仏教とは何か



ブッダ誕生から現代宗教まで




仏教を考える上で、最も根源的な難問は、「仏教をどう生きるか」ということではないか。

現代、日本人にとってこの問いに答える事が焦眉の急務になっている。その難問に対処するには、まずブッダの人生と仏教の歴史を等分の視野におさめる必要がある。ひとり日本のみ繁栄を誇り、しかし今や、その生命力を枯渇させつつ自滅の道を突き進んでいる大乗仏教−日本の仏教を、ブッダ生誕の原点に立ちもどって検証する。





仏教思想の
     キーワード



空の理論とは


無我という意識


霊魂の存在観


宿業という考え方







日本仏教の個性




1・受容と変容


2・山岳信仰・浄土観・遺骨信仰


3・近世仏教の国民宗教化


4・心の探究と無私の仏教



民族宗教の背景




先祖崇拝ーその構造


墓信仰ーその歴史










歎異抄・抜粋

第十三章


故聖人のおほせには、卯毛羊毛のさきにゐるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずといふことなしとしるべしとさふらき。唯円坊はわがいふことをば信ずるかとおほせのさふらひしあひだ、さんさふらふとまうしさふらひしかば、…・…たとへばひとえお千人ころしてんや、しからば往生は一定すべしとおほせさふらひしきとき、おほせにてはさふらへども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼへずさふらふと、まうしてさっふらひしかば、さてはいかに親鸞がいふことを、たがふまじきとはいふぞと。これにてしるべし、なにごとも、こころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれどお一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人千人をころすこともあるべしと、おほせのさふらひしは、われらがこころのよきをばよしとpもひ、あしきことをばあしとおもひて願の不思議にてたすけたまふといふことを、しらざることをおほせのさふらひしなり。


ブッダの出現




青年シャカの苦悩

早朝の僧と庭 ルンビニーは、インドとほとんど国境を接するネパール側にある。一般にシャカは紀元前五世紀・もしくは六世紀に誕生したといわれる。結婚や出家の年代についても所説があり一定していない。ともかくも、成長ののち結婚して一子をもうけ、29歳の時家を出て、遍歴修行の生活を始めたらしい。

そして、35歳を迎えた時、ブッダガヤの菩提樹の下で瞑想にはいって悟りを開いたと言われている。ほぼ同時代に、中国では孔子と老子が活躍している。そしてそれから五世紀をへだてて、地中海東岸にナザレのイエスが登場する。
シャカの父は淨飯王(スッドダーナ)といい、地方の支配者である。共和制的なしていたといが、小規模な部族連合のような社会であったのかもしれない。シャカはそのような地域の首長のいえにうまれたのである。
淨飯王という名は、読んで字のごとく「淨い米飯」という意味である。一節によるとシャカの4人の弟達の名もみな「飯」(オーダナ)という語を含んでいると言う。
とすれば、それらの名称は、当時のシャカ族が稲作を行なっていたことを暗示していると思われ、仏教と稲作(農業社会)といったテーマがここから浮かび上がってくるからである。


「四門出遊」という問題がある。シャカの住む都には東西南北に四つの城門がるとされ、東の城門を出るとよろよろの老人がおり、南の城門では病人に出会い、西の城門をでれば死人の屍をみる。これは勿論伝説であろうが、シャカが人間の老・病・死という動かし難い事実に目を開かれ、その問題について思い悩むことは確かであり、のちに仏教では生・老・病・死について説くようになる。

このような人生観が青年シャカ(シッダルタ)の悩みと反省のなかから次第に形を整え始めるのである。そうしたシッダルタの姿を再現しているのが、よく知られている「半茄跏思惟像」である。台座に腰をおろし、左足を下にたらして右足を上げて組んでいる。そして右手の指を頬にあてて物思いにふけっている。

ところがこの半跏思惟像はやがて、出家するか思い悩む青年シッダルタのすがたを表したものであり、やがて未来のシャカを表している所から未来の仏として崇拝されるミロク(弥勒)菩薩と同一視されるようになった。


大陸の仏教が朝鮮半島をへて、日本に伝えられたのは六世紀のこととされる。「日本書紀」によれば、仏教の教えが仏像や経典、儀礼用具とともに渡来した仏像の多くはどうやら半跏思惟像であったようだ。悟りを開いたあとの釈迦像ではなく、悟りを開く前のシッダルタ像であったらしい。

周知のように、我が国の仏教の黎明は聖徳太子の名と結びついている。在家仏教の第一人者として仏教の摂取と消化に勤めた人物でもある。その太子ゆかりの寺である四天王寺や法隆寺に伝えられたのは単なる偶然ではあるまい。


シャカは結婚して、ラーフラという子供をもうけた。このkとは、その後のシャカの人生と仏教の発展を考えるうえで極めて重要な事だと思う。
知られるようにシャカは80年という長い人生を全うしている。長寿であったといってよいだろう。イエスキリストの30年に比べれば、とても比較するどころではない。孔子の72年、マホメットの62年に比べても、シャカの80年は一頭地ぬいている。

シャカが80年を生きたということは、変化に富んだ人生の起伏を生き抜いたということだろう。彼はたんなる清浄の聖者でったのではない。人間の欲望のありかに鋭い内省を加え、喜怒哀楽の波間に浮き沈みする人間の運命を、静かに見渡す余裕と眼力をそなえていた。そういう成熟したシャカが出現するうえで、彼の結婚と子供の誕生は貴重な体験となったのではないだろうか。

また、シャカの結婚体験が、その後の仏教の発展に与えた影響のことだ。仏教のとりわけシャカの仏教は、倫理的な性格きわめて強いといわれてきた。シャカ仏教は宗教であるよりは倫理に近いとまでいわれてきた。もう少し言えば、シャカ仏教においては禁欲的で神秘的な宗教体験を語るよりは、人倫の道にかんする教えがそれ以上に大きな役割をはたしてきたのではないかということだ。
いわば、シャカ仏教には、宗教と道徳の両者にあいかかわる広々とした視点があるということだ。


ブッダの自己

成道

家族を捨てて家を出たシャカはどこに行ったのか。始めから行き先が決まっていたのであろうか。シャカは確固たるあてもなく家を出てさまよいあるいていたと思う。後世、そのようなシャカ家出の事件を目して「解脱(げだつ)を求めての出家」といいならわすようになったが、しかしシャカにはその「解脱」というものがどういうものであるのか、まだわかっていなかったにちがいない。

家出をした後の歳月は、おそらく彼にとってはいばらの道であっただろう。さまざまの苦行者や修行者の群れに立ち交じって、同じ様な身心の訓練に励んだはずだ。その身心の訓練に疲れ果て、絶望にしずみ、希望に胸をふくらませる繰り返しの中で、孤独な遍歴の旅に出ていたのではないか。

苦行と侑行漂泊の生活を六年間続けたのである。自己に問いかけ、自己の身心を擬視しつづける六年間であったといってよい。
シャカはいつのまにか、くる日もくる日もその菩提樹のもとに身を寄せて瞑想にふけるようになった。中インドのマガタ国のガヤにあるその菩提樹の精気がシャカの疲れきった体を引き寄せたのかもしれない。

ある時、身心の純粋な透明感がかれの意識に蘇った。それを一体何とよんだらいいのか。言葉にならない「解脱」の時がやってきたのである。「悟り」の瞬間がこうして菩提樹の精気とともに身心を大きくおし包んだ。
成道(じょうどう)の瞬間であった。シャカがブッダに変容をとげたのである。俗人シャカが覚者ブッダへと転生をとげたのだといってもよいだろう。

やがて覚者となったブッダはガンジス川沿いにベナレスにおもむく。ベナレスの郊外に広がるサールナート(鹿野苑・ろくやおん)にいて、少数の修行者を相手に語り始める。こうして彼の周辺には、弟子たちが集まるようになった。ブッダの教えを聞く集団が生まれ、彼を中心とする新しい共同生活がはじまった。ブッダという一人の預言者とかれにひきつけられる少数の道を求めるもの達が、光点のような疑週凝集体をつくりだす。ブッダの体験をよりどころにする教えが形をなし、仏教が成立したのである。




ブッダの終焉

涅槃


ブッダの死を記述した経典に『大バリニッバーナ経』(大般涅槃経)がる。パリニッバーナとは死を意味し、「般涅槃」と漢字で音写する。

この経典には、八十歳になったブッダが最後の旅をして死に至るまでのことが克明に描かれている。中インドの王舎城を発ってバータリ村に出、そこからガンダキ川を北上してマッラ国のクシナーラにおもむき、その地で大往生をとげている。そのクシナーラからさらにガンダキ川沿いに北方を望むと、そのはるか彼方にブッダ生誕の地ルンビニーがみえてくるはずだ。
ブッダは自分がの死期を悟ったとき、誕生の地を訪れようと思ったのではないか。その最後の旅を、この『大バリニッバーナ経』は素朴な形で記述してある。たしょうの理想化や整理の爪あとをのこしながらも、記述の流れはまぎれもなくブッダの生き生きした人間の息遣いを伝えているのである。

その人間的な息遣いに関連して、三つのことについて焦点を上げてみたい。自分の死期をはっきり自覚し、それを予告していると言う事。死の直前になって一時的に食中毒の状態に陥り激しく苦しんでいる事。そして、いよいよ息をひきとる直前になって深まった瞑想の内容についてである。
これらはブッダの生涯の最後を特色づけるだけでなく、それはおそらく人間そのものの最後を象徴するに足る事件ではなかったかと思う。そこにはブッダにおける生と死と、そして夢のすべてがいわば凝縮された形で現れている。

八十歳になったブッダが、からだに苦痛を覚えて寿命の尽きるのを予感し、その三ヶ月の猶予をへてニルヴァーナにはいろうとしたことに注目したい。その歳後の三ヶ月に、いったい何をすべきか、−−出家してからすでに50年に及ぶ修行・伝道の生活が続いていた。その経験の中で、自分の身心の調整とコントロールについては細部に至るまで知り尽くしていたはずだ。これが人間としてのブッダから歴史上のブッダへと転生するための、最後の生死を分けるチャンスだったといえないだろうか。

次に、バーヴァーでは鍛冶工の子であるチェンダに出迎えられ、手厚い接待を受けることになった。そのとき出された料理がおいしい噛む食物と、柔らかな食物と、そして多くのきのこ料理であった。ところがその直後に、ブッダの体に激痛が走り、赤い血がほとばしり出た。そのはげしい下痢の中で、ブッダは気を落ちつかせ苦痛に耐えていた。ブッダはそれを毒と知ってきのこ料理を食べた。とするなら、そのチェンダの厚意にむくいようとしたブッダのやさしい心を表しているのだろうか。それとも三ヶ月の命と知って身心のコントロールに専念したブッダが、たまたまきのこ料理の毒によってバランスをうしない、最末期における生命の調整という仕事に困難を感じている苦しみを示しているのであろうか。

私はその両方を意味しているのではないだろうかと思う。ブッダの優しさと生命現象のままならなさが、八十歳の鍛えぬかれ練りぬかれたからだのなかに危うく同居していたのではないか。

そして最後に考えたいのが、入滅の直前におけるブッダの瞑想という問題である。最後の地クシナーラに辿りつき、ブッダはその地の人々や弟子たちに教えを説き、修行僧たちに語りかけ、やがてそのときを迎えることになった。


『大バリニッバーナ経』によると、その場面は次のようなものであった。


ブッダは瞑想に入り、初禅、第二禅、第三禅、第四禅へとすすんでいった。そしてさらに、空無辺処定、識無辺処定、無所有処定、非想非非想定をへて、滅想受定に入った。


これはブッダが瞑想に入って、それがしだいに深まっていく状態をいったものである。いうまでもないが、ブッダの死後の仏教徒がおこなったものである。ブッダ自身がそのような事を考えていたわけではない。そういう意味ではブッダの神話化にともなって、入滅の場面に後から挿入されたものといってよい。
それは仏教の瞑想に中身を定式化するために概念化されたものであり、やがて仏教におけるごとく一般的な瞑想理論として流通するようになるのである。

実を言うと、さきの『大バリニッバーナ経』において死を前にしたブッダは、自分の死後、遺骨の供養にかかずらうようなことをしてはいけない、ということをいっている。後に少し考えてもみるが、ひとこと付け加えておく。ブッダの死後、遺体は火葬に付されている。そのうえ、あとにのこされた骨灰は分配され、それをもとに仏舎利崇拝が生ずるようになった。遺骨の供養にかかわるなといったブッダの遺言を、弟子や信者たちが裏切り、その生前の意志をふみにじってしまったのである。
ブッダはそのことを、死の瞑想のなかですでに予感していたのではないだろうか。




ブッダ殺し

アーナンダの裏切り


今ブッダの涅槃の問題に触れて、ブッダの最後の遺言を弟子や信者たちが裏切ったということをのべた。しかし、考えるにブッダの教えを仏教徒が裏切ったということは、見方によっては仏教の歴史そのものが、ブッダの思想を裏切る歴史であったということがいえなくもない。そういう意味では仏教における裏切りという問題は、ブッダじだいのことだけではなく、まさに現下の問題でもあるといわなければならない。

