コラム1  コラムU




コラム U  〔column〕




毎日の新聞から、そして好きな書籍などから私達が考えなければならない言葉を記載してみました。いつの時代でも言葉の大切さを 感じないわけにはいけませんね。貴方はこの意見をどう思われますか?





             



















日本と日本人


倭人(わじん)が文献に初めて現れるのは「漢書」地理志の「楽浪海中・らくろうかいちゅうに倭人ありて、分かれて百余国をなす
」という記である。紀元前一世紀頃、倭に小さな国がたくさんあったと記述されている。日本国成立後の日本人とは列島西部においては重なるとしても、決して同一ではない。

魏志倭人伝に描かれる三世紀の「親魏倭王」卑弥呼をいただく倭人の勢力は例え邪馬台国が近畿にあったとしても、現在の東海以東に及んではいないと考えられている。

五世紀、倭王武(ワカタケル)は宋の皇帝への上表分で「東は毛人を征すること五十五カ国、西は衆夷(しゅうい)を服すること六十六カ国」といっている。毛人とは「蝦夷・えみし」の表現の一つとされ、この期、関東人や東北人など狭義の東国人であり、衆夷は中部九州以南の人々であろう。又倭人といわれた人々は済州島、朝鮮半島南部などにいたとみられる。このように倭人と日本人が同一視できないことは明確である。

日本人という語は日本国の国制の下にある人間集団をさす言葉であり、同時に日本が地名ではなく特定の時点で、特定の意味を込めて、特定の人々の定めた国家の名前である。

その故、日本国の成立以前には日本も日本人も存在せず、聖徳太子(後の厩戸王子)は倭人であり日本人ではないし、日本国成立当初東北中北部の人々、また南九州人は日本人ではない。

これらを踏まえて国名について考察すれば、七世紀初頭、遣隋使が持参した倭王の国書『日(ひ)出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや』

文言に端的にみられるように隋の冊封を受けない姿勢といえ、小国ながらも唐帝国に対して自立した帝国であることを明示しようとした国号、王朝名であった。

国名の変更について、質問を受けた我が役人は「日本国は倭国とは別種」又は「倭国自らその名の雅ならざるを恵み、改めて日本為す」という答えたという。則天武后は国名を認めた。以後、中国王朝史はそれまでの倭国伝を日本伝とするようになる。

しかしこの国号は太陽信仰、東を良しとする志向を背景としており、中国大陸の大帝国を強烈に意識した国号であることは間違いない。日本は日の本、東の日の出るところ「日ずる処」を意味しているが、言うまでもなくそれは西の中国大陸に対してのことであり、ハワイから見れば日本列島は「日没する処」に当たることになる。

この国号については平安時代から疑問が発せられており、936年(承和6年)の「日本書紀」の講義において参議紀淑光(きのとしみつ)が倭国を日本といった理由を質問したのに対し、講師は「隋書」東夷伝の「日出ずる処の天子」を引いて日出る処の意と説明した。

ところがである、淑光は再び質問し、確かに「倭国は大唐の東にあり、日の出る方角にあるが、この国にいてみると、太陽は国の中から出てはいないではないか、それなのになぜ「日出ずる国」というのか」と尋ねている。

これに対し講師は唐から見て日の出る東の方角だから日本というのだと答えている。この紀淑光の質問はこの国号の本質を見事に衝いているといっていい。この国号は「日本」という文字に則してみれば決して特定の地名でも、王朝の創始者の姓でもなく、東の方向をさす意味であり、しかも中国大陸の大帝国に視点おいた国名であることは間違いない。

中国大陸の大帝国を意識しつつ、自らを小帝国として対抗しようとしたヤマトの支配者の姿勢をよくうかがうことはできるが、半面、唐帝国にとらわれた国号であり真の意味で自らの足で立った自立とは言い難いともいえる。

網野義彦(あみのよしひこ)は著書『「日本」とはなにか』のなかに以上のように記している。歴史観とは多面的であるといえ知っておきたいとも思う。







遍く参学する 「書物と対話する好機」


依然とコロナ禍が続く今、人と人の無防備な接近には警戒心がともなってしまいます。けれど人間は他人と接して対話することで多くのものを得て来ました。


禅仏教に「遍参 (へんさん・へんざん)」があります。禅僧などが諸国の禅寺を訪ねて「遍く参学すること」を意味とし、所謂武者修行でもあるという。
これに対峙する言葉が「把住 (はじゅう)」である。修業道場に留まって世間との縁を断ち修行に専念をすることで、自己のエゴを捨て去ることをめざすのである。

禅の修業にはこの両方が必要である。しかし現代の情報社会ではこの把住というのは難しい。一方で遍参は交通機関の発達した今日では随分と分りやすいが、このコロナ禍の時世では難儀でもある。


ところで、禅宗の各宗派には特徴がある。そして各々修行道場には歴史に培われた伝統がある。指導者にもいろいろと個性がある。それらは宗風とか禅風、家風等と呼ばれる。

禅宗の歴代祖師の中にも独特な個性を発揮した先人は多い。我国の一休宗純や大愚良寛のユニークさは有名だが、まだまだ隠れた逸材や禅僧は存在する。そういう個性的な禅僧を訪ねて対話することは遍参である。修行僧はそこから多くを学び、自分を磨いたのである。

