コラム1  コラムU
 

コラムT 〔column〕




これまで読んだ本などから私達が考えておかなければならない言葉を記載して見ました。次の世代に伝える事は私達の使命でもあるのではないでしょうか



















朝日新聞・こころの風景/富岡多恵子

生死にたいする良寛



良寛が71歳の時、新潟の三条大地震があって、死者は千数百人、家屋の倒壊や焼失も大変な数であったといわれる。良寛はあちこちの知り合いに地震見舞いを出したが、その一通に、よく引用される次ぎの文句がある。
『災難に逢ふ時節には災難に逢ふがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。是はこれ災難をのがるる妙法にて候』。

この場合の「災難」とは地震という天災によるものだから、そのようにいうこともできたのであろう。昔なら合戦、今なら戦争やテロという「災難」には良寛といえども上のように言いきれたかどうかはわからない。ただし、今の時代には、たとえいかなる天災であっても、良寛の書いたような文句を口にすれば社会的制裁を受けることは必定で、たとえ私的な見舞状であっても、こんなことを書いたら、その相手とは五十年戦争になる。

良寛が出家者だから見舞状に先のような文句を書いたことができたのであろうか。といっても、出家者であれば誰でもが書けた文句ではないので、おそらく良寛というひとの死生観がそれを書かしめ、受け取ったひとがその死生観を共有していたればこそ、それが見舞状たりえたのである。

いずれにしても、今の時代には、こういう虚辞ぬきのわかりやすい言葉で生死についてものをいってくれるひとはあまりいない。そのように思ってしまうのは、覚めた者の言葉か突きささるのは、当節の人間がかわすなだめ合いの言葉の層が柔らかすぎる、ということなのであろう。

戻る


般若心経に新たな解釈 / 国学院大・宮元啓一教授



呪文で得る観音の力



広く読まれる『般若波羅密多心経(略称・般若心経)』は深遠な空の思想を短い文言ンで説いたものとされて来た。これに対して宮元教授が「インド哲学七つの難問」で斬新な解釈を提起した。空の思想を理解できない民衆でも「ぎゃあてい、ぎゃあて・…・」という呪文を唱えれば、観音菩薩と同じ力を得ることができる。むしろそうした易行道(いぎょうどう)に力点が置かれた経典だというのである。

「日本でも、言葉に出したことが実際に起こるという言霊思想がありますが、インド人は古代から現代まで『言葉が世界を創る』という感覚を極めて強烈な形で常識としてきたのです」
古代バラモン教では、宇宙の根本原理を「ブラフマン」と呼ぶ。ブラフマンとは物ではなく言葉である。インド思想では、世界を創るのはヴェーダ(古代聖典)の言葉であるブラフマンなのである。

宮元教授によれば、紀元前六〜五世紀ごろに興った仏教、ジャイナ教などに有力信者を奪われたバラモン教は、民主救済の宗教としてのヒンドゥー教に衣替えし、禁欲的なジャイナ教にならって、不殺生などの誓戎を守ることを重視した。それは「誓いを守り通せば本当になる」というヴェーダ以来の信念とも合致した。紀元前後に興った大乗仏教は、ヒンドゥー教にならって民衆救済を唱え、仏や菩薩の無限の慈悲を説いた。それとともに、誓戎の思想を受け入れ、菩薩の行を支える理念の中核に据えた。浄土思想を例にとれば、インド的な文脈では「法蔵菩薩が誓いの言葉を守り通し、その真実の力によって阿弥陀仏になり、極楽往生による民主救済の力を獲得したもの」だという。

「サンスクリット語で真実を意味する『サッティヤ』という言葉の用法、用例を検討していたら何がなんでも守り通された言葉が大願成就の力を持つ、という思想につきました。そして、灯台下暗し、典型的な用例が般若心経にあったのです」 お経の終わり近くにある「真実(サッティヤ)ノ語義を「言葉が現実になること」トと解釈すれば、難解とされてきた部分の意味が明確になる、と宮元氏は説く。

お経の名でもある「般若波羅密多」のうち、「般若」は智慧を意味し、その中身は色即是空などの空の思想だ。「波羅密多」は「到彼岸」などと解釈されているが、宮元氏によると、実践面では「何が何でも守り通す」ことだ。菩薩に課せられた六つの実践徳目である「六波羅密(ろくはらみつ)」を在家信者が守ることは不可能だが、静かに考えるだけですむ「般若波羅密多」(空の智慧を何が何でも守り通す)が民衆に推奨されたという。

とりわけ難解とされてきた三蔵法師玄奘訳の後半の「般若波羅密多 是大神呪…・」のくだりは、宮元氏の現代日本語訳では「般若波羅密多(という徹し通された誓いを表す言葉)は、偉大なマントラ(真言)であり…」となる。一般によく読まれている中村元訳等『般若心経・金剛般若経』にいう「智慧の完成の大いなる真言」とは異なる読み方を打ち出した。

お経の末尾の「ぎゃてい、ぎゃてい、はらそうぎゃてい、はらそうぎゃてい、ぼじそわか」という呪文は、宮元氏に因れば「往(ゆ)くこと(悟り)よ、往くことよ、彼岸に往くことよ、悟りよ幸あれ」と訳せるが、これを唱えるだけで、厳しい修行を積んだ観自在(観音)菩薩と同じ力を持つことが出来る。まさに大衆仏教であり、もし般若心経が空の思想だけを説こうとしているなら、こうした呪文があること自体、意味をなさなくなるという。

「これが般若心経の本当のメッセージなのです。その力点は、般若の効用にではなく、波羅密多の効用の方にあります。色即是空という深遠な哲学を理解できなくてもいいのです」

なほ宮元氏は高校時代に中村元・東京大教授(故人)の著書を読んでインド哲学に志し、東大で中村さんの教えを受けた。従来の仏教に囚われず、広い視野からインド思想を研究してきた。『仏教誕生』(ちくま書房)など一般向けの著作も多い。


戻る

日本人の心U・五木寛之



信仰と世俗



蓮如は自分の本願や信仰を他人にむやみに語るな、隠せ、と繰り返し言っている。キリスト教でも同じ様に人の見えないところで祈れ、隠れた部屋で祈れという。 つまり、宗教に対する信仰というものは本質的に他人に対して誇示するものではない、自分の心の中に抱くものだ、というのである。

其れは何故か?

