名古屋北東部・志段味線、現在はバスが市内大曽根からバスレーンを使って高架道路をスムーズに走っている。高架のバス停を降りて道路を横断すると坂道が待っている。右に「松洞山龍泉寺」の石碑がある、緑につつまれた緩やかな坂道を登っていくと龍泉寺の山門が見えてくる。名古屋市守山区、今は閑静な住宅街が広がる地域であるが、戦国時代にはこの辺り小牧長久手の戦いに戦渦となっていたのである。
家康が小幡城に入ったのを知った秀吉はこの龍泉寺に迎え撃つのであった。織田信雄が秀吉と単独講和を結ぶと、家康はここにいたっては講和を結ぶ以外にないと考えて次男を人質とし秀吉のもとに送り、和を結ぶのであった。秀吉軍が龍泉寺から退去する際、寺は火をかけられその建物は大半を焼失してしまうのだ。後、野田密蔵院の第二十九世秀純が再興したのである。
寺伝によれば、延暦14年(795)傳教大師最澄が熱田神宮に参籠中に籠神のお告げを受け、この地に赴いて多々羅池より出現した金銅製の馬頭観音像を本尊として寺堂を建立し安置したとことにはじまるという。
また、空海も熱田参籠の時、八剣宮の内三剣をこの地に埋納し熱田神宮の奥の院としたところからこの寺は伝教大師・弘法大師を開基としている。そして龍泉寺は尾張四観音の一つとして名古屋市民他憩いの地として親しまれ厄除け・祈願の寺として親しまれている。
ゆったりとした坂道をゆくと、まず眼にに入ってきたのが重要文化財にも指定されている仁王門である。三面一戸桜門入母屋造り杮葺きに脇侍として木彫金剛力士立像がまさに仁王立ちして迎えてくれる。
山門を一歩はいると左手に多宝塔がある。本来、大日如来像が祀ってあったというのだが長久手合戦の折焼失、慶長年間に復興され現在は阿弥陀如来が安置されるという。
本堂は明治四十四年再建されたというからまだ新しい、本尊は馬頭観世音菩薩を安置されており、古くから一般信徒の篤い信仰を集めている。
入場券(100円)を購入し、本堂裏手にある龍泉寺城・庭園・展望台とまわります。近年復元された龍泉寺城は宝物館として開放されており、鎌倉時代末期国重文の地蔵菩薩立像や同じく金銅仏阿弥陀如来坐像が展示されている。
円空はこの辺りにも現われて(延宝四年・1676年)千躰余の仏を彫り残している。中でも馬頭観音像は高さ112センチにものぼり、大きな頭上に馬の化仏をつけてつり上げた眼はは憤怒の形相と思われる。しかし大きな鼻やきれあがった大きな口、荒削りな彫り方に円空独特のユーモラスが感じられ、時に微笑をみせる姿に安心感をおぼえます。脇侍に天照皇大神と熱田大明神が彫られております。
龍泉寺最奥には展望台がしつらえており、そこからの眺望は眼下に庄内川が悠然と流れており、広大な濃尾平野を前にして左に養老山系、伊吹連山を見、手前にかの小牧山、岐阜の金華山が見える。右手には尾張富士といわれる本宮山を眺め、奥手には美濃の山々が背景となっていた。