『現成公按』 『現成公按』卷は「仏法」という生命実物(いのち)地盤において、「仏法の為に仏法を修する」という「仏道」の話が書いてあります。 公案は誤解されやすい言葉です。 普通は公府の案牘(あんとく)の意味から言い、政府では公にした法則・条文です。転じて、禅の修業の際、師家が修行者に与えさせて工夫させる問題を公案といいます。碧巖録・無門関・従容録・臨済録などは知られた公案集です。しかしながら、道元禅師は、習禅を否定されているおります。座禅は修証一等なのです。初心の座禅が本証そのものであるとすると、公案を工夫してより高い境地を目指そうとめざそうとすることは、およそ道元の宗風にはなじみません。 『正法現蔵』の現成公按の卷について意味を探れば、公と按を別々にしてその字義を説いています。まず、公については「不平を平ぐる」こと、つまり、世の中を巧く治め、いい政治を行うことが世間一般にいう公の意味であります。 按とは、「分を守ってみだれない」ことが世間的な意味です。こういう「公」と「按」について世間一般の意味を押さえた上で、仏法上の「公按」とは何かと考がうるに 、仏法では人間の勝手な欲望を否定して事を考えますから、どこまでが平でどこまでが不平と線引きすることは難しいことです。分を守るといっても「分際」を思惑で云々したのでは、仏法とかけはなれてしまいます。 仏法でいう、「公按」を、「全機の不平守分なるべし」というからには、機は働きのことでから全機は、融通無礙のあらゆる働きを言います。 このように見てまいりますと、「現成公按」は、この世界のあらゆるものが自然の摂理ののままにあることの意味だということが解ります。 【生死(しょうじ)】 ジャーチィーマラナの訳で「涅槃」に対する語。仏教の理想は生死の苦を離れて、永遠の平安である涅槃に到達することである。涅槃は「ニルバーナ」の音写で吹き消すこと、また火を消した状態をいい、煩悩の火を無くして智慧が完成する悟りの境地の事。 上座部仏教では、心身ともに無に帰した状態をいう。それに対して大乗仏教では「生死即涅槃」といい、常に生滅を繰り返す人間の生を離れては永遠の平和はあり得ないとする。大集経(だいじつきょう)卷九に「常に生死即涅槃を行じて、諸欲の中において実に染なし」とある。 【有時(うじ)】 「あるとき」という意味の副詞をここでは文の主語となる名詞と考えて時間論の発想の手がかりとするのである。 「有」はサンスクリット語で「生存するもの」の意であり、ここでは広く「空間的存在」に用いられる。「時」はいわゆる時間的なことであり、一般的な仏教では時は実在するものではなく、仮にあるものとされている。このことは既に上座部のある実在論者によって「時は独立の実体ではなく、存在に依って立つものである」と論じられている。 仏教ではこのように時間と存在の関係が論じられているが、そこに「存在時間」を意味する「有時」の概念を始めて導入したのが、この有時の卷である。 |
『人舟に乗りてゆくに、めをめぐらして岸を見れば、きしのうつるとあやまる。目をしたしく舟につくれば、ふねのすすむをしるがごとく、身心を乱想して万法を叛肯(はんけん)するには、自心自性(じしんじしょう)は常住なるかとあやまる。もし行李(あんり)をしたしくして箇裏に帰すれば、万法のわれにあらぬ道理あきらけし。』 【解説】 人が舟に乗ってゆくのに、目を向こうに向けて岸を見ると、岸が動いていくように見間違えます。目を近く自分の乗っている舟につけると、舟が進むのがわかります。そのように、身心の正体を正しく知らないで、万法を見分けようとすると、自己の正体は不変のものであるかと思い違いをします。。もし自己の日常生活を深く反省して、箇裏(このところ)に帰して見ると、万法が我(じぶん)というものでない道理がはっきりします。 “要約” 形あるものは必ず滅し、生あるものは必ず死す。この真実を直視することによって、始めて『人間如何に生きるか』という問題に真剣に取り組むことが出来る。 『仏道をならふというは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるというは、万法に証せらるるといふは、自己の身心、および他己の身心をして脱落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる語迹を長長出ならしむ。』 『人はじめて法を求むるとき、はるかに法の辺際を離却せり。法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本文人なり』 【解説】 自己をならふというは自己をわするるなり〜〜われわれ人間が、われわれ自身の真実態うを徹底的に究明して、その真実態に生きるその修行はさらにいえば、「自己をわするる」ことである。