男と女の相互依存関係

「破れ鍋に綴じ蓋」という諺にみる、ヒトは何故助平になったか?


「破れ鍋に綴じ蓋」という諺がありますが、理想の人が見つかるまで結婚したくないという時代も悪くは思わないが、「破れ鍋に綴じ蓋」だよって笑って過ごした江戸時代のオカミさんのほうが、何だか幸せそうに思えませんか。

男と女の関係は相互依存関係である。戸川幸夫著「ヒトは何故助平になったか」によれば〜〜

南米のジャングルに棲むクモザルには、ペニス先から根元にかけて、角質の棘を逆さまに生やしているのがいるそうだ。従って、挿入にあたってはペニスはするりと入る。しかし、引き抜く時は棘が引っかかる訳だ。雌はさぞや痛いだろうなあ…・と、我々は同情したくなるが、何、心配する事はない。雌の膣はそんな棘に刺されても怪我しないように、固い疣(いぼ)で防衛されているのだ。

人類で云えば、パプアニューギニアに住む山パプア族のうちには、男が自分のペニスを木の枝で叩き鍛える種族がいるそうだ。これに対して女性の方はといえば大きな山アリを捕まえてきてあそこに?噛みつかせ、胼胝(たこ)を作って丈夫にするという。戸川氏のいうとおり、正に矛と盾の関係であるそうな。
では一体何の為にこんな事をするのだろう・…・ごく普通?のペニスで結構でいいと思うんだがねえ。しかしそんなこと言えば、米ソの軍事競争にしたって、双方が軍事放棄すればいい訳で、そうはいかないのが世の中の不思議なのである。


男女の組合せに関して、例によって学問的体系化を試みているのが、古代インドの経典『カーマ・スートラ』(カーマは業・性、スートラは経典の意)である。
大まかに言えば、男性性器(リンガ)は三種類で、兔男・牛男・馬男の順である。女性性器(ヨニ)も鹿女・馬女・象女となっている。この三種と三種の組合せで九種類の結合が考えられる。そして『カーマ・スートラ』は結合の是非を論じているのである。

勿論、理想の結合は誰が考えても解かるように等結合(サマ)である。不等結合(ヴィシャマ)には六種類あるが、中でもサイズが二段階違った場合である。 兔男と象女・馬男と鹿女の二種の結合は最悪で、それでもどちらが最悪かといえば、かの経典には兔男と象女と断じている。
つまりは、太平洋に牛蒡はだめなんですねえ。そうと分っていても、永年連れ添った象女と別れるわけにいかないところに兔男の悩みはあるのです!。




『がんもどき』の名前

ひょっとしたら納豆は婦人病の薬だったのか?


豆腐料理の代表は夏は「やっこ」、冬は「湯豆腐」であろう。過日、延暦寺無動寺谷明王堂に千日回峰行者に合いに行っての折り、ご加持・護摩供養後のお斎(とき)に高野豆腐が出されました。考えてみれば精進料理なんですから不思議でもないのですが、延暦寺で高野豆腐とは笑いましたね。

『がんもどき』にまつわるエピソードを一つ。
鎌倉・室町時代、禅宗ではことの他戒律が厳しく、修行僧達は女は勿論の事、飲酒も肉食も禁じられており、黄檗山万福寺などでは有名な精進料理はこの頃に禅僧によって考え出されたものである。
「ガンの味はいとこどうし」という諺がある。これはガン(鴨)の肉は美味で、いとこどうしで交わるのはこのガンのようにいいものだという卑俗な表現であるが、修行中の身としては女に接することはおろか、ガンの味さえ口に出来ない。

ガンの肉ってどんな味がするのか?…・固さは?…と。コウシテガンの味を想像しつつ、大豆で作り上げたのが『がんもどき』で、因みに「もどき」とは漢字では「擬」をあて、本物ではないが似ている、の意である。

「納豆」も豆料理であるが、その前の段階で出来るもの(蒸した大豆を醗酵させて乾燥したもの)を(香鼓)といい、消炎・解熱・健胃剤として漢方薬の一つである。 『医心方』という現存する最古の医学書がある。唐・随の医学書八十余書からの引用を記し編集されたもので現在では国宝となっているという。

