【艶短歌】

現代のエロス・・健康なエロスとでも…


『あなたと詠む恋の歌百選』・…俵万智.選のなかにエロスをみました。その現場を覗いてみましょうか。


≪朝の階 のぼるとっさに抱かれき 桃の缶詰かかえたるまま≫


若いカップルのトキメキ、この時ピタリ靴音が途絶えるのです。そう、休日の朝、彼女は階段を上って彼の部屋へ入っていくのです、買物をして。缶詰でも生野菜でもいいのですね。

≪私をジャムにしたなら どのような香りが立つか ブラウスを脱ぐ≫

実際はどうであれ、「ブラウス」でとどめるところに、爽やかなエロスが薫ります。 ここまできたら、男の出番!


≪指からめあふとき 風の峪は見ゆ 膝の力を抜いてごらんよ≫

この甘い言葉に女のとびらは開いてしまうのだろうか・……・(ここ辺りの女心が私には解せませんなあ〜)そこで女が答えるに


≪みずみずしき相聞の歌など待たず 疲れし時は君に依りゆく≫

言葉なんて要らないのでしょう。そばの貴方にもたれていく。こういう風でなくては愛は・・…しかしこんな時は、男もまた疲れているんですよね。不倫の場合、どうにも時間がないから〔逢うと〕必ず〔抱き合う〕ことになるのだそうだ!(断っておきますが、私じゃないよ)

≪逢う度に 抱かれなくてもいいように 一緒に暮らしてみたい七月≫

七月もそう、八月もそう、そして何時しか秋が来るのです。こうした辛い立場が女を美しくもさせるものですかな?


≪さかさまの貴方を愛す夜の淵に 二人メビウスの輪となれるまで≫

世の不条理を言うのであろうか?はたまたシックスナインの情景であろうか?。俵万智さん、昼のサラダから夜のサラダへと変貌、海草あり、ハムあり、ごぼう?ありの男と女のめくるめく世界に!(いやあ〜、参った参った!)
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【 都都逸 】

現代のスナックなどではでないけどね・・


『楽は苦の種 苦は楽の種 二人でするのは 人の種』
『出来たようだと 心で察し 尻に手をやる 燗徳利』
『唐傘の 骨の数ほど男はあれど 広げてさせるは 主一人』
『卸す山葵と 恋路の意見 きけばきくほど 涙出る』
『昔馴染みと つまづく石は 憎いながらも 後を見る』
『出会い頭に 頭と頭 あいたかったと 目に涙』
『色が黒うて 惚れてがなけりゃ 山の烏は 後家ばかり』
『今日も会ってる 昨日も会った 去年が恋しい 日記帳』
『赤い顔して お酒を飲んで 今朝の勘定で 青くなる』
『主とお前は おもちゃの刀 切って切れそで 切れやせぬ』

閑話休題、かの福沢諭吉翁は
『あわぬ果報を寝て待つよりも 起きて働け我が手足』とのたもうた。

経営不振に陥った企業は従業員・パートの解雇を発表し、こともなげにリストラと言って失業率を上げてきた。そもそもこれは誤りでリストラとは(企業再構築)と言われるものであって、日本では単なるダウンサイジング(雇用削減)ではないか! 本来、リストラと言うからには、まずは役員報酬、管理職給与削減、不必要経費削減が先ではなかったか?
政府はセーフティーネットを用意するというが、雇用不安を抱かえた庶民に景気の回復基調も見せずして景気の回復は所詮無理と言うものではないか。
この国のエコノミスト達の発想は庶民の生活レベル(現場)が見えないらしい。

少しでも明るく過ごしたいのですが、つい愚痴がでてしまいますね。



40代は不惑か?

