悉地院  (しっちいん)  護国山悉地院    真言宗豊山派 
  

  滋賀県米原市伊吹町上野1番地







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近江で一際高い山と言えば伊吹山である、その連峰は湖北から美濃、越前へと続き、南は鈴鹿山脈へと連なる。そこには古くから伝わる伝説の数々が秘められていて、中でも大和武尊(ヤマトタケル)の悲劇は麓の人々が今も伝えられていた。

伊吹山は艾(もぐさ)だけではなく、薬草が自生していることでも有名で、織田信長や徳川幕府はその栽培に力を入れた。ことに信長はポルトガルからも輸入して植えたと伝え、麓の村では今でも製薬業が盛んであるという。

奈良時代、三修上人が山岳信仰の霊地を開いたのが伊吹山である。神が降りてきた磐座を仏教は逆に辿ったといえる。そして仏教は民衆の中へと浸透していったということとなる。
そして修験道の山伏たちが活躍するが、その成立について記しておくことにする。役の行者(役小角)に始まる山岳信仰は最澄、空海がもたらした密教と結びつき本地垂迹(ほんちすいじゃく)説という独特な理念を展開した。天竺、唐の仏が日本の神に姿を変えて人間を救うという説である。

多くの僧たちが寺院内で学問するにあきたらず山に籠って独自の修行と呪法を行うようになり野山を駆け回った。山に臥したことから山伏と呼ばれ、野武士(野臥)という言葉もそこから出たと言われる。
不動明王、蔵王権現のような忿怒像を祀り、深山での生活は自然と荒々しくなって、流浪の行者たちによって個々に行われていた山岳仏教が次第に形成されて十世紀頃には修験道と呼ばれるようになっていった。



伊吹山を開いた三修上人は観音寺、弥高寺、長尾寺、太平寺の四寺を建立し、その総称を「伊吹山寺(いぶきせんじ)」といった。盛時は三百数十坊が峰や谷を埋めていたという。この地方ももれなく信長が浅井氏を攻めたとき灰塵に帰したのである。

悉地院は古くは弥高護国寺と称し、役小角が開き修験の霊場として栄えた伊吹山の本地堂ともいうべき山岳信仰根本道場であったという。天武天皇(673年)以来勅願寺として朝廷の敬信を奉じ、天平神護中に白山より泰澄大師が入峰してより弥高百坊と称される程に発展したという。
後、行基、最澄、空海など先哲とこの山は仏教上実に関係が深いとする。

幸いにも悉地院ご住職さま安田頼盛師にお話を聞かせていただくことが出来ました。依れば、祖父がこの近隣の山内に檜など木々を植えたという。先年大きく育ったそれらを使って現在の本堂を建立できたということであった。またその折りの余材をもっていろいろと仏像を彫っているということである。その過程を克明に記しておられ後世に残していかれるという話など客殿より庭をみながらお話してくださいました。

そういえば駐車場から山門へあがる道すがらなどには、沢山の美しい花が咲き、縁には楽しそうな石像が迎えてくれたことを思いだした。































 寺の地図



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