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試論・随筆・筆者の体験、心境,、持論を自由な形式で展開する駄文集です








寺院と仏像を観る


戦後、我々は「自分らしく生きなさい」、「個性を持って生きなさい」等と、何の根拠も無いまま、あたかもそれが新しい社会人であるとでもいうように教えられてきた。そして私たちは「自分」とか「個性」とかが何というものであるかも理解せぬまま生きてきたのである。
ましてや、「個性」などというものは大衆というもののなかで、他人と異なろうという作為であり、自らのものではなかった。
本来「個性」なんて自分の言葉から発せられるものでもなく、他人を通してのみ個性という目があるはずである。他人がどうであれ、自分かこのようにしか出来ないものが個性であり、しかし、本人にとってはこれということしか出来ないことをやってるだけだから、自らは個性と思うはずもない。思うのは他人であろう。なるほど、あの人はああとしか出来ない人だから、あれがあの人の個性だなぁ〜なんて。

「自分らしく」といわれても「自分が解らない」。世間ではよく「自分探し」などという若者がいるが・・・。でも自分というものは解らないのではなくて、自分というものは無い!のだと一度思い知るべきである。そして若者にもそう教えるべきではないだろうか。

そして、自分が解らないのだから、自分に合った仕事とか、自分にふさわしい生き方とか、自分にみあった趣味などはないわけで、あくまで自分らしくと云うのなら永遠に見つかりはしないであろう。
自分というものがあると思うから人はいつまでもそうしたものを探し回ることとなる。人はいつまでも生きていると思うからいつまでも迷うのではないか。今という時間にいるものこそがすべてであると思うなら迷ったり、選択するよちはないのだが。

戦後民主主義というものは個性とか、生命の尊重と教えられてきた。だから生きることは素晴らしとも教えられるのであるが、でも人間は必ず死ぬから、生きることとは死ぬことでもあるとは教えないのである。

あえて云うと、自分を知りたかったら自分を人間という型に一度閉じ込めることであろう、窮屈だろうが生き辛いだろうがそうした型が必要なのである。与えられた仕事に文句一つ言わずにこなす。例えばそうした型に入れてみるというのも自分を知ることということにつながるのである。

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自分というもの


戦後、我々は「自分らしく生きなさい」、「個性を持って生きなさい」等と、何の根拠も無いまま、あたかもそれが新しい社会人であるとでもいうように教えられてきた。そして私たちは「自分」とか「個性」とかが何というものであるかも理解せぬまま生きてきたのである。
ましてや、「個性」などというものは大衆というもののなかで、他人と異なろうという作為であり、自らのものではなかった。
本来「個性」なんて自分の言葉から発せられるものでもなく、他人を通してのみ個性という目があるはずである。他人がどうであれ、自分かこのようにしか出来ないものが個性であり、しかし、本人にとってはこれということしか出来ないことをやってるだけだから、自らは個性と思うはずもない。思うのは他人であろう。なるほど、あの人はああとしか出来ない人だから、あれがあの人の個性だなぁ〜なんて。

「自分らしく」といわれても「自分が解らない」。世間ではよく「自分探し」などという若者がいるが・・・。でも自分というものは解らないのではなくて、自分というものは無い!のだと一度思い知るべきである。そして若者にもそう教えるべきではないだろうか。

そして、自分が解らないのだから、自分に合った仕事とか、自分にふさわしい生き方とか、自分にみあった趣味などはないわけで、あくまで自分らしくと云うのなら永遠に見つかりはしないであろう。
自分というものがあると思うから人はいつまでもそうしたものを探し回ることとなる。人はいつまでも生きていると思うからいつまでも迷うのではないか。今という時間にいるものこそがすべてであると思うなら迷ったり、選択するよちはないのだが。

戦後民主主義というものは個性とか、生命の尊重と教えられてきた。だから生きることは素晴らしとも教えられるのであるが、でも人間は必ず死ぬから、生きることとは死ぬことでもあるとは教えないのである。

あえて云うと、自分を知りたかったら自分を人間という型に一度閉じ込めることであろう、窮屈だろうが生き辛いだろうがそうした型が必要なのである。与えられた仕事に文句一つ言わずにこなす。例えばそうした型に入れてみるというのも自分を知ることということにつながるのである。

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神と靖国の問題


神様は祭礼のあるときだけお渡りになる。神社のほうも神様が見誤らないように目印に高い木など傍らに植える。ご神木といわれるものである。
ご神木がないところでは、山から木を切り出してきてくる、御柱といわれるものである。祭礼が準備万端整うと神様は前夜にやってくる。宵宮とよばれる。
氏子などから酒肴や舞(舞踊や能・芝居の発祥といわれる)などのもてなしを受け、帰って行かれる。このあいだ失礼があってはいけないと緊張していた氏子たちは神様を見送った後ほっとして酒を飲んでドンちゃん騒ぎする、「無礼講」である。

反対に常住型の神様もいる、仏教を布教した聖武天皇は国分寺の本山である東大寺建立に八幡様に願いを立てている。天満宮の神である菅原道真は恨みながらの死であると、藤原氏が祟りを恐れ神社を建ててその霊を慰めるのである。天神様である。
このように人が神として祀られるのは無念の死をとげた者たちの霊を鎮める、祟りを封じるためでもある。御霊神社や各地にある御霊塚である。


幕末騒乱の中、津和野藩士が志半ばにしてたおれた殉死志士の霊を祀る招魂社を建立した、これは御霊塚である。そして東京遷都の折、東京九段に移って靖国神社と名を変えるのである。
戊辰戦争、西南戦争(西郷隆盛は別に南宮神社に祀られる)にたおれた者たちがさらに祀られるようになり、靖国神社はその後、日清・日露戦争、さらに第二次大戦での戦死者が祀られていった。

これには国家や家族のために戦いにたおれた、要するに人生をくしくも断ち切られたものを神として祀って、その霊を鎮めるところである。そして、いかな士官、将校、大将であろうと畳の上で死ねば靖国では祀られないのである。

東京裁判では日本は我利我欲にはしった侵略国家に仕立て上げられて、東条英機ら七人は平和と人道に対する罪で死刑に処せられた。
日本は侵略戦争をしかけ、アジアを戦場と化し、残虐非道を働いたといい、日本軍は略奪をし女を強姦しまくったと裁いたのである。そうした一方的な白人国家と中国が着せた濡れ衣に一言の文句も言わず処刑台に立ったのある。その無念を思えばA級戦犯こそ靖国神社にもっとも相応しいのではないか。

このほど、墓まで暴いて死者に鞭打つお国柄とまで云われる国の大使がそれら日本の国柄に文句をつけてきた。

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死ということについて


人の死には四つしかないという、自殺、他殺、病死、事故死である。生きている人間の死に方は必ずどれかに分類されるというのである。戦死は他殺であり、情死などは自殺というのである。殉死や客死はそのどちらかで、老衰というのは生体低下レベルという意味では病死となるそうだ。

我々は時に、あんな死に方がいい。こんな死に方は嫌だとか思う。それでも思いに関係なくこの四つの死に方しかできない、その四つの死という言葉には多少の抵抗があろうとも、どうしようもなく死ぬ。

こんな風に死にたいとう願いは、実は死に方の願望ではなく、どのように生きるかという願望ではないだろうか?何故こんな死に方をするのかと理不尽に思うことになるのも、生きたことのあくまで結果でしかないことを無視した考え方であると思うのだ。
ただ人は時として、他殺は嫌だ、事故死は嫌だというが、であるなら戦争は嫌だ!社会の倫理やルールは守ろう!ということにならないのがおかしなことである。

