成菩提院  (じょうぼだいいん)寂照山円乗寺菩提院 天台宗 
  

  滋賀県米原市柏原1692   







以下のボタンをクリックすると、残像を残しながら画像が切り替わります。









関が原からJR東海道線に沿って進むと左手に不破関所跡がある。国道21号線から旧道(中山道)に入ることとしたが、「寝物語の里」で有名な長久寺村を見るためでもある。近江と美濃の境の宿で、両国の人々が壁ひと重を隔てて寝物語をしたという。

藤川という小さな川の右岸に「伊勢街道」の道標がある、壬申の乱には天武天皇がこの細い道を辿って来たのであろう…。またこのあたりの鬱蒼とした地形は度々合戦が行われたのも不思議でもない感じがするのは、あちらこちらに石墓や小さな祠を見たせいでもあろうか?。

長久寺集落に入ると、今は綺麗に整備された標はあった。私も司馬遼太郎氏に真似て国境の溝をまたいでみた。実にこの溝から近江の旅が始まるのかと思うと強い感慨を憶えるのだ。この溝をはさんで番所や旅籠があり、壁越に「寝ながら他国の人と語り合えた」ので寝物語の里とされるという。
そして、美濃は江戸方であり金本位制で小判何両というが、近江は上方経済で銀本位制であるから銀何匁となっていた。この長久寺集落では四軒は金本位であり二〇軒は銀本位制であったという不思議な村でもあったわけだ。要するに一時はこの溝を境に政治経済が分かれていたといっても過言ではない。


『正月も 美濃と近江や 閏月』松尾芭蕉の句碑だけが寂しく見えた。


柏原の駅近くの踏切をわたって北に進むと山裾に成菩提院があった。最澄が東国巡行の折に立ち寄り寺を開いたという。また柏原談義所と称し、中世には天台の学問寺であった。信長は1568年、室町幕府十五代将軍足利義昭を奉じて上洛の際、往路復路ともにこの寺に泊まったという。往時には64坊103人の僧がいたと記録されているそうだ。

柏原宿は中山道六十番目の宿場であり、中仙道の中でも比較的大きな宿場であった。本陣・脇本陣、問屋五軒、旅籠二十二軒という記録が残っている。各地で歴史的保存がなされているなかで、柏原宿はその歴史的遺産が生活のなかに息づいているのを感じるのは私だけか…。













































 寺の地図
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E136.24.11.680N35.20.40.430&ZM=8


inserted by FC2 system