和歌の集り   
         近江歌紀行
























近江歌紀行



周囲を鈴鹿連峰・伊吹山・比良連山・比叡山・金勝山などに囲まれて、美しく豊かな琵琶湖のある滋賀県は都の玄関として古くから淡海の国・近江とも謂われ、豊かな歴史のふるさとでもある。

弥生時代、縄文時代、古く石器時代へと歴史を遡れば、豊かな湖の幸を求めて人々は湖畔に住み着いて、かなり高度な文化をもった生活が存在していた。それは歴史の過程で帰化人など外来の高度な交流はやがて国造りにかかせない文化となっていった。

古代仏教を代表する比叡山は日本仏教の母山とも謂われ、数多くの高僧を輩出するにいたった。また中世の武将たちは各地で活躍し国を支えるものである。交通の要所ともいえる土地では交易が盛んとなり、経済的に重要な位置となって自然発生的にも近江商人として全国へ行商にでた。

近江は日本史の中でその礎を築いたところでもある。その歴史のうねりの中で独自の自然観や信仰が育まれ、それを詞として表わすようになっていた。

それは飛鳥・近江京の時代から、平城京・平安京を経て近代まで歌い継がれてきた。。外来の漢詩に対して発生した我が国固有の詩歌を和歌とも呼称するもので、やまと歌とも謂われてきた。









近江 歴史の中の万葉歌


大津宮はひと時平穏な日々が続いたある日、天智天皇は廷臣たちを招いて詩宴を開いた。その折藤原鎌足に命じて「春山の万花の艶と秋山の千葉の彩」のどちらが美しいかを漢詩、和歌で競わせた。人々の意見の決着のつかない中で、額田王は和歌をもって堂々と判定したと言う。
万葉初期の女流歌人・額田王は、鏡王の娘で初め大海人皇子(後の天武天皇)に嫁し十市皇女を生んだが、後に天智天皇(中大兄皇子)にめされて後宮にはいった。彼女は天智、天武両の二人から寵愛を受けたのである。

冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山を茂み 入りても取らず 草深み 取りてもみず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 散りてそしのふ 青きをば 置きてそ歎く そこし恨めし 秋山われは    (二 〇〇一六)


冬が過ぎて春が来ると、冬の間鳴かなかった鳥もやって来て鳴いている。咲かなかった花も咲いているけれど、山は木々が茂っているので分け入って取ることもせず、野は草が深いので手にとって見ることもしない。秋山の方は、木の葉を見ると、黄葉した枝は手にとってその美しさを感嘆し、黄葉しない青い葉はそのままにして嘆息する。その点が残念に思われるが、私はそんな秋山のほうこそが惹かれるのです。

この長歌には漢詩文の対句や同語反復の技法が使われ詩文の影響が見られます。彼女はこのときすでに詩宴での主導権をとるまでになっていたと思われる。
また近江蒲生野に遊猟が行われたときに詠んだ贈答歌はあまりにも有名である。


五月五日(太陽暦では六月二十日頃)は薬猟の日で皇太子たちは馬に跨り、雄鹿を追いその袋角(鹿茸)を切り取り、女官たちは野辺に出て薬草を摘む慣わしであったそうな。宮廷の文部百官を従えた天智の一行は蒲生野遊猟の日であった。宮廷の生活から開放された大宮人たちは華やいでいた。そして大海人皇子と額田王」の蒲生野での出会いとなったのである。

あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る   (巻一 〇〇二〇)
                                              額田王

紫草の にほへる妹を 憎くくあらば 人妻ゆゑに われ恋ひめやも  (巻一 〇〇二一)
                                              大海人皇子

大海人皇子はこの三年後に出家し、吉野宮滝に入り、天智天皇亡きあとの大津を攻め壬申の乱の勝者となって再び飛鳥に都を移すことになる。
額田王は蒲生野での逢瀬に心弾ませ、複雑な心境でもあったのだろう。その後天智への思慕の歌も万葉歌にある。

君待つと わが恋ひおれば わが屋戸の すだれ動かし 秋の風吹く  (巻四 〇四八八)
                                               額田王

彼女の傍らに鏡皇女の姿もあった。鏡皇女は額田王の姉でという、天智と鏡王女とは婚姻関係にありながら、重臣の鎌足に正室としてくれてやっている。

風をだに 恋ふるは羨し 風をだに 来るとし待たば 何か嘆かむ  (巻四 〇四八九)
                                               鏡王女





