密蔵院  医王山薬師寺密蔵院

所在地・愛知県春日井市熊野町3133

密蔵院庫裏正面・暖冬のためかもう桜は咲いていた。



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国道19号線、春日井インター西交差点を南へ県道75号を熊野町まで来ると道の左側に密蔵院の案内板がありました。ここはJR中央線神領駅から20分くらいであると思われる。庄内川もこの辺りでは静かな流れとのんびりとした面持ちが漂ってきております。駐車場には参詣者と思われるのもなく3月も肌寒いこの季節としては当然なのか・・・。

最近までこの寺は荒れ寺として放置されていたそうで、現在の住職が寺内を整備されたということでした。現在の本堂は元来、名古屋城から徳川尾張藩主が参詣の折のご宿泊所だったというものだということです。庫裏の天井にはその折に使われたという駕籠が吊るされておりました。また正面には今東光和尚直筆の墨蹟「密蔵」が掲げられてあります。天台のお寺ですね。

この密蔵院の所在を考えると、庄内川という川のもつ交通手段を考えることが出来ます。名古屋城下や熱田神宮からこの庄内川を遡ると守山の右岸では竜泉寺、そしてまた遡ると左岸にこの密蔵院にでます。この先には高蔵寺や円福寺、さらに上流へいくと可児郡御嵩があります。こうしてこの庄内川を利用しての交流や文化の伝達が行われていったことは紛れもない事実でしょう。また寺関係者の話によれば、この地域一体は庄内川の氾濫や川水による地盤沈下がはげしいのだそうで、境内のあちらこちらで歩道の沈下や樹木の根が出てしまうということが見られます。





元三大師堂・比叡山中興の祖、慈恵大師良源を祀る彼岸中日のこの日、桜はご覧のとおり

慈妙上人が後伏見院の病平癒祈願の功績による密蔵院の勅額庫裏の屋根には煙り抜きが

多宝塔の前の楠の大樹春の陽をあびて、庫裏





天台宗延暦寺末中本寺格で、正しくは医王山薬師寺密蔵院という、密蔵院の院号は後伏見院より下賜されたものである。平安期、尾張天台宗の中枢として栄えた大山正福寺(小牧大山)が衰退した後、鎌倉末期における篠木荘内の天台宗の余脈を維持し、尾張天台宗復興の中心となった。

嘉暦3年(1328年)、慈妙(じみょう)上人が可児郡御嵩からこの地に来て開創、栄西の創始した葉上流の伝法灌頂を伝えた。これは篠木流ともいい、尾張にとどまらず、三河・信濃をはじめ遠くは播磨・出雲・肥後へも広まり、末寺は全国11ケ国七百余りに達したといわれる。密蔵院は僧たちの修行、位を受ける場として栄え、塔頭36坊、ここで修行した学侶は三千人を超えたといわれる。
慈妙上人入寂後も寺は栄えたが、戦国時代末衰退した。とくに織田信長の比叡山焼き討ちは地方の天台宗にも大きな影響を与え、密蔵院も例外ではなかった。しかし、江戸時代初期には伽藍が再興されるまでになった。『尾張名所図会』(大正8年刊)には当時の伽藍配置が描かれている。現在も残る中世の建物は多宝塔のみである。

密蔵院の指定文化財として、重要文化財2件、県指定文化財6件、市指定文化財21件がある。
重要文化財として建造物・密蔵院多宝塔(塔婆)と彫刻・木造薬師如来立像である。

慈妙による創建以来、天台宗の尾張における中核であり多様な文書も残っている。熱田神宮寺如法院、名古屋東照宮尊寿院(名古屋城三の丸に鎮座していた)ともに関係文書が存在している。徳川家康の宗教的顧問・珍祐は天海の高弟であり、元和五年(1619)尾張藩初代藩主徳川義直が名古屋に東照宮建立にあたり、仏法をもって祭祀を司る別当として赴任した。東照宮の別当所は後、神宮寺となった。比叡山の日増院と尾張の密蔵院を兼務した珍祐は衰退していた密蔵院を葉上流を再興し濃尾の天台寺院の統制をすすめた。


多宝塔

室町時代初期の建立、塔の構造は円形の胴体の上の正方形の屋根をあげ、胴体のまわりに裳階(もこし)をつけたもので禅宗様式を取り入れている。全体的に温和でおおらかな形態を持っている。昭和28年に解体修理され、昭和53年と平成14年に杮葺き屋根の葺き替えが行われた。


桜の木を傍に多宝塔が佇む


木造薬師如来立像

藤原時代の作、頭と胴を一体の材で作る割矧ぎ造りで素木で彫が浅い。顔は丸くふっくらとし、髪の生え際はやや上がり螺髪を彫り出し、額の真ん中に小さな丸い白毫をつけ、右手は曲げてあげ施無畏印を結ぶ。全身は衣でつつみ、そのひだは美しく裾のほうに流れている。


千手観音菩薩像 木造漆箔彫眼・像高190、平安時代前期

千手観音は全方位を見守る十一の顔と、総ての苦難から救済する千の手によって観音菩薩の功徳を最大限に表現し、密教伝来前から信仰されていた。実際には千本の腕を現す例は少なく、合掌した手と掌に眼を描いた四十本の脇手に省略される。
堂々たる十一面観音像の構造は頭体幹部の大略を一材から掘り出し、背面の臀部から膝辺りにかけて内彫りを施すが背中辺りでも内彫りをしている。このような構造と奥行きのある体部の造形や渦文を交えたにぎやかな翻波式衣文の表現などは平安前期一木彫成像の特色を示す。
本像はもと熱田神宮の神宮寺の如法院に伝来し、明治期の廃仏毀釈の際、本寺である密蔵院に移されたという。


地図参照は以下に

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