日本の仏教に対する、また仏教徒に対する世間の批判がかしましい。今日の批判は批判として、仏教はもはや現代の困難な諸問題に有効な指針をあたえることができなくなっているのではないか。そしてそれらの問題に対して仏教徒はきちんと応答することもできなくなっているのではないか。非難や中傷をなげかけられるのも本当の原因はそこにあるのではないか。
今日地球上に発生しているそのような困難に、仏教は一体何を差出すことができるのか、どのような処方箋を書くことができるのか。

どれをとっても途方も無く巨大なそのような問題に対して、仏教が何事かをなしうると考えることの方が現実場慣れしているというようというべきである。(むろん事情は、名にも仏教に限らないはずだ、キリスト教でもイスラーム教でも、それと全く同じことがいえるはずだ。)


『そもそも仏教とはいったい何であるか』、以上のような事柄を考えるためにも、その根本の問題からはじめなければならない。
あえてひとくちで言えば、仏教とは、この「末法」の世においてますます光輝を発するはずの、余裕の哲学だったのではないか。この悲劇的な人生を眺望する、悠然たる倫理だったのではないかと思う。しかしながらむろん、現実の問題としていえば、その余裕の哲学、悠然たる倫理の岸辺に我々がたどり着くのは容易なことではない。

ここで現代の仏教考える糸口を探して見る事にする。
まず第一に唐突かもしれないが、仏教に対する仏教徒の「裏切り」という事柄である。換言すれば仏教の歴史は、ブッダの信仰と思想を裏切り続けることで発展してきたのではないだろうかということだ。その裏切りの内面を主体的に考察する事例が、これまではたしてあったのであろうか。皆無とまでいわなくとも、そのような試みは極めて微々たるもので、因みに言えば、仏教における裏切りは、同時に仏教における偽善の問題ともわかちがたく結びついているはずである。

それに対して、「仏教」を「仏教学」の呪縛から解き放て、ということだ。おそらくそれなしでは、仏教が真に社会化する途はないだろう。仏教が本当に現実的な力を持つ事はないだろう。
仏教の歴史はブッダの体験と思想を裏切ることをとおして発展してきたが、その歴史をいわば凝縮した形で保存してきたものが「仏教学」にほかならない。そして皮肉なことに、今日の日本におけるほとんどの仏教徒はこの「仏教徒」の洗礼を受け、その餌付けのままに裏切りの歴史を反復し、反芻しつづけている。仏教学の餌付けとは、換言すれば仏教教育ということになる。


まず第一に『仏教に対する仏教徒の裏切り』という問題である。このテーマが集中的な形で記されているのがほかならぬ『大バリニッバーナ教』(大般涅槃教)である。
いわゆる、古くから「悪魔との対話」といわれているくだりがある。悪魔がブッダとアーナンダに語りかけ、彼等の心のまどわす。それによって師と弟子のあいだにも亀裂がはしる。それは死を目前にしていたブッダの危機の状態をあらわすものであったろう。そして師を失うかもしれぬと考えるアーナンダの不安な気持ちを映しだすものでもあった。その不吉な影を経典の編集者はたまたま「悪魔」となづけたのではないだろうか。アーナンダは悪魔のまがまがしいささやきによって、ブッダのひそかなよびかけの声を無視して、ながく生き抜こうとしたブッダの言葉を聞き流して、その気持ちを裏切ってしまった。三度までも。

これはブッダの人生にとっても象徴的な出来事であるとともに、それ以後の仏教の歴史において重要な意味を持つものでもある。
ブッダ入滅後の仏教徒たちがほとんど例外なしに犯す事になった行為でもあるからだ。仏教の輝かしい歴史は、ブッダの考えもしなかった言説を後世の者たちがつみ重ねることで発展していった。裏切りは、ブッダの最愛の弟子であるアーナンダの言行の中にすでにひそんでいたのである。後の世の仏教徒たちは、そのアーナンダの生き方を継承したに過ぎない。


つぎに『大バリニッバーナ教』が提起する第二の問題が、ブッダの遺体の処理に関わる裏切りである。思えば、この裏切りは決定的であった。その後の仏教の運命を決定的にしたといってもよいからである。はたしてそのことについて、ブッダ自身は期がついていたのであろうか。この経典の最終尾にあたるところで、ブッダはほとんど遺言をのこすようなことをいっている。おそらく気になってしかたなかったのであろう。それは一体何であったのか。ブッダの次のような言葉をみてみよう。


『アーナンダよ。お前たちは修行完成者(ブッダ)の遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな。どうか、お前たちは、正しい目的のために努力せよ』


要するに、葬式と遺骨崇拝に心をわずらわせるな、といっている。遺骨を焼いて、その後で骨を拾ったり供養の対象にする必要はないとさとしている。なぜなら大事な事は「正しい目的」のために努力することだけだからだ……。
ぶっだの遺言は明瞭である。その一点の曇りもない言葉をアーナンダとて疑う事はなかったであろう、が、本当に心のそこから納得していたのだろうか。というのもそのブッダの遺言は裏切られ、その簡明な言葉を裏切るようなことが弟子や信者たちによって行なわれるようになる。その動きをアーナンダはおしとどめる事ができなかったのである。

ブッダの遺体は、入滅後七日たってから火葬に付された。それからさらに七日たってあとに残されたブッダの遺骨が八つに分配された。マガタ国王をはじめその地域周辺に住む八部族の要請があったからである。やがてかれらはそれぞれの地にストウーバ(搭)を作り、ブッダの遺骨を安置した。

こうしてブッダの遺骨に対する供養が始まった。搭に納められたブッダの遺骨、すなわち仏舎利にたいする崇拝が始まった。遺骨の供養を中心とする葬儀の原型がそのとき定まったといってもよいだろう。
だが、今述べたようにブッダ自身は、自分の遺骨の供養といったことにはいっさいかかずらうな、といいのこしていた。遺骨崇拝に走ることをかたく戒めていたのである。そのブッダの意志が一顧だにされず踏みにじられてしまった。ブッダの最後の言葉にもかかわらず、あとに残された者たちの願望が強かったということになるのだろう。仏陀にたいする尊敬の念がブッダの気持ちを押しつぶして、大きく膨らんでいったのである。

『大溌涅槃経』というテキスト自体がブッダの遺言を裏切ってしまうということは、しかしながら、その裏切りは、死にゆくブッダにたいする追慕と喪失感がそれほど強大であったという意味でも有る。
死は人々は不安と混乱の淵につきおとす。その無秩序からはいあがるために、ブッダの遺骨に執着し、それを分配して搭に納められずにはいられなかった。ブッダの遺言に反してまでも・…・事実はそう言う事ではなかったのではなかろうか。

アーナンダの裏切りによって仏教の歴史は始まり、そして今日のわれわれもまたそのようなアーナンダの徒として、仏教という一筋の縄にすがり付いているのである。
以後、アーナンダの徒はそのような死の荘厳と遺骨の崇拝を出発点として、仏教の歴史を動かしてきているのである。いまさら一体、誰がそのような仏教の運命から脱がれることができるというのか。われわれはアーナンダから出発するほかない。ブッダの言葉を聞き誤まったアーナンダの徒として生きていくほかない。
あえていえば仏教の伝統はそこを原点として形成されたのである。仏教はブッダ殺しによって歴史の一ページをふみだしたのである。



それでは、現代のアーナンダの徒は一体何をしたらいいのか、われわれのなすべきこととして一体何が残されているのか。その事について次に考えてみよう。


その第一は、いつでもどこでも人の死の間近かに立ち会って死者を見送る儀式、自信をもって執行するということである。アーナンダの徒がそれをせずして、いったいだれがするというのか。
今日、日本の仏教を批判して、葬式仏教と悪罵嘲笑をあびせる人の声は絶えることはない。しかし現実を見よ。日本の仏教が仏教として生き長らえてきたのは、まさにその死の儀礼を執行しつづけてきたからではないか。それのみか、忘れてならないのは、その葬式仏教は何も日本においてはじまったものではないということだ。それは実に、歴史上のブッダの死とともに始まった儀式なのであり、そのことを『大般涅槃経』というテキストはあますところなく示しているではないか。

ブッダは確かに葬儀の無効性を宣言した。しかし仏教徒たちはその遺言を裏切った。むろんそれは、ブッダをたんに否定するするために裏切ったことを意味するのではない。ブッダの遺言にもかかわらず、弱い人間の悲嘆と苦しみのなかで裏切ったのである。そのことによって仏教は、宗教として発展してための基礎をつくった。ブッダが死んで仏教が蘇ったのである。そこにいわばアーナンダの徒がブッダを裏切った歴史の必然性があった。

そういう意味ではブッダの最後を語る『大般涅槃経』がいかに重大な経典であるかということが明らかになるであろう。それは「法華経」、「阿弥陀教」よりまた、「大日教」、「華厳教」よりもいかに切実な経典である事が分るはずである。

そこには、ブッダの現実の死とその現実をありのままに受け取った仏弟子たちの赤裸々な姿が映しだされているからである。とすれば、今日の仏教徒にとって、この経典がさしだす「死」をめぐる啓示には尽きせぬメッセージが込められているといわなければならない。



第二の問題が死のテーマをめぐって、われわれの人生観が根本的な再考を求められているということである。仏教の人生観といえば誰でも知っているのが「生老病死」という言葉ではないだろうか。人間はこの世に生を享け、やがて年老い、病気になって死んでいく。そのライフサイクルの全体を一言にしていったものである。

今日、我々の社会は一挙に人生80年の時代に移行し、まさに史上はじめての高齢化社会を迎え様としている。人生50年時代の生老病死観とは異なった人生感覚がそこにはにじみでているのではないか。
そして奇しくも、この人生80年をベースにした生老病死観が80年を生きたブッダの人生観と対応する姿をみせているということに注目し、ブッダの人生が、こんにちのわれわれの社会において新しい光を帯びて顧みられるつつあるといってもよいのである。ブッダの「人生80年」の意味を、いまここに真剣に考えるときにきているのではないか。

現代のアーナンダの徒(僧侶および、在家仏教徒)がさしあたってなすべきことは、この人の後半に象徴される30年のライフステージに正面から立ち向かう事ではないか。老と、病と、死が凝縮されたその30年の生き方に対して、一つのモデルを差し出すことではないかと思う。

人生80年の時代に生きる現代人は、前半の50年までの勤労の時代から、あとの30年の脱労働の時代に入る。脱労働の中身はむしろ人によってそれぞれ異なるであろう。余暇の消化、趣味や旅への没頭、人生教育や社会教育への参加……そして療養と病院通いにあけくれる人々の数も増大するだろう。いずれにしてもそういう転換・移行の時節だ。いわば専門人から自然人への移行が実現されるライフステージであるといっていい。専門的な仕事によって社会的に認知されていた時代から、非専門的な生き方が価値あるものとされる全人格的な生き方が模索される時期への転換である。

アーナンダの徒は、一体何の為にこれまで社会的に無用者と貶視される境涯に甘んじてきたか、それはかれらの精神的基盤が、そもそも自然人的な生活感覚の中に置かれていたからである。かれらはそれらのような自然人的な生活感覚をただひたすらなぞって、今日まで生きてきたのではなかったのか。庭を持つ寺に住み、樹木の香りと野鳥の声に接し、頭を丸めたり読経したり、時に意味の良くわからぬ説法を繰り返してきた。なかには遊興にうつつをぬかすものもいたであろう。金銭崇拝の亡者になり観光事業に狂奔するものもいたであろう。
しかしながら、我が国の大部分のアーナンダの徒は、社会の冷たい視線に耐え何ほどかの良心の痛みを感じつつ、半ば自然人的で自由な生き方に恵まれてきた。そういうなかば特権階級ともいうべき境涯の中で、世俗的な仕事にも少しばかり手を出して飢えをしのいできた。

しかし気が付いて見たら、中と半端なものとしてもとにかく顧みられるような時代がやってきたのである。換言すれば、アーナンダの徒にのこされたこれからの仕事は、その無為有閑の生き方をさらに徹底させ、洗練させることことをおいてほかにはないということである。仏教の社会的、などという近代的な掛け声などにはけっして惑わされてはならないのだ。仏教には本来、社会的役割などというものはなかったということを想起しよう。「社会」にたいして世俗的に貢献する事がすなわち仏教の使命であると考えたのが、そもそも間違いだった。

むしろ無用の人生、無為の生き方についていっそう徹底した思いをこらすことにこそあるのではないか。悠然として遊び、余裕ある気品を身辺にただよわせて人生を眺望する、−−そういう成熟のライフステージの構想を打ち出すべき時がいまきているのである。
アーナンダの徒よ、今からでも遅くはない、「仏教の社会的役割」という熟縛から自由になれ。そのことをとおして、老いて病んで死んでいく人間に向かい、その過程をどう生きるかについて「無用者」のモデルを提供せよ。