ここにきて自然死という言葉があると知った。ある人が野や畑で死んでいた。その人が老人であるならなおさらである。そういう場所でそういう死に方だからそういう分類になったであろうが、もし、病院に運ばれて医者にかかったていたら急性心不全などと呼ばれることになり、病死となる。それを考えると、死という自然現象を自然のものになくしているのは人間ではないか。
それでも、もし自然死という死に方が可能ならそれもいいなあと憧れる人は多いと思う。でも生きることを自然というなら、死も自然である。

現代は自然死がいい、病院では死にたくはないなどと、大往生を願い、老衰に憧れながらもサプリメントを飲み、ジムで運動し、公園をジョギングする、アンチエイジングなるものに励むのは不自然ではないか?
それでもアンチエイジングは生き方の問題ととらえられないこともないではないが、結果的にはいずれ死の問題となるのである。

そして「死に方」で分類すると四つであるが「死」そのものは一つでしかない。生きているものは必ず死ぬ、寿命の長短も状況も様々も関係なくどんな死に方であれ、要するに死ぬということである。それを了解すると死に方なんてものは成り行きであるともいえる。

実際、成り行きでしかありえないのである。四つのうち自らが選べるのは自殺だけという事実を考えると、あとの三つは自らが選べることもなく自分の意思が働かない。死という人生において最重要事が自分の意思ではないのなら、人生を生きるということ自体どうして自分の意思でなんかあるものか。

自殺する者が幸福だとは言わないであろう。自分の意思がないから不幸かといえばあながちそうでももなく、すべて成り行きまかせな人生、そういう生き方、つまり死に方が一番幸福かもしれない。

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時は止まらない


ギリシャの詩人ヘラクレイスは言った、「パンタレイ」万物は流転すると。
日本流に言い換えるなら「諸行無常」でもあろうか、時は止まらない。中国の詩人李白も言っている。「天地は万物の逆旅、光陰は百代の過客」たしかにすべてのものは移り変わる。もし、万物が永遠に不変だとすればその方が余程不気味であろう。不気味というよりこの世はおよそ退屈極まりないものになってしまう筈である。

だから兼好法師は記す。 「世は定めなきこそいみじけれ」それにしても世の変転が余りに急なのもこれまた味気がないものである。
兼好がこのうえなし「あわれふかい」としたのは折節の移り変わりであった。そして彼はこうも言っている。

春が暮れた後に夏が来て、夏が終わった後に秋が訪れのではない。「春はやがて夏の気を催し、夏よりすでに秋に通ひ」というふうに全ては気が付かぬうちに予兆を秘めつつ推移しているのであると。

私はいたずらに昔を美化するつもりなどは持ちえない。なぜならいつの時代にあっても昔は良きものであったからである。
兼好の言葉を借りれば、
「何ごとも古き世のみぞ慕わしき、今様は無下にいやしくこそなりにけれ」と彼も嘆いてみせる。また単に“古き良き時代”を懐かしんでいるのでもなく、余りにも急激に変質してしまった日本の風潮に不安を隠しきれないのである。昨今の日本の風潮を何より正直に語っているものこそ累々たる死語の群れであろうか。

「礼儀」はマナーというカタカナ語に変わって、「恥」と同様、精神性を喪失してしまい、「責任」はただ口先だけの「言い逃れ」に堕落し、「人徳」は単なる「人気」にすり変わった。

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団塊の世代


私は俗にいう団塊の世代と云われる。1948年(昭和23年)の生まれはこれまでニュ−ファミリー、ニューサーティー、そして世界的にはベビーブーマーとも呼ばれてきた。
それは第二次世界大戦を経験した国では総じて人口増加を経験している。それがベビーブーマーといわれる所以でもある。

我が国で団塊の世代を評する時、必ず前提として云われるのが時代の潮流としての大学紛争が挙げられるのである。しかし、大学紛争は60年代末であり、我々は崩壊した後の大学に流れ込んだだけでもあると思うのである。そして当時の4年制大学の進学率は世代の10%であり、ましてやシンパなど共闘派はその4割にも満たないのである。
大学紛争は世代のマジョリティーを巻き込んではいないはずである。ではその殆どといわれる団塊の世代は何を考え、何を思って生きていたのであろうか・・・・・


田舎の高卒である私は高度成長といわれた流れが何ものであるかかを知ることが生きることでもあり、当面の目標であった。生きるとは食べることであり、生活することであった私の青春は、豊かさを指標として働くことが結果として高度成長を助長となることとなった。
それは自らの子供の頃と違って、欲しいものは働けば必ず買えるという健全な国家でもあるようだった。

豊かさとは、質と量の問題でもある。しかしそれは世界のどの国もどの集団も経験することである。量の問題を経てしか問えない過程でもある。量という鏡を通してのみ質というものは見えこない。

そういう点では、我々団塊世代はその鏡を作っていただけかもしれない。個人主義とは思想・哲学・信仰は守らなければならないという確固たるものがあるはずだが、自分の生活空間だけを保っていたいという程度のライフスタイルは個人主義でも何でもないことに気づかなかった。

そいて問題は、我々の世代が社会の一線から退くとき、どのようにしてその後の社会の問題と立ち向かっていくかという熱意ではないだろうか?
それは団塊の世代が次世代にのしかけるか、或いは社会を支える側に回るかで今後の社会は大きく変化する。

社会を支える人間の質、ものごとの判断の基軸が問われる時代でもある。我々は社会の豊かさを享受しながら、余りに無防備に生きてこなかったか。社会の豊かさとはあくまで人間の、人々の質でなけねばはならない。

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靖国神社に思う



墓所と社は違う!ということを確認しておくことから話をはじめることとする。民族独自の宗教というものがある。我が国でいえば神道であるが、その中にも古代の山岳神道、吉田神道、伊勢神道などがあり、近年の国家神道というものまで存在する。
すくなくとも神と云うものは「畏怖するもの」の存在を人間が崇めた結果であり、人間が手の届かないなにものかに委ねられる状態を神格化といい、それらを人間の都合のいい場所に鎮座せしめたのが社であるとおもわれる。畏怖するものには、万物のすべてに見うけられる。そこには我々人間のいかに小さきものかを知るに十分であるし,人間の力には及ばぬ宇宙の何かを感じるものであった。それを先人は『神』といったのである。

しかるに近代の国家神道は、先の戦争犠牲者までを御霊とか英霊という名のもとで神として祭ったのである。確かに国家を考え、国家の為に死した人々を敬うのは誰もが非をとなうものはいないはずである。そこに先の墓所と社の違いを考えてみたいのである。

なんびとのどのような死に方であろうと、人の死を弔い敬うのは人の尊厳でもあるとおもわれるが、神社では敬うことはあっても弔うことはしない。そしてどんな理由であろうとも戦争に荷担した人々を神という名のもとに敬うことには些かの疑問を持たざるをえない。

墓所とはそのような非業の死をもふくめすべての死者を弔い敬う場所である。現代の仏教が必ずしもいいとは思っていないが、死者を弔う場所としては誰もが納得するものであろう。
ここで日本の仏教と神道を語るべくもないが、明治4年の神仏分離令より国家と宗教の関係が密接になるのは危ういものを感じずにはいない。天皇家・首相の伊勢参拝や、内閣・国会議員の靖国神社参拝などがそれである。

国家のもとで、国家の為に亡くなった戦死者を弔い敬うことの意義はあるし、尊重されるべきであるが、何故それが国家神道である靖国神社であるのか。責任あるべき立場のA級戦犯だろうと一兵卒であろうが戦死者に変わりなく、戦争犠牲者に変わりない。彼等は戦没者である、無名戦死者は千鳥が淵墓苑、名前のわかった戦死者は靖国に神として祭られる、というのは全くのナンセンスそのものである。

