近江爺日記 Ⅰ    メール歓迎   
近江爺日記 Ⅱ

 2018年  12 月  24 日 


ずっ~と考え続けてきて、ある本を手にしてからというもの何となく糸口が見えてきた。

自分が生きていること、自らの生を全体として認識できること、直接的にいえば『私は生きている』という言い方に実感できるのはまさに老いて、病んで、死ぬからです。
物をはっきりと自覚するのは、ある事柄を否定するものと直面した時である。そして区別されることで初めて事柄全体が見えてくる。

例えば、(右)はある中心線の設定により空間を分割し、(右)の部分と、(右ではない)部分を発生させない限り、(右)として意味を持たない。つまり、物を認識する為にはそれを否定するものに直面しなければ意識できないのです。老・病・死も同じく、生きていること、存在することを全体として捉えるには否定性が必要である。

仏教は自分がいることの問題性に気付いたのです。人は老いて、病んで死ぬ。其れがいつ来るか分からない、この否定性において在る。なのに人は平気な顔をして生きているのか。仏教ではこれを最初の問いとして出している。

老いが辛い、病が苦しい、死が怖いという話ではなく、老人を見ると老いを意識し、病人を見ると同情と同時に自分が病気になったら嫌だと思うし、死ぬのはもっと嫌だろう。自分は平気でいながら他人の老・病・死を戸惑い、閉口し、忌避できるのは何故かということである。
そして自分自身が老い、病み、死ぬ存在であることの自覚がなにゆえこれ程難しいのかということだ。


そもそも老・病・死を嫌だなあと思うには「老い」「病む」「死ぬ」ということを「知って」いなければならない。そして更に根本的な問題が出てきます。「老いていく」「病気になる」「死んでしまう」という変化を認識するためには変化しないものを設定しなければ不可能である。

全ての「変化」の認識は変化しない何ものかについての「変化」です。ゆえに老いる前と後を貫通する同じ「私」を設定できないなら「私は老いた」という認識は成立しない。認識できないなら老いを嫌悪することも、若いままでいたいと欲望することもできない。
つまり、一貫して変らない「私」の存在が老・病・死の苦しみの前提という訳となる。

では、この「私」はそれ自体で本当に存在するのか?その一貫性を根拠付ける何かがあるのか?という問題提起に当たる。仏教では無我・無常と言いその存在を認めません、となると仏教は「自己」という存在をどのように考えているのかということです。


師走を数日残すこの頃にして、入り口が向こうの方に見えてきたような毎日を過ごしている。私のこのブログも今年は何やらこうした思考ロジックに終始して新しい年を迎えようとしております。




 2018年  12 月 17  日 


今年最後の連休を仲間三人で伊勢斎宮を計画してたら、奥さんの健康状態が悪いとのことで急遽O君が不参加となってしまった。この歳ともなれば自身を含めて奥さんの体調も危うく急な不参加は仕方のないことでもある。

では!予てよりとHさんに見せたいところへ行こうとばかりに京都に行くことにした。先週も行ったばかりでもあったがこういう機会は逃しちゃいけないとばかりに案内することにした。
生憎と何時ものレストランは満席で断念し近くの和食で済ます。相変わらずな彼女の食欲は健康そのもので、にも況して食べものに感謝する姿勢が拝見していても伝わってくるような方でもある。

御所内を散策しながら西へ、「とらや茶寮」にて一服、どうしても見せてあげたかった「楽美術館」へ向かった。

京都楽焼は千家十職と云って利休が好んで使った茶道具を製作する職人達の尊称であり、楽焼の初代長次郎はその中でも中心的な人であった。その茶碗はいかにもというような利休好みであり、全てを剥ぎとったなかに簡素な美しさだけを残す逸品でもある。

静かな市井の中にひっそりと楽家はあり、その隣に瀟洒な作りをもって楽美術館はある。お安くはない拝観料ではあるが、累代の茶碗を目の前にしてゆっくり見られるのは秀逸で、こうした時間を持つこともときに大切ではないのだろうかとお誘いしたことでもある。

時折「自己とは」などを、歩き、食事し、お茶しながら話して非日常な時間を楽しんで貰えたようでもあった。Hさんには毎日新聞社発行の『秘仏』なる本を頂きこの場を借りて御礼申し上げます。



 2018年  12 月 10  日 


京都御所の北隣にあるちょっとだけ知られたイタリアンレストランがある、偶然と云っていいほどのことから入ってみたら私にとり素晴らしいお店でもあったのだが、調べるとインテリ(古いか…)が来るお店でもあるらしく、当然の如くメニューを見ても理解不能なワインの名前や料理名が書かれている。

私のお気に入りは料理もさることながら雰囲気や店員さんの動きや気遣いなど、レストランって言うのはこういうものなんんだ!と教えていただいたことでもあった。


        


ランチには少早く時間があったので御所の中を散歩してみた、京都といえば観光客が多いのであるが、さすがにこの辺りは其れもなく静かなまったりとした時間だけがあった。初冬の寒さも陽が差す時には暖かさをおぼえ、風も遮られているのだろうか殆んど感じなく、遠くに子供達がはしゃいでいる声が時折懐かしく聞こえてくるだけであった。

食事後、吉田山の頂辺りにあるカフェを探すことにした。確か然る富豪であった方の別荘でもあったということを耳にしたが真偽の程は分からない。吉田山は小山でカフェまでは石階段の連続であったが、それは緩やかさをもっていたためのんびりと向かうことができ、所々に眼下の景色や山道の風情なども楽しみながらであった。

さすがに店内は混みあっていたが、幸いにカウンター席が空いていて丁度そこからは京都市内西部を遠く眺めることができる一番いい席でもあったようだ。

大津のホテルに宿泊して翌日はいつもながら比叡山延暦寺飯室谷長寿院へと出向き藤波阿闍梨さんと一時間ほどと長居をしてしまいました。
気さくな方でこの日もなんだか世間話に始終してしまいましたが、これでこの一年もなんとか終われそうです。



 2018年  12 月 2  日 


初冬の聖林寺


唯識では私の第七意識(末那識)の中に十一面観音菩薩は在る。それはいつも在る訳でもないし、在ったり無かったりする。つまり常住ではなく縁起によって観音は在る。つまり、それは在るとも無いとも云える。意識の中に実体ではなく言葉として、又知識としての五感があるだけだから空である。
だから言葉は決してものの本質を意味せず本質は言葉から生まれだされる錯覚ともいえる。

観音が観自在やら観世音というなら、私から観る観音は何ものなのであろうか。何故それが仏なのだろうかという疑問はある。泥仏水を泳がず、金仏炉を渡らず、木仏火を消さずというからには、仏という実体はない筈である。古代中国のある僧は仏像を燃やし暖をとって逆説的に大衆を導いたとも聴く。

数年前、それまで見向きもしなかった奈良桜井聖林寺の十一面観音菩薩像にお会いして以後、何かに魅入られたように毎年数度機会をつくって出かけている。

天平・国宝・仏像・美しい・造形・気品などというキーワードが言葉の錯覚でしかなかったことも解らなかった、和辻哲郎、白洲正子、亀井勝一郎という名前をもちだすまでもなく其れまでの自分はそれら言葉に反感を抱いてもいたし、あえて無視していた。観るという行為自体が本質であるということさえ理解できていなかった。

それが数年前奈良一人旅の折、中途半端な老境に入って黄泉(こうせん)に降つ身として十一面観音を観ておこうという位の気持で早朝奈良のホテルから車を走らせた思い出がある。

仏教の原点は何故という問いかけにあるが、その思量底には意味もなく答えもなく、結局は過程と事実しかない。事実の中には何故という理由はそれぞれ違うわけであるし、方法も違えば全てが違う。
まさにそれが自己は他者との関係の中からつくりだされ、自己がそこにうつしだされるということでもある。そういう意味合いから言えばここの十一面観音菩薩像は自己という私・自分にとっての鏡でもあるわけで、仏たりうるわけでもある。


        


この日早朝、名古屋から近鉄特急に乗り名張まで、普通電車に乗り継いで桜井までちょっとした旅気分でもある。残念ながらバスへの乗り継ぎが悪く、時間が勿体無いのでタクシーを利用した。観音像前では三十分ほど座し兎に角そのお顔を凝視していてみる。

一瞬口元が開きかすかな笑みを私は見逃さなかった!それは粘華微笑ともいうとあまりにも恥ずかしいのだが確かに私の心模様に笑みを浮かべられた。聖林寺内で一時間ほど景色を眺めたりお地蔵様に手を合わせたりと時間を過ごすことに。

時節柄ことのほか南天が美しい実(?)を見せて心なしか華やいだ雰囲気さえ感じさせるのだった。縁側から下を覗くと一面の段々畑が自然をみせて懐かしい気持を思い起こさせた。帰りにその辺りを散歩していたら薄紫色の綺麗な花が印象的でもあった、途中で出会った老夫人とお話をすることができ、因みにその花の名前を聞いてみたら、この土地には多いんですよ!という、その名前は皇帝ダリアであるという。

また暖かくなったら来よう、遠く御破裂山を仰ぎ見ながら日本の畑原風景と思われるような景色を満喫しながら多武峰談山神社からのバスを待ってみた。


 2018年  11 月 25  日 


井深の里・正眼僧堂の秋


このところ、少々睡眠不足気味なのである、くわえて睡眠の質もよろしくなく不気味な夢をみること数度、過去へと追いやられた人達の顔がでてくるのも些か奇妙でもあるが、これは一体何なのだろう…。
それは兎も角、年内にももう一度桜井の観音様にお会いしたく思っていたものの一人で出かけるのは先日の体調不安からか寝不足な状態では足の痙攣が心配で思い悩んだすえに、車で一時間ほどの岐阜美濃加茂井深の里、正眼僧堂へと向かってみた。

このところ、「正法眼蔵」に目をやっていて早朝まで飽きずに考え込んでいたもので、禅宗でも宗旨が違う臨済宗ではあるが法堂の片隅にて時間を戴いてのんびり座ってきた。


妙心寺の奥の院とも伝わるこの僧堂は厳格な規律で知られ、この日
も静寂な空気でしずまりかえって全ての行動が鳴り物であった。版や
鉦の音は周囲を囲む木々のなかに消え入り、時折吹く風のささやきや
鳥のさえずりだけが一際心に染み入ってくる。

三時をちょうどに一人の雲水が法堂中央で頭拝礼をして読経を始められ、それは三十分ほどであったが私はお邪魔にならぬよう片隅で正座
し手を合わせていた。この読経は誠に美しく堂内に響き、曹洞宗独特
な旋律の一定した抑揚のない単調なものではあるが、それは裏を返し
ていうなならば平安な気持を誘い出すようでもあるのだ。

庭先のメタセコイヤ化石の上に小さな松が生えているのが何を物語っ
ているのかを知らしめるようでもあった。禅堂独特な静寂は諸法無我
諸行無常を現わすに充分で雲水たちの態度にただただ敬服するのみ
でもあった。




 2018年  11 月 19  日 


古来稀なり、とは言いえて妙でもあるが、小生もそんなお年頃?となり、近江を旅しながら移ろう景色と季節を感じながらのんびりと考えてみることにした。

ブッダは自分もまた老いることは避けられない!その自分が他人の老いるのを見て、其れを嫌悪するならそれは相応しくないことだと言っている。

これは老いてゆくのを嫌うという単純な思いではなく、この述懐が自分自身も老いてゆくのを避けられないに他人が老いるのを見て嫌悪する、これは実に愚かなことだという冷徹な自己認識である。重要なところは老いるという生理現象ではなく、老いるという避けがたい現実に直面した人間に自分自身がとる態度の愚かしさなのだ。
身体的苦痛や不快という次元とは違う、それは感情ではなく若い方が望ましい、価値あることだという思い込みが正体である。

老人が尊敬され、大切にされる社会があれば誰も老いを嫌悪しないであろう。若さこそ望ましいから若いままでいたいと思う。しかしそうならない、それが苦しい。病も死もそうである。健康でいたい、生き続けたいと思う、しかし思うとおりにはならない。苦の根本は感覚でも感情でもない、「思い」なのだ。逆に言えば「思い」のない動物になれば「苦しい」など有りえない。

元来、生の苦とは生まれたい時に生まれたい場所に生まれたくて生まれた訳ではないことに端を発している。生まれることを承諾した記憶がなければ結局「根拠のない生の苦しみ」は変らない。
人にとって根拠といいえるのは無条件で従うことも含めて、自分で決定したことが説明されたうえで納得したことだけである。

四苦八苦に整理される苦しみも、結局思ったとおりにならない自己の状況や存在が苦しみなのであろう。だから、苦とはそもそも思いとおりにしたいという「欲望」に近い。思う能力のない存在に「欲望」は無縁でも有る。

ブッダの欲望については原始教典に拠れば欲望を分析し、制御し、そこから脱却することに教えの焦点がある。欲望に目がくらんで生きるから苦しいのだというのが根本認識で、それから脱する方法を教えることだ。

シンプルではあるが困難なことでもある、それは欲望の正体が極めて複雑で人間にとって根源的でもあるからだ。どの様な欲望かは言語能力による表現以外の本能というものではなく、その欲望をかきたてる「思い」があるからだ。

例えば、お金の本質(具体的存在)は紙であるが具体的な物とは関係ない、欲しいということ自体を表現する物体でしかない。お金が表現するするのは人間の所有の欲望であろう。
特定の物とは無関係の所有という行為自体の欲望である。ブッダはこの所有を徹底的に批判する。

おりしもそんな事を考えていたら、某自動車メーカートップの金銭疑惑事件が報道されていた。人間とは・・・



 2018年  11 月 12  日 


立冬も過ぎて、新聞やチラシなどでは正月のおせち料理の予約が始まっている!