俗人シャカと覚者ブッダ


「仏教学」からの自由

西明寺・本堂 以上の問題は、そのような末法の最末端につらなる今日の日本の状況である。知られるようにそこでは、神学的学説をまきちらす大学の仏教学がますます花盛りである。大学という陰湿な聖域によって囲いこまれた、無菌状態の仏教学の事だ。

今日アーナンダの徒の子弟の多くが、この大学の「仏教学」にはいっていく。。そして何年かの所定のコースを終えて社会に送り出されるころには、その全身「仏教学」に染まり、仏教学の観念遊戯のブロイラー教育を受け卒業し、生老病死の現場におくりだされる。ところが現実の光景は仏教の花園がいかに虚偽の幻想空間でしかないということを厭というほど知らされるところから始まる。

昔から、ブッダの言説を収録したものとして『スッタニパータ』というテキストが重視されてきた。「スッタ」は「たていと」「教」を意味とし、「ニパータ」は「集成」ということだ。あわせて「教の集成」となるが、要するに「ブッダのことば」ということである。
この「スッタニパータ」を読むと、ブッダがじつにさまざまなテーマについて発言している事がわかる。
すべての欲望と執着を捨て去れ、一切の苦悩を離れる為にものごとを正しく観察しなければならない。そしてその観察に二つがあり、一つは苦と苦の原因に付いての正しい観察、そして二つめが苦の消滅とそこに至る道についての正しい観察である。一般に四諦といわれている真理のことだ。苦・集・滅・道の四つの真理を悟れということである。


ついで無明と輪廻に関する教えがくる。われわれの生存は迷いのなかにある。その迷いの根本が無明ということだ。われわれはこの無明によって輪廻を繰り返してきた。だから無明に規定された根本の迷いから離脱する為に、さきの四諦を正しくしらなければならない。それはものごとがどのようにして生じてくるのか原理を知ることだ。縁起の理を知るといってもいい。

ブッダはいう。自我に固執することをやめ、世界を「空」と観察せよ。そうすれば死をのりこえることができるであろう、と。ふたたびいえば、無執着の功徳が説かれ、四諦八正道の思想が原型的な形で登場している。無明と輪廻の相関があきらかにされ、縁起・空の原理が提起されている。ブッダの仏教の全貌がそこにでそろっているといってよいだろう。ブッダのしそうを知る上で、この「スッタニパータ」がいかに重要なものであるのかここからも分る。

しかしながら、そこに一つの疑問が残る。それはそのようなブッダの教えの一つひとつの教えに近づくのに、いったいどうしたらよいのかという疑問である。この疑問に関しては「スッタニパータ」は必ずしも答えてはいないからである。

そこには確かに一切の執着を捨て去れ、ということをいっている。しかし、もしもそうであるなら、普通の人間はいったどうして一切の執着を捨て去る事ができるのか。同じようにそこには、正しい観察を行なえと教えている。苦と苦の原因の観察し、苦の消滅とそこにいたる道を観察せよ、という。むろんそのことは、それとしてよくわかる。しかし、それではいったいどうしたらそのような正しい観察がわれわれ凡人に可能になるのか。そこのところがわからない。そしてそのような疑問にたいして「スッタニパータ」はかならずしも答えてはいない。

「スッタニパータ」による縁起・空などという哲理になると、私などはもうお手上げである。いっさいは空であり、ものごとはみなあい寄り助け合って存在しているといわれれば、そうかもしれないと思う。しかしそれは所詮、理屈の上でのことではないか。
問題なのは、そうした理屈そのものにあるのではない。そのような真理に、われわれのようなふつうの人間がいったいどうしたら近づくことができるかということだ。四諦とか無執着という認識の境地に、いったいどうしたらたどりつくことが出きるのかということである。そこにいたるまでの手順といってもよい、生き方といってもよい。それは具体的にどういうものなのかということだ。その根本の問題が「スッタニパータ」には語られてはいない。

すなわち「スッタニパータ」という作品は、ブッダが最終的に到達した境地を弟子たちがそのまま記述したものであるということだ。ブッダによって完成された認識を客観的に述べた記念碑ともいえる。そこには苦しみ悩んだブッダの内心の軌跡ははじめから素とにおかれて、サッパリ洗い流されてしまっているということでもある。
しかしながらわれわれアーナンダの徒にとっては、その乱れる思索のあとや大きくゆれる感情の起伏こそが知りたいところではないか。要するにブッダの内心のドラマはそこでは隠蔽されているということだ。したがってブッダにおける内省と苦悩の軌跡は、弟子たち一人一人の解釈と理解に撒かせられているということになるであろう。
ブッダがさしだす真理認識にむかって一人一人が工夫をこらし、いろいろな経験をへて少しづつ近づいていくほかはないのである。ひょっとするとブッダは弟子たちに向って目標だけをさし示し、あとは各自工夫せよ、とかんがえていたのかもしれない。

ブッダの内心における葛藤と解決の道筋は、そもそも語られるべき性質のものではない。それは弟子の一人一人が自分の実人生において追体験すべきものであり、自分自身の生活の場で苦しみ、悩み、そして解決してゆくほかはないということだ。おそらくブッダはそう考えていたのではないだろうか。

ところが残念なことに、われわれの「仏教学」はそのブッダの問いかけに対して必ずしも答えては来なかった。

とすれば、あとに残された道は大学の仏教学の門を出たアーナンダの徒は、仏教学の熟縛からできうるかぎり自分を解放するしかほかないということだ。覚者ブッダの言説の網の目から脱して、俗人シャカがさ迷い歩いていたはずの世間へと転身していくことである。認識仏教の記憶から自由になって、実践仏教の空間へと裸身をさらすことである。
ただしその実践仏教にはどんな道しるべもなければ、如何なる方向指示も立てられてはいない。どんな解説書もマニュアルも手にすることができないことを肝に銘じなければならない。俗人シャカが荒野をあてどもなくさ迷い歩いたように、アーナンダの徒もとぼとぼ歩いていくほかはない。その彷徨・放浪のなかで唯一確かなことは、覚者ブッダの言説を、いったいどうしたらその真理の言説に近づくことが出きるかということを考えつづけることではないだろうか。

若きアーナンダの徒よ、大学の仏教学の門を出た後は、当の仏教学をあっさりと宇宙に放り投げたらよいのだ、僅か数年のあいだに体に染み込んだ仏教学の幻影にこだわる必要など毛頭ないのである。その幻影から真に開放された時、アーナンダの徒は俗人シャカが立っていたであろうスタートラインに初めて付くことができるにちがいない。

覚者ブッダから俗人シャカへと仏教の歴史をさかのぼっていくことーーそこにこそ現代に生きるアーナンダの徒の起死回生の道が横たわっているのではないだろうか。








仏教思想のキーワード



仏教はインドに発生し、中国や朝鮮そして東南アジアに伝えられて、日本莞もたらされた。仏教の基本はブッダの説いた教えとその体験に基づいているが、それは時代を超え、地域を越えて世界に広まった。仏教が今日まで生命を保って継承されてきたのは、ブッダの説いた教えがそのような世界性・普遍性を本来持っていたからである。
しかし反面で仏教は、そのような時代や地域を越えた普遍性を維持しつつも、時代とともに発展する事をやめず、異地域や異民族のあいだでどんどん新しい要素を吸収していった。その根本の教えに変化はなかったにしても、その展開の諸相にはじつにさまざまな観念や信仰が次々と付け加えられていったのであろう。
仏教はこうして、普遍的な原理と歴史的な変化の両面からとらえなければならないと思う。仏教が単なる教義や儀礼の枠を超えて、思想として理解されることの意味がそこにあるであろう。

これらの問題はまた、それを取り上げようとする視点の相違によっても多岐にわたる姿をそれぞれ示すはずである。ここではひとまず、空・無我・霊魂・宿業・瞑想といった五つの項目に限定して、仏教の思想の今日的意味をさぐってみることにしようと思う。





シャーニャとゼロ

「空」というのは、いうまでもなく仏教の根本問題でもある。空という原理を抜きにしては仏教そのものの本質を語る事はできないであろう。
空はサンスクリット語でシャーニャ(sunya)という。ここで同じシャーニャの語がインド数学ではゼロを意味することに注意しよう。インド数学のゼロがインドの哲学や仏教で説かれる空と同一の言葉によって表現されているのである。
このインド数学における記号としてのゼロは、たんに表現されえないクラスを表示しているにすぎないのであって、けっしてその非存在を支持しているのではない。 すなわちそれは、非存在=空虚そのものを意味するものではないのであって、数の体系のかなでゼロという一定の価値を表している存在なのである。

幾何学的図形におけるタテ軸とヨコ軸の座標が参考となるにちがいない。その二つの軸の凝集点にゼロが植えこまれているそれはタテ・ヨコ軸にそって展開する記号群を、その根源のところで支えている決定的な点である。
ゼロ記号としてのこの支点が存在しなければ、そもそもタテ軸もヨコ軸も成立しなくなるような決定的な原点なのである。

記号としてのゼロ=シャーニャは、いわば抽象的な形態や世界を指示するための象徴記号としての作用をはたしている。そしてそのような考え方がインド仏教の根底に流れていることを知っておきたい。
というのも、仏教における空は、たんに存在論的な空虚を意味するものではなかったからである。それはさきの数学上のゼロ記号がそうであったように、たんにあらゆる対象についての示差的な決定の欠如を合意しているだけだからである。それは、存在と非存在、あるいは客体と主体といった二元論的な構図のなかで、その一方を否定するようなことではないのである。


仏教でいう「法」には無常と常住、変化と永遠、消滅と持続といった二面性があるということがわかる。事物性と観念性の二つの領域が重層する構造になっているといってもいだろう。
そしてこのうち、「事物」の無常性、変化性、消滅性を強調して表現する時、仏教ではしばしば「色即是空」ということをいう。「色」は法または事物の別名であり、それが無常であることを「空」の語によって説明しているのである。

このように空は、法の事物としての無常、変化、消滅を指示しているのであるけれども、しかしそれはけっして法の「かた」としての常住、永遠、持続の観念までを否定した言葉であるのではない。それどころか法の空は、法の事物としての無常性をきわだたせることによって、かえって法の「かた」としての常住性を象徴的に暗示しているのだということができるのである。

諫言すれば、法の空は、いっさいの現象を否定的に説明する為の言表であるよりは、いっさいの現象を肯定的に説明するための象徴なのである。
いっさいの現象が有として存在するのは、空の構造においてはじめて可能になる、というむしろ順接の関係をいったものなのである。

空がいっさいの現象を肯定的に説明するための象徴であるといったのも、そういう意味においてなのである。それはたとえば、幾何学図形におけるタテ軸とヨコ軸において、その二つの軸が交わるゼロが存在するからこそ、タテ、ヨコ軸によってこうせいされる無限の数列が可能になるというのと、ちょうど同じ考え方を表しているといっていいだろう。



無我

心・識と無心・無私


「無我」というのは我の反対語である。我はサンスクリット語でatmanであるが、これは永遠に変化しない根源的なもの、独立的に存在する本質を意味し、また霊魂とか実在をあらわす。したがってそのような我の否定である無我(nir-atman)は、本質や実在の居否定、霊魂的なものや本体的なものの否定を意味することはいうまでもない。
人間のあり方には核となるもの、中心となるものがないといっているわけであるが、しかしそれはもちろん人間の心的作用までをすべて否定しようというのではない。

仏教では「我」に類似した概念として「心」(citta)、「識」(vijinana)、「意」(namas)というのがある。心と識と意は同一の概念であるとする立場もあるが、それら心、識、意の問題は我の問題を考える場合に参考になる。
無我ということをたんに抽象的な観念としてとらえるのではなく、具体的な身心のあり方として考える場合、以上の課題は避けて通る事ができない。

「心」は仏教では、一般に「色」すなわち物質的な存在に対立する精神作用として考えられている。すなわち人間についていえば、身体にたいする統一的な主体あるいは認識作用といった意味を持っている。この統一的な主体あるいは認識作用としての心は、もともと不純なものであって、真実の認識、真実の知からははるかに遠いものである。だから仏教では、そうした本来汚れたものである不純な心を転換し、昇華させなければならないと主張する。

インドの仏教が主張したのは、心には清らかな心と、不浄な心があるということであった。すなわち「清浄心(しょうじょうしん)」と「染汚心(せんなしん)」がるということであった。心の作用は浄心と不浄心の二つの領域に分ける事ができ、仏教の実践的目標は、このような不浄心を否定して、いかにして浄心の状態を実現するかというところにおかれていた。つまりここで主張されている事は心の否定ではなく、心の昇華であり心の浄化であったといわなければならない。そしてその点で、無我が我の否定によって成立するという考え方とは、いささかその論理的な筋道を異にしている。