仏教を習熟してきた我が国にあって、根本的な間違いを犯している宗教者たちが何も反論しないことに失望している昨今である。

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街の変化と経済


地方の駅前から喫茶店、パチンコ屋、飲み屋などが消えて久しい。そして街から個人経営の本屋が消え、顔馴染の魚屋が消え、八百屋、肉屋、酒屋、そして理髪店などは大型スーパーや大企業のチェーン店の攻勢にあって青色吐息でもある。

政治も行政も起業を呼びかけながらも「元祖起業家」には素っ気がない。地方に愛され、拡大することとは無縁であり、自分が生活する分だけの売上げで満足するビジネスは、今の時代には馴染まないのか!
人口は減少に転じ、不況に加えて、人口の減少は市場の縮小を拡大する。それでも右肩上がりで成長していた時のように、発展と拡大を合言葉に突き進む起業は少なくない。少しでもビジネスが好調になると、工場を増やし支店を開設し、国内だけでなく海外にも進出を企てる。メディアもそのような企業の成長ぶりを取り上げて賛辞をおくる。
しかし、このような時代の中で奇跡のような好調は長くは続かず、つい身の丈以上の拡大を進め経営を悪化させているケースはあとを絶たない。

技術革新を重ねてやっとその先に、そこそこの成長や安定が見えてくるような時代である。不況と人口減少の中では、ほどほどの成長や安定していることの価値を認識してゆかねばならないだろう。発展しなければ企業ではないというのなら、発展の意義を量から質に方向転換する時期に来てるのではないか。成長率こそが成功の指標であるととらえる思考も時代にそぐわなくなってきた。

アメリカ経済のような競争経済を我が国は求めてはいない筈である。今の日本人に求められるものは分配する事であり、競争で勝ったものだけが稼ぐよりも、誰もがそこそこ稼ぎ、人生ををそこそこ楽しむ社会、不況の中で得意分野で企業と個人商店がシェアを分け合う時代を我々は望んでいるのではないか。

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唯識の死に思う


奈良仏教、俗にいう南都六宗の中、法相宗の考え方に唯識論があります。

死があるから、私達は死を意識する、という考え方がります。唯識からみると本来死と云うものはないと説くのである。
例えば、お酒を一杯飲んで眠たくなって「私は寝た」という時、その人は実はまだ起きている訳で、いびきをかくとか寝息をすると同時に眠ったことになります、その時点を本人は何も知らないでしょう、意識がないからです。

死というものもこれと同じようなもので、本人にしたら死はありません。生があることはわかります。生きている間は意識があるからですね。したがって,私達は生の終わりを死と名付けるから死というものがあるかのごとく怖れると云えるのではないか?そのように、いかにもあるように感じるものを唯識では「質礙(せつが)」といいます。

本質ではなく、死というものの本質は自覚的にはないというのである。推測により自分の死を把握していることである、「あの人も死んでいるから、いずれ私も死ぬんだろうな」と。
確かに他人の死は現存するから死というものの本質は客観的にはあるようですが、本人には意識できないのであるから、死というものは無いと一緒であると説く。いかにもあるように感じるから死は質礙であるというのである。

唯識という仏教論は「物事の本質はその心にある」と、説く立場である。五世紀に中国の世親・無著が考えた存在論を奈良の興福寺国宝展(愛知県岡崎博物館)に観た。

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青年に言う!


「やりたいことが解からない症候群」と云うのだそうだ。為るほど云われれば、ニートやフリーターは数百万人に達するとも聞く。やりたい事を求めて自分探しの旅にでるなど多くは地に足がついてないようでもある。挙句、わざわざ戦乱の地に赴いて殺されてしまう始末である。

かって成人といえば読んで字の如く、一人前の大人になることを言うはずであったが、きょうびの20才などほとんど幼児かと見間違おうばかりで、そういう大人になれない若者達が「やりたいことが解からない」で右往左往しているらしいのである。

そもそも「やりたいことが解かる」ということはどういうことなのか?。やりたい事が解からないと悩むのは、やりたいことが解からなければならないと云う前提があるからだと思う。しかし、何故やりたいことが解からなければならないのであろうか。彼等にはやりいたいことが解かれば迷いがなく、楽しい人生がおくれると思うからであろう。個性的であり、自由に生きるとはそういうことであるとも思ってるのだろう。

しかし、やりたいことが解かって生きていると云われる人をよく見てみると必ずしも「楽しい」ということが感じられない。当然のことながらやりたいことをする、それこそがやりたいことだからそれを極めるということは反面必ず苦しいことのはずである。苦労や困難がある。
でもやりたいことだから止める訳にもいかないし、他にやりたいことがある訳でもないし。極めるには果てがなく、満足ということがない、いつも道の途中である。 だから、やりたいことをするというのは、本当は凄く大変なのではないだろうか。

どうしてもそれをやりたい、苦しくてもそれしかないというのはつまりそれに憑かれていることである。自分を超えた何かに憑かれるからどうしてもそれをやりたいということになるのである。そして、憑かれるというのは受け身である。自分のやりたいことを自分で探して、見つからない由縁である。

彼等は自分というものにこだわり過ぎるのである、「自分の」好きとか、「自分の」人生とか、そんなものは何ものでもない。
個性と云うものは自分というものを抹殺してから見えてくるものである。自分のやりたいことをやるというのは、自分の為にやるのでは決してない。自己精進に励む芸術家の仕事が広く人々に喜びを与えることになるという事実が端的にそのことを示している。やりたいことの解かるということの覚悟が解からない若者に、やりたいことが解からないのは当然でもある。

裏から云えば、別にやりたいことが解かる必要なんかないのであって、与えられた仕事をこなし、周囲と和し、淡々と平穏に生きていく人生、素晴らしいではないか。誰にでも出来るということでもない。

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回峰霊場・葛川明王院の旅


京都市内から北に向って進む、右手に比叡のやまなみを見ながらである。京都の表鬼門といわれる比叡の北山麓には天台第三代座主円仁所縁の赤山禅院、そして天台の門跡寺院三千院がある。この道は敦賀街道であるが、通称さば街道とも謂われるもで若狭は小浜まで続くのである。
谷あいを走りぬけるほどに夏の陽射しは柔らかくなるのをおぼえるのであるが、それでも真夏の京都だということにかわりはない。花折峠を越えて比叡の峰から比良山系へと移り変わるこのあたりが坊村である。

今回の旅は千日回峰行始祖・相応和尚が修行籠山したという葛川明王院である。明子(あきらけいこ)妃の呪詛をとけなかった相応が明王示現の地としたところである。回峰行は礼拝行でもあるという。常不軽菩薩を念じひたすらに礼拝する、それは「但行礼拝」といい、拝めるものはすべて拝む、それにより悟りを得るとか神通力を得られるという期待はするなと教えるのである。


夏安居を終えたばかりの明王院はひっそり佇み、何もなかったように時の中に埋没しているようでもある。三宝橋を渡った一瞬冷たさを感じたのは川を抜ける涼風だけであろうか。今年も天台声明は静寂を破り、歴史を刻むように葛川籠山も明王院の太鼓乗りも行われたという。それは本堂内陣に座する千手観音、毘沙門天、不動明王の三尊像が見ていたはずである。灯明の灯かりと薫香の中で私はゆっくりと真言を唱えてみた。心の中に言い聞かせるように…。「ナーマクサーマンダラバサラナンセンダンマーカロシャーナソワタカウンタラターカンマン」

