和歌の集り   
         古今和歌集
























古今和歌集の意味


日本の根源的な存在でもあり、「日本美のバイブル」とも。総歌数1100首は現代へも連綿と流れる日本美のエッセンスが流れています。

万葉集以後、仮名で日本語を表記するという画期的な発明がされて日本文学が活気を呈していく。そういう時代に醍醐天皇は勅撰和歌集撰進の勅をだされた。
撰者となったのは紀友則、紀貫之、凡河内躬恒、壬生忠岑の四人、二十巻の内容は前半の中心が四季歌、後半の中心は恋歌、雑歌となっており、自然と人事の対比が意識されている。

飛鳥・奈良時代の和歌を多く含む万葉集で最も多く詠まれる花は萩であった、桜の花の歌は梅の花と比べて三分の一ほどしかなかった。それが平安時代の古今和歌集で最も多く詠まれる花となり、以来この傾向が受け継がれてきました。
日本的美意識の多くは、和歌に詠まれることによって定着したもので、特に第一勅撰和歌集である古今和歌集は多大な影響を与えたと考えられます。

全国的に都会化していく中で、自然とのかかわりが希薄となっていくのを感じる。そうしたことから古来の和歌表現によって、自然鑑賞の仕方や、自然に対する態度を学ぶべきではないだろうか?そして人間関係についても、普遍的で新鮮な発見が必ずあると思われるのだ。

作者がわからない歌について「読み人知らず」と表記したのは古今和歌集が最初である。万葉集では「作者未だ詳(つまび)らかならず」などとされている。作者が分からなくても気にしないという時代もあったようで、それが有名専門歌人の出現により次第に作者と歌がセットで享受されるようになっていく。

古今集は万葉集成立以後の歌を収集している。その間、「読み人知らず時代」、「六歌撰時代」、「撰者時」と分けるのが普通である。













仮名序


倭歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。 

世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心に、思ふことを、

見るもの聞くものにつけて、言い出せるなり。 

花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの

いづれか歌をよまざりける。 

力をもいれずして、天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと

思はせ、男女の仲をもやはらげ、猛き武士の心をも慰むるは歌なり







現代語訳


和歌は人の心を種として、それが成長して様々な言葉になったものである。この世の中に生きている人は、関わりあいになる出来事や行動が多いので、それらについて心に思ったことを、見るものや聞くものに託して、言葉で表現しているのである。花の枝でなく鶯や、川に住む河鹿蛙の声を聞くと、いったどんな生きものが歌を詠まないだろうか。いやすべての生きものが感動して歌を詠むのだ。力を入れないで、天と地を動かし、目に見えない恐ろしい神や霊を感動させ、男女の仲を親しくし、勇猛な武士の心を慰めるものは、やはり歌なのである。


第一和勅撰歌集の序文として始めに述べられている。和歌の本質は抒情にあると言い切っている。現代にもそれは言えることで、和歌のみならず文学・芸術の普遍的本質を編者(紀貫之)がとらえていたということに驚かされる。それを、種から葉へと植物の成長という自然な比喩をつかって柔らかに表現されている。

第二序文では、和歌を人間だけではなく生物に通じる行為とすることでその普遍性を一層協調されて、日本人の自然観を感じさせる。
また、第三序文以下では、具合的に生活場面をあげて和歌による効用など述べている。それは和歌を観念から具体へ移って説明している。





【 巻 第一 】

 春歌上



春立ちける日よめる
                                                       紀貫之


袖ひちて むすびし水の こほれるを 春立つけふの 風やとくらむ


袖を濡らして、手ですくった水が凍っていたのを、立春の今日の春風が解かしているのだろうか。

昨年の秋にはすくってのんだり、冬に厳しい寒さで凍てついた記憶を思いながら春の到来を喜ぶものである立春とはいえ今日そんな水は見ていない、何故春風が水を解かしていると思うのだろうか。季節が暦と通り順調に推移するのは、天皇の治世が巧くいっているということの表れでもあろう。







雪の木に降りかかれるをよめる
                                                     素性法師


春立てば 花とや見らむ 白雪の かかれる枝の 鶯の鳴く


春が立ったので花だと思っているのだろうか。白雪のかかっている枝に鶯が鳴いている。

この巻で最初に現れた「花」、鶯には雪が花に見えるのだるか?という想像する歌








寛平御時后宮の歌合の歌
                                                     紀 友則

十三
花の香を 風のたよりに たぐへてぞ 鶯さそふる しるべにはやる


花の香りを風という手紙に添えて、鶯を誘い出す道案内として送るのだよ

この当時、習慣として手紙は香を焚き染めたり、花などにつけて送るものだったという。鶯という思い人を誘っていると考えると少し恋歌っぽいとも思える。ではこの歌の花は何であったのだろう?春の訪れ、そして香り高い花といえば梅の花と考えるのが妥当か。梅に鶯の組み合わせは万葉集にもみられ








