは不思議と名鉄電車沿線に二ヶ所あったのを思い起こす。

現在は辺り一帯広大な殖産政策で海など全く見ることもできないほど埋め立てられ一大工業地となってしまっているが、当時は電車左手の大仏さんが過ぎ去ると、反対側には朝倉、古見、長浦と遠浅の海水浴場が広がり白砂青松の海岸線が続いて車窓の景色を食い入るように見るのが楽しみでもあった。

時々知多へと走る国道は産業道路と言われ車専用の道路が真っ直ぐのびて大きな車両がひっきりなしに走り、工場地帯からは大きな煙突や電力会社からの送電線が架かっている。この道路わきにひっそりと昔のよすがとでも言おうか朽ち果てるようにコンクリートの塊が見えるのが堤防だとは今の若い人は解かるまい。

感染禍で亡くなった方々も少なくなく、そんな方々を偲ぶことが少しでもできたらと大仏に手を合わせることが今の私にできるほんの僅かなお気持でもある(合掌)。



2020年 5 月  17 日 

新型ウイルス感染禍  2020


阪神大震災後のあの中、、学校の校庭に延々と二列に並び援助物資を受けている被災者の姿や、東北大地震も被災者の方々はあの状況の中に於いて実に驚くべき自制と感謝を当然のごとく我々に見える静かさで示されていた。
こうした態度はどう見ても日本人の最も誇るべき精神的インフラの一つであり、こうして常々生きている訳です。

実は、『みんなは仲間だ』的な意識の人間関係や、『価値観の共有』などといった思い込みは空虚なもので、価値観を媒介とするなら違う価値観の人を排除するだろうし、仲間意識など事情の変化にすぐ蒸発するというものです。

我々が最も信頼できる関係というのは、様々な困難や苦境に直面し挑戦し乗り越えていく経験を共に分かち合った人間同士に結ばれる関係、そこに利他とか供敬という気持がひそみ、このような関係を作りだすのに必要なのが我々のこの精神的インフラは大きな資産なのだと確信する。


今回の新ウイルス感染禍もこれまでの自然災害と同じく、世の中は何があるか分からないという事象で諸行無常と言われます。こうした災害の時に得てして「天罰があたった」、「神の思し召しだ」「因果応報」という誠に無勝手な言葉をだす輩がいますが私は好きになれませんし、そうは考えません。

この『何故か』という問いに人間は答えるべきではありません。答えのない問いが存在することを認め、その重圧に耐え、受け止め、そして相対し対侍するするべきなのです。その意志と勇気に我々の尊厳がかかるのです。

今回の罹災においては、おそらく我が国敗戦以来始めての国難、非常時であると実感させます。いやでも国民の共有せざるをえない画期的経験となることと思います。
科学の進歩、技術の発展によって当面の危機を何とかしてしのいだとしても、この経験の意味は今後永らく思想的に問われて、何らかの社会的実践をもたらすことになると考えます。


地震予知とか原発制御とか、想定内事象というような言葉に象徴されるように、あらゆる対象を其々に思い通りに操作することが人間にとって可能で意味あり、良いことなのだという近代ヨーロッパの理念に我々も乗ってしまい、この様に邁進してきたという道程は完全に限界が来たということではないだろうか?

そんな『思い通りにする』というアイディアは、私の知る書籍によれば資本主義市場経済を足腰として、科学及び科学技術を道具とし「自由」、「平等」、「人権」、「民主主義」を思想的に結実させたといえるのだそうだ。
しかし、資源、エネルギーの量的限界や、地球温暖化問題に見られる環境負荷の許容しがたい高まりも勘案すれば、我々は近代以降の社会と文化の骨格たる『思い通り』主義に大きな落とし穴が開いていることを認め、抜本的に再検討する必要があると言います。

つまり、『どの程度思い通りにしてもよいのか、するべきか』という、困難で面倒な思惟と実践が今必要だというのです。


今後二・三十年後に生きていない人間が、解かったような口で「未来」を語るべきではないでしょう、語るべきは今までの自分達の反省であるのでしょうから。

今回の新ウイルス感染禍のような前人未踏的領域の課題に取り組む場合に有効なのは、当然なことながら先人の経験に学ぶことではないでしょう。
思いつく限りのアイディアを出し、片っ端から試してみて、成功したものを拾い上げ組み合わせる、それを皆で共有して学ぶことだと考えます。
この方法は当事者が失敗を怖れないことと、周囲が失敗のリスクに耐える覚悟を持ち続けることが最重要と思われます。
私が言えることは爺じ~いの成功より若造の失敗のほうが貴重であるということです。

思いつくまま、考えられるままに書き散らしてみました!この数年、仲間より禅病とまで言われるほど道元研究に没頭した結果的考察ともなりました。的を得ているか否かは私の死後にでも此れを目にした方がご判断していただければ結構でもある。


2020年 5 月  11 日 

令和


昨年五月、平成から令和へと元号は遷り新しい時代が来る!と大騒ぎしたものだが、いやはやこの新ウイルス感染禍のもと実は我が国は恐ろしくITの波に乗り遅れていたと言うことが露呈されて、また医療現場の本質的な物資不足から医療崩壊なんて言葉が流れる始末、「IT・AI社会の到来」、「神の手の医療人」などとメディア挙って垂れ流していたが、局面の一側面的な部分だけを切り取ってみたところで、総体的な問題解決など遠く及ばず、自然との共生がいかほど困難なものと知っただけでも善しとしようか。


          


『令和』その『令』はうるわしい、『和』は最高の美を意味すると、国文学者の中西進氏は解釈するという。日本は近代化するにあたって西洋の真似をしたというのが実態です。その時にいわれた西洋とは何かと謂えば合理性です。
しかしながら、そこに当てはまらないものがあった、所謂職人気質(しょくにんかたぎ)というものです。

苦労すること、一人一人が一生懸命働いて美しいと思う、自分の感情を活かすような生活、これは全部はじかれてしまった。しかし誇りを持ち続けていてほしい。それを失わないように持ち続けることです、それが今一番大事です。と中西氏は続けた。!

労働の根本的資質がこの職人気質であるならば自ずと社会に余裕やゆとりが生まれるはずと考えられる。




2020年 5 月  4 日 

春の足元


     


          


     


          


      


          


     


          




ステイホーム!って言うのだそうだ。こんな時に横文字とは?何か言葉に騙されているようにも思える。後日このページを見たら滑稽に映るのか?それとも感慨にふけるのだろうか?

昼過ぎ、少し天気が快復し青空が見えだして心地よい風も感じるようになってきた。少し散歩でもと思い市内でも郊外にある我が町を歩いてみることにした。普段は全く歩くことなく車で素通りする住宅街をぶらぶらと歩いてみたら足元には小さな花が初夏のような気候を謳歌していた。
こうした時ではなければ花をこんな近くで見ることも無かったであろう…。季節は何事も無かったように確実に移って行く。





2020年 5 月  3 日 

忘己利他


天台宗比叡山延暦寺の開祖伝教大師最澄は「己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり」と教えています。いわゆる『忘己利他』の心であり、自分を捨て他に報いることですね。

そもそも利他的な行為は互恵的利他行動という考え方にもとづいており、これは「お互い様」の精神であろう。即刻ではないにしろ、良い行ないをしておけばいつかはお返しをして貰えるという発想でもある。

「山家学生式」いわゆる願文である。最澄はその中でこのように願ったのである。

『国宝とは何物ぞ、宝とは道心なり、道心あるの人を名づけて国宝と為す。 故に古人言く、径寸十枚(金銀財宝の意味)是国宝に非ず。 一隅を照らす、此れ則ち国宝なりと、悪事を己に向え、好事を他にあたえ、己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり』 と記している。


この数ヶ月で生活感覚がすっかり変貌し、時に利己的な言動や行動が垣間見えるのが、是まで我々の生活はどういうものだったかを問われるているようでもある。

当分の間、のんびりと家で過ご過ごすことになった。老境に入りこの生活は身体に良くないのだが!





2020年 4 月  26 日 

時間が止まる


新ウイルス感染禍のもと気が付いたら、公園の桜もとっくに青葉が繁り、その隙間から初夏を思わせる強い陽射が散歩する人達に優しく降注いでいる。垣根にはツツジの白やピンク、紅の花が水彩画のように見えて美しい。
今年は暖冬傾向で過ごしやすく、起床後天気のいい日には窓を全開放し空気を入れ替えている、室温は急に落ちるが、昨年の鼻炎のような症状が全くないのがその結果として現われているのだろう。

こうして見回してみると月日の経つのは早いもので、正月明け雪のない飯室長寿院で阿闍梨様とお話をしたのが変に懐かしい!それにしてもこの歳ともなると何故に時の経過がかくも早いのだろうか…?。
若い人には解からぬこの加速度的な時間経過は一体どどこから来るものだろうか。

何時だったか、そんな類の話をかなり高齢の老僧にしたら、

『それなら結構な事じゃないか、私はもう速さ自体感じないよ』と。
   『何でこんなに日が経つのが速いんですかね、小さい頃は小学校は永遠に続くのではないかと思うほどでしたが』
『貴方、その頃先の心配をしてましたか?』
   『いやぁ~してませんでしたね。明日の宿題や日曜日は何をして遊ぶか位は考えていたような気がしますが…』

最後に老僧は

『そうだろう、成長して先の予定を考えるようになればなるほど時間は速く経つ、そして先の予定が死ぬだけになれば、時間は止まる』

この『時間は止まる』という境地は凄いなぁ。でも現在の私には少し哀しい。




新ウイルス感染拡大について最後に一言

西ドイツ出身で苦難のもとで生きているメルケル首相の演説で国民に与えた何が凄かったのかは
生命(死)の前においては自由も平等もなく、権利や義務もないというものだ。ということは死の前において人は平等であり、自由であり得るのだ。信仰を持っている人の言葉には絶えず死と対峙している。

哀しいかなわが国の政治家は自分の言葉を持っていないのが解かった。メディアは相変わらずスポーツ選手の頑張れ映像を垂れ流している。スポーツで得る勇気などたかが知れている、本当に困窮している人々が目の前にいる。死を目前にしてい闘病している人と看護している人がいる、それが『而今』である。



2020年 4 月  20 日 

心の平衡


所有の問題について、道元禅師は『布施』という行為を巡ってユニークな考え方を示している。『布施』は自分の所有物を僧侶や他人に施して功徳をつむことであるが、禅師は「正法眼蔵」の中で『布施』についてこんなことを言っていた。

「自分のものでなくても、布施を実行することを妨げない道理がある。布施するものが大したものでなくても気にすることはない。そのものが布施したことによって確実に活かされるべきなのである。
仏道は仏道のままに修行された時得られるのだ。仏道を得るとき仏道が必ず仏道にまかせられて修行されるのだ。
財物が財物として活かされる時は、その財物が必ず布施されるものとなる。それは自己を自己に施し、他己を他己に施すことなのである。」


ここでは、自分の持ち物を困窮している他人に与えるという意味で『布施』を考えていない。禅師は『布施』においては、物の所有者が誰であり、誰がそれを受け取るかが問題ではなく、どこでその物の存在が最も効果的に活かされるかが問題だと言っているのである。飢えた人に食物を施すことが尊いのは、施す人の厚意のゆえではなく、その食物が誰よりも飢えた人の前で存在効果を発揮し、物として活かされるからである。

仏教の『布施』は所有を前提に持ち物を一部分け与える「慈善」ではなく、「所有」概念の幻想性を乗り越え、その物を成立させる関係性において、物が存在することの意味と価値を全うさせることなのだ。そのとき、布施する自己は自己として最も充実して現成し、布施される他者も他者として十全に現前させる。


        


数日前よりこの感染禍のもと、国民に生活費の一部として10万円を出すということが決まったらしい。金額の査定、、受け渡し方法、挙句受け取る人の選別と誠に喧しい!そんな折、斯様な道元禅師の言葉が私の心をよぎったのである。

新型ウイルス感染という実体の解からなさということからくる不安が、今となって各自の生活不安という問題へ視点がずれてきたことに言うことの出来ない歯がゆい辛さを覚えるのだ。

感染禍から来る数%の死亡率、これは死ぬ事の事実表出によることから生という問題現前でもある。可能性において降って涌いたような死の恐怖に信頼性に欠ける社会からの情報は根拠のない数字だけが踊っていることからわかる。そして数字に説得力さえも感じさせない状況から来る不安に行政の外出抑制さえ不確かなわだかまりという解からなさ。


外出禁止要請が行政から出ている、兎に角人との接触を避けるよう注意しながら車を走らせ丘の上の公園へ!眼下に広大な海が眺められ、所々に春の名残であろう八重桜を見ながら暫し心の平衡を感じながら…。
ラジオからは市内中心や駅前の静けさはニュースに流れていたが、海岸道路は少しばかり車の多さが目立つ。



2020年 4 月  12 日 

人の一生、あっても…


此のところの新ウイルス感染情報はメディアを初めとしてSNSの普及拡大により一層の異常氾濫の様相となって来ている。現在私見を延べることは、結局誰かが誰かを責めているという二元構図に陥ってしまうことになっている。
我々がどこか心が辛いという感じを抱きながら生活しているのは、実はその事だと解かった。

直近の結果に一喜一憂し、即座に自分の意見を述べるということの繰り返しをしているのは、実は核心から位置が少しづつずれて行くからではないか?問題は新ウイルス感染であって、対策に当たっている人々ではないからだ。

よくよく考えてみると、政府の専門者会議という言葉も錯覚であって、新ウイルス感染なのであるから実は誰も実体を知っている人もいない訳で、専門家といえど過去の類似した状態を経験したという人達で、現在の新ウイルスを今は誰も解かってはいないのだから。

こうして、密集・密接・密室を避けよ、前後左右2mの間隔とれ、常時マスクをし何かあったら手洗いうがいを、との注意に従い数週間行動に制約をかけることになってみると、これまで私はどれ程自由を楽しんできたかに驚かされる。

毎朝当たり前のように出会った人と気軽に挨拶をし、言葉を掛け合い、何の不思議もなく袖振り合うのも他生の縁とばかりに満員電車の通勤を我慢しあい、経済活動の一端を担いながら週末を楽しみとする、そんな事は当然と思っていた。
春ともなると仲間と連れ立って桜を楽しみ、ストレスを抱かえながらと言った労働が如何に楽しみの源泉であったことを知るのだった。

出勤、労働、営業もしないから生活を保証するなり、相応の金銭を保証してくれと言うのなら、実はお金が欲しいから私は働いていますと何ら変りなく、感染という炎にあぶり出された様相を呈している。
一月ほど働かなくても人生そんなに捨てたもんじゃない!といって楽しむ位が本当の人生とも思うんだが…。

たとえローンが一月遅れたとしても、たとえ家賃が一ヶ月払えなかったとしても、待ってくれるんだから。たとえ来月貧しくても、命があれば!また働けばいいのだから!来年また仲間と一緒に桜のもとで一緒にご飯が食べられるんだったらそんくらいは人生に一度くらい遭ってもそれはそれで懐かしかったことになるかもしれないし。



2020年 3 月  30 日 

春うらら~


例年仲間達と近在の寺社へ出向き妖艶な桜の色香を満喫してるはずなんだが…、不要不急でない以外の外出禁止要請が出ている状態では如何ともし難く、日曜の休日は住ま居の掃除や洗濯と日常のツケとなって祟っている。

市内の学校が自主規制や休校などの処置をとっているのであるからか、マンション前の大きな公園に子供達の飛び跳ねている声が聞こえてくるのに心安らぐというものである。数日すれば公園入り口のおおきな桜は満開となるであろう。
日々、不安や心配に苛まれていても何の解決にもならぬし、ストレスだ!といって逃げてるのも生きているのだから嫌でもあるし。


現象、妄想、思考、観念などを多面的に見たり思ったり感じたりする自分がどの局面にもいるのが生きるという実存なのですから。これまで嫌な部分の自分が目に付いてどうしても自分が好きになれなかった。
しかしながら、この現象や妄想、思考、観念とはその全てを嫌うことがないのじゃないかと最近気が付いたのである。

禅を勉強してると主人公とか真面目、一無位の真人、本来の面目などとという言葉で自己を現わしますが、これらはこの自己が毎日着替える衣服であって、自己は裸ではこの世を生きていかれません、服が必要となってきます。

動物は裸なのか?人間の近くにいるといつの間にか衣装も染みこむけれど、それはほんの少し影響は少ない。問題は自分でその衣装を衣装だと解かるかどうかということであろう。

本来の面目が解かると、その衣装がいつでも脱着が自由にできることがわかるのだ。この脱着自在な思考やらをそのように見られれば言うことなし、何にも嫌うこと莫れ!なんだね。

過日、国会内の野党共同会派会合で国民民主党の原口国対委員長はなんと『安倍内閣はコクピットに、言い方は悪いが日光猿軍団のお猿さん(が乗っている)そういう人達が乗っていたら降りろと言いますよね。任にあらずという人達がいれば、一刻も早く倒すのが務めだ』と延べている。そして出席者からは『猿に失礼だ』との声も上がったとのことだ。

言われる方も情けない話だが、余りにも国会内での会合の話ではなく、大人としての品位も見えてこないし、与党を倒す事は議員の問題結果であって民意の反映以外あるまい。
行為こそが言葉である!それの本質が解からぬ人々が多すぎる、国民の代表と列する人々がまずそれを見せて欲しい。
それにしても今年は仲間と一緒に桜を見なかったな~。



2020年 3 月  22 日 

「解からない」不安


市井は新ウイルス感染拡大問題で喧しい!相も変らずメディアからは数字の羅列や、やたら専門家という人達のご登場で何も理解できていない我々は内心恐怖で怯えているのに何が恐怖であるかも理解しようとしておらず、ご託義だけ言って素通りしているように見える。

ここで数字を出したくないのだが、現状では4割程の人間が既に快復し退院している現状を詳細に報告しておらず、快復までの経過も聞こえてこない。自身の免疫快復を待って寝ておればいいのか、薬剤投与は?治療はどんな状態であるとか?まるで変な安心感を与えてはいけないとばかりに、脅かしにかかっているようなものだ。

10日程前から何だか体調が優れない…、仕事に影響はないのだが何となく優れない。毎月診てもらう主治医のクリニックへ行くにも前もって発熱の有無やら血圧の状態、体調の報告をしてからという気の遣いよう?
案の定、待合室は全員マスク使用、室内換気は異常と思えるほどで、昔馴染みの医者も辟易していた。私はというと、37・5℃の高熱が4日続いていないか?咳やくしゃみが出ていないか?を確認してからのい通院でもあった。十数年毎月通った医院でさえこの気の遣いようでもあった。

近年この国の行政者の裏切りと謂う行為が「解からなさ」の深度を持っている。国民と行政者の関係はその信頼度によって関係を維持しているものの、関係性の不安定さによりその「解からなさ」から不安は拡大化されていく。
不安の根源的なものに「死」という言葉で表された以上、恐怖となってその質を変化させていくのだ。そのいい例がインフルエンザで今日そのインフルエンザから肺炎などで幾人者犠牲者がでているのも国民は忘れてしまっている。

社会が疲弊しかけているこの頃、友人から殺伐とした景色を見てしまったとメールを頂いた。それはパニックになって走り回るトイレットペーパー売り切れのことでもあった。又、電車内で咳でもしようものなら一斉にあらぬ視線を浴びてしまうと歎く娘たちからのメールでもあった。



2020年 3 月 10  日 

9年の歳月、『3:11』


黒澤明監督『夢』はオムニバス形式の映画であった、作品中原子力発電所の崩壊による放射能飛散というシーンが印象的で残像のように今でも私の脳裏にある。

『3:11』は9年前現実にその恐怖に曝された日でもあった。夕方前の東北沿岸地方はこれまで眼にしたことのない様相が起こっていた。国民の殆んどが他人事とは思えない恐怖に一瞬体に何かの震えを覚えたであろう。走り回る車や家々が大きく黒い塊に押し潰され流されていく途方もない姿に。