藤原鎌足が大津の宮で亡くなると、その翌年天智天皇はわが子大友皇子の将来を案じながらこの世を去った病臥の時から崩御にかけての女性達の深い悲しみは長短歌に詠まれている。


天皇聖躬不豫の時、大后の奉る歌
天の原 振り放け見れば 大君の 御寿は長く 天足らしたり  (巻二 〇一四七)


天皇崩りましし後、倭大后の作り
人はよし 思ひ止むとも 玉蔓 影に見えつつ 忘らえぬかも (巻二 〇一四九)


天皇大殯の時の歌
かからむの 懐知りせば 大御船 泊てし泊りに 標結はまし  (巻二 〇一五一)
                                         額田王

やすみしし わが大君の 大御船 待ちか恋ふらむ 志賀の辛崎 (巻二 〇一五二)




壬申の乱によって近江朝廷が滅び、十八年後の持統四年、夫天武の死、愛息草壁皇子の死と相次ぐ不幸の中で即位した持統女帝は志賀の崇福寺を訪れた。それは天智の追悼、壬申の乱で死んでいった人の鎮魂のため、荒都を訪れたものみられ、柿本人麻呂は供奉者の一人であった。


近江荒都を過ぐる時
玉襷 畝傍の山の 橿原の ふじりの御代ゆ 生れましし 神のことごと 樛の木の 
    いやつぎつぎに 天の下 知らしめししを 天にみつ 大和をおきて 青丹よし 
奈良山を越え いかさまに 念ほしめせか 天離る 鄙にはあれど 石走る 
    近江の国の ささなみの 大津の宮に 天の下 知らしめしける すめろぎの
神の命の 大宮は ここと聞けども 大殿は ここと云えども 春草の 茂く生ひたる 
    霞立つ 春日の霧れる ももしきの大宮処 見れば悲しも
 (巻一 〇〇二九)

                                                     柿本人麻呂


反歌
ささなみの 志賀の辛崎 幸くあれど 大宮人の 船待ちかねつ (巻一 〇〇三〇)


ささなみの 志賀の大わだ 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも (巻一 〇〇三一)


近江の旧堵を感傷みて作る歌
古の 人にわれあれや ささなみの 故き京を 見れば悲しき (巻一 〇〇三二)
                                             高市黒人

ささなみの 国つ御神の うらさびて 荒れたるみやこ 見れば悲しも (巻一 〇〇三三)
                                             高市黒人


近江の荒都を懐古した歌の中でも最も印象に残る名歌は

淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 情もしのに 古念ほゆ (巻三 〇二六六)
                                            柿本人麻呂

近江の国より上り来る時
馬ないたく 打ちてな行きそ 日ならべて 見てもわが行く 志賀にあらqなくて (巻三 〇二六三)
                                            刑部垂麿

湖畔の美しい風景に心惹かれて離れがたく、馬上の友に向かって呼びかけたのだろう


もののふの 八十氏河の 網代木に いさよふ波の 行く方知らずも (巻三 〇二六四)
                                            柿本人麻呂




北陸と大和とを結ぶ最短路として開けた北陸道は琵琶湖の西側を南北に通る。陸路は穴太~和邇~三尾~鞆結を経て愛発越えにて敦賀に船路では大津~比良~勝野津~安曇の各港を出て塩津にあがり塩津越えで敦賀へと出る。
若狭に行くには勝野津から陸路となり若狭路を通って小浜へと出た。

古に ありけむ人の 求めつつ 衣に摺りけむ 真野の榛原 (巻七 一一六六)

真野の浦の 淀の継橋 情ゆも 思へや妹が 夢にし見ゆ (巻四 〇四九〇)



真野を過ぎ、和邇まで来ると湖辺は広がり北に向かって湖岸は大きく湾曲している、「比良の大曲(おおわだ)」である。

わが船は 比良の湊に 漕ぎ泊てむ 沖へな離り さ夜更けにけり (巻三 〇二七四)

なかなに 君に恋ひずば 比良の浦の 白水郎ならましを 玉藻刈りつつ (巻十一 二七四三)



比良の湊は船泊まりとして万葉人に広く知られていた。蓮庫山は比良山系のことで、比良山麓一帯は比良山から湖上に向かって吹き下ろす風が強く、土地の人々は「比良下ろし」と伝え、殊に春先の疾風で湖上は大荒れとなる。

楽浪の 比良山風の 海吹けば 釣りする海人の 袖かへる見ゆ (巻九 一七一五)

ささなみの 蓮庫山に 雲居れば 雨そ降るちふ 帰り来わが背 (巻七 一一七〇)