信仰の論理というものは、本来現実の世界にそぐわないからだ。例えば、政治の論理や世俗の論理と宗教の論理とは相反する。その為、信仰というものをむやみに社会の中に放り出したり、誇らしげに宣言したりすれば、其れが原因となって大きな摩擦を引き起こしかねない。いいかえれば、これは現世と来世の二元論だといえるだろう。

信仰とは現世のものではない。キリスト教でいえば神の国、天国の掟であり、仏教の真宗でいえば浄土の思想なのだ。この現世と来世の思想の違いは大きい。

宗教の信者は、こころにあの世を抱きながら現世を生きている。その為、自分の信仰を「隠す」とか「秘める」ということは実は宗教の根幹に関わる要素だとも言えるのだ。

これまでの歴史を振り返ってみると、世界の各地で宗教上の対立が原因となった戦争が数え切れないほど起きている。其れに比べて日本でははっきりとした形での宗教戦争というものは起こらなかった。その理由として日本人が信仰を秘めてあからさまにせず、他の宗教を排除したり、対決したりすることを避けてきたからだとも言われている。

そういう姿勢にたいしては社会的正義というものに鈍感な信仰があっていいのか、という批判や叱責も出てくるだろう。信仰を心にだいている人間ほど社会正義に反するものに対して堂々と強い態度を取り、人道主義・ヒューマニズムにのっとって振舞うべきだという意見もある。

これは大変難しい問題だと思う。一方には社会に生きている人間として参加すべきだという理念があり、その一方には社会正義と信仰の論理、つまり心の論理とはまた、別なのだという考え方もある。

戻る

日本人のこころU/五木寛之



日本の農本主義



考えて見れば、日本は四方を海で囲まれた国である。政治・経済・行政・軍事・文化など、日本は古くから海によって結ばれ開かれてきたといっていい。
にもかかわらずその海に生きる人々の生活や歴史にほとんど無知である。

日本は律令制以来、農業を基本とする農本主義国家だ。そこではいわば農民だけが「良民」とされ、それ以外の者は農民を助ける補助的な人間であるとされる。

これはもともと中国から来た思想で、それを日本の大和朝廷が導入したのである。その為、律令制にはそのまま農本主義が投影される事になる。今の日本を考えてみても「土地」というものにこだわる人が非常に多い、これはそれこそ、7,8世紀以来の日本人の農本主義が二十一世紀の今も生き続けている証しではないか。

現在、日本ではこれほどまでに不況や、不良債権問題などが取り沙汰されている。ところが中小企業の経営者などかたがたの話を聞くと、やはり銀行は土地を担保にしなければ融資しないという。つまり、その企業の技術力や知的所有権など関係無く、まだ土地へのこだわりを捨て切れずにいる。

これほど地価が下落しているのにもかかわらず、土地神話が生きている。日本の農本主義がいかに根強いものかがうかがえる。
土地を所有し、そこに住んで土地を耕して生きている人達、或いは、そういう人たちに使役されて土地に縛り付けられてる人たち、こういう人たちが日本の歴史の上ではずっと国の「オオミタカラ」とされてきた。漢字では「大御宝」とか「百姓」とか「公民」などと書く。そして「オミタカラ」以外の人達に対しては差別するという面があったのではないか、それがずっと日本人の思想の根底をなしているという気がしてならない。

いままで歴史学自体が農業を中心にしており、たとえば、農業を中心に土地制度を研究する「土地制度史学会」という学会があって、そこに所属している研究部分が多いという。ところが海の本とか、山の民に関する学会はひとつもない。もちろん史料なども農業関係は圧倒的に多く、海や山に関するものはわずかしかない。

戻る

日本人こころ/五木寛之



神の代理人・餞民



日本は言葉というものを大事にする“言霊の国”である。祝福の言葉を淀みなく述べる時にある意味では超人的な力だといってもいい。
一面では差別をされて、村の中でも交際を絶たれている餞民たちが一番おめでたい時に神や仏に変わるという構図がここにある。

中世の頃は白拍子や遊芸民は朝廷にも出入りしていた。白拍子とは遊女のことだが、当時高貴な身分の人達の寵愛を得た白拍子も少なくなかった。「梁塵秘抄」を 編集した後白河法王などはそうした人々の芸能を好み、今のカラオケのように歌の勉強をしていたらしい。

遊女はもともと神に仕える女性であり、呪術的なシャーマニズムから来ている存在だったろう。仏教や神道が成立する以前の日本は呪術的なアミニズムの社会であった。呪術的なアミニズムの場合、穢れ観念はあるがその穢れは両義性を持っている、というのだ。
つまり、大地や自然は人間が素晴らしいものを与えてくれる、雷は恐ろしいものだけれど、偉大な力でもある。悪いというと同時に物凄いという感覚だ。その残像のうち片方の畏敬の念が徐々に薄らいできて、卑餞視だけが強くなってくる。それが極端に現れたのが歴史ではないか。

すでに室町時代に芸能は一つの転換点を迎えていた。その事を知って自らの悲しみを書いたのが世阿弥だ。世阿弥の次男が書いた「申学談義」のなかで本阿弥は観客を大切にするということと、神事であり神に奉仕するということが「申学談義」の芸話の本質だという。

戻る


日月抄/白州正子



進歩ということ



人間の生活程度が高くなったり、台所が電化されたというとうなど一般的に文化の水準が高くなったり、そういうことをもってして進歩とし、又、幸福であるとするのは普通の考え方です。誰も異存はありますまい。

しかしここにおいて、人間の人間たる所以が猛然と頭をもたげてきます。なるほど、生活程度は高くなった。が、「人間」というものが果たして進歩したか、しないか、その疑問は少し考えてみるならば必ず起きてくるべきものです。

ダ・ヴィンチの「モナリザ」を描くだけの人も、我々の中にシェークスピアもおりません。それにもかかわらず、絵画や文学を解する人、またそれを云々する人々日増しに多くなるばかりです。それをもって教養と人は名づけて珍重します。けれど一方には教養なんてつまらないもんだと言う人もいます。実際、考え方によっては全くくだらないものに違いありません。

全くこれは変なことです、だから人間は解らないものです。この矛盾を私達はどうすればいいのでしょうか。

他方、人間の作った厄介なものの一つに「文化」というものがあります。一体文化とはなんですか。例えば、天平時代の文化というものは確かにに存在していた。この目で見、この手で触る事が出きるほど、それほどはっきり疑いもなく残っています。飛鳥・天平の人々は、しかし、ああいう文化を残そうとあらかじめ思って作ったのしょうか。、どうもそうでは無いように思われます。