と同時に、数時間後に恐ろしい恐怖にどれ程の人々がその地から逃げだしたのだろうか?原子炉の破壊という『解からない恐怖』にその後我々は何もなかったよう恐怖に慣れてしまっている。新しい住宅地は液状化現象で傾き、コンビナートのタンクに火がつき、火の海という言葉を知った。

都会の街から明かりは消え、CMが一切流れないテレビは悲惨な現場を映し、涙を流す被災者をよそに食料品・日用品を買い漁る人々が現実であった。放射能に汚染された空気で飲み水が消え、明日は我が身と乾電池が消えた。

『3:11』からひと月程は誰しも生きてる自分が何処か非現実的で心の中に言葉に出してはいけない恐怖に怯えたものだった。二万数千人が亡くなった事も自治体は数字だけを述べているだけで、そんなことより今生きてる自分の恐怖を解決することが先決だと謂わんばかりだった。

『3:11』あれから9年、今年の追悼式典はコロナウイルス禍で中止となり、その式典も来年が最後と聞いている。歳月とはそういうものかと思わざるを得ない。


連日のウイルス関連報動に接していると、災難の強度と規模は『3:11』に及ばないとは言え、不安と疑心暗鬼そして恐怖の蔓延に慄(おののい)いている状態でもある。

宰相は『私の責任において…』と、いや責任などは何の意味を持つものでもなく、況して根拠も担保も持たない。ただ事に当たるのは『私の義務は…』なのであって。不安の今は為政者、行政者、医療関係者、医療研究者、そして国民各自が
信頼と責務の内に耐えること意外になす術はないのだろう。


      

人口の密度、換気、マスク、手の消毒など言われている限りを気にしながら旅に出た。それは観光地などの閑散としたニュースを目にしての私なりの平常でもあった。本来ならば奈良東大寺修二会の予定を高速バス移動を避けての旅でもある。


どんよりとして時折激しい雨脚も伊良湖に着く頃にはすっかり上がって、宿の大きな湯船に浸かる時には雲間から夕方の陽射しがけむる海を照らし、所々に小島が輝いて見えた。
翌朝は窓一面の海が小さな浪間に漁に勤しむ小船の群れが美しく飛び込んできた。何の意味もなく海を見るために来たのは私の常を確信するためでもあった。これで当分の間不安に慣れる、平常心を保つことができるだろう。




2020年 3 月 6  日 

「解からない」ことの不安


「解からない」ということから来る不安は「解からない」という者によって伝えられると、大きな不安いや恐怖となって拡大され無秩序に伝播されていく。

「解からない」ものが「解かる」ものになるには「解からない」ものの“経過”を同時並行して伝えられなければいけない。
「解からない」ものの時間的状態の断面(局面)を切り取っただけの伝え方には何の意味をも持たない。なお一層の恐怖となって変化し、「解からない」をあらぬ方向へと導くものである。

今日も『ーー市で新たなウイルス感染者が--名出ました』というメディア報動が虚しく耳に入ってくる。『これでーー県は合計ーー名です』と単に数字だけ言われてもそこに何を問題とせよ!というメッセージとは聞こえてこない。

事は重大で、誰も彼処も「事態の収束」を模索するばかり、ではその収束とはどういうことなのであろうか?「事態の収束」とは完璧な感染の征服だとしたら人は恐ろしい勘違いを起こしているというもの。

あのHIV(エイズ)も、SARS(重症急逝呼吸器症候群)も、インフルエンザさえ克服していない、その対処の仕方を知っただけであって、現在も毎年インフルエンザ感染は流行し感染者の数%は肺炎から死に到っている。我々はその恐怖から正体を知り対処療法を知って不安に慣れただけである。

連日のウイルス感染報動からは『感染=死』という恐怖を煽るだけで何の意味をも持たない。メディアも人々も挙って政府・行政に真実を知らせる責任があると言わんばかりに声高であるが、正体の解明に拠る対処方法意外にその数字等には何の意味ももたない。
まして連日見る行政関係者による感染者数の報告会見の画面から何を知れというのか…。それは理解を超えて恐怖を煽るだけの徒労であろう。

現在我々が知らなければいけない事、、知りたい事とは、どういう事から感染するか?そして感染したらどの様な経過(治療経過を含め)を経るのか?であってその数字ではない。




2020年 3 月  1 日 

人的感染


「解からない!」という不安が増殖して、何処からともなく恐怖の声として聞こえてくる。あの地震による原発事故にみられたと同じプロセスが今回のコロナウイルス感染でも繰り返されている。

ウイルスの正体やら治療法が分からないのなら対策は後手後手と場当たり的になるのは当然で、現状の情報不足から、いや情報が抑制されているのではという疑惑さえ出るものだ。これは当該政権の是までの行動・発言による不信からであろうが。

今回の疫病は高齢者と持病持ちでなければ致死率が高くもないというデータが出ており、感染者のその殆んどが軽症であると言いますし、同時に我々の日常的防衛策はうがい、手洗い、人混みの回避位とインフルエンザ並みで、今は当面「解からなさ」に耐え、可能な限り対策に専念する意外致しかたないだろう。

一番の問題はウイルス感染は個人だけでどうにかなるものではないにしろ、差別やパニック(マスクやトイレットペーパーの買占め(笑))に感染するほうが困る問題なのです。それは各自其々の覚悟次第で防げるというものですから。

単なる数字のマジックと言われるのを覚悟で記しますが、当該ウイルス感染はあれ程困難と言われたオリンピック開会式のチケット入手(購入)より断然低いという確率から、それ程慌てふためく事ほどもないのでは?と思われるのも不思議ではあるまい。

況して今年もインフルエンザや感冒悪化に伴う遠因による肺炎死亡者はかなりの数字が高いはずで、ウイルス感染関連の死亡者をオーバーしてるのは確実であろう。

本日の参議院予算委員会での質疑応答でも、野党の質問は相変わらず“大臣はその時何をしていたのか?”とか、“責任とは何を意味するのか?”などと…。『今』何をすべきかを問題提起するものでもなく、政治家の個人的問題ばかりあげつらって立法府としてのオリエンテーションの欠片さえ見えてこない。
敗戦国家後の教育の成れの果てなのか品位もないと、フェイスブックの何処かでみたこともあるような。

マスクを付けるというマナーを超えて、マスクを付けなければ乗車するな!、咳をするな!という事を世間が共有されたとなれば事は重大な問題で。
この差別や買い溜めに走るマスク不足は反復されて行くうちに共同化、共有化されて行くうちに、ついにそれが「現実」となって当然のように人々を扇動することになって表面化(実体化)するのである。

休日一日仕事疲れから開放されのんびりと過ごしていると、何と世間の街中は閑散としたもので政府の御達しがふらふらと出歩くでない!と言わんばかりなのだから、メディアから流れてくる映像に何処かオカシイ?



2020年 2 月 25 日 

世事が喧しい


寒山詩 103  『人の悪を攻めるを須いず』

人の悪を 攻むるを須(モチ)いず  己の善を 伐(ホコル)るを須いず。
   之を行なえば 則ち行なう可(ベ)く  之を巻けば 則ち巻く可し
      禄(ロク)厚くして 責めの大なるを憂(ウレ)い  言深くして 交の浅きを慮(オモンバカル)
         玆(コレ)を聞きて 若(モ)し玆を念(オモ)わば  小児も当(マサ)に 自から見るべし。

 【人の悪はとがめ立てすべきではないし、自分の善は自慢すべきではない。行動する時は堂々と行動するが良い、引退 する時は堂々と引退するが良い。
 俸禄を多く貰う時は責任も重大であることを心に留めるべきであり、懇(ねんご)ろに話をする時は友人との交際が浅いこ とを考えるべきである。
 これらの戒めを聞き、心に留めてよく考えるならば無知なる子供でも自分で理解するであろう。】


近年の社会や国会の出来事を思うに、堪らなく遣る瀬無い想いに陥るのは私だけではないだろう…。相変わらずな国会の質問や答弁にとてもじゃないが正視できるものではなく、社会的問題にしても貨幣だけが価値あるものとの錯覚がおこす事件や出来事が多すぎる感がある。


今に至ってウイルス感染問題がSNS、メディアと共になって事の真理をはずれ、、船頭多くして何やらで、誰が!と責任転嫁の渦中となってる始末、人権の問題で…と瀬戸際政策も上手の手から漏れるが如くとなっている。

考えてもみれば、一昨年辺りらの豚コレラ蔓延の問題時には一頭でもコレラ発症なら数千頭と謂えど安楽死埋設処分した人間のご都合主義にお天道様は我々を懲らしめているのではと思うほど。
何も知らない豚が「キィー」「キィー」啼きながら殺され埋められていく現場を知っているのは生産者と一部の人間だけで、我々は命には全く無関心だったのだから。

文明の利器といわれるインターネットでさえ、数百円のマスクが数万円ととんでもないことに!何処に文明とか文化を担うと思えるか?所詮は人間のご都合主義のツールでしかない部分が露呈している(私もこうしてPSを利用してるが…)。



そんな世事も忘れるべく、天気がよくて暖かさに誘われるように、海を見ながら魚でも食べようと車を走らせてみた。いつも行く店とは違って友人が勧める店に行ったのだが、予想に違わぬ料理が美味しく食も進み、久方の大きなエビフライには至福であった。
お腹もいっぱいになり、海を見ながらの午睡は非日常で本当に心地よいものだ。




2020年 2 月 17 日 

高級ホテル?


此のところ大津に宿を取る時には市内一二を競う、それも有名といわれる大きなホテルにしている。又、昨年などは俗にいう高級と知られているホテルを度々利用することもあって、友人から「君らしくない?」とも言われる始末だ。
何を隠そう私は彼等の思うほどの高額な料金を支払って宿泊はしていないし、彼等の思うほど高級ホテルとも考えていない。


それは言葉という妄想のメカニズムからくるもの。では言葉の意味とは何であるか?

対象ではなく、対象との関係の仕方である。例えば、机は我々が机として使う、そういう関係の仕方を意味している。であるにもかかわらず、それを「机」と名付け、その関係の仕方「意味」が他人と共有され、そう教育されると、あるものが最初から「机」にみえる。結果「机がある」ことになる。もう立派な妄想のメカニズムとなってしまっている。(踏み台として使う関係であれば机ではないのだ)

先日、大津Pホテルのスイーツルームを利用したのだが、料金は少し上等なビジネスホテルの料金と変らぬ程であった。地上33階からの眺めは高所恐怖症の私も忘れるくらいで、リビングルームにベッドルーム、そして広いバスルームの其々から琵琶湖や市内が眺められてのんびりとした時間を楽しむことができた。

そんなホテルも利用の仕方次第では高級でもなく単なるホテルでしかないのだ。季節的にも閑散期の平日利用ではプランの中での特別な割安があるもので、近年私のようなシニアの方々が結構旅を謳歌されているようだ。
昨年暮れには伊良湖Bホテルではベストポジションな部屋の窓からは白い灯台と大きく広がる砂浜、そして太平洋が一望であった。それに加えて、夕食と朝食には贅沢なほどのブッフェで少々食べ過ぎであったのだが、料金は少し高級なビジネスホテルほどであった。

高級ホテルと謂われているものの、その利用(関係)の仕方次第では単なるホテルであって、利用の仕方が共有されなければ普通のホテルとなるものだ。友人に羨ましがられることもないほど、私は普通の料金で旅を楽しんでいる。



2020年 2 月 10 日 

琵琶湖へ


高速道路網もすっかり状況が一変して、私の若い頃には想像もできないほど各地を網羅されてきている。この地にも東海環状道として三県をぐるっと環状する総延長200㌔の高速道が出来ようとしているが、過日一部を走ることにした。

私の好きな近江へと行くには北は関が原を通るR21号線、養老山系横断の鞍掛峠超えする多賀線、竜ケ岳石榑(いしぐれ)トンネルを通過する八風街道、鎌ケ岳を超え野洲川沿いに県道477号、そして有名な鈴鹿峠を越える国道一号線、そして一号線鈴鹿峠から甲賀へと回る鹿深の道(万葉の道)、加えて近代は高速道路が名神と新名神が南北に走っている。


       


今回東海環状道部分開通の四日市JCから大安ICまで高速道を使い、多賀線冬季未開通でしたので仕方なく関が原へ回り21号線を使って彦根へと向かいのんびりと琵琶湖を眺める旅を愉しんだ。

大安ICを降りると員弁川に沿って365号線、306号線は走り、阿下喜(あげき)から藤原へと向かうに連れて正面に冠雪した息吹山が近づいてくるのが嬉しい。途中山中の御蕎麦屋さんで昼食し、お洒落なカフェでコーヒーなど頂きながら時間を楽しみながらドライブするのが醍醐味でもあった。

例年この季節、辺りには除雪された残雪が道路のあちらこちらに取り残されているものだが、今年はこの暖かさなのだろうその形跡さえない。この日は立春を過ぎて暦の上では春がやって来ているものの。

米原へと入れば空気は一変し?清々しい心持ちにさせてくれるのが私には不思議である。伊吹山を源とする天野川は古代史の匂いを残す息長(おきなが)川と名を変え朝妻湊からこの雄大な琵琶湖へと流れ込む。鍋冠祭の奇祭で有名な筑摩神社の手前で私は琵琶湖を見ることになるが、この感動は幾度となく経験した私もその都度ごとに喜びが湧き上がってくるのが分かる

湖畔に立つホテルの窓からは眼下に優しい湖面と近くに八景島が見えて、彦根城から荒神山、長命寺山、対岸には比良山系の山なみが眺められる。

翌朝空模様がおかしい!朝食を頂くころには何やらふわふわと落ちているのが見える。大したこともないんだが私にはこの冬初の雪でもあった。まったりと舞い落ちる雪を眺めながら私は又朝食ブッフェを食べ過ぎてしまった。




2020年 2 月 2 日 

楽しい一日


体調がやっと戻ってきたという時に、深夜トイレにいく途中冷蔵庫の角に肩をぶつけてしまった!当日は何ともなかったのが日に日に痛みが出て四日目には全く動かすことができなくなりむくみさえ出てくる始末。一晩痛みに眠ることもできず、翌朝早々に医者に駆け込むことになってしまった。

レントゲン検査、触診やら問診で結果、打撲による何とか炎症と云う事で強力な?注射であった。この世と思えぬ痛みで悶絶寸前!医者の『我慢してください、痛みが取れますから…』の言葉に片方の手で膝を握りしめ一分間を耐えた。

治療後、先ほど脱いだシャツのボタンがすらすらできる!数十分前あれ程痛さをこらえてボタンをはずしたのに。帰宅する頃には少々の痛みはあるものの、充分に生活領域の動きが可能となっていた。現代医療の凄さというか?怪我が軽度であったのであろうか?

友人との約束前日に間に合ってよかった、良いことは重なるもので友人二人が同行できるようになり仲間四人で新年になっての食事を海を見ながらできることになった。正月以来H女史が体調を崩しその快復を祝ってもあってのことで、冬とも思えぬ気候の海辺の料理屋さんでは美味しい魚料理を味わうことができた。
昼下がりの眩しい陽射しはまるで春の海のようにキラキラと輝き、誰かともなく「終日(ひねもす)のたりのたりかな」などともらしている、そんなゆったりとした時間を愉しんでいた。


私のよく行く知多の海の良さを仲間と共有したいと常々思っている。この仲間は七人居るのだがなかなか一同一緒にはゆかず、互いにこの歳?ともなると体調面やら世の柵(しがらみ)により共に行動できないのが残念でもあるが。

それでも私はこの仲間のための車を持っている、たいした車でもないのだがメンバー全員が一同に乗れ楽しく過ごすことができる迷車?でもあるのだ。

今日もO君がハンドルを握ってくれ、この仲間の気遣いにいつも有り難く思っている。




2020年 1 月 27 日 

法要という弔い


温厚でモノの道理を得た人柄が誰にも好かれ、公私にわたって大変お世話になった義兄の七回忌が日曜日執り行われた。身内だけの簡素な法要に好感がもてるのだった。

弔いという行為によって我々は死者に会うことになる。死者と会うことが弔いという儀式なのであって、死者との関係は自己の存在がある限り続くのです。

人間は死ぬと死体・遺体・死者を経るものです。例えば大事故など起きると「死者123名」とでますがこの時の死者は「死体」のことで、123という数字に意味があって数えられるというモノなのです。
しかし、知っている死体はモノではなくなり私にとってのAさんとなり、生者の人間関係に引き戻され人格を持つ死体となるのです、それが「遺体」というのです。葬儀など死体ではできなくて遺体に対して、生者と死者の関係する事実関係なのであって死後の問題ではないのです。

然しながら死体・遺体は放置すればモノとして失われます、まさに弔いという行為(葬儀)をするその時、立ち上がってくるのが「死者」なのです。Aさんが死んだということを確定することで「死者」を立ち上げAさんをめぐる生者との人間関係の中に再び位置づけることが葬儀の眼目であり、Aさんが生きている時とは違う別の関係を結び直すことが弔いなのです。

世界に数ある死者葬送儀礼やそのアイディアは死者との関係を結びなおす便法なのであり、死が原理的に不可知である以上、生者がAさんの死を丸飲みするには「死者」の実在を前提にこのような便法で物語を作るしかないのです。
詳細はHPコラムⅡ『葬儀の意味』をご覧ください。


私の幼い頃には必ずと言っていいほどこの時期田畑の水場や小さな池などは凍っていて、通学途中の楽しい遊びが氷を割り出しての氷蹴りでもあった。
この冬は未だ凍った水場も見ていないし、小雪すら降っていない!。北の国々も同様らしく冬のイベントやらスキー場など困窮してみえるのだ。反して雪国のお年よりは雪のない楽チンな生活を喜んでもみえるのも訝しく思うこの頃。

テレビの気象予報では近く寒気の流れ込みがあるらしくいよいよ冬将軍の到来らしい。それにしても老体には冬に変わりなく、暖かいといえど反応的に寒さを感じそれこそ風邪を戴かないように注意する毎日でもある。
もう来月二十日過ぎる頃には奈良二月堂の修二会の別火である、今年も二月堂下へ行き十一面観音悔過法要を目の当りにする予定である。
昨年はそぼ降る雨の中を二時間待ってしても初めての儀式に感動したものだった。


2020年 1 月 20 日 

三橋節子『花折峠』


京の都から若狭へ通じる道、滋賀県境に近い途中町坊村を少しばかり旧道を進むと花折峠に出る。天台修験の葛川夏安居ではこの花折峠まで勝華寺世話役宮垣善兵衛氏が送り、葛川から迎えに来た葛野常喜・常満氏へと樒(しきみ)を渡して案内する場所として知られる。

この地域には志古淵(しこぶち)という神を祀る風習が古くから存在しているし、また、近江琵琶湖周辺には古来より語り伝わった民話が数々あるという。

夭折の画家三橋節子の百号という大作『花折峠』は大津の背後にある小高い長等山公園の中、現在は三橋節子美術館に展示されていた。不幸にも病に冒され懸命に描き続けた筆からは哀切な色合いを感じざるを得ない。迫まりくる別離の時を思いつつ、残される家族、愛する子供への思いとしてキャンバスに投げかけた血潮ではないだろうか?

