石塔寺  (いしどうじ)  阿育王山石塔寺  天台宗 
  

 滋賀県東近江市石塔町860   







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さざなみの 志賀の辛崎 幸くあれど
        大宮人の 舟待ちかねつ

さざなみの 志賀の大わだ 淀むとも
        昔の人にまたも 逢はめやも

さざなみは神楽浪、楽浪とも書き、小さな波の打ち寄せる風景が近江の地名の枕詞となったが、爽やかな楽(がく)の音(ね)が聞こえてくるようなひびきは琵琶の調べを想わせる。
  琵琶湖の名称ができたのはかなり後世で、琵琶の形に似ているところからおこったようだが、竹生島に弁才天を祀ったところからもあながち無関係ではないのかもしれない。
古墳時代、比叡、比良の周辺はいうに及ばず湖北の果てから湖南の平野の隅々まで大小様々な古墳群に埋まり、ところによっては今よりずっと拓けていたのではないか。

日本海を渡って北陸経由で移住した外来人は想像以上に多かったかとも思われる。五・六世紀頃から史上にもひんぱんに現れて、天智天皇時にはたくさんの百済人が日本に帰化し、湖南では大和に匹敵するほども文化をうちたてた。その中に石塔寺はある。
特に見事なのは、日本最大最古の三重石塔「阿育王塔・(あしょうかおうとう)」で、それは明らかに朝鮮の塔の形をしているが、柔らかな石肌の感触は日本古来のもので近江の風土がつくった一種の風化ではないか。韓国中西部扶余(ぷよ)にある長蝦里三重塔の写真を見たらこの石塔寺によく似ていた。それは朝鮮半島と日本との繋がりを思わせる。

近江の石造美術は独特なもので、多宝塔、宝筺印塔、五輪等そして石仏と数や美しさの上でも特筆されるのではないか?今回はこの石造美術をみる旅でもあった。


本来、聖徳太子が仏法興隆のためお産み四十八の寺院建立発願されて、その満願寺としてある、もとの名を本願成就寺と称したと言う。その後、比叡の僧寂照法師の言により時の一条天皇は七堂伽藍を建立して寺号を阿育王山石塔寺と改められたという。往時は八十余坊もいただく大伽藍を築き寺領も拡大したという。

この日は気候もよく、山門横からまっすぐに上がる石段を登るとうっすらと汗を感じと。吐く息も荒く、ふらついた足をかばうのも疎ましいほどに登りきって石造を見上げるとその神秘な偉大さをに驚いた。
鎌倉時代以後、極楽往生のため参拝の方々が先祖菩提弔いのため仏舎利塔である阿育王塔のまわりの霊域に石仏や五輪塔を奉納してきたといわれる。

















































 寺の地図
http://map.goo.ne.jp/mapb.php?MAP=E136.12.51.280N35.4.0.610


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