ついこの間、外国の変な習慣で馬鹿騒ぎが終わってこの国もそんなことに騒いでる場合じゃないと…思っていたら、お重の真ん中に大きな伊勢海老が無意味にも鎮座しているお節を見せつけられて料理人である私も口をあんぐり…、じっくり見ているとお節の意味も何処かに隠れてしまって、豪華な食材だけが陳列というような箱詰め?を何処かの料理屋がこぞって出している。どこか何かがおかしい!

一ヶ月ほどパソコンのホームページアップができない状態であった、大津の友人K君にも電話で聞くものの、小生の無知識に何度聞いても要領を得ず、挙句に多治見のI君に家までご足労をかけて直していただく始末。幸いにして精通した友人がいることに感謝しながらこうしてアップできることを再確認いたしました。

そんな友人K君が最近の私をして禅病ではと心配をしてくれている、ありがたいことではあるが病になるほど深刻なことでもなく、ことは自己を考えているというだけで、つまりは禅を考えるということは禅に対する態度を考え直すということから始まっているということを知ることで、再考している今が実は禅を勉強することではなかろうか、ではある。

やっとというか、何となくではあるが禅の一面が見えるようでもあるのだが・・・



 2018年  10 月 14  日 


仏道をならうというは 自己をならうなり

自己をならうというは 自己をわするるなり

自己をわするるというは 万法に証せらるるなり

万法に証せらるるというは 自己の身心および 

他己の身心をして 脱落(とつらく)せしむるなり    正法眼蔵 より

 

無常・無我という、言わば否定的観念を肯定的観念にひっくり返せば縁起である。自分が何故自分であって、あり続けるのかということで、それに関して言うならば、根拠がかけているんではないか。自分がなりたくてなった訳でもなく、それは自分であることを誰かから課せられたことでしかない。

 例えば、自分の名前は両親から付けられて社会的存在としてしては人から課せられたもの、私が私であることの根拠、本当の自分いうのは最初から設定することが間違いではないのか。(これが仏道をならう…の言葉である)(自己を知るではなく、ならうである)無常・無我は常に同一で変らない何かがあるという思い込みは違う。

 
(僕が僕であるためには)自己が自己であるためには、他者が自己に要求して其れに応えることによって認めることが僕(自己)たらしめる。それは肯定でありそうでないと社会でいきられない、人間として存在できない。  自己の存在は他者(他者とはすべての)との関係の中でしか人間として存在できないならば、それが縁起である。

 

自己が自己であるためには根拠がない、自己であり続けることは無常であり無我であって縁起してるからだ。縁起とは関係であり起こることである。関係から起こるという考え方を自分の存在に適応して考えるならば自分以外のものから起こっているとしか言いようがない。

 (自己)(ならう)ことは道元禅師が「自己」を「ならう」と言うとき、その「自己」は意思し、反省し、決断する主体としての様式のことである。したがって、「自己」を知る対象として考えてはならない。「知る」ものとしては「わすれ」なければならないのである。

 「他者」との関わりの中で、これからどうしようというのか、これまでどうしたのか、今どうするのかを刻々考え、決断し実行する運動が「自己」という営みであり、そのときの「私」・「自分」はこの営みの様式についた呼称である。
「他者」とは、そもそも人間に限らず死もしかり、自然もそうであり、人間の意志や思考に決して捉えきれない何かをかかえているのが「他者」であり、その「他者」にどうやって対峙しながらも、生きていかざるをえない。そしてその「他者」から随時に応じ、呼び出されるものが「自分」である。

 道元禅師の言葉の意味は、知ったり探したりする対象としての「自分」は所詮自我であり、仏道をならう自己とは営みとしての「自分」に作り直せということである。

詳細は以後へ


久しぶりにのんびりと過ごした休日、数日来朝方までいろいろと考えていたものを少しだけ記してみた。今年は臨済宗白隠の隻手音声と曹洞宗道元正法眼蔵と少しばかり読んでいる。先般も白隠禅師の塔廟へ、また道元禅師の租廟へとご挨拶に行ってきたものの、まだまだ理解できないことばかりで・・・。
ただ何となく宗祖たちは大変な苦労をされ、そんな中でも確たる信念を得、行状に残されていることである。

釈尊は『一芔草を捻じて 宝王刹を建て 一微塵に入りて 大法輪を転ぜよ』 といわれた。


 2018年  10 月  8 日 

台風で行けなかった京都近代美術館の東山魁夷展に行くことができた。翌日を最終日となりかなり混んでいたのだが仕方のないことでもあった。

重要文化財の古色然とした奈良唐招提寺御影堂の襖絵に近代絵画は如何なものかと迷ったとも云う。日本絵画はこれまで線の美しさによって絵画となり得ていた、線をなくし面での表現は東山魁夷の琳派俵屋宗達への敬慕から最も純粋な日本の美意識を描いている

東山魁夷はこれまでの岩絵具に拠る量質感を変更してまで永遠の優しさを鑑真のため模索し薄塗りへと移行しながらも山雲・波涛に量感と流動、そして音質と静寂を描いている。
日本仏教戒律のため困難な旅の果て我が国に来た鑑真和上の眼は明かりを失っていた。そんな和上を癒すような絵を!日本の景色を!と東山魁夷は考えたのだろう。

岩礁に砕ける怒涛や風雪に耐える松風の姿、沖合の白波はざわめきたち、いつしか渚にたゆたう音のハーモニーへと変っていく。これは俯瞰とパターン化の技法なのだろうか。峠の山にかかった
霧は徐々に消えていく、滝の轟音がどこからか漏れてくるようだ。夏が近いのだろう海は群青から緑青に変り、一羽の時鳥
(ほととぎす)が啼きながら翼を広げ、初夏の訪れを知らせてくれている。盲目の僧鑑真に美しい日本の心象風景を捧げている。

例え千年後にこの絵画が残って国宝になったとしても、彼は決して国宝を描こうと筆を持ってはいない、盲目の僧鑑真和上への畏敬と思慕の心なくして『山雲涛声』を描くことはなかったのだから。


昼食をロームシアター内のレストランで済ませたのも、実は愚息勤務の会社がメセナ活動の一環としてスポンサーとなっていることから館内を見てみたかったのもあった。

昼食も早々に済ませて米原まで帰り、奥琵琶湖へと車を走らせた。予定していた琵琶湖の最北葛籠尾半島に宿泊することになっていた。

白洲正子女史がかくれ里と称した菅浦はこの半島の小さな村でもある。以前宿泊の折には余りにも美しい湖畔と竹生島が印象的で、晩秋のこの季節の雰囲気を味わいたくて予約しておいたのだ。

この日も台風一過の素晴らしい天候が静寂と暗闇という奥琵琶湖の表情をみせて堪能できた。早朝にはキラキラと朝日に光る湖面のむこうに凛々しい竹生島がくっきりと浮かんでいた。



 2018年  10 月  1 日 

今年は台風来襲が多いのではないか?いや、どうも自然災害が多いような気もする…。自然災害とはいっても、其処に人間が住めば自然でもなく自然と共有・共生してるとは云うものの都会人と同じような生活習慣ができる以上もはや自然と共生とは言えない。

過去に経験したことがないような風雨、と発表の都度に河川の氾濫や、ともなって崖崩れや地すべりと各地で起きている。災害地の爪痕が映し出されるたびに考えさせられることはこんな所に家が・・・である。先般札幌の地震である区が液状化現象で家々や道路が陥没しているのは沼地を土盛りして人間の住いを造ってきた結果でもある。
山を削って宅地化し、その山には手が入れられず保水力などはなく一度雨が降れば氾濫の危険に曝される。考えてもみれば都会も同じく構造物の落下や交通網の停止から生活が止まるほど。

すっかり連休の予定が狂ってしまった・・・。それでも久しぶりの台風一過のいい天気で、洗濯や掃除とすませて
思い出したように両親の墓参りをすることにした。どうも墓石信仰は考えてもみないが両親の骨が有るというだけで放っておくわけにもいかず年に数回は来ることにしている。

先日、私のラインに永平寺の山門の聨(れん・額)の言葉が記されていた。友人K君は知っておられたようで嬉しく思った次第。折りしもこの頃はハラスメント問題で何かと人間の付き合い方が問題とされている時代。生きるということの原点はここにあり。



右聨  【家庭厳峻  不容陸老従真門入】
  かていげんしゅん りくろうのしんもんよりいるをゆるさず

 永平寺という家庭は、仏祖の家訓に厳しく従う。
どのような社会的地位のある人でも法心のないものは、この門より入ることは許さない。


左聨  【鎖鑰放閑  遮莫善財進一歩来】
  さやくほうかん、さもあらばあれ、ぜんざいのいっぽをすすめきたるに

 そうではあるが、山門は鍵もかけず扉もない、入り口は常に解放している、善財童子のような道心があればいつも、その一歩を進めて入れるようになっている。  

厳しさと優しさは同居して一如である。



 2018年  9 月  24 日 


東奔西走である、いやはや元気でもある。健康に恵まれて亡き両親に感謝しながらあちらこちらと飛び回っている。

先日は隻手の音声公案完読の折には沼津市原町松蔭寺白隠廟参詣し、今週は正法眼蔵全巻完読祈願の為、福井吉峰山永平寺道元廟へと手を合わせてきた。
数年ぶりの永平寺は、私の若い頃通った寺とはすっかり変貌して行く度に何かが違うと思いながらも、兎に角廟へは行かなければならないと思っている。


道元は師・如浄に喧しく「権力には近づくな」と教えられ、結局斯波氏に招かれて、現在の永平寺から南に近く香梅山吉峰寺へと入った。鎌倉の幕府からも招聘の旨も退けて深山渓谷での只管打座へと求めていった。武家という権力に傾倒していった臨済とはまったくもって正反対でもあった。それ故に華美や装飾・荘厳といった感覚は縁遠いものではあったのだろうが…、


比叡山延暦寺横川にある道元の廟もある意味人知れずただただ座っているようでもあった。それは即威儀仏法と教えて朝の洗顔から就身の姿まで形式に沿った、所謂形式美をも感じさせる美しいものである。それには全てのものに感謝するという底が覗えるからでもあろう

渓声山色清浄心、私は宗派こそ違え比叡山延暦寺飯室谷へ伺うとそんな道元の言葉を思い起こしながら法の声を聞くことにしている。


丁度この日は秋分の日、秋のお彼岸でもあった。生憎と夜空はたくさんの雲が支配して清々しい満月は望むべくもなく、それでも時折雲の切れ間から瞬間でもあるが美しい月を見ることができた。
雲はれて のちの光と 思うなよ もとより空に ありあけの月 【夢窓疎石】 詩をおもいやりながら美しい月も、いや雲の流れもやはり自然で美しいものではあった。