葛川は安曇川の支流である、石標にしたがって山道を登ることにした。山の中とはいえ夏の陽は暑い。山道は緩やかな坂道なのに汗は噴き出す始末、時折涼風が体を撫でていくのが救いである。蝉の声もしだいに遠くなり、代わって足下から川の流れの音だけが近づいてくるようである。比良の山々が美しいのであるが、息を荒げ足下だけをみながら歩一歩進むだけが精一杯である。

常満・常喜が案内したという道を今必死であえいでいる。誰も助けてはくれない、自分の力を信じるしかない。相応和尚はこうして三の滝を見つけ出したのであろうか。
一段と川音が大きくなったと思ったら、真下へ降りていく階段を見つけた。階段とはいっても杣道のようでもある。垂直に降りていくといった感じである。轟く水音にむかって降りていく、それは奥深い山の中に一筋の流れであった。三の滝である。

相応はそこに明王の化身をみたという。飛び込んで明王に抱きついたのは桂の木であったという。相応はそれに不動明王を刻み今に残すのである。
新行さんは夏安居ともなると淨衣を身にまとい、不動真言もろとも滝壷めがけて飛び込むという。回峰行の霊場という原点をみたようである。

天台密教の祖・円仁の弟子相応は今も生きている。歴史の中に埋もれことなく、その精神はこの時代の中にも確かに生きている。化他行の真髄はまず礼拝からあるという教えには頷けるし、真摯な気持にさせてくれるようです。
数年来、天台密教に接して思うのは、自利行化他行共の中で完成させる仏心を脈々と今に伝達していることである。六条式(山家学生式)で伝教大師最澄がいう結界を示して籠山し、勉学修行に励むことが僧であり、仏を知ることの一歩であろう。比叡の山は私に何を教えてくれるだろうか、いよいよ楽しみでもある。

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世界を観ること<イラク>


「パンジャブ」とはペルシャ語で五つ(パンジ)の川(アブ)を意味するそうだ。ヒマラヤを水源とする川が五本も流れ下ってインドとは思えないほど緑豊か、実り豊かな穀倉地帯である。
豊穣な地域だからいつも政争の場となって来た。英国は植民地にした恨みをそらすためパキスタンとインドに分割、その為両国間では未だにここを巡って争い続けている。インドの内政でもパンジャブはいつも火種になる。
シーク教徒達はここをインドから独立させシーク教徒の国にすると叫び、政府軍と戦い全滅している。そして報復にインディラ・ガンジー首相を暗殺したのである。それで、ヒンドゥー教徒が怒り、以来、シーク教徒とヒンドゥー教徒の凄惨な殺戮が繰りかえされるのである。

白昼のニューデリーでは焼き殺されたばかりのシーク教徒の遺体があり、AP電の写真は配信される。遺体はまだくすぶっている、日本人には想像もつかないインド人の残酷さと宗教のもつ狂気を実に雄弁に物語っている。
日本のメディアでは報道されない、残酷過ぎて「朝の食卓で見たら嫌な気分になる」ということだ。
現実社会の醜さ危なさを隠して国際報道などとは言えまい。

我が国の新聞は、残酷な写真は一切御法度、遺体の写真はもちろん、犯罪者の手錠姿まで駄目になった。そうやって現実から目をそらすから、中国は友好国だとか、韓国人もアフガン人も善良だとか、日本だけしか通じないような虚構がまかり通るなっている。

イラクのファルージャで米民間人の乗った車が襲われ全員が殺された。イラク人は歓声をあげて遺体を引きずり回し、切り刻み、ユーフラテス川に掛かる鉄橋にその遺体をロープで吊るした。
米紙はこの衝撃写真をためらいもなく掲載するのである。NYタイムズ紙は掲載理由を「遺体の尊厳を傷つける行為と民衆の歓喜にある」と語る。

イラクのフセイン政権が崩壊するや彼等は満面笑顔で博物館や病院を剥奪して歩いたのである。復興の手助けに日本がやってくれば地主は一億円の地代を請求してくるし、混乱に乗じてシーアもスンニも政権奪取に目の色を変え、民衆は何でもいいから金目のものを漁る。
そういうイラクの現実をこうした写真が語り尽くしているとNYタイムズ紙は言いたいのであろう。

しかし日本のメディアは思想もなく「残酷だから…、遺体だから…」で不掲載。イラク人は「善良で可哀相な民」のまま残るのである。それを信じて青い日本人が善意を押し付けに行って人質に取られたりする。
それは政府の責任とか、自己責任というものの他に、醜い世界を正しく伝えられない新聞他メディアの責任でもあるのではないか。

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日本人犠牲者によせる


米国がイラクでの戦闘終結宣言から半年余過ぎて、その間イラクで起こったことは一体何であろう。
失われた人命、破壊された国土、困窮による強盗や殺戮、米国が目論んだ民主主義国家とは裏腹に、アメリカ兵による占領、反米感情の高まりと、米軍によるイラク人の殺戮である。そしてなお、悲惨な出来事は自爆テロ、イラク人による襲撃事件によって無関係な人々の命を犠牲にしているのである。

国連査察を無視してまで強行されたイラク攻撃はこうして今や泥沼化して言ったのではないか。
この夏、国連現地本部までもが爆破され多数の国連職員が死傷した。ここまで米国に対しての憎悪の感情が表われており、それがイラクの現状であるのだと思われる。
以来、アメリカ兵襲撃事件は途絶えることなく、そしてついに我が国日本人駐留大使までももがテロにあう事態まで陥った。政府はこの死を無駄にせぬべく、強い意思と行動を進めると言って美談とし、英雄視し、イラク自衛隊派遣を開始しようとするが、これはこれまでの経過を考えてみればアメリカ追随のイラク攻撃への無謀な参加ではないか。それらは全て小泉政権、および国会を変化させられなかった国民一人一人の責任でもあることも忘れてはならないのである。

今や、米国のイラク攻撃は明らかに間違いであると世界中が認めている中、小泉内閣は葬儀の席上においても責任を問うこともなく、まだアメリカ追随のイラク攻撃に参加すべく自衛隊派遣を断固進めていこうとしている。

日本という国の平和感覚は、かつての敗戦国としての経験、および平和憲法をも踏みにじって、今や完全な軍事国家としての機能を持ちつつ、行使しかねない危険な状況にあることを今回の日本人犠牲者は意味しているのではないか。
こうしている間もイラクでは尊い人命が失われていることを肝に命じるべきである。

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【死刑廃止論】


近年とみに「死刑廃止論」が叫ばれている、世界先進国で死刑廃止論はもはや当然のごとくメディアは言うが、まず考えられなければならないのは、【死刑制度のない社会】を実現するのではなく【死刑制度を必要としない社会】を先進国と言うのではないだろうか?