水路を比良の湊から水尾崎を回り勝野津に着く、ここから陸路北陸に向かうか、安曇湊から塩津湊から北陸に向かう。勝野は水陸交通の要衝でもあった。この路は人の行きかいばかりではなく、物資の流れも頻繁であった。

何処にか われは宿らむ 高島の 勝野の原に この日暮れなば (巻三 〇二七五)

大御船 泊ててさもらふ 高島の 三尾の勝野の 渚し思ほゆ (巻七 一一七一)

思ひつつ 来れど来かねて 水尾が崎 真長の浦を またかへり身つ (巻九 一七三三)

大船の 香取の海に 碇おろし 如何なる人か 物思はざらむ (巻十一 二四三六)

何処にか 舟乗しけむ 高島の 香取の浦ゆ 漕ぎ出来る船 (巻七 一一七二)



奈良時代後期、太政大臣藤原仲麻呂(恵美押勝)が反乱を起こし都を捨てて近江湖西に逃亡してきたが、追討軍に阻止された高島の鬼江の浜にて妻子一族郎党が捕らえられ、斬首されている。鬼江はこの香取浦で長い歳月の間に砂州を作り、現在は乙女ケ池となっている。

旅なれば 夜中を指して 照る月の 高島山に 隠らく惜しも (巻九 一六九一)

さ夜深けて 夜中の方に おぼおしく 呼びし舟人」 泊てしむかも (巻七 一二二五)



勝野津から真長浦を過ぎ、三尾川崎を回ると安曇川崎となる安曇の湊にも詠まれる。万葉集でか安曇を「阿渡・足速・阿戸・吾跡」などと表記されている。万葉人が詠んだ阿渡の水門は現在は判然としない。

率ひて 漕ぎ行く船は 高島の 阿渡の水門に 泊てにけむかも (巻九 一七一八)

高島の 阿戸白波は さわくとも われは家思ふ 廬悲しみ (巻七 一二三八)

高島の 阿渡の水門を 漕ぎ過ぎて 塩津菅浦 今か漕ぐらむ (巻九 一七三四) 



さらに船は湖北の塩津・菅浦を航行する、葛籠尾崎を挟んで東に塩津湾、西側に大浦湾がある。その最奥部に大浦港はある。旅人は上陸すると大浦川に沿って山道を辿り、沓掛の北で塩津街道に合流、深坂越えで敦賀へとでた。
その昔陸の孤島と呼ばれた菅浦の集落がある、中世の文化を調べる上で貴重な資料である「菅浦文書」で有名な古い歴史をもつ地でもある。

葉山 霞たなびき 夜ふけて わが船泊てむ 泊知らずも (巻九 一七三二)

霰降り 遠つ大浦に 寄する波 よしも寄すとも 憎からなくに (巻十一 二七二九)

あぢかまの 塩津を指して 漕ぐ船の 名は告りてしを 逢はざらめやも (巻十一 二七四九)


古代の三関と称せられた愛発関は近江と越前の国境にあった。万葉の時代湖東から北陸へ向かうには大音から賤ケ岳南嶺鞍部を越えて飯の浦に出て地獄坂越えで塩津街道へ出る道、そして木之本か栃の木峠を経て今庄に出る道があった。




近江の霊峰伊吹山に発して坂田郡近江町を流れる川を能登瀬とも云う、又の名を息長川、天野川、朝妻川、箕浦川とも呼んでいる。この辺りは中央政権に深いつながりをもっていた古代豪族息長氏の根拠地で、息長氏の祖を祭る山津照神社がある。

天の川河口南側には朝妻・筑摩と二つの集落がある。東山道と北国街道が分岐する処近く、街道を往来する人々や船の出入りが多かった朝妻湊は古くから栄えていた。また、筑摩は古く大膳職の御厨が置かれた処で、筑摩神社の鍋冠祭りは奇祭といして知られる。


さざれ波 磯越道なる 能登瀬河 音のさやけさ 激つ瀬ごとに (巻三 〇三一四)

鳰鳥の 息長川は 絶えぬとも 君に語らぬ 言尽きめやも (巻二十 四四五八)

託馬野に 生ふる紫草 衣に染め いまだ着ずして 色に出にけり (巻三 〇三九五)

今朝行きて 明日は来なむと 言ひし子が 朝妻山に 霞たなびく (巻十 一八一七)

磯の崎 漕ぎ廻み行けば 近江の海 八十の湊に 鵠多に鳴く (巻三 二七三)