その『医心方』卷二十八、長婦傷参十に次のような記述があるそうだ。
「集験方い云ふ、女子、丈夫に傷(やぶ)られ、四体沈重(からだおも)く、虚吸(おきぎれ)、頭痛を治する方。
生地黄八両、芍薬五両、香鼓一升、生姜四両、蒼白(そうはく)切りて一升、甘草二両、炙(に)る。各々切り、水七升を以って煮、三升をとりて三服に分つ差ゑざれば重ねて作(おぉな)ふ。」

処女膜を破られた女性が傷ついたときの処方に書かれている部分がある。その薬として、醗酵した大豆とネギの(蒼白)が出てくるところが面白いではありませんか。ひょっとしたら、納豆は婦人病の特効薬かもしれませんね。
言うじゃありませんか、女と納豆はあとが引く、とね。




蚊の習性

蚊の習性は人の倫理観をも超越?するのだ


「一匹の 蚊の執念を 憎みけり」 とこんな句を見つけました。わかりますなあ〜。蚊については、血を吸うのは雌の蚊だけであり、雄は刺さないそうである。そう「蚊の一突き??」じゃないが、我々の憎むべきは雌の蚊なのである。

それにしても、昆虫の世界の雄は大体が哀れなものと相場が決まってるようで、蚊とて例外ではなく第一雌より体が小さい。そして雌とセックスする事だけが蚊の夢である(仕事でもあるのだが…)。しかも雄達は一匹だけでは雌を呼び寄せる力をももたないのである。

じゃあどうするか?…・・雄達は集団で雌を呼ぶ術を考えたのである。その雄達の手段が蚊柱である。何十匹、何百匹の雄の蚊があつまり、(わんわん)と羽音をたてて雌を呼ぶ。葉音は蚊の種類によって違うのらしいが、雌は自分の種類の蚊柱の羽音をキャッチすると、蚊柱の中に飛びこんで行くのだ、蚊の雌も勇敢だね。

哀しいことに、わたし達人間様と違って?一匹の雌蚊には一匹の雄蚊しかセックスできない!蚊柱に雌が飛び込んだ瞬間に、一番幸運な奴?が雌と交尾するというのだ。そしてこの人妻蚊になった雌に雄は絶対手を出さないという誠に倫理的というか、慣わしが成立しているのである。(近頃の人間どもと倫理観がちがうというものだ、偉い!)

雄どもの争いで蚊柱は崩れてしまい、人妻になった雌蚊が出て行くと、再び雄達は蚊柱を作り、次の雌の到来をまつのである。

こうして人妻になった雌が、産卵のため動物の血を必要とする。したがって、我々の肌に寄ってくるのは処女ではないのである。
そんな訳だから、少しくらい人妻蚊に刺されて栄養を付けさせてあげるも「仏の教え」かなとも…考えないこともない…。これも一切衆生悉有佛性と言われる根本原理ですかな?




【正常…・普通…】

民主主義の大多数の原理とは正常なのか?


『正常』…「国語大辞典」には正しいと考えられているあり方や状態にある事。また、」他と特別に異なったところが無く、普通である事・・とある。

ここで問題となることは、誰が「正しい」と考えるか。と言う事だ。民主主義の原則にのっとって、大多数が認めたもの、それが「正」なのだろうか。とすれば、ヒットラーのユダヤ人大虐殺も当時ドイツの大多数の賛同を得ていたから「正常」登なってしまう。

もう一つ、「普通」という考え方がある。これもまた多数決的概念である。この多数決的概念、実は非常に危険な思想で、個人の意見がもととなって大多数の意見となるというのが手順であるが、近年これが逆行している風情が見うけられるのである。その端的な例を競馬の世界においてみることができる。

ほとんどの予想紙は、自社の予想のほかに、良そうオッズなるものを発表している。便利に感じるのであるが、実は大変僭越なことなのだ。
どの馬が勝のであろう?また、どの馬が強いのであろう?、その予想すること自体少しも悪いことではない、が、どれが来たらいくらつくか!まだ一枚も売れていない馬券の配当をどうして仮定だけで決められるのであろうか。ファンは結果として、その予想オッズをもとに自分の推理を進めることになり、ここにおいて、結果としてくるべきものが前提となってしまうというおかしな現象が生じてくることになるのである。