「自己をはこびて万法を修証する」という放漫不遜の言動をすっぱりやめて、無我な人になればいのである。 無我な人になる修行、それはいろいろであろうが、道元禅師からいえば、また釈尊をはじめ、あらゆる仏菩薩、あらゆる祖師達の正伝いたされているところからいえば、それは端座である。座禅である。人間は座禅をいたしておりさえすれば、座禅の真実態から離れさえしなければ、いつでも人間は無我である。 脱落ーという文字は、繁縛から脱出し繁縛を振り落としてしまったということを意味している。世の中にはいろいろな繁縛があって人間をくくりあげている。 その繁縛を振り落としてしまうのが仏教である。仏教には自力宗と他力宗のふたつがあると、一応いうことができるが、自力宗では自分の修行の力で、壱歳の繁縛を脱出し、振り落としてしまうというので、これを脱落という。 他力宗では自分の修行によってではなく、仏の御手にすがって、繁縛から救っていただくというので、脱落とはいわないで、救済という。 ともかく仏教の身証のない人間はいろいろ様々の繁縛のためにくくりあげられて、身の自由も心の自由も、全く奪われているのである。くくりあげられ、自由を奪い去られているから、苦しみあがく、苦しみあがくから、相剋をする、摩擦をする、闘争をする、殺傷をする、凄い阿修羅の相を現じ、餓鬼畜生となり、悪鬼羅刹となりは照るのである。 『諸法の仏法なる時節、すなはち迷語あり、修行あり、生あり死あり、諸仏あり、衆生あり、万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく、衆生なし滅なし。仏道もとより豊倹より跳出せるゆゑに、生滅あり、迷語あり、生仏あり、しかもかくのごとくなりといへども、華は愛惜にちり、草は棄嫌におふるのみなり』 『自己をはこびて万法を修証するを迷とす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり』 【解説】 すべてのものごとを仏道の立場から見るとき、迷いと悟り、修行のあるなし、生と死、解脱した人とそうでない人との違いが明らかになる。全てのものごとを無我の立場から見るとき、迷いもなく悟りもなく、解脱した人もなく解脱しない人もなく、生も死もない。 もともと仏道は、有るという立場にも、無いという立場にもとらわれないものであるから、生死を解脱したところに生死があり、解脱のあるなしを問題としないところに解脱がある。しかしなお、そのことがわかっていながら、解脱を愛し求めれば解脱は遠ざかり、迷いを離れようとすれば、迷いは拡がるばかりである。 自己の立場から、あれこれと思案して、ものごとの真実を明かにしようとするのが迷いである。ものごとの真実が自然に明かになるのが悟りである。 【要約】 人間は現実のものごとに執着して縛られているが、そのような状態から自由になって、ありのままの真実を知ることが「解脱」である。一度この境地に至れば、あらゆる差別観から自由になって、解脱することそのものにもとらわれなくなる。それは理論によってできることではなく、あくまで実践によって達成されることである。 自己をむなしくして客観を生かすことよって、真実が明らかになる。 とにかく我々の人生においては色々な風景に出会うわけですが、その風景たる「あり、あり、あり」は決していわゆるの客観的実在ではなく、却ってこちら側との関係において現れてくるのです。「狭いな狭いなといって運動場で遊んでいる。広いな広いなといって運動場の草取りをしている」という子供の詩がありますが、これも自分自身のアタマとのカネアイで外側に色々な風景が現れるということです。 世の中には「この自分の思惑を満足させる為に、世の中はあるのだ」と決めこんでいる人が多すぎます。本当は決して世の中は自分の思惑を満足させる為に存在するのではないから、思い通りに行かないのが当然なわけですが、どうしてもそう思えない。こんな自分を自ら反省して、これは確かに自分が至らないからだと思い至り、それで何とか修行でもして次分を向上させ悟りでも開きたいと思う。 ところがこの何とか向上させたい、悟りを開きたいという、まさにそのことにおいて自分というものを「自分の思い通りにしたい」と思っているのだから、又問題です。 『たき木ははひとなる、さらにかへりてたき木となるべきにあらず。しかあるを、灰はのち薪はさきと見取すべからず。しるべし、薪は薪の法位に住して、さきありのちあり、前後ありといへども、前後裁断せり。