くり返していえば我の否定によって無我が成立するように、心の否定によって無心が成立しているのではない。というのも、我は否定されるべき対象であるが、心は否定されるべき対象ではない。それは昇華され浄化されなければならない対象だかである。

これと同じことは、心の類縁語である「識」の場合にもいえるであろう。この識の問題を根本的に追及したのは周知のようにインド仏教の唯識学派であったが、それによると人間の認識作用には大別して三つの領域があるとされてきた。その第一の領域が人間の五感にもとづく認識である。第二の領域がそれを統括する意識作用である。そして第三にそれらの五感にもとづく認識作用や統一的な意識作用を根元のところで支えている深層の意識である。唯識学派では以上のうち第一の領域を「前六識」、第二領域を「末那識(まなしき)」、第三領域を「阿頼耶識(あらやしき)」と呼び、全部で八識の層を成していると説いている。


人間の意識の働きを表層と深層という区分によって性格づけようとしたものであるが、このような識(すなわち認識)作用を唯一絶対のものとする「唯識」の考えいは、「識」はよりすぐれたものになる、純化するという考え方と、表層・深層という区別なく「識」そのものは八識全部が汚れたものであるが、それが神秘的瞑想のある究極点で清浄な「識」に転位するという考え方がある。

しかしながらその両者とも、「識」にはそもそも清浄な識と清浄ならざる識があるとている点は共通する。「心」に浄心と不浄心があるように、「識」にも淨識と不淨識があるとされているのである。

インドの仏教ではこうして無我と浄心とはまさに表裏の関係にあるものであった。あるいは、無我と淨識は相互補完的な関係にあったといわなければならない。ところがこのような意味でのインドの「無我の仏教」は、日本仏教においては基本的なところで軌道修正をうけることになった。無我の観念が受容されることになたが、しかし、無我の内容に大きな変更が生じたのである。

何故なら日本では、無我の観念よりも「無心」の境地がしだいに価値あるものとされるなったからである。観念のレベルでは無我を説きつつも、日常的な意識や感覚のレベルでは心のわだかまりのない「無心」の状態が信仰心や宗教心の基礎を作るものと考えられるようになった。古くから神道では「清き明き心」ということを説いていたが、それが仏教の「心淨ければいっさい淨い」という思想と共鳴して、日本人の宗教意識の下地をつくっていた。


道元の例でいえば、彼は無我を説くよりもはるかに熱心に「心」の現象につよい関心をいだいたということにある。たとえば、「正法眼蔵」の「即心是仏」は、究極の場面で心がすなわち仏であることを説き明かそうとしているからである。そのほか、身心一如といい、心・技・体といい、心というものに対する伝統文化の根強い志向性も、そう言うところから来ているとかんがえられる。心は変化し、成長し、成熟する、という考え方がいつしか出来あがったのである。
それは換言すれば、いかにして「私」を無にして「対象」を全面的に受容するかという生活態度と深くかかわっている。私を無くするとということは無心になるということであり、それは「私」を「自然」に近づけることであるだろう。もっともよく自然に近づいた「私」が、自我を離れた無心の自己になるのである。この場合「無私」というのは心がないとことではないし、心を空にすることでもない。心が初心であり続けること、いつでも自然や他者と共鳴しつづけることのできる「無心」の状態になるということである。

もしも、インドの仏教を「無我の仏教」と称するとすれば、さしずめ日本の仏教は「無私・無心の仏教」として特徴づけることができるのではないか。




霊魂

1・中有・プトガラ・輪廻


仏教における霊魂の問題は輪廻(samsara)、中有(antara-bhaba/ちゅうゆう)、補特伽羅(pudgala/ブドガラ)の三つの鍵概念を手がかりにして考えることができる。

まず「輪廻」とは輪廻転生のことで、人間の運命は死にかわり生まれかわりをくりかえし、迷いの世界を巡ってとどまらないことをいう。
つぎに「中有」というのは、死の瞬間から次の世に生をうけるまでの中間的な時期をいい、いわば輪廻の一段階を指す。
最後に「補特伽羅」とは、身体・物質を意味するとともに我とか霊魂もしくは個人のことをいう。その意味は多義的であるが、上の輪廻とか中有との関係でいうと、生まれかわり死にかわる主体を指すことができる。

もしも人間にとって輪廻転生という運命が不可避であるとするなら、そこから解放される筋道が考えられたのも当然であった。それだ解脱の道である。輪廻と解脱の考えは相互補完的な関係にあり、そん両者の観念にもとづいてインド人の世界観や人生観がつくりだされた。さらにいえば、輪廻という現象は、解脱を体験した人間がその立場から現世について抱くイメージであり観念であったといっていい。

輪廻し解脱する当の主体はいったいどのようなものと考えられたのであろうか。それが先にのべたプトガラなのである。このプトガラについては生れ変わり死に変わる主体というように考える事もできれば、またそれは目に見えないものであるのだから霊魂的なものというように表現することもできる。
インドの哲学的思考はヒンズー教の場合でも、仏教の場合でも例外なく、このような迷いの世界すなわち無限の生死の状態からの解放を説いている。輪廻から解脱への転換の道を説いているのである。しかしやがて、その解脱する主体の意味についていろいろな見解が提出されるようになった。


仏教の基本的な立場は無我説にあるので、その考え方からすると、輪廻する主体や中有の状態にある霊魂(プトガラ)は否定されるべき対象であった。なぜなら仏教において、解脱というのはこのような主体(我)、もしくは霊魂的な存在(有)から自由になることを意味したからである。無我の立場によって、我と霊魂の存在を否定することになったからである。
論理的にはたしかにそうなのであるが、しかし実際にはことはそう単順には運ばれなかった。ブッダは霊魂の有無を論ずることの無益を説いたと伝えられるが、しかしのちの部派仏教(学派仏教)の時代にいたって輪廻の主体にかんする反省があらわれ、霊魂的な存在としてのプトガラを見とめる議論が登場した。

その中で説一切有部のようにプガトラを仮に存在するものと考える立場もあれば、教量部や正量部のようにその実在性を説く立場もあらわれたのである。
このような考えは仏教の無我説と矛盾するものであったが、しかし解脱を得たものの精神の内部に主体的なものの存在を想定することまでを、仏教の無我説を否定したわけではなかったことに注目しなければならない。

この精神の内部に存在する主体的なものは、やがてさらに内省を加えられて、大衆部によって説かれる「根本識」とか瑜伽行(唯識派)派によって説かれる「阿頼耶識」のような考え方を生み出していった。プトガラの作用の問題が識の作用の問題へと展開したのだといっていいだろう。

あるいは、輪廻し解脱する者の主体という課題が、心や識の働きとしてとらえられるようになったのである。プトガラは一面で物質的な性格を持つものとされたけれども、同時に識や心の作用とも密接な関連をもつ存在とされていたのである。


ここでもう一つ考えておかなければならないのは、インドでは、死後その人の遺体をガンジス川の岸辺で焼き、骨灰をガンジスの水に流すと魂が昇天するということを、ヒンズー教徒の大分部分が信じてきたということである。さきに述べた輪廻する主体(プトガラ)は生れ変わり死に変わり、無限に輪廻転生する霊魂的な存在であるが、それに対して火葬に付された死者の遺体からは、ガンジスの水にひたされた霊魂が一瞬にして昇天する。もしもそうであるとすると、インドでは輪廻転生をぅりかえす霊魂と火葬によって昇天する霊魂と二つの考え方があったということになる。

この二つの考え方は一見すると矛盾してるようにみえるが、実際にはそうではない。なぜなら死後昇天説は、ガンジスの聖水の浄化力によって霊魂の解脱を説いたものであるのに対して、輪廻転生説の方は、人間の死後の運命を観念的・哲学的にに秩序づけて再解釈をほどこしたものだからである。
そこに相違がみられるのは聖水信仰と哲学的考察のレベルでの違いであって、人間の死後において霊魂が身体から分離するという観念のレベルでは、その両者に何らの相違もみとめられない。


仏教における霊魂の問題は、わが国においても屈折した展開をみせた。仏教を受容した奈良時代の貴族層は、父母やや泣夫、亡妻のための仏事や法会をおこなったが、それは父母七生などの「先霊」を追善供養するためのものであった。盂蘭盆会仏誕会なども「亡霊」の鎮魂のためにおこなわれた。それまでの日本の伝統的祖霊観と新来の仏教の成仏観がしだいに重層していく傾向をみせた。

この重層化の過程は、とくに浄土教の浸透にともなって加速していくことになった。というのも、浄土教は仏教の諸流派のなかでも、人間の死後の運命についてもっとも包括的で体系的な考察を加えた流れであり、浄土に往生する主体の問題に重大な関心を示したからである。

そういうなかにあって平安時代の源信は、日本における浄土教を理論的にも実践的にも定着させた第一人者でった。彼は地獄と極楽についての記述で知られる「往生要集」を著わしたが、そこでは往生する人間の主体の問題、すなわち霊魂の問題はいっさいふれられてはいない。しかしながら、彼が比叡山で組織した二十五三昧会という念仏結社の綱領にいては、死後浄土に往生するのは死者の遺体から分離した霊魂であるということをはっきり明言している。著述のうえでは仏教の無我説に立って霊魂に言及することをさけていた源信は、現実の念仏者集団の死後儀礼においては、霊肉の分離と霊魂の浄土往生という考え方を主張していたのである。
以後、日本の仏教の大勢として、このような源信の構想を継承して行くことになったことを忘れるべきでない。


2・心的世界と霊的世界


仏教学や印度学のような学問の世界では、ブッダはもともと霊魂の有無の問題を解かなかった、ということが半ば定説となっているにかかわらず、現在の葬儀などでは「御霊前」「御冥福」という言葉が溢れている。こうしたことが日本の仏教会、仏教学会の全体がそうした具合になっいぇいるのではないだろうか。とすれば、少々大げさないい方になるかもしれないが、この問題にこだわってみるのは、日本人の宗教心そのものの根本について考えてみるということになるにちがいない。

以上のことを、たんに頭の中だけで整理してしまうと、仏教の理念と現実の日本人の信仰心とのあいだの矛盾ということになってしまう。仏教の理念が日本につたえられて変質したのだということになる。

だから、そのような歴史的な変化に反対する側からは、シャカ仏教の原点に帰れという主張がでてくるし、それにたいして歴史的発展を容認する現実派の側からは、そこにこそ日本仏教のユニークな特質があるのだという議論がでてくる。

しかしいずれの立場も究極的には浅薄なもので、そういう観点からみていたのでは、仏教の理解は日鎌羅内と思われる。そこには霊魂の存在を認めるか認めないか、といった類の単純な二元論だけであるからだ。だが現実の人間は、もっと豊かな多層的な生き方をしているのではないだろうか。

そもそも人間は誰であれ、霊的な要素と、精神や心に関心をむける要素が層をなして内臓されているのではないかと思う。つまり、普通に日常生活を送っている場合、我々はどちらかというと、心とか精神とかの働きとともに生きていると感じている。ところが、ひとたび生命の危機とか異常な事件に出会うと、突然霊感的なものにとらえられることがある。そもそも人間は、そういう二種類の経験が出きるようにつくられているのではないだろうか。

しかしながら実際問題として言えば、我々の前には霊感のまさっている人とそうでない人の区別が横たわっている。
霊感のある人というのは、霊界との交流を体験し、霊異の現象をみたりきいたりする。死者や死者霊の世界に鋭敏に反応する人といってもいい。
これに対して、心の働きに関心を持つ人は、心の中に自己の中心があり、それが人間とか自我を成り立たせていると考える。霊感の人が外に開かれた感受性をもっているとすれば、心を重視する人は内側の世界に注意深い視線をむけようとしている。


わが国の古代社会ではどちらかというと霊感のある人間が時代をリードし、とくに芸術や宗教の分野で大活躍したのではないだろうか。たとえば、空海や最澄がそうであった。とりわけ空海は宗教と芸術の世界で霊威あふれる仕事をした人物として記憶されなければならないだろう。

ところが古代から中世へと時代が移るにつれて、心の働きについて求心的に考えようとする態度がしだいに強まってくるように思う。鎌倉時代の仏教者達は、親鸞でも、道元でも、日蓮でもみんな心のあり方について深い洞察をめぐらし、その反省のあとを文章にしている。心の探究が宗教の重要課題になったのである。

よくよく考えてみると、現実の人間はこのように二つの要素を同時に抱えこんでいるというのが真相であろう。より深層に霊的な感覚が横たわり、その表層に心的なものへの感受性が重ねられているというのが実情ではないだろうか。

鎌倉時代の法然や親鸞、そして道元や日蓮はどちらかというと心的な活動を重視する仏教者であり、幕末維新期に新しい民衆宗教を始めた天理教の中山ミキや大本教の出口ナオは、むしろ霊的な活動に特性を示した宗教家だったのではないだろうか。深層と表層の二つの要素の調和、統合の程度が、それぞれ異なっていたのではないだろうかと思うのである。