山門の大きな額『家庭厳峻にして陸老の山門より入るを許さず』とは禅道場としての永平寺存在意義でもあった。
永平禅道場として雲水にあたられる態度は、喩えどんな権力の者でも、喩えどんな富裕なものでさえ、また普く悟りを得たものでもあろうと、専心研鑽の心なきものは一切入れない!との本願は如何にこの道場が厳しいものであるかを想像だにするものでもあろう。


 2018年  9 月  17 日 


伊勢の海は豊かでもあったのだろう、その証拠に伊勢湾へ何本もの大きな川が流れ込んで、山からの恵みを運んできている。桑名の湊から二見浦まで美しい浦が続き、それらはすべて大きな川の造形でもある。
その造形は近代まで形成されてはきているが、しかしながら確実に風景としては成立してこなかった。自然を力づくで押さえ込もうとするコンクリートの塊が浜辺を守っているようにも見えるものの、そんなもの所詮は強大な自然の前では思わせぶりであろうことは先の津波が教えてくれているはずだが…。

松坂市櫛田川と伊勢市宮川の中間に見落としそうな小さい川がある、多気郡明和町斎宮の辺りからの水は大堀川となって大淀へと流れ出る。大淀とは古代史的には湊であり、この地は伊勢神宮を斎しむ場所であった。


      


神宮(伊勢神宮)には一年に1500とも云う祭事が行われるという、そんな祭祀の中で重要とされる三節祭(6月・12月の月次祭
(つきなみさい)、9月の神嘗祭(かんなめさい))その中でも最も重要な神嘗祭はその年に収穫された新穀を最初に天照大神にささげ恵みに感謝するものである。
斎宮御所では厳重な禊斎生活をし,神嘗祭の一ヶ月前には斎宮を出て離宮院に入り御禊の後この大淀まで出向き修祓
(しゅばつ)することが倣いでもあった。
現在名大淀は古代『尾野湊御禊場跡・
おののみなとおんみそぎあと』であり、美しい海岸でもあったのだろう。

この近くには伊勢物語の業平が残したという業平松があり、その100mも南に位置するが先日はなかなか探すことができなかった。その大淀港からゆっくり歩を進めてひょんなことから目をやると倉庫らしい側面に『尾野湊御禊場跡』という文字が目に入った。
道もないようなところ、現実は畑の畦道とでも云うようなところを無断?で進入すると立派な石碑がのっそりとでも云うように建っていた。是ではなかなか発見できない訳でも有る。午後の木漏れ日が降りそそぎまるで時間が止まったような空間でもある。夏草の生い茂ったこの場所は、古代には浜であって美しい波と優しい波音が交差していたことだろう。

旧暦9月17日はその神嘗祭であり、現代ではその稲穂の生育が未だであるため10月17日となってはいるが。その稲穂を束ねたものは「カケチカラ」というのだそうだが是も先年この近くで発見したことでもあった。
そんなことから伊勢の旅へと出かけてみた。



 2018年  9 月  11  日 

月並みではあるが、昨日古稀を迎えた。昔から古来まれなりと謂われるほど長生きの目安でもあったのだろう。私の父親は古稀までは会社員として50分位の通勤をしながら勤めていたが、確か?その後10年ほどはのんびりと余生を過ごしてと思うのだが…、現在私は結構動くこともできて社長からは死ぬまで!と冗談とも思うほど重宝されていると素直に感謝しながら毎日勤めに励んでいる。
何とか父親の歳まではと思っているのだが、是だけはですなあ~・・・・。

ヤフオクで仏教書「道元・正法眼蔵」全巻八冊を落札した。販売価格の四分の一位だからお得といえばいいのだろうか。
正直、数日間落札価格が上がらないので、どうしたらいいものなのか?不安でもあったのだが、結果的には誰も入札もせず私だけが提示価格で落札と云うから「こんな本は誰も興味ないんだ??」と思えて一人悦に入っている。そういう訳であるから、そんな本も完読までは数年かかることだろうから、当分私は一生懸命働いて、いろいろ勉強しながらあの世に行くこともできないとほくそ笑んでいるのだが・・・。

毎月第二日曜日は比叡山横川飯室谷長寿院護摩堂では千日回峰・北嶺大行満大阿闍梨藤波源信師の護摩供養が修奉される。先月急に仲間と行くことになって曇天の中を幸いにも傘も使うことなく挙行してきた。師とは十数年と長いお付き合いともなって、たくさんの参詣者のご接待に忙しい中いつもながらの優しいお顔で身体を気遣うお言葉をかけていただき感激しながらの帰宅でもあった。

いつもなら護摩供もなく参詣者も居ない静かな日にやって来て、のんびりと阿闍梨さんの淹れていただくお茶を頂きながら世間話や仏教話をしながら至福の一時を得て満足気に帰るのであるが。
先月の地蔵盆(放生会)に献灯してあるので庫裏の裏、地蔵堂へと足を運び私の献灯を探してくることにした。いつも通りに中央地蔵尊の右肩上に掲げてあり今年も健康祈願を地蔵尊に手を合わせてきた。


帰路は往路と違い高速道を省き、琵琶湖東岸さざなみ街道をひたす  ら走り、左手に雄大な琵琶湖を見ながら仲間と楽しい話をしながら、  お菓子など頂きながらの走行となった。一人旅もいいものではあるが、こうした仲間と年に数回ではあるが一緒の散策は誠に心地よく、K君  などは次回の行き先などを予定するどでもあった。

先般も孤独な楽しみ方なんていう書籍を見つけたのだが、まさに私は 孤独を楽しく愉快に意義深く生活しているんだろう。ただこれも健康で いい職場に恵まれているからでこそ!という誠に恵まれた環境と立派 な身体をいただけたものであると感謝だけは忘れないようにしている。



 2018年  9 月  3  日 


公府の案牘(こうふのあんとく)をご存知であろうか?

禅宗、中でも臨済宗は看話禅(かんなぜん)と云って祖師たちの言行録など集めて道師たちの参究の手だてとした問題で、唐府庁の律令案内という意味から公府の案牘『公案』とよばれて臨済録・無門関・従容録・碧巌録など多々存在する。

       


仏租の言行は難解で奇異に満ちたものであったが、江戸中期駿河の原村(現・沼津市)松蔭寺住職であった白隠慧鶴が道を求むる者のために解りやすく言葉にして禅の隆盛に寄与したという。
少しばかり禅に興味をもってから30年ほどにもなるのだろうか…、『隻手の音声・せきしゅのおんじょう』という白隠の公案を考え出してから二十数年、一体何が言いたいのだろうか?何を表したいのだろうか?などと今になって思えばくだらないことばかりを思考していたが…。

隻手とは片手ということで、両手で叩けば音がでる、音が聞こえる。片手でならばどうしたならば音が出るか、音が聞こえるのか?という問題である。

近年、改めて本を読み直しながらもう一回だけぎりぎりの処、何もかも捨てて本来の自分に集中してみるとそんな音が聞こえる気がしてきた。聞こえるとは言いようではあるが、隻手とはどうことなのだろうかから始まっていた。

休みの日、いてもたってもおられなく早朝から新幹線に飛び乗って静岡県沼津市原の松蔭寺へ出かけた。松蔭寺は白隠の住持していた寺であり、示寂されたところでもある。そんな寺に一度は手を合わせに行かなくてはと予てよりの望みでもあったのだし、少なくともこうして素晴らしいことを教えていただけたということの御礼には行かなければという思いでもあった。


 2018年  8 月  27  日 


この年六月初旬であったが、仲間三人と思い付きで出かけた北近江散策で見た虎御前山山頂展望台からの田圃アートのそのあと!を見届けにフラッと寄ってみたのだが、どうも先般来の台風の影響なのか所々の稲が横倒しになっているため例年になく色鮮やかとはいかず、それでも三成君と元三大師御札姿と判別しうることだけはうれしい。


        


久方ぶりの北近江をブラッと歩いてみたのだが、この日はいつになく青空の綺麗な日であり、少々陽射しの強さは感じるものの清々しい気持であった。
南浜海水浴場の辺りへ車を走らせると小さな浜ではあるが家族連れや若者達が湖畔で遊んでいた。やはりここまで来ても近頃の海水浴?は波と戯れることではなく、湖畔でのBBQやウオーターバイクやボードなどで遊ぶことであった。

ただ2・3歳児位であろう幼子の水遊びが何故か嬉しく思われ、無心でゆっくりとした波に奇声を上げて喜ぶ姿に子供ってこうしたものなんだろうなと。

旧東浅井郡の北近江、大きく肥沃な大地に美しい実りが垂れ下がってもうすぐに収穫の秋が来るようでもある。
集落の畦道を歩きながらカメラのシャッターを押していると、小さなトラックが止まった。『何かあるんですか?』と地元の叔父さんが不思議そうな疑問を投げかけてきた。
『大地と空の美しいコントラストが美しいですね』と畦道に入った無礼に頭を下げた。

土地の方には当たり前の風景がこの私には殊のほか羨ましいほどの美しい景色でもある。遠く霊峰息吹山を眺めながら琵琶湖へと流れ出る小さな流れの水は美しく透明でそして冷たかった。
数日前までは灼熱のコンクリート道路もこの日はほんの気持優しい熱さに思えるのは軽く肌をなでる秋風のせいであろうか。
こんな風景のどこかにもう秋を孕みながら時が進んでいく。

 2018年  8 月  20  日 


一昨日私用で地下鉄に乗ったのだが、その異様な風景に聞いてはいたものの少々驚きを感じた。日曜の早朝ということで楽しげな乗客がさぞ騒がしいと想像していたら…、地下鉄特有のゴーという音と車輪が擦れる金属音だけという何処やら無機質な空間でもあった。

座席に座っている方々は勿論のこと吊革を持っている方や、練習試合にでも行くのだろう?高校生のグループまでその殆んどの人々がその手に携帯電話を持っていた。中には音楽でも聞いているのかイヤーフォンをつけて目を閉じているひと、他の人達も何やら真剣な目つきで見入っている。新聞や雑誌など読んでいる人は皆無であった。

確かに車を運転して仕事へいく私も予て良く見ることが携帯電話を見ながらの運転で、信号待ちともなるとたくさんの方が携帯の画面に食い入るように見入っているのだ。何を見ているのだろうか?其処まで見なければならないものは何だろうか?
私の勤務するちょっと高級な和食店でもどうかするとカップルで互いに食べながら携帯を片手に話し込んだり会話のない時間をもっているのを目にする、なんだろう・・・この風景は

その昔、二宮尊徳を幼い頃家の用事で薪を背負いながら本を読んだという、また明かりがないときには雪に映える月明かりが読書の明かりだったと私たちは勉強したものだ。現在人は自動車運転という危険極まりない時まで携帯電話を見ながらである。もう自殺行為とさえいえるのもので、いい大人がである。

そんな携帯電話を所謂スマートフォンに替えた、何故かガラパゴス携帯という時代物?を使っていたのだが使用料が変に高いし、バッテリーやら本体に消耗が激しく仕方なしにという決断で換えた

もとより。パソコンやタブレットも持っていてニュースやメールというもの、ラインやツイッターなど知ってはおるものの、このような危険な状態の中でも見なくちゃいけないものは私には理解できない。
情報など知っていて何にも得るものなどなく、智慧を働かせるツールとはなっていないのが近代のITでもあるのだだし、ITを開発した連中にしてもインテリジェンスを感じもさせないのだから。

スマホ、タブレットを換えて一両日悪戦苦闘の日々である。





 2018年  8 月  15  日 


毎年この季節がくるとどうも面映い…、きょう15日は終戦記念日、お盆と重なって先祖が引っ張り出されそれも戦争犠牲者と重ねてメディアに出てくる。悲惨な状況を見せておいてだから戦争は反対だ!という理論に向かって走る。
本より戦争なんて良いわけでもなく、戦争ドラマの中には愛とかいう美しいものなど一つも無いのに、何処からか美しい話を持ってきてすり替えが行なわれて平然としている。