日本曹洞宗の宗祖道元禅師の著書『正法眼蔵』には「遍参」の巻がある。そこには傾聴に値する言葉がある。その説明によれば遍参は実際に諸方に足を運ぶことを指すだけでなく、修行者が特定の場所に留まりながら、いろいろと想いを巡らせるような内面的な「心の遍参」とでも呼べるものもあるという。

昨今のバーチャルゲーム体験やテレワーク技術を用いたコミュニケーションも、擬似的な遍参体験を可能にするが、それよりは本の活字に閉じ込められた言葉や思想にしっかりと向き合う心の遍参から得られる事の方が大きいのではないかと思う。

見方を変えてみると、この暮らしにくい日常生活は、書に親しみ多様な思惟や思想に出会う絶好のチャンスを提供してくれるのではないか。

書物は時として作者と直接対面した場合よりも鮮明にその人間性や考えを表現している。その意味で書物は人格を持っている。

本との対話は他者と直接言葉を交わす行為以上に刺激的で私たちを鼓舞する。自分にとってかけがえのない発見はそこにあるかも知れない。

さて探求の門は何処にあるのか。昔日師から真理探究への糸口は座禅ばかりでなく、むしろ庭の掃き掃除な時日常茶飯のどこにでもあると教えていただいた。「書をすてよ、町へ出よう」と言えないご時世である。文字文言を門としてじっくり自分を掘り下げる道もあると思う。



                 岡島秀隆 (おかじま しゅうりゅう) 愛知学院大学教授    
                               中日新聞 「禅仏教の知恵」 抜粋










私達がなす事 『南直哉老師(恐山院代)の開山挨拶より


『皆様、いくら本州最北とはいえ、5月にこの冷え込み、さらに雨の中、お参りをいただきまして、誠に有り難く存じます。

ざっと拝見したところ、皆様マスクをお召です。このような生活も3年となりました。慣れか経験か、いささか先の見通しがついて来たようにも感じられますが、まだまだ油断はできない昨今です。


その心配が尽きないうちに、今度はいきなり、いつの時代の話かと思うような戦争です。しかも、今や遠い国の戦いが、我々の生活を直接脅かしているのです。人々が戦火に苦しむ姿を連日目の当たりにして、自らの無力をつくづくと思う次第です。

考えてみれば、東日本大震災以後を考えても、度重なる天災があり人災があり、今般の疫病があり、この戦争です。そのたびに、市井の私たちは自らできることの少なさを思う他ありませんでした。

力を貸す自由な時間のある方、必要とされる能力のある方、提供できる資財のある方は、それぞれに苦境になる人々の力になっていただければ、それは大変結構なことだと思います。

しかし、今それを持ち合わせていない人は、どうしたらよいでしょうか。できることは無いのでしょうか。


天災、人災、事件事故、戦争などで、突然大切な人と引き裂かれるように別れなければならなかった方々が大勢おられます。人に命があっという間に奪われ、遺された人々には深い喪失のダメージがいつまでも消えません。

私たちが、今すぐその方々の力になれない事情なら、その奪われた命を思いつつ、まずは自分に身近な人、さらに縁のある人の命を大切にしたらどうでしょうか。そして、そのようなご縁で織りなされる自身の日常生活を慈しんだらよいと思うのです。それは、ついには、奪われた命の重さと大切さを実感する営みなのです。

人を大切にすると言う時、私は是非皆様にしていただきたいことがあります。それは、自分の思うところを言う前に、相手の話を聞いていほしいということです。自分の言い分を主張する前に、相手が何を考えているのかを、丁寧に受け止めてほしいのです。

 そうして、自分が正しいと思うこと・善いと思うことが、相手にとっても本当に正しく善いのか、静かに考えてほしいと思います。

 世の中に取り返しのつかない厄災をもたらすのは、「悪」ではなく「正義」です。「自分は絶対に正しい」と思い込む者が暴走すれば、何が起こるかは歴史が証明し、我々が今ウクライナで目撃していることです。

まず相手の話を聞くこと、自分の正しさを疑える自省心を持つこと、もうこれ自体が反戦の行動であり、自由と公正さを守る力です

これは、生きている人だけのことではありません。亡くなった大切な方を想い、時に「あの時は自分の方が間違っていた」と気がつくことも、それ自体が深い深い供養であり、命を尊ぶ営みだと私は思います。


本日は、それぞれにご供養の御霊がおありでしょう。どうかそのご供養の節、いわれなく奪われていった命に思い寄せて、ご焼香を願えれば、恐山と致しましては大変ありがたく存じます。

皆様、本日はお参り誠にお疲れさまでございました。』     南直哉老師 (恐山院代)



私がご尊敬申し上げる禅師の言葉です。現実から逃避せず、先ず己が何をなすことかを自問したとき日頃の生活から導き出された言葉なのでしょう。
正に自己と謂うものの確立が此処にありました。そこに他己利他のこころが在るのです。
















「超越と実存」 著書について



仏教とは諸行無常を説くものである、つまり全ての実存は無常(常が無い)であると。ところがブッダ入滅後に出たアビダルマ(部派仏教の論説)や、法華経、華厳経などを読むと「無常ではない何かがある」という話になる、又そう思えますね。

それは何故か? 「諸行は無常である」「あらゆる実存は無常である」というブッダが説いて始まったはずの仏教に、何故「ダルマ」「仏性」「唯識」「浄土」などの『超越的な存在』、或いは『超越的観念』が後世になって論じられ加えられていったのだろうか?