皆がこう買うであろうから、このような配当になる筈だという結果が先に出ていてこれをもとに馬券を買うということになるのであるから、まさに滅茶苦茶である。この皆が勝つであろうと思われる馬を「本命」といい、本命が勝てば正常ということになるのである。何故かと言うと配当が安いからだ。配当が安いということは皆が正当と思っているからに他ならない…・。

本命の次に強いと目されるのが「対抗」で、相手という意味でこれはわかる。連勝式で「本命」ー「対抗」と入れば「正常」な訳でして、子の世界では「堅く収まる」等というが、実はそうとは限らず、いや、実は例外の方が多いといってよいだろう。


ではここで本題!

セックスの体位において「正常位」といわれるものがある。仰向けに臥した女性の上に男性が重なる例の型である。『医心方』のいう燕同心(えんどうしん)がそれにあたるが、最もポピュピラーな体位といういうところから「正常位」というのであろうか。でもセックスにおいては「異常位」というものがない。何故なら二人の気が合えばどんな体位であろうと行為であろうと、それは「正常位」であるからだ。

日本書紀には『ついにまぐわひせしむとして、その術知らず、時に鶺鴒(せきれい)あり、飛び来たりてその首尾を動かしき。二の神(ふたのはしら)見そなしてこれに学びて、まぐわひの道を得たまひき』とある。
やり方を鳥から知ったというのだ。とすれば体位はどうしても後背位ということになる。
正常位、いつの時代から其れが「正常」になったのであろかねえ…



【 北枕 】 

死ぬ!…は快楽にあり


こんな話してもいのかな?

北枕といえば、一般には不吉なこととされている。何故不吉かといえば、人が死んだらすぐに、入棺までのあいだ北枕にして寝かせておくからである。

ところが江戸時代の俗本によると、「死人を北枕にす、または婚礼の夜北枕にす。その外は忌むなり」として、婚礼の夜の男女が北枕にしてしていたことを記しています。

めでたい儀式なのにどうして不吉な北枕にするのか?婚礼が死と結びついている点は他にもあり、例えば、死者が生前使用していた茶碗を割る、そして、花嫁を家から送るときも、花嫁が使用していた茶碗を割る。共に再び帰った来るなの意思表示 なんだそうです。

それから花嫁が白無垢を着るのも、死装束を思わせます、俗説では白は何にでも染まるから、花嫁は白無垢で嫁ぎ、婚家のしきたり・家風に染まった事を示す為に色直しをするのだと言われます。

どうもこれは誤りで?白無垢は喪服なのであり、結婚において花嫁はいったん死んで後婚家に生まれ変わるのである。白無垢と色直しはそのように解釈するのが正しいでしょう。


だとすれば…・・

婚礼の夜の北枕も不思議ではない!花嫁の死を意味している。我々の常識では婚礼と葬儀では正反対のように思われるが、案外共通点もあるのですね。

だからなんですね…女性が「死ぬ〜死ぬ〜」と言うのは!


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【 雑煮 】

地方色豊かなこの食べ物、由来は・・


新年といえば雑煮、この地方色豊かな食べ物、起源を調べても諸説紛紛!どれもこれも元旦の食事との因果関係が今一つ。

でもありましたね。

《直会》なおらいと読みます。直会とは神の祭りが終わった後で、神饌という神様に供えた飲食物やお神酒を下ろしてきて、祭りに参加したものが共食するという行事です。

そして正月というものは各家々に訪れてくる年神を迎える祭りでもあるのです。正月とは各家庭が祭り場となるものです。この時、年神様に供えた神饌を一家のものがごった煮して食べる。これが雑煮です。

神道では家族を支える基本原理として、この家族が全員そろって食事をする《共食の思想》を大事にするそうです。我々は最近、一家揃って食事をする習慣を失ってしまったのではないでしょうか?
それじゃいけません!ひとつ今年の正月から、いや今晩から家族団欒を心がけて見たいものです。


