園城寺  (おんじょうじ)  長等山園城寺(三井寺)  天台宗寺門宗本山
  
滋賀県大津市園城寺町







昨年(平成19年)、友人の鈴木君が行ってみたいというのを時間がなくて通り過ごしてしまった。今回は尊敬する延暦寺飯室谷松禅院に住持される藤波源信阿闍梨にお会いしてからの帰り道、時間に余裕があったという、誠に鈴木君には申し訳ないような気持で参拝した。
坂本日吉馬場・律院前からは正面に琵琶湖が綺麗に見える。この日は五月晴れのいい天気である。観光客がそれぞれうっすらと汗をかきながらの散策を楽しんでいた。

目に入ってくるのが正面の仁王門(桜門)である、伏見城の桜門であったが家康がこの園城寺に移築したと伝える。本来は甲賀、今は湖南市常楽寺の山門であったのだという。このファイルでも紹介したあの常楽寺である。この寺はこれまで幾度とない法難に遭ってきているのだが、その都度、豊臣氏や徳川家の力で再興され、今に国宝、重要文化財、名園など貴重な寺宝を数多く伝えているのです。

その歴史は古く、天智・弘文・天武天皇の勅願により建立されて、「園城(おんじょう)」の勅額を拝し「長等山園城寺」と称したのだと言う。俗に「三井寺」と呼ばれるのは天智・天武。持統天皇の産湯に用いられたという霊泉があるというのから「御井(みい)の寺」と呼ばれるようになり、後に開祖智証大師円珍が当寺の厳儀・三部灌頂の法水に用いられたことに由来する。

その歴史は古く、天智・弘文・天武天皇の勅願により建立されて、「園城(おんじょう)」の勅額を拝し「長等山園城寺」と称したのだと言う。俗に「三井寺」と呼ばれるのは天智・天武。持統天皇の産湯に用いられたという霊泉があるというのから「御井(みい)の寺」と呼ばれるようになり、後に開祖智証大師円珍が当寺の厳儀・三部灌頂の法水に用いられたことに由来する。

釈迦堂杮葺きの屋根は美しく優雅に見える。室町初期の建築という、中世寺院の様式を今に伝えるものである。本尊に釈迦如来像を祀っていつも香のかほりを漂わせていますね。

生憎と金堂は葺き替えをしており優雅な美しさは見えなかったが、園城寺本尊である弥勒菩薩は秘仏として祭られている。まっすぐ道を進み、右に三重塔を見るところで唐院に向かうことにする。
開祖・智証大師円珍の廟所として静かにたたずんでいる。入唐求法の旅で持ち帰った法具・経典などを治めたことに由来するという唐院は三重塔、大師堂、灌頂堂、長日護摩堂を形成している。新緑のなかを静かに歩くのもこの時期しか味わうことのない贅沢でもあった。




















釈迦堂杮葺きの屋根は美しく優雅に見える。室町初期の建築という、中世寺院の様式を今に伝えるものである。本尊に釈迦如来像を祀っていつも香のかほりを漂わせていますね。

生憎と金堂は葺き替えをしており優雅な美しさは見えなかったが、園城寺本尊である弥勒菩薩は秘仏として祭られている。まっすぐ道を進み、右に三重塔を見るところで唐院に向かうことにする。
開祖・智証大師円珍の廟所として静かにたたずんでいる。入唐求法の旅で持ち帰った法具・経典などを治めたことに由来するという唐院は三重塔、大師堂、灌頂堂、長日護摩堂を形成している。新緑のなかを静かに歩くのもこの時期しか味わうことのない贅沢でもあった。

比叡の山は傳教大師最澄が寂すると、義真が天台宗初祖座主に就くこととなった。これが後に山門・寺門の騒動の原因となるのである。円珍はその義真の門にはいり弟子となるのである。
円仁と円珍が亡くなると比叡山上ではその門徒不和が表面化して確執がうまれてきたのである。のち、円珍門徒等は下山して比叡山千手院安置の智証大師像を三井寺唐院に移すのである。以後、この三井寺は山徒によって数度焼かれるのである。こうした騒動を最澄が知ったらどのように嘆くのだろうか。


そして、この三井寺は西国三十三ヵ所観音霊場の十四番札所ともなっているのだ。三室戸寺から岩間寺へ山越えして入った遍路は石山寺を廻ってこの三井寺までくるのである。この観音堂まで来ると眼下に雄大な琵琶湖を目にするのである。観音堂は元禄時代の創建というから三百年以上前の建物である。それはこの蔀戸(しとみど)などにも見られ、時代の凄さを感じさせるものでもある。























園城寺(三井寺)のホームページはhttp://www.shiga*miidera.or.jp/です。

園城寺(三井寺)への交通地図・寺内地図です。





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