灰は灰の法位にありて、のちありさきあり、かのたき木、はひとなりぬるのち、さらに薪とならざるがごとく、人のしぬるのち、さらに生(しょう)とならず。しかあるを、生の死になるといはざるは仏法のさだまれるならひなり、このゆゑに不生といふ。死の生にならざる、法輪のさだまれる仏転なり、このゆゑに不滅といふ。生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり。たとへば冬と春とのごとし。冬の春となるとおもはず、春の夏となるといはぬなり』 たき木が燃えて灰となってしまった。 もし燃えてしまった灰がたき木に戻るなら、前はたき木だたけれど今は灰となっている、けれどまた灰もたき木に戻るんだといういい方もできるだろう。 ところが、燃えた灰がたき木に戻ることはあり得ないのだから、たき木と灰との間には関係は無い。切れてしまっているということである。だから、灰が後であって、たき木は先にあったんだという前後の時間的関係とみなしてはいけない。 たき木はたき木の世界であって、たとえば、去年取ったたき木とおととし取ったたき木とを比べて、おととしのたき木の古いたき木だとか、さらにきのう取ったたききの方が新しいということは出来る。たき木はたき木の世界として完結しているのだから、その中では、古いたききとか新しいたき木ということを言ってもいい。 それ以上に、もともとたき木は木だったとか、木の前は苗だった、さらに燃えて灰になってしまったなどということは出来ない。それはもはや、たき木の世界ではないからです。 だから「前後裁断せり」、灰となった時から、スパッと切れてしまっている。では羽灰は何だ。たき木が灰になったのか。そうではない。灰は灰の世界として完結している。 それと同様に、人も死んでしまえば又生き返るということはないのだから、生きている人が死になるとは言わない。人が死んだ後も、もはや生まれるということはあり得ない。そういう現実を見て、生きている生が死になるとはいわない。これが仏法である。それを不生という。 この不生というのは、生まれないという、生は生として絶対的だという意味だとされています。だから、この不というのは否定ではなくて絶対的「前後裁断」と同様のニュアンスだといえるます。だから不生は絶対的な生です。 同じ論理を用いるならば、死が生に戻ることもあり得ないことです。だから、生と死とは全く関係がない。死は生にならないという意味で完璧な死。だから不滅、全き滅です。生へ戻りっこない、滅以外の何物でもないという意味で不滅というのです。 生に対して死というのではない、死に対して生というのでもない。生は生で比べるものがないから不生。死は死で比べるものがないから不滅。 「生も一時のくらゐなり、死も一時のくらゐなり」、文字通り読むと、生というのはひとときの姿であって、死もひとときの姿である。これで話が元へもどってしまう。つまり相対的になるように見えます。しかしそうではなくて、この「一時」というのは「絶対の今」であって「全時」に同じです。つまり、一は部分ではなく、全体という意味なのである。 一切衆生は普く仏性を有す、如来は常住にして変易あることなし 『釈迦牟尼仏言く。〔一切の衆生は悉く仏性を有す、如来は常住にして変易あることなし〕。これわれわれが大釈尊の師子孔吼の転法輪なりといへども、一切諸仏・一切祖師の頂寧眼晴(ちょうねいがんせい)なり、参学しきたること、すでに二千百九十年、正嫡わずかに五十代、西展二八代、代代住持しきたり、東地三十三世、世世住持しきたる。十方の仏祖ともに住持せり、世尊道の一切衆生悉有仏性は、その宗旨いかん。是什模物恁模来(これなにものかいんもらい)の道転法輪なり、あるひは衆生といひ、有情といひ、群生といひ、群類といふは、衆生なり。すなわち悉有は仏性なり、悉有の一悉を衆生といふ。正当恁模時(しょうとういんもじ)は衆生の内外すなわち仏性の悉有なり。単伝する皮肉骨髄のみにあらず、汝得吾皮肉骨髄にょとくごひにくこつずいなるがゆゑに。 【解説】 釈尊がいわれている。 『一切衆生には悉く仏性がある。仏の本質は常住で、変わることがない』 これは偉大な師、釈尊の力強い教えであると共に、凡ての覚者たち、及び歴代の先覚者たいの根本精神である。この教えを学んで既に二千百九十年、正しい後継ぎは僅かに五十代、インドに二十八代、中国には二十三代の先覚者たちがが、代々にかかってこれを伝えてきたのである。諸方の先覚者たちも、共にこれを伝えてきたのである。 釈尊の言われる『一切衆生には悉く仏性がる』という言葉の真意は何であろうか。それは、「何ものかが明かに現前している」ということである。