40という数字にみる意味・


知命も過ぎ、50代も半ば耳順も近く感じるこの新年、これまでにない憂鬱である。本来何かにつけてもサバサバできるはずだ。どうせ50代なんだから・…・と。
40代はそうはいかない、中途半端でジキジクしていたと思う。40は不惑どころか、わくわくの年齢であった印象がある。

40−という数字は、どうやら「多数」を意味しているらしい。ちょっと抽象的な数字ではあるが。
英語のクォラティーンという単語がある。文字通り「40日」の意味で「検疫」の意味で使われている。外国からの船客を湾内で病気からの侵入を防ぐ期間である。フランスでは結婚に先立って二人の婚約を教会堂に40日間公示する、そして誰からも意義がなければ結婚が許される。神の意志がはっきりとすると考えたのである。アラビアンナイトにも有名な「アリブと40人の美女」があった。

中国人は「後宮の美女三千人」などと、途轍もないすうじをあげるけれども、ペルシャ人はつつましやかに「40人の美女」と表現する。その「40人」で「多数」を意味するのであった。

ま、本当に40人もの美女がいれば充分である。一夜に一人づつと会っても、一年に九回しか会えないのだから、すれば倦怠期なんてなくなるであろうに!
ましてや三千人もいれば、それこそ一夜に一人としても?八年はかかる計算である。(一夜に一人とは限らぬ凄腕の方も中にはいらっしゃるかもしれないけれど) 一人の女性に五度出会っているうちに40年が過ぎ、全員不惑もとっくに過ぎて、知命、耳順、の年頃になってしまう。悪くいえば三千人の老婆群である!考えるだにゾッとする。40人の美女で結構!私めなどは贅沢など決して言いません。そんな人間離れした怪物的な?好き者でも、如何せんこれは無理でしょうな……。


話題を転じてもう少しましな話に軌道修正しましょう。

「千手観音」がおられる。正しくは「千手千眼観世音菩薩」という、あるいは「千眼千首千足千舌千眉臀観自在菩薩」と呼ばれる。ともかくも」千本の手を持った観音サマである。この千本の手は、この観音様の救済の働きの無限なることを象徴している。

実際の像は千本も手を作らない。千本ちゃんとあるのは京都東山蓮法院(三十三間堂)と奈良の唐招提寺の千手観音くらいであろうか。
千手観音は自分の手二本と40本の手、42本の手を持っている。その40本が千本を意味しているのである。ここでも「40」が「多数」である証拠なのである。

40とはそのような数字であり、なんとなくうんざりさせられる数字なのでもある。




幸若舞にみる信長・『敦盛』

人間(じんかん)五十年 下天の内をくらぶるは、何とくらぶるのか?


青春は二度となく、だからこそ若い時代には若者でしか味わう事が出来ない楽しみをしっかり味わっておくに限る。
早い話が、五十代になった人間にはプラトニック・ラブはできない、純粋な愛は若者の特権であり、中年は中年の人生があり、決して老年の準備期間でもないのです。

これに反する意見がたくさん来ました。歳を重ねてからこそがプラトニック・ラブではないのか!と言うのである。これは男女の関係上の問題意志からくるものであり、要するに、セックスをするかどうかに重点をおく考え方であると思われる。

五十代も過ぎれば、自ずから打算というものに左右されるはず、家族、金銭、時間、体力などの諸問題が浮き出てきて、とてもじゃなく真剣に純粋に愛を実践するほど行動的にはなれませんね。例えば家族を捨てるほどの、ある意味純粋さでしょうが、だからプラトニック・ラブとは程遠い不順な考え方でしかできませんね。

五十代と云えば、信長が桶狭間の戦いに臨んで、清洲の城にて家臣の前で舞った幸若舞の謡『人間(じんかん)五十年 下(化)天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり 一度生を得て 滅せぬ者のあるべきか』を思い出す。

六道輪廻する世界は、地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天界というもので、天界はまた、六欲天、色界、無色界と分れており、下天(自在変化天)は六欲天の最下位である。この下天の一昼夜は人間の五十年にあたり、住人の寿命は五百歳だそうである。

我等人間の寿命は当時五十年、その五十年は「下天」の182590分の1に過ぎぬ。下天に比べれば人間の一生など夢・幻のようになんと短いことか。その短き儚なさを後世に安楽を求めるよりも、短さを短きまま直視し、その間を思うざまに生きぬくべしと思い定めた。
「死のふは一定 しのび草には 何をしょぞ 一定かたりおこすよの」
そう考えれば、信長の悟りの実践が桶狭間ではなかったのではないだろうか。

閑話休題
「人間わずか五十年」といえばこの艶句。『人間わずか五寸ほど入れたがり』。 世の男どもは若き頃より、常に交合することを念頭におくという、男の心情の暴露であり、寂しい性でもあるのか?
更に二・三句。『睾丸は 手狭な中に 中仕切り』、『金玉は 縫い目あれど 綻びず』、『睾丸(たま)曰く 男根(まら)や おいらも入りたい』 これが落ちでした。