おそらく、文化なんてことは考えてもみずに、ただひたすらに情熱にまかせて歌を詠み、信仰にまかせて仏を刻んだーー、私にはそうとしか思えません。
聖武天皇は奈良の大仏を作って極楽に行こうとおもったでしょうが、まさかその功徳によって進歩しようとは思わなかったでしょう。
西洋のルネッサンスの美術史をちょっと読んでも、あの限りない絵描きたちはみな一介の職人で、彼方に雇われ、此方に雇われ、雇い主の勝手気侭なな言い分に弱りつつ、ひたすら求められた仕事に精を出すばかりで、あんな立派なあんな眩しい文化なるものを残そうとは夢にも思わなかったに違いありません。

そう考えると文化もまた、それ自体なんとつまらないものでしょう。つまらないと言えば仏像も十字架もつまらないものです。

ちょうど幸福が結果のようなものであるのと同じく文化なるもの、ある時代が終わってから、ほど経てはっきり形を表すものです。昔から「幸福」そのものを書いた小説や論文もありません。それはそこに至るまでに過ぎず、あるいは又、不幸という影を作らなければ幸福の姿は消して現れるものではないからです。文化のそれと同じ様に文化をつくろうと決心しても決して出来るものではありません。

人々が異常な関心を示そうと、反対に極めて無関心であろうと、そんなことは少しも構わず文化は存在したりしなかったりするのです。ですから進歩というもんを、ただ前を向いてまっしぐらに突き進むことと正直に考えたら大間違いです。進歩というその字のごとく、前に進んで歩きつつ、いつも今を振り返ってみなければなりません。

原子爆弾もペニシリンもあきらかに進歩です。立派な歴史的事実です。しかし、その進歩によって「人間」が進歩したと考えるのは誤りである、といいたいのです。
それは科学の進歩であって・…・その科学とは、そもそも人間が進歩したものではありませんか。もしこれによって人間が進歩したものと錯誤をするならば科学の力に人類が負けたことになります。

戻る


日本の美意識/白州正子



美意識



優れた画家が美を描いたことはない、優れた詩人が美を歌ったことはない、それは描くものでもなく、歌いえるものでもない。美はそ手を観たものの発見である、創作である。

美は本来ありもしないものなのだ、もしあるとするならば、それを発見した個人の中にある。芸術家は確かに美しいものを作ろうとするが、それは美しいものであって、美そのものではない。
小林秀雄は世阿弥の花についてこう言った。『美しい花がある、花の美しさというようなものはない。』陶器も同じ事なのである。

青山三郎はその美しい花を求めて一生を費やした美の放浪者であった。「俺は日本の文化を生きているのだ」といつも言っており、結局それは「お茶の根源的な観点は空虚にあると思われる」というその空虚さにあると思う。空虚だから物も集まり、人も集まって連歌や音楽のように響き合う、去っていけばまた何もない空間だけが残る。そういう舞台が茶室というものである。

わびとかさびという言葉も、そこにわび・さびが現実に存在するわけでなく、人や物を受け入れるのにもっとも適した場であるからだ。

戻る



京都遍歴/吉村貞司



京の都の昔日



死者を偲んで小さな石仏を地下に埋める習慣は、鎌倉時代に入ってから浄土信仰の盛んになるのにしたがって民衆の間に浸透していったと思われる。

死者といえば、火葬にしないまでも、土中に埋めて土葬するのが当たり前だと我々は思い込んでいるが、死者を土中に葬る習慣は少なくとも民衆の間には近世まであまりなかった。ではどうしたかといえば、多くは町外れの野辺にただ打ち捨てたり、あるいは、河原や山裾の谷に骸(むくろ)を捨てただけである。それを鳥が啄ばんでいけば鳥葬である。

京にはそのような死者を捨てた場所が数知れずある。あの華やかな京の王朝文化を沈黙した死者の群れが見守っていたのである。生者の数はいつの時代も限られている、しかし、死者は時々刻々増えつづけてとどまるところをしらない。京には実に寺が多いという、それだけ死者が多いということである。

都には数多くの名高い行事がある。しかし、その大部分は夏のお盆の頃に集まっている。大文字送り火は死者の葬送儀礼から、六斎念仏や燈篭流しはなどはみな死者に関わるものであった。

日本人は仏教が入ってからも、長く死者については古代からの鳥葬、水葬などで済ましてきた。仏教も一般民衆の死後に付いてはそれほど関心を示さなかった。お葬式といえば仏式となったのはおそらく江戸後期のことである。

日本の民衆は生と死を、それほどはっきり区別していなかった。往ったり来たりできるもう一つの現実の世、そこに祖先の霊たちが生きている世界で、多くは山に、あるいは、海の彼方に、そのもう一つの他界をみていた。人々が死というものに直面するのは、古代からの氏族制度が崩壊し、同族の共同体に属しているという実感が失われてからであろう。

平安時代の新仏教がいっせいに民衆の間に踏み込んで行ったのはその為である。一説に由れば死者を仏教で葬送する儀式を初めて日本で用いたのは弘法大師空海だと言われている。

その歴史的事実はともあれ、その頃真言密教の影響のもとに、日本人の他界思想が次第に仏教の浄土思想へとうつり、それとともに中国での六道思想、人間が六つの世界と輪回転生するという考え方をうけとり、やがてその中で地獄が大きくクローズアップされるようになった。
それまで死者の単なる穢れの場であったのが底知れぬ苦悩と贖罪の場になっていった。

戻る



日本の美/吉村貞司



神像の美



神像は神仏混合の思想が生んだ形式です。これは常識ですが、では何故神仏混合したのか?せざるを得なかったのか、その発生の動機を誰もはっきり示してくれる人はありません。

おそらく、あまりに多くの理由や原因がありすぎるためでしょう。学者さえ触れたがらないのです。しかし、仏像とは違う異質の美しさを持つ神像はその名に背かぬ不思議な魅力をたたえて、今我々の前にある。文献は何処かの国の何とかという人が、お告げを受けて神の姿を仏に似せて作った、と伝えます。或いは、神の心を和らげるために菩薩の位を与えたともいいます。

当時の仏教が、外側の形式を真似ることに忙しく、一般日本人の精神生活に影響を及ぼすに至らなかった、その間隙をぬって民族の中に生きつづけて、殆ど思想とはいいがたい本能的な力が、ある日突如として爆発した。神像とはそういう噴火山の一つと見てはいいではないでしょうか。