帰雁をよめる
                                  伊勢

三十一
春霞 立つを見すてて ゆく雁は 花なき里に すみやならへる


春霞が立つのを見捨てて北国へ返っていく雁は、花がない里に住み慣れているのだろうか

同じ気候でも和歌では秋は霧と使いわけ、雁は秋にやって来て、春に北国に帰る渡り鳥である。秋は来雁(らいがん)、春は帰雁(きがん)となる。
春霞が立ち、もうすぐ花も咲くというのに、見捨てて帰る雁に焦点をあてている。擬人化された雁が住み慣れた郷とはいえ永遠に花の咲かない荒涼とした土地へ帰ることに驚き不思議でもあったのだろう。








春の夜、梅の花をよめる
                                           凡河内躬恒
(おほしかふちのみつね)

四十一
春の夜の 闇はあやなし 梅の花 色こそ見えね 香やはかくるる


春の夜の道理に合わない、梅の花は色は見えないけれども、香りは隠れるのだろうか。いやはっきりと香ってくるよ。

梅の花を見えなくする夜の闇を擬人化し、どうせ見えはしないけれど香りは隠せないのだから、そんな野暮なことしなくて良いよ!
梅の花を自分の女性、闇を二人の仲を認めずに邪魔をする親とする解釈も成り立つ。








渚の院にて、桜を見てよめる
                                     在原業平朝臣

五十三
世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどかけらまし


世の中に全く桜というものがなかったならば、春を過ごす人の心は長閑であったものであろうに

渚の院とは文徳天皇の皇子惟喬親王の別荘(現在の大阪府枚方市)にて、友業平が親王を思って詠んだという。桜というものはその美しさと引き換えに何時散るのかという不安がつきまとう。いっそのこと桜というものが穏やかに春をすごせるのだろうに・・・、人々を捉えてやまない桜の魅力を逆説的に詠んでいる。
文徳天皇第一子であるが、母が紀氏であるが故、弟に皇太子を譲って隠棲した惟喬親王を想うがために親しき友とし皮肉的に詠っている。








花ざかりに、京を見やりてよめる
                                                       素性法師

五十六
見わたせば 柳桜を こきまぜて 都ぞ春の 錦なりける


見渡すと柳と桜を枝からとっては、散り混ぜていて都は春の錦となっているようだ

秋の錦を紅葉と云うのに対した言葉が春の錦。紅葉がおもに山のものであるのに対して、春の錦を京の都にみるものである小高い所から平安京の春の景色を見下ろして、都全体を錦と捉えているスケールの大きい歌と感じられる。








【 巻 第二 】

 春歌下



題知らず
                                                  よみ人知らず

七十三
ううせみの 世にも似たるか 花桜 咲くと見しまに かつ散りにけり

はかないこの世に似ているのかなあ~花桜は、咲いたと思っている見るそばから散ってしまうのだから。

「世」にかかる枕詞うつせみは、平安時代には「空蝉の」と理解されて「はかない」、「むなしい」の意味を持っていた。







僧正遍照によみておくりける     
                                                     惟喬親王

七十四
桜花 散らば散らなむ 散らずとて ふるさと人の 来ても見なくに


桜花よ、散るものならば散ってほしい。散らないからといって昔なじみの人が見に来るわけではないから。

惟喬親王に隠棲地であった小野宮は現在の大原の地にあり、今でも親王の墓石がひっそりと建っている。ふるさと人とはかつて親王が住まいした都での友遍照である。小野宮での隠棲は寂しいものであったのだろうことがうかがえる。








比叡にのぼりて帰りまうできてよめる 
                                                       紀貫之
八十七
山高み 見つつわが来し 桜花 風は心に まかすめらなり

山が高いので見続けるだけで帰ってきた。その桜花を風は自分の思うとおりに吹き散らすようだ

紀貫之は比叡の山懐に墓をもつほど比叡山が好きであったという。「来し」とあるは、詞書にあるように帰ってきたとの意味である。比叡山への参詣に行ってきたのだろう、帰り道での歌。








題知らず
                                         読み人知らず

九十七
春ごとに 花の盛りは ありなめど あひ見むことは 命なりけり

これからも春のたびに、花の盛りはきっとあるのだろうが、それを見ることは私の命次第なのだなあ~。

自然の永遠普遍に対する人事の無常は漢詩の発想の影響である。







【 巻 第三 】

 夏歌



題知らず
                                                      柿本人麻呂

一三五
わがやどの 池の藤波 咲きにけり 山ほととぎす いつか来鳴かむ

我が家の庭の池の藤波が咲いた。山ほととぎすは何時になったら来てなくのだろう。

藤の花が美しく咲き、風にそよそよとなびく様子が美しい波のようから古く藤波と言うようになった。里に下りてくるほととぎすは其れまで山にいると考えられていた。万葉集以来ほととぎすは夏を代表する景物でもある