【 狸の?玉八畳敷 】

しかし知っておきたいのでは


巷間・・「狸の金玉八畳敷」と言われる。どうも狸というと、すぐに「金玉」が連想されるものらしい?「♪タンタン狸の金玉は 風に吹かれてブ〜ラブ〜ラ そ−れを見ていた子狸が片足上げてブ〜ラブラ♪」


八畳敷なる説、これはどうも金箔に関係があるらしい!狸の金玉くらいの大きさの金(それほど大きなモノではないハズだ)が、これを叩いて打ち延ばすと八畳敷の大きさまで広がるそうだ。それでこんな言葉が出来たのだと言う。

狸と金の結びつきはそれで良し?として、気になるのは“金玉”の呼称である。キンタマは何故キンタマというのであろうか?〔大言海〕では「いきのたま(生きの玉)」が語句の変化にて「きんたま」になったと言うのだ。
ナルほど、男性の生命力は睾丸にあるのだから、まさしく「生(いき)の玉」であるのですな。


しかしそれよりも、「キノタマ」⇒「キンタマ」の方が簡明ではないか?では、その場合の「き」とは何であろうか?「き」とは「酒」である。ほら「おみき(御神酒)」と言うでしょう。と言っても、どうして金玉が「酒(き)の玉」なのか?首をかしげてお られる方もいるでしょう。


無理もない。酒と言えば現在は清酒を思い浮かべるが、それでは「きの玉」は解からない。

昔は酒と言えばもっぱら(どぶろく)であった。伝説によると、江戸の初期に摂津鴻池の酒造家、山中勝庵が灰汁投入法によって澄んだ酒である清酒を作り、それ以後清酒が流行したのだと言う。
ある男がうっぷん晴らしに勝庵の酒蔵の酒に灰を投げ込んだところ、酒が清らかに澄んだのだ。そんな偶然から、清酒の製法が見つかったのである。


だから、……もうお分かりであろう……
「きの玉」=「酒の玉」は「どぶろくの玉」である。ほれ、どぶろくのような液体が出てくるでしょう。それで「きのたま」と名づけられたのだという……
どれだけ信用されるか、それは皆さんのかってですがね?

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諺の遊び

駄洒落と言われるか!それとも新格言か!


《ターザンの石》

武器を持っていないターザンは、そこらへんに落ちている石を武器としてライオンと戦ったのだ!でもやはり石では話にはならず、大怪我をしてしまったのだ。我々もこの彼の失敗を他人事と思わず、自分を反省し向上させるきっかけとしようではないか?


《猿は木から落ちる》

何故なら、木に登るからである。木に登らなければ木から落ちることもないのである。豚は木から落ちないではないか?俺は木登りが上手いなんて思っていても木に登る以上、木から落ちることもある。と言うところから、頭のいい人は木には登らないという意味。


《腐ってる鯛》

もともとは価値のあるものだけれど、本人も気が付かないうちにすっかり腐っている時があって、そういうものはやっぱりいくら美味しい鯛だって食べる気がしないのと同じで、もうそろそろ引退してもらわなくては迷惑だわなあという意味。


《雀百まで生きる訳がない》

雀なんてほんの数年生きているだけで、百年も生きてはいないんですから。それが踊りにしろ何にしろ、兎に角百まで忘れないのか、忘れてしまうのかを考えること自体無意味なのである。ですから、この諺は考えることも愚かなりという意味ですね。


《爪に火をともせるものなら、ともしてみろ!》

そんな熱いこと、どんなどケチ野郎にも出きる訳ないやろ!  「うわーっ、あっつっうー!」

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事始め…?姫始め…?

1富士2鷹3茄子・・そして姫始めはいつになるのやら


恭賀新年

新春を寿ぎ、新しい世紀を迎えお祝い申し上げます。
『事始め…!』っていうと「ニヤッ」とする方があるかもしれませんね?