国会議員の超党派でつくられている「死刑廃止を推進する議員連盟」が法相に死刑執行しないよう申し入れをしたが、昨今死刑執行の存廃が大きな感心事となっている。
死刑廃止論の主な根拠は
1、冤罪の可能性がある。
2、死刑制度が非人道的で残虐な行為である。
などであるが、しかしこれらは死刑廃止の決定的根拠になるとは考えられない。


冤罪の可能性は否定できないとしたら、議論の飛躍で死刑に限らず無期や懲役刑、はては罰金刑でも冤罪は許されるものではない。もし、現在の刑事司法制度で冤罪が発生すれば、どの段階で発生するか追及すればいいことで、冤罪の可能性があるから刑罰を軽くする、ましてや死刑を軽くするというのは本末転倒ではないだろうか。
また冤罪の可能性を議論するのであれば、「再犯」の問題にも触れなければならない。日本の刑法犯の再犯率は50%をこえていると聞く、仮出獄を許され社会復帰後再び殺人事件を起こす事を繰り返している。そして、国家はこの再犯に対して何ら責任をとろうとする訳でもないのである。

「死刑は非人道的な残虐な行為、許されない」と非難する人がいる。そもそも刑罰は残虐で苦痛を伴ない、人々が畏怖する存在でなけねばならないはずである。しいては犯罪のリスクは刑罰でなけねばならないのが集団的人生でなければならぬものです。

死刑執行後の写真を法相に示して「残虐な刑罰を禁ずる憲法にも反する」と訴えたという。しかしながら、残虐なのは死刑だけではなく、被害者側においてもそれ以上に残虐であったのではないだろうか。死刑囚の最後だけを見て、死刑は残虐であるか否かの議論をするのは愚かでもある。
仏教者である僕は人が人を裁き、殺す事にかなりの違和感がある事も事実ではある。無明という最初の過ちが縁起で起こす殺戮には結果としての、死という物に直面させられることに口を挟む余地はないかもしれない。

死刑執行された時、死刑囚が最後に残した言葉を開示して、命をもってして罪を償った人の最後の言葉には必ずや何かしらの感じるものがあるであろう。その感情を原動力に我々は犯罪を防ぐ努力をしていかねばならないのである。

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謙翁/H・14:7・21




【 死 】


虫籠の中で飼っていたクワガタが突然動かなくなった。6,7歳の頃だったか、「死んだんだよ…」と母が何気なく言った事を覚えている。私が「死」という言葉と初めて出会った瞬間であろう。

物と化した昆虫に被さるその短い響きは不気味さを伴なって僕に襲いかかってきた。今まで歩き回っていたものが止まってしまう事を「シ」と言うらしい。
お母ちゃんも死ぬの?僕は聞いた。そうね、いつかは死んじゃうね、母は答えた。お父ちゃんも?…・。うん、死んじゃうよ。なんと直哉的な言い方だろう。親としてもっと別な表現は無かったのであろうか。クワガタのようにシぬ両親を想像し、僕は不安に怯えて涙が出たものだ。

だがその時、死はまだ人ごと、いや親ごとであった。自分もいつか死ぬのだ、確実にそれはやってくる。そう思い至ったのは小学校高学年ほど無く母方のおじいさんのシであった。そして今後こうして親も死んでいくのだ。親が死ぬのに自分だけが永遠に生きる訳はなかろう。ショック!

その衝撃度はいずれ親が死ぬと知った時の比ではなかた。死んだら、と私は夜具の中で考えた。体が失せ、何かを思ったり、考えたりする事もどうやら出来なくなるようだ。つまり自分が丸ごと無くなってしまうのだ。いつしか脂汗をかいている自分がそこにいた。おかげで当時には早くも軽い不眠症児になっていた。

今私は53歳、いくつもの親しい死を通過して来た為か、死にうなされる事はなくなり、容易に死を受け入れられるまでになってはいるつもりだ。否、単に逃げる術を覚えただけなのか。子供を泣かせた親はもうすでに数年前に亡くなっている。

謙翁 H14/3:1

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【 企業 】


経営不振に陥った企業は、まずパート授業員・従業員などの解雇を発表する。これはリストラ(企業再建)と表現するのは誤りで、単なるダウンサウジング(雇用削減)と言うべきである。本来は役員報酬や管理職の給与削減の方が先ではないであろうか。

しかしながら、雇用削減が一般化した事で解雇は本人の落ち度ではなく、経済情勢の為だと世間に受け入れられるのはせめてもの救いではある。でもこのような機械的な人員整理を強行すれば不況で開いた傷口を余計に広げるようなものではないだろうか。

「公平な人員整理」という名目で全部門ので一律に人減らしをすれば、忙しい職場では仕事がさばききれなくなる。これがしいては日常的なストレス障害にとなるのは必死か?「仕事がこなさなければ、自分も解雇される」といった心理的圧力がこれを「燃え尽き型うつ病」という働き盛りの自殺も誘発しかねない。
また人件費節減の為、特定の授業員を「自己都合退職」に追い込む企業もあるという。この手法は当然「いじめ」を伴ない、社内の空気は一変するであろう。
雇用削減するともなれば、それと同時的に勤労意欲を掻き立てる明るい見通しを含む再建計画を示す事が尤も大切なことだろう。

いま政府は、セーフティーネット(安全網)を用意しているということらしいが、雇用削減ストレスによる犠牲者には健康相談・職業相談・社会相談の三つが必要だという事も知る必要がある。

謙翁 H/14:2・25

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【 信仰 】


宗教に対する信仰というものは、本質的に他人に対して誇示するものではない。自分の心の中に抱くものだと言えるのではないか。

其れは何故か。信仰の論理というものは本来現実の世界の論理にはそぐわないからである。例えば政治の論理や世俗の論理と宗教の論理とは相反するものである。

その為、信仰というものをむやみに社会の中に放り出したり、誇らしげに宣言したりすれば、それが原因となって大きな摩擦を引き起こしたり、逆にその信仰が歪められてしまうことも起こりかねない。
言いかえれば、これは現世と来世の二元論だといえるのではないか。

信仰とは現世のものではなく、キリスト教でいえば神の国、天国の掟であり、仏教の真宗でいえば浄土の思想である。

この現世と来世の思想の違いは大きい。

宗教の信者は心にあの世を抱きながら生きている。その為、自分の信仰を「隠す」とか「秘める」ということは、実は宗教の根幹に関わる要素だともいえるのではないか。

謙翁  H14/2:20

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生きること


53年と2ヶ月、これが私の生きてきた『時』でもある。長いと考えるも、短いと考えるも皆それぞれであろうが、少なくとも、まあ何とか時間の経過だけは確実にこうして刻みつづけてきた訳であるし、まだ此れからも刻み続けるものと考えているのである。

何故今更、唐突にこんなことを考えているのか不審に思われるかもしれない。
命の永さは、おちろん誰にもわかることはないし、ましてやどのようにして死を迎えるのかさえ解るものではない。でも、『死』は必ずや来るのである。

50歳を越えた頃から、私の元へ訃報が届くようになった。私は以前より、死に対しては特別な止観を持っており、訃報にふれる度に、私の心の中では亡くなられた方の生き方、生活観を思い浮かべる事になるのだが、亡き方のことを想えば思うほど辛さを感じるようになってきて、最近ではつとに辛さが増してくるのは何故なんだろうか?
若い時の死者に対する捉えかたは簡単だったようで、まさしく全く他人事で、絵空事でしかなかったような気がしている。

最近、私は2度目の狭心症の手術を施したのである。狭心症自体は、今や極度に簡単な手術で治る(医学の急激な進歩によるのであるが)のであるが、否、治った具合に似せる?だけで決して完治してはいないのであるが…・

今回2度目の狭心症の手術をした時、治療後の心臓造影のフィルムをみて気持ちの動揺は隠しようがなかった事を覚えている。もちろん急になる病気ではなく何年・何十年という時間を経て今に至っているのであろうが、その時間の中を私はいったい何をしてきたのだろうかと「フッ」と思い出されたのである。一生懸命生きてきて、何故血管が詰まってしまったのだろうか?高校時代あれほど苦しい練習をしてきたのに何故こうなってしまったのだろう?というかなり単純な疑問と、後悔が右往左往していたのである。

遅きに逸した感は否めないだろうが、今更ながらに健康な生活、生きていることの喜びを再認識させられた私は、人の一生の「ひとかけら」を記しておきたいと思った次第である。

