クモ達の秘め事に憐れみをみる・・
芥川竜之介《蜘蛛の糸》・目連尊者が母を見たさに使った蜘蛛の糸には、何やら陰湿なるモノを感じます…・が
蜘蛛の昆虫を食べる残忍さは雌雄同じでも、雌に比べて雄は体が小さく、何時雌に食べられてしまうのかと危険を感んじつつ生きて行くのである。身の危険から、蜘蛛の雄は雌と交尾できない!そこで雄はペニスを捨ててしまったのである。
蜘蛛の雄は触肢の先端が握りこぶしのように膨らんでいる。この中に自分の精液を入れておき、雌の背後からソロリソロリと近づいて、雌が油断しているスキに局部?にパッと指し込んで注入しただ只管逃げるのである。
逃げ損なった阿呆な奴は哀れにも・……こんなセックスしていて楽しいんだろうか…?クッッ(泣)
三万種余りある蜘蛛の中には変わった奴もいるものです。物陰に隠れて、雌が通りかかると背後から襲いかかり噛み付いて尚且つ、毒液を注射し失神させてからユックリと仕事?する強姦野郎。
そうかと思うと、ヒメハナグモなどは雌を縛り付けて仕事するSM野郎。
雌に催眠術をかけておいてからユックリ励むコグサグモ。あるいは、雌に餌となる虫を持参してやらせてもらうハシリグモ、こうなるともう売春ですわ!
ま、人間の男共も妻に給料を持っていきやらせてもらうから蜘蛛と一緒か?
お化けと幽霊の話
暑さの夏の涼しい話、その違いとは
お化けも幽霊も、別段夏に限った存在ではない。ことに幽霊は案外クリスマスの頃に活躍?していると、何かの本で読んだことがあります。今では有名になったハロウインなどはお化けの愛嬌版でしょうか?
しかし日本ではお化けも幽霊も、ともに夏にふさわしい存在と考えられている。何せ怪談噺というものは、夏の夜のものだからと考えられている。
ところで、お化けと幽霊はどう違うのであるか?という問題がここにある。
暴けには足があり、幽霊には足がない!と答えられる方が多いとおもうのであるが、それは少々おかしい。
一流斎貞丈の会談噺では“陰々寂莫世間がシンとすると、いつにも変わらず根津の清水の下から駒下駄の音高くカラン〜コロン、カラン〜コロンと……”と、音響硬化付きで幽霊が登場する。下駄は足に履くものであると決まっている。だとすれば、幽霊にも足があるはずですね。
何故に幽霊に足が無くなったか?といえば、江戸時代の画家、丸山応挙が幽霊を描く時下肢をぼかして描いた。応挙は幽霊の軽さを強調する為そう描いたのである。スピードを強調する為に、漫画では自動車の後半部を省略する。だからといって自動車の後半部がない訳ではない。
幽霊の下肢がないからといって、幽霊に足がないと思うのは間違いである。
ではその違いというのはどこに求めるのか?であるが、
幽霊は相手を決めて出られる(出られるという尊敬語?)し、お化けは場所決めて出てくるというのだそうです。
幽霊様というものは特定の誰かに怨みがあるもので、その特定の人間を相手に出てくるものだ。その人が東京に行けば東京に、広島に行けば広島について出てくる。そして、その人には幽霊が見えるが、横にいる無関係の人には全く見えないといういうのである。用事のない相手には、幽霊様は自己の存在誇示をする必要もないからである。第三者に怨みつらみを言っても仕方ないしね。
お化けは場所に出る、ということである。柳の下であるとか、古井戸のそばだとか、お墓の中であるとか、大抵は気味悪い場所という設定になっている。お化け殿はシュチエーションにうるさいのである。そして、そこに行った人は誰でも、そのお化け殿に合うことになる。でもその代わり、そこから逃げて明るい場所にくれば、お化け殿は見えなくなってしまうというのである。
皆さんは如何思われますか?そんなことを考えながらお盆を迎えるっていうことも風流じゃありませんかね。