ところで表層の心的世界は、深層の霊的世界を無視してひとり歩きをはじめるとき、荒涼たる自我信仰の泥沼に足をすくわれることになるだろう。同様にして、霊的信仰も心的世界の方向舵を見失う時、狂気じみた迷走を繰りかえすことになりかねない。
日本人の仏教は基本的に、このような深層の霊的世界と表層の心的世界の二つの要素に基づく宗教であったと思うのである。仏教式の葬儀の場でも、「ご霊前に」という言葉が自然に人々の口の端にのぼるのも至極当然のことであるといわなければならない。
しかしんがら、そういう日本人の仏教の二重構造を、いわば一面的な表層の面からだけ理解しゆとしたのが、明治以来の近代仏教であった。霊的な要素を排除し、もっぱら合理的にのみ理解しようとする大学の仏教学であった。



宿業


1・業・因果・カースト

仏教における「宿業」の問題を考察するためには業・因果・カーストという三つの軸を手がかりにする必要があるだろう。いうまでもなく業と因果というのは人生と世界を理解する為のキーワードであり、それに対してカーストは人間集団を階層別に腑分けするためのインドの社会制度である。
業はサンスクリット語のkarmanの訳で、行為、活動を意味する。仏教ではとくに身・口、意の業などという。これは身体的活動(身)、言語活動(口)、意識・表象活動(意)のことであり、合わせて三業ともいう。

この三業は人間の身心活動を機能的に分類したものであるが、さまざまな身心活動には、善いものと悪いものがあるというように、価値判断が下されるなった。それがすなわち善業と悪業である。人間の行為には善と悪を象徴するものがるということである。

それに対して、次ぎの「因果」というのは、いっさいこの世の現象には原因と結果が含まれているとみることである。時間的な関連でいえば原因があって結果が生じる。あるいは現在我々の目の前にみえる現象の背後には、目に見えない原因がひそんでいると考える。それを因果の理という。これは現象を構造的に把握する見方であるが、これに対して同じこの現象を価値的に整序すると、善の現象と悪の現象が存在することになり、その背後に善の原因と悪の原因があるからだと判断されるようになった。これを善因善果、悪因悪果という。そしてこの価値論的な因果の考え方が、さきの価値論的な業の考え方と結びついたとき、善業は善心によって生じ、悪業は悪心によって生じるという思考が生みだされれた。

しかしここで注意すべきことは、善因と悪因というのは決して固定的なものではなく、可変的な性格のものであったということである。不変の善因・悪因とかいうのではなく、それは条件や状況のいかんに応じていつでも変化するものであった。
特定の人間のある行為が、未来永劫に善業であったり、悪業であったりするような宿命論的な考え方ははじめから考えられていたわけではなかった。悪因ー善因、善因ー善果という価値づけはあくまで相対的なものであって、絶対的なものでhなかった。そのような相対的な認識を準備したのが、いわゆる仏教で主張される縁起説であったことはいうまでもない。

しかしやがて、現実のある特定の現象は過去の不可避の原因によって決定されているという考え方が強調されるようになった。過去のある原因が不可避なものであれば、当然現実の結果も不可避の運命として受容するほかないことになる。過去のある原因が可変的であり相対的なものであれば、現実の現象も変化し転換させることができるが、そういう機能的な因果論がそこまでは成立しなくなった。過去に作ったある業が、現実の生存と運命を変更の余地のないものとして呪縛する、という「宿業」という考え方が生じてきたのである。

このような考え方を仏教思想の中で体系化したのが、法相宗で説かれた「五性格別(ごしょうかくべつ)」の考え方である。これは、人間(衆生)にはそもそも先天的な資質が備わっていて、菩薩のような上位の聖者になれるもの、独覚(どくがく)や声聞(しょうもん)のような下位の聖者にとどまるもの、の五種類の人間が区別されているという考え方である。

端的にいって、仏になれる者となれない者が、先天的な資質によってすでに定まっているという決定論であるといっていい。このような思想は悉有仏性(一切のものに仏性がある)、悉皆成仏(一切のものが成仏する)を説く大乗仏教の本来の考え方とは矛盾するものであり、その克服をめざしてさまざまな反論や批判が提出された。

しかし、一闡提(いちせんだい)という、成仏する原因をまったく持たない人間の問題が最後に提起されることになり、五性格別に対する批判を容易に解決するにいたらなかった。一闡提というのはサンスクリット語でicchantikaといい、「欲求しつつある人間」を意味したが、それがのちに解脱の因wもたない「断善根」の者という意味に転じた。代表的な大乗経典はこの一闡提が救われるのか救われないのかをめぐって論争を展開したが、人間の資質と運命についての因果関連について明快にして最終的な結論を出す事に成功したとはいえなかった。

ここで我々は、これらの考え方のうちに、インドのカースト制度の反映が認められることを考慮しなければならない。
カーストの根本的な観念は、人間の身分や職業が生まれながらにして決まっていると考えるところにあるが、その中でも社会の最下層を占めるのが汚物や死体の処理にたずさわる不可触民であった。このカースト制度の考え方が仏教思想のなかにも浸透し、先の五性格別説のような考え方がうみだされた。

「宿業」という人間の資質と運命にかんする教説は、一方で業と因果に関する哲学的思考を内的な動因とし、他方カーストという社会制度を外在因として、しだいに形成されて言ったものと考えられる。

親鸞は『歎異抄』(第13章)のなかで、後に詳しく述べるが、人間の行為すべては「宿業」によって決定されているという意味のことを述べている。それは論理的には決定論や宿命輪に似ているけれども、もちろん親鸞の真意はそこにはなかった。

2・魂の殺人と闡提成仏


日本の仏教が「宿業」という言葉で人間の運命の極所をいいあてようとしたのと同様に、精神分析学は「教育」という言葉を手がかりにして、親から子供へと継承される家族の運命の、その究極の場面に光をあてようとしているのではないだろうか。

日本の宗教伝統のなかで、「宿業」といえばすぐに思い出されるのが親鸞の言葉である。あの『歎異抄』にでてくる考え方である。まずはその言葉にふれてみることにする。


『歎異抄』(十三章)を現代文に要約すると、以下のようになるであろう。
親鸞聖人はこういわれたことがある。われわれがつくる毛すじほどの小さな罪も、みな「宿業」によるものだ。またあるとき、唯円よ、お前は私の言うことを信じるか、といわれたので、もちろん信じますよと答えた。
すると、こういわれた。千人のひとを殺してみよ、そうすれば極楽往生間違いない。と。そこで、そんなことはとうていできることではありませんとお答えすると、それではこの親鸞のいうことを信じないことになるではないあか、と重ねていわれた。この問答をとおして、聖人がいわれようとしたことはこうである。

往生のためといういうことで、心のおもむくままに千人の人を殺すものはいるだろう。しかし、そういう「業縁」がはじめからない人間にとっては、いくら千人殺せといわれても一人も殺すことはかなわないものだ。それもこれも自分の心が善くて殺さないのではない。またたとえ殺すまいと思っていても、そいう「宿業」があれば百人でも千人でも殺してしまうのだ、と。……人間の善悪、心の善悪が、それじたいとして重要な問題なのではない。どんな人間でも阿弥陀如来が救いたもうということが肝心なのである…・

親鸞はこの文章の中で、人間の行為はすべては「宿業」、「宿縁」によって決定されているということを、たしかにいっている。
その言葉は表面的にみると、あるいは決定論や宿命論のようにみられるかもしれない。しかしながらもちろん、親鸞の真意はそこにはなかった。彼の説く「宿業」論は、論理的にいうと、現実を全面的に受容する態度を強調するところから出発している。それは現実への屈服でもなければ、現実生活への同化を意味するものではなかった。
我々の現実の人生を、その通りに全面的に受けいれようとするとき、善悪の基準をこえる彼方に信仰の冶湯が蘇ると親鸞は考えたのである。

大乗経典の多くは、「一闡提」の救済という問題について真剣な議論を重ねてきた。繰り返していえば一闡提というのはサンスクリット語でイッタンティカといい、「欲求しつつある人間」を意味したが、それがのちに解脱の因をもたない「断善根」の者という意味に転じた。
大乗仏教は、この断善根の一闡提(=極重の悪人)がはたして成仏することができるのかどうか、という深刻な問題を提起したのである。


この大乗仏教的な課題について親鸞が先の宿業論との関係でどのいうに考えていたのか、少し検討してみることにする。

親鸞の主著である『教行信証』全編のハイライトは、いうまでもなくその第三「信」の巻にある。彼の信仰の本質が、そこにはあますところなく展開されているからである。いま、その救済の論理や心情をここで詳述するページはないが、一言にしていえば、すべての人間は阿弥陀如来に帰依することによって浄土に生まれかわることができる、というにつきるであろう。

「信」巻はそのことを証明しようとして書かれた巻ふであるが、そこに例の一闡提のテーマが登場してくる。仏法を非難中傷し、父母を殺害するような極悪の悪人でも浄土において救済されるであるのか、という難問が提示されているのである。

『歎異抄』によってひろく知られているように、親鸞の根本的立場は「悪人こそ救われるのだ」(善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや)という悪人正機説にある。さきにひいた「卯毛羊毛」の「宿業」の問題も、この悪人正機説の思想と深いつながりがあることはいうまでもない。
だから親鸞が、上のような極重悪人を最終的に肯定しているのはまことに当然のことといわなければならない。

日本仏教の個性




1・受容と変容



仏教はこれまで述べたようにインドに発生し、中国、朝鮮半島を経由して、ほぼ六世紀には日本に伝えられた。インドの仏教はむろん東南アジアにも広まったが、この南方系統の仏教は日本には伝えられなかった。だから、日本における仏教の受容という問題を考える場合には、北方系統のるーとをによる伝播を主として検討することになる。

大陸経由による仏教の流入は、儒教や道教の伝播とともに連動していた。同時に、占星術や民族信仰などもそこに混入していたであろう。そういう文化や思想の流れが増大していくなかで、しだいに仏教が大きな役割をはたすようになった。国家や政治の世界に進出しただけではなく、経済や技術の分野でも新鮮な衝撃をあたえるようになったのである。

例えば我々は、七世紀はじめにおける聖徳太子の多面的な活躍や、奈良時代に東大寺の建立という大事業に取組んだ聖武天皇の事績を知っている。当時仏教は、国家建設という巨大プロジェクトを主導する思想的な支柱とされていたのである。


他方で仏教は、もちろん現実生活の平穏と死後の魂を救う教えを説くことで、人々の心をつかんだ。死者の供養や先祖の追善のために寺が建てられ、幸運と繁栄を祈るために仏像が祀られた。出家者としての僧尼の集団ができ、仏教経典についての研究とならんで救済や福祉のための社会活動の輪が広がっていった。
法隆寺などでおこなわれていた仏教の学問とならんで、我々は聖武天皇の時代に東大寺の建立にもかかわった行基の事蹟を知っている。彼は民衆を組織して、それを一つの宗教的エネルギーへとたかめたカリスマ的な宗教指導者であった。

このようにして仏教は、貴族や知識人の心をつつむとともに、民衆のあいだにも浸透していった。時代を超え地域を越えて、影響の規模が広がり、その思想的意義も深められていった。仏教の受容時代を経て、仏教の変容時代が始まったのである。その流れを全体として眺めれば、これまでの仏教史の常識は、たとえば奈良仏教、平安仏教、鎌倉仏教といったヨコ割りの枠組みでとらえようとしてきた。時代区分によって、それぞれの時代の特色を浮き彫りにし、受容と変容の度合いをはかろうとしたのである。
たとえば奈良仏教は外来宗教としての仏教の受容の段階、そして鎌倉仏教は仏教が完全に土着化=変容した段階、ととらえるような考え方がそれである。

こうした見方は日本仏教の『受容』と『変容』の問題をまだ十分にとらえきっていなのではないか、この時代区分の方法はそれなりの意味はあるとおもわれるが。 しかしそうした見方は現代を視野に入れて日本仏教をみわたそうとするとき、必ずしも有効ではないのではないか。
唐突に聞こえるかもしれないが、日本の宗教の流れは、15,6世紀を画期としてその前後に分けて考えるのが良いと考えられる。仏教の受容と変容という課題を検討する場合には、とりわけてそういう観点が要求されるのではないか。



ところでその15世紀を象徴するものは、いうまでもなく『応仁の乱』である。この時期に室町幕府の権威が失墜し、土一揆や徳政一揆が頻発した。それに有力な守護大名の勢力争いがからんで、天下を二分する大乱が起こった。京都が荒廃に帰し、荘園制の崩壊が急速に進むとともに、戦国大名の領国制が発展した。社会的秩序の根底が打ち砕かれ、衣食住にかかわる庶民の生活様式までが大きな影響を被ることになったのである。

社会的大変動をほとんど完璧な形で決定付けたのが、織田信長であった。かれは元亀二年(1571)に比叡山延暦寺を焼き討ちにして、伝統仏教の総本山を骨抜きにした。返す刀で、天正四年(1576)には石山本願寺に顕如を攻め、同八年に降伏させている。