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【 蜘蛛の淫事? 】

クモ達の秘め事に憐れみをみる・・


芥川竜之介《蜘蛛の糸》・目連尊者が母を見たさに使った蜘蛛の糸には、何やら陰湿なるモノを感じます…・が


蜘蛛の昆虫を食べる残忍さは雌雄同じでも、雌に比べて雄は体が小さく、何時雌に食べられてしまうのかと危険を感んじつつ生きて行くのである。身の危険から、蜘蛛の雄は雌と交尾できない!そこで雄はペニスを捨ててしまったのである。

蜘蛛の雄は触肢の先端が握りこぶしのように膨らんでいる。この中に自分の精液を入れておき、雌の背後からソロリソロリと近づいて、雌が油断しているスキに局部?にパッと指し込んで注入しただ只管逃げるのである。

逃げ損なった阿呆な奴は哀れにも・……こんなセックスしていて楽しいんだろうか…?クッッ(泣)


三万種余りある蜘蛛の中には変わった奴もいるものです。物陰に隠れて、雌が通りかかると背後から襲いかかり噛み付いて尚且つ、毒液を注射し失神させてからユックリと仕事?する強姦野郎。

そうかと思うと、ヒメハナグモなどは雌を縛り付けて仕事するSM野郎。
雌に催眠術をかけておいてからユックリ励むコグサグモ。あるいは、雌に餌となる虫を持参してやらせてもらうハシリグモ、こうなるともう売春ですわ!


ま、人間の男共も妻に給料を持っていきやらせてもらうから蜘蛛と一緒か?


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【海鼠の論理?】

夏目漱石も気が付かなかった論理…・?初めてナマコを食べた奴の凄さとは


冬の酒の肴といえば海鼠(ナマコ)ナマコの腸は「コノワタ」といって飲兵衛にはたまらない肴ですね。
「海鼠」はすでに『古事記』の時代には登場しておりますが、さすがにあの姿?ですから貴族の歌には詠まれることもなかったようです。グロテスクですからねえ…・
その姿におかしみを感じとるようになったのは俳諧の時代からでしょうかね。

『尾頭の こころもとなき 海鼠かな』

ナマコの古名は簡単で、ただの『こ』。だから、その腸は「コノワタ」、卵巣は「コノコ」、「イリコ」は別名「ホシコ」ともいわれナマコを干したもの。もっと言うなら「コ」が生だから「ナマコ」なのです。これは本当の話ですよ!

夏目漱石は『我輩は猫である』でこう書いている。
「…・初めて海鼠を食い出せる人はその胆力において敬すべし、初めて河豚を喫せる漢はその勇気において重んずべし。海鼠を食らへるものは親鸞の再来にて、河豚を喫せるものは日蓮の分身なり・…・」
何でこんなところに突然、親鸞・日蓮が出てくるのかよく分らないんですが…・?、しかし確かに初めて海鼠を食った奴は偉い!英雄であるとも思えるのですが。よくもあんなグロテスクなものを食う気になったものだと感心しますね。

・・・だが、ある説によれば〔初めて海鼠を食った奴はいない!〕そうである・・・

というのは、人類はその進化の系統樹からいって、モグラ・ハリネズミなど食虫目の近縁種である。文字通り「食虫」の動物で、ミミズ・カタツムリ・ウジムシなどを食っていたいる。人類も大昔はそんな虫類を食っていたというのである。
しかし食糧事情が良くなってミミズのようなあまり美味しくない?ものは食わなくなった、というのである。そしていつしか美味いものだけが残って食うようになり、その美味しいものが、日本人は「海鼠」であり、フランス人は「カタツムリ」なのだという。


これが〜〜【海鼠の論理】〜〜といわれ、かの夏目漱石氏もこれには気が付かなかったらしいのである・…・???


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【菊と桜】

9月となれば菊・では菊と桜どちらが国花?