悲惨だから戦争は反対なんて何の説得力もないのだ、悲惨というなら交通戦争に始まり自然災害は今や人的災害とも、挙句原子力エネルギーにまで悲惨であるから止めてもいいはずなのに・・・。
世界ではいろんな理油による戦争があり文明が進んだ現在でも人間は止めることが出来ていない。


世間の法というものは民法・刑法にしても国民が従わなければならない決まりである。仏法という法はお互いの決まりである。お互いの心の中には絶対従わなければならない決まりがある。それが心法であり、仏法である。
臨済義玄は『法とは心法是也』と提言せしめた。

お互いの心の中の決まりが法である、物の決まりは科学であり、真理が科学であるならば、心の中の真理は仏陀が発見した法というものである。
そんな真理と云うものは普遍性がなければならない。また人間の心の中の真理は誰にでも分かるものでなくてはならない。誰もが持っているものでもあり、そうしたものが真理である。

誰もが共通に持っているものが、お互いの心の中に一つある、それらが分かることが仏法がわかるということで、それを発見できることが宗教であろう。如何なるか是仏法の大意!
何も法華経や般若心経を読まなくても説明しなくてもいいのだ。形もなく、色もない、姿もなく何もない、しかし生きている自分がその心を見せねばならない。
釈尊は花を粘って見せた、臨済は渇!を徳山は一棒を、瑞巌は主人公と、一無位の真人ともいう。


盂蘭盆会の最中、この季節になるとつらつら思うのである。



 2018年  8 月  6  日 


猛暑!炎暑!である。 是までの認識から謂えば山間部というのは涼しい!という場所であり、少なくとも都市部と比較すれば山や川に恵まれた地方というのは涼しいというのが当たり前のことであって、夏休みともなれば山間部へ出かけ、木陰で涼み川遊びの風景を目にしたものだ。
ところが何故か最高気温を記録している所がそんな山間部というから少々分かりづらい。

何十年ぶりと云うか、青春時代以と云う夏の浜辺添いのホテルに宿泊してきた。それこそ海という普遍的なものでも環境という観点からでは変れば変ったとつくづく思いながらの一泊でもあった。

子供心にも夏の海は見知らぬ世界でもあったし、青春時代はそこはかとなく自由な空間でもあった。それでも私の青春時代までは確実に夏の海は存在していたし、現実とは離れて高揚する何かが存在していた。いや、夏という季節感は確実に私に動揺させるに値する何かが存在していて、そんな夏が終わると妙に焦燥感に襲われ、恥ずかしげもなく友人と残照を見送ることもあった。

マウントフジジャズフェスもそうであったし、合歓の郷ジャズインもそうであったように、新しい音や激しいリズムに若さをどのようにコントロールしたらいいのかも分からず、ただひたすら若さの集団の中に蹲っているだけでもあった。
でもこの期に及んで、そんなサウンドが懐かしさだけでなく生きていたという想いと一緒に聞こえてくるから不思議なものでもある。

青春とはそうしたものであろう…、もって行きようのない怠惰感や正義感を何かにぶつけたくて必死に蠢きつづけていたようでもあった。

にしても、夏の海辺は静かで平和であった。たむろする群れもも見なく、やたら音に狂う野郎もいない、それでいて残照に悲しむカップルも見えなく、地元であろう奥さんの犬の散歩が夕日に美しく私はボーっと見つめていた。

現代の楽しみは形のある物でなければいけないのだろう、海へ来ることなんて楽しみでもなく、海辺でBBQをやることが楽しいであり、ジェットスキー(水上オートバイ)が楽しいのであり、仲間や友人と波に遊ぶことなんて楽しみでもないのだろう。自然と遊ぶということはそういうことなんだろうが…。

私はホテルの最上階、空調の効いた涼しい部屋から浜辺を見下ろし、そんな事を回想していた。怠惰な自分がそこにいるのもそのとき分かっていなかった


 2018年  7 月  24  日 

生命に係わる危険な猛暑らしい、確かにクーラーの苦手な私もクーラーをかけていないと不安となるくらいの暑さを感じる。仕事柄日中一番暑くなる時間帯に出勤ということになるのだが、この一週間では体温を超すほどの気温は連日で、深夜帰宅する時に見る町の気温計も30という数字に左程驚くこともなくなっていている。体温より熱い空気を吸っている訳でして、これでは病気にならない方がおかしいのかもしれない。

そんな訳で休日の連休を予て読みたいと思っていた『寒山拾得』の詩集を読むことにした。もう数十年前に一度読んではいるのだが、この歳になって何処まで理解できるのかと少し期待もあってのことではあるが?
寒山詩306編、豊干詩2編、拾得詩55編からなる高大な漢詩で、特に寒山詩は道教から仏教への転進がみられ、仏教それも禅への傾倒が厳しく感じられて秀逸な詩でもある。

寒山の生き方のように枯木寒巌に知足住すれば現代の世の中少々変人か世捨て人に見誤れ兼ねないのだろうが、ただその精神の片鱗だけは持っていたいと思うのだ。ここに少し「平等と差別」についての寒山詩を記しておく。

貧驢ひんろ)には一尺を欠き、富狗(ふく)には三寸を剰(あま)す。 若(も)し貧に分えること不平ならば、富と困と中半すべし。
始め驢の飽き足るを取らば,却って狗をして飢頓
(きとん)せしむ。 汝が為めに熟(つら)つら思量(しりょう)すれば、我をしてまた愁悶(しゅうもん)せしむ。

 翻訳
貧しいロバは一尺でもまだ足らないが、裕福な犬はロバと同じく与えられた一尺を三寸も余している。もしロバに与えること公平で無ければ、ロバと犬に折半すべきである。最初からロバに十分飽きるほど与えたならば、逆に犬を飢えさせて困らせることになる。貴方のためによく考えてやると、自分の方も憂え苦しむことになりかねない。


差別なき平等は悪平等であり、平等なき差別は悪差別といわなければならない。仏教では差別即平等といい差別の当相そのまま平等であると教える。差別と平等は不二一如でもあり、言い換えれば平等即差別と他ならない。

一般に差別とは千差万別の現象をさすが、万象の根本的存在をさして平等という。これを儒学では「理一分殊」と謂って、絶対的存在としての理は唯一にして、現象的には種々の差別相のあることを述べている。

近代に入って、ローラーで全てを押し潰し均したような平等論に僻々している
私にはそれこそ個性的な本具を見せてくれている。どんな時代になっても変ってはいけないものもあるのだ。


 2018年  7 月 17  日 


夏がやって来た! 私にとっての夏はやはり天台密教の夏安居(げあんご)であり、毎年何 らかの形で夏安居を見守ってきた。行者の姿態は凄さを見せながらも内に美しさをもって、 鎮護国家も表題を掲げつつ己の悔過(けか)をするというのもの、こんな時世だからこそ必 要とされるものではないだろうか?


七月十六日、大津伊香立坊村勝華寺では揃って御斎(おとき・昼食)をとり、累代宮垣善兵衛 が祖師相応和尚以来継いできた花折峠までの道案内をしている。花折峠では常喜・常満さ んが葛川まで案内を引き継いでいくのだ。

今は隠居された先代善兵衛さんとお話をする機会があり少し話を聞かせていただいた。そ の矍鑠たる姿に累代守り伝えている歴史に誇りのようなものがみえて私は羨ましくも思う のだが、いやいや歴史を伝え守っていくということの大変さは私ごときにはとても出来る
ことではないと思う。

この日、全国的な異常気象という高温の中、蓮華笠に白の浄衣、八目草鞋と行者姿も美しく揃っての出立をお見送りできてご縁を結んできたのである。

前日、この暑い最中に娘 I ちゃんと N さんの三人で京都のレストランランチを済ませて祇園祭前祭宵々山の山を見学してきた。
全国祇園の総社の祭りとあって京都祇園祭は七月の一月をかけての祭りである。山鉾巡行がメインととはみられているが実は八坂神社の神輿ご神体渡御がその中心である。平安の昔、飢饉飢餓からの救済祈願がその成り立ちである。
この祇園祭もここ数年出かけては山鉾巡行、宵山の夜、そして宵山の昼など経験してきて何かと祭りの経過が知ることができたと思う。



 2018年  7 月  9 日 


かねがねおもう事があり、先日そのことが余りにも無神経な形でみられたのでここに記しておく。

私の若い頃、ペンの暴力と謂って何かと問題視されたりテレビというメディアに執り立たされていたものだ。其れがいつの間にか新聞媒体ではドキュメントや論評は企画されなくなり、報道といってもテレビやパソコンの前では即時性と云う点において遅れは当然で、その使命も影が薄くなってきている。

今ではニュースソースはテレビからという人が大多数では無いだろうか? 毎日のように各局から報道されるニュースソースはかもするとどの局からも同じことのくり返しとなり、些細なことへと拡大し別に知らなくてもいいことまで発展してゆき、うんざりと云うほど垂れ流してくる。

時に報道は正義の代弁者なのだ!となんてどうやら錯覚しているような節をも見られるし、どやどやと他人の心の中まで土足で入っていくような節度の無い報道とやらをみせるのだ。

先日先のオウム事件の執行が突然というふうに行なわれた。一箇所でできないということらしく、其々各地の拘置所へ移されてきた経過から近々には執行!か?と憶測もあったが。
それに附けても各地から入ってくる執行の状況が、是見せ由がためのようにリアルタイムで入ってくるのを、キー局の報道は早朝からパネルに名前を書いた写真に次々と準備中・執行という札を貼り付けていっていく。…ん?
まさか選挙じゃないだろう…、バラエティー番組なのかな・・・。

七名の死刑執行はオウム集団ということを考えても多人数の同時執行ということが興味を煽っていたのだろう。
それは死刑制度云々はさておいても、余りにグロテスクとは感じないのだろうか?番組制作はそれこそ集団で製作しているものなのだろうし、中にはコメンテイターとして有識者?という方々もいるのだろうし、何よりも報道者としてのモラルやコンセプトを持っていたとは到底考えられないものでもあった。

時に各拘置所前からのマイクの前に立っている人の言葉にはメディアの力が見えてこない。又、スタジオに居るスタッフの言葉にも重みや尊厳、そして厳格という雰囲気さえも感じられないのは、現在のメディアの態度に人間としての品位の足らなさなのだろう。

数日を経過して、このような意見や反省も聞こえてこない、この国も殺人とか事故死など死という問題を軽く考え、其れは日常茶飯事で当たり前というどこやらの自由な国のように凋落してしまったのだろうか。
我々は生・老・病・死というものから離れて生活することはできない、万物は例外でもなく、だから我々の先人は死と云うものに対して尊厳や品位をもって接してきていた。

私も七十年ほど生きてきて、どうもこの頃何かがおかしいとつらつら思うのだが・・・



 2018年  7 月  2 日 


今年の梅雨はどうやら例年より早く明けるらしい、この季節予定日は決めたものの、当日まで天気が気になるもので、起床後窓のカーテンを開けるまで心配というもの。
私の4WD青のポンコツ車は殊のほか壮健で先日ブレーキ周りを治療したほかは快調に走行している。この日も仲間六人を軽々と乗せて立派に走ってみせた。ここのところ幾度となく走った国道を友人O君は気分よく奈良桜井へとハンドルを握った。愛車の助手席にはなかなか乗る機会が無いのだが、例の如く行き道は彼が運転してくれるのだ。

そんなポンコツ車は少々音がうるさいし、少しばかり乗り心地も良くは無い?、とは言うものの最大八名が乗れるという誠に経済的なポンコツ車でもある。それはこうして仲間との散策に威力を発揮してこの日も一人当たりの交通費(高速代・ガソリン代・諸経費)は二千円を切るというものだった。
其れよりも何が良いかというと、一日仲間と車内での会話が弾むことではないだろうか…。


この日はH女史の希望で桜井の安倍文殊院参詣に始まり、同市押坂 集落の古墳群(舒明天皇陵・大伴皇女陵・鏡皇女墓)を探索、前回時 間の都合で行けなかった宇陀市室生寺参詣となった。