信長は、比叡山を焼き討ちにすることで、仏教の権威と勢力に痛打を浴びせ、石山本願寺を叩くことで、一向一揆の息の根を止め、最大規模の民衆宗教運動を終息させた。この元亀・天正の二つの歴史的事件は、日本人の宗教に計り知ることのできない影響をあたえずにはおかなかった。
それは日本の仏教史を、まさに二分するに足るほどの大きな画期であったと思うのである。



2・山岳信仰・浄土観・遺骨信仰




それでは15・6世紀を転機として日本仏教はどのように変わったか?信長の反宗教戦争によってどのような地殻変動が生じたのか。その前に、15・6世紀までの前期仏教の流れと特質について考えておかねばならない。仏教の受容と変容にかかわる古代・中世的性格の検討であり、それが明らかにされて初めて、後期仏教の実態が明らかになってくるはずである。

日本人の仏教受容という課題に関して、まず考えておかなければならないのが次ぎの三つの問題であろう。すなわち山岳信仰・他界=浄土観・そして遺骨信仰である。これらの要因は古代から中世にかけて、日本人が外来宗教としての仏教を受容し咀嚼していくうえで大きな影響を与えた。いわば仏教の土着化において酵母のごとき働きをした文化風土的な条件であった。

日本列島を鳥瞰すれば、全域が森林と山岳に覆われていることが歴然とするだろう。それはまさに縄文的景観といってもよい。その自然的条件が日本人の精神生活の形成に影響を与えつづけたことをまずかんがえなければならない。

例えば『万葉集』におさめられている挽歌をみてみよう。挽歌とはいうまでもなく死者を悼しむ歌であるが、その挽歌の多くに於いて、死後、その亡者の魂が山の上に漂いゆくことが謳われている。まずもって山は死者の霊魂が昇る異界であったのだ。ついで『古事記』や『日本書紀』の天孫降臨の条をみればわかることだが、天界のニニギノミコトは日向の高千穂の峰に降りたっている。つまり山頂は、天上の神々が地下に降下するときの最初の上陸地点であったわけである。

同じ『万葉集』の長歌の一つに富士山を謳ったものがあり、雪降りしきる中に屹立する霊峰の雄姿を写し取ったものだが、そのなかに「不二の山」は高く貴く、そして「神さびた」山であるといっている一節がある。「神さびた」というのは「神のごとく振舞う」という意味の古語であるが、ここには「山」そのものが「神」であるとの信仰が息づいている。

これを要するに古代世界においては、「山岳」とはまずもって死者の昇る霊地であり、天上の神が天降る聖地であり、そしてそれが最後にそれ自体が神体山として崇拝の対象とされる異界であった。



それでは他界=浄土観というのはどういうことか。
仏教の日本的受容ということを考える上で、これは最重要の課題となるのではないかと思われる。インドの仏教において、人間の死後の運命について深く反省したのではいうまでもなく、浄土思想であった。その結果、人間が死後に再生すべき理想的国土としての「浄土」が考えられてきたのであるが、それは「西方十万億土」の彼方に存在すると考えられた。西方の途方もなく遠い彼方にあるというところから「十万億土」という表現が撰ばれたのであろう。

しかしながらこの「浄土」観は日本に伝えられるやいなや、たちまち変質をとげるようにことになった。「十万億土」という観念的とも形而上学的ともうけとれる抽象浄土に修正のノミを加え、浄土は我々の生活圏をとりまく山中にこそある、という読み替えがおこなわれたのである。抽象的な西方充満億土の浄土観がより一層素朴で実在感のある山中浄土観にとって代られたのである。

そのような読み替えの背景に、先に述べたような山岳信仰の伝統があったことはいうまでもない。死者霊の昇る霊山がそのまま、浄土教によって持ちこまれた浄土と観念されるようになったのである。
中世期に制作されたさまざまな阿弥陀来迎図のすべてにおいて、阿弥陀如来は画面いぱいに広がる山の頂から雲にのって地上に降下し、臨終の人を浄土に迎えようとしている。阿弥陀如来は十万億土の彼方から来迎するのではなく、目に見える山岳から来迎してくるのである。<>BR インド仏教に対して、日本仏教が決定的な改変の爪跡を加えたまたとない好例であるといっていいであろう。



そして最後に、遺骨信仰という問題がくる。 仏教における遺骨信仰といえば、すぐにでも仏舎利信仰が思い起こされるが、いうまでもなくこれは例外的な現象であった。いんどのヒンズー教徒は今日でもなほ、人の死んだあと、これを焼却して川に流し、墓をつくらない。遺骨を保存して祭祀の対象にすることをしないのである。そういう点からすれば、インドにおいてなぜ仏舎利(仏陀の遺骨)だけが例外的に祭祀の対象とされたのかという疑問は残る。

それが仏教の伝来とともに日本にも伝わった。しかしこの仏舎利信仰は、その後に発展する日本人の一般的な遺骨信仰とは直接には繋がらなかったのではないか。
概括的なことをいえば、第一に縄文、弥生、古墳の各時期において、特定の遺骨を保存して祀っていたという痕跡を見出す事はできない。事情は仏教が伝えられてからもかわらなかったし、奈良から平安初期にかけてもそのような徴候は発見されていない。『万葉集』の挽歌においても、人々の関心はもっぱら死後の霊魂の行方であって、あとに残された遺骸や遺骨に向けられる事はまったくなかった。

ところが自体は10〜11世紀の時期にかけて一変する。何故ならこの頃を画期としてまず天皇・貴族の遺骨を寺院に奉安してまつることがはじめられ、やがてこの遺骨の一部を高野山に納める習慣がまたたくあいだに一般に広がっていったからである。その背景に、浄土教の普及が大きく作用していたことをあげなければならない。10世紀を機に、比叡山では源信や空也の活躍によって浄土信仰が朝野に広まった。とりわけ空也のような念仏運動のうねりがやがて高野山に及び、この真言密教のセンターにおいても念仏の声が全山を覆うようになったのである。

高野山の下級僧であった高野聖たちが村から町へ、町から里へと勧進の旅に出た。死者の遺族を訪れ、亡者の遺骨の一部を高野山に納めれば、浄土往生間違いなしと説いて回ったのである。高野山納骨の風がこうして日々との心をとらえ、それがまたたくうちに地域を越え、宗派の垣根を越えて広がって行った。。そしてこの納骨習慣は、近世にいたって寺壇制度に汲み入れられ、寺と墓所の綿密なネットワークをつくりあげる上で重要な役割を果たすようになったのである。

再び山岳信仰の伝統をだすまでもなく、具体的にいえば、死者の霊は山に登るという命題である。このいわば古代的な信仰に、山中納骨という具体的な新習慣が投ぜられることになった。死者の遺骸の一部を山上に納めることによって、その遺骨はすでに浄土としての山上に昇っていた霊魂と再会をはたす。山中における浄土往生が、魂と骨の合体によって実現されるというコスモロジーが成立したのである。

以上、日本人の仏教における受容について考察する場合、三つの要件すなわち、山岳信仰・他界=浄土観・遺骨信仰、この三つの要件が日本人の仏教を形成するうえで需要な方向づけしたということを指摘した。
さらにいえば、平安時代の最澄や空海の仏教思想も、歴史的には以上の三つの要件によって限定され変容していった。その結果として天台宗が教団的な基礎を固め、真言密教が民衆のあいだに勢力を伸ばしていくことになった。同様にして鎌倉時代の法然や親鸞、道元や日蓮などの仏教思想も、これら三要件を抜きににしてはその後の歴史的展開において民衆の間に広がることはなかったであろう。


周知のように空海の密教は、それ自体の姿において理解され受け継がれていたのではない。それは何よりも弘法大師信仰という、空海に対する後世の神話化をとおして受容されていったのである。同様にして最澄の仏教にしても、その本来の価値やシステムを正統に理解するものの数は限られていた。それが一般に知られるようになったのは、第一に天台宗の密教化、そして第二に比叡山天台宗を母胎にして、後世多くの宗教運動が発生したこと、をとおしてなのである。

鎌倉仏教の法然や親鸞、道元や日蓮の仏教思想がそのままの形で民衆に伝わらなかったという点では最澄・空海と何ら変わることはない。彼等指導的仏教者たいの思想や信仰が、伝統仏教の停滞や世俗化を批判する「宗教改革的」な洞察を備えていたことはいうまでもないが、そのような批判や洞察を真に理解していたのは、彼等の周辺に集まる一握りの弟子やエリートたちであった。

法然・親鸞に発する念仏運動が一向一揆というかたちをとって民衆に支持されるようになるのは15世紀の蓮如(1415〜99)以降の事であり、道元、日蓮のまいた種が教団的発展という果実をつけるのもほぼおなじ頃であった。



十三世紀の親鸞の宗教思想は、国民思想の歴史的展開のもとではほとんど例外的ともいうべき突出した稀な現象であった、という。だからその宗教的思想はそのままの形では後世に受け継がれる事はありえなかったというのである。事情はむろん、たんに親鸞だけにとどまらない、それは程度の差こそあれ、道元や日蓮の場合にも当てはまるとみてよいだろう。



要するに鎌倉仏教の担い手たちは、いずれも知識人的宗教という性格を濃厚に保持していたということである。かれらの宗教思想はいまだ民衆化・大衆化の契機を十分につかんでいたとはいいがたい。世に受け入れられることのない突出したカリスマと、かれをとりまく少数のエリート信者の結合というのが、その偽らざる姿であった。これまでの仏教史の常識は、鎌倉仏教における「民衆性」という契機をあまりにも過大評価してきたのではないだろうか。

そうした仏教の流れに対して、他方に仏教の真の意味における土着化の傾向が途絶えることなく静かに進行していた。それが先にみたように、外来宗教としての仏教と山岳信仰との融合、そしてその結果としての山中浄土観や遺骨信仰の形成というもう一つの重要な底流であった。

この第二の流れは、なるほど先に述べたエリート仏教の第一の流れのようには自覚的なものではなく、自立的なものでもなかった。そのうえもちろんダイナミックな思想闘争を展開したわけでもなかった。しかしながら、この伏流は次第に民主の心をつかみ、かれらの生活様式すら左右するような浸透性を示すことになった。第二の流れがさきの知識人仏教の流れと並行しつつ、やがてこれと交錯し融合する勢いを示すようになったのである。法然や親鸞の民衆化と、道元や日蓮の大衆化のじだいがやって来たといってもいい。



3・近世仏教の国民宗教化


この十五・一六世紀を画期としてその後に展開する仏教はどのような変容をとげたのであろうか。いわゆる、日本における後期・仏教の問題である。
いいかえれば、織田信長の徹底した反宗教戦争を介して、日本人の宗教にいったいどのような地殻変動がおこったのかという事である。

第一に、日本における伝統的宗教は、神道と仏教、それに民族宗教を加えた三者が相互に影響し合って発展した。そしてそれらがやがて「一つの宗教」として民衆のあいだに普及・定着したのが十五・六世紀、すなわち室町・戦国時代ではなかったか。仏教頭と神道が民間に浸透して「国民的宗教」が出来あがったというのである。

この時代には、豊臣政権ー江戸幕府の強大な勢力を中心として、全体として一つの統一国家が形成されてた。社会秩序の面からいうと、士農工商の身分制度ができあがり、それが全国的規模に広がって「国民」とよぶべきものが成立したと考えてもよい。

第二が、仏教と神道における「国民化」の実状の問題である。これまでの議論との関連でいえば、日本における仏教受容の新展開が中心テーマとなるわけだ。まず仏教についていえば一般に死者は仏式によって葬られ供養をうけるが、この方式が身分や地域の差を越えてほぼ全国的におこなわれるようになった。このような死者をめぐる仏教儀式は、その死者の属する「家」と、その家を保護者(すなわち檀那)とする菩提寺の関係(寺檀関係)に支えられていた。

それではこれに対して、神道の側はどうであったか。仏教は主として「個人としての死者」に関係していたが、対して「集団としての地域社会」と密着して発展したのが神社を中心とする神信仰であった。皇室における伊勢神宮、徳川将軍家における日光東照宮の場合と同様に、庶民もそれぞれの村や町で地縁的結合の中心をなす神社を持っていた。そしてこれらの神社は、地域社会に住む人々の共通の氏神であると同時に祖先神でもあった。このように神信仰にも仏教の場合と同様、身分の区別をこえた普遍的な性格がみられるのである。

第三が、「家」の一般的形成という問題である。近世の社会が、武士も町民も百姓も、それぞれに「家」を単位として構成されていたことは周知のことだ。この「家」を中心とする社会組織が近世の新しい国家体制を支える基盤となったと考えられる。そしてこの個人・家レベルにおける平等性や普遍性の意識を醸成するうえで重要な役割をはたしたのが、先述の民族宗教であった。死者儀礼や地域の祭礼・行事を、長い時間かけて育てた文化的母胎がそれであった。