この八十湊は地名ではなく、琵琶湖にそそぐ河口を云ったものと考える。現在でも湖には船泊まりを含めて港が四十近くあるというが、かつての繁栄は見ることも無い。



沖ノ島は「澳ノ島」とも書き、湖中でも最も大きな島でもある。しかし上代の琵琶湖水位は今より高く、内陸部に深く入り込んでいた。現在陸続きの奥島山、伊崎山、岡山(水茎岡)などは湖中に浮かんでいたところから万葉人はこれらの島々を総称して「沖つ島山」と呼んでいたと考えられている。
奥島山(奥津島山)には奥津島神社、古刹長命寺がある。

淡海の海 沖つ島山 奥まけて わが思ふ妹が 言の繁けく (巻十一 二四三九)



諸国から駆りだされた役民(労働者)たちが、近江の田上山から伐り出した材木を大和の藤原の地に運搬する情景を詠んでいる。田上山は標高六百mほどの太神山を主峰とする山で、古代には一帯は木材の主産地として広く知られたところである。正倉院文書の中にも田上山作所の名がみえる。また近江には他に高島山作所があるが、この近江には良材がたくさん採れたというだけでなく、陸路で運ぶより水路(瀬田川、宇治川、木津川)を利用するほうがはるかに大きな輸送力であった。

藤原の宮の役民の作れる歌

やすみしし 我が大君 たかてらす 日の皇子 あらたへの 藤原が上に 食す国を  見したまはむと 見あらかは 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地も 
縁りてあれこそ いはばしる 淡海の国の ころもでの 田上山の まきさく 
  檜のつまでを もののふの八十氏川に たまもなす 浮かべ流せれ そを取ると 
騒くみ民も 家忘れ 身もたな知らず かもじもの 水に浮き居て 我が作る 
  日のみ門に 知らぬ国 よし巨瀬道より 我が国は 常世にならむ 図負へる 
くすしきかめも 新代と 泉の河に 持ち越せる 真木のつまでを ももたらず 
   筏に作り のぼすらむ いそはく見れば 神ながらならし



右、日本紀に曰く、「朱鳥七年癸巳の秋八月、藤原の宮地に幸す。八年甲午の春正月、藤原の宮に幸す。冬十二月、庚戌の朔の乙卯、藤原の宮に遷居らす」と。









   【 湖東 】



朝妻

坂田郡(現米原市)の天野川河口南岸、天野川の古名。伊吹山麓に発し坂田郡を流れ朝妻筑摩の地にて琵琶湖へとそそぐ。古代栄えた港である。


鳰鳥の 息長川は 絶えぬとも 君に語らむ 言尽きめやも
                                                 万葉集 巻二十 四四五八


恋ひ恋ひて 夜はあふみの 朝妻に 君もなぎさと いふはまことか
                                                   新続和歌集 藤原為忠








筑摩

古くは宮廷に神饌の料を貢進した御厨(みくり)がおかれた。米原にある筑摩神社の鍋冠祭(なべかむりまつり)は名高く、近在の女は関係を結んだ男の数だけ土鍋を奉納し、偽ると祟りがあると恐れられた。


いつしかむ 筑摩の祭 はやせなむ つれなき人の 鍋の数見む
                                                    清原元輔 拾遺集








醒井

坂田郡米原醒ヶ井の清水、古事記での倭建命(ヤマトタケル)の伝説に因む名。


わくらばに 行きて見てしか 醒ヶ井の 古き清水に 宿る月影
                                                            源実朝








不知哉川

大堀川(現芹川)の古名。犬上郡の霊仙山に発し、正法寺山の南西を流れ、彦根で琵琶湖へと注ぐ。


犬上の 鳥籠の山なる 不知哉川 いさとを聞こせ 我が名のらすな
                                                            万葉集








伊吹山

近江と美濃の境をなす伊吹山地の主峰、標高1377メートル。古生代石灰岩のやまにて、全山が草原となっており独特の山容を見せる。もぐさの名産地でもあり、倭建命の伝説などでも知られる。


かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを
                                                   藤原 公方 後拾遺集








坂田

現長浜市(坂田郡)、広大で肥沃な地である坂田郡は近江を代表する稲作の地であった。仁安元年大嘗会奉りけるに稲春歌。


近江のや 坂田の稲を かけ積みて 道ある御代の 始めにぞつく
                                             新古今 皇太后太夫  藤原俊成








鳥籠山(とこのやま)