初夏を思わせる日差しの中で汗のしたたる散策でもあったが、良く したもので得てしてこうした日は心地よい風があり、山懐を歩くに は絶好の日和でもあった。


陵を見回って帰れば、木陰で戴く冷えた麦茶が一同の喉を潤して一 気に楽しさが爆発するようでもあるのだ。紙コップであるが、こうし て戴く冷えた麦茶は何よりも勝るというものだった。


其々の人が其々の忙しさの中、こうして時間をつくり合って一日を 過ごす、老漢となったポンコツな私には何より楽しい時間でもあるのだった。


 2018年  6 月 24 日 


梅雨の間、休みだというのに全く予定もなく二日間をのんびりと過ごした。近江を少しばかり歩いて来ようかとも思ったが来週にも奈良散策の予定があると思いとどまって体を休めることにした。
気持ちの上では一人ゆっくりと仏像でも観たかったのではあるが毎週のようにふらつくのもどうかと…。

ところで人々は何故仏像を観ようと考えるのだろうか?
仏には法身・報身・化身と三身ありますが、法身とは真理そのものとしての仏、つまり本質でもある。報・化身は用、それがはたらいてでたものである。
仏像などは報化の二身であり、浄土も地獄もこの世も山河大地、草木叢林、有情無情の一切がことごとく如来の真法身であり、一切処その場その場が浄土であるというが、この真理は見性得悟したものでなくては見ることができない。

そこで、諸仏(仏像)は報化の二身に現われて衆生を導かれると考えた。禅定にしても念仏にしてもたゆまず修行して怠らない、妄念・情識がなくなり心と念仏が一体となれば一心不乱の三昧に入り、そこでたちまち如来の真法身に契当するであろう。言葉を変えていうならば是こそが見性ということになる。

そうなれば、肉眼のみならず天眼、恵眼、法眼、仏眼とひらき、一切を見透し照らし見ることができ、成所作智(前五識)、妙観察智(第六識)、平等性智(第七識・末那識)、大円鏡智(第八識・阿羅耶識)が円満に成就し、差別にとらわれることなく、全てを映しだし、諸相を正しくとらえ、正しい行いを実践できるようになると説く。これが諸仏の本懐であり開化智見道ということであり見性とも言う。

往生来迎といって、
あらゆる妄想・情識がなくなることを「往」といい、
念仏・禅定と我々とが一体となり一心不乱の境地を得ることを「生」といい
仏法の真理がありありと現前することを「来」といい
そこで修行者が世界と一体となり、仏の心理と一体となることを「迎」という。

こうしてみれば、来迎も往生も仏知見を開くこととおなじであり、畢竟見性ということに他ならない。禅定も持戒も念仏も誦経も全て仏道修行は
見性を助ける方法でもあるのだ。
故に三身はそれぞれ別なものでもなく一体不二である。ある僧は紙に書かれた文字が仏の教えであり真理だと偏執し、泥で造った仏像が化身だと思っていては真の仏は夢にも見ることができないであろうとさえ言っている。

又、来月にも桜井の観音と対座して来よう…、



 2018年  6 月 17 日 


行く川の流れは絶へずしてしかも本の水にあらず、よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。世の中にある人とすみかとまたかくのごとし・・・、に始まる『方丈記』である。

下鴨神社糺の森は現在の数十倍はあったと謂われる、現在でもその静寂は保たれ、せみの小川など五筋ばかりの小川は美しい流れをその足元に観ることができる。五十路を過ぎて人生を破棄出家した鴨長明はそんな流れの中に人の世の無常(常が無い)を見たことだろう、しかしながら棄てきれない思いをも捨てた後に方丈(四畳半)があったのだろうか?

『方丈記』最後に、ただかたはらに舌根をやといて不請阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ。と筆を収めている。果たして精神は仏道に行き着いたか?或いは否三度程お唱えすれば…世俗はそんなものと居直ったか?

寒山詩に「安身の処を得んと欲せば寒山は長く保つべし、微風幽松を吹く、近く聴けば声いよいよ好し」とある。陶渕明の桃源郷か、寒山の幽境なのか、共に理想郷であり見性の田地であるが、鴨長明方丈は彼にとっては何れだったのだろうか。

梅雨の間さつき晴れの下、京都下鴨神社糺の森を歩きながら考え   ることにした。河合神社の中にそのレプリカを見て老境ならでは想  いが走っていくのだった。

京都近くに宿をとった、そんな折早朝に尋常でない揺れに襲われて 飛び起きたのは偶然ではないのだろう。世の中にある人とすみか  とまたかくのごとし…という無常がふっと襲ってくる。
咄嗟につけたテレビからはその現実を見せて狼狽する人々が右往 左往していて、整然とした都会生活のインフラ整備も自然の猛威の 前では如何ともしがたく、突然という力の前では成す術もうてない のが人間でもあった。

メディアは又もや「あの地震をわすれてはいけない」と連呼してい るが、あの地震を忘れないということは、
変らないものなど無い  ということを忘れない!ことなのだ。

鴨長明はそう言いたかったに違いない。それは自身の人生を思えばこそなのだし、糺の森せみの小川をポツンと佇みながら流れに目をやれば、そこに老境の自分が写ったのだろう。


 2018年  6 月 4 日 

私の突然な誘いにもかかわらず、友人O君、H女史は近江行に付き合ってくれた。 関が原ICから365号線・長浜街道を姉川まで走り姉川合戦場跡の風景を遠くに思い、小堀遠州菩提の近江孤蓬庵では遠州好みを肌で感じ、元三大師を奉る玉泉寺へ、近くの虎御前山展望台へと車を進めた。小さな展望台だが眼前に伊吹山から手前へと高月の町そして肥沃な近江平野が拓け、西方は横一文字に北陸本線が走り、その向こうに雄大な琵琶湖が眺められて片隅に竹生島がポツんと浮かんでいるのが見える。。

塩津街道常夜燈前のあじかま道の駅で少しばかり遅めの昼食を鯖寿司と蕎麦に舌づつみし楽しみ、久しく訪れていない菅浦集落へ向かうことに、この日は予想外に湖が似合う天候で穏やかな湖面に爽やかな風が心地よいものである。それでも初夏の陽射しの下でうっすらと汗を感じながらの村内の散歩には至福な時を味わうに十分であった。

湖畔に造られた東屋では道の駅で買った草団子を頬張りながらゆっくりとした時間を共に味わうと自然と其々の人生譚に花が咲くのも道理で、この歳ともなれば互いの人生には各々の重みが感じられ語り口に味が出てこようというもの、喜怒哀楽に満ちて今こうして優美な静寂で清浄なひと時を共有できていることに私は嬉しく思う。

奥琵琶湖パークウェイを走ると時折先程居た菅浦集落が遥か下に垣間見えて、頂上展望台休憩所からは眼下に大きな琵琶湖が眼下に広がっていた。手前に尾上の浜が、遠くに米原の町が霞みにつつまれて見える。湖岸道路を帰り道とし途中世継の集落から坂田神宮へと寄り道、倭姫の神宮遷座の地を探す場所として二年ほど座していたという所でもある。近く宇賀野地区は伊吹山湧水が美しい流れを見せていた。夏至を一月後としたこの頃は陽も長くなり夕方といってもまだ明るさを保っていた。

数日前、H女史の「無は大切でしょうか」の言葉に、近江弧蓬庵では二時間近くのんびりと過ごし縁側に腰を落としての雑談に誠に心休まる空間でもあった。この日は平日ということもあってか来訪者はこのとき我々だけであったようで時折風が優しく肌をなで木々のざわめき、鳥のさえずり、木漏れ陽の輝きまでが極上な時間でもあった。


     
   近江孤蓬庵                 大円鏡智の額


     
   近江孤蓬庵庭園               菅浦集落須賀神社


     
   菅浦の湖岸


     
   奥琵琶湖パークウェイ展望より



『口が開き得ざる時、無舌の人、語ることを解す。 脚を抬(もた)げ起さざる処、無足の人、行くことを解す。』

人は健康健全な時、歩いているときには足を使っているということから離れるものである。疲れたとか、今日は具合が良いとか云うことが意識にあがるのは足の悪い方、病む人であって、無足の人が行くとは歩いていることも気づかない、その時が本当に歩いているという心でもある。
そんな禅の言葉をフッと思いながら、友人たちと楽しい一日を過ごした。



 2018年  5 月 27 日 


今現在深夜三時というひと時、私の部屋には小さな音でジャズが流れている…、所謂ダンモと囃されたモダンジャズではある。私が唯一仕事をサボって聞きに走ったMGQ(モダン・ジャズ・クァルテット)のCDがコンパクトステレオの回転盤を駆け巡っている。何を書こうか?…と、とりあえずスイッチオンにした。

美しく流れるようにミルトジャクソンのビブラフォンが飛び込んでくるのがクァルテットの特徴でもあるが、今にも得意げな顔をした(どうだ!という)彼の顔が浮かんでも来るようだ。口を真一文字に結んで考えられないような速さでスティックを打ち下ろすテクニックは素晴らしいというよりどうして出来るの!という驚きでもあった。寄り添うような形でジョンルイスのピアノが悲しい音を響かせ、それでも優しさと誠実だけは失うことなく豊かな指さばきから満ち足りた音色を見せてくれる、それは黒人が必死で生きてきたという精神性から来るからだろうか。

コニーケイのドラムは音捌きにその確実性を示し、仲間と協調しながら自分だけの激しさやゆとりを感じさせてくれる。フッと気づくとパーシーヒースのベースが太い音でしっかりとしたリズムを捉えて時に早くも、また立ち止まるように変幻自在な音は血液の流れるように次から次へと押し出されて快い気分に導入されていく、このMJQにはいなくてはならない存在でもあるのだ。
そんな音楽も今の私にはとっておきのご馳走で、静寂の中で一日の安らぎのひと時と言えるようでもある。

パソコンデスクの上には読みかけの本が数冊開いたままのっている、「訳文 万葉集」、「古今和歌集」、「臨済録」、「白隠 隻手の音声」となかなか読み終えていない。今年に入って少ない蔵書をもう一度読み直してみようと志してみたものの、感心のある本からなかなか離れられないというのが実情で、司馬遼太郎や白洲正子、栗田勇などわりと読みやすい本は仕事場へ持っていき読むようにはしているが、禅の本や仏教書はなどは深夜じっくりと目を通さないと進まないのである。

仕事上、どうも昼夜逆転現象気味であるが是ももう半世紀と永く、こうして何気なく生きていると何の抵抗もなく済んでしまうから怖いものである。
こうしながらまた一週間が始まるのである、先週もテレビで映し出されていた老人の生活などに目をやると、私の生活がいかに恵まれたものであるかを実感しないわけには行かない。親から頂いた体にまずは感謝と思いつつ、相変わらず自堕落な生活習慣に反省しきりでもある。



 2018年  5 月 20 日 


先日、僕のラインに旬な食べ物そら豆の写真が送られてきた。友人O君は何かと忙しい中小さな菜園を借りながら季節の野菜を作っているのだ。

私には作物を作るという智慧も技も気力を哀しいかな持ち合わせてはいない、しかしそうしたものを作るということの喜びが素晴らしいことだとは理解する。写真は今茹で上がったばかりというそら豆が美しい緑を見せて、さぞや今夜のビールが旨いのだろうなということを簡単に想像できるというものでもあった。

時折、変な形の大根や、歪な姿のキュウリやジャがイモの写真が送られてくる都度、これはやはり生産者のユーモアが出てくるもんだなあ~と勝手に納得しているのだが。

『耕不盡』という禅の言葉があるのを思う。「耕せども尽きず」と読み、農家は同じ田畑を毎年耕して米・麦・野菜等豊かな収穫を得ているが、その田畑そのものは無くなりはしない、尽きることもない。

田畑にはその都度深く耕したり新しい土を入れたり、、堆肥や肥料などを十分にやって土壌改良しさえすればますますと肥えていつまでも豊穣な収穫をもたらすものという。

私たちも耕す対象の田畑を気持ちと置き換えれば田畑は心田という意味でも有り得る。「心田耕せども尽きず」などお茶の席では掛け軸にこんな書が見られるともいう。
O君の写真から常日頃の畑の手入れ、作物への愛情をおもうにこうしたところにも禅の心が見え隠れしているんだなあと思いながら、写真から漂ってくる香りを楽しませていただいた。