はちすの露を見てよめる
                                                       僧正遍昭

一六五
蓮葉(はちすば)の 濁りに染まぬ 心もて 何かは露を 玉とあざむく

蓮の葉は、泥水に生えても濁りに染まらない心を持っているのに、どうして葉に置く露を宝玉とあざむくのか。

法華経に「世間の法に染まらざること、蓮花の水にあるごとし。」とあるように、俗世間にまみれないのは蓮の花が泥水の中に咲いているようなものと説いている。仏教では神聖さを象徴する植物で、仏様は蓮華の上に座っている。
清らかなはずの蓮が単なる水である露を宝玉のように見せてだましていると、仏教を逆手にとるようなユーモアを盛り込んでいる。遍昭の歌人としての大きさをみせる。








月のおもしろかりける夜、あかつきがたによめる
                                         清原深養父
(きよはらのふかやぶ)

一六六
夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいずこに 月やどるらむ

夏の夜はまだ宵だと思っていたのに明けてしまったが、いったい雲のどこに月が宿っているのだろうか

おそらく月を見ながら涼んでいたのだろう。それでも眠れなかったのだろうかあっという間に夜が明けてしまった。自分と同じように月が眠る暇もなく、つまりは西の山に沈まず雲のどこに宿をとれたのだろうかと、月を擬人化して案じるもよう。







【 巻 第四 】

 秋歌上



秋立つ日よめる
                                                         藤原敏行朝臣

一六九
秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる

秋が来たと目にははっきりと見えないけれど、風の音にはっとその到来に気が付いたのだった。

詞書に立秋に詠んだとあるから、暦の上では秋の到来であるが、視覚ではなく聴覚によって確認したというもの。視覚的に秋の到来はやはり紅葉であろう、聴覚的ではこおろぎ、松虫などの秋の虫、そして雁や鹿などである。それに比較すると秋風はなんと地味であろう。しかし、季節はまず非生物的現象の変化に始まり、生物がそれに反応して季節らしさが深まろうというもの。秋風に気付いた鋭い感覚をみる。








寛平御時、七日の夜、上にさぶらふをのこども、歌奉れと仰せられける時に、人にかはりてよめる
                                                       紀友則


天の川 浅瀬しら波 たどりつつ 渡りはてねば 明けぞしにける

天の川の浅瀬を知らないので、白波をたどりながら渡りきらないでいると、夜が明けてしまったなあ。

七夕の翌朝、彦星の立場になっての歌よみ。「知らな」と「白波」は掛詞、七夕は秋の最初の代表的行事で、織姫や彦星などの立場になり、数日前から七日当日、翌八日などのように時間を細かく設定し歌を作って楽しんだ模様。古代の人にとっては悲恋の主人公になって歌を作るという遊びを楽しんだのである。








是定親王の家の歌合の歌
                                              壬生忠岑(みぶのただみね)

二一四
山里は 秋こそことに わびしけれ 鹿の鳴く音に 目を覚ましつつ

山里は秋が特に寂しいものなのです、鹿の鳴く声に、毎晩何度も目を覚ましています。

山里はいつも人気が少なく寂しいものなのだが、鹿の鳴き声のする秋は一層寂しい。山里にどんな事情なのか移り住むようになった人が俗世間を離れてのところ、それでも人恋しさを感じてしまうところに人間らしい感傷がうかがえる。
鹿の鳴き声は、繁殖期の女鹿・男鹿の求愛のため、人の恋愛を連想させるがそれが余情ともなっている。夜、一人寝の肌寒い寝どこで鹿の鳴き声を聞き何度も目を目を覚ますのだ。

百人一首では猿丸太夫の
奥山に 紅葉踏み分け 鳴く鹿の 声聞くときぞ 秋は悲しき  がある。












【 巻 第五 】

 秋歌下



是貞親王の家の歌合によめる
                                                         藤原敏行朝臣

二五七
白露の 色は一つを いかにして 秋の木の葉を 千々に染むらむ

白露の色は白という一つなのに、どのようにして秋の木の葉を千もの色に染めたのだろう

紅葉の風景の不思議なほどの美しさを詠んだ。秋の色が白だという五行説では露も白だと考えられていた。そして露が染めて葉の色が変るという発想は染色が生活に根付いていたからであろう。和歌の傾向として、紅葉が絹織物の錦に見立てられている。

五行説

この宇宙が木(モク)・火(カ)・土(ド)・金(コン)・水(スイ)の元素から出来ているという古代中国の思想で、陰陽思想や占いなどに影響した。森羅万象この五元素の性質を持つとされ、特に木火金水の方角・色・季節・四獣はよく取り上げられる。
 木の東・青・春・青龍   火の南・朱・夏・朱雀   金の西・白・秋・白虎  水の北・玄・冬・玄武

