天寧寺  (てんねいじ)   曹洞宗 


  滋賀県彦根市里根町232







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少しここで彦根を記しておかねばならない。

家康の幕下で井伊直政(いいなおまさ)ほど愛され、信頼された人物は少ないという。家康の地三河の生まれではなくて遠州井伊谷の出で家系は平安末期井伊荘園の官人だった頃にさかのぼるというから戦国期ににわかに現れた武士達からすれば際立って出自がいいといわねばならない。

家康が旧領井伊谷を与えて近侍するようになって、生涯渾身の誠実さで家康に仕えたという、またそのことが井伊家の家訓ともなっていたのである。そして、彼の人柄と徳川家にたいする働きが井伊家をして特別な位置を幕府瓦解にいたるまで占めさせたといっていい。関が原戦後、直政は近江佐和山城主石田三成の旧領を与えられ、井伊直政の政治思想や人格、事歴がその後の彦根や藩の基礎ともなっている。

江戸二百数十年、彦根井伊家は他藩に比べて藩政はよかったといえる。すなわち、封建時代すぐれた藩祖をもった藩は藩祖の思想が判断の基準になることが多く、井伊家の場合直政は歴史上の人物ではなく、常に息づいていたということである。

直政は十二万石の領地に三成の旧領地を貰うことで一八万石になった。そして後、井伊家は三十五万石、譜代大名随一の石高となるのである。


井伊直政は彦根城を築くことなく死んだ。次代直継(後の直勝)に築かれたのだが、それは幕府の命に拠るものでもあった。
家康は西国三十余国の諸大名の監視という重責を負わすが、とりわけ西国諸大名といっても長州毛利氏と薩摩の島津氏であるが…。

又いずれ、大阪城の秀頼を討つべく地を探させたが、井伊家の重臣達が彦根山(金亀山)に決めた。家康は築城を公儀普請として江戸から三人を派遣しただけでなく、伊賀、伊勢、尾張、美濃、飛騨、若狭、越前の七カ国十二大名に手伝わせたともいう。

明治維新の時、太政管令によって多くの城が壊されたのだが、伝えによれば明治天皇がこの彦根城を見てその雅さに感心して是非残せということで残されたとも聞く。この付近の佐和山城や観音寺城など在来の城郭を取り壊して一部を移したという近江建築の型なのかもしれない。


城下町を一望できる丘の上に天寧寺はある。秋には萩が美しいですよと庫裡の方は言われた。曹洞宗だえるから仏殿であろうが、ここは別名羅漢堂とも呼ばれていた。堂内には本尊釈迦如来、十大弟子像、十六羅漢と、そして五百もの羅漢がぎっしりと並び壮観である。
正面には単坐がおかれ、座禅堂でもあるようだ。


仏殿の脇正面には井伊直弼などの供養塔があるが、その横にひっそりと村山たか女の碑がなぜか寂しげでもあるようだ。




































 寺の地図
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E136.16.23.050N35.15.50.970&ZM=8


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