 2018年  5 月 14 日 


このところ不規則な休日を過ごすことが多い、私の代わりをしてくれる人の都合で月曜日が休みとなり日曜日との連休となることとなる。其れについて思いがけない事に気付いた。

平日のホテルはことのほか料金が安いのだ。先日も大津の高級ホテルに、そして今回も伊良湖岬のリゾートホテルを利用したのだが、料金は共に半額以下であった。よく新聞などで平日利用の観光ホテルなど安いとは知ってはいたのだが、日曜日の利用であるから…。


         


そこで気付いたのが、如何に老人が元気で裕福であるかと云うことでもあった。こんなことを書く私も其処に行っているのだから言えないものの、此のところ数回利用してみてまさに団塊の世代とでもいうか、こんなにも多くの人達の利用が多いのかと驚かずにはいられない。

何か弁解めいたことになるが、おかげ様で私などは現役で働いているから年金が少なくても趣味や勉強のため旅の中でこうしてホテルなど利用できるというものだが、聞くところに拠れば普段の平日も同じようで、今や老人で
もっているようだと聞く。

是までやむなく土曜日など利用していたが、比較すれば確実に安く利用できて適度なくつろぎを味わうことが出来るのに驚愕でもある。今回伊良湖のホテルでは素晴らしい温泉に驚きのバイキング料理、そして立派な室内に、どうして?と思うほどである。
それにしても、両親をこんなところに連れてきておればなあ~と後悔することしきりでもある。




 2018年  5 月 7 日 


私は若い頃、京都同志社大学で学びたかった。如何せん経済的家族問題にて大学への想いを断って現在の職へと転換し以来52年を迎えている。近年少しは余裕も出てきて、そんな昔日のキャンパスを歩いてみたくなり出かけてみることにした。
其処は京都御所の北隣に接していることから近隣を連休の人混みを避けるように少し散歩してみることにした。



       


同志社大学内寒月館の七階レストランへ出向くもこの日は生憎と不営業であった。本来ならば席からは北山辺りを遠望できると楽しみにしていたが残念である。それでも瀟洒な構内は午前の陽射しが美しく木々を照らしながら静寂を保っていた。

今出川通りを東へと10分くらい歩くと通りから少し奥まった所にイタリア料理店があったので興味本位で入ってみた。ランチコースを頂きながらメートルデトルの料理案内や会話が素敵で至福の昼食となりました。偶然入った店がありふれた様な形で存在することに感心、聞けば大学の教授たちも来られるということでもあった。


       


御所内を横切る形で金剛流能楽堂へ向かってみた。御所外苑の石畳をザックザックと音を楽しみながら歩いているとやはりいました…、猿ケ辻と呼ばれる北西角築地塀の軒下に日吉山王神社の守り神猿です、が、この猿夜な夜な廻りをうろつき悪さをするというので今は金網で囲ってありました。比叡山山麓のあの赤山禅院と同じ猿である。そんなお猿さんが御幣を持っているのも何とも楽しいのではないか?



       


北門(朔平門)近く中山邸と解説板があったので覗いてみたら何と明治天皇の誕生地であった。歩いてみるもんですね、是まで天台千日回峰行者の御所参内の随喜で御所内紫宸殿や、南から西へと外苑などをを歩いたことはあったのですが、この北側も楽しいものでした。


現在能シテ方五派(観世・金春・宝生・喜多の各流派)の中、唯一京都に拠点を置いているという金剛流能楽堂へは予ねて訪ねてみたかった。それは次に紹介する楽焼茶碗と能という関係からも訪ねなけねばならないものでもあった。この能楽堂の舞台下には古くから五つの大きな壷が口をあけて埋め込んであり、演台上飛び跳ねる音の共鳴音を有効化していると昔聞いたことがある。
近々薪能が平安神宮・ロームシアターで催されると知り、京都で住むといいなあなんて思った次第。


       


堀河通りに面して格式ばったような佇まいであの京羊羹で聞こえた「虎や」があった。店内へは入る勇気もなく、ああ是があの「虎や」か!という感じで素通りしてしまったが、一本横道へ入った閑静なところに静かな茶処が併設されていたので、ぶらっと入ってみることに。やはりここは羊羹だ!と思い、飲み物は玉露とした。
恥ずかしいはなし、私には本当の?玉露を味わったこともなく、お茶がこんなに美味しく実は薬でもあったと再確認した。確かに栄西がもって来て、明恵が宇治に茶を継承したとは知って、禅宗ではお茶が薬でもあったのではあるし、そのため今でもお茶は一服といって薬の数え方でもある。

今回のもう一つの楽しみが昨年みた楽焼茶椀の美術館である。正直、現世の楽師の作品は好きにはなれないが、初代長次郎、六代左入、十四代覚入の茶碗は流石に利休好みで簡素な中に美しい美の内に侘びという世界観が感じられるようでもあった。
茶碗の銘に能の題材も数多くつけられて、姥捨・笑将、羽衣、三番叟、道成寺、景清等々五代宗入などは三井晩鐘・比良暮雪と近江八景から銘をつけていた。

短時間ではあるが一通り廻ってみたが、時間がなく富岡鉄斎旧邸など寄れないままである。翌日一人ゆっくり琵琶湖畔の道路を車を走らせ、雨に煙る湖畔の佇まいを味わいながら帰宅したのであるが、楽しい休みでもあった。



 2018年  4 月 30 日 


ホテルブッフェという昼食の時間には未だ早かったので隣接の有楽苑という庭園へ寄ってみることにした。織田信長十三歳下の弟・織田有樂斎の茶室「如庵・じょあん」が楽しみでもあった。
侘び寂びの具現が茶室なのかもしれないが、得てして彼の生活がそうであったかは疑問ではある…、それは現代の茶人達にも云えることではある。

まぁ~其れは兎も角、共に国宝茶室「待庵・たいあん」、「密庵・みったん」が有名であるが、私は確か薮内家(薮内流茶道)内に現存する古田織部作「燕庵・えんなん」の明かりに対する鋭敏な感覚がが好きで、大徳寺弧逢庵小堀遠州の「忘筅・ぼうせん」ではその昔全てを省くという薄っすらとした何かを感じたことを覚えている。

食後新緑の下、近くの木曽川べりを歩きながら水の流れや川辺の水溜りに目をやっていたら、ふとよく知られた方丈記の枕詞が頭をよぎっていた。
『ゆく川の流れは絶へずしてしかも本の水にあらず、よどみに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しくとどまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。』

散策がてら少し山手へ車を走らせていたら小さな渓谷沿いの途中にひっそりとあるカフェへ寄ることになった。今風という感じのお洒落なカフェは何やら都会人らしい人達が時間を楽しんでいるようにもみえた。数時間前と対照的にも思える時間が其処にはあるようも感じるのだった。

我々は(今の我々には)お金を適切に使うということが難しいようだ。更に富を得て贅沢な暮らしをするようにもなると天気の良さや温かい料理、家族生活という「日常のありふれた些細な喜び」を味わう能力が低下する。贅沢な生活から必ず利点が得られる訳でもなく、反対に得られるものが減少していくこともある。

お金をかけることでプライベートや優雅さは得られるものの、生き生きとした社会性を失うこともしばしばある。我々の社会は幸福の追求に忙しいがそこにはパラドックスが隠されてはいないか。
幸福とは自分の愛する人、自分を愛してる人と共に時間を過ごすことと言ってもあながち言い過ぎでもないだろう。しかし問題は我々はこんな原則に従ってお金を使うわけでもないのだということ。

相変わらずな支離滅裂な駄文、思いに任せて書き認めた次第。世間は大型連休、しかし小生は普段通りの仕事に、それでもこの老輩に仕事があることにありがたく思う次第。


 2018年  4 月 22 日 


『京都江戸中期の三画人も応挙、若冲などは北宋画、大雅は南宋画であり決定的な違いをみせるものだ。北画はくっきりと描いて洋画のように形を主に描ききるというもので、反面南画は本当の趣き、髄を描くものだ。月と橋と人と描いていても、人を眼目にしているか、月を人を眼目にしているか、こんなことが分かるように描いている。
画を描いても、詩を作っても眼目ができていなきゃいけない、自分の眼目がないと人の眼目は見えないものだ。』

つい先日、偶然にもこんな文章に出会った! 山本玄峰・著「無門関提唱」という問答集を読んでいた時である、昭和35年初版当時八十歳のご老師の示衆(示す言葉)に目が止まった、そんなことから大雅について少々勉強させられることとなった。

池大雅は旅の画家とも謂われることから…私も少し続くものの一人ぶらっと電車にのっての旅を楽しんでみた。まあ~それは言い訳で
もあるが、近江高月町・観音の里を少し歩いてきた。


私は五十年ほど前に始めてこの向源寺の十一面観音菩薩にお会い
してから幾度となく通ってはいるものの、どうもこの歳になっての
見方には其々の変化を感じながらの仏像鑑賞ともなっている。

途中、名もなき浄土真宗のご住職とお話をする機会があり、そんな
若い頃の話から、近日行なわれる蓮如上人の吉崎御坊まいりにつ
いてお話を伺いながらのんんびりとした時間を楽しんできました。

永六輔だったか? そこの通りの角を曲がったら旅が始まる!と。



 2018年  4 月 16 日 


昨年から京都博物館は国宝というロゴスがテーマでもあるようで、過日偶然にも池大雅展覧会開催の予告を目にした。予て蕪村を勉強したからというものこの池大雅という画家の作品を見ることが楽しみにもなっていた。

応挙・若冲は余りにも知られているが、同じ江戸中期京都の画壇を
知らしめた池大雅は少し色めきたった筆致のないところがあってか
新聞などでも特筆されるようなこともない画家ではある。

しかし禅の黄檗宗を理解しているこの画家は絵画にその賛を鋭く残
し味のある作品をたくさん残している。今流で謂えばインテリゲンチ
ャというところでもあろうか。

其れは彼の交友関係にも表われて、南宋などからの帰化人や旅で
知り合った文化人など、それは貪欲なまでも知識欲を得るためでも
あったようだ。琳派の影響や指画という手法まで多彩な画を残して
いるが、そのタッチは何処かほのぼのとした感じを得られるのもそ
の謙虚な生き方からくるのだろうか。



電車に乗って友人と出かけてみた。このところ出かけてばかりで少々疲れはあるものの連休ということもあって車中の人となった。昼過ぎに着くも京都の街中を歩きながら昼ご飯を楽しみ、画を楽しむのに三時間も費やしてしまった。お蔭で友人との約束、すぐ近くの養源院の俵屋宗達を楽しむ事もできない羽目になってしまった。

月曜日は体を休めるように一日のんびりと過ごしたのであるが、どうも私は何処かへ出掛けていないと落ち着かない性分でもあるようで…、落ち着かない性格なんであろう、いよいよ年齢を考えれば反省しなきゃ!。



 2018年  4 月 9 日 


何年振りであろうか?大阪へ出かけた。可愛い娘夫婦と久しぶりに逢うことに…少しばかり大阪観光などと喜んで出かけてみた。どうも私は人混みが苦手で、都会というのは体力的にもきついものを感じるのが禍して、楽しいはずの再会もクタクタに疲れて帰宅という悲惨なものでもあった。

このところの仕事の忙しさや旅などの疲れでも残っていたのか、睡眠不足がたたったのであろう、途中から疲れがどっと押し寄せてくる羽目になった。
それでも久しぶりに会う娘夫婦はすっかり立派になって楽しく過ごしているらしく、いい笑顔で迎えてくれたのが嬉しかった。

往路の近鉄電車は途中私の好きな大和を垣間見せてくれて旅の楽
しさを倍増させてくれている。名張辺りから車窓は榛原から大和朝
倉まで“こもりく”の山々を見せて、桜井を過ぎる頃には目の前に耳
成山が入ってきたりする。
帰路は新幹線とはなから決めていたが、やはり早朝の車窓はこの近鉄に限るのだ。