青春はこれから来てるのはよく知られる。また高松塚古墳やキトラ古墳内部の壁画に四獣が描かれているのも関係があるとも伝わる。








二条の后の東宮の御息所と申しける時に、御屏風に竜田川に紅葉流れたるかたを
かけりけるを題にてよめる                                    在原業平朝臣


二九四
ちはやぶる 神代もきかず 竜田川 韓紅に 水くくるとは

あの不思議なことが多かった神代でも聞いたことがない。竜田川が韓紅色に水をくくり染めにするとは

「くくる」とはくくり染めにすること、拠って川の水を染められた布地に見立てての歌。紅葉が点々と流れている図柄なのであろう。紅葉のくくり染めは神代と比較しても前代未聞のこととする。大胆な見立てで大げさと思えるほど大きな歌という。









【 巻 第六 】

 冬歌



冬の歌とてよめる
                                                   源宗干(むねゆき)朝臣
三一五
山里は 冬ぞさびしさ まさりけり 人目も草も かれぬと思へば
                                                

山里は冬がことに寂しさがまさるのだった、人の訪問もなくなり、草も枯れてしまったと思うと・・・。

山里の閑寂な趣にふさわしく、歌の姿も掛詞一つですっきりと自然と人事を一体化されている。他の時期でも人里から離れた山里は寂しいものですが、冬は特別であるのですね。








雪の降りけるをよみける
                                              清原深養父(きよはらのふかやぶ)

三三〇
冬ながら 空より花の 降りくるは 雪のあなたは 春に」あるらむ

冬なのに空から花が散ってくるということは、雪の向こうは春なのであろうか

季節は空からやって来るという発想、花は雪の見立てで天上の季節は地上より早く進んでいると考えた。







梅の花に雪の降れるをよめる
                                                  小野篁(たかむら)朝臣

三三五
花の色は 雪にまじりて 見えずとも 香ほだににほへ 人の知るべく

花の色は雪に紛れて見えないとしても、せめて香りだけでも匂ってくれ、何処に梅の花があるか分かるように。

平安和歌で梅の花を詠んだもっとも早い例と云われる。小野妹子に通じる近江小野氏の出でもある、








【 巻 第七 】

 賀歌


題知らず
                                                       よみ人知らず
三四三
わが君は 千代に八千代に さざれ石の いはほとなりて 苔のむすまで
                                                    

わが君は、千代に八千代にも小石が巌となって苔がむすようになるまで、長寿であって戴きたいものよ。

君とは、賀の歌においては祝われる人物を指すもので、「わが」は親愛の情を示している。しかし「わが君」は帝や主君とは限らないという。千代・八千代とは文字通り千年ではなく数え切れないほどの長い年月をいい、八という数字も数の多いことを謂う。
「いはほ・巌」、小石の巌への成長は、中国の「西陽雑俎」に掲載する、ある寺に置かれた拳ほどの大きさの石が巨岩になったという伝説によるか。

我が国の国歌の元となったとも謂われる。







堀河の大臣の四十の賀、九条の家にてしける時によめる
                                                    在原業平朝臣



三四九
桜花 散りかひくもれ 老いらくの 来むといふなる 道まがふがに

桜花よ散り乱れてあたりを曇らせておくれ、老いが来るという道が紛れてしまうように・・・。堀河の大臣というのは藤原基経、その別邸は九条にあったという。人間の元へやって来る擬人化された存在を「老いらく」と表現している。基経四十歳職は摂政右大臣であった。








本康親王の七十の賀の、うしろの屏風によみてかきける
                                                            紀貫之


三五二
春くれば やどにまづ咲く 梅の花 君がちとせの かざしとぞ見る

本康親王の七十(ななそぢ)の祝い、屏風の画賛として書きつけるとある。上句に『春されば まづ咲くやどの 梅の花 一人見つつや 春日暮らさむ』(万葉集・巻五・818・山上憶良)をふまえる。
平安時代、万葉集の享受は少なく貫之の万葉集享受の広さを語る貴重な例といわれるものである。春が来ると、我が家の庭に真っ先に咲く梅の花は、あなた様の千歳の齢の挿頭(かざし)だと思います。
挿頭とは宴の時などに髪に挿す草や花を云う、もともとは植物の生命力うを身につけるための行為とされる。











【 巻 第八 】

 離別歌


題知らず
                                                         在原行平朝臣

三六五
立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む

お別れをして、私は因幡の国へ去っていきますが、その因幡の山の峰に生えている松にちなんで、私の帰りを待っていてくださると聞きましたらすぐにでも帰ってまいりましょう。「いなば」と「因幡」、「松」と「待つ」は掛詞となっている。
行平は因幡守となって赴任している。送別の宴にて詠まれたとおもう。二つの掛詞によって、切実な離別の情と遠い任地の風景とが融合した名歌でもあり百人一首にも入る。






