齊年寺  (さいねんじ)  萬松山齊年寺 曹洞宗
  

  愛知県常滑市大野町9−139   







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名古屋市南部から知多に向かう道路、今は通称産業道路というが、戦後数十年程は白砂青松の地でもあった。今も所々左端に当時の防潮堤の残骸が残っていたりする。
広い道幅の道路も日長から新舞子へかかると少し狭くなってくる。そして大野に入ると小さな山に城が見えてくる、大野城である。

室町期の大野庄を治めていた一色氏の弱体によって庄の鎮定のため、武勇の称のあった小佐治城主(甲賀市甲賀町)佐治宗貞が後を受けて六万石大野城主となった。

大野城主二代佐治為貞は宗貞の菩提のため、青海山(常滑市青海町)山上の城内に寺を建立し、父の法名「齊年寿山」の名前をもって「齊年寺」と号し、父を敬い開基を宗貞とし、佐治家代々の位牌所としたのである。

天正十六年(1588)大野城焼失につき現在の地に易地して再び諸堂建立する。塔頭数坊あるも明治維新の際、何れも廃寺となった。現在は旧155号線、大野の町並みの中程に参道入り口、そして総門がある。十六羅漢像が安置されているという山門は一間四方二階欄干造り。 境内に入ると庚申堂、不動堂、鐘楼、観音堂、経堂など、そして本堂は壇信徒会館を兼ねて現代建築ではあるが、この寺はこの地方でも唯一国宝を持つことでも有名である。


『雪舟筆・達磨大師二祖慧可断臂図』紙本淡彩一幅である。

中央に達磨が描かれている、岩壁に向かって座禅を組んでいる。達磨は今座ったのではない、もう座って九年経ってしまった。その九年という歳月の重なった重さをどう表しているのか?

雪舟は衣をことさら薄い太い線で表した、ことに背後の線はあらゆる問いかけ、妥協をはねつけ、ひたすら不動と沈黙によって石になりきった九年の頑な心をありありと表現している。


無門関 第四十一則『達磨安心・だるまあんじん』

「達磨面壁。二祖立雪。断臂云、弟子心未安、乞師安心。磨云、将心来、与汝安。祖云、覓心了可得。磨云、為汝安心竟。」

達磨面壁す、二祖雪に立つ、臂を断って云く。「弟子は心未だ安からず乞う師安心せしめよ」磨云く「心を将(も)ち来たれ、汝が予めに安んぜん」祖云く、「心を覓(もと)むるに了(つい)に不可得なり」磨云く、「汝が為に安心し竟んぬ」

達磨は作品のほぼ中央に大きく座っている。これに対して慧可ははなれて背後にあり、位置もさがって顔が達磨の腰の高である。
東洋の画法では近いものは下方に、遠いものは小さく上方にとした。しかしここでは達磨に比して慧可は大きく描かれていない。ただ位置が下になっているだけである。達磨と慧可の距離をハッキリと断言できない、そうした表現はあやふやだといわねばならない。

しかし、私たちはこの作品を少しもあやふやとは感じない。何故かといえば、正確な位置づけを描いたのではなく、達磨と慧可の精神的な係わり合いを表現しているからである。
「慧可断臂図」のような作品を禅会図と呼ばれている。僧が悟りをひらいた時のありさまを絵にしたという意味である。
明応五年(1496)雪舟は晩年に大野の齊年寺に滞在して、心ゆくまで筆を振るったと思う。大野城主佐治為貞と心が通うところがあったのかもしれない。































 寺の地図
http://map.goo.ne.jp/map.php?MAP=E136.49.43.820N34.55.44.910


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