心斎橋界隈を散歩しながら大阪名物?の串揚げ店に入り昼食をし、
場所を変えて現在一番高いというビル「ハルカス300」に行き眼下
に大阪の市内を眺望してきた。

少しばかり歩こうということで通天閣から日本橋から難波へと向か
って歩いたら、途中から体調が思わしくなく足がいつもの通りつっ
てくる始末…、暫く素敵なカフェで休憩するも、こらえ性もなく新幹
線に飛び乗った次第。

夕御飯も一緒にしてゆっくりしたかったところであるが、この歳にもなると何が起きるか分からなく体力のなさに残念に思うのだ。



 2018年  4 月 1 日 


古来、南都大和の地では禅とか浄土という思想や文化に染色されず、人々もどこか朴訥とした風がある。近代に至る前まで観光という営利で動かされることが無かったという点で飛鳥・天平の文化は現代まで残ったと考えていい。
それは庭一つとっても禅の難しさや浄土の煌びやかさが覗えないのでわかる。

平安仏教以前哲学的な側面を勉学していた寺院は六宗あり華厳宗や相論宗では唯識を教えてもいた。ただ異国の宗教を疫病封じや国土安寧に権力者は利用したのである。尤も寺という名も本来は中国の役所という意味でもあって外来語をとりあえず附けたに過ぎないのだ。

平城京を垣間見るべくいつもの仲間と揃って早朝から出かけてみ た。車で行く時、私は敢えて東名阪道から25号線を福住ICを出て  県道186号線、80号線へと北進し白豪寺町を右折して新薬師寺に  向かうのが気に入っている。


其れは一瞬仲間達を驚かすほどの山道ではあるが、奈良市に入る 峠にさしかかると遠くに奈良の町が見えるからであり、また新薬師 寺辺りは古代然とした風景が今に残っているようでもあるからだ。


今回どうしても仲間を連れて行きたかった場所が東大寺北の雑司 町と一角にある空海寺でもあった。唯識論では人間の死はあくまで 客観論でもあり、死というものは無いと考えるもので、当然のよう に葬儀というものも無く東大寺の別当であろうが葬儀は行なって 
いない。

従って平安以後この空海寺に因って別途葬儀を執り行い墳 墓に埋葬されてきたという。本堂横の石階段をあがってたくさんの墓石の中に累代の別当の墓を見ながら東大寺の一面を感じるのであった。

雑司町とは東大寺の雑役を執り行った人々の住む町中で、特に堀池という家は累代小綱という役職で千数百年続いているらしい凄い家系であり、優婆塞(うばあそく)といって在家の仏教者である。


新薬師寺、雑司町空海寺・東大寺転害門・二月堂・法華堂、法華寺、不退寺そして平城京大極殿と足を延ばして佐保路を散策して来ました。折りしも桜の満開と重なって興福寺や東大寺門前の通りは凄い人出ではあったが、我々の行くところは流石に観光客も少なく、仲間が言うマニアックな散策でもあった。



 2018年  3 月 25 日 


陽春の足音が聞こえてくる! 天気のいい日ともれば起床し一番に窓を開けることになる。少し肌寒くは感じるものの春の陽光は優しく、暫く忘れていたちょっとした幸せを感じることができる。
今朝は桜も一気には開花したようで公園全体がうっすらと赤みを帯びたように見えるのも不思議だ。学校が休みと云うのもあってか子供達の嬌声が楽しく弾んで聞こえ、サッカーボールが跳ねていたりと見てるのも楽しい。

桜花散らば散らなむ散らずとて ふるさと人の来ても見なくに                    
“僧正遍昭に詠みておくりける”

私の好きな惟喬親王の小野宮(嵯峨野)の桜をみて詠んだ歌ですが、都の友人遍昭を想う気持ちが寂しさを感じさせますね。


また、
『 花は愛惜にちり 草は棄嫌におふるのみなり 』 と道元禅師は正法眼蔵現成公案の中に書き記している。
花が咲けば愛情の心が起こるが、愛情のまま花は散るのであり、草が生えれば棄て嫌う心が起こるが、嫌われながら草は生えるばかりである、と。

天然自然の移ろいは冬の中でも春の萌芽を内包しながらじっと待っているんですね、それは艶やかに咲く花も、そして草々までも同じ態度であるのです。仏道はもとより豊倹という相対の世界から跳びだしていると思うのです。
そういう点では私は桜と云う花が好きになれません…。桜と云う花は人を良くも悪しくも狂わせる何かを持っているのです。


 2018年  3 月 14 日 


なだらかな丘陵地から見える伊勢湾常滑沖の海はすっかり春の装いを整えキラキラと光り輝き、道の所々に並んだ菜の花が美しく、車窓の華やかさが春到来を匂わせるに十分であった。

『 春の海 終日
(ひねもす)のたり のたりかな 』 蕪村は俳聖芭蕉にならって漂浪の旅へとたつものの、ともすれば芭蕉と違って丹後の母方の地へと自然にむかった模様でもあった。宗匠ともなればいろいろと格式や威厳を保つものだが蕪村は一風変っていて句会ともなれば弟子達と車座で句を評価しあったとも云うから現代風で言えばかなり民主的ともいえるだろうか。

俳画の世界を確立した彼は池大雅と並び称せられるほど画質が良かったとも謂われるものの、終生豊かさとは縁がなく民衆の中に生活があったという。


思いがけず数年ぶりに知多の友人から電話があった。同じく古稀を迎える友人もこの歳ともなればいろいろと変遷も経てきたようで、会社を整理し残された時間をどのように生きていったらいいのか模索していた。今では生きるだけなら経済的にも問題はないのだろうが…、どの様にして林住期を過ごすかは尤もな問題でもあった。


帰り、少し足を延ばして古代の浜・小野浦へと向かってみた。ようやくのことで強くなった陽射しのもと、春風に吹かれた細波がキラキラとそこはかとなく美しい輝きを放っていた。遠く沖合いに目をやると小舟が数隻陽炎にのって浮かんで見える。それは友人の此れからを見ているようでもあった。
人の人生70年という時間は長いようでもあり、短いようでもあろう。必死に生きてきた今になってのこの時間は一体全体何だったんだろうか?とさえ思う瞬間さえある。

終日のたり のたりかな・・・  春の海を眺めながら友人を想うのが精一杯でもあった。



 2018年  3 月 4 日 


弥生ともなり数度違うだけで暖かさを感じるのが幸せに思えるのが不思議だ。与謝蕪村は暖かさに喜びを見せて
『菜の花や 月は東に 日は西に』・・・と詠っている。

調べれば摂津国での一面菜の花畑を見ての句というが、どうも菜の花に寄せる数句をみると単純に一面の菜の花畑に月がのぼって夕日を惜しむなんてものじゃないと考えるのだが。私流に云えば(あくまで私説であるが)

江戸時代もこの頃以前は胡麻油など高価な油で慎ましく明かりを得ているだけで、左程大きな家でなくとも夜ともなれば高価な蝋燭を除けば暗闇であり、唯一月明かりだけが頼りという心細い生活であったのだろう。

蕪村は摂津国での一面菜花畑を見て、それから得る安価な菜種油行燈が家庭に明かりを照らすことに喜びを感じたのではないだろうか? 菜種油行燈は携帯できるよう改良され、明かりを運ぶという当時としてはとてつもない発明でもあったのだろう。明かりというものの喜びが菜の花という暖かさを含む言葉として詠ったのであろう。

蕪村は京に住いを構えて後、代表作『夜色楼台図』にその喜びを描いていた。雪にうもれた町にも所々にうっすらと明かりのともった家が見られるのも、蕪村の優しさと家庭への愛着でもあったのだろう。
本阿弥光悦に並ぶ総合アーティストとも考えられる蕪村はこの季節にみせる菜の花をこのような暖かい心で世に残していた。

さて今夜(5日)は東大寺二月堂では韃靼行とともに過去帳読誦がなされている事だろう。そうだ!今年もあの「青衣の女人」も読まれたことだろう。
来週14日はお水取りである、この地方ではお水取りが終わると春がやってくると謂われている。そんなことを亡き母もよく言っていたことを想い出すこの暖かさでもあった。



 2018年  2 月 25 日 


仕事の合間をみて時間の余裕があれば極力本に目を通すよう心がけている。古稀を迎えて是まで飾ってあった?蔵書を再読しようと数年かけてのチャレンジでもある。数年前に大切な本を残してかなり整理したものの、壁一面の本棚は当然のように仏教関係の本が多く、読み通すまでかなりの時間は必要であろう。

このファイルに目を通している方にも、少しづつであるが理解しやすいところだけでも記しておこうと思う。


大乗仏教の歴史の中で、全ての衆生はその内に如来を蔵しているという思想が起きた。如来蔵と云う言葉はそんな思想から出てきている。
(蔵とはラーヤといい、あのヒマラヤは氷の蔵という意味である・如来蔵は阿頼耶識
(アラヤシキ・第八意識とも云われ、我々の智慧でもある)

言葉を変えて云うなら如来蔵とは元来仏になるべき性質、さとりに至る可性を示すものでもある。我々は一人残らず仏になるべき性質、さとりを拓く可能性を持っている。然しながら貪・瞋・煩悩(むさぼり・いかり・まよい)によって可能性が覆い隠されていると仏教は教えている。

衆生は仏(如来)をその中に包み込んでいる、実際には仏(如来)の方が大きい存在であるから如来という法身(宇宙に遍満する如来の本体)の中に我々衆生は包み込まれているともいえる。

しかしこの如来を我々は宿しているといっても、現実には我々は如来でもなく、我々の中にそれが現れていないのみならず、また包み込んでいることすら我々は自覚していない。如来は隠れているのだという、これが「蔵」の意味であり、この事実を我々一人一人に気付かせ、内にある如来を輝かせる為、仏道修業することを勧めるべく説かれた。

ここで間違ってはいけないのは西洋で言う性善説とは意味が違うことである。


寒さも峠を越えたのだろうか、数日来幾分暖かさをおぼえる日が続いている。数日後には稲沢国府宮の難追神事(裸祭り)が行われる、この地方ではこの裸祭りが終わると暖かが戻ってくると言い伝えられている・・・。


 2018年  2 月 18 日 

一足先に春を見るため渥美半島に出かけてみた。 この地は海流のせいだろうか冬でも温暖な日が多くこの季節
には一面菜の花畑という景色が所々に見られて何だか楽しく春を感じることができるのだ。

然しながら、この土日は天気はいいのだが生憎と風が少し強くて暖かな一日とはいかない。県道は豊橋から田原を通り、三河湾側と駿河湾側の二本が其々美しい景色を見せながら伊良湖岬へと合流する。
そんな県道のあちらこちらに美しく黄色一色に染まった菜の花畑を見ることができる。観光客が其々菜の花畑の中に入って写真を撮ったり散策しながら楽しい声が聞こえてくるのも何だか春到来という気持ちにさせてくれる。


      


こんな所にも哀しい場所があって、先の戦争時の弾薬庫や大砲試射場などが今に残っている。それでも半島先端に近い山の中腹にはあの奈良東大寺の屋根瓦を焼いた窯跡が現存してるのも伊良湖半島である。

かつてこの地は古代民族がたくさん居住しており、渥美半島から篠島などにはかなりの貝塚や遺跡跡が存在しているということだ。
古代この地が伊勢の国としてあった折、麻績王(おみのおうきみ)が都から流されて詠ったという歌碑がこの日も寂しく佇んでいた。

打麻
(うちそ)を 麻績王 白水郎(あま)なれや 伊良虞の島の 玉藻刈ります   この地の人の歌

うつせみの 命を惜しみ 波に濡れ 伊良虞の島の 玉藻刈り食
(お)す     麻績王の歌


 2018年  2 月 12 日 


早朝から気持ちの充実が身体に伝わってきていた。現在愚息が京都に赴任しているのだが、先日来仕事に活かしたいとのことで小生の仏教書を所望していた。
40歳を目前にして人生や仕事に何かとプレッシャーもあるのだろう…、仏教とりわけ禅についての勉強をしながら何とか得るものはないだろうかと云うことであるらしい。
禅などを勉強したからと謂って人生に役立つとは殊勝なことでもあるが、それでも事のきっかけや方法論の道筋にはなるのだろうと思い10冊ほど持参した次第。