それは一木というのが原則でした。ある時ある集落で神木が落雷で倒れた、これは一大事!、何かの災いが起こるかもしれぬ、素朴な村人達が知恵を絞って考えたのは最早、用をなさない木材に神の姿を刻み付けて子孫に残すとともに、祖先の怒りを和らげようとした。が、それまで石とか木とか山しか拝むことを知らなかった人々に神のイメージとは浮かんではこない。彫刻の技術もない、仕方なしに仏師に頼むことにしたが、仏師のほうでも困ってしまった。それでも村の人々から祖先の伝説や逸話を聞いているうちに、彼等の中では一つのイメージが出来あがった。

ある時はその像(すがた)が聖徳太子に象徴され、ある時は地蔵菩薩に酷似し、また、ある時は美しい女体を形どったのも偶然とはいえますまい。
彩色が落ち、美しい木目の現れた神像の肌を眺めていると、昔の人々の自然の樹木へ対する信仰の深さを思わずにいられません。

日本に木彫や木工が発達したのも、それが信仰と結びついていたからでしょうが、茫漠とした表情で両手を前で掻き合わせ、やや棒立ちの神像にはそのまま立ち木の面影がありますし、うずくまった坐像には木の根のたくましさを思わせるものがある。

戻る


古都転生/栗田勇



自然の美



京の禅寺の石庭や大きな回遊の池泉には純粋といえばいえるが、こうと思いつめたある作者の作意だけが目立つ。それだけに鋭く心にうつものがある。しかし、一度分かってしまうとそれはそれという底のわれた感がなくもない。もちろん原型は厳密な配慮があったであろう寺院の庭など、おそらく何度かの戦禍をくぐって生きてきた庭というものには、自然と人工の不思議なアヤというか、年月の刻んだドラマがしるされていて、奥深い魅力となって人をいざなう。古庭園の良さはそこにある。

古いから良いではないが、西芳寺(苔寺)などは昔は瑠璃御殿といわれる絢爛たるものだったという。とすると、苔寺を苔寺たらしめるものはもっぱら「時」というものの不思議であろう。人の作ったものを素朴に「時」という自然が作品を作り上げている。この「時」というのは、だがもう一度深く踏みこんでいけば、ただの自然な時ばかりではない、それだけならもとの田園山林に戻ってしまうであろう。

だからこの「時」とは、やはりこの庭にかかわった無名の人々の手でもありうる。つまり、言葉を変えて言うならば「時」というものは私達にとっては人間の中を流れて行った「時」だけが時といえる。

ある美を創造する事はだから、このような「時」が作る事であって、もしそれが一人の天才的な作家の手になったとしても、その手を通して流れているのはそれまでの「時」なのだといってもいい。
所詮、美の創造とは一人の人間の手を越えている、と同時に、あくまでも人間世界の中のことなのである。
私はこのような関係を風景とびたい。庭園はこのような美の原理を呼び覚ましてくれる。

戻る

経済批評 / 高杉 良(作家)


アメリカ流資本主義




『ハーバード流の改革は僕達を幸にしない』

国賊、売国奴、亡国の徒、要するに竹中平蔵大蔵大臣は魂を売った、アメリカの手先ではないかということだ。とても日本国の将来を真剣に考えているとは思えない。彼は日本的経営をすべて否定し、アメリカ型資本主義を無条件に礼賛している。

不良債権処理の加速策も、まさにアメリカの意向通りだが、そればかりでは景気は回復しない。何故ならば、不良債権は今の不況の「原因」ではなく、「結果」なのだからだ。大手銀行は2001年度までの10年間で、計76兆円の不良債権を処理している。バブルの後始末は、じつはもうほとんど終わっているのだ。今の不良債権は、その後のデフレ不況が原因でなのである。
よって、まず第一にやるべきはデフレ対策なのだ。しかし「綜合デフレ対策」にしても、実行性のある中身がサッパリ見えてこない。このまま不良債権処理を加速すれば日本はどうなるか。銀行の「貸しはがし」が横行し、企業の破綻が相次ぐ。その結果、失業者は大幅に増え、失業率20%という悪夢もありうる話だ。すでに三万人を超える自殺者はさらに増える。いずれにせよ「竹中恐慌」は避けられないだろう。

そんな不良債権処理の加速で一番喜ぶのは誰か、日本企業を安く買いたたくことができるアメリカの投資銀行など「ハゲタカ」たちだ。そのいい例が、わずか10億円の「のれん代」で長銀を手に入れた新生銀行だ。みずほ銀行やUFJ銀行が長銀と同じ運命をたどらないといえるだろうか。
ハバート大統領経済諮問委員会議委員長をはじめ、こうした竹中のハードランディング路線に、盛んにエールを送るのがアメリカだ。ハーバード大学に留学経験がある竹中には、アメリカの応援団がたくさんいる。国内の田中人脈をみても同じ考えを持つものばかり。
だが、アメリカの人口の1%が富みの30%以上を有する社会である。彼等は日本をそうした弱肉強食社会にしたいのだろうか。

断っておくが、私は「反米」ではない。経営の意志決定の早さなどアメリカに学ぶべき点は大いにある。だが、今のアメリカ資本主義こそがグローバル・スタンダードだという風潮を見れば、決して「親米」にはなれない。あえていうなら、今の私は「嫌米」である。

戻る

平成14年・11月17日



経済気象台/朝日新聞


新世紀時代




二十一世紀は経済の世紀だった。
@ 貧困からの脱出が世界規模で実現した。
A 政治や文化よりも経済成長を優先することが普遍化した。
B 経済的成功が社会的価値の尺度となった。

その前提として自由主義、自己中心主義がほとんど無制限に正統化された。
しかし、二十世紀を振り返ると、人間と世界の本来のありようからかなりずれてきたのではないか。

@ 人間は経済的豊かだけで幸せになる存在だはないことが改めてはっきりした。
A 政治・経済・文化が固有の働きを弱めると多様性が損なわれ、一人ひとりが根付くべき土台も危うくなった。
B 「ホモ・エコノミックス」(人間は経済的利害のみで動く)という人間観は人間をおとしめ「志」や「愛する心」「責任感」などを養う土壌を荒廃させた。
それはリーダー層の倫理観の低下、世代を問わぬ「いのち」の軽視にも表われている。