秋も9月ともなると“菊”なのでしょう。では菊と桜、どちらが国花でしょうか?正解は桜なのだそうです。

菊は皇室の花なのだそうで、皇室の紋章は十六花弁の八重菊。宮家は十四弁の裏菊という規定が明治二年に作成されているそうです。この皇室の紋章は現在、日本国のパスポートの表紙にあります。海外へ行く時は我々は臣民にでもなってるのかんあ・…・。

菊は梅、竹、蘭と合わせて「四君子」と呼ばれる。その風格ある美しさによって、古来東洋画の画題とされてきました。
にもかかわらず、『万葉集』には菊の歌がない。菊は中国原産の植物で、平安時代の延暦時年間(782〜806)に伝わったという。しかし最初に渡来した菊は、観賞用としてよりもむしろ薬用であったらし。もっとも菊が諸病に効力があるという説は菊が“効く”に通ずるためであろう。現在では菊の薬効はいわれていませんね。

菊の薬効を利用したものに〜“菊枕”〜がある。これは菊の花びらを入れて作った枕にて、かほりが良く、頭痛などに効能があったという。
『夜々むすぶ 夢の哀艶 きくまくら』……この場合の“菊”は「菊」に「聞く」がかけられている。色っぽい句でしょう。
夜々余りむすんでいない貴殿!もそっと頑張らなくてはいけませんぞ!。

中国では、陽の極数である九が重なる九月九日を「重陽(ちょうよう)」とか、「重九(ちょうきゅう)」と呼んでめでたい日とした。この日、高い丘に登って菊酒(菊花酒・菊の花びらを浮かべて飲む酒)を飲んだ。これがのち、日本に伝わり「菊花の宴」「菊花の杯」の宮廷行事となったということである。

日本酒の銘柄に「菊」の字が多いのもこうした風習に依るものと思われる。因みに万菊はこれほど品格とはまったく縁も所縁もなく、かといって例の菊のご紋??までは落したくありませんがね。
“菊”と“万”とは離して別々によ呼んではいけないのでして、万菊・ミリオンポッツマムなのですよ。


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【 現代のトリ 】

人はトリから何を教えてもらったのか・・・?


普通『とり』というと誰でも「鳥」の漢字を思い出すものですが、調べて見るに雀の小を取ったもの(ふるとりという漢字がでない!)も「とり」なのです。
簡単に言えば、尾の長いものを「鳥」と言っていたらしい。
雀などの尾の小さなとりが気の上にたくさん寄って来たから「集」という字ができたのだという。

一説には
人は歌うという事を、つまり音楽を鳥から教わったというのである。また、ダビンチなどは鳥のように空を自由に飛びたいと思った。彼は人工的な翼を作ったら飛行できるのではないかと考えて、図面も作成したらしい。
こうして考えてみるに、鳥という存在は人類についても文化・科学発展の大恩人(?)といわなければならないのだろうね。

因みに・…・人類に最初に性行為を教えた、つまり男女がどのようにドッキングすべきかを体をもって示したのは「旧約聖書」に依ればカササギという。「日本書紀」でも全く同じような事をイザナミとイザナギに教えたのがセキレイとある。

貧しい木こりの子、チルチルとミチルは病を治すために青い鳥を探しまわる。想いでの国や未来の国などを訪ねるのであるが、どうしても探し出させない。朝、目が醒めてみると家で飼っていた鳩の羽の色が青であることに気付く。メーテルリンクはこのファンタスティックな児童劇を、幸せと言うものは気が付かないが、すぐ身近にあるものだと寓意をこめて書いている。

ま、一口に言って鳥と言ってもいろいろあり、その種類たるや膨大である。最後に現在我々の身近にいる鳥の名をあげて、そのプロフィールを紹介して見ることにしましょう。

シャッキントリ=「返せ返せ」としつこく鳴く。声がうるさい
ナトリ=ヒナから一人前になるまで金がかかる。襲名披露が必要。
テトリアシトリ=手間ばかりかかり、ろくなことはない。
ノットリ=好物は株、与えるといくらも食べ、満腹になると籠から逃げる
ユトリ=サラーマン、僕にも飼えない。
ウットリ=一目見ただけで若い人はつい飼いたがるが、後から後悔ことしきり
サトリ=飼おうと思った時にはすでに時に遅く手に入らない。
フトリ=ダイエットに注意
イノチトリ=飼ってもすぐに死んでしまう。(時には痛い目になることもある)
ヒトリ=つがいで飼う事はできなく、寂しい餌をたべることも。




【桜前線と球春・・】

球春…・といえば、野茂とホモの違い(関係無いか…?)


