正住院(しょうじゅういん)  龍松山 正住院   浄土宗西山派 
  

  愛知県常滑市保示町1−5   







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『世の中の 絶えて桜の なかりせば 春の心は のどかけらまし』

在原業平が詠んだ句も、なるほどと思いながらも、やはりこの季節ともなると桜の花を求めながらの寺探しであった。
知多の海は、今はもう昔の面影も全くといっていいほどなくなって、朝倉・新舞子・大野の辺り白砂青松の地は広大な埋立地へと変わり、大きなガスタンクや石油プラント、製鉄所、電力会社の施設が並び都市を維持するために昼夜なく稼動している。

もう何度となく通っていた道であるが全く気付いてなかった!常滑の正住院は市内きっての大寺であった。
半田常楽寺から隠居してきた空観栄覚上人の創建とも、或いはまた一説に、奈良時代行基により開基された高讃寺の一坊でもあったというが、定かではないという。

旧常滑と呼ばれ市街地は細い道が入り組んでいる。この寺は駐車場から入ってくると、実は裏口から入ってくることになる。そうするとこの寺の意味が解らなくもなる。
道路に面して駐車場はあるのだが、実は江戸時代までこの辺りは海岸であったのだ。本堂は海を背に(西を背に)石垣堤の上に建っていたのである。海上遠方(伊勢湾)からこの本堂はよく見えていたのである。徳川家康も伊賀越えして三河に落ちるときには津からこの寺に上がったともいう。

浄土宗の大寺と知って、成るほど!と気が付いた。本堂は海を背にして建つ格好である。西方浄土は海であるという海辺独特な浄土思想である。確かに夕日は伊勢の海の向こう、鈴鹿の山に消えてゆく。この海の向こうに浄土がある!と漁師達は心に描いたのであろう。

天台僧恵心僧都源信は『往生要集』にて極楽浄土に生まれるため、経論の中から必要と思われる文を拾い集めて一書とした。
文字通り、己れを空しくして経論や先哲の言葉を聴こうとしている。

序文には、「予が如き頑魯(がんる)の者(心かたくな愚かもの)」と述べて、利智精進の人とは比較にならないことを語り、みずからもこの易行(いぎょう)の念仏に導かれていくものであるを明記してある。
現実のすがたの直視から、自他を含めこの現実がいかに穢れた世界であるかを鋭くえぐりだして、この世界の汚濁におぼれることを誡め、阿弥陀仏の浄土こそ願わしい最上の世界であることを教え勧めるのである。これが『厭離穢土 欣求浄土』と謂われる。浄土宗はこのような教えを説くのである。

今年の春は寒暖が激しく、そんな気候のせいもあってかこと桜の開花を長く楽しむことが出来た。ちょうど寺を訪れた時は桜の満開の時期でもあったか。昼下がり、近所のご婦人数人が桜を楽しみながら歓談されていた。ご挨拶もほどほどに本堂にあがって阿弥陀仏を礼拝した。本尊阿弥陀如来像は行基作伝ともいう。
奥に納骨堂があり、その天井絵には見るものが多く楽しく見てまわった。

帰り際、近所の子供数人が池のザリガニ採りをして遊んでいた。子供にとって神社や寺がいかも楽しい遊び場であったのだ。久しぶりに子供の遊び声が聞こえ、大人の楽しげな会話が聞こえてくる寺であった。もう陽も西に傾けて伊勢の海にキラキラと輝かせて、そののどかさを拡大させながら帰路についた。





































 寺の地図
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E136.50.38.730N34.52.37.880 です。


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