あるときは「衆生」といい、あるときには「有情」といい、あるときには「もろもろの生物」、あるときには「もろもろの生類」というのは、みな衆生のことであり、一切存在のことである。そのとき衆生の内も外も、悉くが仏性である。なぜならば、仏性は師から弟子に伝えられるばかりでなく、凡てのものに同時に伝えられるからである。 “要約” 仏性とは、人間が本質的に具えている自由、叡智、愛、創造力、偉大な宗教性といったものである。 それが凡ての人間に共通に具わっているというのが大乗仏教の主張であるが、それをさらに一歩すすめて、仏性は万物に通ずる本質的普遍性であるということができるのである。 仏は生死のなかにいない(生死にこだわらない) 生死のなかに仏あれば、生死なし。またいはく、生死のなかに仏なければ、生死にまどわず。こころは夾山(かつざん)・定山(じょうざん)といわれし、ふたりの禅師のことばなり。得道の人のことばなれば、さだめてむなしくまうけじ。生死をはなれんとおもはむ人、まさにこのむねをあきらむべし。 【解説】 「生死の中に仏があるから、生死に惑わない」という。また、「生死の中に仏が無いから、生死に惑わない」という。 この意味の事を夾山・定山という二人の禅師が言っている。道を得た人の言葉であるから、おろそかにしてはいけない。生死の悩みを離れようとするものは、まずこのことばの意味を明らかにしなさい。 “要約” 仏(目覚めた人)とは、生死を離れることなく生死を解脱した人のことをいうのである。それをここでは、「仏は生死の中にある」とも、「仏は生死の中に無い(生死にこだわらない)」ともいうのである。 清心あれば自己の得法やすきなり、難しいか易いかはその人の志のいかんがに依るという 仏となるにいとやすきみちあり、もろもろの悪をつくらず、生死に著するこころなく、一切衆生のために、あはれみをふかくして、かみをうやまふ、しもをあはれみ、よろづをいとふこころなく、ねがふこころなくて、心におもふことなく、うれふることなき、これを仏となづく。またほかにたづぬることなかれ。 【解説】 仏となるにやさしい方法がある。さまざまな悪をなさず、生死に執着することなく、生きとし生けるものにいつくしみ深く、し、修行の進んだ人を敬い、衆生をいつくしみ、なにごとも厭うことなく、願うこともない。心に悩みもなく憂いもない。そのような人を仏と名づけるのである、さらにこのほかに、仏を求めてはならない。 “要約” 仏としての行いをなすことによってすべての人が仏となることが出きるのである。 実在論では、時は独立の実体ではなく、存在に依って立つものである。 いわゆる有時(うじ)は、時すでにこれ有なり、有はみな時なり。 【解説】 この「あるとき」(有時)という語は、「時間はそのまま存在であり、存在はみな時間である」という意味を含んでいる。 “要約” 「有時」という語は、一般には「あるときに」という意味に用いられてきたが、ここでは全く違った意味に用いる。 すなわち、時間を離れて空間はありえず、空間を離れて時間はないのであるから、時間と空間を総合して「存在時間」或いは「時間的存在」というものを考える。それを「有時」と呼ぶのである。 山も時なり、海も時なり、時にあらざれば山海あるべからず、山海の而今に時あらずとすべからず。時もし壊すれば山海も壊す。時もし不壊なれば、山海も不壊なり。この道理に明星出現す、如来出現す、眼睛出現す、拈華出現す、これ時なり。時にあらざれば不恁模なり。 【解説】 山も時であり、海も時である。時でなければ山海のあるはずがないのであるから、山海が今の時でないとは思ってはならない。もし時が壊れるならば山海も壊れるであろう。時が壊れないならば山海も壊れないであろう。 このような道理によって明星(釈尊の成道のときの現れたと伝えられる星)が現れ、仏が現れ、悟りの智慧が現れ、以心伝心が現れたのである。これがみな時である。時でなければ、そのようなことは起こらなかったであろう。 “要約” 世界が時間によって成り立っているからこそ、我々が真実を悟る時も来るのである。 山水がほとけの教えを説くこと〔谿声山色是清浄心〕 而今(にこん)の山水は、古仏の道現成なり。ともに法位に住して、究尽の功徳を成ぜり。空劫自己前の消息なるがゆゑに、而今の活計なり。朕兆未萌の自己なるがゆゑに、現成の透脱なり。 【解説】 今ここにみられる山水は、先覚者たちの悟った境地をあらわしている。山は山になりきっており、水は水になりきっていて、その他のなにものでもない。 それはあらゆる時を越えた山水であるから、今ここに実現しているあらゆる時を越えた自己であるから、自己であることを解脱している。 “要約” 自然は真理が実現されるところであり、自己が自己を発見するところである。 |