白色、肌色、群青とペインティングナイフで重ね塗りされた上にナイーブな曲線と細かな花々、削り取られた川面の波が心をまず表しているだろう。近江昔話では二人の花売り娘がいて一人は評判良く花が売れた、それを妬んだ一人が帰り道にその娘を流れに突き落とした。すると岸辺の野草がみんな折れて娘の命が救われたという。


眼を閉じた若い女性が一人川面を流れていく、岸には彼女を救おうととして折れてしまったたくさんの草花、対岸には一人の女性がこちらを見ている。彼女が民話を元に描いているとすれば流されゆく女性こそ彼女自身ではないだろうか。
群青の川はまさに黄泉の国へと続く時間であり、対岸の白い道は生命の道であり一人立つ女性こそ我が子であろう。

何かが描かれている?、ふとこの『花折峠』の絵を立ててみる…。流れゆく時間の中、悲しみの淵からうっすら笑みを含んだ口もとに無邪気にも手を振る我が子の名前がもれているのか。

何時か訪れる惜別の思いをキャンバスに投げかけた母の姿ではないだろうか。優しいその眼差しと共にその手は永遠の別れに悲しく手を振っていた。 (スマホを横にするか、首をかしげると解かりますよ)



同じく、『三井の晩鐘』『余呉の天女』『鬼子母神』等々近江琵琶湖の歴史や自然をテーマとして描き続けた短くも悲しい画家の息吹が感じられるのだ。

連休を利用して大津への旅を楽しんできた。三橋節子美術館では静寂な時と死を目前にした人の悲しさを感じられて己の幸せを実感できていた。少し上がると近松寺へ出て眼下に大津の街並みが見渡せるのだ。琵琶湖を見ながらのんびりと過ごし、翌日は比叡山飯室谷長寿院の藤波阿闍梨へご挨拶にと向かった。


阿闍梨さんと話も弾み気が付けば一時間以上も貴重なお時間を戴いてしまった。私の病にも気を遣っていただき、誠に心落ち着く時間でもあるのです。
こうしてこの一年も又無事な年であるよう始まりました、誰にもあるように私にはこの飯室が心落ち着く場所なのです。

この冬は暖かい?のでしょうか、飯室でも雪のない年の初めだそうです。にしても、やはり飯室明王院の中は深々とした冷えでもありました。



2020年 1 月 13 日 

成人の日


成人の日である、調べてみると1948年というから昭和23年、実は私の生まれた年に1月15日と決められている。大人になったことを自覚し、自ら生き抜こうとする青年を祝い励ます日と法律にて定められたという。

2000年にハッピーマンデー法に基づき1月の第二月曜日に改定された。因みに以後この法律でスポーツの日、海の日、敬老の日が月曜日となっている。なんていうこともない、月曜日にもってくることにより土曜から月曜の三連休とし、余暇を過ごしてもらおうとのこと、だが歴史的経過によって定められた休日の威儀が薄れてきているのも否めないのではないだろうか?

国営放送が数十年一日の如く歴史ドラマを放送して偉ぶっている割には、歴史を蔑ろにしているのもおかしな事で、現代ではその意味や根拠など端からどうでもいい事で、全てが国民の利益とか営利が先のことであったりして…。


ここに道徳と倫理という問題が潜んでいるようにも感じます。
道徳は共同体の秩序維持に関わる行為規範であり、秩序に従う行為を善とし、背反する行為を悪と考えるます。対して倫理はその道徳の根拠を問うというものです。


共同体において「殺人はいけない」、「嘘はいけない」など道徳的判断について、何故そうするのかを問うのが倫理ですね。換言すれば道徳個々の内容の当否が問題なのではなく、内容の根拠を問題にするのです。
従って、倫理は「自己」という様式(スタイル)で存在する人間にとって根源的な問いを提起することになるのでしょう。




もう五十数年前での成人式でことほど考えなかったとしても、昨今報じられる地方の式場での惨状とまで想像もつかなかったし、何となく他己(他者)によっての自己とおぼろげに感じながら成人の日を迎えたものである。その根底に「こんなことをすると母が泣く」、「こんなことをすれば兄弟に恥ずかしい」というなんてことも無い根拠でもあったが。

この日も休日の昼下がり、のんびりと海を眺めながらポツンと非日常を楽しんでいた。



2020年 1 月 5 日 

年の初め


常にない新年の迎えでもあった。暮れから両親の墓参、部屋の掃除やらお節調理や雑煮、鍋料理と新年をじっくりと味わおうと食料の買い込みと老人には繁忙な日々の連続だ。名古屋へ帰郷する子やら、仕事で休みもままならない子たちを招いてののんびりとした新年でもある。

京都東山へ大谷租廟での両親墓参と比叡山飯室谷長寿院藤波源信阿闍梨への挨拶が私の常でもあったが、昨年来の体調不良や友人の訪問などもあって予定を少し延ばすことにして、一週間ほど束の間の休息である。

酒が不調法な私は正月や祭り事などでの会食が苦手でもある。若い頃に家を出たこともあって青春時代は毎年のように旅の空の下で正月を迎えるのが当然と歩き回っていた。家族をもった時も極力大人数でも会食は避けてきては、自分の好きな旅へと向かっていた。所謂、団塊世代の放蕩癖でもあるし、協調性の無さを露呈していた。

三が日を好天に恵まれた2020年の正月、相変わらずテレビのニュースは空港や駅、高速道路を映してはいるが何ち云っても東京オリンピックが半年もすれば開催され、こぞってナショナリズムが叫ばれることだろう。問題は終了後に出てくる戯言で、メディアも踵を返す如く戯言に振り回されることだろう。

一年通して健康で過ごしたいもので、健康であれば働くことができるわけで、働くことができれば念願の木喰上人の微笑仏を見に行くことができるわけで、山梨までの旅を友人O君と計画できると言うものだ。


そんな時、友人達からの年賀状に慰撫の心が見え隠れする。O君の賀状には
      『幸せな人とは寝るとき次の朝起きることを楽しみにしている人。』
      『どこへ行くかより、誰と行くか。何を食べるかより、誰と食べるか。』  こんな文節が…

常から、当たり前の日常を!当たり前の幸せを!と当たり前の人生を過ごしている彼の過ごし方に敬服している。



2020年 1 月   元旦

行為とは言葉である


謹んで新年のお祝辞を申し上げます。
本年も宜しくお願い申し上げます、と共に貴家のご多幸を祈念しております。

 万葉集巻五、梅歌の歌序文より。…初春の月にして気淑く風らぐ…から『令和』との新元号が採られました。何事をするにも良く心地よい、そんな意味でしょう平和な時代になるといいですね。

 

桜田へ 鶴(たづ)鳴き渡る 年魚市潟(あゆちがた) 潮干にけらし 鶴鳴き渡る    巻3 0271

年魚市潟(あゆちがた) 潮干にけらし 知多の海に 朝漕ぐ舟も 沖による見ゆ   巻7 1163

万葉の世、熱田の杜より瑞穂、知多東海へかけて白砂青松の渚であったようで、遠浅の海は豊かな漁がなされており、万葉集にも詠われて年魚市潟は名を愛知へと変え今に至るのです。

 

「行為とは言葉である」この一言のための一年はとても充実して早く過ぎたものです。

勉強する行為によって林檎箱が「机」となる。乗る行為によって林檎箱が「踏み台」となる。物を片付ける行為によって林檎箱が「玩具箱」となる。壊し燃やす行為によって林檎箱が「焚き木」となります。実は林檎箱という言葉の概念はありません。

雲一つない空と言いますが、それは空気の層だけなのです。鳩やカラスが飛ぶからこそ空なのです。雲が流れるから、雨が降るから空なのです。大木があるから空が見えるのです。

仏教では是らを縁起と言いますが、縁起とは関係から起きることで、行為から起きるのです。私達の人生は縁起から成り立っています。

本年も縁起を大切に生きていくことといたしましょう。



2019年 12 月 24 日 

孤独ということ


単に一人でいることだけでは孤独とはいえないでしょう。解かってほしいという思いがあって、それらを伝える相手がいない時、解かってくれる人がいないと感じる時、そこに孤独はある。

クリスマスイブであった!この数年そんなことも関係なくすっかり何の変哲もない日常でもあった。何時の頃だったか、イブを一人で過ごすのは孤独だなあ~なんて戯言を聞いたことがあるが、そんなことをふっと思った。

しかし世の中には、もはや他人に伝えたくても伝えようの無い、隔絶した孤独がある。死を前にした人間の孤独こそ其れではないか。死そのものが何であるか原理的に解からない以上、其れを伝えることも原理的にできない。死を前にして自己と呼ばれる実存は完全な単独者となるのであり、その孤独は誰とも共有できない。

仏教は解からない死を解かる物語にはしない(実際には浄土思想などはそれであろう)、解からないままそれを受容することを仏教は求めている。と、ここまでは解かる。

この孤独を自ら切開し、それまでの自己の実存の仕方を変更することで、その求めに応じなければならない。そのプロセスが「修行」である、と南直哉禅師は言う。だからその修行というプロセスを踏まない私には永遠に孤独を理解できない。
人生をやり直せないことにひどく深いやり処の無い孤独な悲しみを感じる。

この一年は体調の変化に怯えた年でもあった。心臓病という持病はやんごとない恐怖に襲われるもので、急な発熱や発汗、不意に変化する胃の調子や虚脱感などが心臓へのダメージかと錯覚させるほど弱腰となる。それでも旅だけは続けて、好奇心に任せて近隣をふらついてはいたが。
いろいろと検査し投薬などを見直していたら、この数週間何となく体調の急変がなくなってきているのが嬉しい。


2019年 12 月 16 日 

二回目の東京オリンピック


復興五輪、温暖でアスリートに最適な気候などと言って招聘したオリンピックに何やら不手際が続くのは当然といえば当然のことで、近年の度をこしたスポーツ礼賛がどうもあるようでは?

健康増進という宣伝はいいが、何をどうするかは個人の選択で、何でもスポーツを持ち上げる必要はなく、「健全な身体に健全な精神が宿る」というのは世間を見渡せば世迷言だとすぐわかること、何でも「スポーツは素晴らしい」ということはそう思う人が思えばいいわけで、誰でも思うべき普遍的前提のように語るのは僭越な思い上がりではないか?

誰かが言っていたが、「勇気を与えてもらった」「勇気を与えたい」など、その程度のやり取り可能な「勇気」はおよそ無くても大丈夫であろう。復興など生活への勇気ならば現場のボランティアの方々や被災地への投資であろう。

スポーツの根本には「闘争」があり、過度の礼賛は挙句闘争と闘争精神、そのシステム肯定、強化に通じるもの。そこへもってコマーシャリズムが参入すれば、利害損得が根本の闘争が刺激、加速して、いずれ個人と社会を蝕んでいくのでは必須でしょう?それがドーピング問題、体罰やハラスメント問題がそうであろう。

テレビニュースでは必ずと言っていいほどスポーツコーナーがあり、新聞では国際面よりスポーツ欄が多く取ってあるのはどう考えてもおかしい!メディアの言うグローバル時代とは一体なんだろう?見識に欠けるというか、所詮見識よりも売り上げが問題なのでしょう。

同好の士が集まってすることなら結構だが、国家や自治体の資金を大々的に費やして入れ込むようなことではない。所詮は運動会に過ぎぬ興行でナショナリズムを煽り煽られるなど子供じみているうえ、時代錯誤ではないだろうか?復興という作業の現実を直視すれば今更ながらわかることですがね。
オリンピックを数ヶ月後にして冷静に考えてみたらとんでもないことに気が付いた次第!

仕事後車で帰宅途中、街の大通りを走ると街路樹のあちこちに美しく?輝くイルミネーションが年末を感じさせます。数十年前の酔っ払いのお父さん達が歩くのは見ないまでも、二週間後とせまった新年まで何処か騒然とするのでしょう。

この一年はいろいろと考えさせられた一年でもあった。と共に旅の中で静かに考えることができた一年でもあった。
そして道元に始まって道元に終わる一年でもあったようで、読みふけった書が本棚で静かに休んでいる。


2019年 12 月 9 日 

行為に因って


私には珍しく中国人の友人がいる。海外旅行もしたことがないというのは今時珍しいのだろうが、閉所恐怖症、高所恐怖症からくる乗り物が嫌なのである。だから興味もない外国の友人など思いも付かなかったのが本音。

私の息子より若い彼が近年近江の湖南市で働いている。同じく友人の女子と結婚し先日一児を授かっている。そんな夫婦に過日会ったのだが、何分知らない土地での新しい生活に何かと寂しさを抱いていた。そんなこともあって近江へ旅する時には喩え10分でも顔を見せるように思っている。

彼に会っていつも思うことが「目上の人への思いやり」ということだ。祖国中国大連では親元から離れ祖父に育てられたということもあってか?年配者へのへの思いやりが人一倍強い傾向があるというもの。そんな強い思いやりは彼の優しさの表現であり、彼の人間性でもあり,其れが彼の自己なのだ。。

国と国の付き合い、所謂外交という点では兎角いろいろと問題を抱えているのが実情である。しかしながら実際個人的レベルでは問題なく有意義に付き合っている方もたくさんおられるのが現実であろう。

禅では行為は言葉でもある!と考える。「行為」に因って「空の林檎箱」が「机」になる「行為」に因って「空の林檎箱」が「踏み台」になる「行為」に因って「空の林檎箱」が「おもちゃ箱」になる。常々南直哉禅師はこのように教える。

穏やかな師走の休日、そんな彼の顔を見ようと出かけてはついでに?琵琶湖畔のホテルでのんびり過ごそうと思い立つが早いか早朝より出かけた。仕事最中の彼にはそれこそ数十分しか会っていないがそれもいい!顔だけでも見れば其れでもいい!それでも言葉がかわせられたということだ。

近江への旅はそれこそ大人の道草で、名もない寺へ寄り、不思議な社に迷っては、美しい景色に呆然と見入り、のんびりと河原で遊び、湖畔の石に座る。空を見て、大木に触り、水の流れに思い、座る石に存在す。これが誠に都合がいい!

ホテルの窓から俯瞰するのは雄大な琵琶湖と美しい近江の平野と山並である。本来の目的比叡山飯室谷長寿院への参詣がまたしても延期となったのは誠に申し訳なく、残念でもあるが…。



2019年 12 月 3 日 

ストレス??


師走に入ってつくづく時の速さに驚くものだ!そんな日曜日、幸い気候もよく少しばかり暖かさをも感じる昼下がり、仲間のHさん、Nさんを誘って勤め先の会社が経営する高級焼肉店のランチと洒落込んだ!
この日は幸いと体調もよく、幾分食欲もあって快調に高級な肉を貪っていて、仲間たちも喜んでくれ本年最後と楽しい時間を過ごして帰宅したものだった。

翌日どうも朝から食欲が全く出てこない…、この日はふた月ほど前から申し込み楽しみにしていた朝日カルチャーセンター講座『南直哉禅師の講義』の日であった。
人混みの市内中心街は私には凄いストレスで、それでもビルの一室に設えられた講義室は80人ばかりの人達である。

二時間ばかり講義は生憎と私には期待はずれで、修証一等とか自己は他己から造られる、又無常の意味などの禅師の声を聞きたかったものだが…。それでも殆んどの方がそんなことは関係なく、どうも禅師からの救済の言葉を聞きたかったらしく、和んだ雰囲気の中、時に笑い声や又鋭い言葉にハッとしそして涙に誘われ、禅師の言葉に安堵しながら聞き入っておられたものだ。

小林秀雄賞受賞の禅師著書『超越と実存』は「私がねらうのはゴーダマブッダに淵源する、私が最もユニークだと思う考え方が、その後の言説においてどの様に扱われ意味づけられ、或いは変質したかを見通すことである。無常という言葉の衝撃から道元禅師の『正法眼蔵』に出会い、果てに出家した自分の思想的遍歴を総括しようとするものである」とさえ言わせしめた。そして「諸行無常」すべてはここから始まったと。

講義が終わって、食堂街を歩いてみても何の食欲もわかない!昨夜からの不快感に苛まれどうも体調までおかしくなってくる。時間があるのでそのまま罹り付けの医院に賭け込むものの異常はなく、翌日の胃カメラによる判断をということになった。やたらと体重変化を聞く医師に良からぬ想いが駆け巡る。
この半年間、医師に「どうも調子がよくない!」と愚痴ばかり言って来たからなのだろか?

早朝からの胃カメラ検査は順調に済み、結果は癌細胞は検出せず、其れらしき部分も見当たらず、ピロル菌も検出せず問題はないとのこと、ただ胃壁には数箇所の傷があってストレスか神経症からくるものと判断され、兎に角胃薬を頂戴する羽目に!

この歳にもなれば多少のガタは来るもの!近年の急激な気象変動に老体がついていけない!加えてやたら元気をとサプリメントを呑み過ぎ身体が追いついていけない、と。
顧みればこのブログを見ると文章がやたらおかしい!否、偏見に傾いて来てるようでも思える。まぁそれでもこんなことも人生だと居直ってみるとあながち楽しくなるものと考えて行くとする。



2019年 11 月 25 日 

紅葉の秋


『 たちよらむ 木のもともなき つたの身は ときはながらに 秋ぞかなしき 』

三十六歌仙の凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)が我が身を憂いてうたった歌である。躬恒がようやく到った官位は七位であり、袍(ほう)は緑色、五位となれば朱色の袍が着れるのだった。秋の紅葉色の袍を着られる身分になれたらとの切ない願いが感じられる。因みに先日の天皇は黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)で赤みがかった茶色であった。

躬恒は歌人として宮中に召されても身分低きゆえ階(きざはし・殿の前の階段)の下に侍さねはならない。せめて殿上に侍せる五位になれたらとつねづね思っていたのだろう。
当時、紀貫之とならび称せされた歌人で『古今集』の選者にも任ぜられ、貫之につぐ六十首もの歌が載せられている。家系は定かではなく、身分の低さを歎いた説話などが残っているときく。

私の好きな歌仙であるが、これは現代にも謂えることで出家、学閥によって出世が決まる世に何処か似ているのかも?
躬恒は自らの歌才をよすがに貴人達の愛顧にすがり、また貴人達は宴の遊びに躬恒の歌を賞でて楽しんだのだ。躬恒は低い身分ゆえに人の心に添うことを心がけねばならなかったということである。


先日来三十六歌仙絵巻の書を楽しんでいたら偶然にも秋の紅葉を楽しむことができた。友人O君、Kちゃんを誘って休日のランチを楽しんでいたら、急遽祖父江のイチョウ黄葉祭りに行こうとのことで向かってみた。


名鉄尾西線祖父江山崎駅前から近在辺りはイチョウが一面に黄葉しており中でも祐専寺境内のイチョウは樹齢200年ほどというものらしく美しい姿を見せていた。近くには屋台がでて人だかりもたくさんで賑やかさが伝わってくる。

辺りを散策しながらイチョウの下をくぐりながらのんびりと歩いていると、そんな躬恒の歌が彷彿と思い出されるのだった。



折角O君と一緒だからと近くの禅寺“妙興寺”へと案内した。調度季節はいい頃で境内のもみじやイチョウは美しく色付いてゆっくりと秋を楽しむのに心和むものであった。季節を楽しむとはこうしたことであろう、明日はO君が栽培し持参してくれた大根を戴こう!ふろふき大根が寒くなり始めたこの季節に楽しみであるし、心と身体が温まることだろう。



2019年 11 月 18 日 

食べるということ


日中と朝晩の寒暖差が身体にボディーブローのように効いてくるのがわかる。本格的寒さの到来はまだまだで、冬至さえ一月も先なのに…。まぁ本格的な寒さになっちゃえば又話は変って体が勝手に身構えるよう判断するのだが、人間とはそうした動物の一種なのでもあるはず。
そんな動物の中でも、かの豚に負けぬ程の悪食でもある種だろうか、生きてるものの殆んどを採食するのでは…?