彦根市西方の丘陵地、正法寺山とする説もある。

淡海道の 鳥籠の山なる 不知哉(いさや)川 日(け)のこのごろは 恋ひつつもあらむ
                                                     斉明天皇 万葉集








水茎の岡

近江八幡水茎(すいけい)町にある岡。上代には一帯が小島の点在する風景であり、現在のようには陸続きではない。特に江戸時代には殖産が広がり禄高を隠れて上げていたと謂われる。
時に「水茎岡」を近江国の歌枕としている。

水茎の 岡の葛原 吹きかへし ころも手うすき 秋の初風 
                                                       藤原 定家









   【 湖北 】


余呉の湖(うみ)

琵琶湖の北、伊香郡余呉町(現長浜市)にある湖、「伊香の小江(いかごのおうみ)」「伊香の湖」とも呼んだ。湖畔には羽衣伝説が伝わる。


雲晴るる 比良山風に 余呉の海の 沖かけてすむ 夜半の月影
                                                            藤原公重








己高山

小高見山とも書き、伊香郡木之本町(現長浜市)の東に位置する山。古来山岳仏教 (白山山岳宗教開祖三修上人の影響を受けて、この地には十一面観音等を祀る山岳仏教と密教の集合) の霊場として栄えた
現在は麓に映された鶏足寺は秋の紅葉で有名。。


ころも手に 余呉の浦 風さえさえて こだかみ山に 雪降りにけり
                                                       源 頼綱 金菜集








塩津

琵琶湖最北部にあたる塩津湾の奥にある港。塩津から敦賀へとぬける塩津越えの山道は塩津街道と呼ばれ難所でもあった。かつて紫式部も北陸への道中、この街道を通ったと伝えられる。


塩津山 打ち越えゆけば 我が乗れる 馬ぞつまづく 家恋ふらしも
                                                      笠 金村 万葉集 








伊香山

伊香郡の賤が岳の南麓で、余呉湖に望む地


いかご山 野べにさきたる 萩みれば 君が宿なる 尾花しぞ思ふ
                                                      笠 金村 万葉集








津乎(つあ)の崎

東浅井郡湖北町津の里かもと伝える


葦辺には 鶴が哭鳴きて 湖風 寒く吹くらむ 津乎の崎
                                     万葉集  若湯座王(わかゆゑのおほきみ)













   【 湖西 】



比良

滋賀郡志賀町(現高島市)、琵琶湖西岸にあたり、古く舒明天皇の宮があったとされる。西方の山並みを「比良の山」と総称する。


我が舟は 比良の湊に 榜ぎ泊てむ 沖へな離りさ 夜更けにけり
                                                     高市 黒人 万葉集


花さそふ 比良の山風 吹きにけり 漕ぎ行く舟の 跡みゆるまで
                                新古今   五十首歌奉りし中に、湖上花を 宮内卿







安曇

高島市安曇川町、琵琶湖に注ぐ安曇川の河口は広大な三角州を形成し古来湊として栄えた。一体は比良山脈から溢れる伏流水が豊かで、今でも川端を利用した水の豊かな生活圏でもある。


高島の 安曇白波は 騒げども 我は家思ふ 廬(いほ)り悲しみ
                                                     作者未詳  万葉集








高島

湖西路は、大和と北陸地方を結ぶ最短路として早くからひらけ、遠く北陸へ赴任する官人や旅人の重要な交通路でした。万葉人が、都と北陸地方との往き帰りに高島での旅の叙情を詠んだ歌が幾首か残されています


何処かに 舟乗しけむ 高島の 香取の浦ゆ 漕ぎできる舟
                                                     万葉集 作者未詳



三尾の海に 綱引く民の ひまなくも 立ち居につけて 都恋し
                                                           紫 式部


いづくにか 我は宿らむ 高島の 勝野の原に この日暮れなば
                                                      市 黒人 万葉集








志賀

琵琶湖西岸、背後に比叡山・比良山々を控えて琵琶湖との狭い地に古代氏族の発生の土地。三井寺や日吉大社など多数の寺社があり、都から参拝で賑わったともいう。志賀の都は大津京を指し、桜の花園があり、よく歌に詠まれた。


志賀の浦や 遠ざかりゆく 浪間より 氷りて出づる 有明の月
                                               新古今  藤原 家隆朝臣 


明日よりは 志賀の花園 まれにだに 誰かはとはん 春の古里
                                       新古今  摂政太政大臣 藤原家隆 朝臣


楽浪の 志賀の大わだ 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも
                                                     柿本人麻呂 万葉集