小野千古が陸奥介にまかりける時に、母のよめる

三六八
たらちねの 親の守りと あひそふる 心ばかりは 関なとどめぞ

わが子とは一緒には行けないが、親が子供のお守りとして添わせるこの心だけは、関所よ、どうかとどめないで欲しい。
小野千古(ちふる)は小野道風の子供である。詞書中に作者名を記するのは帝や后以外では異例とも云われる。






人を別れける時によみける
                                                           紀貫之

三八一
別れてふ ことは色にも あらなくに 心にしみて わびしかるらむ 


別れということは色ではないのに、どうしてこんなに心にしみて悲しいのであろうか。「てふ」とは「といふ」ことの縮約形であり、「しみて」というから、あたかも染色の色が衣を染めるように別れが心を染めると喩えた。







越の国へまかりける人に、よみてつかはしける
                                                  凡河内躬恒(おおしこうちみつね)
三八三
よそにのみ 恋ひやわたらむ 白山の ゆき見るべくも 

これからは遠く離れたまま恋しく思い続けなければならないのであろうか。白山の雪を見ることもできない行って会うこともできない我が身は。







雷鳴の壷に召したりける日、大御酒などたうべて、雨のいたく降りければ、夕さりまではべりて 
まかり出でける折に、さかづきをとり

                                                              紀貫之
 
三九七
秋萩の 花をば雨に ぬらせども 君をばまして 惜しとこそ思へ



とよめりける返
                                                    兼覧王(かねみのおほきみ)

三九八 
惜しむらむ 人の心の 知らぬまに 秋の時雨と 身ぞふりにける


秋萩の花が雨に濡れたのは惜しいことでしたが、あなたさまとのお別れの方がいっそう惜しいことに思われます。醍醐天皇より賜ったお酒なので大御酒(おほみき)と言った。詞書最後に「よめる」がないのは異例である。

別れを惜しんで下さるというあなたのお気持ちを知らないまま、秋の時雨が降り、わが身もすっかり老いてしまった。「とよめりける」は三九七から三九八へと詞書も含めて、歌物語のような書き方をとっていて、贈答歌としても成り立っている。
兼覧王は惟崇親王の子、惟崇親王と在原業平の主従の絆に憧れた紀貫之には、兼覧王との交わりにはこの上ない喜びであったのだろう。


兼覧王にはじめて物語して、別れける時によめる

三九九
別るれど うれしくもあるか 今宵より あひ見ぬさきに 何を恋ひまし
                                                凡河内躬恒


深い親愛の情に溢れている、前二首と同じ折でのことだろう。兼覧王に対する紀貫之と凡河内躬恒双方のの並々ならぬ敬慕
きょうはお別れしますが、うれしいことです。今夜からはあなた様を恋しく思うことができますので。もし、お会いしていなかったなら、次にお会いするまで何を恋しく思ったでしょう。













【 巻 第九 】

 羇旅歌


もろこしにて月を見てよみける 
                                                        安倍仲麿

四〇六
天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも

この歌は、昔仲麿をもろこしにならはしに遣はしたるけるに、あまたの年を経て、え帰りまうでござりけるを、
この国よりまた使まかりいたりけるに、たぐひてまうできなむとて、出で立ちけるに、明洲といふ所の海辺
にて、かの国の人むまのはなむけしけり。夜にまりて、月のいとおもしろくさし出でたりけるを見てよめる、
となむ語り伝ふる。

大空をはるかに仰いで見ると、そこにあるのはかつて見た春日の三笠の山からでた月なのだなあ。


詞書きに、仲麿が遣唐使にて唐国にあるとき帰国するにあたって送別会での歌と記されている。仲麿は養老元年(717)に遣唐留学生といあて渡り、玄宗皇帝に重用されている。詩人としても優れ、李白や王維とも交流がったと云う。
明洲の浜辺で見る月と昔三笠の山に出ていた月を重ねあわせ、郷愁に浸るとともに、これから帰郷できる喜びをこめたのでろう。唐に渡ったのは平城京遷都後7年、残念なことにこの歌を詠んだ時は船が難破、以後彼は日本に戻れないまま異国にて没するのである。







隠岐の国に流されける時に、船に乗りて出でたつとて、京なる人のもとにつかはしける
                                                      小野篁朝臣


四〇七
わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ海人の釣り舟

遣唐副使であった篁は大使藤原常嗣と船のことで争った末、病と称して出発しなかったため、隠岐の島に流罪となっている。後に召還されてはいる。
広々とした海原に多くの島を目指して漕ぎ出したと、都の人に伝えておくれ、漁師の釣り舟よ。