このままで二十一世紀を進められるわけがない。私達は何をビジョンとするかを明確にする必要がある。これまでにあげた問題点に即していえば、次のようなことだろう。

@ 人間の復権。人間を人間たらしめる「魂」の働きの再認識がその軸となろう。それは日本が伝承して来た精神的土壌のグローバルな再評価と結びつく。

A 政治や文化の復権。人間が多様性と自立の根を取り戻す為である。それは、経済における競争原理がそのまま社会に波及した行き過ぎを是正し、一人ひとりが、また民族が固有の使命を果たせるように、働きを担うことだる。

B 経済の役割は、人間が人間として成長するための環境整備におく。その尺度は構造変化による好循環の度合いに重点をおく必要がある。

このような不連続な谷を超えることこそ、この10年の課題である。世界の不気味な鳴動からみても、そのチャンスは十分あると思われる。

戻る

経済気象台/朝日新聞



民、信なくば立たず




小泉首相の座右の銘は「信なくば立たず」だそうだが、多くの政治家のみならず官僚さえ同じこの言葉を抱負として述べる。「変革の人」小泉氏が1年前に自民党総裁選で選出されたのは、明らかに民の声であった。政治と行政への不信が臨界点にたっしたからである。

にもかかわらず、その後も政官スキャンダルが相次いでいる。「衣冠(役人)の盗を去るはもっとも難」からである。「汝の俸は民の膏、汝の禄は民の脂」という官吏への戒めの言葉も、過去50年間の間に日本人が中流化して行く中で死語となり、官尊民卑の封建遺制だけが残った。

外務官僚と官邸の連携による外相の「押し込め」は成功したかに見えたが、余りにも悪役にふさわしい登場人物がいたこともあって、逆に外相を日本人好みの悲劇の英雄にしてしまった。もともと国民は外務官僚の外交能力などろくにあるとは思っていない。自国民を拉致した隣の無法国家にさえ何らの有効な手段も講じえず、民の痛みを分ちあうなど出来ない事が分かっているからである。狂牛病事件の際も官の隠ぺい体質によって公表が隠され、担当大臣の食肉パフォーマンスは信を求めて、信を失う結果に終わった。薬害ヤコブ病訴訟も、原告勝訴で一応の決着がついたが、薬害エイズ訴訟やハンセン病訴訟同様行政の不作為の責任と組織の血管を真に問う事は無かった。

「或ることをなさないために不正である場合も少なくない」と古代ローマのマルクス・アウレリウス帝は嘆いたが、我が国の最近の官僚は「或ることをなしたために不正である場合」も多い。一人の審査官が年間3千件に及ぶ医療用具の審査を行うという厚生労働省の体制には権益拡張にこだわる組織の行き着いた姿はうかがえても、国民の安全はもちろん、組織のリスク管理という視点も欠けている。民の信は失われて久しいのであろう。

戻る



日本語根ほり葉ほり/森本哲郎



死語累々




ギリシャの哲人ヘラクレイストはいった。「パンタ・レイ」、万物は流転する。日本流に言いかえるならば「諸行無常」である。時は止まらない。
中国の詩人、李白も言っている。「天地は万物の逆旅、光陰は百代の過客」

確かに全てのものは移り変わる、もし万物が永遠に不変だとすれば、その方が余程不気味であろう。不気味というより、この世はおよそ退屈極まりないものになってしまうはずだ。だから兼好法師は「世はさだめなきこそいみじけれ」
それにしても、世の変転が余りに急なのもこれまた味気がない。兼好がこのうえなく「あわれふかい」としたのは、折節の移り変わりであった。彼はこう言っている。

=春が暮れた後に夏が来て、夏が終わった後に秋が訪れるわけではない。「春はやがて夏を催し、夏より既に秋は通ひ」というふうに、すべては気付かぬうち、予兆を秘めつつ推移していくのだ・…・

ところが、昨今の世相の変貌はあまりに速すぎる。そして、その急変を現代の人達は当然のように受け取り、歓迎しているかに思える。今の日本人は、新しいものに最大の価値を置いているのだ。その証拠に「古い」ということは無価値と同然の扱いを受け「古い」という一言で、どんな意見もたちまち葬り去られてしまうではないか。
そんなわけだぁら、全て束の間に無価値となり、惜しげもなく捨てられて、安っぽいものに変わっていく。日々使っている調度品はもとより、生活そのものが“日々新たなり”という有様である。

暮らしのしかたが一新したのだから、私達が使っていた言葉が次々に死んでいくのも当然であろう。私たちの前には死語が累々と横たわっている。同じ言葉が使われていても、その意味は以前とまったくニュアンスを異にしていて、いや、意味が正反対になってしまっていることさえ少なくない。

「公私混同」とは公の場に私ごとを持ち込むことであり、最近では私ごとの中に公が入りこむと解されているらしい。日曜日に上司から仕事上の電話が入って来た時、そのとき若い部下は「公私混同をしないで下さい」と憤然と抗議したというのである。また、逆転というならば「情けは人のためならず」の解釈もそうであろう。

『消えた言葉』という本から見れば目次にはまさしく死語が累々と並んでいた。「」「茶の間」に始まり、「練炭」「炭団」「洗濯板」「蝿帳」「行水」「軒端」などから果ては「貧乏」「深窓の令嬢」「愚連隊」まで。
確かにこうして挙げられると、これらの言葉は知らぬ間に死語に等しくなっている。


しかし、私が何より憤然とするのは、これまで日本人の行動の基準、倫理の規範とされ行きつづけてきた言葉のほとんどが死語と化している現状である。
例えば「恥」だ。戦後まもなく翻訳されてベストセラーになり、異までは古典的な名著となている。『菊と刀』のなかで著者であるアメリカの文化人類学者ルース・ベネディクト女史は、日本文化の本質を「恥の文化」と規定した。そしてそれを欧米の「罪の文化」に対置したことで有名だが、彼女が日本を解くキーワードとした「恥」そのものが、現在の日本ではすでに“古典的観念”となってしまっているのである。いや、“骨董的”というべきかもしれない。

もちろん、「恥」という日本語は、いまでも立派に生きている。私達は「恥をかく」「恥かしい」「恥さらしだ」などという表現を、日常の会話にしばしば使っている。けれど「恥」という言葉には、かってのような重みが、もうすっかりなくなってしまった。それは、現代風に言い換えるなら「カッコ悪い」というに過ぎず、いささかも倫理的な反省の力をもっていない。

問題は言葉そのものではなく、言葉の持っている無いようである。つまり、何を持って「恥」とするか、言葉の中身が、およそ“軽薄短小”に変質したのである。それを何より正直に証言しているのが、当今の政治家たちの行動であろう。

