神照寺 (しんしょうじ)  日出山神照寺    真言宗智山派 
  

  滋賀県長浜市新庄寺町323   







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奈良時代に三修上人は伊吹山を開いた。これは山岳信仰なのであるが、神が降りてきた磐座を仏教は逆にたどっていたことになる。伊吹山寺(いぶきせんじ)は一時三百数十の山坊が峰や谷を埋めてたともいう。しかしそれも織田信長が浅井氏を攻めたとき灰燼に帰したのである。

役(えん)の行者に始まる山岳信仰は空海・最澄がもたらした密教と結びつき、本地垂迹(ほんちすいじゃく)説という独特の理念を打ち立てるのである。天竺の仏が日本の神の姿に変えて人間を救うという説である。

多くの僧が寺院で学問するだけではあき足らず、山に籠って独自の修行と呪法を行うようになり、吉野から熊野にかけて大峰廻りがその中心ともなっていった。山野に臥したところから山伏(山臥)と呼ばれ、野武士(野臥)という言葉もそこから出たのである。

不動明王、蔵王権現のような憤怒像を祀り、深山の生活は自然と荒々しい性格を育てて、いわば流浪の行者達によって個々におこなわれていた山岳仏教が次第に形を整えたのは十世紀頃からで、以来、修験道と呼ばれるようになった。そして、太古から行われた山の神の信仰はあたかも一本の背筋のように日本の文化をつらぬき、多くの美術品や芸能を生む母体ともなったという。

背後に伊吹山をもつ長浜は豊臣秀吉が創った城下町でもある。併せて浄土真宗を湖北に根付かせた居地であり寺町でもある。

しかしこの神照寺は秋には可憐な花を咲かせて「萩の寺」として有名な真言宗の古刹であった。平安時代初期、宇多天皇の勅命を受けて本覚大師(益信)の創建、七堂伽藍一山寺坊三百を超えたとも謂われ、法燈は巨大な寺域有をする寺であった。 しかしながら天正元年、小谷城落城の折、織田勢により焼失したがと豊臣秀吉により寺領を安堵された。宝物館にその安堵状が開示されている…。

本地垂迹により明治の神仏分離令までは神仏一体であったという我が国独特の仏教であった。殊に、稲荷明神と真言宗とは密接な関係であり、空海が京都東寺在寺の折、稲荷明神が眷属をつれて同寺南大門にて休息されていたのを東寺に請じられて真言宗の守護神として祭祀されたといわれる。
神照寺にも伏見稲荷のご本尊ダキニ天が安置されていた。



























 寺の地図
http://link.maps.goo.ne.jp/map.php?MAP=E136.16.38.150N35.23.58.770&ZM=7


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