そうした超越的存在や超越的観念なりは否定するわけでもなく、『超越』は仏教に進入して来ると、元来ブッダが説いたことの意味が変質してくるのではないかとか、『超越』という形而上学的な思想がいったいどの様に仏教と関係していくのかに関心が行く。

その変質は如何にして起こったのだろうか、それは“神”のような『超越的存在』を前提とするキリスト教やイスラム教といった他の宗教と変らないのではないかという疑問はある。
何故超越的な存在が仏教に侵入してきたのという疑問の一つには人間の欲望の表れがあると思う。

「諸行は無常である」というのは、ある意味非常に切ない話ではある。無常であるならば答えも存在しないことになるし答をだした途端無常では無くなるからだ。しかし人間は何故かその答を知りたくなる生き物として居る。

「悟り」や「涅槃」というものがあるらしいが、それが果たして何であるか?ブッダも明確に言葉で表わしていない。しかも言い出したブッダはとうに亡くなってしまっていたので当人に聞くこともできず「問い」だけがずっと残ったまま、解からないままでいるのは非常に切ない。だから答を求めようとする、欲望というのはそうした意味でもある。

己の存在根拠を求めるのは人間の最大の欲望であろう、所謂食欲、睡眠、性欲というのは動物にも共通するものですが、存在根拠への欲望というのは言葉と自意識を持つ人間しかないものです。

己が存在するのは何か根拠や理由があるはずで、それを発見したいという欲望は食欲、睡眠、性欲を凌駕するほどのものでしょう。凡そ思想というものは、それを「明らかにしたい」という営みでもある。ところが、ブッダや仏教者たちは少なくとも「あるとは言えない」「あると断言してはいけない」というギリギリのところで止めている訳で、そちらの方が我々にとってはリアルなのです。


「超越」抜きで「実存」を考えるのが仏教であり、「実存」を「超越」との関係で考えるのが仏教以外と区別すれば、他宗教は「存在するものに根拠がある」というか、「根拠があるとは言いきれない」「あるかもしれないしないかもしれない」位で止めるか、要は仏教と仏教以外を大きく分けるものに根拠があるとするか、ないとするかである。結局存在根拠を求めるという人間の最大の欲望に行きつくと思う。

そこに『信仰』という言葉に突き当たる。「○○は真理であるから信じなさい」と言われた瞬間に、ある錯覚の中に溺れていくような気がする。その真理は時の権力や正義と結びついて、最初の意図とは全て違うところに誘導されていくようでもある。歴史上そうした例は我が国でも経験している。

社会では「言葉」よりも「信心」の方を問われるのも事実であるが、人間というものは何かを信じて行動を起こすよりも、問題があって行動を起こす方が先であろう。そもそもブッダがそうであるように、ブッダは何かを信じたわけでもなくて、問題を抱えていたからこそ行動を起こしたのである。

人が言葉で提示したことを信じられない理由は、それが言葉の問題に帰結するからである。仏教思想の核心にある問題は言語において意味するもの(言葉)と、意味されるもの(経験)の間にあると考える

最大の問題は言語であり、更に言えば言語に付随する「超越性」の問題です。何故言語によって普遍的で絶対的なことを話すことが出来るかに共感できない。

現実の生活のうえで、我々が如何に言葉というものにとらわれているか、それに気付かず言葉に対して距離を保てないと、結局は言語に飲み込まれて支配されてしまう。それこそ現代のようにメディアが発達し、情報に埋もれている情況においては、それらを構成している言語そのもののところへ踏み込んで考えなければ情報の幻想性に惑わされてしまう。

そこに仏教が貢献できることがあると思われます。言語が意味するものを客観視したり解体したり、或いは情報内の実存のあり方を考える時に、それを全体として俯瞰できる視点をどこかに確保するとき(座禅等宗教経験)などに仏教というものを使えると考えます。


                            
南直哉 老師













解からない   『死者と他者と自然』



死と他者と自然は、確かに「決して解からない」ことですが、「解からなさ」の質は違います。

死は「絶対かつ原理的」に解かりません。解かる本人が消滅することが死である以上、解かる訳がないでしょう。

死についての「解かったような話」は、すべて「生きている」人が、「生きている」間に、「生きている」経験として話しているのであり、かつ彼らが語っているのは、常に「死ぬまで」か「死んだ後」についての、妄想と区別する基準が何もない、お伽噺同然の代物です。彼らは決して「死ぬこと」それ自体について話しているのではありません。



他人の解からなさは、死のような絶対的な解からなさではありません。それは、いわば「根源的な」解からなさです。

他人が絶対的に解からないと決まってしまえば、それはそれなりに対処の仕方も決まるでしょう。問題なのは、他人には解かるところもある、ということです。解かるところもあるが、解からにところもある。

だが、解かっていたことが急に解からなくなったり、解からなかったことが突然解かったりする。もはや、解かることと解からないことの境目が解からない。他者の解からなさは、こういう解からなさであり、それが他者の他者たるゆえん、他者の他者性なのです。