人間も食べるものがなければ生きていられない、腹が減った!という身体感覚では「美味い」「不味い」という心意識は別のものとなる。近年料理は文化だと言われている以上、食べることは心意識が関係しているはずだ。どんなに美味しいものであっても満腹では不味いし、飢えた時には何を食べても美味しいものだろうから。
嗜好という面からは料理は教育でもある訳で、大人には美味しいコーヒーも子供には美味いとは言いがたいだろう。


職業柄、私は毎日のように活きている魚貝類を殺したり新鮮な野菜類など調理している。大きな生簀があり、春にはカレイやメバル、蛤、夏には鱧や平目、岩牡蠣、秋になればカニ、アイナメ、クエ、冬ともなれば大きな天然フグと四季に応じて魚をさばいている。

一昨日には18㌔体調1m程の大きなクエを捌いたのであるが、それは
要は殺したということでもある。お客様はそれを喜んでくれるのだが、
数百gのステーキや新鮮なお刺身を前にして、目の前の生き物を殺した結果だとは誰も思わないで食しているのだろう。
仏教の世界では食事の前に経文を唱えますが、中でも“五観文”という経はこれらの問題に対して明快に答を出している。


道元の著作『赴粥飯法・ふしゅくはんぽう』における引用で我が国で広く知られるようになり、僧侶の食事作法の一つでもあるが道徳的普遍性の高い文章であるため禅に限らず多岐にわたって引用されている。

このようなことを頭の片隅において楽しく意義ある食事をしていただきますよう。



2019年 11 月 12 日 

『あなたらしい!…』


秋の伊良湖散策を計画していたが仲間の都合や風邪で延期となった。我々の年代ともなれば健康は殊のほか貴重なもので明日の体調さえ安心はできない!
小生もこの春頃から最近まで体調変化、体温変化に敏感となり、つれて食欲も出たり無くなったりと気の抜けない毎日でもあった。自律神経、視覚神経の異常ではと眼鏡を換えたり漢方薬を飲んだりと、結局医師には深夜の読書から来る神経過敏、異常興奮!と言われすっかり意気消沈する始末。

気心知る医師に『あなたらしい!…』と言われ、はた又考えてしまった。

「らしさ」はことごとく思い込みで、その思い込みがある程度の人数に共有されると一種の価値判断になって、時には人を圧迫するものだ。
「らしさ」問題は「自分らしく」とか「自分らしく生きる」というものであって、「自分は他人に由来する、“自分らしさ”は他人から作られる。だから“自分らしく”しようとすると、その実、他人の視線に支配されるようになる。つまりジレンマとなる。“らしさ”を欲望して苦しむことになりかねない。自分らしくは他人にそう認められて初めて“らしく”なる。例えば無人島で一人生きる人間に自分らしくは存在せず無意味でもある」

『あなたらしい!…』とは他者の見方であり、他者からの思いであり、それは自分のことではない、自分の問題でもない。


涼しさを通り越して、すっかり肌寒くなり北の山から秋の装いを見せるニュースがいっそうの寒さをおぼえる。先日読んだ永平広録には『千峰の秋色 時雨に染む 頑石の住山 あに風を逐わんや』という道元の美しい文章にであった。

あにはからず内には激しい道元の魂が見え隠れする、
「今この山寺から見渡すあたりの山々はしぐれ(修行)に濡れて、秋の紅葉(証悟)が眼に染み入るようだ。このような光景を眼にしておりながら、当山に住する不動の石である私がどうして名利の風に吹かれて、俗世間をうろつくなどとということがあるだろうか」

背筋がぞくっとするような意志の固さを美しい文章のなかに包む道元に今更のように引き込まれていく。娑婆に生きる我々も(修行)を仕事に、(証悟)を結果に置き換えれば自ずから道が続いていくようにも思える。
仏教とはこうしたことも教えてくれる。


2019年 11 月 5 日 

京都ぶらっり


朝晩になると寒さを感じ、すっかり秋の様相を見せている公園が日一日と寂しさを増してゆく。友人Hさんが『そうだ、京都へ行こう!』だなんてSNSで送って来るものだから、たまらず京都国立博物館へ向かうことにした。
万葉集、古今和歌集と変に首を突っ込んでしまったおかげなのか、『佐竹本三十六歌仙絵と王朝の美』という展覧会である。

予て思うに、京都という街は歴史あるものの実は常に新しいことに挑戦してきた風土を持つ変な街でもある。そんな意味でも、市内の美術館や博物館、そして現代の技術社会などで常に情報や歴史を発信してきているし、イベントなどをよく見聞きするのがいやぁ~実に羨ましい!
街中をぶらっと歩いていても何がしらの美術館や博物館、記念館、挙句庭園や神社仏閣等にしても林立しているのだ。


        


この月、少々変則的な休日でどうも調子が上がらなく、依る年波に抗えないと思いつつも新幹線に飛び乗った。つい先日参詣した繖(きぬがさ)山観音正寺の幡が小さく覗き見えるのも嬉しいのだが、近江平野を無礼に突っ切るこの乗り物には複雑な心持ちでもある。
世間は三連休と、京都という観光地は関係なく何時きても兎に角凄い人出でもあった。京博の三十六歌仙絵展もたくさんの人で盛況であったが、それでも二時間ばかりかけて数百年前の貴族文化に酔いしれるのだった。我が国の芸術文化にたいする感覚の奥行きにただただ感心するばかりで、文化の継承に敬服するものでもあった。

ゆっくり昼食をするのも忘れ博物館をあとにし、京都大仏跡地(豊国神社)横大和大路通りを上り河井寛次郎記念館へ向かった。この夏に愛知トリエンナーレの一環で瀬戸愛知陶磁博物館での彼の作品を見たばかりで興味津々でもあった。それ以上に陶工として生涯を貫き通した彼の住いや仕事場など環境にその生き様を見せ付けられて感激の一時でもあった。
ただ噂に聞いていた木喰仏には対面がかなわず残念でもあったが、係員の方が丁寧に応対してくださったので近日にも対処することにした。柳宗悦と意気投合されたこともあってだろう、調度の隅々まで大正、昭和初期の面影が残り重厚な歴史観を醸しだしていたし、彼の陶工としての生き様や鍛錬、勉強と感動ばかりでもあった。


此のところ正法眼蔵、永平広録といやいやむさ苦しい本ばかり読みふけっていたので、お土産に買った歌仙絵王朝の美の展覧会本が一ヶ月ほどは雅で優雅な気持にさせてくれることを望んでいる。




2019年 10 月 29 日 

道元の禅について


道元は 『名利を捨て、修行自体を重んじ、それに専念せよ』 と永平録に書いている。道元のいう証(悟)とは、修行によって得られるものではあるが、いわゆる因果関係ではなかったからである。

それは修(業)することを原因として、いつか時が経てば得られる結果なのではなく、修する時それがいつ、どこに於いてであれ自己の現前にある(現成する)世界を言うものであった。これは菩薩道の中で真剣に生きている限りたとえ何処で何を見ているにせよ、それは全て証の世界の現成だということである。

そして三祖大師の 『至道は難きことなし、ただ揀択(けんじゃく)を嫌う 』 と続けている。仏道を修業し証の世界に至ることはなにも難しいことではない、ただ自分の頭の中の理屈であれこれ考えて選り好みするのをやめろ、と。

修するものは証の世界しかみない、修するもの見るのは全て証の世界だ、ということで同義でもある。自己の心意識の中で証を探し求めてはならないと言っている。朝食べる食事を朝食という、朝には朝食しか食べない、との言い方と同じである。
修するものがみる世界を証という(証しか見えない)、だから修するものは、自己の現前にある世界をそのまま受け入れていけばいいと三祖は残している。


半世紀にしか満たない私の仕事も修業という観点からは同じようなも ので、拡大解釈すれば生きる!ことに徹する観点からも同じく、あれこ れ生きることに選り好みする(比較する)のをやめた時、生きることに専念した時、 それがいつ、どこであろうが現前しているのである。いや、道元にすれ ば現前しているはずである。

仕事だけに限らず、家庭をもち家族と生きる!遊んでいるとき、楽しん でいるとき、苦しんでいるとき、辛いとき、のんびりしたとき、忙しいとき、どんな時々も其々に必死で生きる!ことこそ私達の証なのではないか!
必死に生きることそれに意味などないし、考えることもない。生ききるこ とこそ証なのではないだろうか?

この日も知多小野浦の浜辺でそんなことを考えていた。


2019年 10 月 18 日 

見る! 観る!


人間の世界とは…、人間らしく行動するものの見る世界である!

我々があるものを何として見ているか(知っているか)?。それが何を意味しているかは心の中の思いによって決まるのではなく、我々がそれをどの様に用いるかによって決まるのだ。その行動が何を知っているかの規準である。この考え方は極めて重要な、人々にとって根源的な事実を物語っている。
ものを知るとは心の思いによってではなく、身をもってする行動(行為・縁起)によって知ると道元は語っている。

例えば、人間の世界にある食物は、それを私たちが食べrからこそ食物として理解されている。衣服は着るから衣服であり、本はそれを読むから本となる。でなければ、部屋のただの飾りか、或いはちり紙交換でだすゴミにしかならない。
紙幣があり、文字があり、道しるべがあり、法律があるというのも、みな我々がそれをそのようなものとして用いているからである。

ある人が心に何を知っているか、何を感じているか、つまりどの様な心を持っているかは、「行動をもって言う」ということになる。このような意味で、心と身体をもってする行動とは切り離すことはできない。心とは行動に示されるのであり、そこにしか存在しないのである。


この一年も道元の研究に精魂を傾けてきた。そこには見る!観る!について考えている自分がいた。
結果、どうも自律神経が狂ってきたらしい…か?  しかし生きる!ってことに徹している自分がいる。、



       

         琵琶湖 柳川緑地公園で                  渥美半島 伊良湖岬表浜で



       

          琵琶湖畔水茎 藤が崎龍神で               太平洋駿河湾 白須賀海岸で



       

          駿河湾 新居ビーチで                    伊勢湾 吹井ノ浦で


一歩下がってものを眺める、即ち観ることにした。

空を観る…、空とは我々人間が使う言語記号、ソ・ラでしかない。空の意義とか定義などそもそも存在しない。空気の層とでも言い様のないソ・ラだが私たちは、そこに空があると何故か当たり前のように言う。
何一つない真っ青なパステル画のような空気の層でしかないものが何故空足りえるのか?雲が流れる…、鳥が飛んでいる…、雨が降ってきた…、そうした行為によって(縁起・関係から起きる)空が現成していた。



2019年 10 月 7 日 

伊勢の国


『 神風の 伊勢の国にも あらましお  何しか来けむ 君も有らなくに 』
        伊勢の国斎宮に居れば良かったのに、何故都に来てしまったであろう。もはや、君は亡くなっていないのに。

大津皇子が死を賜ったとき、その后山辺皇女は狂乱し髪を振り乱して素足のまま駆けつけ、夫の遺骸の傍らで自害する。大来皇女に対する山辺皇女の死を賭けた女の壮絶な意地であったのだろうか?

斎宮解任後、都へ帰った大来皇女は命を捨ててまで弟を逃がさなかったのだろうかという悔恨、山辺皇女は命を捨てて弟を私から奪い取ってしまった絶望、そんな思いに苛まれ続ける日々であったのだろう。

『 我が背子を 大和へ遣ると さ夜更けて 暁露に 我が立ち濡れし 』
        わが弟君が大和へ帰ろうとして、夜がふけて出発したのを見送って、夜明けの露に濡れてしまいました。

                                                   万葉集から  巻 0105



現代文化と謂う土足のまま伊勢の国に入るようなことは極力避けている。古代の文化に憧憬をもっているなら尚更で、伊勢の国は今の私にとって大切な場所でもある。
高速道路で網羅されている我が国も、出来る限り一般道を走るよう心がけてはいて、それは是まで気が付かなかった場所など発見の道程でもあるからだ。

名古屋から久居まで高速道路を使ったが、さすが下道をと国道23号線へと車を向ける。途中、大淀東黒部松阪線という味気のない名前の村道を走ることにした。所々に昔の名残をみせる細道であるが古代斎宮一行が輿を担って伊勢に向かった道であろう雰囲気が感じられる。


年に数回だが、私は伊勢の国へと足を踏み入れる。踏み入れる都度に新しい発見や出来事に遭遇するから不思議だ。

今回も奈良吉野を背にする杉谷を単に発する櫛田川の砂州である吹井ノ浦へでて伊勢湾をのんびりと眺める時間がことのほか嬉しい。

帰途、すぐ近くの雲出川下流に出来た三角州の香良洲海岸では寄せる波に時を忘れ、切り取った歴史の一ページを想いながら人間のもつ悲しさや憂いを考えてもみた。

常宿の七階からは二見が浦が見下ろされ、松林がつづく浜辺が美しい絵となっている。夜ともなると漁火がキラキラと輝き、対岸の明かりが小さな点描を見せていた。数十年前の情景はないものの未だ古い旅館のよすがは残っており、ひっそり佇む夜道を歩きながら時代の波に悲しいものを観る。


都市から観光地へと直行する観光だけはしたくない、土地其々に歴史があり、その歴史を観ながら感じながら通り過ぎるのが私の観光でもあるのだから。

それにしても歳を感じない訳けにはいかない!のんびりとした旅ではあるが疲れて今夜は早く寝ることにしよう。



2019年 9 月 30 日 

芸術とは


空が澄みきって爽やかなこの季節、スポーツの秋やら食欲の秋、そして芸術の秋やらと「・・・の秋」と謂われてきた。
それにしても愛知県は例の愛知トリエンナーレの展示再開、ペンクラブから検閲だと裁判に、結局国の補助金八千万程の拠出がされなくなった模様といやいや何かと喧しい。


「優れたものが芸術」として問われるのだとしたら、芸術にその「術」が伴っていなくてはならないし、そしてその術を表現する行為や場所がなくてはならない。
「術」とは、当人が鍛錬し習熟し貯えてこそ当人に身につくものであろう。結果的にそれを表現として外部に出すこともまた別な能力としてなくてはならない。例えば、いくらお金を持ったとしても、意味あるつかう能力がなければただ持っているだけであり、要はそれらを活用するということである。

職人との相違として、芸術をもつことは同時に表現がなくてはならない。そして表現には活力がなけねばならない。この活力がないと、それを観るものに迫る力を欠く。ややもすれば「術」が技巧に堕ちれば迫る力を失って兎角その「術」が遊びに見えるものだ。

文化庁のHPを拝見すると、芸術文化は人々に感動や生きる喜びをもたらして、人生を豊かにするものであると同時に、社会全体を活性化する上で大きな力となるものであり、その果たす役割は極めて重要であると締めくくっている。

今回トリエンナーレ事務局は、政治・ジャーナリズムとアートの融合という先端領域に挑戦したと評価している。従って政治的テーマだから県立や市立のの施設を会場としたいという芸術監督や不自由展実行委員会のこだわりは公立施設が想定する使用目的から逸脱しているし、広く県民が楽しめるというトリエンナーレの性格に照らし合わせば疑義がある。

ボーダーレスの時代といえ、芸術のためなら表現の自由として何処でも表現できるとは文化を知らない知識人であろう。
戦後民主主義教育の自由と規律の弊害問題がここにも噴出していた。

悪く言えば人のふんどしで相撲を取ろうなんてケチな思量で展覧会をするより、自分のお金と場所で表現すればいいことでもある。そういう意味では我が国は自由主義的国家だから。

先般私が行った愛知陶磁博物館での河井寛次郎展も実は愛知トリエンナーレの一環である。



2019年 9 月 24 日 

秋の夜、ちょっと考えてみた


秋の風が時折ふっと通り過ぎていく…。朝晩の過ごし易さはやはり「暑さ寒さも彼岸まで」なんであろう。この夏フル回転のクーラーもすっかりその存在はなく、時々扇風機に替わっている。


オンオフのスイッチよろしく相変わらず小さな旅を楽しんでいる。二時間ばかり車を走らせれば愛知県渥美半島の伊良湖へはたどり着くのだ。いつものホテルでは刻々と過ぎてゆく景色にピクリとも動かず見入ってしまった。眼下に三河湾を遠くに伊良湖水道と、そしてその向こうには遠州灘から太平洋と続いてとても眺望がいい。


夕食は格安なプランらしくバイキングであるが、いやぁ~実に豪華でコスパのいいホテルでもある。食後はホテル前の浜を歩いて波の音を楽しむのもこの季節とてもいい気分で、温泉に入って身体を休める!この日は部屋から小さく島の明かりや知多半島の明かりまでもが見えていた。ボーっとそんな景色を見てるのが私は好きである。




人間の感情において、喜びや悲しみは初めから人の間で生じるのが通常である。その感情は当事者一人で完結しない。何故なら喜びや悲しみ嬉しさ等はその根底に他者による肯定や承認があり、それを条件に成立する感情であるからだ。
誰からも「良かったね」「頑張ったね」「素晴らしいね」「面白いね」と言われない行為を、私たちは喜んだり、楽しんだりすることはできない。
100点のテストを誰からも褒められず、誰にも評価されなくて誰が一人で喜べるだろうか。

対して、苦しみや悩み、痛み等は通常当事者一人の問題に感じられる。「経験したことのない人には言っても解からないよ」という言い方が、苦痛や苦悩については多用されても、喜びや楽しみについてなされることは殆んどない。
苦痛や苦悩について、「足を踏まれた者の痛みは踏まれた者にしかわからない」などとしばしば人は言う。

しかし実際には、それらも当然他者に媒介されていて、痛みを「痛い」として感じるには他者から「痛かったね」という言葉と共に共感や同情の態度を示され、それが「痛み」であると教育されねばならない。だが、我々はその事実をほとんど自覚することはない。

しかも、苦痛や苦悩が我々個々の事情や境遇を超えた、実存そのものの「苦」(何故生きるのか、何故死ぬのか、自己とは何か)の問題になると、それが日常に露出することは多くない。
しかし多くはないが、日常の中でこの「苦」を自覚する者はいる。もし日常が破綻すれば(大病・失業・離婚・死別・被災などの大きな衝撃)、大抵の者は自覚することになろう。

この時、自己の実存そのものの深みにおいて「苦」を発見するとき、それが仏教の問題となるだろう。


こんな南直哉禅師の言葉をつらつら考えながら、深夜一人で静かな夜を楽しんでいた。



2019年 9 月 16  日 

頑張ってください


先週の関東房総半島を襲った台風被害がこの一週間何と喧しいことか!ことは想定外規模の台風だったということからライフライン停止という生活困窮から次々と出てくる被災者たちの声が、いやはや言葉のはしはしに「被災した私達をどうしてくれる」という自分本位なものばかりで、想定内など自然に対して不遜であって冒涜であろう。

そこに住むという事が自分の本位であったはずなのに、そこに住むことが自然であったはずなのに、そこに住んでていたことに責任をとってほしいとは?何か自然が成したことに責任の擦り付け合いをしているようにしか思えて仕方がない。

相変わらずテレビでは、屋根がどうの、室内が水浸しだとか、電気水道が何日も来ていませんと、さも哀れむように報道しているだけで、結果的にライン快復が遅いとか、電力会社が県庁まで行って頭を下げる映像なんか見たくもない!
端から、家を崩壊された自分達がいかに大変な台風だったかを思い知っているだろうに、現場で一生懸命励んでいる電力会社や水道会社の人々に罵声を浴びせるとは品位の欠片をも感じない。

思い起こせば、あの東北津波に遭われた方々など生命や想い出まで生きる力の全てを無くされた方々を思い遣れば、二週間の不便など…。そういう意味では都会人はやたらと自然を賛美しておいて、そのしっぺ返しをもらうと罵詈雑言で責任転嫁甚だしいのは如何と思う。電気一つでこうも生活に困るという、そういう過ごし方をしておいて。

こんな事を言っている今、ライフライン快復に向け必死に働いている方々を思うと胸が熱くなる。電気が当たり前のように来ている、それが止るという行為において私達の今が現成し、私達の生活が現成しているのだ。

全国から派遣されている電力会社の施設設置に従事している方々にも家庭があり、その家庭ではお父さんがいない!のだ。懸命に働いているお父さんを無視されているのが私には府に落ちない!
先日まで「ヘイ、グーグル!カーテンを開けて!」、帰宅すると掃除ロボットが部屋を綺麗にしていてくれる、とテレビでやっていたんじゃないか!そんなことがいい生活だ、生活に潤いを与えるなんて言っていたのに!