そもそも昔、上方では12月13日を正月事始めと呼んで、この日から正月の準備を始めたのである。まずはその正月の意味であるが、基本的には各家庭に訪れてくる「年神」を祇る祭である。「正月様」等と呼ばれる豊作をもたらす農耕神、或いは幸福をもたらす祖先の霊と考えられるている。

正月は各自の家庭が祭の祭場になる訳で、家長が神主の役割を努める。しかし近年の家庭は核家族化しており、亭主の権威も地に落ちてちょっと情けない主になってしまいましたね。そのせいか、正月になると旅行に出掛け家を閉鎖してしまう人もいる。神主がいない祭場に年神さんも行き場がなくて困っているだろうに…

この年神を迎える祭場を作り始めるのが12月13日の事始めの日であり、後日、竹竿に藁をつけてすす払いをします。これが「煤梵天」と云われ家の前に立てかけて年神の依り代にするのである。
この日から一家の主人は物忌みにはいるのである。
そう、物忌みであるから何?(姫始め)は控えなければならない…・!(辛いネエ〜という方もいれば、ホッとする方もいるがね)

正月三が日が終わり、年神様をお帰しして祭は終わるのである。だから…
我々は『事終い』の日が『事始め』の日でもあるのですな。…・ん?


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鳥の話から

現代におけるトリの種類?

普通に「とり」というと誰でも「鳥」の漢字を思い浮かべるでしょうが、調べて見るとすずめ「雀」の「小」をとったもの(パソコンの字が出てきません・・・・・)も「とり」なのです。
簡単にいえば尾の長いモノを「鳥」といっていたらしい。雀など尾の小さなとりが木の上にたくさん集まってきた、「集」という字が出来たらしい。

一説に、 人は歌うと言う事を、つまり音楽を鳥から教えてもらったというのである。また、ダビンチなどは鳥のように空を自由に飛びたいと思った。彼は人工的な翼を造ったら飛行できるのではないか…・と考えて図面を作成したらしい。こうして考えて見るに、鳥という存在は人類にとっても文化、科学発展の大恩人?といわなければならないであろう。

因みに、……人類に最初に性行為を教えた、つまり男女がどのようにドッキングするべきかを体をもって示したのは「旧約聖書」によればカササギという。
「日本書紀」でも同じことをイザナミとイザナギに教えたのがセキレイと記している。

貧しい木こりの子、チルチルとミチルは病を治すために青い鳥を探しまわる。想いでの国や未来の国など訪ねるのであるが、どうしても探し出せない。朝、目が醒めてみると家で飼っていた鳩の色が青である事に気付く。メーテルリンクはこのファンタスチックな児童劇を、幸せというものは気が付かないがすぐ身近にあるものだと、寓話を込めて書いている。

まあ、一口にトリと言ってもいろいろあり、その種類たるや膨大である。最後に現代我々の身近にいるトリの名を挙げて、そのプロフィールを紹介しておこう。


キャッキントリ= 「返せ返せ」としつこく鳴く声がうるさい。
ナトリ= 雛から一人前に育てるまで金がかかる。襲名披露が必要
テトリアシトリ= 手間ばかりかかって、ろくなことはない。
ノットリ= 好物は株、与えるといくらでも食べ満腹に成ると逃げる。
ユトリ= サラリーマン、ましてや僕も飼えない。
ウットリ= 一目見ただけでつい飼いたくなるが、後悔する事になる。
サトリ= 飼おうと思ったときにはすでに時遅く手に入らない
ヒトリ= つがいで飼う事はできない。
フトリ= ダイエットに注意!
イノチトリ= 飼ってもすぐ死んでしまう。(時に痛めに合うことも…)




六根清浄一根清浄

禅における執着心をすてるとは

山岳仏教などの山登りの時に唱える呪文に、「六根清浄」があります。
この「六根清浄」がつづまって、「ドッコイショ」になったとも言われますが、これはどうもジョークぽいと考えられますね。

六根とは眼根・耳根・鼻根・舌根・身根・意根を言う。“根”とはサンスクリット語の“インドリア”の訳語で「能力」を意味し、さらにはその能力を有する「器管」をいうのです。
従って、目根は視覚能力であるとともに視覚器官である。耳根は聴覚・鼻根は嗅覚・舌根は味覚・身根は触覚・意根は知覚の各能力であり各器官である。


さてここからが問題…・
我々凡夫の六根はそれぞれの対象に向って執着を起こす。早い話が、貴方が美しい女を見て「美しい」都だけ思うのが目根であるが、次に「寝たい」と思う、其れが執着である。眼根が対象に執着を起こしたのである。この六根全ての執着を断って浄らかな状態にするのが『六根清浄』なのである。