最近「コミュニケーション能力の高い人」というセリフをよく聞きますが、そう言われる人物が他者の解からなさに鈍感なら、彼の能力とは「他人を誤解して平気でいられる能力」と大差ないでしょう。



自然の解からなさは、「無限の」解からなさです。様々な方法で自然は理解され、知識は集積され、「解かったこと」は増え続けてきたし、これからも増え続けるでしょう。しかし、すべて解かることはありません。自然の内部に生まれたものが、自然のすべてを解かることはあり得ないのです。

自然に対するあらゆる「理解」と「予測」は、自然を一定の条件下における思考の「対象」として構成することによって、初めて可能になります。自然そのものに到達することは金輪際ありません。つまり、用いられた理解の方法によって限定された「一面」以外に、まるで解かりようがないのです。



このような「絶対的」「根源的」、そして「無限」の解からなさを、当然ながら我々は解消することも、制御することも、支配することもできません。つまり徹頭徹尾、「思い通りにならない」のです。ならば、その解からなさに対してとるべき態度は「敬意」です。それが「解からない何か」を受容して生きる、おそらく唯一の作法なのです。


解からないものを解かると錯覚して、あくまで支配し制御しようとするべきではありません。その錯覚は必ずや我々を自滅させるでしょう。なぜなら、死は生よりも、他者は自己よりも、自然は人間よりも、存在の強度がはるかに高いからです。

                         
南直哉老師   ブログより










『共生』ということ





近年よく聞く言葉に『共生』と『多様性』があります。この言葉にどのような意味を読みとるかは人それぞれによりますが、簡単に扱える文句ではないと思います。

我々の生きる問題として『共生』という言葉があるが、その最も直接的な意味は「自己」と「自己ではない誰か」、つまり他者との『共生』であろう。

その他者に人種、民族、言語、文化や宗教的背景など様々に異なることが『多様性』ということではないか。
要は「多様な他者との共生」ということとなりますが、それは確かに困難なことでその実現には寛容と忍耐が必要とさえ思われます。

何故なら『他者』とは根源的に「解からない」存在だからです。他者の解からなさは原理的に理解不可能ではなく、解かるところがあれば解からないところもある。又解かっていたところが急に解からなくなったり、反対に急に解かったりするところがあるという様な理解不理解の区別自体が解からないという意味での根源的、絶対的解からなさなのです。

「他者の解からなさ」の端的な例が『裏切り』です。言い換えれば他者とは裏切ることがあるという存在(実存?)です。

一方に、他者との致命的な在り方はそれが「自己を課す」「自己の根拠となる」存在だということです、(仏教ではこれを縁起という言葉であらわしてます)

すると、自己とは「裏切るかもしれない存在に課され、又自己を根拠とする存在」ということだ。

そもそも『共生』はする、しないという選択問題ではなく、初めから忍耐を要する自己の存在条件であるはずで、それが多様になれば益々「手間のかかる」「面倒な」事態になるのは当然である。

「裏切る(かもしれない)他者」を存在条件として生きることは、もう大きな負荷が「自己」にかかることを意味とします。それは自己の思いとおりにならない他者と工夫しながら付き合っていくしか我々に生きる道がない事でもある。

ペットに対して度外れとしか思えない「愛情」を注ぐ人々がいます。この「愛情」はいわば「他者」の消去を欲望しているのではないかと思う。

「このペットは裏切りませんから…」との言葉を裏切らないから愛すると解釈すれば、その裏に「自己の言うことを聞くから愛する」という意思があるでしょう。これは相手を支配したいという欲望の存在を意味するのです。

支配とは「他者」の他者性の剥奪であり、「他者」が他者であことの否定です。「愛情」の最深部にはこのような欲望が潜在すると思います。

もし他者の他社性の肯定、即ち「裏切るかもしれない他者を自己の根拠として認める」態度があるとすれば、それは『愛』ではなく『敬意』だと思う。

人は尊敬する人物を自分の「思いとおり」にしたいとは思わないだろう。むしろ「自分があのような人になれたら」と思うはずです。

禅師はそれを…、親鸞のもつ法然上人への敬意に思う、と綴られていた。


                                南直哉老師  ブログより











葬儀の意味



過日、親を亡くした知人に仏教の葬儀について聞かれましたので参考までにこのような考え方もあるということで記しておきます。



葬式は死者にかかわる営為であって、死後の「霊魂」や特定の教義(たとえば、「輪廻転生」)にかかわるものではありません。

まず、死者はこの世に実在するものです。見たり触れたり会話したりできる生者とは存在の仕方が違いますが、現に存在しています。それどころか、しばしば生者よりはるかに高いリアリティーで、実在しているのです。

たとえば、近隣の小太りの青年が支配する国では、彼の祖父や父より高い強度のリアリティーで存在する国民は、誰一人としていません。あの国は死者が生者を支配する国です。

考えてみれば、人のことは言えません。われわれ仏教徒も、2500年前に死んだ人物を根拠に生きているのですから。

生きていても死んでいても、親は親。子は子、大切な人は大切な人でしょう。人間関係の枠組みは変わりません。彼らはこの世に実在します。「霊魂」などは、このような死者のリアリティーを説明する一アイデアにすぎません。