私達の生きているこの社会では、情報の大半は知らないでもよいことか、知らないほうがいいことであろう。しかし、知らなければならないこと、知っておくべきことを見つけることは重要で困難なことです。是こそが『自立』ということと考えます。つまり自立には『智慧』がいるのです。

勝手なことを言って申し訳ありません、今こうして平穏に過ごせることに感謝しております。私にもいずれ災難がくるでしょう、その時に智慧がありますよう今生きているのです。


2019年 9 月 10  日 

近江の歴史と賛歌 


司馬遼太郎が『街道を行く』という長い歴史の第一歩を踏み出したのは「湖西のみち」であった。それは氏の永遠のテーマ「日本人とは何か」という問いからであったことが元となっている。近江・琵琶湖を旅すると日本人の祖形のような匂いがすると言う司馬氏が近江を旅したのはもう半世紀以上も前であり、この間に琵琶湖の湖畔も大きく変化した。


比叡山の山すそが緩やかに湖水へ流れでる遠景を見ながら、いかにも豊かであり、古代の人々が大集落を造る適地と感じながら私はホテルの窓から眺めていた。

紺碧とは違ってやや藍色がかった湖を窓一面に写し、やがて湖面に朝日があたってキラキラ輝き始めると、時計の針と連動するように真っ白な帆が穏やかな湖上を小さな群れをなして疾走していった。湖水の動きにつれて今日一日私も動くことにしよう。近江の旅の醍醐味を先ず味わうことに至福である。


ホテルの朝食ブッフェはまた大変なご馳走で、健康のバロメーターは上がりっぱなしで…、野洲川と寄り添うような三上山山麓から堤防道路をひたすら下り、美しい曲線を描くような湖畔道路は快適で、近江八幡長命寺山に向けて北上した。

この日も今夏からの暑さを引きずって老体には厳しいが、近江路を駆け抜けることが、いやぁ~実に楽しいのだ。昨日の紫香楽から朝宮、瀬田へと出る緑深い山道とは違い、この湖畔道の夏はすこぶる気持のいいものだ。

渡来系の古墳は湖西の地に千基以上存在するという、古くは湖南の地域を「楽浪(ささなみ)の志賀」と云って、滋賀郡は現在大津市と十派一絡げと味気ない。ササナミに楽浪という当て字を付けたのは特別な何か意味でもあるのだろう。朝鮮半島にも楽浪という地があり、楽浪古墳群は平壌の西南の丘陵地である。

この「楽浪の志賀」は古墳の宝庫で、古代この辺りを開拓して勢力を成していたのが半島からの渡来人であったことを思えば、それら全てが朝鮮式であるのも当然かもしれない。

湖岸を通る道は「さざなみ街道」と名付けられ、湖北から湖南までたくさんの車が走る。幾度となく通ったこのさざなみ街道は私の心と身体を癒してもくれるのだ。湖の反対側へと目をやれば、広大で肥沃な近江平野は未だ黄緑の豊かさを実らせながら、あの「叡山のあまり風」に波打っているのが私の時間を止めてしまう。

現代人が故に、こうして古代に心を馳せる旅ができることが喜びでもある。



2019年 9 月  2 日 

河井寛次郎展


仕事柄か、身内が東濃地方にいた関係なのか、又僅かばかりではあるが手にしたということもあって私は陶器に興味を持っている。しかし好きではあるが本質には程遠いもので、私の友人の中には信楽焼きにのめりこんでいる奴もいるし、常滑焼を集めて喜んでいる奴もいるほどで羨ましい。
彼らには及びもつかないが、焼き物の展覧会と聞けばむやみに走りたくなるのも私の性の一つでもあるのだが・・・。

仲間のH女史を誘って瀬戸の愛知県陶磁美術館をたずねた。丘陵地に築かれた美術館は想像を絶するもので数年前からこの一帯は山を切り拓き社会インフラが蔓延していて、近年の建築物には少々驚かされるが・・・。

少々言い古された言葉だが、芸術の秋となれば愛知トリエンナーレに参加した鐘渓窯(しょうけいよう)陶工・河井寛次郎展へと。この春に京都近代美術館にて開催された展覧会がそっくりこの地に来てるとなればこそ。京都五条の窯跡が河井寛次郎記念館として残こされており陶工としての姿を見ることができる。


明治後期近代日本を代表すると謂われる陶工・河井寛次郎はその作陶のこころを柳宗悦と一緒とし民藝運動に深く関わっていた。
予て私は柳宗悦が好きで彼の美術眼には優しさが溢れているのを覚えている。
木喰上人が造る微笑仏を堀りおこすことで知られるが、近代芸術日本を支えた一人であろうか。


河井寛次郎も初期には中国・朝鮮の名品を倣い科学的研究の成果を取り入れた超絶技巧の華やかな作品を発表しているが、後年その柳や浜田庄司、バーナード・リーチ・富本憲吉、黒田辰秋などと合流し、実用で簡素な造形に釉薬の技術を活かし美しい発色の器を作っている。以降彼は作家としての銘を作品に残していない。


文化勲章、人間国宝や芸術院会員など推挙されている彼は全て辞退し一人の陶工として作陶し、併せて彫刻やデザイン、書、詩、随筆と活動の場を広げている、そんなところは現代の芸術家とは精神のうえで違っている。。  



そんな彼の言葉に何かがあるはずだ。

『売るという事が始まってから物の乱れ、わかりもしない人の好みを相手に作る事から物の乱れ、先ず、自分の為に作らねばならない、自分を喜ばす物から作らねばならない、それからだ!それからだ!』

『この世は自分を探しに来たところ  この世は自分を見にきたところ』

『鳥が選んだ枝 枝が待っていた鳥』




2019年 8 月  26 日 

奥琵琶湖 葛篭尾(つづらお)の時間


眼前の景色を見て、この日はとりわけ美しいものであった。しかしこれも直ぐに過ぎ去っていくに違いない。過ぎ去っていくからこそ余計にこの瞬間が貴重であると思わずにいられなかった。私は透き通った奥琵琶湖の湖水を見ながら時の経過を楽しんでいた。

夏至から二月も過ぎると日はすっかり短くもなって夕方六時を過ぎると辺りが急に暗さを増してくる。奥琵琶湖葛篭尾半島菅浦は背後に山を抱くことから暗さは瞬間にやってくる。琵琶湖に美しい夕日を写しながら、見上げと空には流れる雲がもはや秋の装いであった。

ホテルのベランダから夜空を観ると普段の生活では味わうことのない景色が飛び込んでくる。「星がこんなにあったのか!」というのが本音で、久しぶりの感動でもあった。沖合いの竹生島が暗闇の中で少しばかり幻想的でもあるが。
目の前の湖畔道は閉店した土産物屋の明かりだけが浮き上がって、走る車もなく時間が止まっているようでもある、菅浦集落は半島の行き止まりでもあった。



        


朝ぼらけの中、葛篭尾崎(つづらおさき)の先端から少し離れて竹生島のうっすらとした島影を見ることができる。奥琵琶湖の朝もやには苦にする音すらなかった、時折だったが私には判らないが野鳥だろう?優しく鳥の声だけが聞こえてくる、そして今の私にはそうした静寂こそ体が飢えていた。
それも束の間、朝日が竹生島にあたる頃には裏の山からけたたましく蝉の鳴き声が夏の終わりを告げるように一斉にあわただしさをみせる。山が暖まる頃にはヒグラシが去り行く夏と訪れる秋を感じさせるように鳴いていた。


雑多な臭いと途切れない喧騒の坩堝から離れ、孤立した静寂での目覚めは灼熱の夏を乗り切った老体にはことのほか嬉しいものだ。心の冷却にも必要であったのだろう・・・、暖まればのびるし、傷つければしぼむ、人間も植物のようにそれ程強いものではないはずだ。

毎年この季節ともなると奥琵琶湖の空気に浸りたくなり切羽詰って出かける羽目となっている。昔は陸の孤島とも言われるほど世間との馴染みが感じられない村が存在していた。今は昔ほどではないにしろ世離れしている。
須賀神社境内後ろには淳仁天皇舟型陵(淡路廃帝)が祀られ、今でも村民は社へ参るときには鳥居下から石段を百数十mを素足で登るという。小さな港から湖族とも呼ばれた漁師たちが小船を操っては生活している。




2019年 8 月  19 日 

表現の自由


国際芸術祭「愛知トリエンナーレ2019」で、「表現の自由展・その後」の中止という問題をめぐって“表現の自由”という問題が議論になっている。

人は人間外部である社会的構造という現実(人々との関係)の中で生きており、また人間の内部の問題(精神性)を宗教というものの中で生きているという二面性を認識して考えなければならない。

芸術とは人間内部の問題提起と感情受け入れという行為をいうのであって、一般の報動活動とは問題提起は同じであっても受け入れ方が違う。そこに表現の自由という言葉に踊っては芸術祭が空虚なものとなってしまう。それに主催者や知識人と思しき人達の検閲とまで言わせるのも芸術に似合わない。現に開催され表現されていたもので、何と言われようと堂々と展示し続ければいいことで、検閲とは展示されないことであったはず。展示から早々に撤去するとは展示側にも何かを言われるという前置きがあっての展示でしかありえず芸術の意思が見られない。

従軍慰安婦像、昭和天皇肖像写真を焼いている作品の何処に芸術性があるのだろう?慰安婦にしても事実かどうかも危ういし、政治目的の為に作られたその像に芸術的創造が見受けられるか?。
また昭和天皇を焼いている写真の展示という日本人の宗教性問題を否定することに芸術とどう結びつけるものか。


元来芸術は思想ではなく感性や感情であるもので、況や作品の創造に政治性を持ち込むというのは整合性が見られない

昨日九十数名の知識人といわれる人が徒党を組んでが愛知県や名古屋市長に談判に行ったというが、彼らはどうも知識人ではあるが、智慧者ではないのだろう。そしてジャーナリスト(前朝日新聞記者)の総合監督などどう考えても不思議感をいだくのである。

休日二日、暑さにかまけて涼しい部屋でのんびりと過ごした。何もしないことも大切かもしれない?。それにしても老体にはこの暑さは堪えますね。



2019年 8 月  12 日 

盂蘭盆会とは


人は「死んだ」という事実を確定することで、「死者」なるものを立ち上げ彼の人を巡る生者の人間関係の中に再び位置づけをしなければなりません。
「死体」や「遺体」は放置すれば腐敗し分解され、或いは埋没されるか焼かれます。つまりは「物」として失われるのです。しかし、この時すなわち「死体」や「遺体」が「無くなった」その刹那に立ち上がってくるのが「死者」なのです。そして「死者」は貴方の心の中に確かにいる筈です。
無関係な人の死は死体や遺体という物かもしれませんが、敬意や愛情をもつ人の死は物ではないのです。それは生者の人間関係の中に引き戻され「人格を持った遺体」となり死者となるのです。


祖先を思うという行為により自分があぶりだされ自分を考えることになる。すなわち自己の存在、自己の根拠を問うことでもあって、それは生きていく様(スタイル)を考えることになる。仏教の盂蘭盆会(お盆)とはこうした問題提起に気付くことでもある。

帰省し故郷の景色に癒されたり、海や山へ遊びに出かけるのもお盆かもしれません、また休みをとり海外旅行を楽しんだり友人と楽しく過ごすのもお盆であっていいでしょう、家族で旅行やドライブに行き有意義に過ごすのもお盆でいいのです。
例年メディアは判でも押したように戦後の様子を映し、帰省や旅行で混雑するターミナルを映し、事を得ようとしているがゆっくりとした時間を持つ中でこのようなことを考える大変いい機会でもあります。
私は昨日炎天下の下で両親の墓石に花を挿してきました。このように健康で丈夫な体を頂いたほんのささやかなお礼でしょうか。死者として確かな存在を持っているのも私の両親であるのですから。

親の享年に近づきつつある私もこの頃は母親の偉大さに、女の強さに特別な感慨をもって生きている。




2019年 8 月  5 日 

太平洋独り占め


古くは遠淡海(とほつあはうみ)と表記され、現在一般的には浜名湖を指し、この辺りを遠江国となった。都(大和国)から見て遠くにある淡水湖という意味で、近くにあるのが琵琶湖であり、こちらは近淡海(ちかつあはうみ)で近江国となった。 
我が国地方行政区分である令制国の一つ、その昔遠州と謂われ、静岡県は伊豆、駿河、遠江の国からなっている。

お陽さんにあたっていない!梅雨時に長引きこじらせた風邪も元を辿れば太陽の光を浴びていないことに尽きるのであって、世間と少しサイクルの違う生活は如何せん誰よりもお日様にあたることで補ってきたようなもの。幾分でも取り返そうという切ない望みもあって、ゆったりとした時間を海を見ながら太陽に浴びようとそんな浜名湖へと向かった。



          


車内全てのスピーカーから松岡直也(なおや)の軽やかなラテンジャズが聞こえてくる!こうした道を走る時、況してや海の似合うジャズマンは彼しかいないのだ。私の脳裏には今でも合歓ジャズインラストコンサートでの演奏が焼きついている。
偶然にも近年巡りあえた道元研究者南直哉(じきさい)禅師と名前のご一緒な人が私の精神性の中にいることに気付いた。

愛車が潮見峠から下りると目の前に紺碧の海が現われる。



       



真夏の海を眺めていると、私の気持ちの中に何かが躍り出てくるようで、不思議な躍動感をおぼえるのだ。それは春の海とはまた違って、時間的喪失感も同居するものの若者だけが持っていた無防備な行動力のような明るさをみせる。

紺碧の海から寄せる波は穏やかな繰りかえしではある、遠州灘の砂浜はあの伊良湖から続き表浜を作り、潮見峠を降りる頃には白須賀海岸となり、この先中田島砂丘まで延々と続き、この日も美しい波涛を見せていた。
林間の細い海べりの道を進み、巨大なコンクリートの塊で海岸沿いを突っ切る自動車専用道路の下をくぐるとかぼそく低い堤防があった。

数人のサーファーが木陰でのんびりと食事しながら話しこんでいる。古びたコンクリート堤防へ上がると大きな流木が座りなさいとばかりにポッツ~ンと置かれていた。眼前に雄大な太平洋が水平線を美しい曲線に描いていた。私は時間を忘れて碧い海、白い砂浜に寄せる波、透き通るような空の果てに真っ白な入道雲に見入っていた。
時折吹いてくる風は生温かいものの、照りつける太陽で噴出す汗にとても心地よいものでもあったし、この一瞬だけは太平洋を独り占めであるのだ。


この歳になっても働くことができ、多少なりとも誰かのために働くことができる。働くということで色んな人との関係ができている。働くということで私が存在することができる。私はその存在でも在り得るのがたまらなく嬉しい。
こうして旅を味わうことも私の存在のためでもあるし、働くことが存在の理由でもある。



2019年 7 月 30 日 

連休を仲間とぶらぶら


いつになく遅い夏が来た! 少々遅くはあるが確かな夏だ! このところ早朝より近くの公園の蝉が五月蝿く鳴いている。冷房の苦手な私は毎夜窓を開けて扇風機からの微風を受けながら睡眠に入るのだが、夜が明けた途端にシャーシャー、ミンーンミンーン、ジイージイーと兎に角五月蝿く、鶯ならともかく蝉の大合唱での起床は些か面映いものではある。


連休初日から友人Hさんと近江へと車を走らせた、数ヶ月ほど前に購入したのは少しばかり若者向けと謂われるコンパクトワンボックスカーであるが、いやはやいつになく気に入ってこの辺りを四方八方飛び回っている。

米原の山間部に結構洒落たイングリッシュガーデンがあり、その一角に大地のレストランというオーガニックな料理のブッフェがある。Hさんに気に入ってもらえればとチョイスしたもので、木漏れ日が美しいテラス席は涼しい風が時折吹いて食欲を抑えるのが大変でもあったほど。冷房の効いた室内よりこういう時間は自然の真っ只中のほうがいいものだ。


彼女の希望で奥琵琶湖海津大崎の先まで移動し、古道具商が営む湖畔に佇む流行のカフェに入った。こちらも二階のテラス席で、さよぐ風は気分のいいもので老後ならぬ老中?の話にすっかり寛ぎまるで時計の針がが止まっていたほど。
我等仲間の一人Hさんが琵琶湖を回遊し心地いい一日であったことを希望してやまない。


翌日は昼過ぎのんびりと知多の海へ魚でも食べようとNさんを誘って出かけてみた。この日は遅い東海の梅雨明けでもあるが、何分平日と謂うこともあって観光地は静かでゆったりと煮魚と刺身など戴くことができた。
三河湾を望む海岸は遠浅で美しいいそしぎが聞くことの出来る雄大な浜辺でもある。沖合いでは小舟が左右へ行ったり来たりを繰り返していた、どうも蛸漁をされているようで幾度となく蛸壺を揚げては落とすくり返す動きを見せている。

伊勢湾側へとまわり私の好きな美浜坂出あたりへ来ると対岸鈴鹿の峰に夕陽が落ちかけ、長く延びた影が砂浜に美しいシルエットを映しだしている。まだ空はほんのりと明るさを残しながら、いくつかの飛行機雲が綺麗に光っていた。
潮風もいつしか熱気がうすれ、帰路に着く頃には沖合いに空港島の夜景が人工的な輝きを見せて美しいものだった。


そして今、パソコンに向かっていると、ある禅僧の言葉がフッと脳裏を横切っていった

『 老いと病に馴染むと、他人を無条件に赦すこと、それを少しづつ出来るようにしていく事が死の練習なのだ 』 
こんな言葉にさえ癒される気持をもつことも老いというものだろうか?


2019年 7 月 22 日 

無残な事件


葛川夏安居行修もこの20日に終わり、相応和尚(そうおうかしょう)以来その厳しさの中で時に国家鎮護を祈願している。
過去私が行った寺院でも世間の安寧を祈願して朝課諷経など多くの僧侶が厳修している。比叡山根本中堂ではまだ明けやらぬ朝靄の中から読経が聞こえてきたし、曹洞本山永平寺では早朝四時外陣の板の間が冷たくて痛さも感じないような冬の朝課諷経の美しい読経を聞いたものだ。

数年前の吉野金峯山寺でも早朝の勤行が激しい太鼓の音と共に聞こえていたのを覚えている。中でも比叡の阿闍梨は命を賭けて全山二百数十箇所の一山草木の神や仏に安寧を祈ってきている。

にもかかわらず・・・。

数年来前から異常気象と云われながら各地で災害がおき幾人の被害者を数えたのだろう。東北の地震では今だ脳裏から消えない津波の映像は心を震撼させ怖さをこの体に染みこんでいる。自然災害と十派一絡げに謂ってしまえば楽だけど、どうも自然を破壊し無碍にしてきた仕返しかも?とさえ思うのは私だけではないだろう。美しい自然や心休まる自然、私達の生活を守るべく自然は時として牙を剥き生きることの辛さを教えるのだろうか。

近年、考えられないような事件や事故がニュースとして目に入ってくる。半世紀前私の若い頃にこんなようなおぞましい事件はあったのだろうかとさえ俄かに信じなれないことに遭遇している。

人は何の根拠をもたず生まれ、人は他者と行為するという縁起という関係においてのみ自己を形成されていくものであろう。人を殺めるという心は何時、何処で、どの様にして作られていくのでしょう?どんな人であっても、あれ程無心で無邪気で可愛かった赤ん坊だったのに…?