もっとも六根清浄といっても、異性を見てもピクリとも心動かぬ人間になれという訳ではない。小乗仏教では人畜無害の人間を目差したが、大乗仏教はそれは馬鹿げたやり方だという。むしろ、「六根清浄」にこだわるな!というのである。

こんな話がある。
ある禅僧が弟子を三人連れて行脚していた。川に来て、女性が困っていたのでこの女性を抱いて川を渡してやった。そして旅を続けると、
一里ばかり歩いて過ぎた時、三人の弟子達が猛烈に抗議をした。先程の態度はおかしい、如何なる場合であれ禅僧が女性を抱くなんて許される事ではない、と言うのだ。
その時、禅僧はかく言うのであった。
「なんだ、お前達。まだ、あの女を抱いておったのか?私はとっくに降ろしてきたぞ!」これだ大乗仏教のやり方なんですね。

しかしながら未熟者の私は「六根清浄一根不清浄?…」でして、女性への執着は如何ともし難く、優しいお言葉をかけられると一根勇ましく執着心ムクムク…・困った倅をもったものですわ。
貴殿は六根清浄の生活態度を成し遂げられましょうか…。


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四字熟語『一夜十起』

一晩に十回も起きてしまう? 貴方の知性と品性を知る!さあ、何を思いますか…・

『一夜十起』という四字熟語を見つけました。一晩に十回も起きることですね。さあ、何を連想しますか?それによっては貴方の知性と品性がテストされますよ。 万菊のてすさび、やはり又来たか…イヤイヤ…今回は真面目ですよ。

一夜におけるセックスの回数と考えた方は、余程の自信家か。でも小林一茶は日記に性交の回数を記入していているので有名ですね。
『晴・夕方一時雨・雲竜寺葬。菊女、夜五交合』『婦夫月見。三交』『墓詣。三交』といったふうに。
しかし、一夜に十交はないでしょうに。しかもこの時、一茶は54歳であった。だから五交もできるだけでも超人的ではないか!
もっとも、妻の菊は30歳でしたがね。だから可能だったのですね…・

一夜に十回も起きるのはトイレが近くなってね…と頻尿症を心配するむきもおられるでしょうね。正常な方の一日の排尿回数はだいたい六・七回だそうです。しかし、糖尿病・腎不全・前立腺炎などに患いますと増加するのだそうです。しばしばトイレに起きる方は一度病院へ行かれる事を勧めますね。


では本題。

『一夜十起』というのは『後漢書』第五倫伝に出てくる話がもととなっておりました。「第五倫」という人は私心のないことで有名であった。ところが、その彼が、「貴方は本当に私心がありませんか?」と尋ねられた時、次のように答えたという。

『兄の子が病気になった時、自分は一晩に10回も起きてこれを看病した。しかしながら、床に入ればそのまま安眠できた。だが自分の子が病気になった時には、一度も起きて看病はしなかったが、ついには夜通し眠れなかった。こういう自分が、私心がないなどと言えようか』、と。

なかなか人情の機微をついた話ですね。他人の子だと、見舞うというジェスチャーをするが、ぐっすり眠れる。自分の子だとベッドの中でまんじりともしない。その通りではないでしょうか。

いやはや『一夜十起』とは、かくも崇高な熟語ですとはね…



江戸時代の遊山

昨今の温泉ブームとは違って、温泉は病気を治すところ


昨今レジャーと言えば「旅」が筆頭に上げられるのでしょう。そしてゴールデンウイーク・夏休みともなれば皆さん何処かへ出かけなくちゃと切羽詰った気持ちにさせられて、仕方なく吾等親父連中は計画を立てるのである。(本当はのんびりと家でゴロゴロしていたいのであるが…)
しかし明治以前、江戸時代には当然レジャーなど有る筈はなく、行楽といえば花見遊山か、縁日、芝居見物くらいなもの。「旅」といえば「お伊勢参り」か「温泉」と相場は決まっている。「お伊勢参り」は町内の代表で行くことになるのだが、これがひょっとしたら水酒付きということにもなりかねない。