       

       国道8号線、野洲川から新幹線鉄橋と琵琶湖対岸、比良山の冠雪を見る。


道元の正法眼蔵・現成公案の解説書など難解ではあるが、兎に角読んでもらおう。少なくとも数回読み通せば薄っすらとは理解できるはずと望んでいる。理解することが目的ではなく、その考え方、過程、方法論、など概論がつかめられればいいのではあるが。

外気は冷たいのだが、この日は琵琶湖もことのほか対岸が美しく見えていた。愚息が大津にいる因縁に感謝しつつ楽浪街道(さざなみ街道)を走り、横目に雄大な琵琶湖と細波立つ湖面、対岸に映る比良山・函館山の冠雪に見入りながら帰路であった。



 2018年  2 月 4 日 


1969年夏の終わり、ニューヨーク州の片田舎ウッドストックは異様なまでの集まりを見せていた、カウンターカルチャーの始まりでもあったウッドストックコンサートは私の青春の扇動でもあった。
勿論…海の向こうでの出来事に私は知るべくもなく、後になってフィルムコンサートで雨中のロックビートに酔いしれる若者達を目のあたりにしてショックを受けたのも事実であり、サンタナのパーカッション・ホセチェピートアリアスのスティックの激しさや、ジミヘン(ジミーヘンドリックス)のパープルヘイズだったか?演奏中にギター弦が切れるほどの驚愕テクニックに感動したものである。

数年後であったか、名古屋市公会堂でのカルロスサンタナの公演はステージ両サイドに香がたかれメディテーションから始まって、ラテンロックというクロスオーバーロック(フュージョン)のビートとメッセージに鮮烈なショックを受けていた。

まだベンチャーズのエレキ音が軽やかに異国の匂いを撒き散らせていたのが妙に時代遅れという優越感に浸る愚かな頃でもあった。

そして果ては、レッツイッツビーなんて言ってるビートルズなんてロックじゃない…!なんて格好つけて、ブリティッシュなロックミュージックへと傾倒していったのだ。キングクリムゾン・ピンクフロイド・PFM(プリミエイツ・ホーネリア・マルコニー)・タンジェリンドリーム等々ますます凝った音楽へと吸い込まれるように魅入られた。それこそピンクフロイドの『原子心母』などは何だ~このサウンドは!…、このコンポジションは!とわが耳を疑うほどであったし、タンジェリンドリームのシンセサイザー音などは脳震盪でもおこしかねないほどであった…。


高校に入る頃には既にL盤アワーなどラジオからポップスを聴き、歌詞カードを翻訳しながらサモシイてすさびに酔ってもいたし、日本のフォークソングが何だか古臭そうで子供っぽい戯れとしか聞こえてこなかった。
羽仁五郎の『都市の論理』でコミューンを知り、三木清の『人生論ノート』で友とやりあった。キングクリムゾンの『エピタフ・墓碑名』など聴くことが私には大人への入り口のようでもあった…、そんな年代でもある。


休日前の深夜、明日は何の予定もないというたゆたうような空気の中で時計の針だけは確実な時の刻みを見せていた。遠く過ぎ去った記憶を呼びさますように音楽が流れてくると、私の心奥底にある何かが微動し始めるのだ。
老境を迎える身体の中にもまだ青く生臭い、そしてこっぱずかしい昔年の感覚が残像として戻ってきた。



 2018年  1 月 29 日 


先週、一晩かかって文章を搾り出したら…、さあ今週は何も出てこない!一つのセンテンスも。


この寒さ、公園の池も凍ってしまったように私の頭も凍ってしまったのだろうか??  否、水もないような池が凍らないのと一緒で私の頭の中には本来水も入ってなかろうに…。


瓢箪図の傍に『有る鳴らず 無きも鳴らず なまなかに 少し有るのが ぽちゃぽちゃと鳴る』 と書きなぐってあったのを何処かで見たことがある。

禅語に『深蔵如虚』がある、「深く蔵して虚しきが如し」と読み、「良賈(りょうこ)は深く蔵して虚しきが如し、君子の盛徳なるは容貌愚の如し」ということである。

成り上がりの小商人や商店などは店構えをいかにも金持ちらしく、商品のありったけを仰々しく陳列するが、代々続いた本当の裕福な老舗というものは店構えなども慎ましく、商品なども飾り立てず外見は質素でむしろ虚しくさえも見えるものである。しかし一旦客が求めれば奥からいくらでも、どんな高価珍貴なものでも出てくるものである。


かの老子という人物はあたかもこの「良賈」のような人物で、ちょっと見には一向に智慧者には見えず、むしろ愚者のようにさえ見えた。しかし叩けばいくらでも智慧の出てくる底の知れない大きな人物であったそうだ。

なかなか『良賈』のようにはなれないものだ…。それとなく文章を書いてみたのだが?少しばかり水が入っている瓢箪のようにはならないように注意いしなきゃ!。


 2018年  1 月 21 日 

奈良のみ仏に会う

天平時代の文化というものは確かに在って、この目で見てこの手で触ることができるほどに残っていますね。では飛鳥・天平の人々はああいう文化を残そうと予め考え思って作ったのでしょうか…。どうもそうではないように思われます、おそらく文化なんて考えてもみずに(否、文化なんて言葉もなかった)、唯ひたすら情熱にまかせて歌を詠み、信仰にまかせて仏を刻んだとしか考えられません。

聖武天皇は東大寺を、光明皇后は法華寺を造られて人々の健康や安寧を願ったのでしょうが、まさかそれが時代の進歩や文化の進歩となったと思われてなかったに違いない。
あの宮大工達も、絵師、仏師達、数多くの職人たちは一介の職人で雇われその勝手な言い分に右往左往し、ひたすら求められた仕事に精を出すのみで、あれ程の立派なまぶしい文化を残そうとは夢にも思わなかったに違いない。

そう考えると文化なるもののそれ自体はなんともつまらないものであろうか…。
そうした意味で仏像などもみんなつまらないもので、昔禅宗のお坊さんの中にはわざわざ仏像を壊したり、焚き火にした人もあったそうです。ある種の逆説でありますが、泥仏水に溺れ、木仏火に消え、金仏炉に溺れると云います。
勿論形式にとらわれている哀れな人々のために根本のものを忘れさせないための本当に一途な親切心からのことでありますが。

連休を利用して久しぶり奈良聖林寺の十一面観音にお会いしたくて出かけました。鄙びた田畑の中暖かい陽を浴びて歩いているとそんな戯言がふっとよぎるのでした。
現代はいかにも!という芸術家が作品と言って大仰に展覧会に並べるのでした。それはさも奇を衒うように斬新という言葉で装飾をしこれが文化ですよとでも言いたげに。



 2018年  1 月 14 日 


何ごとの在わしますかは知なねども…、という西行の詞は現代人の私の心にも生きていて信仰とも崇拝ともつかないそんなものを持っている。
時に私は古代人の人達の心に帰って自然の中にそうした神の幻影らしきものを感じることがあるものの、だからと言って熱烈な神道信者というわけでもない。

日本人は何千年ものながい間自然を神として敬い、畏れ、感謝しつづけながら多くの造形を生みながら、そして残してきている。能や狂言、浄瑠璃、歌舞伎という演劇から建築、彫刻、絵画、書、陶芸などから茶道、華道、武道にいたるまでそれら全ては自然の中から派生していないものはなく、今では芸術といわれるまでに昇華させてきた。


「仏は常にいませども 現ならぬぞあはれなる 人の音せぬ暁に ほのかに夢に見え給ふ」 どこかで目にしたこんな歌が浮かんできた。

比叡山北嶺大行満阿闍梨藤波源信師は比叡山内の山川草木にいたる二百六十数ヶ所を一夜のうちに手を合わせる礼拝行をされている。
路傍の石に、苔むした老杉に、琵琶湖へと滴り落ちる一滴の水のうちに、闇を照らす月や朝露に光る一葉にいたるまでそこに神がいたり、仏を観想するという。そこにいう神や仏というものは言葉を代えればまさしく自然の摂理・真理とでもいうものであろう。
究極は堂入りと謂われるもの、九日間におよぶ不眠不休不臥断水というもので生死の境までに身をおくとそこには自然の中で生かされているいう生物存在としての人間性をも認識せらるる行なのだろう。「何ごとの」を強く信じる師との会話の中でいつもそんなことを感じるのも頷ける。

数日間そんな事を考えていたところに、休日の早朝僕の携帯が鳴った。

創業時以来から大変お世話になった方から昼御飯のお誘いであった。御歳81の老境は矍鑠(かくしゃく)たるもの、大きな会社を一代で成した方は引き際も立派で…、お会いしてからずっと一介の料理人にいつも大野君!とよばれる人柄は変らず、この日もやはり私を人として尊敬していただいているお心が見え隠れしておりました。

そんな方から、80歳の妻を介護しながら余生をどのように過ごしていくかご相談を受けました。そのような話に私は恥ずかしくて赤面でした。すごい人はこの期に及んで一回りも下の人間に頭を垂れるんですね。
私の人生の中にこのような方が存在しているだけで私は恵まれた人間なのでしょう・・・。



 2018年  1 月 5 日 


この冬は殊のほか寒い!!と、思うのは私だけだろうか?
由る年波なんだろうか…寒さを強く感じる新年であったが、どうも暮れから体調も芳しくはなく身体の何処かが傷んだり辛く感じることが続いてもいる。古来稀とと謂われる歳にもなれば当たり前といえば当たり前で…、それでも新年の行事だけはと意気込んで出かけてみた。

西名阪高速道から新名神高速道へと入り土山辺りでは舞う雪で前方が見えづらいというほどであった。昼前大津に着くころにはすっかり天気も良くなり清々しい青空が見えていた。
京都東山大谷租廟(東本願寺)には薫香がたえまなくあがって、新春の墓前らしく仏花が整然としかも何段も列をなして供えてあるのがどこか嬉しいものでもある。両親がここに眠っていると思うだけで心がホッとするのも事実で…、本来仏教には墓信仰などはないのだが、それでもこの地に両親の骨があるというだけでいいのだ。


落ち着いた気持ちで、比叡山横川飯室谷長寿院へとむかった。人間の師として尊敬している藤波阿闍梨に新年のご挨拶である。こうして新しい年を迎えることが私の喜びでもある。
庫裏へあがって阿闍梨さんに淹れていただいた温かいお茶を頂きながらほんの束の間のひと時が私にはとても大きな安寧を頂いてくることになってもいる。

昨年の夏、八月の地蔵盆にあげた献灯がお地蔵様の頭上にあるのを拝見して、地蔵菩薩に手を合わせて来ることができた。所々に降った雪の残りが見える。相変わらずこの飯室は寒さがきつく、下半身から寒さがあがってくるようで…、明王堂内の畳がすっかり冷え込んで歩くのにも足が痛いほどでもあった。

飯室の不動明王に手を合わせ今年の無事を、そして私の友人たちの安寧を祈願して早々に退散(笑)するのであった.。 寒い!!



 2018年  1 月 1 日 元旦


新年明けましておめでとうございます。
お健やかに新春をお迎えのことと存じます、本年も穏やかな年でありますことご祈念申し上げます。


古今集の賀歌の初めにはこのような歌が詠われております。
 
  わが君は 千代に八千代に さざれ石の いはほとなりて こけのむすまで

私たちは自然の中に身をおくと、不思議な石とか巌や美しいほどの巨木、そして川や澄み切った水などに神が宿っていると感じたりしますね。また風の強さや川の流れ海の波しぶき、季節の花のうちに人の模様などを覚えます。
そんな自然感覚の中で宗教感をおのずと親しんで来ました。
どうしても避けられないことにも「人間のハカナキコトという天然の無情」として、智慧の中で生活を苦しい中でも溌剌として楽しく営んで来ました。
そうした願いがこのように歌に残し、願ってきたのです。国歌にはそんな意味も含まれているのです。


まだまだ訪れたいところ、観たいものとたくさんあります、今年も相変わらず走り回ることでしょう…。歳を重ねるごとに本質に触れることが楽しくもなってきました。これは本当にありがたい事ですね。


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