一人の人間に巣くった邪念が瞬時にして数十名の命をとることに余りにも空しさを覚えます。数十名の生きるという存在を無視した心とはいったいどうして作られたのだろうか?他者であるそれらはいったいどういうことであろう。

命を亡くした人の家族や兄弟姉妹、友人や仲間はこれから喉に何かつまったように心に疑問をもって生きていかなければなりません。何故この人がこんな犠牲に!という疑問は解決のつきようがない疑問なのでもあるのです。



2019年 7 月 16 日 

私の夏が来た


労働搾取の成金趣味的美術鑑賞願望としての美術館なのでしょう?私の僻み的思考かもしれませんが、やたら無機質な建物内にいる感覚は彫像や楽焼茶碗を鑑賞するに情熱など何処かに消えてしまっていた。何時かは行かなきゃと考えていたものの気分が乗らなかったのも事実であるが、兎に角佐川美術館へでかけてみた。

雄琴で宿泊することもあって湖畔の美術館に向かった、刀剣の知識もなくまた興味などもない私には唯一楽焼茶碗展示が楽しみでもあった。中でも焼貫き黒茶碗は秀逸で京都楽コレクションでしか見られないというようなものである。それにしても現15代吉左衛門は往々にして利休好みに縁遠いという形式美を見せるだけで、茶道様式美という観点からは遠州も有楽斎も型破りな織部さえ手にしないだろう。

曇天の琵琶湖は初夏というのに鈍く緑白色な色合いへ変化し、時折雲間から眩しい光が斜に差し込む場所だけが明るさをもち美しい景色となって目に飛び込んでくる。
窓からは対岸ににおの浜から、矢橋、烏丸半島、守山の湖岸が眺められ、遠く草津市街の高層マンション群とその左手には近江富士の三上山が屹立していた。


      

          読経する行者さん達             勝華寺三尊仏  阿弥陀如来 釈迦如来 薬師如来



翌朝、湖畔の雄琴からはなだらかな勾配のなか緑の田畑が続き、左に奥比叡を右手に蓬莱山の雄大な裾野を縫うようにはしる。そんな477号線は伊香立に入ると急に深い森の中へと入って行き、右手に和邇川に架かる朱塗りの欄干と還来(もどりぎ)神社が見えると伊香立途中町は近く、京都大原からの367号線と交わるところが途中口で、勝華寺はその近く小さな集落の中にある古くからのお堂である。この日は隠居した先代善兵衛さんが手持ち無沙汰に私たちのお相手をしてくださっていた。夏安居はどこでもこうした方々のお世話があってこその行であり、思古渕の神とあいまって近在の村民と共にあると思う。

天台密教の夏安居は京都赤山禅院と坂本誕生寺からこの勝華寺集合に始まる。80人ほどの行者は小さなお堂からはみ出るほどに座して、読経のあと揃っての斎座をとってから宮垣善兵衛氏の先導のもと出立していく。今年の新行さんは四名と何処とからなく知れるのも可笑しいものだった。

例年二十数名のお見送りも今年は平日のためか少なく十名に満たなく、それでも見慣れたお顔に挨拶するも慣れたもので、私の知り合いのお坊様は今年もわざわざ名古屋からの参加でもあり、瞬時に目線を送っていただいた顔には緊張感が漂っていた。こうした若者たちが国家鎮護、安泰を祈願し自らの悔過をしながら密教の行に励むことを私は忘れてはいけないと思う。



            


私はいつもの如く勝華寺前の路地に膝を着き頭を垂れて待っていた。行者は其々に頭と両肩にお数珠をあててお加持し出立していった。合掌!



2019年 7 月 8 日 

華は愛惜に散り、草は棄嫌におふる



ぐづついていた風邪と軽度な気管支炎は完治したのだろうが、抗生物質投与の影響なのか?顔の肌が荒れて髭を剃ることが辛い、連休なのでいっそのこと無精髭の面である。平熱が落ち着いてくると妙なもので気持の弱さも何処かへと去って、相変わらずの出歩きたい気持がふつふつと沸いてくるのが分かる。数日前まで困難な文章を読むのも頭の芯がイラつくほどだったのに…。

この数週間は周りの方々に迷惑をかけながらも、不安定な体調に振り回されて齢相応な抵抗力の無さを痛感していた。
それでも寝込むことなく休養を十分にとって独居老人は友人の医者に頼るだけであった。

梅雨の間に間、五月晴れのなか少し車を走らせあじさい寺と云われる稲沢性海寺へと出かけてみた。聖武天皇は国家鎮護のため全国各地に国分寺を建立し、そして稲沢は尾張国分寺をひかえた国衙(こくが)の地でもあった。

内心予想通りでもあったが、既にあじさいの季節は終わっていて殆んどの花は剪定され所々に枯れ朽ちそうな花茎だけが残って、参詣者で賑わった遊歩道もすっかり人影も無く静けさをとり戻している。

天邪鬼な私は案外にこうした景色が嫌いでもなく、朽ち枯れた花の中にも思わぬ遅咲きの一輪が隠れていたりするもので、そんな可憐な花びらに愛おしささえおぼえるのである。寺の裏手に池垣花壇の片隅に東屋も設えてあるが、私は青葉で繁ったどんぐりと高野槙の木陰の下の小さなベンチに座って汗をぬぐった。遊歩道の上を沿うように揺るやかな優しい風がながれていくと何ともいえぬ心持ち!。

廻りを水田に囲まれたこの寺ならではの風であろう、強い陽射しをくぐり抜けた風はあじさいの残花をまき込みながら優しく私の肌をなでていく。人工の風にはない優しさと柔らかさをもって私の汗を乾かすのだ。以前、何処かでこんな風に出会っているはずだ…!  ふと思い起こしたのは安土浄厳院縁台での『叡山のあまり風』だった。


道元著正法眼蔵・現成公案その序にある言葉の中に『華は愛惜(あいじゃく)にちり、草は棄嫌(きけん)におふるのみなり』
(花は惜しんでも散りゆき、草は嫌でも繁りはびこるものと知る)、とこんな言葉が残されている。
それでも残花といえど花は花であり、花の法位をもって咲いていると観ることを感じるためにもこの時期はいいものだ。




2019年 7 月 3 日 

半夏生

半夏生である。 確か夏至から10日後辺りであったと思うが、我が国らしく季節感を詩った柔らかい言葉でもあって私は好きですねぇ。

勿論のこと名前だけに酔っていてはいけないのは世の常で、農家の方や特に稲作農家ではこの日までには主たる農作業を終えていなくてはいけないとの目安だそうで、この日を境に水が出たり日照不足となったりと何かと弊害がでるのだそうだ。
幸いにして無事にこの日を迎えられた農家では餅など食べてお祝いをするという地方もあって、兎角昔の人達は宇宙の動きの中に智慧を見出し、脳裏にしまって毎日毎日を暮らしていたものと感心することしきりである。

ちょっと面白いかな?と思い、因みにスマホをググッてみると

ある地域ではこの日から5日間は農作業を休み、また、この日は天から毒気が降るといわれ井戸に蓋をして毒気を抜いたり、この日に採った野菜は食べてはいけないというのまであった。
三重県志摩地方では「ハンゲ」という妖怪が徘徊するとされこの日の農作業を戒めともなっているそうだ。奈良香芝周辺では「ハゲッショ」と言い、餅をつくって黄粉にまぶして食べる。田植えを終えた農民が田の神に感謝しお供えものを共食したことが由来と考えられる。

讃岐ではうどんを食べ、越前では焼き鯖を食べ、長野の地方では芋汁を食べる。曹洞宗本山永平寺では大布薩講式といって常日頃の修行の日々の行季を顧み懺悔する日でもあった。

そう云えば、比叡山の修行者達が二週間もすれば葛川夏安居に入る、天台密教の修行は激しさと厳しさを体に感じ、思古渕明神のもとで懺悔する。
この十数年は私も修行者にお会いすることで心の懺悔とし、とともに彼等の無事を祈念するため出かけることにしている。そしてこの節目が私の夏の到来で、また半年を無事に生きていくことを祈願する。

二週間ほど体調を崩してしまい、近年にない長患いで抗生物質をのんだり検査の連続で独居老人には心なしか不安が横切って行った。幸い何事も無く少しづつ平常に戻りつつあるが何処か年齢を顧みるこの頃でもある。



2019年 6 月 24 日 

正法眼蔵を読み


なかなか体調のすぐれない日々が続いた…、結果、日曜日の仲間たちとの伊良湖旅へも行けなくなって大変申し訳なく思っている。仲間との行動、ましてや車での移動となれば誰かに迷惑がかかることを慮るのもあながち歳のせいだろうか?  昨今では車社会で老人達の愚行を考えてもみれば無理は禁物でもあろう。
そんなことから二日間を撮り貯めた録画を見たり、好きな読書に、そしてのんびりとした時間を過ごすことにした。

Eテレ『白洲正子の愛した古典芸能』では二世梅若実、友枝喜久夫の能、先代井上八千代の京舞をしっとりと拝見し何処に芸が隠されているかを確認させられ、同じくEテレ『心の時間・禅 正眼僧堂』では延べ三時間をかけ師家山川宗玄禅師の話を納得いくまで聴くことが出来た。

そして南直哉禅師『正法眼蔵を読む』を再々読をし、こんな文章を見つけハッとさせられた。

正法眼蔵という本の文字の集合体からは真理などはない。真理が内容として潜在しているなら、それは読者の読みという行為の中に生成されるのだ。それも読者各人は意図と方法によって読んでいるわけだから、内容は読み手の数だけ生成される。

となれば、その読みに関して正法眼蔵を著者の思想として特権化する理由はない。元来、経典や語録等を独自の視点から読み取り、読み換えることを道元自ら正法眼蔵にぴて実践している。

ことは、読書するはその内容において読み手の読みから生成されるものということだ。
そう謂えば故野村万作の狂言も故吉田義男の人形だって見るものの識量や感情量によって生成されるとも聞くのだったし。


梅雨の雨模様予想がすっかり裏目となって時に青空が気持いい休日となってしまった。こんな日に部屋に閉じこもっての二日間は私には辛いもので、なんだかんだと云っても毎日仕事に行けることが案外体に合っていると思える。
あの百丈懐海(ひゃくじょうえかい)禅師は「一日不作・一日不食」と言われて働かれたのだし、2000万円無けりゃ生きていけないと騒いでいたって、毎日毎日生きれば言い訳で、己の体と心に合った生き方をすればいいのにね!




2019年 6 月 17 日 

友人の菜園


五月晴れとでもいうように久しぶりに太陽の光が美しい!道路の向こうの公園では光合成を葉っぱいっぱいでしている木々たちが気持良さそうな揺れを見せている。子供達の大きな遊び声の聞こえてくることがどんなに喜ばしいことかを教えてくれるいい日曜日である。

週末からの風邪気味な体はちょっとした微熱におろおろとして薬を飲み、食欲もわかない体では休養が大事とばかりにベッドにもぐりこむ、それでも一晩ぐっすりと充分な睡眠は久しぶりで、窓を開けた途端にカーテンを揺らす風に生気を帯びてすっかり気分がよくなった。
昼前玄関のチャイムの音で目が覚めたのは嬉しいことに今年も I ちゃん夫婦から父の日プレゼントであった。

翌日も仕事は休みで、ここ数ヶ月行っていない桜井の聖林寺十一面観音にお会いしたく出かける予定も大事をとってのんびりと過ごすことにした。余りにもいい天気にほんの少し時間を友人O君と喫茶店でコーヒーを飲みながら会話を楽しむ。

名古屋は喫茶店文化などと揶揄されるが、いかにもと謂うほどに大きな喫茶店は混んでおり三々五々に我々のような暇人達が話しこんでいる。
午前中に家庭菜園から採れたというジャガイモを頂き、嬉しく気持豊かな心持ちで帰宅、早速今晩の夕飯にと肉じゃがを作ってみた。


家庭菜園とはいうものの彼はかなり手広く色んな野菜を作っており、いろいろと野菜を頂くが、どれも是も確かな新鮮さをみせてその上土の問題であろうか肉じゃがなどは男爵芋にしてしっとり感とほくほく感が同居しているように誠に美味しいのである。

時に大根など人前に出せないような(変に人型?)姿・形など頂くが新鮮なものはその日に卸して食べようものなら大根の香りと一緒に瑞々しさが醤油もいらないほどに美味しいのである。

この二日間、私には体にも心にも大変嬉しく気分のいいものであった。薬よりもこうしたことが風邪には良かったのだろうかなあ!



2019年 6 月 10 日 

伊勢神宮参拝


もう60年ほど前になろうか、私が小学校六年の修学旅行は一泊二日での伊勢であった。関西線から参宮線を走る汽車の旅であって、小学生の旅にしては見知らぬ地への旅とも云えるものであったし、当然のように伊勢神宮参拝もあったのだろうが記憶の欠片もない。
ただ、今では想像すらできないことに親から少しほどの米を持参した事だけは変に記憶の片隅にあるのも不思議だが。

半世紀前という記憶には斑模様にすぎないものの、今でも二見浦の地にたってみると何処か心の隙間に幼いころの心地よい風がフッと流れていくのを感じるのもおかしいものでもある。
尾張の田舎育ちの私にとって宿の前に広がる美しい砂浜と広大な伊勢の海は小学生から見ればとてつもなく世界でもあったのだろう。何処をどう行ったのかは定かでもないが、夫婦岩だけは意味もなく記憶の渕でもあるが澱みの中にある。

思い起こすことは、限られたお小遣いで買った土産物で、今では殆んど見ることもなくなった熨斗形に作られた三色の生姜糖のお菓子を家族に、そして大切に飾った貝殻で作られた岩にとまった鳥の置物であって、この手の置物は当時の土産品の定番でもあったように思う。中には達磨落としや竹で作られた蛇?などを買って親に叱られたという奴もいたが…


昭和・平成・令和となり、永く生きられたものと感謝しながら伊勢神宮参拝の旅を楽しんだ。その昔、私の宿泊した木造二階建ての旅館など痕跡もなく、高層ホテルの窓からでなければ浜辺や海は見られず。繁栄した旅館街やお土産店は跡形も無くなっている。


景勝地となっている二見浦は綺麗に整備された公園となり、時折観光客や宿泊者と思われる人が散策を楽しんでいるものの、夫婦岩辺りまで行くと凄い人出があって其々にスマホで写真を撮りつづけている。


深夜、ホテルの窓から薄っすらと見える漁火を見ながら幼いころの想い出に浸っていた、眼下には数十年前は交通量の多かった鳥羽への幹線道路は走りゆく車のライトも見えず、旅館街の賑わいも感じられない静かではあるが、何故か侘びしさだけが残る夜でもあった。



2019年 6 月 2 日 

北大路魯山人展を見て


北大路魯山人といえば鮮やかな色絵陶器に京焼や琳派の色彩を持ち込み、自ら料理の世界へ入って星岡茶寮(ほしがおかさりょう)まで拓き、名古屋でも有名な料亭八勝館では器やそのもてなしまで指導したという数奇ものでもある。


京都近代美術館での陶工・河井寛次郎の展覧会最終日ということで予定していたが、夏に愛知瀬戸で開催されるという情報に急遽それでは是も今週が会期末を向えるそんな北大路魯山人の作品展を碧南市藤井達吉美術館まで見に行くことにした。

想像にたがわず魯山人の作品もさりながら、同時期の荒川豊蔵、川喜田半泥子(はんでいし)、加藤唐九郎、そして千家十職・長次郎の黒楽茶碗までの展示、初めてみた中国景徳鎮の焼き物と噂に違わぬ逸品を楽しませていただいた。



半世紀ほど料理の世界に生きてきて、味もさることながら盛り付けの美というものを多少は理解しているつもりでも、こうした器の数々を目の前にして頭のなかでイマジネーションしながらの拝観でもあった。

魯山人は私の好きな小林秀雄や柳宗悦などを批判しているほど個性的でもあり、それは一般的に傲岸・不遜ともいえるほどで、確かに未熟な私などには盛り込み辛い器でもあるのだ。
柳宗悦や河井寛次郎、浜田庄司、富本憲吉等の民芸とも同じく、使用する器と云う観点からも正反対の美を追求するという思考でもあろう。

幸いにしてこの地域は常滑、志野、瀬戸そして信楽と古窯が多く、焼き物に接することも多々あるのだが、こうしてその歴史に触れることには感謝しなければならない。

この日名古屋では熱田祭り、別名菖蒲祭という夏の到来を感じさせる祭りが始まっている。夜になると若い女の子が浴衣姿で歩いているのを見ると夏がやってきたんだ!と寒さが嫌いな私にとって何だか嬉しく胸が小躍りしてくるのが楽しい。



2019年 5 月 26 日 

伊勢湾を見ながらのんびり


知多半島は北部を殖産興業に盛んで工業地誘致と市街化が進み、昔日の白砂青松な渚は泡沫(うたかた)もなく姿を消して立派な自動車専用道がとおり大きな車両や燃料をいっぱい積載した大型車が高速で走っている。
近年に入って愛知用水が半島を縦断するように通水し南部は観光化され大型飲食店や宿泊施設も増えて、祝祭日ともなると観光客の自家用車であふれている。
今では沖合い岩盤地帯に海上空港まで造ったのでいやはや私の子どもの頃、60年程前の感慨はなくなっている。

私は山というより海が好きな性質でして、尾張の鄙に育ったせいか一日中でものんびりと海を眺めていられるのだ。


伊勢湾をはさんで対岸鈴鹿の山並みに陽が沈むのを、左右に大きく広がった雲間から赤い光線が眩しく輝きはじめている。次第と影脚が長くなるにつけ眩しさは強くなって、私はまったりとした時間を心に刻むように楽しいんでもいた。

遠浅の水際は寄せる細波に小さな波音を立てながら満ちてくるのが分かるほどになっている。近所の姉妹であろうか、大きなシェパードと波際を楽しい声をあげて走っているのが暖かくなった証拠でもある。


夏至にはまだ一月ほどもあろうかというのに日の長さは驚くほどで、夕方七時というのに伊勢湾を横行する船影がはっきりとわかるほどで、そんな時刻ともなると空港の離着陸は多くなり、飛び立った飛行機は未だ青みのある空にジェットストリームを残して飛び去っていく。


常滑小鈴谷(こすがや)は私の一番好きな海岸で遠浅の浜にたて網や海苔そだが所々に設置されて海の豊穣さを示している。最近は浅利の成育も芳しくなく潮干狩りを楽しむ人も見なくなっていた。一部では海岸整備にかこつけて浜辺をかさ上げして綺麗な公園風にしたのが結局は揚げ足取りにもなっているようでもある。


人は造形された公園より自然の浜辺によすがを求めるものであるらしく、その昔からあるひび割れたコンクリート階段に座ってのんびりと遠浅の海を眺めてる人が多い。



2019年 5 月 21 日 

奥浜名湖にて


昨今少々浮かれ気味な風潮を感じながらのんびりとテレビなど見てると、これでもニュースなのかと訝しく思うことが流れていたりする。時よままにと、深夜放送など目をやればちっとも面白くもない司会者の笑談を恥も外聞もなく大きな口をあけて笑っている人達を見るとのん気を絵を描いたような表情をしている。それらの笑い顔は如何にも空々しく主体性の無さを心の底では悲しんでいるように見えなくもない。

電車やバスで乗り付ける秘境など考えるだけで馬鹿らしく、穴場などといった類は観光客の行く心根など在る筈もなく、テレビや雑誌という媒体などは商売だから同情する点はあるが、せめてそっとしておいてくれたら旅行好きは勝手に探そうと努力するし、ガサガサと進み発見することの喜びに浸って一人悦に入っていることであろう。どんな些細なことでも自分で発見することの喜びに勝るものはないはずだから。

過日も滋賀湖西の旅とテレビ欄で見つけたので録画再生したら、辺鄙な田舎の蕎麦屋を映していた。そこは高島市マキノ町在原地区であり、ほんの数百m歩けばあの在原業平卿の墓があろうというものの、話のおくびにも出なかった。
業平卿の墓は他にも多々存在する訳でもあるから兎も角、それでも在原村と名があるだけでも古代氏族の匂いというか残り香のすることだろうに…。
今更山の蕎麦屋が駄目とは言わないまでも、歴史を歩くとは歴史を常日頃憶うことがなくては旅の良さからも遠ざかるだけでもあろう。