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H13:12・14    謙翁


静かな夜



1948年(昭和23年)生まれの私。田舎育ちの私にとって、普通の勤め人を父に持つ家に生まれたからには、子供の私が夜を知らなかったのは至極当然のことではあった。子供でなくとも、田舎の大抵の大人にとって、夜の10時というのは全く人気の消えた通りでしかなかった。外灯すらほとんどなく、真っ暗な夜道には少なくとも気持ちのいいものではなかった。

飲み歩かない父、カラオケの趣味もなかった母(そもそも飲み屋、カラオケボクスも無かったのだけど)、きっちりと毎夜10時には寝ていたから、私達兄弟は其れ以前に寝床に入っていた。

本当に其れより遅く起きているのは、大晦日くらいではなかったか。時計が11時や12時を指しているのが幼い我々には空恐ろしくさえあったものだ。あの頃の私達には、夜の10時以降という世界は、まさに暗闇の中にあり、いわばこの世に存在しない時間帯であったわけである。


さて、月日は流れ、私は都会の真ん中に出てきた。名古屋の夜中は東京とは比べるまでも無いが、それでも夜中は明るく、眠らない街と人々があまりに多い。

大人になり、職業も普通の勤め人とは言い難く、むしろその眠らない街の片棒を担ぐ側へ回った感がある私は、夜の10時以降のほうが生き生きと動き回り、生きている証拠を感じる生活と人種になってしまった。

子供の頃、「どこにあるんだろう」と夢想した夜という時の間を、手に入れてしまった。だが今は逆に、あのあっけらかんと晴れ渡った朝という時間はどこへ行ってしまったのか、と思いを馳せている。
きっと過ぎ去った昔のどこかに、あるのだろうが……

H13:11・23   謙翁

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【 蝉 】


それは毎夏、ある日突然やって来る。
それは僕の少年時代からずーっと引きずっている『夏』でもある。

「明け方 眠りから覚めて 初蝉をきく」と、ある詩集に見た覚えが僕にとっては『夏』の始まりであり、静けさを感じるなか、道端に死骸を見ることで、また今年の僕の『夏』は終わって行くのです。

やはり今年も近所の公園からニイニイ蝉だろう、梅雨明けを知らせるように一斉に、いやそれはけたたましく鳴き始めたのであった。
真夏日が続く頃になればワシワシワシと激しく鳴きたてるクマ蝉の声を聞くことになるのである。それは盛夏の予感と、わずかに残る夜明けの空気を運んでくるだけで、しかしそれは昼前には彼等はどこへいってしまうのか、代りにアブラ蝉たちのジージージーと、昔製作した真空管ラジオのバリコンをあわせられなかった時のように日が落ちるまで鳴り絞り続けるのである。

昔日の神社では、静けさの中今でもミンミン蝉は鳴いていてくれているのだろうか?

カナカナ蝉を聞くに、僕は今年どこへ行ったらいのだろうか?数年前、湖東三山の金剛臨寺・西明寺・百済寺を汗をかきながら参道を登って聞いたカナカナ蝉は晩夏の『音』でした。美濃路の入り口深谷・正眼僧堂の石畳で耳にするそれもまた晩夏の『音』でした。

蝉の一生は地下生活からこの世に出でて、一週間の命というのだそうです。そんな命のはかなさを僕はこれまで何度となく見てきたのだろうか。
そんな蝉の一生に悉有佛性(しつうぶっしょう)をみる程僕には『生』にたいして寛大ではなく、これからも生きて行く自分の性の中での『夏』の経過に過ぎぬ事かもしれないのである。

それぞれの夏の経過体験は心に刻まれて、あなたの『夏』も過ぎていくのです。それは自分の命の削除経過の課程でもあるのです。

謙翁 H13・8.12


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【 料理 】


食べると言う事は即ち他の命をむさぼって命を永らえる作業に他ならない。ただ、人間は他の動物と違って、料理という食に楽しみを覚えた事であろう。
それはまさに、鮭の腸である筋子を美しい皿に盛ってイクラとして腹におさめて悦にいっている人間の仕業なのである。料理とはかくもいいい言葉である。

しかしながら所詮、その料理にも人間としての厳格さ、いや、そのルールというものがあって然るべき処、いまではカテゴリーをこえたという言葉に隠されて本来持つ味わいを味わうという厳格なまでの作業が省かれようとしてはいまいか。

我々は悪食という言葉を間々使うのであるが、考えて見るに我々人間がその悪食の最たる者であろう。
豚は貪食である。黒鯛は悪食であると糧に言い張っているのであろうが、東南アジアの市場ではゲンゴロウ虫のごときものが売られ、はたまた可愛いサルなどが売られている。聞けばそれはさる有名な満漢全席なるものにて脳みそだけをいただくそうな…・そんな人間の食に、食の尊厳を感じろということが無理であって、もはやそこには料理という作業を超えた生命活動のみが写し取られているのである。

日本人は鯛の活き造り、鯉の姿造りと、息も絶え絶えの料理を「これは活きがいい」「まだ口がパクパクしてるよ」なんて言いながら美味しそうに口に運ぶのである。
そのような我々が、ライオンが小動物を襲って食い散らかしているのをテレビで観ていると「何て残酷な!」とわめいているが、そもそも食というのはこのような『命を食べる』ということに尽きるのである。


では一体、人間の食とは何であるのか?
私はその一つに『共食』という言葉を選んで見た。
家族揃って食べる、仲間と一緒に食べる、恋人と食べる、そこには共に生きている証拠を確認し会う作業の他ならないであろう。そしてその食という作業を通じてある意識を発生せしめるのである。人間はそれを勝手に愛情と名付くのである。

日本人はお雑煮に見られるように、神とそして一族と共食して、その一年の幸を願い、食べられる事に感謝する崇高な民族であることに誇りを持ちたいものです。

かの道元禅師は料理に心を砕き、食べる事に心を看たものです。何故ならそこに生きることを知ったからにほかならないでしょう。

謙翁 / H13・4.13

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【責任のとり方】


高速道路の問題は、構造改革に向って確かに一歩進んだ感じもするが、歴代首相に出来なかったことではあるが、物足りないのは論議の過程で大体の筋が見えにくくなった事だろう。
その理由の一つは、この問題に限らず、改革が各論に入るにつれて、利害調整にに追われる為なのか、全体といて何の為に何を改革するのかが不明確になってくると思われる。
もう一つは高速道路網の整備で便益は飛躍的に向上したが、その反面その担い手が膨大な債務超過に陥った事に付いて、原因と責任が全く曖昧なことである。そこが不明確なまま、情勢が変わった、こういう対策が必要だ、と言っても納得しがたい。無責任な事業が繰り返される懸念が強いからである。

話は少し変わるが、先般、愛知県知事は現在の改革を推し進めて、採算路線と不採算路線を判別し、それによって高速道路を造れば「一極集中」がおきると言っていたが、もう現在の社会環境を見渡せば、田舎、いや故郷を残し自然を破壊しないためにも「一極集中」は、それで仕方ないリスキーな問題であると考えればいいことではないだろうか。
社会的インフラをただ造りだし、仮のGDPを押し上げても、結局は我々に振り返ってくる、大きな負債だけであり、今や現実的な観点でみても不採算路線がほとんどではないか。

話を戻すが、民間の場合の責任の取り方はその所在がハッキリとしている。例えば今回の東京電力の事件では首脳陣が揃って退陣する。原子力発電の安全性という、電力会社の基幹にかかわる自己の隠蔽責任への対処であるが、東京電力はもともと日本産業界の良心ともいえるほどの社風の会社という。
その信頼が傷ついたことへの道義的責任をとった、という面もあると思われる。この並々ならぬ決断が未来にどう生かされるかが重要である。