高市黒人、近江の旧き堵(ふるきみやこ)を感傷して作れる歌

古の 人に我あれや 楽浪の 古き京を 見れば悲しき
                                                    万葉集  高市連黒人


楽浪の 国つみ神の うらさびて 荒れたる京 見れば悲しも
                                                    万葉集  高市連黒人









真野

大津市真野、琵琶湖西岸にて入り江をなして真野川の流れでるところ。この辺りには真野・小野・和邇・蓬莱と古代氏族を輩出したところで、古墳の多いことでも知られる。

うづら鳴く 真野の入り江の はま風に 尾花まによる 秋の夕暮
                                                      源 俊頼








堅田

大津市堅田町・衣川町の界隈、平安時代には堅田の渡しがあり、古代より堅田衆の言われ通り海運に長けた人々が居住していた。対岸、奥琵琶湖、高島辺りからの交易が盛んであったという。現在は琵琶湖大橋が架かる。

さざ波や よるべも知らず なりにけり 逢うはかたたの あまの捨舟
                                                    道玄 新古今和歌集








比叡山

京都と滋賀の境に南北に連なる山。延暦年間に最澄が一乗止観院(根本中堂)を建立して以来天台宗総本山として発展してきた。現在、東塔・西塔・横川中堂の三塔をすえて十六の谷を開き禅密戒等の教えが続く。
我が国の宗祖を数多く輩出している仏教の母山でもある。

大比叡や をひえの山も 秋くれば 遠目も見えず 霧のまがきに








日吉大社

大津坂本にある古社比叡山の麓にありその鎮守社。古くは日枝(ひえ)の社ともいわれている。日吉神社の総本社。

やはらぐる 光さやかに 照らし見よ 頼む日吉の 七のみやしろ
                                                        藤原定家








唐崎

辛崎・辛前・韓崎とも書かれている。大津市唐崎、琵琶湖西岸で港があった。夏越祓(なごしのはらえ)や賀茂斎院退下の禊び地でもある。松と月の名所でもあり、たくさんの歌や俳句が詠まれている。

楽浪(さざなみ)の 志賀の唐崎 さきくあれど 大宮人の 舟待ちかねつ 
                                                  柿本人麻呂 万葉集


氷りゑし 志賀の唐崎 うちとけて さざ波よする 春風ぞ吹く
                                                  大江 匡房 詩花集










   【 大津 】



近江の海

淡海の海とも書かれる、琵琶湖の古い呼称。単に近海とも言い、浜名湖を「とほつあふみ」と呼ぶのに対して「ちかつあふみ」と言った。それは京から近い淡水湖の意でもある。別名「鳰の海」と言い、鳰とは琵琶湖に多く生息するカイツブリのこと。

近江の荒れたる都に過(よき)るときに、柿本朝臣人麻呂の作れる歌

淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに 古おもほゆ
                                                   柿本人麻呂 万葉集


鳰の海や 霞のうちに こぐ舟の 真帆にも春の けしきなるかな
                                                  式子内親王 新勅撰集



近江の海 泊り八十あり 八十島の 島の崎々 あり立てる 花橘を 
        末枝
(ほつえ)に もち引き懸け 中つ枝(え)に 斑鳩懸け  
下枝に 比米
(しめ)を懸け 汝が母を 取らくを知らに 
      汝が父を 取らくと知らに いしばひ居
(お)るるよ 斑鳩と比米
                                                     万葉集 作者未詳 

(説明)
近江にある湖には、舟の泊る港がたくさんある。島のような所もたくさんある。その島の崎々に生えている花の美しい橘がある。その橘の末の枝にもちを引き懸け、中の枝にいかるがを、下の枝にはしめを、おとりとして籠に入れてかけてある。おまえの母親を取ろうとしているのも知らず、おまえの父親を取ろうとしているのも知らず、遊び戯れている。いかるがとしめは。

「いかるが」と「しめ」はスズメ科の鳥。もちや鳥をかけておびき寄せる情景が楽しく歌われている


けふ別れ あすはあふみと 思へども 夜やふけぬらん 袖のつゆけき  
                                                     紀 利貞 古今集







三井寺

大津湖岸近くにある延暦寺寺が、門派総本山、園城寺(おんじょうじ)とも謂われる。円珍により延暦寺別院として発足したその後対立して分離する。延暦寺を山門と呼ぶのに対して寺門と呼ぶ。

住みなれし 我が故郷は この頃や 浅茅が原に 鶉なくらむ
                                                     行尊 金葉集