春は桜とともに日本を北上します、新聞紙上では桜前線が地図と一緒に紹介されています。「平年より3日早い」とか、「昨年より2日遅い」とか連日ニュースとなり、花見客の宴会風景が画面をにぎわしますね。

早かろうが遅かろうが、どっちにせよ我々の生活には変わりがないようですが何故か日本人は桜前線の北上に心を浮き立たせているのです。「サクラ」という名には日本人の深い尊敬の気持ちが込められているのです。

「サ」ハ「早乙女」ヤ「早苗」ノ「サ」です。田の神を意味します。「クラ」は「座」です。「サクラ」は文字通り「田の神のよる座」のことなのだそうです。
水田耕作が始まった太古の時代から桜は神の出現とみられてきたようです。開花の時を目安に田んぼの土を起こす代掻きが始まるからです。
そう言った農民の信仰が土台にあったから、中国から伝わった梅が上流階級でもてはやされていても、たちまち桜がその座を奪い返す事になったのでしょう。桜前線の北上に一喜一憂するのも、桜の開花に「血が騒ぐ」日本人の深い意識の現われかもしれません。


春といえば球春!プロ野球が始まります。そこでそこで・…・(無理やり)
野茂とホモの違いなるもの・・(関係無いっすか???)

完投して喜ぶのは野茂、浣腸して喜ぶのはホモ・・・・
打たれるのをいやがるのが野茂、打たれるて喜ぶのがホモ?
好プレーするのが野茂、チンプレーするのがホモ!
家族で楽しく観るのが野球のプレー、楽しく観られないのがホモのプレー
お尻を見せて球を投げるのが野茂、お尻を見せて球を揺らすのがホモ…?
野茂は球を投げるが、ホモは玉を捨てる。
野茂はお尻を向けて投げるが、ホモはお尻を向けて誘う・・・

今回はかなり品の無い話でしたね。(泣)どうもすみませんでした。


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お化けと幽霊の話

暑さの夏の涼しい話、その違いとは


お化けも幽霊も、別段夏に限った存在ではない。ことに幽霊は案外クリスマスの頃に活躍?していると、何かの本で読んだことがあります。今では有名になったハロウインなどはお化けの愛嬌版でしょうか?
しかし日本ではお化けも幽霊も、ともに夏にふさわしい存在と考えられている。何せ怪談噺というものは、夏の夜のものだからと考えられている。

ところで、お化けと幽霊はどう違うのであるか?という問題がここにある。
暴けには足があり、幽霊には足がない!と答えられる方が多いとおもうのであるが、それは少々おかしい。
一流斎貞丈の会談噺では“陰々寂莫世間がシンとすると、いつにも変わらず根津の清水の下から駒下駄の音高くカラン〜コロン、カラン〜コロンと……”と、音響硬化付きで幽霊が登場する。下駄は足に履くものであると決まっている。だとすれば、幽霊にも足があるはずですね。
何故に幽霊に足が無くなったか?といえば、江戸時代の画家、丸山応挙が幽霊を描く時下肢をぼかして描いた。応挙は幽霊の軽さを強調する為そう描いたのである。スピードを強調する為に、漫画では自動車の後半部を省略する。だからといって自動車の後半部がない訳ではない。
幽霊の下肢がないからといって、幽霊に足がないと思うのは間違いである。

ではその違いというのはどこに求めるのか?であるが、
幽霊は相手を決めて出られる(出られるという尊敬語?)し、お化けは場所決めて出てくるというのだそうです。
幽霊様というものは特定の誰かに怨みがあるもので、その特定の人間を相手に出てくるものだ。その人が東京に行けば東京に、広島に行けば広島について出てくる。そして、その人には幽霊が見えるが、横にいる無関係の人には全く見えないといういうのである。用事のない相手には、幽霊様は自己の存在誇示をする必要もないからである。第三者に怨みつらみを言っても仕方ないしね。

お化けは場所に出る、ということである。柳の下であるとか、古井戸のそばだとか、お墓の中であるとか、大抵は気味悪い場所という設定になっている。お化け殿はシュチエーションにうるさいのである。そして、そこに行った人は誰でも、そのお化け殿に合うことになる。でもその代わり、そこから逃げて明るい場所にくれば、お化け殿は見えなくなってしまうというのである。

皆さんは如何思われますか?そんなことを考えながらお盆を迎えるっていうことも風流じゃありませんかね。


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