また、これまでに各種不祥事などを起こしてきた企業の責任の取り方も各種雑多ではあるが、いずれにせよ、その責任の取りかたは現在の官庁・行政のそれとは比べ物にはならない。現在の経済停滞・金融機関の不良債権問題などなど取り上げたらきりがない状態である。彼等の責任の取り方はどうであったのだろうか。

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【不況脱出を安易に語るな】


日本銀行はこれまで短期経済観測を数回発表して来た。又旧経済企画庁(現・経済担当大臣)他、財務省等もここ一年ほど前から「僅かながらな経済の上昇をみる」、「経済の底は脱出した」、「経済活動の上向きを感じる」などと、発表しつづけてきた。

しかし、再びここに来て金融機間の不良債権がかさみはじめた。個人消費が一向に改善されていない。海外の経済(特にアメリカ経済)が停滞気味でよく流れない。以上の理由などにて企業経済の先行き不安が払拭できず不振気味である。 そして、不況離脱の兆しを誇張しすぎて修正せざるをえない状況下にあるといえる。

知られているように、一番簡単な景況判断は、主用企業百社ほど選んで、その企業が利益増大の方向にあるかどうかをアンケートして不況かどうかを判断する。

勿論わたしは企業家ではないから、私なりの判定法がある。それは家計の中で個人消費が先月より増加しているか、前年同月より増加しているかで簡単に判断する。もう少し詳しくいえば、就業総数六千三百万人のうち、ふところが豊かになり、旅行や娯楽がしやすくなったり、お酒が飲みやすくなったりしたという国民が半数以上になった時、不況を脱出しつつあると判定するというものである。

おおよそこの判定法で分かり易く、かつ実感的にかなってると思う。この素人にも出きる判断では、今のところ不況から脱出した兆しは、我が家には少しも無いし、どう考えてみても並み居る国民のなかにも、盛り場や飲み屋さんのうそ寒い店先ににも見当たらない。もちろん財を増やした人も、景気よくさっそうとした威風の人もいるには違いないとはおもうのだけれども…・
ただわたしの周辺には不況の波をかぶっているようにみえ、みんな焦っていら立たしそうにしているのが分かる。

企業首脳の景況判断とわたしなどの普通国民の景況判断とはやり方も違うし、結果も違う。この距離感はかなり大きいものと感ぜざるをえない。それは企業首脳が企業が成り立ってゆくかどうかを基準にし、普通の国民一人一人が自分の家計が成り立ってゆくかどうかを基準する限り、立場の違いで仕方ない事とは思うのだけれど。

普通の国民は自営の中小企業を除けば大企業や銀行が成り立つかどうか介入する事もできない。企業の首脳は銀行や企業の先行きに介入することができても、国民一人一人の家計やリストラされた人々の不安に介入することはできないだろう。

この両者の先行き不安が、不況に起因するとすれば、不況というものはすべてをなぎ倒してゆく潜在力を持ってはいないか。
簡単に不況を脱出しつつあるあるなどと政策的発言を」してもらいたくないものだと思う。

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【 結果責任などたやすく…・】

朝日新聞・「声」欄、投書済



10月22日の参議院本会議で早速、青木参議院幹事長が構造改革路線の人選問題にクレームをつけた。槍玉に上がったのはやはり道路族議員からであろうと思われる、「道路関係四公団民営化推進委員会」であった。青木氏の論理は「選挙で選ばれたわけで無く、結果責任を負うこともない方々の意見が重要な国策、国民の未来を左右するのは問題」といわれるが、

では、はたしてこれまで行政に関わる国会議員の方々に質問する。
「結果責任を誰がとるか?」と、言われますが、行政改革が叫ばれてもはや何年、遅々としてすすまず、表向きの形態だけ変えたつもりでも、中身は結局は何も変わらず利権構造、派閥構造はもとより変わりべくもなく、我々の血税から銀行への公的資金投入してもなおも正常化されていない銀行本体などや、不透明な議員活動のための賄賂や資金回しなどにおいて、どのように責任を感じて、責任を明確にして来たのかお尋ねしたい。すべて臭いものには蓋を、トカゲの尻尾切りと、今や、倫理観さえお持ちでない議員のいかに多いことか。

道路公団民営化推進委員会の猪瀬委員をマスコミに後押しされてもてはやされていると言われるが、行政者即ち官僚・国会族議員が何もできないから、民間の意見を入れようとしているのだ。それは旧国鉄(JR)・旧電電公社(NTT)をみれば明確であり、民間の活力はすさまじく厳しい事の証明でもありえる。
それを尚且つ、現在の族議員に任せていても何も始まらない事はもう国民は知っているのです。

これまで首相の諮問機関がいくつとなく作られ、民間人・学識経験者など意見を率直に言っておられているというのに、今日の経済・行政・教育などなど、それこそ結果責任など聞いた覚えもないのである。その点において良識の府・参議院の中枢におられる青木参議院議員は何を考えて結果責任の云々を言われるのか良識を問うものである。
かの中坊弁護士は現場主義を部下に言われ、又おのれ自ら現場を歩いて周られた。そしてその声・痛み・悩みなどを直に聞かれたというではないか。 いまや、国会議員といえども我々の現場の目線まで下りて、我執をすてて国民の本当の意見を耳にすることこそ第一歩ではないでしょうか。

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【 阿闍梨 】


冷暖自知という禅語があります。実際、暑い寒いは言葉ではいい表せない語彙なのでしょう。あえて言うならば、ある比較論的な言い方でしか方法はないであろうと思われる。
そういう意味で考えるならば、比叡山延暦寺の四種三昧という修行にしても、また禅宗にいうところの座禅にしても、実際には経験してみないと言い表すことの出来ない諸処の出来事、辛さなどはまさに冷暖自知ではなかろうか。

今回、比叡山延暦寺三塔一六谷の中、無動寺谷明王堂にて千日回峰行者にお会いする事が出来ました。かねて、私心の中で、ある回峰行者のことが仏法を参究するほどにお会いしたいものと思うようになっておりました。


上原行照大行満阿闍梨 真言密教とは違って、天台密教における行は一種独特な香りも持っているように感じるのは何故なのであろうか。空海の密教は余りにも現世御利益を標榜し、必然的に庶民的な信仰心を目指しているからなのか。同種の密教にしても教義的に理解し難い、いやそれ以上に理解を超えたあるモノがあるからではないであろうか。


そのような点からすれば、天台密教は止観という教義の上で行われている以上、自利・利他とはっきり区別して、その中で人間性の追及をみる思いがするのも不思議ではない。回峰行者のことはみなさんもよく知ってみえると思うが、700日の回峰を終えて1週間のお堂お篭り、これは不眠不休不臥不食の荒行をすることによって、自分の為の修行から、以後300回の回峰行は利他行(衆生の為)へと変わって行くのである。

鎮護国家・国家安泰を垣武天皇は都の北にある鬼門、比叡の山をあえて伝教大師・最澄に授けて延暦寺を創建させたのである。
いうならば、我が国の仏法の再生の地なのでもある。止観にもとづく求法のひとつとして回峰行の位置があり、禅でいうところの只管打座となるのであろうか。
法を求むるに、様式は違えどその厳しさは同じと感じさせられた数時間でもありました。

謙翁・平成14年3月20日

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【比叡の山】


まず、こういう反省から始まる。一体今日私たち日本人に本当の宗教心というものがあるだろうか、本当といわずとも何か、こう自分を超えた巨きなものとの一体感のようなもの、それを仮に宗教と呼ぶとして、そのような感じ方が少なくなっているのは誰もが認めるだろう。