また、いずれの宗教・宗派にも葬式をはじめとする死者儀礼がある以上、葬式そのものが特定の教義に関係ないことは自明です。

葬式について考えるとき、以下の三つを区別して考えると便利です。その三つとはすなわち、「死体」と「遺体」と「死者」、です。

この三つは、往々にして混同されていますが、まったく別なものです。

まず「死体」。

大事故などが起きると、メディアはたとえば、「死者123名」などと報道します。ですが、このときの「死者」は「死体」のことです。なぜなら、この報道では、「123」という数字にしか意味がないからです。つまりそれは、数えられる「物」なのです。

 ところが、これが「誰それさんの死体」、たとえば「お母さんの死体」となると話が違ってきます。これはただの123分の1に当たる「物」の話ではありません。「お母さん」という以上は、それは「子」に対して「お母さん」なのです。とすると、ある「死体」は、「お母さんの死体」となったとたん、生者の人間関係の中に引き戻され、「人格」を持ちます。この「人格を持った死体」を「遺体」というのです。「体を遺した人」がいるのです。

葬式は「死体」ではできません。それは「遺体」に対してするものです。ということは、葬式は「死後」の問題ではなく、生者と死者の関係する現実の事象なのです。

「死体」や「遺体」は放置すると腐敗して分解され、そうでなければ埋められるか焼かれます。つまり「物」としては失われます。まさにこのとき、すなわち「死体」や「遺体」が「無くなった」刹那に立ち上がってくるのが、「死者」です。

かくして、古今東西、宗教や信仰が持つ葬式儀礼に共通する根本的な意味は、ある人物について「彼は死んだ!」と確定することです。この確定によって「死者」を立ち上げ、彼をめぐる生者の人間関係の中に再び位置づけること、これこそが葬式の眼目です。

そして、この立ち上がった「死者」と、彼が生きている間とは別の関係を結び直すことを「弔い」と言うのだと、私は考えます。

結局、数ある死者儀礼やそれをめぐるアイデアは、この「死者」の立ち上げと、生者との関係の結び直しの便法というわけです。

死が原理的に不可知である以上、生きている人間が自らの死を丸飲みするには、多くの場合、「死者」の実在を前提に、このような便法でストーリーを作るしかないのです。












南直哉老師 仏教概論

 

自分が生きていること、自らの生を認識できること、直接的に言えば私は生きているという言い方に実感できるのはまさに老いて、病んで、死ぬからです。

物をはっきりと自覚するのは、ある事柄を否定するものと直面したときであって、そして区別されることによって事柄の全体が見えてきます。

例えば、“右”はある中心線の設定により空間を分割し、右の部分と右でない部分を発生させない限り右として意味を持たない、つまり物を認識するためにはそれを否定するものに直面(対面)しなければ意識できない。老・病・死も同じく生きていること存在することを全体として捉えるには否定性が必要です。そんな所において、仏教は自分がいること(存在)の問題性に気付いたのです。

 『生』は老・病・死を条件として『生』たりえている、それが“生苦”(生の苦しみ)と考える。まさに老・病・死と直面したときにこそ『生』をはっきりと自覚する。生は生まれたことではなく生きるということに変化する。

 

人は老いて病んで死ぬ、其れはいつ来るか分からない。仏陀は老いが辛い、病が苦しい、死ぬのが怖いとは違って、他人の老いを意識し、病いに同情し、死ぬのは嫌だという。

仏陀の問いは、自分は平気でいながら、他人の老・病・死を戸惑い、閉口し、忌避できるのはなぜかという問題、そして自分自身が老・病・死をもった存在であるとの自覚が何故難しいのかということである。

 人は老・病・死を認識していますし、厭うことができます。「老いる・病いする・死ぬ」という変化を認識するためには変化しないというものがいる。「老いる」前と後を貫通する同じ『私』を設定しなければ「私は老いた」という認識は成立しないし、老いを嫌悪したり若いままでいたいと欲望することもできない。

つまり、一貫して変らない『私』の存在が老・病・死の苦しみの前提となる。この『私』はそれ自体で存在するのか?その一貫性の根拠があるのか?が問いの根源でもある。

 そもそも「私がいる」とはどういうことか、この「私」自体の存在はどのようにしても証明できない。実際には「私」は「私(A)である」という当人の記憶と、それに「あなたは(A)だ」と認知してくれる他人の反応による制作された構成物であって、「私である」ことを無条件に根拠付けるものは一切ないのです。

他者から肉体と名前を与えられ、他者との関係から自分の位置(名前の機能)を学び、「私」として振る舞い、「私」となるのです。それは「私」は人間と呼ばれるものの存在の仕方、様式に過ぎない。様式だからこそ誰もが「私」という言葉を使えるのです。

 

では何処に本当の自分がいるのかという問題となりますが、結論的に謂えば「本当の自分」も認識されません。従来の宗教では、穢れた自分があり駄目ではあるが、それは本当の自分ではなくある方法で鍛錬するとによって自分に内在する「本当の(立派な)自分」が出てくるというもの。自分探しや自己啓発という根拠のない作業へと進むだけです。