東の方へ、友とする人、一人二人いざなひて行きけり、三河国八橋といふ所にいたれりけるに、その川のほとりに、かきつばたいとおもしろく咲けりけるを見て、木の陰に下りゐて、かきつばたといふ五文字を、句のかしらにすゑて、旅の心をよまむとてよめる
                                                     在原業平朝臣


四一〇
唐衣、きつつなれにし つましあれば はるばるきぬる たびをしぞ思ふ
か    き          つ        ば          

三河国は現在の愛知県東北部、八橋は知立あたりだという。唐衣、着物を着ては褄(つま・妻)が馴染んだように長年慣れ親しんだ妻を都に残してきたので、馴染んだ衣は洗い張りをして着た折を思い出しながら、はるばるやって来たこの旅をしみじみと思うのだ、と旅の世話をしてくれた妻を思い詠む。






題知らず
                                                      よみ人知らず
四一二
北へ行く 雁ぞ鳴くなる 連れて来し 数は足らでぞ 帰るべらなる

この歌は、ある人、男女もろともに、人の国へまかりけり。男まかりいたりて、すなはち身まかりにければ、女一人京へ帰りける道に、帰る雁の鳴きけるをききてよめるとなむいふ。

北へ帰っていく雁が鳴いている。一緒に連なって渡ってきたときより数が減って帰っていくようだ。左注の伝承では地方官らしき夫を赴任直後に亡くした妻が、京へ帰る途中で詠んだうたである。

東北地方では雁風呂(がんぶろ)という言い伝えがある。北の国より渡ってくる鳥は其々に小さな小枝を咥えてくるという。途中疲れたときに小枝に浮いて休むためである。その小枝を日本へ渡ってきたときに落とすのだという。再び北へ帰っていくとき、落とした小枝を再び咥えて帰っていくのだが、どうしても何本かは残っているという。それは日本に渡ってきて何らかの理由で死んでしまった数でもある。
村人たちはそんな渡り鳥を悲しむように、浜に残った小枝を集めて風呂をたくのだという。渡り鳥を追悼する優しい心がそこにはみえる。







惟喬親王の供に、狩にまかりける時に、天の川といふ所の川のほとりに下りゐて、酒など飲みけるついで、親王の言ひけらく、狩して天の河原に至るといふ心をよみて、盃はさせといひければよめる。
                                               在原業平朝臣

四一八
狩り暮らし たなばたつめに 宿からむ 天の河原に われは来にけり

「たなばたつめ」とは「七夕つ女」と書き織姫のことをいう。天の河原という地名を織姫伝説にちなむ天の川とみなす。一日狩をして過ごし、夕暮になった。今夜は織姫に宿を借りよう、天の川原に私はやって来たのだから。
次の歌とともに伊勢物語に同内容の物語ある。






親王、この歌を返す返すよみつつ、返しえせずなりにければ、供に侍りてよめる
                                                       紀有常

四一九
一年に 一度来ます 君待てば 宿貸す人も あらじぞと思ふ

一年に一度だけいらっしゃるお力を持っているのですから、他に宿を貸す人はいないだろうと思う。
われが惟喬親王の立場であれば、君は彦星なのだから、さすがの親王様でも彦星にはかないますまい!という戯れとなるのでしょうが…











【 巻 第十 】

 物名
        ものの名、ある語を歌の表面の意味とはつながらない形で文字列として歌の中に読み込む


                                                            在原滋春
四二四  うつせみ(空蝉)
波の打つ 瀬見れば 玉ぞ乱れける 拾はば袖に はかなからむや

波が打ち寄せる浅瀬を見ると玉が散り乱れている、けれども拾って袖に入れたならば、はかなく消えてしまうだろうから。
打つ瀬見を「うちせみ(空蝉)」に詠みこむ。「はかなし」で空蝉の縁となり、さらに「殻」も詠みこまれている






                                                            僧正遍昭
四三五  くたに
散りぬれば のちは芥に なる花を 思ひ知らずも まどふてふかな

散ってしまえば、その後はごみになってしまう花も、そうとも知らずにその色に迷って飛び回っている蝶よ。
くたには苦丹」という字をあて、牡丹や竜胆(りんどう)の一種とも言われるが不明である。まどうとはあっちへ行ったり、こっちへ行ったりする様子。







                                                             紀貫之
四三六  さうび(薔薇)
われは今 (うい)にぞ見つる 花の色を あだなるものと いふべかりけり

私は今朝初めて薔薇の花を見た。その花の色こそ艶なるものというにふさわしかった。
中国渡来の花である薔薇を初めて見て「婀娜(あだな)」とはどのような様子をいうのか納得したということ。
婀娜は古訓「たおやか」であり、「あだ」と訓む例は中世以後である。ここは物名の歌として言葉の音への関心がでたものとみる。