非日常の時間を楽しみたく、ゆっくりと湯につかって海でも眺めたいと でかけてみた。平安の京から、近つ海と云うことで滋賀琵琶湖周辺は 近江の国ともいわれ淡海(おふみ)とも書いたもので、反するに静岡の 浜名湖辺りは遠い海と云うことで遠江(とおとうみ)とも書き、現在の静 岡県は西を遠江、東を駿河の国と云っていた。

そんな奥浜名三ケ日の湖岸ホテルからは夕陽に光り輝く美しい湖面がのんびりとした時間を映し出していたりする。
何時もながら私のがさついた旅とは趣きも違って、昼食は猪之鼻湖を 眼下に観ながらフレンチのランチと謂うことでどうもお尻の辺りがムズ ムズして面映い心持ちでもあったが。

そんなフレンチも仇となって、クリームやらチーズの効いた料理はこの 歳ともなればもたれることしきりで、おかげで料理多種なブッフェを何時もの半分も食べられず悲しい性であった。

それでも窓からの奥浜名湖の景色は美しい入江に背後の山が新緑を見せて初夏を楽しませてくれるのだった。


2019年 5 月 13 日 

木の芽時について


すっかり暖かくなって過ごしやすいこの頃、この時期は微妙なニュアンスをもつ季節でもある。晩春といえばいいのだろうか、和歌や俳句の世界ではもう初夏であろうに。
この晩春から初夏にかけてのほんの束の間であるが、人は季節の雰囲気から精神に及ぼす感じ方まで自然と春が育っていく様が伝わって来るようでもある。

萌える春を象徴するように木の芽時という特別な言葉もある。元来、春は“張る”から出た言葉だそうで、和歌の序詩(じょことば)などで「木(こ)の芽もはるの何々し…」というように用いられている。

木の芽といえば山椒の葉や芽を意味するが、今では樹木から若葉に至るまでそう呼ばれるようになっている。いつしか木の芽時は健康に好くない時期とも言われだし余りいい意味では使われなくなった。木の芽が萌える時は人間の心身も不安定になるのだそうで、特に躁鬱症(そううつしょう)の方は大変なのだそうだ。一年で最も美しい季節を患うというのは辛いもので、総じて美しいものには魔性がどこかに潜んでいるとしか思えない。

自然の精気が木々などに抜き取られるのを恐れてなのだろうか、昔人はやたらこの季節に祀事を残していて神社仏閣での御霊会(ごりょうえ)などがそうであろう。


因みに料理で木の芽と謂えばこの季節“木の芽和え”で、新筍(たけのこ)や独活(うど)など春の息吹を湯がいて甘みを効かせた西京味噌に木の芽を摺りこんだ和えもので、香りある春懐石の逸品である。

公園の片隅で藤棚には花房が見事に咲き誇り、先程までのツツジが色をうしなって、替わりに色とりどりのバラの花が競い合っている。桜の若葉が一層の緑を帯びて陽に眩しく映るのもこの季節である。




2019年 5 月 7 日 

歴史の1ページ


令和へと改元された途端、万葉集が脚光が浴びているというが、単に一過性の歴史回帰に終わることなく私達は日本の歴史を大事にしたいものだ。やたら戦国時代や近代の明治維新などをあげられるが、世界的にあてても日本の古代史は遜色なく確固たる経過をそなえている。
況してや文学的な才能は国民的宗教観というか自然観を持ち得ていて他には観られないものを残してきていると謂える。そのようなことで、こんな歌を思いだした次第。

月やあらぬ 春や昔の 春あらぬ わが身ひとつは もとの身にして』  古今集

清和帝の女御である二条后は後宮に入ったため、昔の逢瀬を想い一夜歎き悲しんだ男の詩であり、伊勢物語の四番だったか、古今集にも載った在原業平朝臣の美しくも歌調の高い名歌でもある。

青山二郎の門弟小林秀雄は歴史について、ただ記憶するだけではいけない「憶い出す」ことが大切であると言っている。
私には未だその解答はみえてこないが、様相だけは感じることがある。

「春過ぎて 夏来たるらし 白栲の 衣乾したり 天の香具山」と万葉集では歌い、「春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣干すてふ 天の香具山」と新古今集に載ることは古代人にして歴史を憶い出す作業としている。
そして現代人は、持統天皇藤原宮からはたして天の香具山の白妙が望めるのか?と想いをめぐらし、白妙は洗濯物かイヤハヤ白栲なのかと議論に喧しい。歴史とはそんなモノでもあればいい。

いみじくも友人O君からラインが入り、「 BSテレビで邪馬台国は九州か畿内か放映、箸墓古墳・纒向遺跡・二上山や卑弥呼伝説、教えて訪ねた思いだし感謝です。」 と。
歴史を知ることも大切です、訪ね歩くこともなお更に大切なことと思います。しかし歴史を仲間と共有しながら記憶しなおすことも大切で、そんな中から生きる術を私達は学んでいくことと思っています。

この一月程のメディアでの報動は歴史を知らしめるものの、その在り様は品位の欠片も覗えること無く、また文学にも程遠いというもので哀しくさえ思うことしきりです。
10連続休(連休ではない)という時間にのんびりと本を読みながらふっと考えてもみた。

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2019年 5 月 1 日 

新しい元号 令和


古代史の中でも天皇継承は何かと問題があり、大きな問題では天智天皇第一子大友皇子と天武天皇との壬申の乱などがあって、私の好きな文徳天皇第一子惟喬親王と弟帝清和天皇への譲位は時の権力闘争を如実に語っている。

30年前昭和天皇崩御によって平成天皇即位は喪にふくしていたなかでの即位であったのだが、今回の天皇退位は安堵と喜びを国民も共有しながら天皇制を享受しつつ粛々と執り行われていった。考えてもみれば平安を肌で感じるようでもあって、また、経済的効果や国民感情から鑑みてもいい判断をされていたんだなあ~とふと思ったりして。


それにしても特例法か知りませんが10連休はやりすぎでしょう!休むことには賛成であるが、公的機関の連続した休職は何かと問題が起こることは間違いなく、そこから職種格差や職場格差に発展し、ついては労働環境による人口の偏差へとたどり着く。喜んではいられない事実が潜んでいる。


よんどころない用事で大津に行くことになり、瀬田川沿いのレストランで昼食を摂ることにした。生憎と連休に入り天候は芳しくなく今にも降ってきそうな雲行きであったが、それでも爽やかな風は快いものでのんびりと川面を眺めながらのイタリアンランチであった。

観光船がゆったりと行き交い、学生のボートが水の上を疾走していくのを見ていると穏やかな気分となる。
先日まで競うように美しく咲いていた桜もすっかり葉桜となり美しい緑となって季節の変わりをみせていた。


私にとっては近江の地を踏むことはこのうえない楽しいことで、この日も若い人達と一緒ということで食が進むのだった。


連休二日目、東京の娘を駅まで送り届け、帰り道鮮やかな緑に誘われるように名城公園の藤棚を見てくることにした。
藤の花がたわわな姿をみせて美しく淡い色が惜しげもなく広がっていた。

2019年 4 月 22 日 

旧友と再会


すっかり暖かくなりましたね、一週間後には平成という元号も変って『令和』となります。元号が変っても生き方には変わりなく時間は過ぎていきますヨ

友人I君から角膜移植を!なんてことを知らせてきてくれた。彼とも久しく会っていなく、四十数年年来の友もこの数年は年賀状と近頃流行のラインでの連絡とすっかりご無沙汰であった。近年の遊びにかまけて友人と会うことも縁遠くしてしまった自分の恥ずかしさに反省、早速に逢うことを約束し出かけてみた。

友人は想像以上に元気な顔で迎えてくれ、私の心配もすっかり消し飛んでいた。しかし病状の経過を知るうちにやはり病気であることに替わりなくお互いに軽度であるが病気と仲良く付き合って、また我々も互いにもう暫く健康な身体へともどしながら付き合っていこうと交わしながら再会を約した。

連休の都度続いていた旅もやめて久しぶりにのんびりと過ごすことになった。季節の変化にあわせて掃除や洗濯と日頃できていないことをさっさと片付けに入った。すべての窓を開放し空気の入れ替えはこの時期流石に気分のいいもので、初夏の来訪を感じさせるほどの晴れた空に体が生きかえったようでもある。

世間は今週末から10連休という、これは実にとんでもない実施で個々に長期の休みを取るのは結構なことでも一斉に休むとなると困った問題の山積み発進でもあろう。
二週間後、私が何を書いているのか今から心配である。



2019年 4 月 15 日 

和歌にみる渥美半島伊良湖崎



うちよせる波は緩やかな湾曲をみせる美しい砂浜に小さな泡沫を残しつつ消えては寄せる運動ををくりかえしていた。何かと穏やかな内海と違って外海は波の様相が変っている。春の海とはいえ荒々しさを少しだけ残しながらも、海面に陽の光を反射させ微細なガラス片でも撒き散らしたようにキラキラとした輝きをみせている。
小さな岩礁に波がしらはくだけ、飛沫が風に乗って一瞬にして消失してゆく。私は大きな流木に座ってほんの一時だが海を眺めていた。

毎年のことだが、春の訪れとともに渥美半島伊良湖崎へと足を運んでいる。今回はホテルの季節お部屋お任せプランというもので、要するにお値打ちということである。ヒマにまかせては深夜パソコンで探していると思わぬ金額で思わぬプランが見つかるというもの。

丘の上にあるホテルは360度グルッと見渡せるというもので、幸いにも大きな窓からは恋路が浜、伊良湖崎が見おろすことができ、遠くに答志島、神島とそして伊勢の山なみが眺められるという素晴らしいロケーションでもあった。

夜ともなると伊良湖水道を行き交う船舶が神島の灯台の明かりに導かれるように美しい光となって過ぎ去ってゆく。夜が明けると同時に小ぶりな漁船が数十隻忙しげに航跡を残しづつ一日の始まりを教えてくれるのだ。


空は水平線というものの存在をもってこそ空という存在を認識させないかぎり空の存在感は知るべくもない。それは中央という存在によって左右が現われるように。そして波という動きをみせる海に対して空には全くといって動きをみせてはいない。空気の層とでもいうのがあるのだろうが、それが空気ではなくして何故空なんだろうと疑問する。
真っ白な絵の具にほんの少しブルーを混ぜただけの均一なパステル画の何と味気ないことだろう。そんなことを思いながら現前の広大な景色を見入っていた。

『 鷹ひとつ みつけてうれし 伊良虞崎 』 と、芭蕉は一句をこの地に残している。

渥美半島先端の小さな山々は渡り鳥達の休息地でもあるらしい。鷹一羽が山からの上昇気流に乗るよう大きな羽をいっぱいに広げて旋回しているのを見て芭蕉は空を見つけたのだろう。

今日のように雲ひとつない澄みきった空を見上げ、鷹一羽の雄大に飛ぶという動き(行為)の中で空の存在を浮かび上がらせたのだ。
仏教の縁起という思考の中で何の動きもない中では空は現前しない、空という存在を知るには雲の動き、雨が降り、鳥などが飛ぶ、そうした行為に因って空と名付けられたモノが現成すると説いている。


かつて禅の欠片をいじっていたころ、この芭蕉の句を卑下していた。そんな無知な自分を今になって恥ずものである。


2019年 4 月 8 日 

近江巨大寺院散策


私が小学校に入学する頃は必ずと云っていいほど校門の前の桜が満開であったような記憶がある。それは確かな記憶でもないが、そういった印象があるのだ。
校舎の前庭に必ずと云っていいほど二宮尊徳の石像はあり、学校にはそれらが一つセットのように思っていた。微かな記憶の裏で校舎の陰に隠すように乃木希典の石像が転がっていたことを今に思えば…、大人は困っていたのだろう。


今年の入学式は、そんなことを思い起こすかのように桜満開の下挙行されたことであろう。近年には珍しく、咲き始めの頃にちょっとした寒波が満開を遅らすという粋な計らいをしたことになる。

一月ほど前に日程を決めた我々の仲間との春の散策も昨年の奈良散策に続いて今年も近江で満開を楽しむことができたのは驚きである。
どうも黄砂なのだろうか?琵琶湖の遠景もうっすらと霞んで見えているようでもあった。久々の近江散策ということで仲間は一オクターブ程テンションも上がり気味!、車内では相変わらず歳甲斐もなく話が弾んでしまう。


大津の友人を交えて我々は参詣者でにぎわう三井寺と石山寺を巡ることになったが、楽しい一日を楽しい仲間と過ごす時間は私にとっても何より得がたい時間でもあった。


2019年 4 月 1 日 

近郊の桜を訪ねて

そよいで来る風もこころなしか温かさを包んでいるように感じられるような日々が続いていた。数日前からいろいろと桜の便りが耳に入っている。昨年奈良の散策を満開の桜のもとで楽しんだ友人を誘って近くの桜を楽しむことにした。

相変わらず元気な友人達は花見より食事!とばかりにイタリアン風ブッフェの店に寄り端から食欲に負けていた(笑)。
食欲は健康の元と言わんばかりに皿を重ねるのは楽しいことでもある。

入鹿池畔の桜並木は一部が咲き誇っているものの花見にはまだという感じで水面を渡ってくる風に震えているようでもあった。車を走らせて犬山の城下へと移ってみるものの、桜はまだ五分咲きというおももちである。しかしながらお城前の通りは観光客にあふれ皆さんも桜をみるよいりも食べ歩きが楽しい風情でもあった。

帰り道、私の実家近くの五条川へと向かった。私の子どもの頃には数 本しかなかった桜も今は先程の入鹿池から延々と川の両岸に続いて いる。そんな桜も数年前から古木のあちらこちらで伐採が続いている ようだ。どうも桜という木は虫に弱く止むを得なく伐採しているのだと聞 く。

ここでも両岸にはたくさんの出店が人々を誘うような匂いを吐き出して いた。子どもの頃の面影は全くといっていいほど無く、川辺は綺麗に整備され、遊歩道や花壇なども所々に設置してあり、確かに一見は桜を 愛でるにはよくなっているようにはみえる。
川底は綺麗な石畳のように敷き詰められ、勿論のこと両岸はコンクリ ートの壁状態でもあり、変に鯉など泳いでいたりする。そこでは釣りす る人や川遊びする子供の姿などはない。

昔から桜は人を狂わしているもので、近頃の桜をみているとどうも自然観を感じないのは何故であろう。


何時の頃からか自然との共生などという言葉を聞くようになってどうも 不自然感をぬぐえない。共生というと和やかな優しみを覚えるとでもいうのだろうが、「共生」をいうのなら「共死」を頭の片隅においておかなけねばいけない、はっきり言えば「共死」を覚悟しておかなけねばとかねがね思っていた。


私達は自然との共生という名の下で自然の美しさや優しさなど享受してきたのは事実で、一旦自然が暴れ出す暴挙の下では責任から逃げ出すというものだった。
諸行無常・諸法無我を説く仏教では、共死の局面で自分が助かろうというならそれは仏教ではないといい、土壇場の仏教は共に死ぬか、さもなくば他を助けて自分が死ぬ教えであるという。

数年前、美しい海岸を見せながら豊かな恵みを育んでくれた東北の海を思い起こせば自然との共生がどのようなものかは理解できようというものだ。
少々話はとぶが、当該知事達の行動は自然災害と言って国への責任や救助だけを求め、あの二万数千人という犠牲者に対して頭を垂れて責任をとった人や発言を今だかって私は知る由をえない。



2019年 3 月 25 日 

自死について 


先週若者の自死について記したところ、タイミング悪く?新聞での報道と重なってしまった。記事によると12歳までの少年の死について、自死率が22%ということであった。数字だけで判断や言論を出すことは控えたいが彼らの意識には注目したい。

彼らの原因とされるのがいじめ問題ではあろうと推測されるが、いじめという疎外感は何も彼らだけにある訳でもなく日常生活のうえでは何時の時代でもどんな形でもあれある訳で…。それが自死に至るまでとなると本質的には危険である
それは自己形成の欠如でもあるからだ。

我々は誕生から全てを他者から得ながら自己を形成している。他者から得ることで自己が愛しいのを感じるのであって、他者を裏切らない!ことをも他者から得る。
かく謂う私も高校卒業後料理の世界についていくのが困難で幾度となく辞めようと思ったことがある。未だ徒弟制度が残って不合理なことも生活の一部ということもあった。それでもそんな挫折を止められたのも自分の愛しさでもあるし、最も大きなものは母親への愛情でもあった。「母が悲しむ!」という思いは殊のほか哀しく辛く思えたのだ。それは母への裏切りでもあるからだ。母の愛情への裏切りであるからだ。

釈尊も「自分の存在を大切にされ肯定された確かな記憶があるかどうか?」「何ら根拠もない(原因ではない)誕生した存在に肯定され大切にされた思い」を私にとっては他者という両親、とりわけ母から得られたものと確信するのである。そうした条件の下で生きておれば、まずは自死など考えられないはずである。

実際には自死した親はその原因を他者にすり替えているに過ぎない。人間には自死する権利もあるが、それを止める辛さも具えている。いじめを学校や社会に原因だけを求めても自死は減らないであろう。


桜の開花が始まったそうだ、世間もそろそろ浮き足立つ模様だ。業平卿はかく詠ったという。

『 世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどかけらまし 』


春の心に浸ってみようと知多半島に車を走らせてみた。途中の道端に菜の花が美しく彩ってみせて浮き浮きした心持ちを覚える。春の海はキラキラと風に輝き長閑さをみせていた。
ただ暖かい海辺の郷も桜の季節には少し早かったのが残念でもあるが。写真はセントレア空港に着陸する飛行機と
伊勢湾の海。


2019年 3 月 18 日 

自死について


相変わらず悲惨な親子関係の事件が世間を揺さぶっている! 普通では考えられない辛さでもある。私という存在の根拠を根こそぎ削っているもので子供への虐待、そして子供の自死を社会全体で考え、親として其々再考を要するときである。私が勉強している仏教では社会をこのようにみている。

釈尊は苦しくても生きるべきだ、自殺を禁じる理屈はない。本当に死にたい人間はどんな理屈を説かれようと説得されることはない。けれども釈尊は苦しくても生きていけと言う。そう決めろというのだ、自殺してはいけない理屈はないが、苦しくても自殺しないと理屈抜きで決めた時、命は初めて大切なものになる。

 その決断はどこからくるのか、釈尊の言葉に「どの方向に探して求めてみても、自分より更に愛しいものをどこにも見出せなかった。そのように他人にとっても其々の自己が愛しいのである」。それゆえに自分のために他人を害してはいけない」とある。

この「自分が愛しい」と思う感覚、そう思う人間はたとえ困難の中にあっても、そう簡単に自殺するはずがない。「命の大切さ」の認識の根底には「自分の愛おしさ」があるはずなのだ。自分の存在を大切にされ肯定された確かな記憶があるかどうかによるだろう。自分の存在に根拠がかけているにもかかわらず、自分を肯定し、愛しく思う気持があるとすればそれは他者(両親・近親者)からくる。

後に親となる存在との理由なき出会い(誕生)、誰であるか予め知ることのできない「他己」によって無条件に受容され慈しまれること、この事実にのみ自分の存在を肯定する感覚は由来するだろう。自己の根底に非己、すなわち根源的他者を見るから殺人は自己肯定の根拠を否定することになる。

私達は最初に親子の関係をもってして人生を始めることになる。関係を縁起としたら生きていくのも全てが関係(縁起)から成り立つもので、生きることは成すがままにでもある。諸行無常・諸法無我であるように・・・・



2019年 3 月 11 日 

東大寺・華厳の炎

数日前からどうも変である…、鼻空がむずむずし目が異様にかゆみを覚えるのだ。私には縁がないとばかりに多寡をくくっていたがどうも花粉症である。
昨年あたりも異常を感じてはいたが目がしょぼしょぼすることもなく鼻炎薬を服用すれば治っていたから単なる鼻風邪と思ってはいたが残念なるかな罹患したらしい。