以上三つの要点、くり返しいうならば、第一が一五・六世紀を画期として日本の社会にはじめて「国民的宗教」が形成される条件が整ったとする論点である。第二が、個人のレベルにかかわる仏教信仰と共同体のレベルにかかわる神信仰が「個人」と「家」をとおしてしだいに平等性と普遍性を獲得していったとする考え方である。そして第三が、「家」の形成と「国民的宗教」の成立に関する関連性の問題であった。

ところがこれまでの仏教史の常識は、以上にみられたような面にはほとんど注意をむけることがなかった。すくなくともそうした側面を、価値の劣る第二義的な特色として切り捨てた。そうした場合、仏教の本来の使命の精神的救済にあり、死者儀礼を中心とする「葬式仏教」にはないという主張がくりかえされてきたのである。

仏教思想史のうえのこととしていえば、平安時代の空海や最澄が果たした役割は巨大である。鎌倉仏教の法然や親鸞、道元、日蓮がやりとげた仕事の価値は量り知ることが出来ないほど高い。しkしっそれにもかかわらず、彼等の思想や信仰は、そのままの原型を留めて後世に受け継がれてきたほとんどなかったのである。
いわゆる民族信仰のさまざまな潮流に洗われて変質をとげていった。とりわけ十五・六世紀を画期として、以上に述べたような土着化すなわち「国民的宗教」への脱皮と変貌をとげていったのである。
もしそういうことがなかったとしたならば、最澄や空海はもちろんのこと、法然、親鸞、道元、日蓮の名すら後世に知られることはなかったであろう。

以上、近世における仏教が「国民的宗教化」の過程で、とりわけ個人としての死者の運命に深く関わるようになったことを述べてきた。
日本の仏教の変容が、死者儀礼との関連の中で進行していった状況に注意を喚起したのである。


竹田聴州の論文「近世社会と仏教」には近世仏教の形成過程とその特色が、興味ある事例分析を基として再現されている。
その調査報告によれば、直接に調査した浄土宗の場合、今日に残る浄土宗の寺院のほとんどは、十五・六世紀のわずか200年間に創設されたものだという。そのうえ浄土宗以外の諸宗派の場合においても同様の結果が示されたと竹田は言っている。

ついで、この時期に創設された寺院には二つのタイプがあったとして、次のようにいっている。
一つは、地域の有力者(領主や武士的農民)が、その家の祖先祭祀のために屋敷内に設けた持仏堂、もう一つが、地域の住民が宗教的な集会をおこなうためにつくった惣堂、である。この二つの「堂」にそれぞれ僧侶が定住するようになったとき「寺」が誕生した。僧侶の所属宗派によって寺の宗派が決まり、その宗派の本山の末寺となることで「本末関係」が結ばれた。

この寺は葬式を司る菩提寺として機能し、死者の墓を併設するようになっていった。これまで寺に墓が付設される場合と、墓地に寺が設置される場合があったが、実質的には寺と墓はほとんど「同義的存在」であったと竹田はいう。先の「国民的宗教」のレベルで言えば、寺の創設がすなわち普遍的な形で民間に定着することになったといってよいだろう。

近世における仏教の国民化が、庶民による墓の一般的受容と不可分の関係にあったという事実は重要であるそれは今日の日本仏教の命運を占う上であいもかわらず最重要の指標であるにちがいない。とするならば、広範な墓システムの浸透こそは、日本仏教の変容を示すシンボルであり、これからの「葬式仏教」の行方を占う物的基盤であるといわなければならない。

古代日本の社会では、古墳のようなわずかな例を除き、死者を遺棄するするのが一般であった。古代から中世にかけて若干の例を除き、死体は山野や河原・海浜などに棄てられてきたのである。
ところがほぼ十世紀ごろを境にし、主として浄土教の民間への浸透にともない、死者の霊魂は阿弥陀如来の浄土やその他の仏の世界に赴くと信じられるようになった。そのような浄土ははじめ、高野山などの山中浄土や、海上はるか彼方の観音浄土として考えらていたが、近世にいたって大量の寺が創設されるにおよび、その寺に付属する墓地が山地とともに霊魂の赴く霊地とされるようになったのである。

そこから、死者を「ホトケ」と呼ぶ風習が成立した。なぜならば死者の霊魂は浄土としての山地や墓地に赴くものと観念されるようになったからである。ホトケというのはインドの仏教では本来悟りを開いた「ブッダ」を意味したが、日本人はこのホトケを死者もしくは死者の霊魂と解釈したのである。死者をホトケの地位につけることで、救済しようとしたのである。そのことをとおして、あとに残された者は人生の慰めをえたのだといってよい。近世における葬式仏教の根本に、そのような救済と機能が横たわっていたことに注意しなければならない。



4・心の探究と無私の仏教



このように「ホトケ」の観念は、もっぱら死後における個人の問題にかかわるものであった。では、生前における「救い」の課題はどのように考えられ、説かれていたのであろうか。それがつぎの主要な問題である。このテーマもまた多岐にわたるが、近世前期の一七世紀頃に現われた仏教思想の一つの特色を取り上げて、その意味するところを考えてみることにする。

まずこの時代の禅僧・鈴木正三(1579〜1655)がいるが、かれは『万民徳用』などの著作のなかで、士農工商それぞれの身分に応じた職務に励むことが、すなわち仏道の修行であると説いた。その正三が「唯心の浄土・己身の弥陀」ということをいっている。これは浄土というのはどこか遠い別の場所にあるのではなく、敬虔な態度で日常生活に励めば浄らかな「心」のなかに実現されるものであり(唯心の弥陀)、その時自分自身が阿弥陀如来そのものになって生かされているのだ(己身の弥陀)、というのである。同じことは、正三よりやや遅れて登場する禅僧の至道無難(1603〜76)もいっている。

仏教というと、われわれはすぐにでも「無我」というテーマを思いおこす。なるほど、インドの仏教はたしかに「無我」の仏教であった。しかしながら日本の仏教はむしろ「無我」の仏教ではなかったかということを、前節で問題にした。そしてこの「無我」の仏教が実をいうと、いまのべた「心」の問題に深くかかわっているのである。

くり返し言えば、インドの仏教は「無我」の思想を説いた。自我の存在を真実ならざるものとして否定したのである。このような我の否定が「空」の思想と表裏の関係にあったということはいうまでもない。ところが、このようなインドの無我の仏教も我が国に伝えられると大きく軌道修正されることになった。なぜなら日本人の現世志向的な資質が「無我」というような極度に形而上学的な観念を受けつけなかったからである。

むしろそういう「無我」の観念に代って登場してきたのが、淨らかな精神状態を追求する「無心」「無私」の考え方であった。観念のレベルでは無我を説きつつも、日常的な意識や感覚のレベルでは心にわだかまりのない「無心」の状態が探究され、それが信仰心や宗教心の基盤をつくるものと考えられるゆになったのである。

古くから神道では、「清き明き心」ということが説かれていたが、それが仏教の「心淨ければいっさい淨い」という思想と共鳴して、日本人の宗教意識の下地をつくっていった。「自我」の独立や否定を目指すよりも「心」の昇華や浄化をよりいっそう重視するようになったのである。

中世の宗教的な歌人・西行は西方浄土に惹かれて行く姿を歌っている。西行の、心に対するこのような関心は、鎌倉時代に入ってさらに深まった。自己への凝視が徹底したことによって、とくに知識人のあいだで「心」の探究がいっそう重要な課題とされるようになったからである。私は日本の精神史のうえで、鎌倉仏教の特徴は「心」にかんする探究が急激に深まったところにあると思う。
そしてそのような内面的な反省が集中的に行なわれるようになるのは、先にも述べたように鎌倉時代まで待たなければならなかった。すなわち法然や明恵、親鸞、道元の仕事がそれであった。

かららはいずれも「念仏」や「座禅」をとおして自己の心を清浄にして一種の「無私」の精神状態==すなわち「仏」の状態に到達することを目標にしたが、それは同時に人間として成熟する事を意味したのである。明恵のいう「菩提心」も、親鸞のいう「自然法爾」の身心状態も、そして道元の主張する「身心脱落」も、その点で帰するところは一つであったと思う。仏教でいう「成仏」の思想が人間的な成熟の観念と結びついたのだといってよい。

ここでは、鎌倉仏教において座禅の新風をもたらした道元(1300〜53)あげてみよう。興味ある事に、かれもまたインド仏教の「無我」を説くよりもはるかに人間の「心」の現象により多くの関心を示している。一例をあげれば、かれの主著『正法眼蔵』のなかの「即心是仏」という章では「心」の働きが究極の場面においては「心」そのものの働きになるということが説き明かされている。

また道元は、同じ「正法眼蔵」のなかの「発菩提心」という章で、「座禅弁道これ発菩提心なり」といっている。「発菩提心」というのは菩提心を発すること、すなわち求道の心をおこすことである。発心といいかえてもいい。これに対して「座禅弁道」というのは、ひたすら座善に徹底して(只管打座)、仏道を行ずること、を意味する。その座禅弁道がすなわち発心だ、といっているわけである。

くして道元にとっては、この世のありとあらゆるもの、森羅万象が「発心」の機縁になるという。夢の中で発心し成仏し、酔いの中ででも発心して成仏する。あるいは、花が舞い葉が散るのを見ても発心し成仏することがあるであろう。発心の要諦は日常そのもののうちにあるが、しかしそもそも真実の仏法とは、その日常を離れてはどこにもないのである。日常の生活における人間の心の成熟がそのまま仏法なかにおける成仏の体験に通じているといってよいだろう。



この鈴木正三や至道無難の「唯心の浄土、己身の弥陀」という主張もまた、そのような伝統的思考の中でうみだされた思想であったのである。この近世における考え方が次第に民衆のあいだに広まっていったのも、以上のような「心」探究の歴史的経過を考えるとき、自然に納得されるのではないだろうか。
平安時代以来、様々な宗教的指導者によって追求されてきた「心」の課題が、近世にいたってようやく民衆のあいだに受容されるようになった。それは「国民的宗教」としての仏教の形成にとって、倫理的にも宗教的にも核となるテーマになったといっていいだろう。日本の仏教の変容を示す、もう一つの重要な流れであったといわなければならないのである。


さて、以上のべた事柄をふまえて、それでは現代日本の宗教についていったい何が言えるのか。日本人の宗教に可能性があるのか、ないのか。可能性があるとして、それはいったいどういう形をとることになるのか。

第一は、日本の仏教教団はそろそろ宗派の枠組みをとりはらう時期にきているのではないかということである。なるほど日本の仏教は、天台、真言をはいめ浄土、禅、法華経主義などのセクトに分かれて、多岐にわたる歴史的発展をとげた。そのことの宗教的・思想的な価値について、疑うべきものはない。しかし今日の平均的な日本人において、そのような宗派仏教の教義はおろか、その区別すらほとんどできないのが偽らざる現状である。

いくつかの大教団では檀家、門信徒の意識調査を行なっているが、檀徒の大部分がそれぞれの宗派の礼拝本尊や主用経典を特定できないことが明らかにされている。なぜなら日本の仏教が一般化し、普遍化したのは、平安・鎌倉仏教の祖師達の教義や思想によってではなく、十五・六世紀以降に整備された死者儀礼によってであったからだ。そしてその傾向は、明治以降の近代化の過程でもいささかも衰えることはなかった。そいれどころか、今日それはますます強化されつつあるようにみえるのである。

とすれば第二に、日本の仏教教団はいまやその宗派的な枠組みと宗祖像の固定化したイメージをゆるめて「ブッダ」という根本シンボルのもとに連合し統合する方向を模索すべきときにきているのではないか。これは死者すなわちホトケ(仏)という独自の宗教観を根底にもつ日本人にとって、歴史的仏教を読みかえ組みかえていくための、一つの重要な挑戦的課題となると思うのである。

もっともこういったからといって、日本の仏教よ、葬式仏教に帰れ、といおうとしているのでは決してない。そうではなく、「死」の問題こそがまさに宗教の根元的なテーマであり、仏教の存在にとって死活の課題であるということをいいたいのである。
今日、日本の宗教は何よりもまず人間の死という課題にむけて、そのすべてのエネルギーを傾注すべきではないかとおもう。




民族仏教の背景




1・先祖崇拝ーその構造


大陸から伝えられた仏教は、前章でのべたように日本の宗教風土に受容される過程でさまざmな民族信仰と融合して新たな展開を示した。
土着化の洗礼を受けて「民族仏教」とでもいうべき衣装をまとったのである。ここでは、とくに先祖崇拝と墓信仰の二つのテーマを選んでみる。

例えばインドへいってみよう。一般にインドはヒンズー教徒は、人の死後、遺体を川のほとりで焼き、あとに残された骨灰を川に流してしまう。だから骨を集めて、それを納める墓は作らないのであるが、しかし死者の魂はすでに天国にいっていると信じている。その死者の霊魂(先祖)の供養の為にかれらは小さな団子(ピンダ)をつくって備える。要するにインド人は、先祖は崇拝するけれど墓はつくらない。