朱雀院の女郎花合の時に、をみなえしといふ五文字を句のかしらにおきてよめる
                                                             紀貫之
四三九
倉山 立ちならし く鹿の にけむ秋を り人ぞなき

小倉山の峰を平らにするほどに歩き回って鳴く鹿が、幾たび秋を過ごしてきたのか、知る人はいないのだ。
小倉山は女郎花(おみなえし)の名所であるが嵯峨野と近く、女郎花と鹿が求める妻とが重なる。妻を求めて鳴く鹿、小倉山と鹿の取り合わせは紀貫之の好みであった







                                                  兼覧王(かねみのおほきみ)
四五七  いかがさき
かぢにあたる 波の雫を 春なれば いかが咲き散る 花と見ざらむ

楫(かじ)にあたってできる波しぶきを、春だからどうして咲いて散る花と見ないことがあろうか。いかがさきとは琵琶湖畔であろうか。「蜻蛉日記「では石山詣での帰路に通っている。いかが咲き散るを詠みこんでいる。













【 巻 第十一 】

 恋歌 一


春日の祭にまかれりける時に、物見に出でたりける女のもとに、家をたづねてつかはせりけ る
                                                          壬生忠岑
四七八
春日野の 雪間をわけて 生ひ出でくる 草のはつかに 見えし君はも

春日野の雪の間を分けて萌え出てくる若草が、かすかに姿を現わすように、ほんのわずかに姿が見えた貴方であったよ。
春日大社の春の祭、朝廷から勅使が遣わされる、その一行として付き添ったのであろう。この春日詣はめでたきものであった模様と枕草紙巻中に「うつほ物語」にある。






                                                         凡河内躬恒
四八一
初雁の はつかに声を 聞きしより 中空にのみ ものを思ふかな

初雁のゆにわずかに声を聞いて以来、すっかり上の空になって恋しい気持でいることよ。まだ見ぬ相手の声を聞いた歌。






                                                          詠み人知らず
四九三
たぎつ瀬の 中にも淀は ありてふを などわが恋の 淵瀬ともなき

激しく流れる早瀬の中にも淀みはあるというのに、どうしてわが恋は淵も瀬もなく激しく滾るばかりなのだろうか
ありてふは「ありという」の約






                                                           詠み人知らず
五〇一
恋せじと 御手洗川に せし禊 神は受けずぞ なりにけらしも

もう恋はするまいと御手洗川でした禊だったが、神様はお受けにならずしまいになったようだ。
御手洗川は神社の傍ららにあり、参拝者が身を清めたという。「伊勢物語」には帝に仕えている女に思いを寄せる男の歌として載る。






                                                           詠み人知らず
五〇九
伊勢の海に 釣りする海人の うけなれや 心一つを 定めかねつる

伊勢の海で釣りをしている漁師の浮子(浮き)なのであろうか私は。心一つを定めることができずふらふらしている。うけなれや=釣りをするときに使う浮子、恋の不安に揺れ動く心。
「釣りする海人のうけばかり思ひ乱るるに」(蜻蛉日記)、『源氏物語』の六条御息所のもの思いの叙述にも引かれている。







                                                           詠み人知らず
五三五
飛ぶ鳥の 声も聞こえぬ 奥山の 深き心を 人は知らなむ

飛ぶ鳥の声さえも聞こえない奥深い山のように、心の奥に秘めた深い思いをあの人には知って欲しい













【 巻 第十二 】

 恋歌 二


題知らず

                                                         小野子町
五五二
思ひつつ 寝ればや人の 見えつらむ 夢と知りせば さめざらましを

あの人のことを恋しく思いながら寝たので、あの人が夢に見えたのであろうか。夢だと知っていれば目をさまさずにいただろうに。
寝ればや=「ば」は理由、「や」は疑問を表わす。せば~まし、は反実仮想。






                                                         小野小町
五五四
いとせめて 恋しき時は むばたまの 夜の衣を かへしてぞ着る

あの人がどうしようもなく恋しいときは、夜の衣を裏返して着るのだ。






                                                          紀友則
五六二
夕されば 蛍よりけに 燃ゆれども 光見ねばや 人のつれなき

夕方になると、蛍よりはっきりと恋の思いに燃えているのだけれど、その思いの光をあの人は見ないので、つれないのであろうか。
夕さるとは夕方になる頃、夕暮れ時は恋の思いが募る時間帯。蛍の火は恋の思いの象徴。







                                                           素性法師
五七五
はかなくて 夢にも人を 見つる夜は 朝(あした)の床ぞ 起きうかりける 

あの人にたしかに逢ったのかどうか、はっきりしないような夢を見た夜は、朝の床から起きるのが辛いのであった







                                                    清原深養父(ふかやぶ)
五八五
人を思ふ 心はかりに あらねども 雲居にのみも なきわたるかな

あの人を思う私の心は仮初のものではなく、雁でもないのに雁が空を鳴きながら渡るように、私も遠く離れた所で泣きつづけている。
雲居=遠くはなれた場所の意に雁が空を飛ぶの意を響かせる。