 仮に判断する自分が「本当の自分」なら今更「本当の自分」を問うはずもなく、また「本当の自分」と認識してもそれを「本当の自分」と誰が判断するのかという疑問が残る。我々が「私」という言葉で意味している当のもの、「私」と認識しているそのものは、それ自体に根拠も持たない仮設物なのだ。

 仏教は無常・無我と考えます、「私である」ことの根拠がないという事態は我々の根源的な不安となり、「本当の自分」への欲望はその裏返しでもある。

「私」の存在根拠がないことは言い換えると「私」の存在は「自己決定」により始まっていないということでもある。

 普遍宗教によってはそれを「神」に託すのですが、仏教はあくまで「自己決定」に拘ります。「自己」の「自己決定」が不可能なら「決定する自己」を仮設し、際限なく決定し続けることで自己を支えなければ成りません。

 「自己決定」とは「自分の思ったとおりにする」ということであり、それは即ち「所有」行為の核心的意味である。対象を破壊や遺棄を含めて「自分の思ったとおり」にできることが「所有」の実質的意味である。

 人の心は金で買える、というのはお金の力を誇示してるというよりも、お金が人の存在を根拠付けているという状況を言ったにすぎない。モノやお金を所有していても自己の問題は解決しないのは「自己の存在自体は自己決定ではない」からである。

ブッダが所有を否定するのは決して貧しさが美徳だからではありません。「モノを持つな」「所有するな」「所有は幻想だ」と言いつづけたのは、自己というものが幻想にすぎず、所有行為こそがその幻想を際限なく肥大させるからである。

 仏教は無常という考え方をします、どんな考え方にも不都合が伴うが、仏教における最たるものが「善悪」の問題です。一神教にみる明確な根拠と基準が見出せないのだ。

即ち最も根本的な善悪問題は「自分が存在することは善か悪か、それは何故なのか」ということから始まる。そこで仏教では、存在する根拠は「あるかないか分からない」となる。それは「善悪の根拠を明らかにすることはできない」ということである。ここでの解決方法は「根拠がないまま自己の存在を引き受ける」ことだけである。

 

自己は他者から最初に肉体と社会的人格を与えられ、以後も「自己」が何ものであるかを規定され続けます。我々は「自己」を「他者」から負わされ、課されるのです。

自己の実存を決断と共に引き受けることで、同時に「課す他者」を受容する。そうしなければならない根拠はない、ただ自らの存在を引き受けるという決断が存在と善の根拠となると考えるしかない。

そんな賭けのようなものが仏教の倫理の核心であり、無常の存在の根拠である。

 一般に宗教といえば、この世の創造神とか死後の世界、霊魂のゆくえ等をどう考えるのかが第一テーマと思われている。その考え方の如何によって善意などの倫理的判断の基準を考えたりするのが本来の役割だと思われている。

 しかし何故、神や死後の世界がこれほど問題にされているのか、大昔から現代に至るまで何故人間は決して途切れることなく、この問題に強い関心を持ち続けてきたのか、真に問うべきはそれであろう。自己とは何かといった根源的な問いかけがあるからこそ神や死後が問われるのだ。

 

死んだらどうなるか、どうして生まれたのか、自分とは何かというこの三つの問いは実は同じ問いの三つのバリエーションに過ぎない。その問いとは自分が自分である根拠とは何か、言葉を換えれば本当の自分とは何かということである。これはいかなる現実的な回答もナンセンスとなる以外にない問いでもある。

 何故生まれてきたのか、何故死ぬのか、何処から生まれてきて死んだら何処へ行くのか、その全てに答がでない。つまり、我々の存在にさしたる根拠も見出せない。この耐え難い状況を耐え難いゆえに絶対神や霊魂や理念で埋め合わせるよりも、この状況を直視してから充実した生を求めていくのが仏教だと思う。この姿勢はシビアで、ブッダは我々の存在をまず苦だと言い切る。

 原始仏教の根本認識は欲望を分析し制御し、そこから脱却することに教えの焦点があるといえる。欲望に目がくらみ、生きるのが苦しいともいえる。そこから脱却する方法は困難であり、欲望の正体が極めて複雑で人間にとって根源的である。

 例えばお金が欲しいとする、お金は具体的存在としては紙に過ぎない。それを巡って争いさえ起きるのは本能とは別の強烈な欲望をかきたてる思いがあるからだ。それは何でも買えるというお金の本質であり、まさに具体的な物とは関係ない。

 お金が表現するのは人間の所有の欲望であろう。特定のものとは無関係の所有という行為自体の欲望である。ブッダはこの所有の欲望を性愛の欲望と共に徹底的に批判する。所有も性愛も生物一般に共通する本能的欲求として理解されていない。

 我々の生には根拠にかけている、その結果本当の自分とは何かという解決不能な問いが現前している。神から主権をうばった近代・現代社会では自己決定以外に物事の根拠を見出したいということだ。自己決定とは簡単に言えば思い通りにすることである。

 生まれることは原理的に思い通りにならない、神の命令に従うことを止めてしまった社会はこの思い通りにならない苦しみを癒す術がない、そこで所有がクローズアップされる。

 

