永保寺    (えいほじ)   虎渓山 永保寺  臨済宗南禅寺派 


  岐阜県多治見市虎渓山町2−40







以下のボタンをクリックすると、残像を残しながら画像が切り替わります。








多治見市街地から車で十分ほどであろうか?長瀬山山麓に向かうと、右に虎渓山永保寺の石標が見える。JR中央線沿いの駐車場に車を止めて永保寺に歩いていく。もう11月も半ばなのだからか、この日は紅葉を楽しもうとする参詣者の方々で賑わっていた。消失した法堂・僧堂はまだ再建中である。それでも消失から免れた中央に位置するイチョウの木はまだ黄色を見せてはいなかった。

古くは古渓と称していたそうであるが、後に、中国廬山の虎渓に因み「虎渓山」と呼ぶようになったとか。廬山渓谷に似ているとする記述もあるが、開山夢窓祖石が渡航したという記録はないのだから・・・?しかし鎌倉建長寺中国僧一山一寧の下で行したということで、当時の廬山の禅風をこの虎渓山に求めていたのかもしれない。


永保寺開創は夢窓祖石、開山は元翁本元という、ここで夢窓祖石(夢窓国師)について記しておかねばならないであろう。
夢窓国師は1275年伊勢の国の生まれ、東大寺戒壇院にて受戒、密教・天台を学ぶも、建長寺一山一寧に師事し、以後五山の禅を発展させる。五山という呼び名は鎌倉・京都の格式の禅風と考えればいいのであろうか。

室町時代に於いて政権との結びつきを明確にしたのが五山派といわれる禅の教団である。
それに対して、五山官寺制度を根幹とする保護恩恵を受けることなく、地方に展開する教団が林下といわれた。要するに、中央的展開は五山、地方的展開は林下という構図である。

そんな中、日本禅宗史上の一転換期に大きく関わった人として後醍醐天皇・花園天皇という外護者と夢窓祖石(1275〜1351)、宗峰妙超(1282〜1336)という禅僧を上げることができる。二者は鎌倉禅界における天下の二甘露門と称された高峰顕日と南浦紹明の各々が輩出した二大禅者である。

夢窓祖石は仏光派として五山の指導権を握る。南浦紹明(大応国師)は大応派と称し、宗峰妙超(大燈国師)の大徳寺派、宗峰の法嗣・関山慧玄(無相国師)による妙心寺派は林下とした。
後、臨済宗系の林下教団にあって、重要な存在をなすのが大徳寺、妙心寺の両派であった。所謂、「応燈関の一流」と云われる臨済禅本流である。


夢窓祖石,宗峰妙超は五山と林下という各教団の形成発展するうえでその基礎を確立した。両者はわが国禅宗史上双璧をなす禅者でもある。なほ、この地方では井深正眼僧堂が関山慧玄(無相国師)妙心寺派の修行僧堂として、この虎渓僧堂と対峙している。

















































永保寺のホームページは http://www.kokei.or.jp/です。

 寺の地図



inserted by FC2 system