正眼寺・正眼僧堂  (しょうげんそうどう)  妙法山正眼禅寺  臨済宗妙心寺派 妙心寺奥の院
  
  岐阜県美濃加茂市伊深町872−2
    







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禅の流れに『応燈関(おうとうかん)の一流』と云われるのがある。室町から南北朝時代にかけての臨済宗伝灯には南浦紹明(大応国師)・宗峰妙超(大燈国師)・関山慧玄(無相国師)という印可を繋いでいたのである。その流れには江戸時代禅の中興ともいわれる白隠慧鶴、磐珪永琢、一休宗純へと伝えられていったのである。

国道号41号線も木曽川を渡って岐阜県に入り、美濃加茂で一方を国道に導かれて下呂・高山方面に、他方は県道で美濃関へと分岐する。その県道も蜂屋から伊深へと進むにつれて確かに美濃路が始まると予感させるに十分な趣きをみせる。このあたりは蜂屋柿(富有柿)で有名な静かな山里然としていつも私を迎えてくれるのです。

美濃加茂伊深の妙法山正眼寺は妙心寺開山である無相国師関山慧玄(1277〜1360)の聖胎長養の地である。大徳寺開山の宗峰妙超に印可された関山慧玄は師の遷化後、花園上皇勅使に迎えられるまでの数年の間、この地に隠棲し牛を牧し、田を耕し、悟後の修行を行っていたといわれます。

開山の古道場にと知られる伊深に一寺が建立されたのは万治元年(1658)で、大極唯一禅師が旗本佐藤駿河守吉次の外護を得て、初祖山円成寺を創建し無相国師を勧請開山とした。後に、現在の妙法山正眼寺と改められ、弘化四年(1848)「雷雪澤」との異名をとった雪澤紹撲が無相国師遺徳すべく僧堂を開単された。「宗規厳峻、宗風大いに振るう」とされて、天下の鬼叢林正眼僧堂の源はここに発するという。

花園上皇は妙心寺発展する上での経済的基盤を確立し、関山慧玄の一流相承の禅寺となった。しかし、慧玄は必ずしも妙心寺にいることには心よしとはいかなかったようである。相対される夢窓疎石は嵯峨に足利尊氏の外護を受けて天龍寺を造立したが、関山慧玄は妙心寺の屋根破損の折り、高梨家の修理費出資の申し出を言下に断り、二度と妙心寺に来るな!と言ったという。関山が質素で枯淡な禅僧出であったことを伝える。

名聞利養に心を動かすことなく、専一に修禅を強調し枯淡な宗風を宣揚し、ただ一人の法嗣・授翁に関山禅の法脈継承を託すにとどまった。

「妙心寺の奥の院」とも称されて、宗制上でも由緒寺院の筆頭にあげられる正眼僧堂は代々力量のある師家を輩出し、先師谷耕月、そして現在は山川宗玄師へと続いている。
先日も代々師家の法要であったであろうか?一山出仕で法堂にての読経を聞く機会にめぐりあった。曹洞宗の読経は音階のなきが故に僧全ての声が重なって誠に美しく綺麗に聞こえていた。
















































 正眼僧堂の地図
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E137.0.38.740N35.30.5.570


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