【 巻 第十三 】

 恋歌 三



                                                           壬生忠岑
六二五
有明の つれなく見えし 別れより あかつきばかり 憂きものはなし

有明の月が無常に見えた別れの時から、暁の時ほど辛いものはないんだ。
明け方になっても残っているの月が有明の月。女の歌として詠む事も可能ではあるが、配列からまだ逢うことのかなわない男の歌としてみる。藤原定家は女と逢った明方の歌としてみて、「これほどの歌一つ詠み出でたらむ、この世の思い出にはべるらし」と激賞したという。






東の三条わたりに、人を知りおきてまかりかよひけり。忍びなる所なりければ、門よりしもえ入らで、垣のくずれよりかよひけるを、たびかさなりければ、あるじ聞きつけて、かの道に夜ごとに人を伏せて守らすれば、行きけれどあはでのみ帰りて、よみてやりける。

                                                         在原業平朝臣
六三二
人知れぬ わが通ひ路の 関守は 宵々ごとに うちも寝ななむ

人に知られず密かに私が通う路の番人は、夜ごと居眠りでもして欲しいものだ。
東=平安京の朱雀大路をはさんだ東。知りおきて=ここは女と恋仲になってと言うほどの意味。あるじ=女の親であろう。関守=関所の番人、あるじが見張りを置いた人のこと。
伊勢物語にはほぼ同内容の詞書とともに載る。






                                                          小野小町
六三五
秋の夜も 名のみなりけり 逢ふといへば ことぞももなく 明けぬるものを

秋の夜も、ながいというのは、そう言われているだけだった。思う人と逢うことになると、あっという間に明けてしまうのだから
名=評判や通念、ここは「秋の夜」といえば誰もが「長い」ものと考えるということ。こぞともなく=大したこともなく
万葉集・『秋の夜を 長しといへど 積もりにし 恋を尽くせば 短くありけり』






                                                        よみ人知らず
四三七
しののめの ほがらほがらと 明けいけば おのがきぬぎぬ なるぞかなしき

明方の空が晴れ晴れとあけていくと、各々が着物を着て別れるのが悲しい。
しののめ=歌詞、「あけぼの」にあたる。ほがらほがら=空の明るさが広々と広がっていく様子。きぬぎぬ=「衣々」共寝をしていた男女が其々に衣着た姿になること。そこから男女の朝の別れをもいう。







業平朝臣の伊勢国にまかりたりける時、斎宮なりける人に、いとみそかにあひて、またのあしたに、人やるすべなくて、思ひをりけるあひだに、女のもとよりおこせたりける。

                                                        よみ人知らず
六四五
君や来し 我や行きけむ 思ほえず 夢かうつつか 寝てかさめてか

あなたがいらしたのでしょうか、それとも私が出かけていったのでしょうか、わかりません。夢だったのか現実だったのか、寝ていたのか起きていたのか


                                                           業平朝臣
六四六
かきくらす 心の闇に まどひきに 夢うつつとは 世人定めよ

真っ暗な心の闇に閉ざされて何もわかりません。夢か現実かは世間の人よ定めてください。



伊勢物語69段にくわしい物語として残る。伊勢神宮に奉仕すべく未婚の内親王又は皇女、或いは居所が斎宮。天皇の代替わりごとに遣わされた
世間の人に判断を委ねるということは、もし現実であれば世間で噂になるだろうし、夢であれば何も噂にならないだろう、ということ。斎宮との密通の罪が露顕してもかまわない、という決意でもある。
伊勢物語では「今宵定めよ」とあり、もう一度遭いましょうの意味となります。














【 巻 第十四 】

 恋歌 四
















































【 巻 第十五 】

 恋歌 五












































【 巻 第十六 】

 哀傷歌















































【 巻 第十七 】

 雑歌上















































【 巻 第十八 】

 雑歌下










【 巻 第十九 】












【 巻 第二十 】

 大歌所御歌

































    
目次




古今和歌集の意味


仮名序


巻 第一
       春歌上


巻 第二
       春歌下


巻 第三
       夏歌


巻 第四
       秋歌上


巻 第五
       秋歌下


巻 題六
       冬歌


巻 第七
       賀歌


巻 第八
       離別歌


巻 第九
       羇旅歌


巻  第一〇
       物名



巻 第十一
        恋歌


巻 第十二
       恋歌二


巻 第十三
       恋歌三


巻 第十四
     恋歌四


巻 第十五
       恋歌五


巻 第十六
       哀傷歌


巻 第十七
       
雑歌上


巻 第十八
      
雑歌下


巻 第十九
       雑躰


巻 第二十
      
大歌所御歌


 
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