「恥」は確かに残っているように思える。が、その性格は内面的なものから、外面的なものへと“脱皮”したのである。「恥かしい」ということは、例えば流行に遅れる事であり、新しい風潮に無知なことであり、極端にいうなら、これまで考えられて」いたような「恥」を「恥」とすること、であるのだ。

私はいたずらに、昔を美化するつもりはない。何故なら、いつの時代にあっても昔は、よきものであったからである。再び兼好の言葉を思い出せば、彼にとっても「昔」は「今」よりはるかに良かったようである。
『何事も、古き世のみぞ慕わしき。今様は、無下にいやしくこそなりゆくめれ』と彼は慨嘆している。
しかし、私はただ“古き良き時代”を懐かしんでいるのではない。あまりに急激に変質してしまった日本の風潮に、不安を隠しきれないのだ。そのような昨今の風潮を何より正直に語っているものこそ、累々たる死語の群れであろう。

「礼儀」はマナーというカタカナ語に変わって「恥」と同様、精神性を喪失し、「責任」は、ただ口先だけの「言い逃れ」に堕とし、「人徳」は単なる「人気」にすりかわった。死んだものは二度と返りはしない。とすれば、こうした死語は今後、決して復活することが無いだろう。そのとき、日本は、いったいどんな国に成り果てていることか。

戻る

第255世天台座主・渡邊惠進



法灯のことば




近年、一七歳の若者達による事件が続発し、これをマスコミが必要以上に宣伝するので、日本の若者が全て悪いような印象を世界中に撒き散らして、日本人自体が、我々は悪い人間になってしまった。或いは、日本人はもともと劣悪な民族であるかのように思いこまれつつあります。

しかし、本来日本人はとても優しく思いやりのある民族なのです。1200年前、比叡山を人材養成と世界鎮護の道場として開山した伝教大師最澄は「円機純熟」しあ優秀な民族だと言っております。円機純熟というのは他人の気持がわかり、他人の立場で物事を考え、他の為に働くことが出きるという意味ですから、現代社会でもっとも必要とされている人材です。

聖徳太子は「人はなはだ悪しき者なし」と言われて日本人を深く信じましたが、伝教大師はさらに一歩進めて、よく行い、よく言うことができる「国宝」的人材こそが日本人だと言われました。

日本の社会には、お互い様とか、お蔭様という考え方が基本にあります。自分が一番大切、自分こそが正しい、と言う気持ちが強くいつも他に勝つことを第一と考えるよりも、他人を立てる気持ちや、お互い様だからと水に流して許し合うという心が奥底にありますから、仏教的に言えば「菩薩」としての性格がもともと備わっているのです。

処が近年は、海外の考え方が正しいと思いこむ人が増え、強い者、お金がある人がよいことになり、自分の優位を主張してアラそう闘諍堅固な世の中になってきました。しかし、日本人の本質が根本的に変質したとは思えません。世界中で、心をこめて「ありがとう」の言葉を最も多く使うのが日本人だという話を聞いた事があります。「ありがとう」がすべてに対して言える人種である事を誇りに思わねばなりません。

比叡山が伝教大師によって開かれたころの日本は「五性格別」と言って人間をその人の具えている素質によって区別し、それを決定的なものとするという考え方が基本にありました。ちょうど、中学生の成績を1から5までで表し、5と4を取れる人は優れているが、3の人は普通で、2や1しか取れない人は劣っていると判定されているのに似てる。その評価があたかも人の値打ちを決めてしまうかのように錯覚します。また家柄が良かったり、親の七光りがあったり、お金のある人が高い地位につく時代が長く続きました。

伝教大師は、この五性格別の考えに対して「十界皆成仏」という仏教精神をもとに、すべての人々はすべて平等であると主張しました。しかし、伝教大師の平等思想には誇りと努力がついてます。

人にはすべて持てる能力と特性があります。その能力を自覚し、それを誇りとし、謙虚にその能力を社会に役立たせる為に日々努力する人こそ菩薩様であり、国の宝だと伝教大師は言われました。

努力して一隅を照らす


不治の病で病院の壁の中で苦しんでいるいる人も、その苦しみの中で医学の発展に寄与し、多くの人々の難病を救う大切な働きをしています。病を治すお医者さんと、治してもらう患者さんとを比べて、伝教大師は、どちらもなくてはならない国の宝だと言われ、一方が偉くて他が劣っているとは言われません。

人はすべて、持てる能力を社会の為に、人さまのために役立てることを自覚したときに誇りが生まれ、そのために自らの能力をのばそうと努力します。
人間としてこの世をよくしようと思い立つーそれぞれの場で努力して「一隅を照らす」人を、今日本では求めています。

戻る

井雄哉大阿奢闍梨



後戻りできぬ行者の道




---二度目の千日回峰行を満行されたのが1987年で、もう十数年前ものこと。振り返って、第一歩を踏出すまでにも様々な事があった…

「今思えば何もかも夢のよう、勉強嫌い、社会の落ちこぼれの私がここまでこられたのは、よき師、よき仏縁に恵まれたおかげ。最初の出会いのころ無動寺谷弁天堂の輪番だった小林隆彰師(前比叡山延暦寺執行)は“仏道への導きの師”。39歳で得度のときは戎師も。霊山院の小僧時代に仕え、雄哉の名をいただいた小寺文頴師は“学問の師”。そしてこの飯室谷で20年間、師事した箱崎文応師は行動の厳しさを教わった“行の師”でした。」

---回峰行を始められたのも記録的に遅かった…。

「最初の出峰は1975年4月7日。49歳という年齢はちょっと例がない。その日は箱崎師の誕生日でしたが、失った妻の17回忌の日でもあり、因縁を観じました。」

【千日回峰行の始祖は、9世紀の半ば第三世天台座主・慈覚大師円仁の弟子、相応和尚(かしょう)で、延暦寺根本中堂の薬師如来から「礼拝苦行こそ真の法、それを行満した時不動明王となり、一切の災いが取り除かれる」との夢告を受け、天台の教え「山川草木悉有仏性」の実践でもある苦修練行に入ったのが始まりという。籠山12年間のうち7年間を、3年目までは毎年百日、4,5年目は各二百日、1日30〜40キロの定められたコースを諸仏、先師の墓などを礼拝しながら歩き、計700日を成就して堂入り。6年目は京都の赤山禅院往復一日約五十キロを100日、7年目は前半百日を一日約84キロの「京都大廻り」、後半百日を一日約30キロを行歩して満行する。】