人間において自己の存在根拠と欲望と所有は相互に深く関係していて、思い通りに処分することを所有の核心的意味とするなら自己の存在根拠、欲望、所有は三位一体である。

 動物に見られる貯蔵とは異なる人間の所有の根本的意味はその行為が自己の存在根拠、これを自我と呼ぶとするなら自我の代用品になっていることである。貯蔵から生存への欲求に由来するとすれば所有は自我への欲望に発する。

 結果的に必要を逸脱してもっと多くとなる、物をより多く所有することによって自我の確立に一層根拠を与えられたと錯覚する。しかいもともと自我自体に実体がないのだから所有の欲望は際限がない。一種の錯覚、虚構でしかない自我への欲望が虚栄心とか見栄という現象になるのだろう。


                        超越と実存 より     南直哉著










 
        
正法眼蔵を読む


仏道をならうというは 自己をならうなり

自己をならうというは 自己をわするるなり

自己をわするるというは 万法に証せらるるなり

万法に証せらるるというは 自己の身心および 

他己の身心をして 脱落(とつらく)せしむるなり

 

無常・無我という、言わば否定的観念を肯定的観念にひっくり返せば縁起である。自分が何故自分であって、あり続けるのかということで、それに関して言うならば、根拠がかけているんではないか。自分がなりたくてなった訳でもなく、それは自分であることを誰かから課せられたことでしかない。

例えば、自分の名前は両親から付けられて社会的存在としてしては人から課せられたもの、私が私であることの根拠、本当の自分いうのは最初から設定することが間違いではないのか。
(これが仏道をならう…の言葉である)(自己を知るではなく、ならうである)無常・無我は常に同一で変らない何かがあるという思い込みは違う。

 
(僕が僕であるためには)自己が自己であるためには、他者が自己に要求して其れに応えることによって認めることが僕(自己)たらしめる。それは肯定でありそうでないと社会でいきられない、人間として存在できない。

自己の存在は他者(他者とはすべての)との関係の中でしか人間として存在できないならば、それが縁起である。

自己が自己であるためには根拠がない、自己であり続けることは無常であり無我であって縁起してるからだ。縁起とは関係であり起こることである。
関係から起こるという考え方を自分の存在に適応して考えるならば自分以外のものから起こっているとしか言いようがない。

 

(自己)(ならう)ことは

道元禅師が「自己」を「ならう」と言うとき、その「自己」は意思し、反省し、決断する主体としての様式のことである。
したがって、「自己」を知る対象として考えてはならない。「知る」ものとして「わすれ」なければならないのである。

他者」との関わりの中で、これからどうしようというのか、これまでどうしたのか、今どうするのかを刻々考え、決断し実行する運動が「自己」という営みであり、そのときの「私」・「自分」はこの営みの様式についた呼称である。

「他」「他者」とは、本当はどういうものであるか分からないという事を抱えている存在、人間の意思や思考に決してとらえることができない何かを抱えているものが他者である。
「他者」とは、そもそも人間に限らず死もしかり、自然もそうであり、その「他者」に対峙しながらも、どうしても生きていかざるをえない。そしてその「他者」から随時に応じ、呼び出されるものが「自分」である。

道元禅師の言葉の意味は、知ったり探したりする対象としての「自分」は所詮自我であり、仏道をならう自己とは営みとしての「自分」に作り直せということである。

 主体性とは

自己の存在に縁起を自覚しつつ、その縁起から生成されてくる様々な事態を因果関係の中で「自分」に編成していくこと、そのような存在の様式を主体性とよび、この編成運動こそを、道元禅師の言う意味での「自己」とよぶ。

誕生と死は一切分からない、死の根本定理は分からないで有る。誕生と死は経験の外でもある。そこに自己はない。しかしながらそこに自己が降り立って、そこに消えていかざるを得ない。

生きている間と云うのは自己と他者の中の矛盾に橋をかけてくれる行為でもある。それを可能にするのは因果という方法でもある。何故人は生きていくのかと問われても言いようがない。

主体性と云うのが起こるというなら、自分が自分であるということを引き受けることをどこかで決断しなければならない。

生きることを課せられたということに覚悟を決めたときに、その人がある自己を獲得するのだ。



                        『正法眼蔵を読む』 抜粋
                        
存在するとはどういうことか
                                
南 直哉



 


不安な社会の健康番組  自己責任強いる日常が背景に




永年人気を誇った「発掘、あるある大辞典」が様々な不正発覚によって打ち切りになった。今回の捏造のように特定の食物に 対しての過度の期待、あるいは過度の忌避が生じることを「フード・ファディズム」という。

米国ではすでに半世紀も前に学術的な 研究対象となっており、商業主義の悪影響や、代替医療などの文化的背景をもつもの、また宗教的信念に基づく行為などに分類 されることが知られる。米国での食物ダイエットブームなどもその一種で、専門家の一部は健康への懸念を表明している。

この現象は「とりあえず日々食うには困らない」先進諸国においてはいつでもおこりうることであろう。食物は(今のところ) 代替可能性の非常に高い商品であり、又人々の生活習慣病などへの不安は大きく、一方で残留農薬問題やBSE等の新興感染症 の出現もあり、食の「質」に対する感心は依然として高いからだ。


ともかく、フード・ファディズムを防ぎたいのなら、まずは「科学との付き合い方」を見つめなおすことが大切であろう。 一見科学的な装いを持った番組が、実は非科学的な内容を含むということはまれではない。サンプル数が少なすぎる、実験条件 がまるで制御されていない、動物実験などのデータを直接人間にあてはめるー。