これに対して、例えばアメリカではどうだろうか。アメリカはキリスト教世界に属するから、当然のこと死後天国に生れ変わると信じている。しかしながらそれはあくまでも建て前でのことであって、じっさい死者儀礼の場面では、それとは違った考え方がみられるようだ。というのもアメリカでは、遺体に化粧をほどこして、あたかも生けるがごとく埋葬するエンバーミングの風習が知られているからである。

死者の遺族にとって大事なことは、死者の魂(先祖)ではなくて、死者の遺体をいかに美しく荘厳するかという問題なのである。霊(先祖)ではなくて、肉体の問題が関心の的になっている。
したがって、多くのアメリカ人は墓をつくることは熱心だが、しかしそれは決して遺骨を納める場所としてではない。それはむしろ死者の生前の姿、すなわち肉体を記念し追憶するための場所としてなのである。このような事情は、アメリカのみならず西欧社会一般に認められる特徴であるといっていいだろう。

これらを念頭において日本人の場合を考えてみると、日本人の死者儀礼や先祖供養がいかにも特異なものかがわかるであろう。なぜなら、そのうえ遺骨や遺灰にたいする尊重の念がきわめて強く、そのうえ墓をつくることに熱心で、しかも死後の霊魂(先祖)の運命についてまでじつに繊細な神経をはたらかせているからである。

近年、曹洞宗宗務庁が『宗教手段の明日への課題』を、また浄土真宗本願寺派の伝道院が『伝道院紀要ー習俗・俗信問題特集』をあいついで刊行し、各宗門の実体が先祖供養によって大きく方向付けられていることを率直に表明するに至ったのである。
これは霊魂の存在を否認し、先祖供養を第二義的な民間習俗として退けてきたこれまでの仏教教団のありかたからすれば、まさに百八十度の転換を画する事件であったといわなければならない。それのみではなく、仏教側のこのような動きに呼応するようかのように、日本カトリックの司教協議会までが、布教にあたって日本人の先祖供養と強調すべき旨を記す手引書を公表したのである。

おれまで俗信や迷信と同列のもおとしておとしめられていた先祖供養の問題が、にわかに時代の脚光をあびるようになってきたといっていだろう。 この先祖供養の問題を考えるにあたって大事な事は、まず「霊はタタル」という問題であると思う。この場合の「霊」の中身は、歴史的に種々さまざまな形をとってあらわれた。その根本を要約すると、死んだ人間の霊は時と場合によっていつでも、生きている人間に祟りをなし、社会や自然にまで異変を生じせしめるというのがそれである。

こうして先祖の霊もまたそのような祟りの霊の一つとして怖れられ、供養を祀られるようになった。ところで、古い時代、タタルということばは、たんに神がこの世にあらわれて何らかの痕跡を我々の前に示す、ということを意味した。すなわち木や石や鏡に一時的にあらわれるということであった。ところがこの神の出現としてのタタリが、やがて何らかの危害を人々に加えるという意味に変化していったことに注意しなければならない。

『日本書紀』にでてくる仏教初伝における、物部氏と蘇我氏、中臣氏などの争いでおきる事態の変化が敗者のタタリとする考え方。神の出現を意味する「タタリ」が危害を加える「祟り」という意味に転じていったように思われるのである。「タタリ」が「祟り」へと変化していった背後に仏教の伝来という事実が横たわっていたことになるであろう。さらにいえば、我が国の分化風土に「祟り性」という要因を注入した重大な契機の一つが、もしかすると仏教の影響ではなかったかということである。

それが奈良時代になると「亡魂」や「死魂」の祟りによって、人が死んだり、社会不安が増大するといういわれだした。
このような亡魂による祟りという考え方は、平安時代になると「御霊信仰」を生み出すことになった。御霊というのは、政治的に非業の死をとげた人々の怨霊のことをいう。その御霊信仰の発生に最初に手をかした人間が平安京を築いた桓武天皇であった。
政治的な事件が起きるたびに、犠牲になった人間の怨霊が人々の間でとりだされるようになった。やがて、それらの怨霊を鎮めることが、社会の不安をとりのぞき、政治の信頼をとりもどすために必要であると考えられるようになったのである。

つぎに、平安時代になってからしばしば登場するようになったものに「もののけ」という怨霊がある「源氏物語」、「栄花物語」を読めばよくわかる。光源氏の正妻である葵の上の出産場面がでてくるが、葵の上は「もののけ」にとり憑かれ難産に苦しんでいる。そこで、その「もののけ」を退散させるために密教の加持祈祷僧が招かれて、護摩をたいたり、真言・陀羅尼を唱えたりしている。

この場合の加持祈祷というのは、不動明王を本尊として読経して、その威力によって「もののけ」を圧伏したり、その勢力を弱めたりする儀礼のことをいう。つまり、本来、悟りにいたるための瞑想手段であったはずの「加持」が、いつのまにか病気治しの手段としての加持祈祷に変化してしまった。祟る霊ーそれは生霊の場合も死霊の場合もあるーーを鎮めるための「対抗儀礼」の一環に組みこまれるようになったといってよいだろう。

要するに、平安時代の全期間を通じて、怨霊・もののけ・御霊といった祟り霊が発生した場合、一方では仏教式の加持祈祷が行なわれ、他方神道では、神社による祭祀が鎮魂のための対抗儀礼としておこなわれていたのである。

このような「祟り」、「鎮魂」というメカニズムが、日本人の宗教意識の根底をつらぬく特質であった。その骨格はほぼ平安時代において定まったということができるが、それがやがて民間にも深く浸透していった。その結果として、我々の先祖の霊もまた祟るという観念がしだいに定着していった。御霊やもののけの範囲が拡大されて、氏や家の先祖の霊、および身元の分らない三界の万霊までもが「祟り」の源泉と意識されるようになった。

先祖の霊にたいする供養をおろそかにするとき、その先祖の霊はかならずや何らかの形で祟りをなすであろう。それが先祖供養を支える中心的な観念であった。納骨や墓供養の問題がでてくるのもそのような観念がしだいに強力なものとなっていったからなのである。

こうして先祖や死者のための墓をたて、一定の時期に祭祀と供養を行なうことが、子孫たるものや関係者達の勤めとされるようになった。生き残った者たちの家内の安全と幸福を約束する道であるとされるようになった。家の永続と子孫の繁栄は先祖の加護によってこそはじめて可能になるということが強く信じられるようになったのである。

我が国之仏教教団は、以上のべてきたような先祖供養の存在を、ほとんど例外なく無視することができないで今日まできた。それを無視すれば、おそらく教団としての存在がむずかしくなったにちがいない。既存の仏教教団の大部分が、その教義的な主張とはうらはらに、死者のための追善供養や年回法要を重視してきたのも実を言えばそのためだったからである。

このような先祖供養をむしろ教義の中心にすえ、かつ布教活動にそれを全面的に活用してきたのが、新宗教の諸団体であった。これらの教団に属する大多数の信者にとって、かれらの日常生活をつねに見守り、その行動の正邪を判断するだけでなく、その運命をも予言する存在が、ほかならぬ先祖の霊であり、その先祖の隠された意思なのである。

もしそうであるとするならば、その場合、「先祖」という存在がもっている権威と役割は、あたかも西欧社会における「神」の存在にきわめて類似しているとはいえないであろうか。そしてこのような先祖感覚こそは、実を言えば、たんい既存の仏教教団や新宗教教団のメンバーのみならず、大なり小なり日本人一般の行動をその深層においてささえている特質ではなかったかと思うのである。



2・墓信仰ーその歴史


墓信仰の問題について考えてみることにしよう。
墓は宇宙の模型である。墓は人間の姿の精髄である。そういう考え方が昔からあった。墓を宇宙とみなし、人間の理想型とみなす考え方は、洋の東西を問わず歴史の古今を問わず、われわれ人類のものであった。

もちろん現実の墓は、王者や聖者の遺体を埋葬することからはじまった。エジプトのピラミッドやインドのストゥーバ(塔)、および日本の前方後円墳などをみればわかるだろう。巨大な設計、豪華な景観が地表に伸び、宇宙にそびえたった。それが地上の権力や聖なる権威を象徴するモニュメントであったことはいうまでもない。

やがて時代は大きく移る。墓の建造は王侯貴族の手から民衆のあいだにひろまっていった。むろん、インドのヒンドゥー教文化のように墓の建造に関心を示さない文化もあった。しかしながら世界の諸民族の大勢は、規模や大小の差こそあれ墓の設置に多大な情熱を注いできたのである。

アジア大陸で発達した墓の形式には二つの際立ったパターンがあったと思う。インドのストゥーバ型であり、基壇の上に土まんじゅう型の墳土をつくり、頂上に細く垂直に立つ竿や傘の荘厳をつける。たとえばサンチーにある大塔である。
ひとつは中国大陸で見うける多層形式の塔である。同じく基壇の上に方形の階を層状に積み上げて、頂上の先端に尖った屋根をつける、たとえば西安にある大雁塔がそれである。

両方とも本来は仏の舎利(骨)を祀る聖なる墓所であった。それがやがて、仏以外の聖者や王や貴族たちの遺骨を奉納するものへと変化し、形態やデザインの上にもいろいろと新風が取り入れられようになったのである。

では我が国において目を向ければ、日本の歴史を墓という観点から眺望した場合、そこには三つの大きな画期があったと思う。第一が前方後円墳が築かれた画期、第二が五輪塔墓がつくられた画期、第三が石柱墓が盛行しはじめた画期である。

前方後円墳は、およそ四世紀にはじまる古墳時代のクライマックスを示す首長墓であり、、埋葬施設を有する盛りあがった円形部分と低く平らな方形部分とからなる巨大墓である。デザインのうえで円と方を組み合わせている点では大陸との関連を暗示していて注目されるが、しかし我が国で独自に発達した墳墓であったことはいうまでもない。前方後円墳はほぼ七世紀を境にして完全に姿を消してしまった。

五輪塔形式の墳墓であるが、これは平安時代中期からつくられはじめ、各時代をつらぬいて現代まで生きつづけている。当初は高僧や貴族、武士の墓としてつくられたが、素材や形式の簡略化とともにしだいに一般に浸透し、いわば墓の古典として後世に大きな影響を及ぼすことになった。
ここで注意するべき事は、この五輪塔形式の墓がわが国においてまったく独自に生み出されたものであることということである。厳密に言えば、その思想的背景にはインドや中国の影響のあとをみとめなければならない。しかしながら、五輪塔という墓の形式は日本人が独自に発明したものである。その意味においては日本人の墓に対する基本的な考え方がたたみこまれているといわなければならない。

周知のように五輪塔墓は下方から四角、円、三角、半円、団(如意宝球形)の五輪を積み上げた形につくったものである。これらは順に地、水、火、風、空の五大要素を表すとされてきた。これはインドに発達した密教にの考え方によるものであり、五大要素を五輪というのもそこからきている。密教に因れば、それらはすなわち宇宙をあらわし、五輪塔墓も宇宙を象徴的に型どったものということになるであろう。要するに五輪塔墓というのは五輪を軸にした宇宙の模型なのである。

因みにこの五輪塔墓下方から五種の梵字が刻まれることが多いが、これは順に地、水、火、風、空の五輪を文字で表したものである。この五つの梵字は大日如来の真言の一つといわれる「アビラウンケン」などと発音されてきた。

次ぎの問題として、五輪塔墓が人間の身体になぞらえるという点をあげなければならない。すなわち以上の五輪が、順に膝、腹、胸、面、頂という五つの身体局部に対応させられたのである。地上に立つ五輪塔を、地上に座して瞑想する人間の姿に見たてたのであるといっていい。座禅し、瞑想する人間は、解脱した人間であるにほかならない。戸するならば五輪塔墓は、解脱した人間の姿を映し出す鏡でもあるだろう。

最後に、近世になって盛んに作られるようになった石柱墓である。単純な形式と明確な輪郭にもとづく角石形の墓標であり、現代日本人によって一般的に受容されてきた墓である。五輪塔墓が宇宙や人体を五段形式で模型化したものとすれば、この石柱墓はそれを三段形式で模型化したものとなるであろう。

石そのものの素材感を浮き立たせる石柱墓が白骨化した人間の究極の姿を想起させるのではないかという問題である。土葬によるにせよ、火葬によるにせよ、人間の遺体の運命は白骨の姿において最終的に定まるといえよう。或いは人間は白骨化をとおして永遠に蘇えるのだといってもいいかもしれない。墓はそのような再生のための記念碑であり、生命の永遠回帰を可能にする舞台なのである。
石のもつ硬質な素材感覚は、日本人のあいだに根強く受け継がれてきた遺骨崇拝と深いところでつながっているのかもしれない。




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参考資料・山折哲雄著『仏教とは何か』中公新書

    ・柳田聖山著『禅思想』中公新書

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