---“生きたままの葬式”といわれる堂入りでは臨死体験も…。

「それ以前にも、常行三昧というきつい行を経験していたが、堂入りの九日間は食事、水、睡眠を絶ち、横になることもできない。途中で息絶えることも覚悟のうえ。五日目から一日一度、水で口をすすげる。一滴も飲めないが、舌に残った水の甘味。水がどんなに大切かよく分かる。衰弱するにつれ逆に頭は冴えて、何でもよく見え、よく聞こえる。最後には死臭さえ漂う…。」

---それほどまでの苦行を高齢でよく成就された。

「この行は一度始めると、途中で止めたり後戻りは絶対にできない。箱崎師は「行者の道は進しかない。今歩いている道。それが行者の墓場だ」と言われた。学問は駄目でも、歩きならできると、この行道に入って学んだ事は、持続することの大切さ。これは何事にも言える。皆さんの仕事も一つの行。「一日一生」の思いで真剣に取り組み、続けることです。」

---1日一生とは…

「山の中を1日40キロほどぐるぐる巡る。激しい起伏を上がったり下がったり。それは浮きつ沈みつの人生そのもの。山を歩いている間は生、戻って草鞋を脱いで仏様にごあいさつして今日の生の世界が終わる。きょうの自分はあすの自分ではない。あすは生まれ変わって新しい自分で出発する。だから一日一生」

---行者の喜びは…・

「堂入りを終えると、自分のための「自利行」から、生きた不動明王としての「利他行」に変わる。京都大回りなどで沿道で待ち受けてくださる人々の頭に数珠で触れ、お加持をして功徳を分つのですが、小さな子供も「阿奢闍梨さんお願いします」と頭を下げる。こんな幼な子にも信心が根付いているのかと胸が熱くなる。よい伝統が残っているんだと…」

---大阿者闍梨として今の世にもの申されるなら…

「戦後五十年余、日本古来の長所まで一緒に破壊した結果が今の混乱。五十年の病気を治すには百年かかる。心配です。」


“行者中の行者”--比叡山大阿奢闍梨・酒井雄哉師を大津市坂本町飯室谷に尋ね聞く。史上わずか三人という二千日回峰満行の偉業を成就したひとであります。他にも十万枚大護摩供の荒行達成、仏教の聖地・天台山など中国始め、国内はもとより各地巡礼、行脚と行道にうちこむ“生涯行者”の姿には頭が下がります。

戻る

法隆寺にての感想/亀井勝一郎



大和古寺風物誌 U




これは私のつねに感謝して想起するところである。美術品を鑑賞すべく出かけた私にとって、仏像はいっきょにして唯仏であった。半眼にひらいた眼差と深い微笑みと、悲心の挙措は、いっさいを放下せよというただ一事のみを語っていたにすぎなかったのである。教養の蓄積というさもしい性根を、いっきょに打ち砕くような強さをもって佇立しえいた。

本来、人間はことごとく仏性をもつはずだ。迷妄やまず罪過にまみれようとも、むしろそれを縁として、本来具有する仏性を自覚することに一大因縁がある。ーなにごとも畏怖することなかれ。ーこの深い秘義を身にひそめた仏像は、私にとって、もはや美術品ではなく、礼拝の対象となった。拝むということが、見るというおとなのだ。

大和古寺を巡るにしたがって、私の心に起こった憂いとはこうだ。代々の祖先の流血の址をみて回るものの不安といったらいいのか。なぜこんなに多くの仏像が存在するのだろう。三千年のあいだ、もろもろの神仏が現れて、人々の祈りに答え、また美しい祈りの果ての姿となって佇立している。かくも見事な崇高な古仏がたくさん並んでいて、しかも人間はいつまでも救われぬ存在としてつづいてきた。どちらを向いても仏像の山、万卷の経典である。

古来幾百人の聖賢は、人間のため道を説き血を流した。いまわれわれはその墓場を訪れ、どうかしておの現世の大苦難を脱けきる道を示し給えと祈るのであるが、そしてすばらしい啓示や教えに接し、日々その言葉を用いるのであるが、苦難はさらに倍加し人間はいずこに行くべきかを知らない。

古典をうけつぐとは、つまりは地獄をうけつぐことなのか。はじめ古典はその甘美と夢によってわれらを誘うであろう。だが、なんじら固有の宿命に殉ぜよという追放の宣言がその最後の言葉となるのではなかろうか。

かくも無数の仏像を祀って、幾千万の人間が祈って、さらにまた苦しんでゆく。仏さまの数が多いだけ、それだけ人間の苦しみも多かったのであろう。一躯の像、一基の搭、その礎にはすべて人間の悲しみが白骨化と化して埋もれているのであろう。久しい歳月をへたのち、大和古寺を巡り、結構な美術品であるなどと見物して歩いているのは実にのん気なことである。

戻る

禅思想(その原型をあらう)/柳田聖山



糞尿譚




水洗便所が普及して、糞尿の匂いに悩まされることも、都会ではもうほとんどなくなった。農家でも、人糞を肥料に使っているところは少ないであろう。都会も田舎も、生活環境はまことに清潔となった。

しかし汚物はほんとうに流れ去るであろうか。だいいいち、水に流すといっても、流す方の水の確保は大丈夫であろうか。糞尿は科学的に処理されても、産業廃棄物の汚染がすでに人の生命を脅かしているではないか。

環境汚染や自然破壊の問題に立ち入るつもりはないが、絶えず汚物を垂れ流しながら、自分だけ清潔そうな顔をしている近代人そのものに、欠陥がないかどうか問いたいのである。欠陥を社会機構や経済、技術の問題に短絡しないことである。恐ろしいのはむしろそうした短絡である。

どんなに清潔ずきで優雅な生活を楽しんでいる人も、一日一度は必ず糞尿をたれる。その行為を他人に代行させることはできない。この事実を忘れると、議論は核心に入りにくい。だれがその後始末をしているのか。じつは、誰も始末する事は出来ぬのである。清潔で上品、優雅という生活のメリットそのものが、じつは汚物の排除という行為のうえに営まれている。清潔と不潔のちがいは、いったいどこからでてきたのか。

赤ちゃんの旺盛な食欲と排泄は、まのあたりに生の喜びを見せつけて快い。そこに何の不潔感もない。ところが、病気のとき、あるいは老後のそれはどうか。不潔で醜いのがふつうである。ときにそれはみるからに痛ましい。平生はほとんど意識にのぼることもない、食欲と排泄の事実が、ふたたび問題になるのは病気の際であり、老後になってからである。これまでとかく哲学的にみられすぎた「生老病死」の道理は、それらを直ちに苦悩とみるまえに、食欲と排泄という、もっとも原始的な生理機能のところで捉えなおしておく必要があるだろう。
そこには単に医学的な生理機能に終始しえない、実存の哲理が潜んでいるように思われる。

