長寿院  (ちょうじゅいん)  大洞弁才天   真言宗醍醐派  


 滋賀県彦根市古沢町1139







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井伊直政は彦根城を築くことなく死んだ。次代直継(後の直勝)が築くこととなったが、それは幕府の命によるものでもあった。家康は西国三十余カ国の諸大名の監視という重責を負わせるのであったが、とりわけ西国諸大名とはいっても長州毛利氏と薩摩の島津氏であった。

又いずれ、大阪城の秀頼を討つべく地を選ばせたのだが、井伊家の重臣達は彦根山(金亀山)として決めた。家康は築城を公儀普請として普請奉行三名を派遣しただけでなく、伊賀、伊勢、尾張、美濃、飛騨、若狭、越前の十二大名にも手伝わせたという。

明治維新の折、太政官令によって多くの城が壊されたのだが、伝えに拠れば、明治天皇がこの彦根城を見てその雅さに感心してぜひ残せということで残されたものだともいう。威儀を誇るというよりも湖畔にあって雅を感じさせる。この付近の佐和山城や観音寺城など在来の城郭を取り壊して一部を移したという近江建築の型かもしれない。


佐和山の北、大洞山という小さな丘といっていいほどの中腹に彦根城の鬼門として建立された真言宗の寺院であった。
私は龍譚寺の前を道なりに進み、寺院の裏手、寺務所側から入ったのであるが、市内からJR線を越して正面から入ると山門、総門から登ることとなる。急な石段を登ると総門にでるが、振り返ると門を額として彦根城が美しく収まって一幅の絵画でもあるようだ。

弁財天坐像を安置されている事から大洞弁財天とも呼び親しまれているという。日本三大弁財天だとも聞いた。

































 寺の地図



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