粟津

大津市膳所付近から瀬田橋かけての地、東国への交通の要所でもある


関越えて 粟津の杜の あはずとも 清水に見えし 影を忘るな
                                                      読人不知 後撰集








石山

大津市、観音信仰でも有名な石山寺の地


都にも 人や待つらん 石山の 峰にのこれる 秋の夜の月
                                                   藤原 長能 新古今集








にほの浜

大津から瀬田にかけての長い浜辺、中世には膳所藩にて、かの松尾芭蕉翁も近江を好んで墓所と決めたといわれる。近江京からは景勝の地として好まれた。


にほの浜や 月の光の うつろへば 浪の花にも 秋はみえにけり
                                                  新古今 藤原 家隆朝臣








打ち出の浜

大津松本・馬場あたりの琵琶湖畔

近江なる 打出のお浜の うちいでて 恨みやせまし 人の心を
                                                   読人不知 拾遺集








逢坂
現代仮名つかいでは「おうさか」となる、相坂・合坂などとも書く。山城の国と近江の国の境の峠である。畿内の北限ともなって、関が設けられていた。古くはこの関を越えれば東国ということだった。

これやこの 行くも帰るも 別れつつ 知るも知らぬも 相坂の関
                                                      蝉丸 後撰集


夜をこめて 島の空音は はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ
                                                 清少納言 後拾遺集








大津

大津市、琵琶湖南岸の港として栄えた。天智天皇は天智6年(667年)この地に遷都した。

我が命 ま幸くあらば またも見む 志賀の大津に 寄する白波 
                                                   穂積 老 万葉集








陪膳(おもの)の浜

大津市膳所(ぜぜ)の湖浜の古い呼称、大津宮に都があった時、この地に御厨(みくりや)があったことから由来する名。

とどこほる 時もあらじな 近江なる 陪膳の浜の 海人のひつぎは
                                                   平 兼盛 拾遺集







瀬田

大津市瀬田、琵琶湖の水は唯一この瀬田川へと流れ出る。そしてこの瀬田川に架かる橋が「瀬田の長橋」「瀬田の唐橋」と呼ばれた。古来から交通の要所となって、度々戦乱に巻き込まれている。

もののふの 矢橋の舟は はやけれど 急がば回れ 瀬田の長橋 と歌われて、「急がば回れ」の詞が生まれている。

望月の 駒ひきわたす 音すなり 瀬田の長道 橋もとどろに
                                                        平 兼盛








長等山(ながらやま)

大津市、山麓には三井寺があり桜の名所でもある。助詞「ながら」と掛詞になることが多い。麓には大友皇子の陵がある。

さざ波や 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな
                                                   読人不知 千載集









   【 湖南 】



守山

守山市、東山道の宿場。動詞「守る・漏る」と掛詞となることが多い。比叡山を守る場所ということから守山と謂われる。

白露も しぐれもいたく もる山の 下葉のこらず 色づきにけり
                                                  紀 貫之  古今集






老蘇の森

蒲生郡安土町老蘇の奥石(おいそ)神社の森。時鳥(ほととぎす)を詠みこむことが多く、また「老い」と掛詞となって老年述懐の歌が多く詠まれている。
古代近在五郡と広大な森であったと言う。近くに繳山があり教林坊、桑実寺・観音寺があり宗教圏である。

東路の 思ひ出にせん ほととぎす 老蘇の森の 夜半の一声
                                                 大江公資 後拾遺集







三上山

野洲町にある三角錐形の山、御神山・三神山・御上山とも書く。近江富士とも呼ばれる美しいやまである

浅みどり 三上の山の 春霞 たつや千歳の はじめなるらん
                                                       大江 匡房








鏡山

蒲生郡竜王町と野洲郡野洲町との境にある山。鏡神社が鎮座し、古来信仰の対象であった、鏡に見立てられた歌を詠むことが多い。

近江のや 鏡の山を たてたれば かねてぞ身ゆる 君が千歳は
                                                  大伴 黒主 万葉集







蒲生野

古代仮名遣いでは「がまふの」、近江八幡市東部・蒲生郡安土町・八日市市西部にわたる広大な野。古代は薬草畑として広がっていたとする。そこで薬狩りの際にも歌が詠まれた。

蒲生野の 標野の原の をみなえし 野守に見すな 妹が袖ふる
                                                       大江 匡房


あかねさす 紫野いき 標のいき 野守は見ずや 君が袖ふる
                                                          額田王


むらさきの にほえる妹を 憎くあらば  人妻ゆゑに われ恋ひめやも 
                                                       大海人皇子