これまでの仏教学は「生老病死」の事実を生死の哲理に短絡し過ぎた。それは社会機構や技術への短絡とあまりかわらない。
死後の往生を説く浄土教も、父母未生以前の本来の面目を求める禅宗も、本当は生死の中間にある病と老いを直視することから出発していたはずだ。一つの教学体系ができあがると当初のねらいは忘れられ、観念の整理学にすりかわるのだ。

今、私の脳裏にあるのは「著衣喫飯、阿屎送尿(じゃくいきっぱん、あしそうにょう)」という馬祖道一禅師以後の禅語録に特徴的な寸句である。
道は、衣服をまとい飯を食い糞小便をたれる、日常茶飯の行為のうちにあるという意味である。わたしはこの言葉を想うごとに、言いようのない戦慄をおぼえる。道が日常にあるという考え方は、すでに古くから通途のものである。けっして高遠な哲理ではない。しかし、そのことを日常生活の行為に即して、ずばりと一句に言いきったのは、やはり馬祖以後の人々である。

最後に唐末代の雲門文堰は「如何なるかこれ仏」と問われて「乾屎ケツ(糞かきべら)」の一句を酬いている。

戻る

美術品か信仰か/亀井勝一郎



大和古寺風物誌 T




僕はこの頃、博物館についてますます疑惑をいだくようになった。便利といえばこれほど便利 なものはない。僅かの時間で尊い遺品の数々に接する事ができる。しかし僕らは博物館の中で、な にかしら不幸ではないか。東京の国立博物館でも、奈良博物館でも、法隆寺宝蔵殿でも、ふっと空 虚な淋しさを感ずることがある。病院の廊下を歩いているような淋しさだ。僕ははじめそれがなに に由来するかわからなかった。古仏が本来そのあるべき仏殿から離れて、美術品としてガラスのケ ースに幽閉された時の淋しさはむろんある。だがケースに陳列してそれほど不自然にみえないはず の工芸品にしても、博物館にあると急にしらじらしくなる。この空虚とは何か。淋しさとはなにか 。僕は近頃になってそれが愛情の分散であるにはっきり思いあたった。つまり博物館とは、愛情の 分散を強いるようにつくられた近代の不幸ではなかろうか。

僕らはこの不幸を、信仰の上にも思想の上にも、おそらく、恋愛の上にも担っている。比較しつつ信仰する人間の信仰を信用できるだろうか。比較しつつ愛する人間の愛情を信じうるだろうか。大和に散在する古寺を、僕らはいつのまにか博物館の一種として感じるようになった。僕らはもはや昔の人が感じるように古寺を感じてはいない。僕らの感じているのは、実は寺でなくて博物館ではないか。この無意識の変貌を僕は恐れる。信仰にとっては致命的だ。いわば神と仏の博物館を巡るといったような状態に知らず知らずのあいだに堕ちてゆくのではなかろううか。

唯一者への帰依を阻むものとして、近代の知性を挙げてもよい。信仰を超えた問題に直面すると、僕の知性は猛烈な抵抗を開始するのだ。全てを割り切ることの不可能はよく知っている。知性の限界も心得ているはずだ。それでいて知的な明快さを極限まで追い、合理的に説明し尽くそうという欲求にかられるのである。

現代人にとっては、こうした知的な動きは賞賛さるべきものらしいが、僕にとっては「罪」なのだ。比較癖とともにいつも自分を苦しめるのである。

知性は博物館の案内者としては実に適任であろう。だが信仰の導者としては「無知」が必要だ。「無知にぞありがたき。」と述懐した鎌倉時代の念仏宗のお坊さんの苦しみがわかるような気がする。人は聡明に、幾多の道を分別して進む事ができる。しかし愚に、ただ一筋の道に殉ずることはできない。冷徹な批判家たりえても愚直な殉教者たりえぬ。そういう不幸を僕らも現代人として担っているのではなかろうか。宗教や芸術や教育について、さまざまに饒舌する自分の姿に嫌悪を感ぜざるをえない。「愚」でないことが苦痛だ。

平安時代から鎌倉時代へかけては、太子信仰の念の勃興した時代であるが、このころの人の信心をうかがうと、実に「愚」で熱烈でまっすぐだ。今日からはとうてい信じられないような伝説を信じ、そこに一心帰命して悔いなかった。僕らはいま太子に関する正確な史料を所有している。あらゆる考証はゆきとどいている。太子に関する知識では古人に数倍するはずだが、それに比例して「拝む」ことからますます遠ざかって行くのは何故だろう。僕は夢殿への道を歩きながら、古人と僕らとのあいだにあるこの深い相違についてしばしば考えた。

古人の太子奉賛は、感謝に始まって帰依に終わっているが、僕らの太子奉賛は研究に始まって教養に終わる。古美術の本を携えて夢殿見物に出掛ける人は多いが、たとえば親鸞の太子奉賛の和讃を心に称えつつ参詣する人はまれであろう。

戻る

亀井勝一郎/大和古寺風物誌・斑鳩宮(飛鳥の祈りより)



 

コラム・T
目次

生死についての良寛
こころの風景 / 富岡多恵子


呪文で得る観音の力
般若心経に新たな解釈 / 國學院大・宮元啓一


糞尿譚
禅思想(その原型をあらう) / 柳田聖山


アメリカ資本主義
高杉 良(作家)/経済気象台


後戻りのできぬ行者の道
酒井雄哉大阿者闍梨に聞く


新世紀精神
経済気象台/朝日新聞


大和古寺風物誌
法隆寺から/亀井勝一郎


大和古寺風物誌
言葉の中から/亀井勝一郎


法灯のことば
第255世天台座主・渡邊惠進


京の昔日
京都遍歴/吉村貞司


死語累々
日本語根ほり葉ほり/森本哲郎


民、信なくば立たず
経済気象台/朝日新聞


信仰と世俗
日本人のこころU/五木寛之


日本の農本主義
日本人のこころU/五木寛之


神の代理人・餞民
日本人のこころV/五木寛之


進歩ということ
日月抄/白州正子


日本の美意識
日月抄/白州正子


神像の美
日本の美/吉村貞司


自然の美
古都転生/栗田勇



 
inserted by FC2 system