こういった態度は、白衣に身を包んだ科学者が 画面に登場したとしても、番組全体としては限りなく「擬似科学」に近い。そもそも「OOを食べれば大丈夫」というようなフレー ズは、科学には本質的になじまないものだ。

では社会全体のリテラシーが向上しさえすれば問題解決するのであろうか。このような番組は現われてこないのか。実はこの 問題にはもう少し根の深い社会の変容が係わっているように思われるのだ。

それは「成人病」と呼ばれてきた疾病が、「生活習慣病」と名を変えたことを思い出すと解りやすい。そこには確かに「今や子供 であっても罹る病気」という医学的な根拠がある。だがこの言葉に「あなたの生活態度が悪いから病気になるのだ」という説教じみ た視線をも感じるのは私だけではあるまい。

近年の新自由主義の浸潤は、公衆衛生思想にも確実に影響を与えてきた。「あるある」 の人気もいろいろな要因で決まるはずの「健康」が、個人の「責任」や「倫理」へと集約されていく、そのような我々の時代の「生きづ らさ」を、間接的に映し出していたのではないだろうか。


同様に、「前世」や「オーラ」などを扱う番組の根深い人気も、我々の社会における科学的・論理的思考態度の衰退傾向とともに、 自己決定・自己責任を強いられ続けるようになった「厳しい日常」が、関係しているとみるべきではないか。そこにはあふれかえる 選択の自由に食傷し、「強い他者」に責任を委ねたいという心理も作用しているかもしれない。


つまり二重の意味で、いわゆる「オカルト番組」と「健康番組」は地続きなのだ。だとすれば今後も、視聴率の名の下に同様の番組 が手を替え品を替え、不安な社会の中で再生産されていく可能性は十分ある。


このように捉え直すと、いま「あるある」を葬り去ることのみで我々が満足しまうのなら、本当の解決にはならない。これは社会 のいびつさや脆弱さを直視する好機でもある。当座の問題にレッテルを貼って安心してしまうのではなく、真に内省的な知性こそが、 今求められているのだ。

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社会技術研究開発センター・神里達博氏(科学史・科学論)
67年神奈川生まれ、東京大大学院修了。
三菱化学生命科学研究所など経て現職。





       


身体障害者等級の問題



身体障害者等級のことで東京医科歯科大学医学部付属病院の坂本徹・病院長は以下の様に書いている。心臓血管外科医の坂本さん は多くの心臓弁膜症や不整脈患者の手術をしてきた。

ところが、手術前は3・4級だった患者が手術後、最も障害が重いとされる「障害 等級1級」に認定される。症状は格段に改善したのに、だ。等級がつかない人も、手術後は1級。「手術で治しているのに、かえって障害 者が増えている」

障害等級は、身体障害者福祉法にもとづき厚生労働省が定める。手足はともかく、肺、心臓などの臓器が原因になる「内部障害」は 難しい。それぞれに診断基準がある。

心臓だと一般的に重い心不全や発作がないと1級にならなかった。ところが80年代半ば、症状 に関係なく「人口ペースメーカーを装着したもの、または人工弁、弁置換を行ったもの」を1級とする、との特別規定ができた。

従って、これらの手術を受けた患者は申請すれば1級、医療費自己負担の軽減を始め、JRなど交通費割引、各種の税金軽減、他に 収入にも拠るが障害年金まで様々な恩恵がある。

認定には医師の診断書が必要だ、坂本さんはペースメーカーや人工弁患者は本来、4級程度と考えている。そこで患者をがん病棟に 案内する。「治ったあなたより大変ながん患者は障害者にはなれない。自分勝手はいけない」と話し、説得を試みるようにしている。

しかし、患者から「どうしても書いて欲しい」と頼まれると、基準があるだけに医師は拒めない。「手術後に1級認定されて国体選手、 ゴルフ三昧の人もいる。多くの人は職場復帰している。どう考えても国の基準がおかしい」

坂本さんは01年に大阪で開かれた日本胸部外科学界で「先端医学と経済的不具合」と題して発表、この問題を訴えた。その時点での 簡略な計算では、人工弁、ペースメーカー患者への優遇策は全国で約九千億円。「自治体の経費削減で今は減っているようだ。だが国が きちんと調査し、こうした無駄を見直せば医療費の財源になるのではないか」

許俊鋭・埼玉大学名誉教授も坂本さんと同意見の心臓外科医だ。許さんの父親は拡張型心筋症を病み、75年、52歳でペース メーカー手術をした。医療に感謝し、「おれはこんなに元気になったのだから障害者ではない」と、身体障害者手帳を返上した。


許さんはいう。「台湾籍の父は手術で元気になったことを心から喜んでいた。日本のおかげで安全に暮らせると、税金も喜んで 払った。治ったのに障害者年金を受ける人を私は理解できない」



以上、この問題は医療費財政の問題も含めてであるが、人間本来の病に関しての度量の問題でもあるのだ。病とは何であるか?治療 とはなんであるか?を再考するに充分ではないか。小生も狭心症治療してこうした感謝の気持を忘れないように心がけているのだが。 (余談)
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