数年前から望んではいたもののなかなか実現できるとは、諦めてはい たがいろいろと情報を集めていたら何となくこれは行ける!と度胸を決めて出かけることにした。年齢的に考えてみても少々の無理はまだ利くと思ってのことでもある
奈良へは交通手段が芳しくなく、いつも高速道路を利用して車を使うこ とが多い。JRにも近鉄も直通でとはいかず、少々不便である。私の青 春時代には国鉄の急行「春日」の利便性が良く若者はきそって利用し たものである。

昼過ぎのんびりと宿に入って、夕方にはそぼ降る雨の中でもあったが 東大寺二月堂へ出かけてみた。寒さ対策を充分にして多少の雨でも 大丈夫とばかりにたいそうな重装備?である。

7時からの松明に二時間前からの待機であった、それでも時間の過ぎるが心なしか興奮するもので、どうも人は炎に興奮を覚えるように仕組まれているのだろうか。

暗闇の中での松明は話に聞くとは全く違って、炎とはじける音、そして飛び散る火の粉、匂いとくすぶる煙がとても幻想的でもあり五感をくすぐるものでもあった。
童子たちの動き、錬行衆の姿が闇に浮かぶのは千数百年と変らぬものと考えればそこには確かな文化の継承があった。



2019年 3 月 4 日 

雑文


天皇の退位により新天皇即位で元号が代わるという、相変わらずテレビという媒体は新しい元号の予想という愚行に走っている。一と月も過ぎれば発表があるのにそれこそ何の意味を考えよというのか。

テレビというメディアはそういう宿命を持っているのだろうが、それにしても品位が無さ過ぎるのが目に余る・・・、時に有名人が不祥事など起こすとまるで鬼でも捕まえたように人間としての優しさなどかなぐり捨てて、我こそ本当のことを伝えていますとしたり顔である。そこには「目して語らず」なんていう我が国民の品位などの欠片もないのに歎く昨今でもある。

テレビコマーシャルでは「ヘイグーグル・カーテン開けて!」なんて喜んでいるが、起床後自分でカーテンを開けてこその喜びと存在を何の否定もせず、全てがそんな調子で文化的だとか利便性ばかりにAI先進を喜んでいる。
自己は其々他者との行為という関係で自己の存在という生を支えているのだろうに、現代では他者の行為自体があたかも喜びへと通じるツールであると錯覚の様相でもある。

いよいよ1300年程連綿と続く奈良東大寺二月堂修二会(お水取り行事)が始まっている、明日5日は最初の過去帳読誦である。例の「青衣の女人」も詠まれることだろう。
私も来週には人生初めての松明を見に行く予定をしているのだが、ただこの頃の体調変化だけが心配である。

それにしてもこの頃は雨の日が多い、一雨ごとの暖かさは確実で自然の行為の確かさをまざまざと思い知らされている。


2019年 2 月 25 日 

雑文


ラインには友人からの春の便りが届いている、菜の花や梅の花などの写真が確実な暖かさを示している。H女史などはパエリヤや式部草を使った炊き込みご飯の写真をアップしている。相変わらずグルメ感を発揮していて、写真からはとても美味しそうな感じが伝わってくる。

同じラインからIちゃんが北海道の旅を送ってきてくれた。若者らしくゲレンデを駆け滑る姿や雪道の中を走る車、楽しそうな会話などムービーで送ってくれている。
広大な雪原に一本の木が美しい写真は秀逸でもあった。北海道へは行ったこともない私にはとても新鮮でもある。

のんびりとこうしてSNSなど見ていると楽しいものでもある。休み前、つい夜更かしをして南直哉禅師の本を読みふけってしまった。天気予報では曇りということもあってすっかり寝坊してしまった。本来ならJR特急で北陸福井の寺(霊泉寺)へ行く予定ではあったはずが。

カーテンを開けてから失敗だったことに・・・、、ひさしぶりの暖かい陽射しに後悔しきれない。寒さに弱い私は北陸という言葉だけに惑わされてつい弱気になっていた。
改めて近日中に出かけることにしよう。



2019年 2 月 18 日 

琵琶湖 楽浪街道周遊


寒さからであろうが…、ここのところ体調が思わしくなかった。友人に言わせると変な読書のせいだと一蹴されてしまった。まあそれも無理からぬことで、禅の書なんて一般受けしないし、況してや南禅師の言葉に対する拘りは易々と受け入れられないことは端から承知はしていたものの、こうした現代だからこそと一人ふさぎこんでもいた。


そうしたことから体調まで悪くすることも意には反していて、気分を直し て近江の空気を味わうことにして出かけてみた。以前からよく利用して いる湖岸道路、通称さざなみ街道を北部(塩津)から南部(大津)まで東 湖岸を眺めながら走ってみることにした。



よく利用している大津のホテルが廉価で宿泊できるプランがあったの  も幸いした。しかしながら、夕食・朝食ともホテルブッフェというプランで あるから些か心配でもあった。それは地元でも有名な高層ホテルのブ ッフェでもあることからついつい意に反して食べ過ぎるという何ともいえ
ない贅沢さが悩みでもあるが…。



湖は未だ寒さを残しながら、所々に春を感じさせるものがあった。この日は湖岸公園のベンチでのんびりと湖を眺めているには未だ少し寒さを感じるもののひっそりとして静かな時間が得られるのだった。


後日談

右を知るには対するもの、左を設定することにて得られるものでは
ある。つまり、死を知ることによって生を知るということもあるし、反対  に生を感じることによって死を身近に感じることもありえる訳で、齢70
も過ぎれば身近な問題発生でもある。

両親の死(二人称的死)、友人の死(三人称的死)と経験してもそれはあくまでも他人の死であり、自分の死(一人称的死)が理解できていない。最近そんなこんなを考えながら考えながらの日々でもあった。
それは仏教がもつ優しさとは裏腹な仏教の厳しさを垣間見た瞬間でもある。厳しさを知れば知るほど「無記」という余裕に
ブッダの人間性が知れてくるというものでもある。
暖かくなったら日がな一日のんびりとベンチにこしかけて考えてみることにしよう。

2019年 2 月 11 日 

雑文


俗に言う独居老人である。人為的な理由での独身生活、それもそこそこの老人でもある。数日来の体調不良にどうも生活に張りとうか粘りが出ない!仕事も自分がいないと…と変にこだわる責任感があって休むこともないが身体の芯がシャンとしていない。

連休を利用しての旅の予定も何処となく気弱な自分がいて、旅の途中に体調が悪くなったら困るとばかりに急遽キャンセルにした。ここにきて老人たる根拠が出てきた。どうもこの頃出かけた途中でのアクシデントが脳裏からはなれず、足の痙攣や体温の急変動などと若い頃には考えられないような事態にあわてふためくことが間々あるのだ。

数日前も仕事場の若い人に「目が真っ赤ですよ!」と言われて鏡を見てびっくり。一時間ばかり集中して本とにらめっこしていたのが原因なのだろうか結膜下出血を起こす始末。

私は寒さに極めて弱く、それも年々辛くなってきている。それが年齢から来る熱源の差からくるものなのか年齢から来る心の差から感じるものなのか、今のところ分からない。それにしても70という歳の空虚感なのだろうか。
そんなことで連休を買い物や掃除、洗濯と、好きな読書で過ごすことにした。

深夜、友人H女史から病気見舞いのラインが入ってきた。風邪では?と心配してその対処法や身体に良いことを知らせてきてくれた。彼女も新年から風邪で独りで辛かった想いがあるということで心配してくれていた。

「独り者の病気は気弱になります、こうしてLINEで繋がっている休まりますネ」とこんな言葉が身に染むこの頃です。
一人で生きているんじゃない!とこうして再確認する私です。




2019年 2 月 4 日 

正法眼蔵から

寒い!節分を過ぎて立春であるが、殊のほか暖かった日中も会社から帰宅する頃にはグッと冷えていつも通りの寒さに閉口している。奈良東大寺では錬行衆もほぼ決まり数日後には別火(べっか)へと入りいよいよ十一面観音への悔過(けか)が始まり、春の訪れともなるであろうが・・・、それにしても寒い!

大津の街から比叡山を遠くは比良山まで見渡すことができるが、今頃ともなると比良山は白一色へと変貌し美しい稜線が琵琶湖ごしに見られる。私の息子も仕事の関係で現在は琵琶湖畔に住んでいて、また友人K君は大津市街の高台に居を構えているが、そんな景色がこの冬ず~っと眺められることに羨ましくてならない。近江好きな私にとって、同じ寒さを味わうならそんな景色を見ながらの寒さなら我慢できるかな?っと勝手に思うこの頃でもある。

正直この一週間、頭の中はこんがらがっている…、道元禅の解釈について南禅師の書を読みふけっているところである。半年もこんな状態を楽しんでいる(不謹慎か?)と何となく理解してくるから不思議である。まあそれ程平易な言葉で解釈されているということでもあろうが、いやはやその言葉自体の意味についてが仏教的で、釈尊が不立文字と言われたことにつながるのだろうか。


言語の「超越」性や「本質」性は錯覚に過ぎない、言語の「意味」はものの在り方を決める根拠ではない。
「コップである」ことそれ自体にいかなる超越的根拠もなく、従って「コップの本質」などは幻想である。「コップである」とは、人がそれを「コップとして使う」とういう事実なのであり、そのようにある物体を扱う関係性に依頼する。使われないコップはすなわち「コップ」ではない。

「コップ」の「意味」とは、そういう扱いの形式、そのものと関係の仕方のことである。関係の仕方に過ぎないものを、それ自体で存在する「超越的」根拠や「本質」と考えることは錯覚としか言いようがない。

この種の錯覚の最もわかりやすい例は貨幣である。取引という関係性を媒介とするに過ぎないものが、その関係性を担うがゆえに、それ自体で価値あるもののように錯覚される。だから初期の仏教が貨幣に否定的な態度を示す。

そんな言語について仏教思想の核心的問題は言語において意味するもの(言葉)と意味されるもの(経験)の間にある。
少なくとも仏教における道元禅の何を意味してるかが少しづつ理解できるようになってきているのでは?。


折しも日曜日は節分で、友人NさんとKちゃんが遊びに来てくれた。夕食は豪華にとしゃぶしゃぶ鍋とマグロのお刺身等々、そして大きな恵方巻を頬張ることにした。やはり食卓を囲むことは楽しいし、いや~食が進むものです。



2019年 1 月 27 日 

雑文


暮れから新年にかけて忙しく過ぎてホッとしたのでもないが、ここのところ体調が不安定でもあった。そんな折、仕事最中に急に熱感におそわれ不安になって帰宅し床についた。最近にない寝つきで何と12時間ほどの睡眠でもある。

勿論途中にトイレには行ったが不思議と眠れたのには些か不思議でもあった。寝るという行為は力がいるとどこかで聞いたこともあるが・・・、眠る力がまだまだあったんだと勝手に喜んでもみた。
翌日も休むことは難しく、何となく体調は戻ったようでもあったので仕事に行ってみたら不思議となんともない。

日曜日は休みということもあって、兎に角身体を休めることにした。私の父も70歳まで働いていたのだし、幸い今のところたいした症状もなく無事に勤めをはたしているのだからありがたいこととは思っている。
ある意味、働かなければいけない!、仕事場に迷惑をかけてはいけない!という緊張感が健康にいいのかもしれない。
そして働けば、また楽しい旅が楽しめるということの循環がいいのだろう…。

のんびりとジャズを流しながら読書を楽しむ休日となった。この数ヶ月、南直哉禅師の書を集中的に読みふけっているが、道元禅師を崇拝する師の文面は感動的でさえあった。

『自己の存在は他者との関係の中でしか存在できない』という縁起の考えは私には理解できなかったこれまでの仏教、もしくは禅の根拠があぶりだされてくるようでもある。
昨年秋の新潮社小林秀雄賞受賞時の禅師の挨拶は言葉の凄さと眼光の鋭さにハッとするものでした。生きることにこれだけ真剣に向き合っている方の態度には物凄いものがありますね。

寒さに弱い私には当分辛い日々が続きそうです。



2019年 1 月 21 日 

仲間たちと斎宮へ


何の予定もない休日、先日行けなかった友人へ連絡をし急遽伊勢斎宮へと向かった。斎宮(さいぐう・いつきのみや)とは、天皇即位の都度選ばれて天皇に代わり伊勢神宮に仕えた斎王(さいおう・いつきのひめみこ)の宮殿と、仕えた官人達の役所である斎宮寮を言います。

名阪高速、伊勢自動車道を走り玉城 I・Cを出て東北へ数キロの多気郡明和町にある。二度ほど行ったときは国道23号線を走ったのだが、今回は日帰りということもあって高速道を利用することにした。
この辺りには伊勢神宮に関わる場所がたくさんあり、佐々夫江行宮、懸税(かけちから)神社、大淀尾野湊禊場跡地、在原業平松、祓川など等と一日では時間がない。


        


斎王は未婚の内親王や女王から占いなどで定められ、宮中で数年の禊期間を経て勢田・甲賀、土山、鈴鹿、一志に頓宮を設け郡行しながら伊勢の国へと入っている。先日仲間と行った垂水頓宮跡は唯一確認できる頓宮である。

七世紀から十四世紀にかけて続いた斎宮はその後衰退していった。その間大伯皇女と大津皇子の哀しい事件や伊勢物語の恬子親王と業平の妖しい関係を残して時代の片隅へと消えていく、それには訳があった。

近年に入って斎宮発掘が開始されているのだが、斎宮が平安朝に匹敵するほどの規模をもってはいるが発掘が困難なのはその特徴でもあった。それは瓦の発掘が極端に少ないのである。それは屋根が瓦葺ではなく萱葺きや板葺きであったという神道独特の原因でもあった。

日本の神に仕える場所では、瓦葺という外来の文化である仏経はとてもタブーであったことが考えられます。またそこから言葉遣いにも表れて経典を“染紙”と言っていたそうだ。また多くの建物の礎石がありません。言い換えれば掘立柱建築で、恒久的な建物である必要性のない神の建物は伊勢神宮正殿にみる遷ることを前提としていたのでしょうか?


観光で賑わう伊勢神宮、そして本年の天皇譲皇と表立ってのことの裏に歴史は支えられてきています。悠久の歴史などと云われている内に凄まじい歴史が内在されていましたし、神の国と言われてもいる我が国はそれでも人間性を保ちながら歴史を包括していたのです。

早めの昼食を伊勢うどんとした我々は帰路には回るお寿司を頂くほど元気で楽しい一日であったことは確か!そして平安の雅を心に感じて其々の現実へと帰っていった。

伊勢の国・斎宮を訪ね歩く はこちらを

                                      


2019年 1 月 14 日 

新年の行事


仏教以外の絶対の真理や絶対者を前提にしている宗教的言説においては当然ながら答えは結論であり、答えは一つでなければならない。
仏教は上座部と大乗の教義的相違は大きく、更に大乗仏教各宗はの差異もこれが同じ仏教と言っていいのかと些か疑問を持つほど違ってみえます。

ところが、仏教が一致しているのは「問い」という問題提起です。我々の生の、存在の苦しさとはどういうものなのか。どう認識すべきか。それに対して問題への答えの出し方(いわば処方箋の書き方)は様々でもある。あえて言うならば、問題の解決に効き目があるならば、それが何だろうと排除しなければならない理由はないのである。


         

        庫裡の入り口には魚鼓があります            琵琶湖南東岸、草津から比叡山を眺める


休日早朝から車を走らせて大津比叡山飯室谷長寿院不動明王堂へ、今年初めての藤波源信阿闍莉の護摩供養に出かけた。毎月第二日曜は普段静かな飯室もたくさんの参詣者で賑わうことになるが、この日も堂内は入りきれないほどでもあった。

天台密教の儀式には数あるが、私は尊敬する藤波師の護摩供にときおり参加するもので、この日も時間ぎりぎりに入って護摩木数本に願意を書き奉納するものであった。
90分程のお焚き上げをして終了時には藤波師からお加持を受けるものである。密教独自のこの儀式には考えてもみれば何の根拠もなくただ安寧をえるというものではある…。

それでも私は十数年来の藤波師とのご縁を大切に生きてきている、それは何の根拠というものはなくとも心穏やかになれる時間をいただけるというだけで、私には大切な行動でもあった。

今回も藤波師から今年のカレンダーを戴いてきた。そして『朝は希望に起き 昼は努力に生き 夜は感謝に眠る』とこんな言葉がみえる。



2019年 1 月 4 日 

新年の行事


新しい年の始まりです、如何お過ごしでしたか?

例年通りの新年の両親墓参だけはと京都東山大谷租廟へと行くことで新年の気持が張っていくのを感じていた。
歳毎に寒さに弱いのを変に確信しているのではあるが、ただ風邪だけは今のところ大丈夫である。


京都には東山文化と謂われるところがある、比叡山の京都側東山麓一体を指すのであるが銀閣寺をはじめ南禅寺から青蓮院へかけての文化圏である。その東南一体は所謂野辺の送りの地となっていたが室町時代以降には清水寺など巨大寺院が建立されて拓けている。

それでも南禅寺一体は京都から東京へと遷都されて、その後京都疎水の開通から一体は開発されて現在にその姿を残している。南禅寺の塔頭の中には素晴らしい庭園が残されているが拝見することが困難でもある中、先日機会を逃してはいけないとばかりに無鄰菴(むりんあん)庭園拝見を楽しんできた。

京都には累代の庭師がかなりの数有るというが、中でも現代にまで続いている庭師『植治』の七代目小川治兵衛作庭の無鄰菴は山形有朋の別邸と伝わる傑作でもある。


日本の里山というのんびりとした水の流れを疎水から引いた水で表現し、飛び石を踏むごとに見方が変わる景色を堪能できるよう造られていた。四季の花を配置し(私には花の種類が分からないが)、季節ごとの感性を楽しむことができるとも言う。

小川治兵衛は予てより名前だけは存じ上げていて、友人で退職後庭師を勉強されている I さんには一度行きたいと話してはいた。京都には重森三鈴という作庭家がいるが共に近代造園の礎を築いたことで知られている。

2019年 1 月 1 日 

新春を寿ぎ、おめでとうございます。


春くれば やどにまづ咲く 梅の花 君がちとせの かざしとぞ見る
                       本康親王七十の賀にて紀貫之が詠めるうた  古今集


仏教では、私達は縁起の中で生きていると教えています。縁起とは関係から起きると言い換えてもいいのでしょう。自己の存在は他者との関係の中でしか存在できないというものです。

他者とは自分以外の他人、そして自然や環境、時間、空間など目の前に在る常に関係する全ての存在をいいます。そもそも自己というものは言葉ではあっても実体としてはありません。

例えばそれはドーナッツの様なもので、私という謂わばドーナッツがあります、ドーナッツの穴は私の中心と考えれば自己にあたりますが実体はありません空間です、しかしドーナッツの穴といわれるものはあります。ドーナッツの穴の存在を証明するにはドーナッツの実体(小麦粉や砂糖、バター、チョコレート等々)との関係からでしか穴の存在は証明できません。それら関係を含めて自己といい、私・僕としか言いようがないのです。

その関係は目には見えません、しかし関係というものは有りますので「関係」を般若心経などでは色即是空と表わします。
禅では空とか無といいますが実はその言葉を関係と言い換えれば少しはわかりやすくなると思います。さすれば、色(社会)は即ち(関係)であると訳すことができます。

そんな縁起という関係から起きるというのですから、私たちの生活も実は自分以外のものから起こっているとしか言いようがないのです。言葉とは本来が様式の中でつけられた名前だけであって実態と云うものもありません。
器は器と認識しないかぎり器となりません。私たちがどんな高価な器と認識していても犬が使うとき器足り得ないのです。
また高価な器であっても雨漏りの時の受け皿となればそれは器足りえません。私達はそんな実体のない言葉のなか交錯した社会の中で生きているのです。


諸行無常、諸法無我という中で生きているのです、本年も有意義な年でありますようご祈念しております。

                                                            一月元旦





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