朽木の杣

「歌枕名寄・(なよせ)」によると、近江国甲賀郡の歌枕という。平城京・平安京への木材などの供給地であった。

花咲かで いく世の春に あふみなる 朽木の杣の 谷の埋れ木
                                                藤原 雅経  新勅撰集








信楽

甲賀郡信楽町、天平時代には聖武天皇より紫香楽宮(しがらきのみや)が営まている。大仏建立が計画されていたが、近隣の火事や方角などにて頓挫、奈良平城京に計画は移された。平安時代以降は物寂しい山里として冬や浅春の景色が詠まれている。

きのふかも 霰(あられ)降りしは 信楽の 外山(とやま)の霞 春めきにけり
                                                   藤原 惟成 詞花集








篠原

野洲郡野洲町大篠原の辺り、旅の歌として「野路の篠原」が詠まれることが多い。古代から集落があったようで古墳が多く発見されている。現在銅鐸の町としてされている。

うちしぐれ ふる里思ふ 袖ぬれて 行くさき遠き 野路の篠原
                                                  阿仏尼 十六夜日記








田上

大津市田上町、田上山は奈良時代宮殿や寺社の建築用材や巨石の産出地でもあった。又瀬田川に合流する田上川は網代(あじろ)の名所である。
田上山・金勝山(こんぜやま)・飯道山(はんどうさん)などから銅や錫、そして巨石や巨木といった奈良平城京・平安京の建築資材を搬出した。木舟に乗せて川から流すのだが、こうした事業の犠牲者や無事を祈願して寺や神社が作られている。中でも飯道山は山岳信仰と、金勝寺(こんしょうじ・こんぜじ)は大きな宗教圏を形成していた。

月影の 田上川に きよければ 網代に氷魚(ひを)の よるもみえけり
                                                   清原 元輔 拾遺集







野洲川

三重県境の御在所岳に発し、甲賀・水口から三上山麓を流れて琵琶湖へとそそぐ川。

うち渡る 野洲の河原に なく千鳥 さやかにみえず 明けがたの空
                                                     源 頼政









   【 近江八景の歌 】



近江八景は琵琶湖南部八ヶ所の景観を指して詠った歌。一説には室町時代、南近江の戦国大名近江守護六角高頼が公卿近衛政家を招いた折、和歌に優れていた政家が近江の素晴らしい景観について八首の和歌を詠んだところから近江八景が生まれたとも謂われております。

また、室町時代には宋時代湘湘八景がもてはやされて後、近衛信伊による近江八景が始まりとも謂われます。
何れにせよ、北宋時代の高級官僚・宋迪(そうてき)が中国湖南省にある洞庭湖とそこにそそぐ湘川(しょうかわ)と支流の湘江(しょうこう)を含む広大な地域の景観が風光明媚なことから山水画として認めたことが、後に我が国にも移入されたことによる。この山水画は鎌倉時代後期にもたらされ、室町期には足利将軍・禅僧を中心として漢詩や画題などに取り上げられている。

近江八景は以下である。

石山秋月   いしやまのしゅうげつ  大津市・石山寺

瀬田夕照   せたのせきしょう     大津市・瀬田の唐橋

粟津晴嵐   あわずせいらん     大津市・粟津原

矢橋帰帆
   やばせのきはん     草津市・矢橋

三井晩鐘   みいのばんしょう    大津市・園城寺

唐崎夜雨
   からさきのやう     大津市。唐崎神社

堅田落雁
   かただのらくがん    大津市・浮御堂

比良暮雪
   ひらのぼせつ       比良山系








石山秋月

石山に 鳰の海てる 月かげは 明石も須磨も ほかならぬ哉





瀬田夕照

露時雨 もる山遠く 過ぎきつつ 夕日のわたる 瀬田の長橋





粟津晴嵐

雲はらふ 嵐につれて 百舟も 千舟も浪の 粟津に寄する





矢橋帰帆

真帆ひきて 矢橋に帰る 船は今 打出の浜を あとの追風





三井晩鐘

思うその 暁ちぎる はじめとぞ まづきく三井の 入あひの声





唐崎夜雨

夜の雨に 音をゆづりて 夕風を よそにそだてる 唐崎の松





堅田落雁

峯あまた 越えて越路に まづ近き 堅田になびき 落つる雁がね





比良暮雪

雪ふるる 比良の高嶺の 夕暮れは  花の盛りに すぐる春かな


























    
目次




近江歌紀行

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