しかしその中で時に、何かわが底にこれと触れ合うある手応えのような瞬間が、例えば古寺の仏像の前にぬかまづく時、或いは、神秘的な風景の中に吸い込まれるようなとき、訪れることがあるのも事実であろう。
それは一体どういうものなのか、私が祖先の生き、感じ、信じた跡をたどり始めたのもその手応えのようなもの、幾分でも少しはっきりつかみたい、はっきりでなくとも、もう少し身近に雰囲気にでも浸りたいと思ったからであろう、そんな気がする。今生きているということを知るためには、人は過去の生に興味を持つものである。比叡の山はとりわけこのような日本人本来の問いかけに答えつづけてきたように思える。

空海の高野山は真言密教が彼一代で完結をみたのちは宗門内部からの発展は止まり、ひたすら聖地・霊地としてどちらかといえばもっぱら葬送・儀礼え偏って行ったのに対して、むしろいつまでも思想活力を失わしめなかった比叡はそれだけに日本土着の根に深く根ざしていると思われる。


比叡山の特徴は、思想的傾向というか発想の傾きをごく自然に受けとめているところに成り立っていて、また、それだからこそ日本の思想の中心として行きつづけて来られたのだと思う。
もちろん天台教学を前提としてのうえのことだが、日枝の山岳信仰に根ざし、在来の信仰を育て、山王一実の神道を育てるにいたり、見本の神道さえもその影響化においたことである。
その延長として、多くの仏教が教義に偏ったのに対して、よく日本的な山嶽修行の「行」を仏教体系の中心に取り入れ、今も残る「回峰行」や「籠山行」をはじめ、一方では日本浄土教を産むにいたる「常行三昧」の念仏行を発展させた。
kのような行為による宗教的体験と同時に高度の教学的研究の両方を統一しつづけたのにはやはりこの叡山という山があずかって力があったといわねばならない。

そして何といっても、中世鎌倉新仏教の母胎となった点である。これはある意味で世界史的にみても稀有のことであろう。今日私たちの生活に浸透している宗教の多くの部分を禅、浄土教、日蓮宗とその系譜が示しているのは衆知のことであるし、また、伝統芸術といわれる能、茶道、生け花などの芸能が中世に源をおいている事も知られている。そしてこれらの中世芸能の創始者である阿弥衆、または同朋衆と呼ばれる。
将軍家側近の知識人たちが少なくともこれらの中世新宗教の僧形をしたものであったことは現代においてもこの中世に発する日本的特質というものがいかに分化史上決定的な意味を持っていたかをあますところなく語っている。

この時代の指導者である禅の道元、浄土教の法然、法華経の日蓮、時宗の一遍などみな叡山の出身であるということは、いかにこの山が思想的な自由と活力を持っていたかを物語っている。
仏教各宗の教学の優劣は問わないとしても、日本の伝統的山嶽信仰の発展、実践的行と教学の一致、中世思想の温床としての役割は他のどのような山にも類を見ないものである。

その原動力をどこにみるか、それには多くの答えがあるだろうが、この比叡の山そのもの、そして最澄という人となり、自然と人間の結合した点にあると思いたい。その結合とは先にも言ったように、何よりも日本的思考法を貫くということであった。最澄にはこの山の麓で育った日々、心に根ざした山への深い思慕の念があったに違いない。


平成14年3月28日/謙翁

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『価値観崩壊と倫理観』




戦後民主主義で教育されてきた団塊世代の私としては、現在の価値観崩壊という言葉の裏に隠れた、いわば倫理・道徳という昔日の強制されたであろう語意について再度考慮しなければならない時期が来たと考える。

日本産業界を代表するような企業が次々と経営責任を問われている昨今、バブルに狂った結果の不良債権に絡むもの、公共工事受発注に伴なう不祥事、ずさんな管理による事故、消費者を欺く手抜き、情報の捏造、隠蔽などなど。
一方で各企業とも横並びに人を減らし、調達コストを下げ開発投資、設備投資を抑え、資産を手放す。リスクを恐れ将来に向って挑戦を回避する姿にはまさに経営放棄の感すらある。

最後には政府が何とかしてくれるであろう、というような依頼的な心の持ち方にはもはや通用しなくなり、企業の本質としての競争原理に立ち、市場の要望に適応した良質廉価なモノ作りに専念すればよく、政府はそれをサポートするようなシステム作りを急がなければならないだろう。

戦後の我が国はその将来を若く新しい経営者に託した。昨今の産業界はその時代に匹敵するほどの大きな曲がり角に来てるといtっても過言ではないだろう。思い切った経営陣の若返りと、過去にこだわらないアグレッシブな取り組みこそが各企業に求められてはいないか。

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『お札の行方』



好景気のときはモノやヒトの動きが活発になり、流通するお札が増える。財布がふくらみ、懐が温かくなり、逆に不景気のときは薄い財布でも背中は丸くなりがちだ。
ただし、クレジットカードの普及に加え、電子マネーなども現れ好不況とは関係なく、現金を使わないシステムが浸透している。米国は日本に比べてその傾向が強い。したがって見かけは薄い財布でも、好景気を謳歌してきた。

今の日本は、お札が増えているのに、好景気になっていない。お札すなわち二本銀行券の発行高は、今年十月末68兆円である。90年代前半には30〜40兆円だったのでほぼ倍増した。これだけの増加が好景気をもたらさず、経済は落ちこんでいる。
それでは、経済活動に結びつかないお札はどこに消えたのか?銀行に出向いた人が預金するのではなく、銀行の貸し金庫にお札をしまっていること。また銀行に持っていくことすらせず、家庭で金庫を買いお札を入れていることが考えられる。総じて「たんす預金」になっている可能性がある。

銀行預金からたんす預金への流れは、預金者にとってはやむを得ない行動とも言える。第一にゼロ金利によって銀行に預ける魅力は大いに薄れてしまっている。第二には、ペイオフの全面解禁が延期されたとはいえ、不良債権問題がいつになっても解決されず、銀行に預金しておくことの不安が高まっている。
これふだけのお札が滞留しているということは、同時にその分、預金が解約され、銀行の手元流動性が取り崩されていることに他ならない。問題は深刻である。

この流れを食い止める手立ては確立している。預金の魅力を高める。すなわち銀行に預金が戻るまで、銀行金利を引き上げることに尽きる。そうなって、銀行も安心して貸し出しを増やせる、というものだ。

謙翁・H/14/11/16

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ESSAY T
目次

 自分というもの
平成18年10月6日

 神と靖国の問題
平成18年7月2日

 死ということについて
平成18年6月27日

 団塊の世代
平成18年3月2日

 時は止まらない
平成18年2月24日

 靖国神社に思う
平成17年8月15日

 街の変化と経済
平成17年6月19日

 唯識の死
平成17年2月10日

 若者に言う!
平成17年1月30日

 回峰霊場・葛川明王院
平成16年8月14日

 世界を観ること
平成16年・4月25日

 イラク犠牲者によせる
平成15年・12月7日

 お札の行方
平成14年・11月16日

 価値観崩壊と倫理観
平成14年・11月16日

 結果責任とは・・
平成14年・10月22日
朝日新聞『声』欄・11月22日掲載

 責任のとり方
平成14年・9月6日


 不況脱出を安易に語るな
平成14年・8月3日


 死刑廃止論
平成14年・7月21日


 比叡の山
平成14年・3月28日


 阿闍梨 
平成14年・3月21日


  死 
平成14年・2月31日


  
企業 
平成14年・2月25日


 信仰 
平成14年・2月20日


 生きること
平成13年・12月14日


 静かな夜
平成13年・11月23日


 
 蝉  
平成13年・8月12日


 料 理 
平成13年・四月3日


 
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