福寿寺 ( ふくじゅじ   )   岩蔵山福寿寺   黄檗宗  
  

  滋賀県近江八幡市馬渕町469  





 

近江八幡市南東,国道8号線を少し南に入ったところに千僧供という集落がある。いかにも…!という集落でもあるが、辺りは古墳群として知られる。かなり荒らされてはいるがそれでも鏡、水晶、刀剣、短甲、人物や動物の形象埴輪など出土されたということです
集落のはずれ、小さな墳墓らしきものがある。たかだか5・6m位のこんもりとした丘でもあるが二基の石塔が設えてあった。承元の法難によって処刑された二僧の墓である。

承元の法難(じょうげんのほうなん)とは、法然率いる吉水教団が既存の仏教教団(比叡山・興福寺など南都教団)より弾圧され、後鳥羽上皇によって専修念仏の停止(ちょうじ)と、法然門弟四名の死罪、法然と親鸞他中心的な門弟七名が流罪に処された事件である。
上皇が寵愛していた女官(松虫姫・鈴虫姫)が安楽上人に感化されて髪を落としてしまったのです。
安楽上人は京都六条河原で、住蓮上人は近江八幡馬渕にて共に処刑されてしまいました。そして法然は高齢にも関わらず讃岐に、親鸞は越後へと流罪されて行ったのです。


江戸期になって、地元の民はそんな安楽坊。住蓮坊の墓をこの古墳の上に建てたというのです。流石に浄土教の土地柄なんでしょうね。。

そんな馬渕の集落に200m足らずの岩倉山(巌蔵山)がある。麓には日野から綿向馬見岡神社が勧請されて鎮座している。その前を通って細い山道へと入ると整然とした境内が開けた。山腹までの道のあちらこちらには僧坊跡であろうか石垣が見られる。しっかりとした石積みは、古くから使われたという「長福寺みかげ」という石なのだそうで、この山で砕石された花崗岩である。

天長6年(829)淳和天皇勅願寺として建立と伝わるが、天台宗にもれず元亀の兵火によって古刹も灰塵と化し、以後小さな草庵として小堂を結んでいた。江戸時代に入って黄檗宗寺院として開創されている。

本堂と開山堂をつなぐ渡り廊下(通幽橋とも呼ばれる)の奥には県指定の庭園が見られる。 池の北寄りに中島を設け、二つの切石橋で対岸の山裾へ導く。橋を渡ったところに亀甲石と称する上面のふくらんだ大石を据える。池の浮石をはじめ、池の護岸などに巨石をふんだんに用い、山腹には岩が累々とあり、岩倉山中にふさわしい自然と人口の融和が見られる


馬渕の石工たちは、大阪城築城の際にも活躍し、それを示す桃山から江戸時代にかけての 「石工文書」が地元の恵比須講で保存され、供養塚古墳出土の短甲・刀剣も千僧供町で保管されている。


岩倉山中腹にあるため境内からは湖南、蒲生野を広く見渡せる。遠くは三上山から琵琶湖を隔てて比叡の山並みまでもが望むことができた。静かな時間を味わうことができる寺でもあった。





































































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