温泉はというと、今の温泉と違って完全に湯治場であって、病持ちの為の薬代り。だからここに来る人々は最後の手段であって、二・三週間の長居ともなるのである。現代のように「リフレッシュ」だの、「景色のいい露天風呂」だのとなんか言ってはおれないのである。皆、何某かの病持ちであったのである。

徳川将軍歴代のような方に気に入られた熱海の温泉などは格別であって、単純アルカリ温泉で疲労回復などに効くだけならいざ知らず、世間ではまことにもって可哀相な(否、淋しいというべきか…・?)病気を持った殿方も多くあったご様子で…・

当時の殿方の遊びといえば、酒と女と博打と相場が決まっており、幕府もこれを内々承知の上でのこと。中にはいかがわしい場所で遊んで来て哀しい病気を戴いてくる輩もいたんでしょうな。「これは拙い!女房にうつったら大変だ!」てんで「ちょっと旅へでも行ってくらあ〜」と誤魔化しては治しに行ったそうです。


これだけで澄むんならまだましな方で、知らずに女房に感染でもしようものなら、もう男は辛いもの。大枚はたいてカミさんと二人揃って草津温泉へと行くのだそうですな。恋の病以外なら何でも治してしまうという優れた温泉だそうで、長屋の連中が「よ〜う、お二人揃って温泉かね〜、豪勢だよねえ〜」と嫌味半分の言葉も耳にはいらぬようにソクサクと行く始末。

近年の温泉施設は誠に素晴らしく、少し郊外にでも出掛ければ立派な建物に素晴らしい温泉施設、日本人の温泉好きはこれでわかりますね。



昔日の季節感…
町角に見る季節感・風鈴売り、金魚売り、朝顔売りなど涼しさを演出する“声”

月日は百代の過客にして行きかふ年もまた旅人成り、舟の上に生涯を浮かべ、馬の口をとらえて老をむかふる者は日々旅にして旅に栖す。古人も多く旅に死せるあり、予もいずれの年よりか片雲の風にさそはれて漂泊の思ひやまず・…・芭蕉「奥の細道」から。

過ぐる日々、先人は旅のなかにおいても、かくも月日の早さを自然の中で観て、暑さの中も寒さの冬も、雨の日も晴れの日も“日々是好日”でした。

是からが名古屋の夏の本番!ヒートアイランド現象の都心部の暑さは異常?、私達の若い頃?ほんの数十年前では夕方にもなれば家の前に打ち水をして涼を感じたものでしたが…・


「メダカ〜エ〜メダカ、キンギョ〜オエ・キンギョ!」こうした売り声に耳にして『あー夏が来たんだなあ』と実感したののですね。町売りの金魚はランチュウ等高価なものはいなく、突っ掛け下駄で飛び出してくる子供と母親が買える程度のものであった。

わが町では今頃の季節ともなると「ハエー新バエー、ハエーは要らんかエ〜」と小鮒の甘露煮売りが来ていました。あのホロ苦さは、思うに大人になった今でこそ味わって見たいとは思われませんか…・。

よく似た季節の風物詩は風鈴売り、様々な風鈴を下げて静かに歩いて行く、すると風に誘われていとも涼しげな音をたてる。午前中に売りきってしまうのが朝顔屋ですね。虫売りも夏だけの独特な商売であった。鈴虫・松虫・かじか・ひぐらしと虫篭に入れて売るのだが、東京などでは流石に粋に作ってあり、扇型や舟型もあったという。

幕末には「むぎゆ」と書いた行灯の下に釜や茶碗を置き、回りに涼み台を並べて浴衣姿の美人が深夜まで客の相手をする麦湯売りが繁盛!ま、此れが今風に言うところのコンパニオンの始まりとでも言いますか。

同じ様な商売で水売りがあった。天秤棒で「エ〜ひぁら ひぁらこい ひぁこい」と売り歩き、冷水に白砂糖を入れて1腕四文だったという。しかし客の注文で砂糖を沢山入れれば、二倍・三倍にも値上がりするという。というのも、当時は砂糖は薬の一種であり、疲労回復の特効薬!今ならさしずめ、駅前の薬局の店頭に売っているユンケルドリンクのようなもの。500円より1000円が効いたような感じがするのも今も昔も一緒ですかな…ご同輩。


今日の疲れはドリンク1000円じゃ取れませんぞ!汗を流して風呂あがりの一杯と休息ですね。


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